小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

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第一章 「キャリア」 一節



恋人と呼べる男性には、ここ五年程お目にかかった事がない。


その五年前だって、はっきり彼と呼べるものかと聞かれれば胸をはれる自信もない。


もう38歳になってしまった。


仕事はそれなりに順調で、自由に出来るお金も手に入り、はたから見れば、バリバリ "キャリア" に見えるんだろう。


それが私の納得いかない人生の根源を作っているのだ。


部下が男性なのは真面目に仕事をして来た結果で、男性に負けまいとしているわけじゃないし、「こわ~い」と女子社員が噂しているのもしっかり私の耳まで聞こえてくる。


何なんだ。

どうしろというんだ。


今更「コピーとりま~す」とか言ったら、かえって嫌味に映るだけだろう。


私は焦っている。

ある日風邪をひき、熱を出し、食べる物もなく、殺風景なマンションでひっそり死んでいるのを三日後くらいに発見される。


そんな恐ろしい妄想さえ、閉じた目の裏に鮮明に浮かんでくる。


下着くらいは恥ずかしくないものを準備しなくちゃと要らぬ心配をするのも、余計な妄想だとわかっている。


せっかくの休日も午後になって目覚め、買いだめしているジャンクフードを味気無く食べる。


そのまま一歩も外へ出る事なく、ひとり夜を迎える週末にいつからかすっかり慣れてしまった私がここにいる。


私が男でも、こんな彼女はお断りだ。



決めた。



このままでは腐乱死体へまっしぐらだ。


決めた。


明日の朝から違う私になって、"シアワセ"とか言うやつをこの手につかむのだ。


ふと鏡に映った自分を見れば、そこにはつまらなそうな女がひとり映っているだけだ。



少し無理して笑ってみた。


そして束ねていた髪を下ろし、いざという時のために大枚をはたいて買ったMOGAのスーツを着てみた。


今がいざという時なのかは別にしてもなかなか良い女に見えるじゃないの。

派手過ぎない化粧でイメージアップ大作戦だ。


会社で陰口を言われても、やる時が来たのだ。


そして翌朝、背筋を伸ばしヒールの音も軽やかに私は家を出、歩き出した。

駅へ続く道の途中、思わず歩幅も広くなる。


なのに、


「うわっ!」


「ごめんなさい」

路地から誰かぶつかってきた。



私の人生はとことんついてない。


「大丈夫ですか?」


ドラマなら、ここで運命の出会いになってBGMにスローバラードでも流れる場面だ。

その声に顔を上げた私は、よろけた身体を立て直す事も忘れその人の顔を見た。



なんて綺麗なんだろう。


こんなに美しい青年を今まで見た事はない。

でもあまりに若く、気持ちとはうらはらに

「大丈夫です」と私は気丈に振る舞った。


せっかくのスーツが少し汚れたが、 "シアワセ" のためのおまけだと信じよう。


会社に着いたとたん、いつもとは違う目線を浴びた私は

さい先が良いのか悪いのか、予想通りあちこちでヒソヒソ噂話されている。

気にならないと言ったら嘘になるけど、そんなことより今日からの新人研修でその日の私は手一杯だったのだ。



「宜しくお願いします」


私が担当する新人らしき青年が、頭を下げて目の前にいる。


「こちらこそ」


そう言いながら上げた青年の顔を見て、心臓がドクンと音を鳴らした。



「あっ」


運命だ。

これを運命と言わずなんと言うんだ。


今朝出くわしたあの美しい青年がいた。

やっと神様がご褒美をくれる時が来た。


朝の出会いが私のこれからを決定させていたのに違いない。


私は胸踊らせ、これ以上はないほどの微笑みで右手を差し出し頭を下げた。


それと同時に後頭部をベットにぶつけ目が覚めた。






うわっ! ヤバイ!

遅刻だ。



久しぶりに見た夢は、あまりに鮮明すぎて何かを期待してしまうほどだったけど、世の中がそんなに甘くないことは、この歳ならちゃんと知っている。



今日も慌ただしい一日が始まる。




つづく・・・







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