1

四つの苗字 前回の『イラク日本人人質事件』に続きます。・私は、図書館に行って宮崎県の電話帳を見てみました。ところがなんと、宮崎県には多くの郡山さんばかりか安積さんが住んでいたのが分かったのです。「う〜ん。これは一体どうしたことか?」そうは思いましいたが、この苗字からだけでは、郡山さん、そして安積さんが、安積の伊東氏との関係者、もしくはここの郡山の出身者であると肯定する訳にはいきません。そこで調べていて、幕末まで続いていた宮崎県日南市飫肥にあった飫肥藩主が、伊東祐帰(すけより)であったということでした。伊東の苗字と佑の文字に惹かれてさらに調べてみましたら、伊豆の伊東氏が先祖だと記されていたのです。一説に、祐長は郡山に来てから伊東に姓を変えたとも言われます。そしてそこには、岡山県真備町岡田にあった岡田藩が、同じ先祖であると書いてあったのです。そこで岡田藩を調べてみました。すると、幕末最後の藩主の名が、伊東長□(ながとし)、『とし』の字は、卆業の卆の左下に百、右下に千を書くとあったのです。そしてこの面倒な文字のトシの字はともかくとしても、この二つの藩主の名を比べてみると、飫肥藩の伊東氏は『祐』の文字を、また岡田藩の伊東氏は『長』の文字を通字として歴代使用していたのです。そこでこの2藩の藩主の通字を合わせてみたら、なんと『祐長』の綴りになってしまったのです。私はこれには本当に驚きました。このことは出来過ぎの感無きにしもあらずではありましたが、郡山の伊東祐長の子孫が九州や岡山に移ったという片平の常居寺の口伝の傍証になるのではないかと思いました。ここの郡山が、ついに岡山県や宮崎県にまで繋がってしまったのです。 そこまで調べてきて、私はまた電話帳に気が付きました。そこで岡山県真備町の電話帳を当たってみたのです。すると旧岡田藩の範囲に、安積さんが一人、郡山さんが二人おりました。ところがなぜか浅い香と書く浅香姓や、香る山と書く香山(こおりやま)の姓の人が結構多いのです。香る山については、ここの郡山と同じ郡山のすぐ次に出ているのですから同じ『こおりやま』の読みで、また浅香についても、ここの安積と読みが同じところにあるのです。この飫肥藩や岡田藩の歴史では、2藩とも伊豆の工藤氏とのつながりを強調しているのですが、すると、現在でもそれぞれの地元に残されている安積・浅香・郡山・香山の姓の人びととは、一体何を表しているのでしょうか? 安積、ひいては郡山との関係を無視する訳にもいかない、という意味なのでしょうか。不思議なつながりです。これらのことを考えれば、この郡山さんや安積さんたちが郡山出身者であるということを、肯定も否定する材料も、いまのところありません。ちなみに郡山市には、安積さんは電話帳にありますが、郡山さんはいないのです。 私はさらに、熊本県や鹿児島県の電話帳を繰ってみました。すると人吉市やその周辺の地域にも、安積・浅香・郡山・香山姓の人が結構多く住んでいたのです。これらのことから、もし伊佐市の郡山八幡神社が大和郡山から勧請されているものであるとしたら、直接伊豆とは関係のない安積や郡山の姓の多さは何を表しているのでしょうか? ここからも、人吉藩の相良氏と常居寺に伝わる「祐長の子を国富に派遣した」という言い伝えに、「大槻町の相楽氏も含まれていた」と考えるのは、私の考え過ぎとは思うのですが気になることではあります。付け加えれば、宮崎県日南市にあった飫肥藩主の伊東氏も岡田藩主の伊東氏も、さらには人吉藩主の相良氏も同じ先祖であるとも書いてあり、しかも鎌倉時代の初頭にそれぞれに入封したとされています。このことから私は、郡山から祐長の子が日向国へ行ったという常居寺の口伝とは時期は合う、と考えています。 古い話になります。私は学生時代に人吉に住む友人を訪ねた時に、次のような話を聞いていたのです。「現在は鹿児島県伊佐市になっているが、もともと伊佐市は人吉藩領であった。それが廃藩置県の際、人吉藩から切り離され、鹿児島県に移された。その伊佐市大口大田の郡山という所に、国指定文化財の郡山八幡神社が祀られている。郡山八幡神社は、建久五年(1194年)に創建されたと伝えられているが、それは永正四年(1507年)以前の建物で、室町及び桃山形式の手法と琉球建築の情調が強く加味されたものである。昭和二十四年に国の重要文化財に指定された。 なお現在の本殿建物は、昭和二十九年に改築されたものです。この神社は、もとは奈良の大仏殿にあった八幡神社が大和郡山に移され、さらにそれが伊佐市の郡山に移されたとも伝えられている。演技は8種類11演目あり、天狗、獅子、おかめ、山伏、太鼓、笛などの役を約80名の男性が演じます。歌や踊りはすべて口伝えで伝承されている、そこでは、年に一度の祭礼の日に、伝統芸能の『郡山棒踊り』が奉納されている。この、郡山八幡神社のある伊佐市大口の牛尾小学校では、毎年の運動会で、子どもたちが一生懸命に稽古をしてきた『郡山棒踊り』が披露されています。 のちになって思ったことは、ここの郡山市に古くから伝わっている餅つき行事の、『千本杵』のことでした。そこで伊佐市の郡山八幡神社での踊りを、インターネットで確認してみたのです。確かに伊佐市の『郡山棒踊り』は、杵を使った餅つきではなく武芸調の感じのところが多かったのですが、残念ながら、私にその棒さばきが『千本杵』と同じようであったとは思えませんでした。ただ何故『郡山』八幡神社なのか、そして『郡山棒踊り』なのかが不思議です。それでも私は、伊佐市の『郡山棒踊り』が、郡山市の『千本杵』と何らかの関連があったのではないかと気にしているのです。皆さんも、インターネットでご覧になって確認して頂ければ、幸いです。なお現在の鹿児島市内に郡山という町があるのも、不思議だと思っています。それにしても、伊東さん、相良さん、そして狩野さんの末裔の方が現在も郡山に住んでおられることも凄いと思っていますが、郡山が岡山県や宮崎県の歴史にまで繋がってしまったのにも驚いています。 ところで『相楽半右衛門伝』に、『相良荘を苗字の地とした武士に相良氏がいる。この相良氏は、元久二年(1205年)、相良長瀬が肥後国人吉の地頭職を得て、惣領家が九州へ移住した』という文脈が気になりました。そこで九州の相良氏について、インターネットで調べてみました。それによりますと、人吉の相良氏の初代は、相良長頼(1177〜1254)ですが、その20代目の相良頼房(よりふさ)(1574〜1636)は、人吉藩の初代藩主となっています。私は以前に片平の常居寺の和尚に次のような話を聞いていました。「伊豆に住んでいた伊東祐長の兄の祐時の頼みに応じて、祐長はわが子を、日向国の国富に派遣したとの言い伝えが残されています」この言い伝えから想像できることは、祐長は我が子を、一人で遠い日向国へ派遣したとは考えにくく、何人かのお供の中に相良氏が混じっていたのではないか、ということです。もしそうであるとすれば、常居寺での言い伝えは、『相楽半右衛門伝』の記述と、そして人吉の相良氏の歴史と一致する部分があることになります。不思議な一致です。
2023.06.20
閲覧総数 152
2

吉田松陰の東北遊日記より 文政十三年(1830)、吉田松陰は、長州の萩城下松本村、いまの山口県萩市で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれました。天保五年(1834)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修めています。しかし翌・天保六年に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けました。そして九歳という幼いときに萩藩・藩校明倫館の兵学師範となり、天保十二年(1841)、十一歳のときには藩主・毛利慶親(たかちか)への御前講義を行い、その出来栄えが見事であったことから、その才能が認められました。さらには天保十三年(1843)、十三歳のとき、長州兵を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施しています。そして弘化二年(1845)、十五歳のときには長沼流兵学の講義を受け、江戸時代の兵学、山鹿流と長沼流の二つを収めていました。 当時の清国国内では重要視されなかったのですが、清の思想家の魏源による海外事情紹介をも兼ねた地理書である『海国図志』がすぐ日本にも伝えられ、吉田松陰や佐久間象山、橋本左内ら幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を担っていました。西洋列強への危惧は、清国でではなく、日本において活かされることになったのです。『海国図志』は、当時の世界情勢を知ろうとする人々にとってバイブル的役割を果たし、海防と開国の難問に直面するわが国にも最新かつ豊富な情報をもたらしたのです。また幕府も、アメリカの情勢等をより正確に把握するために本書を活用しています。また天保十四年(1843)には、昌平坂学問所にいた斎藤竹堂が『鴉片始末』という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えています。 阿片戦争で清が西洋列強に大敗したことを知った吉田松陰は、山鹿流や長沼流の兵学が時代遅れになったことを痛感し、嘉永三年(1850)、西洋兵学を学ぶために藩の許しを得て、九州に四ヶ月にも及ぶという勉学をしました。九州の平戸では砲学にも触れ、長崎では砲学の高島塾に出入りをし、長崎の台場を見学したりして多くの蘭学者を訪れています。熊本では山鹿万助、葉山佐内、宮部鼎蔵など様々な人物に会って、見識を深めていきました。中でも熊本藩の兵学師範の宮部鼎蔵とは、国の防衛などについて意気が投合しています。宮部は松陰より10歳以上年上でしたが、生涯の親友となったのです。 次いで江戸に出た松陰は、佐久間象山や郡山出身の安積艮斎などに師事する一方で、南部藩士の江幡五郎と知り合います。嘉永四年(1851)、対馬などへ出没する外国船や北方に現れるロシア船からの防備力などの様子を確かめるため、松蔭は交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と東北遊学を計画したのですが長州藩からの許可が遅れ、彼との出発日の約束を守るため長州藩からの通行手形の発行を待たずに出発したため、脱藩者とされてしまいました。しかし強大な軍事力を持つ欧米列強によるアジア植民地化の動きが、いよいよ日本のそば近くまで迫ってきたことを理解した松陰は、東北遊学の旅に出ることを決意しました。当時異国船が頻繁に出現すると言われていた東北地方をめぐり、海防の現状を視察しようというものだったのです。この旅を書き記した日記が、『東北遊日記』です。 江戸から水戸に出た松陰は、文政七年(1824)に、水戸藩領大津村に食料を求めて上陸したイギリスの捕鯨船員と会見した水戸藩士で水戸学藤田派の学者・会沢正志斎(あいざわせいしさい)と面会し、ここで熊本から来た宮部鼎蔵と江戸から来た江幡五郎と落ち合いました。ところが江幡は、兄の仇を討つため南部に戻ることになってしまいました。しかし松陰は、尊王攘夷の地である水戸で、多くの水戸藩士と尊王思想を語り合っています。一月二十日、三人は、いまの北茨城市磯原から『いわき市』泉まで、海岸沿いを北上しました。 嘉永四年(1851)、満21歳となった松陰は『東北遊日記』の冒頭にこう記しています。「東北・北陸は土地広く山峻(けわ)しくして、古(いにしえ)より英雄が割拠し、悪者の巣窟となっている。西は満州に連なり、北はロシアに隣する。東北は国家経営の大計に最も関わり、学ぶべき成功と失敗を有する歴史の地である。だが残念至極ながら、自分はまだ東北を知らない。だから行くのだ」と・・・。 水戸を出発し、いまの茨城県の磯原・大津浜・平潟を経由して、いまの『いわき市』勿来から内陸部に入った松蔭と宮部は、『いわき市』植田・泉・田人、そして古殿町の竹貫を経て白河に入りました。そしてこの白河の久下田屋旅館で、三泊もしたのです。それというのも、ここで仇打ちするという江幡と別れることになっていたからだとされているのですが互いに別れ難く、四日目になってようやく別れたと言われています。白河からは次の会津若松に行っているのですが、この間の距離が長いので、記述はされていませんが、途中で一泊しているものと思われます。 二十九日、松蔭と宮部は、雪の深い会津若松に入りました。会津若松では藩校・日新館の見学をし、さらには会津藩が樺太出兵の経験をもっており、またその記録である『終北録』を編んだ学者の高津平蔵から意見を聞いたのち、新潟に向かいました。新潟までには、いまの会津坂下町塔寺を経由した記録しかありません。しかし塔寺から新潟までは遠いのです。恐らく2〜3泊を要したものと思われます。 新潟に入った松陰は、当初、1ヶ月も滞在する気はなかったようです。しかし新潟は、会津藩にとって重要な海の連絡路でした。大きな船で運ばれて来た荷物は新潟で小さな舟に積み替えられて阿賀野川を遡上、会津領の津川を川の港として使用していたのです。それもあって、樺太警備に出兵した会津藩が、ロシアによって報復攻撃をされるのではないかと危惧し、会津藩兵をここへ派遣していたのです。会津藩の防備の様子などを視察した二人は、北海道函館近くの松前まで北前船で直行する積もりでした。陸路を行ったら十数日はかかり、しかも雪のために交通を妨げられるかも知れないのです。しかし船であれば、箱館まで三昼夜で行けるのです。ところが荒天続きで、船が出なかったのです。二人はただいたずらに待っているのももったいない、その間に佐渡に渡ってみようと新潟県の出雲崎に行ったのですが、ここからの佐渡行きの船も天候が悪く、あしかけ十三日も待って、やっと船が出る始末でした。しかし乗ってみれば、佐渡は、たかだか三時間位のところでした。 佐渡に渡った松陰は、佐渡の役人を訪ねて島の概況を聞き、真野の順徳天皇御火葬塚を参詣して相川へ向い、広間役蔵田太中を訪れました。蔵田は国学者、また歌人で『鄙の手振』などの著書がありました。松陰と宮部は蔵田の二男の松原小藤太の案内で、佐和田町沢根の屏風沢銀山へ登り、坑内もつぶさに見学しています。「吾が輩は衣を脱ぎ、一短弊衣を着、縄を以て帯と為し、竪に短刀を帯ぶ」といった服装で入坑しました。屈強な人でも、十年ともなれば「気息えんえん、或は死に至る」と、労働者たちの短命であることなどを記しています。異国船が日本の近海に接近して、緊張していた時期でした。それでも二人は上陸地小木港に戻ったのですが、またまた船が出ません。四日目になって、やっとの思いで出雲崎に帰りました。ところが松前行きの船に乗るというときになって、船頭が侍を乗せるのを嫌って、いろいろと文句をつけられたので、二人は仕方なく陸路を行くことにしたのです。 佐渡から出雲崎に戻った松陰と宮部は、山形県酒田から本庄を経て秋田に入りました。秋田藩もまた、樺太警備に出兵していたのです。恐らくここでも、松陰は有力な情報を得たものと思われます。秋田を出た松陰は、秋田県の大館、北秋田市の阿仁鉱山からさらに北の弘前領に入りました。弘前では、藩の儒学者で兵学にも詳しい伊東広之進を訪ね、津軽半島の海防について細かく尋ねています。弘前から北上し、竜飛岬の小泊港で津軽海峡近くに達した二人は、ここでも目と鼻の先の松前へ渡ることができませんでした。やむなく青森県の藤崎・金木・中里を通り、船で青森に行きました。 松蔭は、以前より交際のあった薩摩の兵学者肝付七之丞と海防の事を論じていました。肝付は松前・佐渡の地方を調査していて形勢のあらましを知っており、近頃の西洋の船は、壱岐、対島の間を抜けて北上し、津軽海峡を通って、東に曲がるものが非常に多いと説明していました。二人は本州最北端の青森で、津軽海峡を通行する外国船を見学しようとしたのですが、それは果たせなかったようです。しかる津軽で松陰は、数々の義憤に駆られています。まずアイヌを人扱いせず酷使する悪徳商人がいること、そして津軽海峡を国籍不明の外国船が往来しているにもかかわらず、当局者は見て見ぬふりをしていることなどでした。その後、青森県の野辺地・五戸・八戸と海辺を巡った松蔭は、金山・二戸・三戸を、そして岩手県の沼尻・簑ヶ坂・金田一を過ぎて盛岡に入りました。 盛岡藩もまた、樺太警備に出兵していました。盛岡藩では、領内の太平洋沿岸と津軽海峡、そして内海である陸奥湾側などの広い沿岸要所に、遠見番所10ヶ所以上と砲台場33箇所以上を配置していました。盛岡藩はこの御台場に土塁をめぐらし、砲台場、火薬庫詰め所を配置して打ち方と手伝い人6名を常置させていたのです。その盛岡を出た松蔭は、花巻・平泉の中尊寺を経て宮城県の石巻、そして塩竈に着きました。塩竈での逗留は短時間でしたが、塩竈の歴史や風土を詳細に記録しています。その後、やはり樺太警備に出兵していた仙台藩を経由して宮城県の大河原そして米沢へ向かいました。そしてなぜか、二人は、米沢から再び会津に入ったのです。会津からの先の行程は、会津田島〜今市〜日光〜足利〜館林〜江戸というものでした。この旅の総日数は、嘉永四年十二月十四日の江戸出発から翌五年四月五日の江戸到着まで、140日にも及んでいます。 松陰が行った東北遊学の具体的目的は、国防上の見地から実地踏査をし、砲台をどこにつくり、守備兵をどこに配置すればいいかを丹念に調べ歩いていたのです。ですから彼はこの旅で、樺太警備に出兵した会津、秋田、弘前、盛岡、仙台の、すべての藩を巡っています。これら北方の藩から兵士が樺太へ送られたのは、樺太に近い、という理由もありましたが、もう一つ、これらの兵は寒さに強いと考えられたからだといわれます。恐らく松陰の脳裏には、これらの各藩の経験から、軍事的にどう外国に対処すべきかを学ぼうとしていたのではないでしょうか。 旅行後松陰は、友人に送った書簡に、東北遊学によって「雪や浪や野や亦以(またもって)て気胆を張り才識を長ずるに足れり」とした上で、「人皆曰く、博(ひろ)く学んでしかる後、遠遊すと。僕は則(すなわ)ち遠遊して後に学を博す。」と、自分の旅を総括しています。見て、聞いてその身に体感することでこそ、自分の学問・知識を深める事ができるのだと確信していたのです。『東北遊日記』は、慶応四年(1868)に出版されました。 ペリーの航海記から引用しますと、「厳しい国法を犯し知識を得るために命をかけた2人の教養ある日本人の激しい知識欲は興味深い。この不幸な2人の行動は日本人に特有なものと信じる。日本人の激しい好奇心をこれ程現すものは他にない。日本人のこの特質を見れば、興味あるこの国の将来には、何と夢に満ちた広野が、何と希望に満ちた期待が開けていることか! 」そして安政六(1859)年十月二十七日、松蔭は安政の大獄に連座して江戸に檻送され、評定所で取り調べを受けた時、幕閣らは松蔭の暗殺計画が実行以前に頓挫したことや、素直に罪を自白していることから、『遠島』が妥当と判断していたといわれます。しかし松蔭自身が死罪が妥当と主張し、これが井伊直弼の逆鱗に触れて斬首刑に決せられたとされます。その評定所から伝馬町牢屋敷に戻された松蔭は、辞世の句を残しています。 一つ目の辞世の句は、父百合之介、兄梅太郎、叔父玉木文之進に向けて書かれたお別れの手紙の中に記されています。『親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん』(子が親の事を想う以上に、親が子を想う気持ちは深いもの、私がこのような状況になって両親はどんな思いだろう)というものですが、死の直前に書かれたものではないので、厳密には辞世とは言えないという説もあります。その中で松蔭は、「自分が処刑されたら首は江戸に葬り、位牌には『松陰二十一回孟子』と書き、自分が愛用していた硯と手紙を魂の依り代として供養してほしい」と頼んでいます。 吉田松陰が沼崎吉五郎に託した『留魂録』は、松下村塾の塾生たちに向けて書かれたものなので、塾生に残した辞世の句と言えると思います。『身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂』。私の体は江戸の地で朽ち果ててしまっても、私の魂だけはこの世で生き続けるという意味です。このとき松陰は伝馬町の獄舎につながれており、自分の最期を覚悟していました。だから、自分の意志を継いで、塾生たちにも日本のために行動を起こしてほしい。というメッセージが込められていました。これが、松陰が塾生たちに残した辞世の句です。 死を直前にした松陰の率直な気持ちが表現されている辞世の句があります。これは漢詩で、評定所で死罪の判決を受けた後に大声で吟じたものだと言われています。『吾、今、国のために死す。死して君親に背かず、悠々たり天地の事。鑑照は明神にあり』。私はこれから国のために死ぬ。それでも主君や両親に対して恥ずべきことは何もない。今となっては全ての事を悠々とした気持ちで受け入れている。私の人生は神の御照覧に任せます。 松陰は伝馬町牢屋敷で二冊の留魂録を書き終えた後に、最後の呼び出しの声がかかります。すると松陰は、「十月二十七日 覚悟を決めていた死の旅路の呼び出しを聞くことができて嬉しくてならない」と書き残し、判決が言い渡される評定所へと向かいました。この時の松陰は髭や髪が伸びていましたが、眼光は鋭く、近寄りがたいオーラを放っていたと、その場に居合わせた長州藩士が語っています。そして、評定所で役人から『死罪』という判決が言い渡されたのですが、この時、松陰はとても穏やかな様子だったようです。一度、評定所から伝馬町の牢屋敷に戻った松陰は、獄舎の人たちと別れの挨拶をしました。処刑された松陰の遺体の引き渡しの交渉には、門下生であった飯田正伯と尾寺新之丞が奔走しました。伝馬町の役人が松陰の遺体をなかなか渡さないので、飯田らは賄賂(わいろ)を使うなどして、粘り強く役人と交渉していました。そこで出た結論は、現在の荒川区南千住にある回向院というお寺に一度遺体を運んで、そこで飯田たちに引き渡すというものでした。飯田たちは桂小五郎と伊藤利助(博文)にも声をかけ、4人で松陰の遺体を引き取る事になります。しかし、罪人という事もあり、松陰の遺体は裸のまま無造作に樽に入れられており、その扱いは酷いものでした。この変わり果てた師の姿を見た塾生たちは師の体を水で清め、それぞれの衣服を脱いで着せた後、松陰の遺体を用意しておいた甕に移し、回向院(えこういん)に葬って墓石を建てました。享年30歳でした。ちなみに熊本藩士であった宮部は、松陰との東北遊学の後に、京都で討幕運動に没頭するのですが、池田屋での会合中に新撰組に襲われて重症を負い、自刃しています。また江幡も脱藩して南部に向かったのですが、結局仇討ちは行われませんでした。維新前に非業の死を遂げた松陰や宮部らより、江幡はずっと長く生き伸びたことになります。 幕府も藩もあてにはならず、在野の人が立ち上がらなければ変わらないという、松蔭が唱えた『草莽掘起』が共感を呼んだのであろう。長州藩でのその後の松蔭の評価は大きく変わることになります。松蔭は尊王攘夷を唱えながら、貿易による富国強兵の構想も持っていたのですが、反幕府の考えも有していたことから毛利家の藩政を乱す『乱民』といわれたのです。しかし藩論が反幕府の尊王攘夷一色となると松蔭はシンボルと祭り上げられ、刑死したわずか数年で、松蔭の著作が藩校明倫館の教科書に使われるようになったのです。(萩博物館主任学芸員・道迫真吾) 吉田松陰は、はじめは革命家として位置付けられたのですが、日露戦争を境にして、大東亜共栄圏の先駆者として祭りあげられました。しかし第二次大戦後は一転、再び革命家として評価されるようになったのです。このように変転した松陰の評価には、皇国史観が、深く関わっています。現在、福島県内にも、吉田松陰に関して、次のような碑が残されています。 殉国 吉田松陰先生遊歴之地碑 いわき市植田町後宿公園・東北第一夜の記念碑。碑の 裏側には「東北遊日記抄」の該当部分が刻まれていま す。 吉田松陰遊跡記念碑 古殿町・碑文は嘉永五年正月竹貫に一宿した時の日誌。 吉田松陰逗留の宿 白河市中町久下田屋旅館・詳細は未確認です。 清水屋旅館跡碑 会津若松市・松陰の説明文があります。東北遊日記に 記された七日町の宿が、この清水屋でした。 吉田松陰東北遊日記の碑 会津坂下町心清水八幡神社・碑には、東北遊日記から の該当部分が刻んであります。 なお松蔭と宮部の旅程は、次のようなものでした。江戸〜水戸〜磯原〜大津浜〜平潟〜勿来〜植田〜泉〜田人〜竹貫〜白河ー会津ー塔寺(会津坂下町)〜新潟ー佐渡(相川〜春日崎・旧相川町の西南海岸)〜新潟〜酒田〜本庄〜秋田〜大館〜阿仁鉱山(北秋田市)〜弘前〜藤崎〜金木〜中里〜小泊(今別)〜(船で)青森〜野辺地〜五戸〜八戸〜金山〜二戸〜三戸~沼尻~簑ヶ坂~金田一〜盛岡〜花巻〜中尊寺〜石巻〜塩竈〜仙台〜大河原〜米沢〜会津〜田島〜今市〜日光〜足利〜館林〜江戸 松蔭が残した名言として、 『夢なき者に理想なし』 『理想なき者に計画なし』 『計画なき者に実行なし』 『実行なき者に成功なし』 『故に夢なき者に成功なし』というものがありますが、この言葉の出典が見当たりません。また、この言葉の発言者を渋沢栄一だとする説もありますが、やはり澁澤の言葉であるという確証もありません。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.07.01
閲覧総数 1693
3

