東方見雲録

東方見雲録

2026.09.29
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カテゴリ: ランドスケープ



使用開始日    2005年2月25日
意匠図案説明   家康が受領を安堵した松月院、高島秋帆顕彰碑を描く
開設場所     〒175-0092 東京都板橋区赤塚3-7-12
引用サイト: こちら

赤塚



引用サイト: こちら

板橋区立赤塚植物園
板橋区立赤塚植物園は、武蔵野の面影を色濃く残す赤塚の丘陵地を活用し、自然や植物がより身近なものとして親しむことができるような施設として1981年(昭和56年)10月に開園しました。
本園は本園、万葉・薬用園及び農業園の3つのエリアで構成されています。本園は、約1haの敷地内に樹木見本園として多くの樹種が植えられ、その下には野草も可憐な花を咲かせます。万葉・薬用園には、万葉集に詠まれた植物や薬用植物が植えられています。農業園は、主にこどもたちが農作業の体験を行う畑や、来園者に野菜の花や果樹などを観て楽しむことのできるポタジェや果樹園などがある野菜植物園です。
近くには、美術館・郷土資料館・都立赤塚公園などがあり、自然に恵まれた散策コースになっています。







引用サイト: こちら



松月院



江戸時代には、当寺院は徳川家康に認められ、40石の朱印地が与えられた。他歴代の将軍からも保護を受け発展した[3]。

江戸時代後期には、砲術家として名高い高島秋帆が1841年に近隣の徳丸ケ原(現在の高島平付近。高島平の名は高島秋帆にちなんでいる)で西洋式の砲術訓練を行った際に本陣がこの松月院に置かれた。この訓練は当時の大名などを驚かせ、高島秋帆に大きな名声を与えたものであった。またこの松月院の名を有名なものにもした[3]。
引用サイト: こちら


高島秋帆顕彰碑


高島秋帆は、長崎出島の町年寄であり、また、オランダ式の砲術を導入して諸藩の藩士にそれを伝授した西洋砲術家です。高島秋帆は、天保11年(1840)のアヘン戦争の勃発を契機に、幕府に対して、戦争への防御のあり方と洋兵砲術の採用を建議し、翌12年、幕府の御用地である徳丸ヶ原(現在の高島平一帯)において洋式調練を披露したことで知られています。
 明治16年(1883)以降になると、高島秋帆の門人を中心に、その年譜や伝記がまとめられ、同18年には上野修禅院に「火技中興洋兵開祖」の碑が建立されています。
 当紀功碑は、高島秋帆の遺徳を顕彰する一連の動きにともない、東京兵器本廠長などを歴任した押上森蔵を発起人総代として、大正11年(1922)12月に建立されたものです。渋沢栄一も当紀功碑の建立に賛同し、金二百円を寄付したことがわかっています。また、竣工の際には、記念式典が行われ、渋沢も式典に招待されていましたが、急用のために参列できなかったようです。このやりとりは、松月院にある史料に、渋沢から発起人の押上に不参の電報を送ったとする記録が残されていることからもうかがえます。なお、碑が建立された場所は、高島秋帆が徳丸ヶ原の調練時に本陣とした松月院境内です。
 「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」は、幕府御用地である徳丸ヶ原の歴史と、徳丸ヶ原での高島秋帆によるオランダ式三兵戦術(歩兵・騎兵・砲兵)披露という事績を示す資料であるとともに、同年に東京第二陸軍造兵廠板橋火薬製造所に建立された圧磨機圧輪記念碑と同様に、日本の近代化をすすめた遺産として重要なものです。
 なお、高島秋帆の事績が高島平の地名の起こりとして広く認知されている点も登録理由となるものです。
引用サイト:「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」と渋沢栄一   こちら





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Last updated  2026.09.29 06:53:27
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