小説「桜が咲くにはまだ早い三月」「無明の果て」 

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第二十一章 「願い」 二節




「運命なんてあるのかな。」

小池は微笑みもせずにそう言った。


考えてみれば、長い会社勤めの間に小池と二人で飲みに出かけた事など一度もなく、

その人柄に興味を抱く事さえも無いに等しく、

こんな大切な関わりを持つ事になった小池との、

入社してからの長い年月を振り返ると云う事が、

本当は少し遅かったのかもしれないと今になって感じている。


日々を重ねて気づくこと。

年齢と云う重みは言葉なく語る。

通り過ぎてはまた振り返り、古い傷口の数はいつの間にか

この身に優しく染み入っていると。


大抵の事は、その時を過ぎてしまえば

いつかもう一度輝きを放ち返すまで忘れてしまうものなんだろう。


だけどあの頃、同じ会社の上司とふたり密会などしていたとしたら、

つまらない噂話のネタになって今の私は存在していなかったかもしれないと、

仕事ばかりしていた可愛げのないあの頃のキャリアウーマンを、

今の私は懐かしく見つめるのだ。



「市川、会社の準備は進んでいるのか?」


「はい。

予定通りに進めば、半年後には始められそうです。」


「そうか・・・」


何か歯切れの悪い口調が、

私に伝えなければならない何かを待っているのが分かる。


「専務、何かありましたか。」


静かなバーのテーブルで向かい合い、ネクタイを少し緩めながら小池は私に聞いた。


「アメリカに行ってどうだった。

市川の今に役に立ったか?」


真剣にでも優しげにたずねる仕草が、

一瞬岩沢と重なって私の呼吸を早くした。


「はい、もちろんです。

専務にお声をかけて頂かなかったら、

名ばかりの会社設立でうまくいったか自信はありません。

専務には失礼かもしれませんが、

岩沢さんに出会えた事も専務のおかげだと思って感謝しているんです。」


それに返事をする代わりに、黙ってうなずいた小池の口から私の耳に届いた言葉は、

少しの間瞬きさえも忘れさせ、時間を止めさせた気がした。



「鈴木が特修に決定した。

半年後だ。」



”運命なんてあるのかな“


小池は、私達の未来を運命だと自分自身に言い聞かせて、

私に伝えたかったのかもしれない。



「鈴木は頑張っているよ。

若いから悩んで立ち止まる事ばかりだろうが、君を嫁にするくらいのやつだからな。

会社は彼に期待している。

発表になる前に、市川には伝えておきたかったのさ。

会社の事もあるだろうからなぁ。

鈴木を見ていると昔の岩沢を見ているようでな、何とも複雑な心境だ。

でも特修から戻ったら本社勤務だろう。

大丈夫か?

驚かせてしまったな。」



半年後に訪れる、ふたつの始まり。


別々の門出。



本当なら妻の私に伝える事ではなく、

一行の口から聞くはずの事実を小池は私に言った。

それは、小池と私を岩沢と云うかけがえのない友が、

心と心を結んでくれたからなのだ。



「市川、君の強さは何だ?

どこから来るんだ?

私に教えてくれないか。」


強さ。

何だろう。



「専務、私が強いのかどうか私には分かりませんが、

専務は忘れている事がありますよ。」


小池は眉を寄せて


「何の事だ?

わからないな。」


と テーブルの隅に肘をついた。


「専務、専務は私に頑張れって言ってくれたじゃないですか。

会社を辞めるって決めた時も、私に握手しながら

”頑張りなさい“ってそう言ってくれたじゃないですか。


特修を勧めてくれた時だって、私が適任だって誉めてくれたじゃないですか。

いつもずっと、認めてくれたじゃないですか・・・

だから頑張って来られたんです。」


「泣くな、市川・・・」


ふっと笑って


「別れ話でもしているように見えるぞ。」といたずらな目で私を見た。


そうなんだ。

もし私が強い人間に映っているなら、それは誰かに必要とされているから。

誰かに認められ、期待され、それを待っていてくれる人がいるから。



「私も市川に感謝しているんだ。

岩沢から連絡を貰わなければ、私から会いに行く事はなかっただろうし、

彼女の事も岩沢の事も心の底では許せなかったかもしれない。

いい歳をしてと笑われるかもしれないが、

人の気持ちなんて、そうそう分かるもんじゃないかもしれないなぁ。」



そして私は会社からの辞令の後に、

正式に一行の口から特修への決意を聞いたのだ。






つづく・・・






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