この祐長の名の出てきた最後の建長六年の記述には、『将軍家御行始めの儀有り。申の一刻相州の御亭に入御す。御引出物例の如し。中務権の大輔家氏御劔を持参す。砂金、羽、御馬』とあり、多くの供奉人(布衣、下括り)の一人として参加していることが分かる。しかしこの表のように頻繁に出仕している状況から、祐長が郡山に永住していたとは考えにくい。ただし祐長の生年は承元二(一一八三)年と推定されており、それを踏まえて前出の年表を整理してみると、 一二一三年~一二一九年 六年間 一二一九年~一二二七年 八年間 一二二七年~一二三六年 九年間という長期の三回の空白がある。するとこの期間と、祐長が三十歳頃と推定される一二一三年までの何年かの間には、郡山に住んでいたと考えても良いのではあるまいか。なお日和田町朝日坦地内に、安積左衛門夫妻の墓と伝えられるものが残されている。これが祐長夫妻のものであるかどうかは、疑問とされる。(日和田郷土史会・石田善男氏談) さらにこの表を見てみると、伊東、工藤、伊藤、安積の姓が錯綜して使われているし、その何代か前には、狩野姓も使用されている。このため、祐長が郡山に入ってから伊東姓に変えたという説には、いささか疑問が感じられる。なお薩摩については『HP 古樹紀之房間 日本古代史一般 古代及び中世氏族の系譜関係 信濃の工藤姓とその一族』より転載する。 工藤一族のうち「薩摩」を冠した名乗りをする系統は、祐 経の子で伊東左衛門尉祐時(犬房丸。後出)の弟・安積六 郎左衛門尉祐長の子孫であり、祐長は陸奥の安積郡に所領 をもち薩摩守に補されて、『東鑑』には安積薩摩前司など と見えます。 祐長の諸子は、薩摩七郎左衛門尉(祐能)、薩摩八郎左衛 門尉(祐氏)、薩摩九郎左衛門尉(祐朝)、薩摩十郎左衛 門尉(祐廣)として同書に見えて、これらの子孫も「薩 摩」を冠した名乗りで『東鑑』に見えています。祐長の子 孫には陸奥の安積伊東氏一族、伊勢の長野工藤氏一族など が出ますが、信濃の坂木にも工藤氏を残しました。 室町時代・画家狩野派の祖、狩野景信は伊豆の人。伊東マ ンショ(戦国時代九州からローマへ派遣された少年使節団 長)は伊豆伊東の一族。 ところで祐長は、たった一人で安積庄に移住して来た筈はなく、家臣団を供にして連れてきたと思われる。その一人が、恐らく、いまの静岡県牧之原市相良がその出身地の相良氏であろう。姓氏家系大辞典には、(相良氏は)『藤原南家伊東氏流。遠江国榛原郡に相良郷を載せ、又古く延暦廿年多度津資財帳に「遠江国相良荘」と載せ平田寺文書に「遠江国相良荘平田寺の事云々」と』と記述されている。 また相良氏については、次のような説もある。 岩瀬郡須賀川の領主は二階堂氏である。二階堂氏はこの地の他にも相模国大井庄、甲斐国逸見庄、遠江国相良庄、讃岐国藤原庄を領していた。そしてここに出てくる遠江国相良庄は、現在の静岡県榛原郡相良町である。これらのこともあって相良氏は二階堂氏に被官し、須賀川に入部した。これが須賀川相良氏であろう。そして時代が下がって戦国時代、大槻落城の際して大槻の相良氏が須賀川相良氏を頼って移ったとされるが、この関係によるものであろうか。 また、この相良(楽)一族は郡山市大槻町周辺に多く居住している。そしていまでも高齢の人は相楽さんとは呼ばずに、相楽様と呼ぶ土地柄である。もっとも、この地で古くから庄屋などの役職についていたというから、その所為とも考えられるが、むしろ伊東氏との関係から様を付けて呼ばれたとも推定できよう。 なお現在の相楽氏に尋ねたところ、「戦国時代に(茨城県)結城から移り住んだと伝えられている」 とのことであった。しかし大槻町長泉寺の墓所を見せて頂いたところ、鎌倉時代のものと思われる墓碑が数基祀られていることから、その頃、大槻に移住した相良氏のいたことが証明できる。またその墓所には、相良から相楽と変えた形跡が残されている。 (注)二〇〇七年十月、大槻町の相楽モトさんより天保十 三年に記述された『萬書覚扣帳』のコピーを頂い た。 それによると『鎌足胤伊豆伊東より十四代之末葉 一、城主伊東氏祐頭永正年中大槻駒屋八幡山口大谷 右五ヶ村領ス』とあり、また『帯刀より相楽ト 改号云々』とあった。 それから狩野氏がある、 狩野氏は前述したように工藤氏の先祖とも考えられるし、姓氏家系大辞典によると、『藤原南家伊東氏流。伊豆狩野庄より起る。此の地は(吾妻鏡の)文治四年六月四日条に「蓮花王院領伊豆国狩野庄」と見ゆ。此地を領せしなり。伊豆の大族にして、伊東、工藤と同族たり』と記述されている。 伊東氏は、狩野氏から工藤氏へ、そして伊東氏へと続いていったとも想像される。静岡県田方郡天城湯ケ島町には、治承四(一一八〇)年に築城された狩野城(別名・柿ノ木城)跡が残されている。狩野城は狩野氏歴代の居城であったが、その後、北条早雲によって伊豆全土が制圧されたとき、狩野城も北条氏の傘下に組み込まれている。なお狩野という名は、地名の他に狩野川など川の名前にも残されている。いずれにしても現在郡山市熱海町とその周辺に残る狩野氏は、工藤祐長とともにこの地に移住した狩野氏一族の末裔と考えても良いのではないだろうか。相良と狩野の氏族は、祐長の留守中、代官を務めていたとも考えられる。 この二氏についてもう一つ考えられることは、主筋の伊東氏が片平に住んだと仮定すれば、その南の大槻に相良氏を、そして北の熱海、伊豆方面に狩野氏を置いて守りを固めたのかも知れない。いずれにしても相良氏も狩野氏も、工藤祐長とともに伊豆から郡山に移住し落ちついたものと思われる。
2007.10.16
閲覧総数 2214
4

郡上藩 凌霜隊(岐阜県郡上市) 会津若松市の飯盛山に、白虎隊でもなければ会津藩士のものでもない、「郡上藩凌霜隊之碑」があります。これは岐阜県知事 上松陽助氏の揮毫によるものですが、この他にも、昭和五十九年(1984年)九月、『郡上藩凌霜隊碑を建てる会』の建立による『道ハ一筋ナリ』の碑があります。郡上藩は、江戸時代に美濃国、現在の岐阜県郡上市八幡町に所在し、郡上郡の大半と越前国の一部を統治していた四万八千石の藩で、藩庁が八幡城にあったことから、八幡藩とも呼ばれていました。 幕末の日本は、勤皇か佐幕かで混乱の中にありました。その結果として、265年という長い期間、実権を握っていた徳川幕府の第15代将軍 徳川慶喜 が、慶応三年(1867)十月十四日、その実権を天皇に返上する旨を上奏しました。翌十五日にこの上奏が認められ、長きにわたって続いた徳川幕府はその幕を下ろすことになったのです。この一連の出来事が、『大政奉還』であり『王政復古の大号令』でした。これは、もともと土佐藩を中心とする勢力が建白したものを慶喜が取り上げて、朝廷に上奏したものでした。なお勤皇とは、天皇のために力を尽くし、忠節に励むことを表し、佐幕とは動乱の幕末期によく使われた言葉で、『幕府を補佐する』との意味がありました。 慶応四年一月三日から六日にかけ、『鳥羽伏見の戦い』が勃発しました。そして八日、新政府は、『鳥羽伏見の戦い』において伏見戦争で疑惑のあった伊予松山・高松・小浜・大垣・官津・延岡・鳥羽ら七藩に対して御所への出入りを禁止する処置を下し、十日には、この戦いで主導的立場であったとされる会津藩 桑名藩 高松藩 伊予松山藩 備中松山藩 大多喜藩の六藩に対し官位を剥奪した上で、藩邸の没収と京都追放が追加されたのです。これらの官位を剥奪された藩は、原則として街道の通行も禁止されたのです。 この時期の郡上藩の藩主は、譜代大名の青山幸宜(ゆきよし)でしたが、まだ14歳の少年でした。このような事態にどう対処すべきか、判断ができる年齢ではありません。藩の行動は、家老たちの意見に頼らざるを得ませんでした。しかし家老たちも、『鳥羽伏見の戦い』の戦後処置においての新政府の強気な姿勢を見ながら恐れを感じ、藩としての一本化した政策決定には至りませんでした。郡上藩のような小さな藩は、勤皇派なのか佐幕派なのか、新政府と幕府のどちらを支持するのか、ハッキリとは判断しにくい状況だったのです。数万石程度の藩は、周囲に流されて戦うことになることもあったのです。しかし鳥羽伏見の戦いが終わり、幕府は追い詰められている状況にあるとは読めましたが、途中で逆転するかも知れないし、最終的にどちらが勝利を収めるか、極めて分かりにくい状況でした。 郡上藩も、勤皇派と佐幕派とが対立しました。藩主の幸宜も、消極的ながら佐幕派として行動していましたが、戦争が拡大した二月には、新政府に恭順を尽くすという誓書を出しています。そんな中、藩主の幸宜の帰国を待ち、国家老の鈴木兵左衛門は生き残りの策を進言しました。それは、「新政府軍に恭順すると見せかけ、幕府を支援する部隊を組織して転戦させましょう」というものでした。これならば、どちらが政権を取っても、言い訳が出来るという二股をかけた政策でした。藩主の幸宜は当時僅か14歳でしたから、うなずく他はなかったのではないでしょうか。国家老の鈴木兵左衛門としては、藩存続のための、精一杯の妥協策であったと考えられます。 郡上藩では、選りすぐりの精兵を密かに選抜することになりました。密命は、江戸の郡上藩屋敷に送られました。江戸の郡上藩士は、意気軒昂でした。譜代大名の武士として、幕府のために戦ってこそ武士の忠義だと、彼らは信じていたのです。江戸家老の朝比奈藤兵衛も、幕府軍が勝利した時のことを考えて、十七歳の息子茂吉を隊長とする藩士39名をひそかに脱藩させ、幕府軍側の一隊として凌霜隊を結成させたのです。確かに二股の策ではありましたが、秘密とは言え、藩公認の下での結成であったのです。 彼ら39名は、『霜を凌ぐ』という、痛烈な覚悟の名前でもって組織され、戦地へ赴いたのです。なお『凌ぐ』には、困難をはねのける、また堪え忍ぶという意味があります。そして『凌霜』とは霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉で、青山家の家紋である青山葉菊に由来したものです。藩からもスペンサー銃、スナイドル銃、エンピール銃、大砲、ツルハシ、鍬、シャベルといった物資が届きました。砲術指南や軍医も従軍し、小規模とはいえ装備の充実した部隊でしたから、隊員は藩のお墨付きを頂いた脱藩者という感覚であったと思われます。郡上藩は、名目上脱藩者の集団として藩から切り離し、彼らを会津戦線に送り出したのです。 四月十日、凌霜隊の隊士たちは、江戸の本所にある橋菊屋に集合して江戸湾を船で出発、四月十二日に、今の千葉県の行徳に一度上陸、再び船で利根川を溯って前橋に上陸、会津に向かったのです。幕府側の人々が集まる目的地が、会津だったのです。 当時の関東地方は、旧幕府軍と、それを追撃する新政府軍が戦闘しながら、進撃してゆく大変な状況に陥っていました。会津へと向かう途中の凌霜隊は、四月十六日、大鳥圭介らが指揮する幕府の精鋭部隊である伝習隊の一部として統合され、境宿で戦闘に陥りましが、新型銃のお陰もあってか、ここで彼らは見事に勝利しました。しかし同時に、死傷者二名、行方不明者二名、逃亡者二名を出してしまったのです。五月十九日より二十二日まで『宇都宮城の戦い』がありましたが、ここで凌霜隊は、秋月登之助、土方歳三らが率いる別働隊約千名とともに戦っています。 凌霜隊は、会津藩士・小山田伝四郎のもと、塩原温泉郷での防衛任務に就き、五月十一日から三ヶ月ほど、塩原の妙雲寺に滞在しました。しかし戦局が悪化する八月二十一日、凌霜隊は町を焼き払っての、全軍会津への退却を命じられました。そこで凌霜隊隊長の朝比奈茂吉は、三ヶ月も世話になった寺を焼き払うことに苦悩しています。茂吉は守備隊長に抗議しますが、小山田は聞き入れません。茂吉に出来たことは、名主に焼き払うことを伝え、家財道具を運び出すよう言い渡すことだけでした。塩原温泉郷は、猛火に包まれてゆきました。妙雲寺に火をかけようとしたところ、隊士が寺には見事な菊の紋章が描かれていると茂吉に伝えてきました。菊を焼けば、天皇を擁した新政府軍に責められるのではないかと懸念したのです。そこで茂吉は、寺の横に畳や薪を積み上げて火を放ち、火を放ったふりをして、寺を救ったのです。 ここから先は、撤退戦の始まりです。今の日光市の横川に戦い、会津田島に至り、大内宿近くの大内峠の激戦では二名の戦死者を出しました。九月三日、今の会津美里町関山の戦いでは、会津藩の青龍足軽二番隊とともに苦戦を展開、林定三郎が前額部を撃たれて即死、この日は会津高田まで進んで宿泊、九月四日には大川を渡河して、若松城下に辿り着いたものの、若松の城下には既に八月二十三日に政府軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていました。凌霜隊の副隊長の速水小三郎は「敵の脇の下をくぐり股をくぐってでも城下に入れ。殺されたら魂となってでも行け。びくびくするな。平気な面をしておれば誰でも味方だと思うだろう」と叱咤しながら、城へ決死の進撃をしたのです。「グズグズしてはおられない」と疲れた身体に鞭打って進んだと言われます。そしてその日の夕方になって凌霜隊は、若松城の西口、河原町口郭門にたどりついたのです。 河原町口の郭門にたどりついたのはよかったのですが、郭内は二十三日の新政府軍の侵攻の際焼き打ちに会い、屋敷は殆ど焼け落ちていました。それでも郭門を入った北側に辛うじて焼け残った屋敷が一軒だけあり、会津藩士小山伝四郎遊撃隊長の指図によってここに宿泊し、九月六日になって、ようやく若松城に入ることができたのです。 籠城戦に入ったのちの八月二十七日頃、白虎士中一番隊・二番隊の生存者を中核とした再編白虎隊が編成されていました。凌霜隊はただちに白虎隊士中二番隊隊長日向内記の配下に編入され、再編された白虎隊士らとともに開城の日まで西出丸の防衛にあたっています。しかし激しい籠城戦で、一人、また一人と、凌霜隊の隊員たちも斃れてゆきました。凌霜隊は白虎隊の生存者とともに、開城の日まで西出丸の防衛に当たりましたが、同盟諸藩の降伏が相次ぐなかで孤立した会津藩は、一ヶ月の激しい籠城戦の果てに、九月二十二日、新政府軍に降伏し開城したのです。 会津藩の降伏後、凌霜隊は猪苗代での謹慎を命じられました。雪が舞う寒い会津で、彼らは耐え忍びました。十月十一日、日向内記から東京へ移送されると凌霜隊に伝えられました。郡上藩預かりの処分となったのです。これで戦いから離れ、晴れて故郷へ帰れると、恐らく全隊員が思ったと思われます。むしろ彼らは、藩から依頼された脱藩者であり、武器など、それなりの援助を受けていたからです。ところが二十四日、郡上藩士の出迎えを受けた凌霜隊士たちは、失望したのです。同じ部上藩士でありながらよそよそしく、冷たいのです。要は、厄介者扱いでした。十一月十五日、大垣まで到着した凌霜隊は、囚人駕籠に乗せられ、荒縄でくくられました。もはや彼らは罪人扱いです。しかも郡上八幡に戻れば、牢屋に入れられるというのです。故郷で牢屋に入れられた凌霜隊の隊士たちは、帰りを待っていた家族と再会することもできません。牢屋は粗悪な環境で、病に倒れる隊士も出たほどでした。そしてその牢獄に、半年間幽閉されたのです。 何よりも凌霜隊士は、賊として捕らわれたことで周囲の目も冷たく、郡上藩としても、『新政府に恭順』という方針で戊辰戦争に関わっていくための方便でしたから、藩にとって凌霜隊はお荷物となってしまったのです。できれば藩としては、自害して欲しい人たちであり、何なら彼らを暗殺したいほど邪魔だったのです。しかし手を下すには生存者が多すぎました。そこで彼らは、禁固の処罰を受けて入牢、死罪を言い渡されたのです。何と理不尽なことか? 「これでは凌霜隊があまりに不憫ではないか」町からはそんな声が起こりました。明治二年の五月十一日、牢屋に近い慈恩寺に領内の僧侶が集まり、凌霜隊士解き放ちの嘆願を藩庁に直訴したことから、凌霜隊の身柄は長教寺に移されました。そして会津落城から一年目の日の九月二十三日、凌霜隊は長教寺の本堂で、藩の使者から「各自、自宅謹慎とする」と伝えられたのです。苦難の日々を乗り越え、やっと家に戻れることになりました。そして明治三年(1870)二月十九日、新政府から、ようやく正式な赦免が届きました。凌霜隊は、解散に至ったのです。しかし自由の身になったとは言え、藩が彼らに援助の手を差し伸べることはありませんでした。それもあって、郡上八幡に留まる元隊士は少なかっといわれます。山あいの小さな藩が激動の時代を乗り切るべく取った日和見主義が生んだ悲劇でした。 藩を救うために行動し、仲間は命を落としたというのに、罪人扱いされた彼らは、そんな苦い思いを抱えた故郷に、留まりたくはなかったのかも知れません。郡上八幡は、清流の流れが美しい町です。しかしこの風光明媚な故郷も、凌霜隊にとってはあまりにつらい場所となってしまったのかも知れません。白虎隊とともに戦い、故郷から見捨てられた凌霜隊の人々。彼らの姿に思いを馳せると、戊辰戦争という内戦の悲劇が心の奥底に突き刺さります。地元では秘史としてしか語られてこなかった凌霜隊が、今は郡上の誇りとなり、郡上八幡城脇に顕彰碑が建てられています。戊辰戦争から150年、彼らの出身地である郡上八幡では、凌霜隊について見直し、顕彰する動きが高まっています。 冒頭に紹介した飯盛山にある彼らの慰霊碑は、昭和五十九年(1984)、郡上八幡市と会津若松市の有志が協力して、建立に漕ぎつけたものです。飯盛山を訪れる機会のある方は、この慰霊碑にも目を留めていただければと思います。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2019.01.01
閲覧総数 1656
5

