東方見雲録

東方見雲録

2025.12.22
XML
カテゴリ: ランドスケープ



意匠図案説明   鶏声の井旧跡碑を描く
開設場所     〒112-0001 東京都文京区白山5-18-11
引用サイト: こちら



鶏声の井旧跡碑
白山の東洋大学のあたりは、以前は、駒込曙町と言われていた場所で、江戸時代は、鶏声ヶ窪と呼ばれていました。曙町※1 の名は、「鶏声」から出た名です。


京華学園女子校の前に、鶏声の井(鶏声ヶ窪のいわれ)の碑が建っています。


夜毎に鶏の鳴き声がするので、掘ってみると、金製の鶏が出てきたのが鶏声の名の由来です。*1

碑の表には楽翁公の松平定信の歌が刻まれています。*1
 鶏声の井旧跡 「白河楽翁公歌」

 久みそめて
 鶏のハ声の
 名にやたつらん
引用サイト: こちら


引用サイト: こちら

白山の歴史

文京区白山の地名の由来となった白山神社は、現在の白山5丁目に位置します。白山神社は、現在の石川県白山市にある加賀一宮白山神社・白山比咩神社を勧請し、天暦2年(948年)に現在の本郷1丁目に造成されたものです。

その後、現在の小石川植物園内にあたる巣鴨原の地に移されます。江戸時代に入り、五代将軍の徳川綱吉が将軍職につく前、小石川植物園に屋敷を造成することとなり、現在の白山5丁目へと移されました。

移転をさせた徳川綱吉と綱吉の母である桂昌院は、白山神社を厚く信仰したと伝えられています。
引用サイト:文教エリア白山の街   こちら

ちょっと道草:中山道を往く(旧白山通り~巣鴨) こちら

都立向丘高等学校の隣、中山道からは路地の奥に見える、大円寺に寄った。

由来では、放火の罪で火あぶりになったお七さんの罪業を救うために、熱したほうろく(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。
お七が処刑された36年後に、渡辺九兵衛という人が、供養のために寄進したらしい。

街道を歩いていると、昔の日本人の精神性をうかがい知ることのできる痕跡によく出会う。
そのひとつが、地域ゆかりの人や動物、ときには物を供養するための石碑やお地蔵さんだ。
お地蔵さん一体を作るためには、適当な石を調達しなければならないだろうし、彫ってもらうにも石工を雇わなければならないだろうから、相当な出費と労力だろう。

関連日記:2025.12.18の日記 白山 八百屋お七   こちら


山手線を眼下に見ながら、巣鴨駅の反対側を進んでいくと、線路沿いの桜の並木道に「染井吉野の碑」があった。
山手線巣鴨駅から駒込駅にかけた一帯は、江戸時代は「染井村」と呼ばれた農村だった。
ソメイヨシノはここで、オオシマザクラとエドヒガンという2種類の桜を交配させることで江戸時代の終わりに誕生し、ここから接ぎ木によって全国に広まった。
今では日本の桜の約80%を占めているそうだ。
「接ぎ木」とは、同じ遺伝子をもつ個体を複製することなので、全国にあるソメイヨシノは、ここにある桜と全く同じ遺伝子をもつクローンということになる。
違う種類同士の桜の交配だの、クローン技術だの、江戸時代の日本の「生物工学」はたいしたものだったのだ。


それもそのはず。参勤交代で江戸と本国を行き来した全国の諸藩は、こぞって江戸屋敷に庭園を営み、その数は、後楽園・六義園クラスのもので、少なく見積もっても約300はあっただろうと言われている。
なかでも、尾張徳川家の下屋敷だった新宿の戸山一帯は、約13万6千坪もある大庭園で、現在までに判明している日本史上最大の庭園だったらしい。
これらの大庭園が、やがて大きな公共施設の用地に変わり、明治期以降の近代化に貢献して、東京の街を発展させてきたことを思えば、いったい何が幸いするのかわからないものだ。
幕末に日本を訪れた、英国の植物学者だったロバート・フォーチューンは、「世界のどの都市も、緑の美しさにおいて、この江戸にはかなわない」と記録している。
まさに「世界の園芸植物センター」と言っても過言ではなかった場所が、この駒込・巣鴨エリアだったのだ。
江戸の園芸事情については、川添登氏の『東京の原風景』という本に詳しく書かれていて、菊人形の成り立ちや、ツツジ見物の観光があったことなども、興味深かった。
この平和な時代の最大の娯楽は、武士たちの庭いじりと、あらゆる花を愛でに出かける観光だったのだ。
まさに「花のお江戸」ということか。


しばらく進むと、真性寺の横に、「旧中山道はタネ屋街道」と書かれた説明板があった。
ここから先、板橋区の清水町にいたる約6kmの間に、タネ問屋が9戸、小売店が20戸もあったらしい。
旧中山道を通る旅人の中には、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらって弁当を食べる人もいて、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国もとで栽培しようと、タネを欲しがる人も多かったようだ。
それがやがて、「タネ販売」という農家の副業に発展した。
この情報を事前に知っておいてよかった。
そこから先、中山道沿いに、確かに昔ながらの種苗屋さんをちらほらと見かけた。
中山道を通って全国各地へ、様々な植物のタネが広まっていったのだ。
街道と旅人は、商業だけでなく、農業の発展にも貢献してきた。
あたかも血管を通って栄養が運ばれていくように、全国の街道が、日本の発展を支えてきたのだろう。
京都まで続いている中山道と、タネを懐に入れて歩いていく旅人を思い浮かべながら、足を踏み出していった。
関連日記:2025.12.12の日記 ソメイヨシノ ルーツ   こちら
関連日記:2022.06.02の日記 戸山山荘 花菖蒲園   こちら
関連日記:2025.12.12の日記 染井村植木屋   こちら
関連日記:2025.05.28の日記 花の市   こちら





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.12.22 09:07:31
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: