煩悩
行為が法律に抵触する以外、人が思う因果を追求すると、物事には最初から正・誤など無いのではなかろうかと思うようになってきた。生きている以上、「物」に捉われることによってそのどちらかの要素に傾倒してしまう事を煩悩というのだろうか。
本来、こういうことは31日の大晦日、108つの除夜の鐘を聞きながら考えることなんだろうけど。
教科書通りの答えでないと基準が保てない、しかし、教科書通りの答えだけでは応用や創造性に欠ける。この記述も識字力があるから伝わるし、迷惑をかけながらも常識の範囲で生活している。
ちゃんと勉強しておけばよかったとおもっている。
その他では、総括で扱った崩しの延べ段(あえて霰こぼしとは言わない)も安全に歩ける場を設けるのではなく、特に、狭い庭であれば道中、心もとない足元を創ったり、見せたい方向を向かせたりと、単純に目的地の通過点にしない工夫があっていい。これも負の要素を生かした工夫のひとつだ。
私たちは植物の成長を願ったり、憂いだりしながらその狭間のなかで植物をみている。特に庭に限って言えば人は本来自然は嫌いのはずだし、(植物は好きだけど虫は嫌い・お花は好きだけど雑草は嫌い)だから庭なんだろうけど。自然の摂理と違って人の都合で決めたルールには多分にどちらかの要素に偏っている。それでないと一定の生活は保たれないからだろう。本来、正誤などは表裏一体のもので人の妄想にしか過ぎないのかもしれない。
年末は明日の30日までです・・・・
山縣有朋の庭園観 2010年11月11日
京都に行ってきました。 2010年10月31日
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