守山藩の目明かし・④ 阿久津村の芝居 宝暦二年(1752)四月に、阿久津村、いまの郡山市阿久津で金十郎が興行した歌舞伎芝居は、天候が不順にも関わらず、大きな成功を収めました。これらの芝居は野外で行われていたので、天候の良し悪しが、大きく関係していたのですが、初日の四月八日は天気がよかったのです。九日には少し雨が降りました。十日は晴天で十一日も晴天、十三日はおしなべて晴天でしたが、昼頃少々雨が降りました。このような雷雨のときには、当然興行にも支障が生じます。晴天七日の興行という条件で許可されていたのですが、九日が雨天でしたから、順延となっていました。その時の興行成績が残されています。四月八日 一、金一分・銭十一貫五百七十文 入千人程 十日 一、金二分・銭十四貫五百文 入千四、五百人程 十一日 一、金一両・銭十六貫七十文 入二千人程 十二日 一、金二分・銭十四貫五百文 入千四、五百人程 十三日 一、 銭三貫二百三十文 入三百人程 十四日 一、 銭九貫百文 見物人七百六十人程 十五日 一、 銭四貫七百文 見物人四百人程 これによると、十五日までの七日間の木戸銭総計は、金二両と、銭七十貫三百七十文でした。この年五月の守山地方の米相場は金一分につき五斗二升五合であり、銭相場は一貫五十文が金一分であったから、右の木戸銭合計は、おおむね米三十九石三斗七升五合、約百俵に換算されたのです。もっともこのような木戸銭収入は、客の人数を概数で示していることからも分かるように、むしろ低額に抑えて陣屋に報告するのが常でしたから、これ以上の収入があったと思われ、金十郎にとって大儲けであったと思われます。この阿久津村での興行は、阿武隈川の河原で行われたものと思われます。そして、このような場所で演じる役者は、河原乞食などと呼ばれていました。ところで。芸能興業の芝居地であるが、権勢を誇る寺社の境内では、一年を通じての常設興行はそもそも不可能であった。そして町家が密集する町域では仮小屋を作ることすら認められていなかった。遊芸民が市中に定住して、そこを拠点に活動しようとしても素性もよくわからぬ漂泊の『よそ者』として排除されることは目に見えていた。そこで浮かび上がってきたのは河原だった。なぜ河原が常設の興行地になっていったのか? さきに見たように町の地域から外れていて、取り締まりも厳しくなかった。そして興行に利用できる空間があり。小屋掛け工事の得意な河原者がいた。近世初頭の頃では、河原がまさに最適な興行空間であった。身分制の下辺に置かれて教育を受けることがなかった民衆は、自分たちがどう生きて行くかという問題について、積極的に自己主張する場を築くことができなかった。お上の政策に正面から楯突いてものをいう場合は、命をかけた一揆による他に方法がなかった。日頃の鬱憤を晴らすのは役者たちが舞台で演じてみせる仮構の世界であった。日常の不平不満を代弁し、支配権力の内実をそれとなく暴露する芝居を民衆は待ち望んだ。しかし。当時の武家社会の内実をリアルに描写することは禁じられていたから、歴史的時代に仮託して物語は劇化された。民衆もよく知っている。通俗的な中世史に寄りながら。史実や風俗も無視して。朝廷貴族や武家の姿を誇張した虚構で描いてみせたのである。史実を無視して、歴史上な有名人物を揶揄する荒唐無稽な物語は、抑圧されてきた人々の情動の浄化となった。世に入れられず、あぶれものとして。芝居に登場する無頼・無法・異端の徒にしても、鬱積した民衆の心情の代弁者として人気を博した。民衆は斜め下から世間を見据えていた。その民衆からの目からの、風刺と諧謔とこう笑が込められていたのであった。 芝居帰りの殺人 三春領下枝村、いまの中田町下枝で芝居が興行されたとき、守山領金沢村、いまの田村町金沢の半右衛門が見物に出かけました。その半右衛門が帰り道、何者かによって殺害され、三春領海老根村、いまの中田町海老根で、その死骸が発見されました。報告を受けた三春藩から代官の手代と下目付が来て検分を済ませ、そのまま早々に立ち去りました。その後三春藩の役人から、『三春藩の検分が済んだ。死体が損じるので早く引き取るように。』との手紙が守山代官に寄せられたのです。守山陣屋側からは、役人と死者の親類を連れて現場へ行ったところ、三春側からも見届けのため代官の手代と下目付が来ていて、その顛末を確認し合いました。その後にこの事件に対し、守山陣屋は金十郎に捜査を依頼しました。金十郎は、関係すると思われる金沢村、荒井村、蒲倉村、下行合村、下枝村、海老根村、高倉村で聞き込みをしていましたが、これという成果を得られないでいたところ、三春の目明かしから、「内密に相談したいことがある。」との呼び出しを受けました。金十郎は三春領赤沼、いまの中田町赤沼に行き、犯人の使った脇差が、「高倉村の宇衛門か重次郎のどちらかが買い取ったという風聞がある」と示唆してくれたのです。それにより逮捕された重次郎は拷問にかけられ、六年もの間牢獄生活を送ったのですが、ついに自白することがありませんでした。その後重次郎は、病気のため牢死しています。 婿養子の刃傷沙汰 須賀川から守山へ婿に来ていた藤吉が、行水を使っていた自分の女房を斬りつけ、犯行に用いた脇差をその場に投げ捨てたまま逃走しました。すぐさま町役人たちによる追っ手が須賀川に向かったのですが、逮捕には至りませんでした。陣屋では、「素人では役に立たぬ。」と言って、金十郎を送り込んだのですが、それも不発に終わっていました。ところが金十郎のところに、白河の小田川の遊び人から、「藤吉が江戸に上るのを見た。」という情報が入ったのです。そこで守山陣屋は、『水戸藩御用』の鑑札を金十郎に与えた上で、「江戸で犯人の捜査に入るときと逮捕の際は、江戸の役人に連絡するように」との指示を与えました。これは江戸市中の警察権は、全面的に南町奉行所と北町奉行所にあるので、これを侵害することは許されなかったからです。その金十郎が、ようやく、いまの茨城県境町で藤吉を逮捕し、連れ戻ってきました。藤吉の養父の元左衛門は、監督不行き届どきとのことで、戸締まりを命ぜられました。戸締まりとは、門を閉ざして家に籠ることです。 『目明かし』の不法行為 仙台權六と名乗るヤクザが、杉沢村、いまの二本松市杉沢の人の女房とその十歳になる女の子を誘拐して金十郎の所に逃げ込んできました。金十郎はこれらの人を、山田村、いまの田村町守山田向にかくまったのです。それを知った守山陣屋は、金十郎の手下の目明かしの新兵衛に命じて、權六らを三春領に追い払わせました。守山陣屋としては、二本松藩から、「權六らを引き渡せ。」という正式の交渉があれば事が面倒になると考え、あくまでも表立てないで、新兵衛の一存で済ませたように処理したのです。しかし陣屋は、今回のことについて、金十郎を厳しく叱っています。 金十郎の失敗 『目明かし』である金十郎がヤクザの立場で不法を犯し、それがバレたことがあります。長沼領畠田村(はただむら)、いまの須賀川市畠田のヤクザであった喜八が金十郎を頼って来たので、大供村の七郎平の家で手間稼ぎをやらせていました。ところが喜八は、無頼者の性格丸出しで、喧嘩好きであったのです。この喜八が酒気を帯び、町で行き会った行商のタバコ売りに近づいて、「タバコをよこせ。」と凄んだので口論となり、乱暴にも喜八は、脇差で斬りつけたのです。知らせを聞いた目明かしの新兵衛が駆けつけ、二人を守山領外に追い出しました。もちろんこのような不祥事が発生したのは、金十郎が目明かしの身分を忘れ、ヤクザの喜八の世話をしたのが原因でした。陣屋は金十郎に対して、今後一切無宿者を世話してはならないと叱責しています。しかし無宿者がヤクザを頼って、そこに巣食うようになるということは、至極ありふれた事情であったのです。
2024.09.20
閲覧総数 68
6

番場峠の悲劇 鎌倉時代の末期に、後醍醐天皇による討幕運動が起こりました。はじめ鎌倉幕府はこの動きを制圧していましたが、だんだんと西国などを中心に手が付けられなくなりました。正慶2年(元弘3年、1333)に幕府軍の援軍として京都に上ったはずの足利高氏(尊氏。当時は高氏)が後醍醐方に付くと、幕府側の形成は一気に不利なものとなってしまいます。 その年の5月7日、幕府側の北条時益は二千余騎の兵を引き連れ、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたのですが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死してしまいます。その後もさらに、北条仲時(28歳)の指揮で落ち延びようとしたのですが再び野伏に襲われたのです。 この逃亡戦の中で、幕府軍は光厳天皇さえ守りきれず、光厳天皇自身が肱に流れ矢をうけて負傷するという事態にまで追い込まれてしまったのです。しかも後陣を固めていた筈の多くの将兵が次々と後醍醐天皇側に寝返ったり、佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれたりしたため、番場峠(滋賀県米原市)に着いた時、二千余騎の兵は五百足らずに減っていたのです。 もはやこれまでと覚悟した北条仲時は天皇や上皇の玉輦を移した後に、「敵は我が首に多大の恩賞をかけていよう。この首を取って足利に渡し、後醍醐天皇への忠義の証とするように」と言って自刃したと伝えられます。ここに至っては残された者も逃げるもならず、番場峠の蓮華寺・一向堂前においてそれぞれの生年と姓名を記して、一族郎党432人が仲時の後を追って自刃をしたのです。それは血の川が流れたと伝えられるほどの、壮烈な玉砕でした。光厳天皇はじめ天皇家の一族は、この大量の自害の血の海に立ちすくむばかりであったと言われます。まもなく光厳天皇および後伏見・花園両上皇らは佐々木道誉に捕られ京都へ引き戻されました。この史実は、『増鏡』、『梅松論』、『太平記』に詳しく記載されています。 この鎌倉期から南北朝期にかけて、福島県の田村地方は藤原姓の田村庄司家が支配していたことが各種史料によって知られていますが、一説に田村庄司は、鎌倉幕府の評定衆であった田村刑部大輔仲能の嫡流であると言われています。この仲能の息子の田村中務権大夫重教が北条時益に従って落ち延びていた途中で消息を絶っているのですが、この自刃した432人の中に京都より重教に同行していた同族の田村中務入道、田村彦五郎、田村兵衛次郎の三名の名も含まれているのです。鎌倉幕府創草期より幕府の文官として活躍した田村刑部大輔仲能の一統は、鎌倉幕府の滅亡に殉じて断絶していったのです(三春町史)。 この蓮華寺には、第3代住持の同阿良向により『陸波羅南北過去帳』が残されています。これは姓名の分かる189名の交名を記したものですが、この寺には自刃した432人全員の五輪塔群も祀られています。このような大事件に、当時の田村の人たちが含まれていたことの方が驚きです。 蓮華寺境内には、番場の名が広く知られるようになった 長谷川伸の戯曲『瞼の母』の主人公『番場の忠太郎』ゆかりの『忠太郎地蔵尊』が本堂の裏山に建立されています。『親をたづぬる子には親を、子をたづぬる親には子をめぐり合わせ給へ』という悲願を込めて建立されたもので、最近は親子縁結びのお地蔵様としてお参りをする人が多いと言われます。また蓮華寺49代窿応和尚の門弟であった歌人の斎藤茂吉の歌碑が、本堂の前庭にあります。 大きな自然石には、『松風の おと聴く時は いにしへの 聖のごとく 我は寂しむ』と刻まれています。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.08.06
閲覧総数 722
7

新刊のご案内です。 10月1日、福島県内の有力書店にて「会津藩、ロシアと対峙す~苦難の樺太派兵」が発売になりました。 この本の表紙には、ロシアという国に比較して会津藩の小ささと、樺太までの距離、そしてタイトルを会津藩と巨大なロシアの間に配置することで対峙を示唆するなど、私なりにこだわってみました。また裏表紙には会津藩の紋所・会津葵と帝政ロシアの国章をあしらってみました。 表紙 ロシアが南下策をとることで日本近海に出没しはじめたのは、すでにアラスカを領有し、はるか南のカリフォルニアにまでその触手を伸ばしていた頃であった。そのロシアに対して津軽や南部、そして仙台などの雄藩とともに北方の警備を命じられた会津藩が担当とされた地域は、北海道の稚内、利尻島、そして樺太であった。 今から丁度二百年前の文化五(一八〇八)年一月、勇躍、雪の会津を出発した一六〇〇名の藩兵は、青森の竜飛岬まで徒歩で行軍、竜飛岬からは北海道の松前を経て海路で稚内へ、そしてここから、それぞれの持ち場へと進駐して行った。その彼らに、思いもかけぬ苦難が待ち構えていた。 このとき派兵された一員に高津平蔵がいる。平蔵は昌平校へ入学し、文化年間に韓国通信使が来日したとき、幕府の代表として師の古賀精里に随行して対馬へ行き、応接した。また藩主容衆、容敬の侍講をつとめた。この彼が記録したのが「終北録」である。しかし「終北録」の内容を見ると意外に軽い、それは何故なのか? これはこの「終北録」を、別の視点から見てみたものである。 「会津藩、ロシアと対峙す~苦難の樺太派兵」の「あとがき」より 今になると、何故、私が『終北録』の存在に気がついたのかを忘れてしまった。しかしネットサーフィンをしていて函館図書館のサイトにたどりつき、『終北録』の原文を手に入れたのがこの話を書くきっかけとなった。それはともかく、この文書は私にとって手の付けられぬ代物であった。会津図書館に行けば現代語訳があるかも知れぬと思って行ってみたが、会津出身で、当時の樺太大泊女学校の校長であった方により一部分が訳されたものはあったが、全文というものはなかった。こうなれば誰かに頼んで訳して貰う他はない。知り合いに持ち込んだが思うにまかせず、これを訳して頂ける大久保甚一氏に出会うのに、さらに一年以上を要した。 大久保氏からキチッと製本された訳文を頂いたのは、二〇〇六年のことであった。それから二年、ようやくまとまってきたが、どうしても知りたいことがあって再び会津図書館を訪れた。ところが司書の坂内香代子さんが持ってきてくれた本に、あの『終北録』の全訳文が載っていたのである。驚いて奥付を見た私の目に飛び込んできたのは、この本の出版が二〇〇六年とあったことである。この二〇〇六年とは、大久保氏があんなに苦労をして訳しておられた時期にあたる。つまりまったく同じ頃、会津若松市も訳していたことになる。それであるから先の時点で、会津図書館が「ない」と言っていたのも、無理からぬことと思った。 そこで念のため、私は会津図書館に所蔵されていた『終北録』の原文と、私が函館図書館から取得した原文をチェックしたのであるが、大変なミスをしてしまっていたのに気がついた。私が函館図書館のHPから取得した原文に、数枚の取りこぼしのあったことを見つけ出したのである。 当然ながら、私はこれらの事実を大久保氏に告げるのに実にきまりの悪い思いをした。一つは『終北録』の欠落についてであり、もう一つは会津図書館に『終北録』の訳文があるのを知っていながら翻訳の依頼をしたと思われるのではないかと心配したからである。とにかく大久保氏には、私のミスのため、重ねて大変なご苦労をお掛けしたことを心からお詫びいたします。 さて本文にも書いたが、会津藩が北方警備に派兵されたのは、文化五年の一月であった。ロシアと戦争にこそならなかったが、帰国の途中で嵐に遭い、難破して船を捨て、徒歩で箱館に向かい、さらに徒歩で同じ年の九月に会津若松に到着した。この年の干支は、戊辰であった。 それから幾星霜。 幕府の施策と藩の思惑。 世界と日本という国の流れに巻き込まれていく会津藩。 北方警備のあった文化五年から六〇年後の慶応四年の戊辰の年の一月、鳥羽伏見の戦いで、会津藩は薩長軍と戦争状態に入った。そして九月、会津に利あらずして鶴ヶ城が落城した。いみじくもこの一月から九月は、北方警備に従事していた期間とまったく同じであった。この戊辰戦争で、北方警備に参加した藩士の多くの子や孫が命を落とすことになった。いずれにしても会津藩は、幕府、つまりは国のために北方警備に従事し、そして戊辰戦争を戦ったのである。これは会津藩にとって、まさに運命の皮肉としか、言いようがないのではあるまいか。 寛延元戊辰(一七四八)年=田中三郎兵衛玄宰が生まれる 文化五戊辰(一八〇八)年=北方警備 筆頭家老・田中三郎兵衛玄 宰死去 慶応四戊辰(一八六八)年=戊辰戦争 昭和三戊辰(一九二八)年=松平勢津子が秩父宮雍仁親王へ入輿 私はこの寛延元年、文化五年、慶応四年、昭和三年という戊辰の年すべてが、会津にとって大きなインパクトのあった年であったことに驚いている。 特に慶応四(明治元)年の戊辰戦争において、多くの者は会津藩の再生を願って斗南(青森県)へ移り、さらには新天地・北海道の開拓に従事していった者がいる。北海道は前の世代が、辛酸をなめつくした土地である。だが彼らの生も決して明るいものばかりではなかった。その暗の象徴を日向三郎右衛門の長男の日向内記に、しかし一縷の明るさを山川兵衛重英の孫の山川兄妹に、そしてその労苦を丹羽織之丞能教の孫の丹羽五郎に見ることが出来る。なお、私の知り得た範囲において、北方警備に参加した人々の子や孫の消息を『資料』として後述する。これら短い説明文に、戊辰戦争の哀しみが読み取れよう。 そして最近、利尻町立博物館に、ある調査の依頼をした。博物館の西谷榮治氏からの懇切な説明や資料とともに、次のような手紙が入っていた。『実は今年は、北方警備から丁度二〇〇年目の節目の年になります。利尻でもイベントの準備をしています』 戊辰という年にばかり気を取られていた私は、二〇〇年目という年にまったく気がつかなかった。自分としてこの話の締め切りを決めていた訳ではなかったが、このような縁のある年に、『北方警備』に関する本の出版へ漕ぎつけていたということに、不思議な縁(えにし)を感じている。 なおこの本はマイナーな歴史のため、福島県内の著名な書店に限らせていただいています。もしご興味がありましたら直接このブログに、または福島民報社事業局出版部(電話024・531・4182)までお問い合わせがいただければ、幸いです。 ブログランキングに参加しました。是非応援して下さい。←これです。
2008.10.04
閲覧総数 638
8

OFF LIMITS 私が最初に三春庚申坂の遊廓跡を訪れたのは、昭和三十三年に売春防止法が施行された後、下宿屋として営業していた頃であるから、大分以前のことになる。古い映画にでも出て来そうな建物であった。現在も花楼、島楼、二葉楼、島村楼の建物は残っているが、その姿は島村楼を除き、無惨に朽ちていた。最盛期にはこれに宮城楼が加わり、女性の定期検診所や仕出し屋の『しんこ屋』などがあったというから、その繁盛ぶりが忍ばれる。元々の遊廓は旧岩城街道の入り口にあり、「奥州三春に庚申坂なけりゃ 旅の馬喰も金残す」と三春盆踊りの歌にもなった所である。ここの近くには、馬の競り場があり、多くの馬が競られていた。明治二十九年(1896)五月、遊郭は、現在の弓町に移転したが、名称は新庚申坂とされ、古い庚申坂の名を踏襲した。 先日、私は友人をこの庚申坂の遊廓跡に案内した。ここに残されている島村楼の前で建物の外観を見ていると、傍らで畑仕事をしていた女性に、「中をご覧になりますか?」と声を掛けられた。聞けばここは彼女の家の持ち物で、ご主人が保存や復元に力を注いでいるのだという。誘われるままに、有難く入ってみると、思った以上に多くの部屋があった。それらの部屋は趣のある調度品などで飾られ、廊下が入り組んでおり、なるほど、昔の遊郭の内部はこんな風になっていたのか、と驚かされた。そしてある廊下の片隅まで来たとき、彼女が「これをご覧になってみてください」と言って壁を指したのです。そこにはOFF LIMITSONLY FOR FUKUSHIMA INFANTRY REGIMENT BY 105th ORDER OF COMMANDER OF 105th INFANTRY(立入禁止 福島第105歩兵連隊専用 第105歩兵司令官命令)と英文で書かれた木製の看板があったのです。屋外に掲示されていたものらしく、FUKUSHIMAの部分はかすれていた。私はOFF LIMITSという単語から、日本人に対して警告書かとも思った。しかし考えてみれば、敵性言語として英語教育がなされていなかった当時の三春町民が、これを読めたかどうかは疑問である。だがこの内容から判断するに、どうも日本人に対しての警告書であったようにも思われる。 『高松宮日記 第八巻』(中央公論社1997年12月発行)に、敗戦直後の様子が記載されている。『北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、通行中の婦女を襲う。汽車の通らぬため歩いている途中、1日数度も襲われる。2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、下の娘は性病に罹る。元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、(引き受け者の)人数不足せるを(補うものを)くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部が襲われる。(慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。』 また『検証・シベリア抑留』(ウィリアム・ニンモ著 加藤隆訳 時事通信社 1991年3月発行)47頁にも、次のように出ている。『要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、口ではいい表せないほどひどいものだった。暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を襲い、抵抗するものは片っぱしから殺した。ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、いまでもぞっとするほど残虐なものだった』 当初、アメリカの日本占領軍は、糸魚川と小田原を結ぶ線以西の西日本をアメリカ第6軍、東日本をアメリカ第8軍が担当することになっていた。しかし日本占領が円滑に進んだこと、第8軍より先に創設された第6軍に復員得点が溜まっている部隊が多かったことなどから、第6軍が撤退して第8軍が日本占領の主力となった。これにより、OFF LIMITSの看板にあった105連隊は、アメリカ第8軍隷下の部隊であったことが分かる。 昭和二十年九月二十五日の福島民報一面によると、『福島・郡山に三千名 米一○五歩兵連隊あすから進駐』『準備は順調 郡山市』とあり、二十九日の一面には、『百五連隊将兵(千百余名)福島市に進駐』、『郡山進駐の第二陣』と報道されている。この記事から、ここに出てくる105連隊は、郡山に進駐した部隊であることが分かった。 外地において、日本女性に対する残虐行為の情報が流れていた日本国内では、占領軍により、『日本の一般女性が進駐軍によって、性的な被害を被る事を防ぐための国策』として、『慰安施設』を用意した。特に『鬼畜米英』などと扇動されていた国民は、占領軍に対しての拒否反応が強かった。その恐怖心からか、敗戦で右往左往するどころか、何のためらいもなく、きわめて迅速に占領軍へ向けてこのような対応が行われたのである。言い方を換えれば、それを可能にする旧来の制度や遊郭という基盤があったことも、その理由であったと考えられる。すると三春庚申坂も、そのような国策的対応の一環とされた結果かも知れず、英文の看板は、それの証明となるものなのかも知れない。戦争においての日本女性の、悲しい歴史の一齣である。 その後、私は、この看板が実際にはどう使われていたかを知りたいと思い、庚申坂の近くに住む元同級生に、当時の庚申坂の様子を聞いてみた。彼曰く、「子どもの頃、アメリカ兵がジープに乗ってここに来たのを、何度か見ている」と教えてくれた。とすると、やはりここは、仮に一時的ではあったとしても、郡山に進駐したアメリカ兵のための遊興施設であった可能性が高い。 私が思うに、このような警告書が残されているのは、日本広しと言えども、ここだけではないだろうか。歴史の証人として、大事に保存したいものである。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.08.16
閲覧総数 393
9

皇居前広場にあった江戸屋敷 東京観光のスポットの一つ、二重橋を正面に見る皇居前広場には大名屋敷が建ち並んでいました。外桜田門、馬場先御門、和田倉門、内桜田門に囲まれていたこの広大な土地にあったのは、たった8藩の大名屋敷でした。、それぞれの屋敷の大きさが想像できると思います。 江戸に住む大名たちは駕籠や馬に乗って登城するのですが、この大名屋敷街に入るとすべての乗り物から下りて徒歩で入城することになっていたようです。そのためこの一角には、馬などを預かる場所がありました。今で言う駐車場でしょうか。とにかく江戸城の眼前である『徳川将軍様のお膝元』とも言える直近のこの場所に上屋敷を構えていた8藩は、その禄高の多寡にかかわらず、徳川家の藩屏たるべき藩と認められたものと思われます。徳川家との並々ならぬ関係とその信頼の大きさが想像できます。 ここにあった8藩の江戸屋敷は、会津藩、泉藩(いわき市)、長岡藩、越後村上藩、福井藩、下総佐倉藩、武蔵忍藩(埼玉県)、美濃高富藩(岐阜県)1万石でした。しかもそれらの藩のうち、親藩の会津藩を除き、そのすべてが譜代でした、親藩とは徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指すのですが、このことが、戊辰戦争において会津藩を苦しめた理由の一つであったのかも知れません。また譜代とは、数代にわたって主家に仕え、家政にも関わってきた家臣のことを指します。 ちなみにこれらの江戸屋敷の規模は、次の通りでした。 二十三万石 会津藩上屋敷 11、878坪 二万石 泉藩上屋敷 4,425坪 七万四千石 長岡藩上屋敷 8,353坪 五万石 越後村上藩上屋敷 7,675坪 一万石 福井藩上屋敷 3.861坪 十一万石 下総佐倉藩上屋敷 8,104坪 十万石 武蔵忍藩上屋敷 6,231坪 一万石 美濃高富藩上屋敷 4,259坪 これら面積には多寡があるにしても、広大であるには違いない。戊辰戦争の際、この8藩のうち新政府側に立ったのは、福井藩と美濃高富藩である。福井藩の場合は、本藩の小浜藩とともに新政府側に与し、北陸道鎮撫使の先鋒役を務め北陸道鎮撫使先鋒となっている。福井藩が福井県、高富藩が岐阜県にあったことから、地域的に新政府側につくのはやむを得なかったと思えるが、忍藩の場合は少し事情が違った。鳥羽伏見の戦いでは幕府側として戦ったが、のち新政府に帰順し、新政府側として会津にまで出兵している。必ずしも8藩すべてが、徳川方として戦った訳ではなかった。 明治五年三月二十六日、和田倉御門の近くにあった無人の旧会津藩上屋敷から出火し、現在の皇居前広場にあった江戸屋敷のすべて、それに現在の丸の内、有楽町、中央区の八重洲にあった江戸屋敷の街、さらには日本橋、京橋、銀座、築地、明石町、新富町、入船町の商人町を焼く大火となった。江戸屋敷と同時に、大名火消しがいなくなったことも理由の一つだったといわれる。ともあれ家屋が燃えてしまったために、江戸屋敷跡地はさらに寂しい場所となってしまったのである。 江戸は東京と名を変えたが、この広大な空き地に音を上げ、陸軍の練兵場や海軍で使用、さらに役所などに転用した。市ヶ谷自衛隊は、そのときの一部である。それでも空いた土地は、安くして一般に売り出し、桑畑や牧場に使用された。例えば青山墓地は、岐阜県にあった郡上青山藩の江戸屋敷の跡地であった。まったく今では、考えられませんね。 泉藩の第6代藩主本多忠紀は、幕末期の幕政に寺社奉行・奏者番として参与している。2万石とはいえ、譜代の面目躍如というところであろう。しかし戊辰戦争では隣の平藩に従って幕府軍に与し、新政府軍と戦って、戦死者3名を出している。このため2千石の厳封となり、忠紀は官位剥奪の上強制隠居を余儀なくされている。 越後長岡藩は、小林虎三郎の恭順論もあったが、家老・河合継之助が軍事総督に就任、藩の生殺与奪の権を掌握して主導権を握った。徳川家の政権回復を前提に公武合体論を唱えながらも、ミニール銃、ファーブル・ブランド砲を備えた。いわば衣の下に鎧をちらつかせる武装中立路線であった。小千谷(おぢや)での新政府との会談が決裂すると戦端が開かれ、長岡城は陥落するが、河井はこれを奪還。ふたたび新政府によって落城すると、敗残の兵士は会津に走ってなおも抗戦を続けたが254人が戦死。9月25日に降伏している。 越後村上藩の第6代藩主・内藤信敦(のぶあつ)は、寺社奉行・京都所司代を務め、その子で第7代藩主・内藤信思(のぶもと)は大坂城代・京都所司代・老中などを歴任している。しかし信思の養嗣子で第8代藩主となった内藤信民は藩内における方針対立に苦しみながら、慶応4(1868)年7月16日に早世した。このため村上藩は藩主不在となり、家老で佐幕派の鳥居三十郎が主導権を掌握する。村上藩は新発田、村松、黒川、三根山、長岡の諸藩と共に、奥羽越列藩同盟に加盟し、三十郎は庄内藩と共に旧幕府軍に与して新政府軍と交戦したが、敗れて同年9月27日に降伏した。 下総佐倉藩は、幕末に老中を努め、ペリー来航以降、外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで奔走するが、井伊直弼の大老就任で老中を罷免され、蟄居した。勤王、佐幕と藩内が紛糾するなかで、平野縫殿重久の主導によって勤王に決し、1153名が出兵し、3名の戦死者を出した。 武蔵忍藩は鳥羽・伏見の戦いにおいて幕府軍の一員として出兵したが、のち新政府に帰順し、会津攻撃に加わった。大政奉還後、第4代藩主・忠誠は幕府と新政府のどちらに与するかを迷い、藩論もそれによって分裂する。翌年、戊辰戦争が起こると前藩主・忠国の主張もあって藩論は新政府側に与することで決し、忍藩は会津に出陣した。 美濃高富藩は、本庄道美(みちよし)の時代になると藩財政は完全に破綻し、慶応四年には藩内で打ちこわし、百姓一揆が起こった。この頃、高富藩は二十万七千四百両もの借財を抱えていた。藩内の庄屋をはじめとする豪農にも多額の借財があったが、その大半は後の版籍奉還で証文のまま終わっている。藩政では先代道貫からの藩政改革を引き継いだが財政は好転せず、慶応二年には藩札を乱発、さらに農民からの収奪を厳しくしたために慶応四年には一揆が起きた。同年からの戊辰戦争では新政府軍側に立ち、新政府軍の中山道通行にあたっては苗木藩とともに協力し、さらに御所番を勤めた。 また理由は不明ですが、小藩ながら磐城泉藩もここに構えていました。同じ戊辰戦争において、平潟港(北茨城市)に上陸して北上した新政府軍に、磐城泉藩は磐城湯長谷藩と宗家筋にあたる磐城平藩ともども壮烈な戦いを挑み、敗れています。この上屋敷があった位置と、何らかの関連があったのかも知れません。この会津藩と磐城泉藩の江戸屋敷は、次のようなものでした。 ●会津藩 二八万石(松平氏)・中屋敷 港区東新橋三丁目 汐留貨物駅 29495坪・中屋敷 港区芝一丁目 JR線路敷 16438坪・ 下屋敷 港区三田二丁目慶応大学付属中高 33222坪・ 抱屋敷 江東区扇橋二丁目 東京製粉 3293坪 抱屋敷とは土地の権利者から借りて作ったものですが、ここが小名木川に面していることから大阪への回米基地として利用していたとも思われます。 ●磐城泉藩 二万石(本多氏)・中屋敷 港区赤坂二丁目 赤坂パレス 2900坪 ただしこれらの屋敷の面積は、現在の建物とは必ずしも一致しません。ランドマークとしてご覧頂きたいと思います。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2019.01.15
閲覧総数 3567
10

江 戸 屋 敷 江戸時代には参勤交代の制度があり、それぞれの藩が江戸に屋敷を構えていました。いわゆる江戸屋敷です。江戸屋敷は大名の奥方などが住み、また大名が江戸に滞在するための邸宅でした。通常は上・中・下(かみ・なか・しも)の三屋敷があり、上屋敷はいわば本宅で大名本人や家族が、中屋敷には隠居した大名や嗣子が住み、下屋敷は別邸として使われていました。全国で300藩と言われていたから、単純計算(300×3)で約900の江戸屋敷があったことになります。「今なら900所帯だから東部ニュータウン程度か」と思われるかも知れませんが、さにあらず、大名屋敷の坪数はとてつもなく広かったのです。 例えば金沢藩の上屋敷は約十万三千坪、下屋敷が二十一万八千坪、水戸藩上屋敷は約十万二千坪と膨大なものでした。ちなみに二十一万八千坪は、正方形とすれば一辺約850メートルになります。ですから郡山駅を基点に考えますと、西はホテルハマツ、南は市民文化センター、西はイオンタウンという広大なものになります。 このように江戸の6割が武家地、2割が寺社地、残り2割が町地であったのです。それですから大名屋敷は大雑把に言って今の山手線の範囲にあったのです。江戸の経済は、幕府と寺社と大名屋敷の需要でもっていたことになります。 ●二本松藩 十万石(丹羽氏) ・上屋敷 千代田区永田町衆議院第一議員会館 11185坪 ・中屋敷 港区南青山四丁目青南福祉会館 9407坪 ・下屋敷 港区海岸一丁目東京ガス本社 3415坪 ● 守山藩 二万石 (松平氏) ・上屋敷 文京区大塚三丁目筑波大学付属小 18060坪 ・中屋敷 文京区大塚四丁目12番地周辺 12519坪 ・抱屋敷 墨田区本所一丁目35番地周辺 1017坪 ● 三春藩五万石 (秋田氏) ・上屋敷 港区新橋五丁目24番地周辺 4300坪 ・中屋敷 港区麻布台二丁目 ロシア大使館 3836坪 ・下屋敷 渋谷区代々木三丁目文化女子大学 4132坪 三春藩の江戸屋敷は特殊な構成でした。五千石を分与された旗本秋田氏の拝領屋敷を、三春藩が米の相場の立つ大阪への海上輸送基地として使ったと言われているからです。 ●旗本秋田氏 五千石 ・居屋敷 中央区築地四丁目 電通本社周辺 1881坪 ・拝領屋敷 江東区平野一丁目老人福祉センター 7110坪(文字数に制限があるため、『街・こおりやま』とは、若干の違いがあります) ブログランキングです。←これをクリックして下さい。現在の順位が分かります。
2010.03.01
閲覧総数 308
11

奥羽の地は都人から見て辺境の地であった。ある意味で外国、という感覚であったのかも知れない。奈良時代(710~794)に作られたとされる勿来の関は、来る勿れ(来るな)という意味が示すように、エミシの南下を防ぐ目的で設置された防御点であったらしい。白河関はそれより早くて5世紀前半、少なくとも645年の大化の改新の時に文献に出ることから、その頃に作られたと思われる。 大化元(644)年、中国唐王朝二代目の皇帝・太宗は、高句麗遠征の詔を発した。この決断は、高句麗、百済、新羅の朝鮮三国と日本を30年にもわたって巻き込む大戦乱の幕開けとなった。朝鮮半島の東西で覇を競っていた百済と新羅は、朝鮮北部の高句麗から強い圧迫を受けていた。そこで高句麗と連合した百済に押された新羅は唐に接近、そのため百済は、唐と新羅の挟撃を受けて苦戦していた。そうみると日本海側を北上していった城柵が河口港周辺に設置されて行ったのは、対朝鮮半島軍事経略上の最適場所であったからだと考えられる。熾烈化する朝鮮の戦乱に対して、武力を背景に有無を言わせずエミシを大和の政治機構に組み入れ、防衛体制を整えようとしたのであろう。 大化三(647)年、大和は渟足柵(ぬたりのき)を、その翌年には磐舟柵(いわふねのき・新潟県村上市)を築いた。渟足柵や磐舟柵が作られたことから、福島県においてもエミシと大和の境界線が県の中央部、つまり現在の郡山市周辺にまで進出してきたと考えられる。神話の『国土創成』が参考になる。今の福島県から北は道奥(みちのく)と言われた。そのためか、助川(茨城県日立市の宮田川か?)あたりは『道の前(みちのくの入り口の意)』と呼ばれ、陸奥国苦麻村(福島県双葉郡大熊町熊)は『道の尻』と呼ばれていた。古代、この間は常陸の多可評(たかのこおり)であった。その後それが常陸と磐城に分割されたのである。いずれ『道の前』と『道の尻』は、対になる地名である。 その後大和は勿来と白河関を底辺として阿武隈川流域に南から白河、石背、阿尺、安達、信夫に郡衙を置き国造を派遣した。白河には関和久遺跡と借宿廃寺が、須賀川には栄町遺跡と上人坦廃寺、郡山には清水台遺跡と清水台廃寺、二本松には郡山台遺跡と西地区寺院、福島には五老内遺跡と腰浜廃寺が残されている。これらの郡衙は多賀城の下部機構として整備され、律令時代の地域に根ざした地方役所となった。一説によると、郡衙は正倉院(米倉)・郡庁(行政施設)・館(宿舎・厩)・厨院(調理棟)など約40棟で構成されていたとされるが、福島県域にあった郡衙にこれらのすべての施設が揃っていたかどうかは不明である。とは言っても、これらの郡衙と廃寺跡は、大和が北流する阿武隈川の西側に沿って壮大なくさびを打ち込んだ、ということになるのではあるまいか。これらの郡衙と寺院は、非常に近い場所か同じ場所に併設されていた。ここで注目すべきは、これらの施設全部が阿武隈川の西側であったということである。 そしてそれに対応するかのように、阿武隈川の東には日本武尊の神社が数多く残されている。(資料1~2 参照)ところで日本武尊は大和側の人である。天皇の命令でエミシを平定に来たのに、なぜ日本武尊はエミシの地に神として祀られたのであろうか。それに対する一つの推定が、常陸風土記にある。それには、日本武尊が井戸を掘るなどして地元に貢献したと記述されている。そこから考えられることは、日本武尊の恩に報えるため、エミシが自分たちの集落にこれらの神社を勧請したと考えてもよいのかも知れない、またそれは、大和に服従したという証明にしたとも思われる。つまりこの阿武隈川の東側に日本武尊を祀った神社が数多くあることから、日本武尊に平らげられはしたが、もともとはエミシの土地であったということではなかろうか。このなだらかに起き伏す山並みが、狩猟採集に向いた土地であったのかも知れないからである。 稲作文化の伝播による大和の進出は、この時期あたりまでではなかろうか。これ以後、大和の武力による進出は足を速めるのである。斉明天皇の4(658)年、阿倍比羅夫は船180艘を連ねてエミシ征伐のため日本海沿いに蝦夷地(北海道)の後方羊蹄(しべりし)にまで侵攻した。しかしこれは点の確保であって、面としての確保ではなかった。海からの北進は、大和にとって是非とも確保したい重要な地域だったと思われる。ただこの後方羊蹄は北海道ではなく、青森市後潟字潟山にある尻八(しりはち)館だとする説がある。青森県立郷土館によると、この館は古いアイヌの砦を土台として安東氏が築城したものだと言う。しかし、土地を収奪される側としてのエミシの抵抗が強くなっていく。そのためこの阿倍比羅夫侵攻の事実だけでエミシと大和の境界線は津軽海峡であったとは言えない。いずれエミシの問題への対応の重点が、戦乱の朝鮮半島に近い日本海の側に転じたということなのであろう。 一方、唐と新羅の連合軍に敗れた百済の人民は、大和に逃げてきていた百済王子を擁立することで大和に援助を要請した。これに応じた大和は、斉明天皇の七(661)年、百済への派遣軍を出発させた。 天智天皇二(663)年、阿倍比羅夫を将として百済に派遣された大和の水軍は、朝鮮錦江河口の『白村江の戦い』(百済復興戦争)で唐の水軍と戦い、大敗を喫した。この戦いは、大和が鉄を得るため加勢の兵を出したとも言われ、その後、鉄の武具で地方を平定していくことになる。大和は、唐と新羅による反撃を恐れた。翌六六四年、中大兄皇子(ナカノオオエノミコ) が防人(さきもり)と烽火(のろし)の制度をつくり、対馬、壱岐、筑紫に水城を築いて防衛に当たらせることにした。そのときに集められた兵士たちが防人である。兵士の一部は1年交代で衛士(えじ)として上京、また一部は3年交代で北九州に防人として出て行った。このときの軍団は全国に配置されていた常備軍で、通常、兵士1000人で一団が編成された。兵役は公民の義務で一般から徴発され、武器、食料自弁の農民兵であった。 防人には東国の人たちが選ばれた。なぜ東国の人たちが選ばれたかは良く分かっていないが、一説には東国の力、つまりエミシの力を弱めるためとも言われている。任期は、3年で毎年2月に兵員の3分の1が交代とのことであったが、実際にはそう簡単には故郷に帰してもらえなかったようである。東国から行く彼らには、部領使(ぶりょうし)という役割の人が引率をし、徒歩で北九州まで行く訳であるが、当時の人たちにとって辛い旅だったことは間違いがない。そしてせっかく任務が終わって帰路についても故郷の家にたどり着くこと無く、途中で行き倒れとなる人たちも少なくなかったのである。 防人には、今の福島県域の人たちもいた。そしてこの人たちが、エミシ人であったともそうでなかったとも、証明するものはなにも残されていない。この派遣には、『福島エミシ?』の力を殺ぐということも考えられていたのかも知れない。九州に送られた防人たちの歌が万葉集の巻20に載せられている。 会津地方には、『君をのみ しのぶの里へ ゆくものを あひずの山の はるけきやなぞ』 の歌があり、中通りには『あひ見じと 思いかたむる 仲なれや かく解け難し 下紐の関』、 そして浜通りには『筑紫なる 匂う娘ゆえに 陸奥の 可刃利乙女の 結ひし紐解く』などの歌があり、この他にも多くが残されている。 これらの歌から、この徴兵は福島県全域でも行われたことが分かる。そしてこれらの歌のほとんどは、家族と離ればなれになる悲しさや、夫が遠くに行ってしまう悲しさ・不安・無事を祈る気持ちを詠んだものであった。しかし上に立つものには、彼らの士気を鼓舞し、出征させなければならないという別の配慮があった。次のような歌がある。『今日よりは 返り見なくて大君の 醜(しこ)の御楯と 出で立つ我れは』『海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ』 万葉後期を代表する8世紀の歌人・大伴家持の和歌である。福島県域からどの程度の人数の防人が徴兵されたかは不明である。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。久しぶりにトップが入れ替わりました。2010/10/20 231人中第34になりました。ご協力ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。今までの経緯1位 2010/4/18 215人中 36位2位 2010/7/30 208人中 39位3位 2010/4/17 218人中 41位
2010.10.20
閲覧総数 791
12

戸来村(へらいむら)のキリストの墓 昭和三十年に周辺の村が合併、新しく新郷村が誕生し、旧来の戸来村は青森県三戸郡新郷村大字戸来となった。この戸来には不思議な場所がある。キリストとその弟イスキリの墓とされた二つの墓である。国道454号線沿いの小高い丘の最も高い場所には十字架が立てられ、二つの丸い塚が並んでいる。この墓の周囲は綺麗に整備されており、『キリストの里公園』と名づけられていた。公園の説明板によると、『イエス・キリストは21歳の時に来日し、神学修行を重ねた。33歳の時にユダヤに戻って伝道を行ったが受け入れられず、十字架刑に処されそうになったのだが、弟のイスキリが身代わりとなって死に、キリスト本人はシベリア経由で日本に戻り、現在は新郷村の一部となっている戸来村で106歳まで生きた。』とある。この二つの墓のうち、一つはキリストを埋葬したもので、もう一つはイスキリの遺髪を納めた墓だという。墓のそばには、イスラエル大使がこの地を訪れたことを記念する石碑がある。また新郷村の村長もイスラエルを訪問したとき、現地で新郷村とそっくりの風景を見たと話していたそうである。 エルサレムにキリストの墓と信じられているところが二つある。 一つはエルサレムにある聖墳墓教会であり、もう一つは旧城壁外にある『園の墓』であると伝えられている。しかしこのどちらにもキリストの遺骸は無い。キリストは十字架上で死に、葬られたが復活し、40日後に天に昇ったとされている。したがって、いったん葬られた場所は存在するが、遺骸は地上には残されていないことになる。ところで戸来の墓のそばには、『キリストの里伝承館』という資料館がある。ここにはかって、村で使われていた農耕具や衣服と並んで、今も戸来に暮らしている『キリストの末裔の写真』とか、戸来とユダヤのつながりを示すという証拠の品、それに日本語で書かれた『キリストの遺言書』などというものが展示されている。それらによれば、十字架刑を逃れたキリストは戸来に逃れ、名前を十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と変えて戸来の女性と結婚し、3人の娘を育てたとされる。またこの戸来の地名は、ヘブライが訛ったものと言われ、父親を「アヤー。」、母親を「アッパー。」と呼ぶのも、イスラエルでの呼び方と似ているという。そのほかにも、キリスト教などにまつわるという風習も残されているという。 例えば戸来には、生まれた子供を初めて屋外に出す時、その額に墨で十字を書く風習があり、足が痺れた時には、人差し指に『つば』をたっぷり付けて足に十字を三回書くという。また亡くなった人を埋葬した場合、墓の上に3年間は十字の木を立てるという風習もあり、『ダビデの星』を家紋としている家もある。この墓のある場所は、もともと戸来の旧家である沢口家代々の墓所の一角であったという。村役場の話によると、キリストの子孫とされる沢口家には、目が青く鼻が高い日本人離れをした風貌の人物がおり、村人の間では、「天狗が住んでいる。」と言っていたという。ところが、キリストの墓を守り続けてきたという沢口家に、キリスト教徒はいない。 キリストの墓として整備される以前からここにあった二つの土まんじゅうについて、戸来では古くから、「偉い侍の墓。」と語り継がれてきたが、本当は誰の墓であるかは分かっていなかった。それが『キリストの墓』と断定されたのは、昭和十年(1935)のことであった。茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇大神宮の竹内家に伝わる『竹内文書』という古文書に、キリストの日本渡来について記されていたというのである。この皇祖皇太神宮は、はるかな昔、日本の天皇(スメラミコト)の祖先が地球に降り立ったころの天神七代、二十六朝六十八代、そして神武朝から現代までの代々の天皇、皇后を合祀したお宮であり、すべての神々を祀る神宮(たまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教すべてを包括する神宮とされ、『竹内文書』は、世界最古の歴史を記録したものと言われている。 この竹内文書は、古事記や日本書紀以前の日本古来の文字であるということから、神代文字(かみよもじ)と言われる。そのうちの一つ、阿比留文字は、対馬の阿比留家で発見されたものと言われ、竹内巨麿(おおまろ)の『竹内文書』や『九鬼文書』に使われていたとされている。江戸時代からその真贋について議論の対象となっていたが、偽作と主張しているものが多く、特に阿比留文字で書かれていた『竹内文書』は偽の文書ではないかと言われ、最高裁判所でもその真偽が争われた謎の文書である。しかし原典は、東京大空襲によって焼失した。 この竹内文書の中に、『ゴルゴダの丘で磔刑となったのは、実はキリストではなく弟のイスキリであった。キリストは弟子と日本に逃れ、青森県において十来太郎大天空(とらいたろうだいてんくう)と名を改め、後にユミ子という名の女性と結婚して三人の女の子をもうけ、106歳の天寿を全うしてこの地に葬られた。』とあるという。『キリストの里公園』の案内板は、ここから取られたら文と思われる。竹内巨麿がこの記述を頼りにこの地へ訪ねて来て、墓をキリストのものと断定したのである。翌・昭和十一年には考古学者の一団が『キリストの遺書』なるものを発見するなどして以来、戸来は一躍世間の注目を集めるようになった。また、次のような話がある。それは、日本の皇室の菊の花弁が16枚なのは、今のイスラエルの地域に16の種族が住んでいたからである、というものである。 キリストの伝承は、戸来の集落の中で受け継がれてきたものではなく、周囲から騒がれて浮かび上がってきたものである。ある村職員によると、村起しのために、キリスト伝承に関わる物品の提供を住民に頼んで回ったが、戦前戦中を集落で過ごした人の中には、「キリストの墓がある村の者」ということで嫌な目にあったせいか、一切関わりを持とうとしなかった人もいたという。敗戦後、この墓は、忘れられた場所になっていた。 新郷村として、キリスト渡来説をどう捉えているのであろうか。ある関係者は「村の人たちで本気にしている人はあまりいないかもしれない。」と明かすが、同村企画商工観光課の堀合真帆主事は「私自身は、キリストの墓が本物である可能性はあると思っています。本当だったらいいなという感じです。」と期待を寄せている。村起しのこともあってか、昭和三十八年に、第一回キリスト祭が開かれた。神父が招かれ、みんなで賛美歌を合唱したが。これが村民たちの間では、「祭りにはなじまない。」と不評であった。そのため翌年からは、地元神社の神主が墓前で祝詞を上げる形式になったという。新郷村役場によると、「村にはクリスチャンは一人もおらず、キリスト教会もありません。」とのことでありこの地が隠れキリシタンの里だったというような話もないという。 それでも昭和三十九年(1964)からは、毎年六月の第一日曜日に、キリスト祭が開催されている。当初は村の商工会、その後は観光協会を中心に運営されているが、キリスト祭というにもかかわらず、祭りは神道式で行われている。神主が墓に向かって祝詞をあげ、来賓が玉串奉奠を行う。そしてそのフィナーレは、出席者全員がエルサレムの方角を向き、ナニャドヤラワインで乾杯をするという。その後は墓を囲んで、集落に伝わる盆踊り『ナニャドヤラ』が奉納されて、祭りはクライマックスに達する。この踊りの唄の文句が、次の様なものである。 ナーニャード ヤラヨウ ナーナャード ナアサアレ ダハアデ サーエ ナーニャード ヤラヨ 岩手県出身の神学者・川守田英二博士は、「この唄は、古代イスラエルのヘブライ語で書かれたもので、イスラエル軍の進軍歌である。」と言っている。この意味は、 御前に聖名をほめ讃えん 御前に異教徒を討伐して 御前に聖名をほめ讃えん という意味であると言う。しかし民俗学者の柳田国男氏はヘブライ語説を否定し、『なにヤとやーれ なにヤとなされのう』が訛ったものであり、 『なんなりとおやりなさい なんなりとなされませんか なんなりとおやりなさい』と訳している。これは祭りという特別な日に、女が男に向かって呼びかけた恋の歌であるとしておられます。土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていたというのです。このことは、この地方でも踊られていた盆踊りと、一脈、相通づるものがあると思っています。 この祭が奇祭として再び脚光を浴びるのは、昭和四十五年(1970)代のオカルト・ブームとは無縁ではないと言われます。オカルト雑誌や伝奇小説で、この『キリストの墓』はたびたび取り上げられ、高橋克彦氏や斎藤栄といった著名な作家たちも、これを創作に用いています。大きな十字架の周りで着物姿の女性たちが踊るこの踊りは、かなりのインパクトがあると言われます。ここのキリスト祭は、テレビやガイドブックで日本有数の奇祭として取り上げられたこともあり、特に平成十年代以降はSNSで拡散されたこともあり、新郷村はB級観光地として全国的に知られるようになりました。この祭りには、毎年数百人の観光客が詰めかけると言いますから、人口2500人程度の村にとっては、かなり効果のあった祭りのようです。 このナニャドヤラは、一音一音をはっきり発音しないと、地元の人でも噛んでしまうと言われ、言いづらいことでも有名のようです。ナニャドヤラの踊りは、太鼓の音に合わせて流れるように踊るのですが道具などは持たず、『日本最古の盆踊り』であるとも言われます。踊りに定型はなく、地域によって、あるいはひとつの地域に何種類も伝わっており、南部地方以外の人にはニャンニャンと聞こえるため、『南部の猫唄』と呼ばれていたと言われます。現在でもこの踊りは、岩手県洋野町大野の『北奥羽ナニャドヤラ大会』や青森県新郷村の『キリスト祭り』でも踊られているそうです。 ところでこの墓を本物だと信じる村人はいないという。むしろ、外からやってくる観光客の中には、墓を本物だと信じている人がいるという。それでは、村人にとってこの墓は、年に一度のイベントを行うための観光資源に過ぎないのであろうか? キリスト祭を司式する神主によれば、「埋葬されているのが誰であれ慰霊は大切だ。そして万が一、墓の主がキリストであっても、八百万の神を祀る神道にとって何ら問題ない。」という。祭りのスタッフとして働く村職員も、葬られている人は村の先祖であり、古くからある墓の一つである、という認識のようで、少なくとも戸来集落に住む人たちにとって『キリストの墓』とは、墓の中身にではなく、自分たちが続けてきた供養を大切にしようとしていることなのかもしれない。 この話は、『むかし昔、ヘライの村というところに、キリストという神様が住んでいました。』とでもいうお伽話として読んでいただければいいな、と思っています。 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.08.15
閲覧総数 810
13

蝦夷とアイヌとマタギ 中世以降、日本人は北海道を蝦夷地と称してきました。そのため北海道に住むアイヌ人を蝦夷人の直系と考える人も多いのですが、現在では蝦夷人は絶滅し、アイヌ人とは別の人種であったとされています。この頃から狩猟で生活をしていた人たちの中に、マタギといわれる人たちがいました。マタギには又鬼(またぎ)、狐、秋、級剥、猫人などの漢字をあてていました。 ところで、蝦夷とアイヌとマタギの間に、熊祭りなど文化や風俗習慣に似たところがあり、またマタギが使う山言葉(山に入ったときだけに使う言葉)にはアイヌ語と共通するところがあったと言われます。 マタギにはその地名を冠して○○マタギなどと言われましたが、主なものに次のような集団がありました。 青森県 西目屋 岩坂 岩手県 沢内 宮城県 仙台 秋田県 阿仁 根子 笑内 打当 戸沢 山形県 大鳥 五味沢 長者原 小国。 福島県 檜枝岐 只見 新潟県 三面 長野 秋山郷 しかしこうしてみると、不思議に東北地方や新潟県に限定? されるのですが、これは陸奥、つまりは蝦夷と関連するのでしょうか。これらのマタギは、昭和10年の頃からライフルなどの武器を使うようになり、団体の狩猟から個人に変化してマタギという集団自体が消滅していきました。 さて豊臣秀吉の奥州仕置で領地を没収された三春・田村宗顕(伊達政宗の 正室 愛姫の従弟)の次男は仙台で愛姫に育てられ、男猿(おさる)と名付けられました。命名式には政宗夫妻と片倉小十郎などの重臣が出席しているのですが、彼は、仙台マタギ(青葉流)の元祖とされています。 通常マタギは里に住んで農作業などを行い数名が一組で狩りをするのに対し、男猿は勢子2500名を引き連れ、実働三日間で獲物3100余頭といいますから、軍隊と言ってもよく、その流派とともに、異質なマタギであったといえるでしょう。 男猿が統率していたマタギの集団がその鉄砲の技量を生かし、時に応じて伊達軍の鉄砲隊としても活躍したそうです。特に天正17年の(猪苗代)摺上原の戦いでは、会津の蘆名義広を破った伊達軍の急先鋒を努めたと言われています。参考文献1997 仙台マタギ鹿狩りの話 毛利総七郎・只野淳 慶友社ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2014.10.16
閲覧総数 1839
14

符 丁 と 隠 語 土蔵を片付けていて、明治十六年に芝区新卸町の小西松之助が届け出た(どこへ届けたかは不明)という『諸商人通用符帳』なる1枚の古い紙を見つけた。 符丁(符帳・符牒)とは、同業者間や店内でのみ通用する数字を表す言葉で、顧客が近くにいる時など客に知られずに必要な金額を知らせ合うために使われたのが一般的であった。しかし品数の少なかった初期の商いでは、自己の全ての扱い商品の価格が頭に入っていたので、このようなものを必要としなかったと思われる。ところが商業の発展とともに、その扱い商品が覚え切れないほど増えていったことから、符丁のような便法が考えられたのであろう。 この符丁が、いつの頃から使われはじめたのかは分からないが、商品の種類が増え、商店でも使用人を使いはじめた頃からと想像することができる。当時、大抵は商店と客の間で価格交渉が行われたことから、仕入れ値などを客に知られるのは商店にとって不利であった。そのため、価格や等級などを同業者間で、また店内で客の応対をする番頭・丁稚に対して、客に知られないよう秘密裏に伝える方法が符丁であった。また符丁は、商店が値段を示す印であったが、その店の印(シンボル)ともなっていた。 卸問屋の商家に育った私は、小さい頃から店の符丁を教えられた。原価符丁は『アサヱビスヨロコブトク』であり、卸符丁は『シアワセノメデタキカオ』であって、それぞれに1から0、最後の文字は並び数字に当てられていた。具体例として、『アスク』や『シノオ』と言えば、155を表した。但し原価符丁を割って売るのは厳禁であり、小売店には卸符丁で、一般消費者には卸符丁を超えて売るのが鉄則であった。しかしこの符丁も、番頭が暖簾分けで独立するなどで次第に拡散する。恐らく我が家の符丁も、明治になってから新しく作られたものと思われる。 符丁には紙片に暗号で記入する文字符丁、口頭で隠語を伝える口唱符丁、手ぶりで伝える手ぶり符丁がある。しかし今日の各業界ではコンピューターの発展もあって文字符丁は廃れ、口唱符丁は業界内隠語へと変わった。例えば、あるデパートの「ひまわり会からのお知らせです」と言う館内放送は、ある非常事態が発生した際、店員に知らせて館内の客を安全に誘導して避難させるための緊急放送だという。もちろん、それぞれのデパートや大型店によってその暗号の文章は違うが、それらの暗号の大半は、売り場でのミスや客の忘れ物、さらには店員への連絡などに使われているという。その他に現在でも手振り符丁は、取引所(市場、競売所)などの『手セリ』などで使われている。 明治十六年に印刷されたこの『諸商人通用符帳』の一部を紹介すると次のようなものがあるが、この他のものは記号や漢字交じりのため、ここへ文字としての掲載ができない。しかし、なかなか意味深のものもある。写真を掲載したので参考までご覧になっていただきたい。 数字 1234567890— 本 屋 チョットノオモヨロウ 木綿屋 イセマツサカチラシフネ 芸者屋 ヨノナカワフタリヅレ 茶 屋 ヲチサンワイマニクルヨ ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.01.06
閲覧総数 1202
15

朝鮮通信使史 朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、永和元(1375)年、足利義満により派遣された使者と国書に対する朝鮮王朝からの返礼として、朝鮮から信を通わす使者、つまり通信使として来日したのがはじまりです。しかしその慣行となる第1回目の朝鮮通信使の派遣は、53年後の正長元(1428)年になるまで待たなければなりませんでした。その後も11年後となる永享十一(1439)年、さらにはそれから、15年後の嘉吉三(1443)年に訪れていますが、時期の間隔が大分空いていました。ともあれ室町時代の朝鮮通信使には、日本の国情視察の目的も密かに含まれていました。例えば正長元(1428)年に来日した使節に同行した書記官の申叔舟が著した『海東諸国紀』によると、倭寇禁圧要請と併せて倭寇の根拠地の特定、倭寇と守護大名、有力国人、土豪との関係、都市部の発展状況や通貨政策など日本の国力状況の観察、さらには仏教の展開状況をはじめ15項目の調査内容があったといわれます。 この朝鮮通信使を、広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すのですが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は、狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多いのです。その江戸時代の天正十八(1590)年から文化八(1811)年にかけて、朝鮮通信使は12回訪れています。この「朝鮮通信使」という表現は研究者によって造作された学術用語で、史料上では「信使」・「朝鮮信使」として現れます。また徳川幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節と同じように「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「朝鮮聘礼使」などと称し、一般でもそのように呼ばれていました。 正長元(1428)年、日本に来た朴端生が、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作らせたり、銀メッキ、造紙、朱紅、軽粉などの製造法を本国に報告しています。また調査は、日本の貨幣経済の実態にも及び、それが各種の技術にまで言及していたのは、渡航前に朝鮮王から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからだとされています。水車はこの時点から百年以上も前の「徒然草(第 五十一段)」にも記されていることから、すでに農民達の手で取り付けられていたと考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられています。また朝鮮では物々交換の時代であったため貨幣や商業を知らなかったので、「日本の乞食は銭を乞う」と驚きをもって記録しているそうです。しかし室町時代の末期になると、日朝・日明貿易が盛んに行われるようになり、その実権が各地の大名に移ることになりました。そのために大名たちに力を蓄えさせることになり、足利幕府の支配力が薄れる結果となったのです。 朝鮮通信使は、室町時代に3度来日した他に、長禄三(1459)年や文明十一(1479)年にもその計画があったのですが、実現はしませんでした。また正使が任じられたものの計画自体が中止とされたことが応永二十(1413)年と文明七(1475)年の2度ありました。これは朝鮮側からの使者の予定者が死亡したことや、嵐による渡航の危険が理由とされたのですが、日朝貿易の不振によって必要性が減少したため、と説明されることもあります。その後豊臣政権まで約150年間にわたって、相互の交流は中断されました。 このように、しばらく途絶えていた朝鮮通信使ですが、天正十八(1590)年になって、日本に派遣されてきた朝鮮通信使は、名目上は豊臣秀吉の日本統一を祝賀が目的でしたが、実際は、秀吉による朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめるために派遣された通信使でした。このとき正使と副使は対立関係にあり、そのような中で朝鮮王に、正使は「侵攻の意思あり」と報告したのですが、副使は「侵攻の意思なし」と報告し、結果として朝鮮王に近い副使側の意見が採られました。ところが文禄元(1592)年、日本の各大名は、豊臣秀吉の命令により朝鮮に出兵しました。この文禄の役の際、日本軍が一気に平壌まで侵攻したのは、この副使の報告に従って、なんら戦いの準備をしていなかったからとされています。さらにこのとき、朝鮮の民衆は腐敗していた朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したのです。このため日本軍は容易に北上を重ね、特に加藤清正の率いた二番隊は、朝鮮北部から満州にかけて住んでいて朝鮮民族と敵対していた満州族を攻撃したので、解放軍と期待されたのです。 三代将軍徳川家光は、日光東照宮の社殿のすべてを建て替えました。この大事業は『寛永の大造替え』と言われ、漆や金箔をふんだんに使い、極彩色の彫刻で飾られた社殿にはオランダ商館から贈られたシャンデリアが飾られ、その境内には外国や諸大名からの献灯が立ち並んでいました。寛永二十(1645)年には第5回の朝鮮通信使が徳川家綱誕生祝いと、日光東照宮落成祝賀を兼ねて訪れています。 文化八(1811)年の朝鮮通信使が、対馬までで差し止められたのを不服とし、その交流は断絶してしまいました。そのために、徳川幕府からの返礼使として対馬藩が代行したのですが、軍事上の理由により、ソウルまで上る事を拒否され、釜山に貿易目的で設立されていた対馬藩の倭館で返礼の儀式が行われていました。唯一の例外は寛永六(1629)年にソウルに送られた僧を中心とした対馬藩の使節ですが、これは後金(17世紀前半に満洲に興った満洲人の国家で『清国』の前身)の度重なる侵入に苦しむ朝鮮側が日本の後ろ盾があるように見せかけたかったためであるとされています。倭館には貿易のための対馬藩士が、常駐していたのです。 その後、朝鮮通信使は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際しての祝賀使節として、計12回も派遣されていました。その人数は毎回三百人から五百人という大使節団でした。その中心には朝鮮国が選び抜いた優秀な官僚たちが並び、それに美しく着飾った小童、楽隊、絵師、武官、医者、通訳などで編成されていたのです。一方、受け入れ側の日本では、幕府老中、寺社奉行を中心に『來聘御用掛』を組織し、『人馬の手配、街道、宿泊の準備とそれら一切の警備』などをしたのです。 これら朝鮮通信使は、釜山から海路にて対馬に寄港し、下関を経て瀬戸内海を航行、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀よりは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)とで行列を連ね、陸路京都を経て江戸に向かうルートを取りました。近江国では、関ヶ原合戦で勝利した後に徳川家康が通った道の通行が認められていました。この野洲市より彦根市への道は、現在でも朝鮮人街道と呼ばれている道であり、大名行列の往来は許されなかったという街道です。このルートを選定したことは、朝鮮通信使一行に対する敬意を示しているという見方とともに、徳川家の天下統一の軌跡をたどることでその武威を示す意図があったのではないかとする見方もあります。 例として適切かどうかはわかりませんが、将軍・徳川吉宗の時代にも象が日本に来ています。通常、天皇は、外国人や外交使節、そして無位無官の者とは会わないのが例なのですが、この時は中御門上皇と霊元天皇は象を見ております。象は政治とは距離が離れていたから見ることができたのでしょうが、その時の象には、なんと「従四位広南白象」という位が与えられたのです。これはその辺の大名よりも格が上で、昇殿が許される殿上人と同じ位にしたということです。その時の天皇の、御製も伝わっています。 ときしあれは他の国なるけだものを けふここのへに見るぞうれしき 室町期朝鮮通信使履歴第 1回 正 長 元(1428)年 通信使正使 朴瑞生 副使 李芸 書状官 金克柔 将軍就任祝賀,前将軍致祭 足利義教の引見 第 2回 永享十一(1439)年 通信使正使 高得宗 副使 尹仁甫 書状官 金礼蒙旧交 足利義教の引見第 3回 嘉吉三 (1443)年 通信使正使 卞孝文 副使 尹仁甫 書状官 申淑舟 将軍就任祝賀 前将軍致祭 足利義教の引見 豊臣秀吉朝鮮通信使履歴第 1回 天正十八(1590)年 通信使。第 2回 慶長元 (1596)年 通信使。 江戸時代の朝鮮通信使履歴第 1回 慶長十二(1607)年 回答兼刷還使 徳川秀忠 日朝国交回復 捕虜返還。第 2回 元和三 (1617)年 回答兼刷還使 徳川秀忠 大坂の役による 国内平定祝賀 捕虜返還。第 3回 寛永元 (1624)年 回答兼刷還使 徳川家光襲封祝賀、捕虜返還。第 4回 寛永十三(1636)年 朝鮮通信使 徳川家光。第 5回 寛永二十(1645)年 朝鮮通信使 徳川家光 家綱誕生祝賀。 日光東照宮落成祝賀。第 6回 明暦元 (1655)年 朝鮮通信使 徳川家綱襲封祝賀。第 7回 天和二 (1682)年 朝鮮通信使 徳川綱吉襲封祝賀。第 8回 正徳元 (1711)年 朝鮮通信使 徳川家宣襲封祝賀。第 9回 享保四 (1719)年 朝鮮通信使 徳川吉宗襲封祝賀。第10回 寛延元 (1748)年 朝鮮通信使 徳川家重襲封祝賀。第11回 宝暦十四(1764)年 朝鮮通信使 徳川家治襲封祝賀。第12回 文化八 (1811)年 朝鮮通信使 徳川家斉襲封祝賀 (対馬に差し止め)ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2017.06.01
閲覧総数 318
16

『北からの蒙古襲来』の子守唄資料『日本わらべ歌全集2上』青森のわらべ歌 http://www.komoriuta.jp/ar/A05072517.html より。採集地:北海道寿都郡寿都町作品名:ねんねこや ねんねこや ねんねこや そったらに泣くと もっこくるぞ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.2KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072105 登録年:2005年7月22日 採譜: 松本達雄 松本良一 採集地:青森市諏訪沢作品名:諏訪沢の 子守歌 寝ろじゃ 寝〜ろじゃ 寝〜ろじゃ 寝ねば 山がら もッこァくらァね 寝れば 海がら ジョジョくらァねぇ 寝ろじゃ 寝〜ろじゃ ♪ 寝ろじゃ 寝〜ろじゃ 寝〜ろじゃ 早ぐ寝ねば もこァ来らァね 早ぐ寝れば 母 乳コ呉らね 寝ろじゃ ヤイ ヤイ ヤイ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.5KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072508 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県 作品名:泣けば山から 泣けば 山から 蒙古来る ヤーイヤーイ ヤーイヤーイヤーイ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 解説 寝させ唄 楽譜登録番号:SC2007091505 登録年:2007年9月15日 採譜: 日本子守唄協会採集地: 青森県西津軽郡深浦町岩崎作品名:岩崎の子守歌 泣げば山がら もっこァ来るじゃ 泣がねば海がら じょうじょ来るじゃ あんまり泣げば かましコ下げで 袋下げで もっこァ来らァ したはで 泣ぐな 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.8KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072509 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県東津軽郡今別町大川平 作品名:大川平の子守歌 俺の太郎は 寝ろじゃよ 寝ねば山がら もこァ来らァね 寝ろじゃ ヤイ ヤイ ヤイ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.4KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072510 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県下北郡佐井村作品名:佐井の子守歌 ねんねこヤーエ ねんねこヤーエ ねんねこせじゃ ねんねこよ ねんねばヨーエ 山コがら おっかねもこァ 来るじゃよ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.6KByte 解説 寝させ歌楽譜登録番号:SC2005072517 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県南津軽郡尾上町金屋作品名:金屋の子守歌 俺のハナコ 寝たこへ 寝れば山がら もこァ来るァね ヤーエノ ヤエ ヤエ ヤエ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.4KByte 解説 寝させ歌 楽譜登録番号:SC2005072511 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県下北郡佐井村 作品名:佐井の子守歌 ねんねこヤーエ ねんねこヤーエ ねんねこせじゃ ねんねこよ ねんねばヨーエ 山コがら おっかねもこァ 来るじゃよ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 20.6KByte 解説 寝させ歌楽譜登録番号:SC2005072517 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県むつ市川内町作品名:川内の子守歌 ねろじゃ ねろ ねろ 泣がねで 寝こせ 泣げば山コがら もっこ来て取て食う ねんねろや ヤーエ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 21.1KByte 解説 寝させ歌楽譜登録番号:SC2005072515 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 採集地: 青森県つがる市木造町作品名:木造の子守歌 ねんねんころりよ おころりよ 泣げば山がら もこぁ 来ろぁね 泣がねで 泣がねで こんこせぇ 山の奥(おぐ )の白犬 (しろいの )こぁ 一匹吠えれば みな吠える ねんねこ ねんねこ ねんねこせぇ 楽譜 歌詞 A4縦 1頁 21.1KByte 解説「もこぁ」は「お化け、こわいもの」、「こんこせ」は「眠りなさいよ」の意。 「いい子にして寝ないと、山からおばけがくるよ」という、おどし型の子守唄。 楽譜登録番号:SC2005072507 登録年:2005年7月25日 採譜: 工藤健一 ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2013.06.11
閲覧総数 1361
17

坂上田村麻呂黒人説 私は、古代日本の英雄、征夷大将軍 坂上田村麻呂が黒人であったという説があるということを、ついぞ知らなかった。しかしこの説は、説得力のある証拠を何一つ提示できなかったにも関わらず[、主に黒人の学者のなかで21世紀の現在に至るまで引用されており、古代日本に黒人種が存在していたことを証明するものとして考えられているという。 明治四十四(1911)年、カナダの人類学者チェンバレンはその著、『人類の文明への黒人の貢献』のなかで、歴史上人類の文明化に功績のあった黒人を紹介する際に、坂上田村麻呂について短く触れている。それによると、遠い日本で、現代の日本人の先祖はその国の先住民であるアイヌに敵対し北上していたが、その軍団の指導者が有名な将軍であり黒人でもあった坂上田村麻呂であったというのである。この記述の典拠がどこにあるかは記されていないが、おそらくこの記述が坂上田村麻呂黒人説の初出らしい。 大正四(1915)年には、アメリカの公民権運動指導者であるデュボイスが『ニグロ』において黒人の秀でた支配者もしくは戦士の一覧に坂上田村麻呂を加えて紹介している。終戦後の昭和二十一(1946)年にはフレミングとプリードによって『国外の著名な黒人』が出版された。これは田村麻呂を黒人として詳細に紹介した最初のものである。またこの年にはウッドソンとウェスレイによる『黒人の歴史』やロジャースによる『世界における偉大な黒人』において、田村麻呂が黒人として取り上げられ、注目を浴びた。平成元(1989)年、ハイマンによって出版された『日本の黒人将軍』によって、清水寺の田村麻呂像のイメージは、より具体的に示された。それによると、田村麻呂の像は仲間たちよりも背が高く、髪は巻毛で隙間なく、目の間隔は広く茶色で鼻孔はふくらみ、額は広く、顎は厚く少し突き出していたという。 1980年代後半から90年代にかけて、これらの記述を基にした田村麻呂の伝説が、黒人の情報を発信する者たちによく知られるようになった。実際には、田村麻呂を祀る清水寺田村堂(開山堂)の田村麻呂像は寛永十(1633)年の大火以降に作られたもので、黒人の特徴は一切見られない。ハイマンが述べているのがこの像なのか別の像なのかは不明である。 黒人説は、平成十四(2002)年に黒人の歴史研究家ラシディによって取り上げられるなど、21世紀になっても一部の黒人の研究者に信じられてきた。インターネットの広がりとともに、この『黒人の将軍』の物語はさらに広まるなど命脈を保ち続けている。 日本において一般的ではないこの説が黒人社会で広く受け入れられるようになった理由として次のような背景が考えられる。 最初に田村麻呂黒人説を紹介した一人であるデュボイスは日本と深い関わりがあったことで知られている。彼は日露戦争における大日本帝国軍の強さに感銘を受け、有色人種が白人に勝利したことに勇気づけられていた。彼はのちに疋田保一による黒人プロパガンダ工作に協力し、来日も果たした。彼が共同設立者の一人となった全米黒人地位向上協会は第二次世界大戦中の日系人の強制収容に強く反発し、戦後には収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、仕事を斡旋したり、教会に招いたりしたことで知られている。 大正八(1919)年、大日本帝国が主張した人種的差別撤廃提案を在米の黒人は支持していたが、ウィルソン大統領が全会一致でないという理由でこれを成立させなかった。このことも一因となり、悲惨な人種闘争が勃発するという事態に陥った。このように黒人の間では、日本に対して好意的な感情をもつものは少なくなかった。特に第二次世界大戦の戦中戦後において、田村麻呂の黒人伝説は黒人の間に広がった「日本人は白人に比べて差別的ではない」という考えと切り離せないものであった。 日本を含むアジアに黒人が定住していたという説は何度も唱えられてきた。 アメリカの人類学者ディクソンは、日本人が古オーストラロイドと古ネグロイドの混血であると主張し、日本人にはネグリト(東南アジアからニューギニアにかけて居住する肌の黒い民族)的特徴がみられると述べた。またセネガル出身の歴史家で人類学者のディオプは黄色人種が黒人と白人の混血であると主張した。 黒人のなかには、自分たちの歴史が外部の人間、とくに白人によって隠蔽・改竄されているのではないかという危機感を持つ者もいる。例えば、ジンバブエ遺跡は発見された当初、アフリカ南部に位置していたにもかかわらず欧米の学者は黒人がそれを建造したということを認めず、フェニキア人、アラブ人、またはヨーロッパ人が建造したものであると長年主張し続けた。一般的ではない田村麻呂の黒人説がリアリティーを帯びた背景には、白人中心主義の歴史観によって田村麻呂の正体が意図的に隠されていたのではないかとの猜疑心が存在していたである。中には、現代の日本人が白人と同様の黒人差別思想や、日本が単一民族国家であるという考えから、英雄である田村麻呂が黒人であることを「恥じている」と考える者も少なくないと思っている。また日本にいる黒人の中には、坂上田村麻呂の像がふだん一般に公開されていないことは、ヨーロッパの黒い聖母像が人目のつかないところに隠されていたという歴史を想起し、清水寺が意図的にその黒人的特徴を隠蔽しているのではないかとの疑念を持つ者も少なくない。 いずれにしても今でも日本では、『源義経は平泉で生き残り、蒙古に渡ってジンギスカンになった』などということを信じている人がいることを考えれば、やむを得ないことかも知れない。いずれこの文言は、ウィキペデア『田村麻呂黒人説』からの受け売りであることを告白しておく。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82%E9%BB%92%E4%BA%BA%E8%AA%ACブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2015.07.26
閲覧総数 1551
18

邪馬台(やまたい)は『やまと(倭・大和)』とも読めることから、そもそも邪馬台国は存在しなかったという説がある。その邪馬台国はもともと男子を王としていたが、一四六年の頃から約四十年間にわたって乱れ、戦争状態にあった。一八八年、倭の国々は協議して、邪馬台国の一人の女性を王にした。女王・卑弥呼である。魏志倭人伝には『卑弥呼事鬼道能感衆(鬼道を行って良く人々を惑わせた)』とあるが、その意味は解析されていない。老齢であったが夫や婿はなく、弟がいて政治を助けていた。 二二〇年、中国では後漢が滅び、魏、呉、蜀の、三国時代に入った。 神功皇后(ジングウコウゴウ)摂政三十八(二三八)年、魏の国が朝鮮半島全体を掌握した。翌二三九年、卑弥呼は帯方郡(ピョンヤン以南の地)に使節を送り、魏都に至っている。そこで使節は魏の皇帝に忠誠を誓うことを条件に、卑弥呼を親魏倭王とし、その証拠としての金印紫綬を与えられた。そして「帰国したら目録と照らし合わせて国中の人に展示し、魏が倭国に好意をもっていることを知らせるがよい」と言われ、三角縁神獣鏡一〇〇面を授かって各地の豪族に分与した。これは魏が、邪馬台国の後見人となったことを意味する。卑弥呼はその後も、二四〇年、二四三年、二四五年と立て続けに使節を送り、魏王に生口(奴隷)を贈って同盟を結ぶことに成功した。これらのことから、神功皇后は卑弥呼であるとの説もある。 卑弥呼は魏王より国内統一のための手段として授けられた三角縁神獣鏡だけでは不足したので、その分は倣製鏡(国産品の意)で補ったと考えられている。この国産の三角縁神獣鏡が会津若松の大塚山古墳から発掘されている。また最近の発掘調査によると、すでに四〇〇面を超える三角縁神獣鏡が発掘されているという。魏志倭人伝に伝えられる一〇〇面とは大きく異なるが、これら三〇〇面以上は倣製鏡なのであろうか。平成二十一年十一月二十三日の福島民報に『桜井茶臼山古墳と大彦命』が鈴木啓氏により寄稿されているので、その一部を紹介する。 会津盆地には能登半島南部の特色をもつ土器・竪穴住居が分布すること から、邪馬台国周縁の北陸地方の人びとの移住があって弥生末期の社会が 飛躍的発展を遂げたと推測される。 二四七年、卑弥呼とは以前から仲の悪かった狗奴国の男王・卑弥弓呼(ヒミココ)との間で争いが起こった。魏は塞の曹幢史(そうえんし・国境警備の属官)の張政らを倭へ派遣して皇帝の詔書を与え、中国が仲介にのりだしたことを回状をつくらせて触れまわらせた。 二四八年、卑弥呼が死んだので大きな墳墓が作られた。そしてその後に男王を立てたが人々の間に不満が高まり、そのため戦いになった。そこで倭人たちは卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(トヨ)を王に立てた。国中はようやく定まった。ところでこの台与は豊国(とよのくに)を主にして治めていたが、後に『とよのくに』は、都に近い方から、豊前・豊後と分かれたという。このことはまた、邪馬台国九州説を補強することになるのかも知れない。 卑弥弓呼との戦いの実情は明確ではないが、倭国に何か大きな戦いがあったことを示唆していると思われる。また前述した一四六年の頃の戦いには、『日本武尊』の戦いが比定されるのではあるまいか。いずれ卑弥呼の時代は、神功皇后の治世(二〇一年~二六九年)と重なる。そしてこの神功皇后の夫である第十四代・仲哀天皇の父が、日本武尊であるとされている。 前述した『天の岩戸』の神話は、実在の人物である卑弥呼が天照大神のモデルであったとする研究者は多い。しかもこの神話は天照大神の再生を語ったのではなく、実は死を物語るのだとの説である。すなわち天照大神は死んで岩屋(墳墓)の中に葬られたのであるが、岩屋の前では多くの神々が哀惜し、その後継者の人選をどうするかについて不安動揺が広がった。しかし岩戸が再び開かれると中から輝くばかりの女神が現れた、それは若い別人であったというのである。また天照大神は『天の岩戸』の以前と以後では性格が変わっているとされることから、この説を補強する声もある。この説によると、『天の岩戸』以前の天照大神は独断で物事を決めていたが、後では高皇産霊神(タカムスビノカミ)の指示を仰いでいるなどのことから、これは古い指導者の死と新たな指導者の登場が神話となって表わされたとする説である。台与がこれに充てられている。 伊勢神宮内宮には天照大神が祀られ、外宮には豊受大神が祀られている。豊受大神は天照大神のお世話をする神とされているが、この神が最初に祀られたという元伊勢神社が京都府の天橋立のそばにある。そこに伝わる系図に日女子(卑弥呼)と台与が出てくる。ここでも天照大神、つまり神話と実在した卑弥呼、そして台与との関連が推測されるのである。卑弥呼が王として立てられたのは西暦一八八年とされるから、弥生時代の後期ということになろう。 古天文学によると、卑弥呼の死んだ二四七年に九〇年ぶりの皆既日食が起きている。もともと卑弥呼は(日の)巫女であったにもかかわらず、巫女として皆既日食を予言できなかったことから卑弥呼の死は自然死ではなく殺害されたものであるとも云われている。そして次に立てられた男王も、卑弥呼同様、翌年に引き続いて起きた日食を予告出来なかったことから廃され、女王台与が擁立されたとされている。それはともかく、皆既日食は真昼に、しかも急激に暗黒となるのであるから、古代人にとって、驚きと畏れ以外の何物でもなかったのではあるまいか。それであるから天の岩戸神話はこの日食を題材にしたのではないかとされている。 魏志倭人伝に出てくる動植物の名前に、次のものが出てくる。これらからも、邪馬台国の北限が福島県であったと推定できるのではあるまいか。 動 物 クロキジ 東北地方に生息するキタキジ。本州・四国の大部分に生息 するトウカイキジ、紀伊半島などに局地的に生息するシマ キジ、九州に生息するキュウシュウキジの四亜種が自然布 していた。 植 物 ボケ 本州から四国 スギ 東北から屋久島 クヌギ 岩手県以南 カエデ 福島県以南ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2010.09.21
閲覧総数 507
19

日本人最後の軍司令官 戦前、日本は中国大陸東北部(いわゆる満州)に進出していましたが、この満州の防衛を担当する陸上軍が、関東軍でした。もともとは、遼東半島先端の山海関の東側のごく一部を日本が支配していたので、関東軍という呼び名がつき、その後も、関東軍という名前だけは残りました。また、駐 内モンゴル軍独立混成第二旅団 響兵団が、旧満州の東ほぼ三分の一と中国の内モンゴル自治区に進駐していました。そして一方の満州国軍は、満洲歴の大同元年(1932)に創設されましたが、軍隊というよりは関東軍の後方支援部隊、或いは警察軍や国境警備隊としての性格が強かったのです。 昭和二十年八月十五日、日本はポツダム宣言を受託し、中国大陸や東南アジア、太平洋の島々に展開していた日本軍約700万人は、直ちに武装解除して降伏するように、本国から指令が出ました。満州国軍もまた、解体されました。ところが、日本が連合軍に降伏した八月十五日の後においてもソ連軍の満州侵攻は止まらず、この地域の日本人住民4万人の命が危機にさらされたのです。その際、岩瀬郡仁井田村、現在の須賀川市仁井田の出身の根本博 駐 内モンゴル軍の陸軍中将は、「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官の自分が負う」との命令を下したのです。その間、幾度となくソ連との停戦交渉を試みたのですが不調に終わり、八月十九日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソ連軍が戦意を喪失、更に中国人民解放軍の前身である八路軍からの攻撃にも必死に耐え、ようやく戦闘が止まったのです。その間の八月二十日、内モンゴルを脱出した4万人の日本人は天津へ脱出し、それを見届けた駐 内モンゴル軍は、八月二十一日になって撤退を開始したのです。最後の隊が万里の長城へ帰着したのは、二十七日であったといわれます。昭和二十一年八月、戦後の根本は、現地での責任者として在留日本人の内地帰還と、北支那方面の35万将兵の復員を終わらせたのち、最後の復員船で帰国したのです。 この第二次大戦の後、「国共内戦」により中国本土で中国共産党軍に敗れた蒋介石は国民党軍、いわゆる国府軍を率えて台湾に入り「大陸反攻」を目指していました。しかし一方の人民解放軍も、台湾への侵攻、国民党の壊滅を計っていたのです。その際、日本人救済を手助けしてくれた蒋介石と国民党軍に恩義を感じていた根本は、国共内戦で敗走を続ける蒋介石と国民党軍に報いようと密航を決意、昭和二十四年六月二十六日、通訳の吉村是二とともに宮崎県延岡市の沿岸から秘密裏に台湾入りを敢行しました。敗戦後の日本では、まだ海外渡航が認められていなかったのです。 同年七月十日、根本は台湾北部の基隆(キールン)に到着したのですが、密航者として約2週間投獄されています。しかし、根本投獄の報告がかつて交流のあった国府軍上層部に伝わったため待遇が一変、八月一日台北へ移動しました。そして八月五日にアメリカが国民党政府への軍事支援打ち切りを表明していたことから、蒋介石は根本の協力を受け入れ、八月の中旬になって、蒋介石と面会したのです。 根本は中国名「林保源」として国府軍第5軍管区司令官・湯恩伯の顧問となり、国府軍の中将に任命されました。根本は日本軍でではなく、国府軍の将官となった訳ですが、これが日本人最後の軍司令官と呼ばれる由縁です、国府軍第5軍司令官の湯恩伯は、根本を「顧問閣下」と呼び、礼を尽くしたのです。根本はその湯恩伯に対し、厦門を放棄し、金門島を拠点とすることを提案し、これを基に金門・馬祖の防衛計画が立案されました。根本は直接指導に当たったのです。厦門は、台湾海峡を隔てて台湾に臨む、中国南東部の海岸に位置する港町で、中国大陸における国府軍最後の要地でした。 ほどなく、国府軍は根本の進言に従って厦門を放棄し、そのため大陸での足掛かりを失うことになったのです。国府軍は中国大陸沿岸にある金門島や馬祖島に撤退、ここを台湾防衛の最前線と位置付けました。これは厦門からわずか数キロという位置にある島々でした。この中国本土に近い金門島での決戦が迫ると、根本は塹壕戦の指導を行ったのです。しかしこれに先立つ1949年1月21日、蒋介石は厦門撤退の責任を取って総統の座を辞任したのです。しかしこの年の8月中旬、根本は国府軍最高司令官である蒋介石と面会し、今後の戦況などについて、意見を交換しています。 1949年10月1日、共産党による中華人民共和国が成立しました。そして独立間もない10月24日、中国人民解放軍は大金門島の北側の古寧頭(こねいとう)、湖尾、壟口に上陸し、国府軍の防衛線を突破、内陸へと侵攻しました。しかし中国人民解放軍は、国府軍の火炎放射器や手榴弾、燃料による攻撃・放火、さらには古寧頭の北西沿岸を哨戒していた国府軍海軍の艦艇2隻の艦砲射撃により敗退したのです。このとき根本は、金門島における古寧頭での戦いで国府軍を指揮、上陸してきた中国人民解放軍を破り、同島を死守したのです。 その後も、この島を巡って中国と台湾の間で砲撃戦が展開されたのですが、台湾側は人民解放軍の攻撃を防ぎ切ったのです。これにより、中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立が決定的となったのです。蒋介石は根本の帰国に先立ち、感謝の品として英国王室と日本の皇室に贈ったものと同じ花瓶を贈っています。しかし、敗戦後であった日本ではもちろん、台湾でも根本の存在とその功績は、一般人の間で認められることはなかったようです。昭和二十七年(1952)六月、根本は日本へ帰国しました。 蒋介石と根本とはその後も交流が続きました。最近アメリカで公開された「蒋介石日記」にも、根本に関する記述があり、蒋介石が心から信頼していた様子が読み取れるという。しかし、台湾でも根本の存在はもちろん、功績が認められることはありませんでした。金門戦争勝利への日本人の関与が明らかになることは、大陸から渡ってきた蒋介石ら「外省人」が、「本省人」を支配するうえで邪魔だったためとみられています。 昭和二十七年(1952)六月二十五日、根本は民航空運公司機、いわゆるCATにより、日本へ帰国しました。根本の3年前の密出国については不起訴処分となり、晩年は鶴川の自宅で過ごしていたのですが、昭和四十一年(1966)五月五日、孫の初節句の後に体調を崩して入院し、同月21日に一度退院したのですが、二十四日に急死しました。享年七十四歳でした。 一方の蒋介石は、1972年には病状が悪化して昏睡状態に陥り、半年間は目を覚まさなかったといわれます。そして1975年4月5日の夜に心臓発作で倒れ、救命措置を行ったのですが、23時50分に亡くなりました。4月16日には国父紀念館で盛大な葬儀が行われ、各国の政治家が葬儀に参列しています。 平成二十一年(2009)に台湾で行われた古寧頭戦役戦没者慰霊祭において、当時の中華民国国防部常務次長の黄奕炳中将は報道陣の前で、「国防部を代表して、当時の古寧頭戦役における日本人関係者の協力に感謝しており、これは『雪中炭を送る(困った時に手を差し延べる)』の行為と言える。」とした感謝の言葉を述べています。須賀川市の出身でありながら、福島県人にも忘れられた、歴史の一コマです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.09.01
閲覧総数 699
20

荒覇吐と瀬織津姫(2) 荒覇吐信仰は、古事記や日本書紀の影響や仏教による変容ですっかり影をひそめ、江戸時代になると何の神であるか分からなくなってしまいました。それもあって、多くの神社や寺院から荒覇吐神の名は消えていってしまったと言われます。しかもその残された多くも、神社の本殿や本堂にではなく、末社・摂社に追いやられているのです。末社・摂社とは、神社本宮とは別に、その神社の境内または神社の附近の境内の外にある小規模な祠に祀られ、しかも神社本宮の管理に属したもののことです。その上、荒覇吐神は、門客神(かどきゃくじん)として祀られている場合が多いようです。門客神とは、神社の門に置かれた「客人神(まろうどがみ)」のことで、主神のまつられている拝殿の一隅に祀られたりして、独立の祠をもっていないことが特徴です。また客人神とは、『神社の主神に対してほぼ対等、或いはやや低い地位にあり曖昧な関係にある神格』の神です。客神はちょうど人間社会におけるお客の扱いと同じで、外界からきた来訪神(らいほうしん)を、土地の神が招き入れて、丁重にもてなしている形です。現在この北方の神、荒覇吐神を祀った神社が、全国各地、28都道府県に広く散在していることから、荒覇吐一族の生活の場の広がりを示していたのではないかと想像できます。 ふつう、神社の境内にまつられている境内社には,摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)とがあります。摂社には、主神と縁故関係が深い神がまつられており、末社は、主神に従属する小祠である場合が多いのです。客神の場合は,この両者とも異なり、主神のまつられている拝殿の一隅に祀られたり、『門(かど)客神』と称されて随神のような所にまつられ、まだ独立の祠をもっていないことが特徴です。東北・関東の荒脛巾(あらはばき)神、南九州の門守(かどもり)神などはその一例ですが、なかには普通の境内社より大きな一社を別個に建ててまつる例もあります。客神が,けっして排除されることがないのは、外から来た神が霊力をもち、土地の氏神の力をいっそう強化してくれるという信仰があったためと考えられています。現在、荒覇吐神は、次のように崇(あが)められています。 1.足腰の神、旅の神。脛巾(はばき)と呼ばれる足に巻く脚絆をつけることで旅行の無事を祈る道祖神的信仰があるといわれ、靴が奉納されることもあります。 2製鉄の神。製鉄作業で目を傷めることが多かったためか、荒覇吐神が片目で描写されることが多いそうですが、しかし必ずしも、荒覇吐神が鎮座しているすべての神社でそうであるわけではありません。 3.守護神。荒覇吐神は、大きなカテゴリでいえば民間信仰の神です。しかし本来は守護神として祀られていたものとも考えられており、中世では城の近くに荒覇吐神を祀った場合が多くありました。 4.外来の神を祀る客人神。荒脛巾(あらはばき)神社には男根が奉納されており、子孫繁栄を主とした村の守り神としての一面を見ることが出来ます。ちなみに私の調べた範囲では、福島県に、荒覇吐の神を祀る、次の三つの神社がありました。 会津若松市北町・・・・・荒鎺神社(あらはばき) 会津若松市湊町赤井・・・荒脛巾神社 田村郡三春町・・・・・・田村大元神社 さてここに出てくる三春町の田村大元神社は、三春舞鶴城三の丸の下にあることから、前出3のカテゴリーに属するものと思われます。青山正の『仙道田村荘史』に、『永正之子年、義顕公三春舞鶴城江御入城・・・』とあることから、この年あたりに、守山(いまの郡山市田村町守山)の田村大元神社から三春へ勧請したものと考えられています。しかし守山の田村大元神社は、その場にそのまま祀られています。ところがこれらの二社は、正式には大元帥明王と言われていました。三春の田村大元神社の禰宜によれば、祭神は国之常立神(くにのとこたちのかみ)であり、国之常立神は、伊勢神道において天之御中主神、豊受大神とともに根源神とられています。そして、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(だいげんそんしん)に位置附けられるという。大元尊神は「大元」の御名のとおり、万神に先駆けて存在する「神のはじめの神」であり、宇宙世界、大自然の形成、摂理、天地万物を造化育成される最も尊い根源神であるというのです。なるほど、これで大元神社命名の趣旨は理解できたのですが、なおかつこの神社には、荒覇吐神が祀られているというのです。さらに私が驚いたのは、三春の田村大元神社には、田村麻呂が祀られていないということでした。三春生まれの私は、田村大元帥明王という名から、てっきり征夷大将軍・坂上田村麻呂が主祭神とばかり思っていたのです。この私の勘違いの理由は、 1 田村大元神社は田村大元帥明王と呼ばれていたこと 2 田村大元帥明王は、征夷大将軍・坂上田村麻呂を想起させていたこと。 3 坂上田村麻呂の末裔を称する田村氏が、守山から三春に移る際に田村大元神社を三春に遷宮したこと。 4 遷宮した三春での祭地の名を、守山と同じ山中(さんちゅう)とし、田村氏の氏神としたこと。 以上のことなどから、私は、大元帥は田村麻呂の別名であると思い込んでいたことにあったのです。 そこで私は、守山の田村大元神社に行ってみました。私はここも、田村麻呂が主祭神であると思っていたのです。神社の氏子が数人が、注連縄を作ったりして正月の準備をしていました。遠藤昌弘宮司が自宅にいるというので、住所を聞いて車を走らせました。生憎留守であったがすぐに帰るという。縁側でしばらく待たせて貰いましたがそう待つこともなく、運よく宮司が戻って来ました。そこで聞かされた話に、また驚かされたのです。ここには、確かに田村麻呂が祀られていたのですが、なんと主祭神ではなく、摂社となって祀られていると言うのです。守山の田村大元神社の御祭神は、天照大神・日本武尊・天之御中主神・および国之常立命であるというのです。しかも、「この神社の本殿とは別に坂上神社というのがあり、禅宗仏殿形式で桃山時代に作られたと言われる厨子が納められていますが、そこには後で、はめ込んだ形跡があるのです。ただしこの厨子が、他所から運ばれてきたものかまたは別棟にあったものを移したのかは、はっきりしません。このことは、以前に日本大学の先生方が調査した時の結論でした。この坂上神社は養蚕神社とも言われ、蚕飼様とも呼ばれています。そしてこの厨子には、田村麻呂の木像が祀られています。」という話でした。 厨子は、仏像・仏舎利・教典・位牌などを中に安置する仏具の一種です。その厨子に、田村麻呂の木像が安置されているというのです。これではどう見ても、田村麻呂は仏様になってしまいます。しかし田村麻呂は、ここに限らず、各地で神として祀られているのです。これは一体、どういうことなのでしょうか。田村大元神社、旧称・田村大元帥明王社の主神は、その名から言っても『坂上田村麻呂』、つまり戦いの神だと思い込んでいたのに、それが平和な養蚕の神、つまりおカイコ様の神になっていたのです。それにしても、田村大元神社の境内に、しかも従の位置に坂上神社があるとはどういうことなのでしょうか。田村大元神社は、明治時代の廃仏毀釈以前は、鎮守山泰平寺という天台宗の寺でもあったのです。すると田村麻呂は、いつから、仏様から神様になったのでしょうか。勿論この厨子と田村麻呂の木像がここへ運び込まれたのは、神仏混淆時代ですから、仏として運び込まれたものが明治の神仏分離令により神とされたものとも思われます。しかしこの守山の大元神社には、三春の大元神社には祀られている荒覇吐神は、祀られていないというのです。何故そうなったかは、分かりませんでした。 『客神社と荒波々幾神を祀る神社』誌は、荒覇吐を祀る神社が次のように分布していると記しています。この分布の範囲は、濃淡の差はあっても、神武東征以前の蝦夷人、もしくは『アラハバキカムイ』の生存圏であったようにも思われます。 北海道 5 青森 5 岩 手 2 宮城 3 秋田 5 福島 3 茨城 3 栃木 1 埼玉 22 千 葉 2 東京 9 神奈川 1 山梨 1 新潟 2 静岡 2 滋賀 3 愛知 6 三重 3 大 阪 1 兵庫 1 和歌山 1 鳥取 1 島根 35 広島 7 山口 8 愛媛 23 高知 2 長 崎 2 <font size="4">ブログランキングです。 <a href="http://blog.with2.net/link.php?643399"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/72/0000599372/67/img25855a93zik8zj.gif" alt=バナー" height="15" border="0" width="80"></a>←ここにクリックをお願いします。</font>
2020.11.01
閲覧総数 641
21

7伊東祐長・郡山を経営する 7 伊東祐長・郡山を経営する 郡山へやって来た伊東祐長は、たった一人での旅であったとは思えません。伊豆から送り出す兄の佑時としても、これから弟の行く郡山の地には、行ったこともなく見たこともない土地なのです。ともあれ行った先での生活のためには食料が必要です。農作業のため、鋤鍬を持った多くの百姓たちも連れてきたと考えられます。しかしそれだけでは不安です。なにか、悪い獣がいるかも知れないのです。ところで、清水正健(まさたけ)氏の編まれた『荘園志料(下)』によれば、記録が少ないとしながらも、田村荘や石川荘の存在を挙げておられるのですが、安積荘もすでに荘園化していたであろう、とされているのです。とすると、元々の統治者と変わった祐長に対して、受け入れ側の住民の反抗があるかも知れないのです。その場合の治安維持のための武力も必要です。 ところで私は、日和田の聖坊の福聚寺に宿泊した伊東祐長の一行は、そこから片平方面へ向かったと考えています。もちろん先遣隊が来ていて、祐長らを案内したと思われます。このことについて、郡山市史には、『笹原川、逢瀬川、藤田川などの合流点近くの郡山、安積町、富久山町、日和田町の阿武隈川流域に求め、伊東氏の開発進展によって、水利権や用水確保の必要から次第に上流へと上り片平などに嫡流の居城がおかれた』とあります。しかし私は逆に、伊東祐長らは先に奥羽山系の山裾である片平に入り、流れ出る水を利用して棚田を開拓、その後下流の郡山、安積町、富久山町、日和田町方面へ開拓を進めていったと考えています。今でもこの地区では、棚田が耕作されているのです。その他の理由としても、熱海町、大槻町、片平町の山裾には、伊豆から勧請された神社が多いこと、片平町には大きな舘跡がある上に館に関する地名が多いこと、それに今でもある常居寺、岩蔵寺、広修寺などが集中している寺町を形成していたこと、などに思っています。なお常居寺には、伊東氏累代の墓があります。 ところで片平町の南となる大槻町には、今現在、多くの相楽さんが住んでおられます。しかも、この相楽さんについては、いまでも大槻町に住む高齢の方は『相楽さん』とは呼ばずに、『相楽様』と呼ぶ土地柄なのです。私は、この2つの町の位置関係と『相楽さん』の多さから、相楽氏は伊東祐長の治安維持の一翼を担ったのではないかと想像しました。そこで現在、大槻に住む相楽モトさんに尋ねてみたところ、「戦国時代に、茨城県の結城から移り住んだと伝えられている」とのことでした。ここでちょっと説明しておきますと、最初の相良はアイリョウと書きましたが、後にアイラクと変化しています。伊東氏とアイリョウの相良氏は、深い親族関係にあったのです。相良城は、いまの静岡県牧之原市にありましたが、恐らく大槻町に来たのは、ここの相良氏の庶流であったと思われます。 その後、相楽モトさんより、天保十三年(1842年)に記述された『萬書覚扣帳』のコピーを頂きました。それには『鎌足胤、これは藤原鎌足の血筋という意味です。鎌足胤、伊豆伊東ヨリ十四代之末葉、城主・伊東祐頭。永正年中、大槻・駒屋・八幡・山口・大谷、右五ヶ村領ス』とあり、さらに、『相楽ト改号云々』とありました。この文面により、アイリョウからアイラクと変えたことが明確になります。そこで大槻町の長泉寺にある相楽モトさんのお墓を見せて頂いたところ、鎌倉時代のものと思われる墓碑が数基祀られていました。ですから間違いなく、その頃すでに、大槻に相良氏のいたことが証明できます。また相楽モトさんより頂いた『相楽半右衛門伝』に、『相楽荘を名字の地とした武士に相楽氏がいる。この相楽氏は、源頼朝に仕えて関東御家人となり、元久二年(1205年)に相良長瀬が肥後国人吉の地頭職を得て、鎌倉時代後期には惣領家が九州へ移住した』とあったのです。この佐良氏が、伊東祐長の下で治安維持に関わった一人と想像できます。 実は私の義弟の妻が、熱海町の狩野家の出身でした。このような私の話から、彼女がうっすらと、『先祖が伊豆から来た』と思い出してくれたのです。私は彼女の実家を訪ねたのですが、「詳しくは分からないので、狩野の本家に聞いてくれ」とのことだったのです。そこで本家の方と、狩野家の菩提寺に行ってみたのですが、それ以上のことは分かりませんでした。しかし私には、それで充分でした。片平の北が熱海でしたから。『太平記巻一』に、南北朝時代の人物として『狩野下野前司』、巻六に『狩野七郎左衛門尉』、巻十に『狩野五郎重光』、巻十四に『狩野新介』、巻三十七に『ひとかたの大将にもとたのみし狩野介も、降参しぬ』というように、狩野の姓が見られたのです。さらに文治五年(1189年)、狩野行光が奥州合戦に於いて戦功があり、源頼朝から恩賞として一迫川(いちはさまかわ)の流域、今の宮城県栗原市周辺を給わっています。狩野氏は、宮城県地方にも勢力を持っていた氏族だったのです。この一族を、伊東祐長は自己の本拠である片平の北の守りを、熱海の狩野氏に委ねたのではないかと考えられます。ちなみに家族数は少ないのですが、狩野さんは、いまも熱海町を主にして住んでおられます。トータルとして考えれば。片平の伊東祐長を中にし、北の熱海に狩野氏、南の大槻に相良氏を配置することで、戦いの場合を想定していたのかも知れません。
2023.04.01
閲覧総数 258
22

三春の古四王堂 三春町の新町にある真照寺に、古四王堂と呼ばれる堂宇があります。その真照寺に、三春町教育委員会による案内板があり、そこには次のような説明がありました。 真照寺は、寛喜三年(1231)年、意教上人の開山と伝えられる古刹で、安東(藤)氏の祈願所で古四王の別当である。正保二年(1645)秋田俊季の奥州三春移封の際、真照寺を前任地の常陸宍戸(茨城県笠間市友部町)に残してきたが、慶安三年(1650)三春2代藩主盛季(俊季の子)によって古四王堂とともに三春に遷された。本尊不動明王立像は、秋田氏の旧領であった秋田より運ばれたと伝える。盛季寄進になる帝釈天立像、四天王立像、仏画等江戸初期の優品が多い。本堂左手の古四王堂は、正徳二年(1712)の再建であり、気品ある木組みがすばらしく、三春町の寺院建造物の代表的なもののひとつである。仏像・仏画・古四王堂など三春町指定の重要文化財が多く、本堂左奥には水芭蕉の群生地があり、水芭蕉の咲く寺として知られる、とありました。なおここに出てくる別当とは、すなわち「別に当たる」ということであり、本来の意味は、「寺務を本職とする者が、別の職をも兼務する」という意味であって、別の職とは、「社務を司る」ということでした。 この別当寺とは、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によるもので、本地垂迹説とは、大元である仏・菩薩が、救済しようとする衆生(しゅじょう)、つまり一般人のその時の状況に合わせた神や仏の姿となってこの世に出現してくるという説のことです。神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、「神社はすなわち寺である」とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていました。神仏習合の時代から、それが廃止された明治初年に至るまで、神社で最も権力があったのはむしろ別当であり、宮司はその下に置かれていたのです。 古四王信仰は日本海側に多く、特に秋田市にある古四王神社は、古代城柵である秋田城の四天王寺と考えられています。ここの古四王神社の創建は分りませんが、伝承によりますと、祭神である大彦命(おおひこのみこと)は、10代崇神天皇の時代に、エミシを平定するため北陸地方に派遣された四道将軍の一人ですが、この時、北の門を鎮護するために、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を齶田浦神(あぎたのうらのかみ)、として祀ったのが最初で、次いで35代斉明天皇の時代、阿倍比羅夫が秋田地方に侵攻した折、自らの先祖であるとして大彦命を合祀し、古四王神社として創建したとされています。阿倍比羅夫は7世紀中期の将軍で越後守などの要職を歴任し、日本海側を北上してエミシを従えたとされる人で、津軽地方や秋田地方などのエミシを掃討したという事が記録に残されていますから、伝承通りであるとすれば、この前後に古四王神社が成立したと思われます。また「齶田浦神」の名は日本書紀にもあり、一説ではエミシが信仰した地主神または海洋神と推定しています。またこの「齶田」は、「秋田」の古い名であるとされています。なお三春藩主であった秋田氏は、大彦命を、自らにつながる先祖の神である、としています。 三春秋田氏の先祖とされる安東氏は、特に古四王神社を篤く信仰したとされます。正和元年(1312)、安東政季が古四王権現を再興しました。そして観応二年(1351)、安東寂蔵が現在も残されている寺内村の古四王堂の修築を行っています。このように、日本海沿岸部に強い影響力を持っていた安東氏、つまり秋田氏にとって、古四王は常に信仰の対象となっていたようです。また秋田氏の拠点の一つであった能代市の檜山城付近にも、古四王神社があり、戦国時代には、社領の安堵が行われていました。戦国時代後期になると、秋田氏は国司の別称であり、かつ最高責任者である秋田城介を名乗る事で、その権威付けをしたとされています。また秋田氏は、その移封先となった三春に真照寺を移し、その境内に古四王堂を設けて信仰を続けていました。 天明五年(1785)二月二十二日昼九ッ半過ぎ、三春八幡町の鍛冶屋近平方より出火、折からの強風で猛火となりました。火は城下町一円に拡大して、「御本城下御屋敷迄焼失、御入国以来之大火也」という惨事となったのです。この時藩主の秋田倩季(よしすえ)は、大火の夜より祈願所としていた真照寺に御座所を移し、御朱印は真照寺の古四王堂に納められたのです。その警護には、御本城の当番と宵番が当たりました。翌二十三日よりは、御本城の御番士を二手に分け、御本城二人、真照寺方二人とし、朝昼夕、泊まりの二人ずつ、勤めることとしたのです。御朱印を古四王堂に納めたということからも、秋田氏の崇敬の深さが感じられます。ちなみにこの大火災により焼失した城は復興されることなく、城址には三階櫓が建設されました。また三春藩は、現在の三春小学校のある所に藩庁や藩主の居住地などを置きましたが、戊辰戦争の時には、このような状況にありました。 ところで「古事記」には、大彦命が出羽国(秋田県・山形県)まで進出したとは記述されておりません。しかし大彦命は、越後国(新潟県)から会津地方に入り建沼河別命と出合った事が記載されています。この大彦命と建沼河別命(たてぬまかわわけのみこと)と出合ったことから相津となり、会津に変わったとされています。古四王神社は、新潟・山形・秋田を中心に、北陸・東北地方の各地に越王、胡四王、古四王、巨四王、小四王、高志王、腰王、小姓などという神社が多数分布することから、越の国を中心に北方に広がったものとして、かなり古くから信仰された神であろうと推察する意見があります。当時の越の国というのは、現在の福井県、石川県、富山県、新潟県にあたり、実際にある古四王神社の分布とは多少異なっています。なお、伝説の域を出ませんが、坂上田村麻呂が延暦二十一年(802)のエミシ討伐に際し、戦勝祈願をしたと伝えられている田村神社が境内に存在しています。 古四王神社は、仏の守護神として神仏習合の形態がとられていました。その際、北極星が多くの星の中心であることからくる北辰信仰が古四王神社に引き継がれました。そのため各地に点在する多くの古四王神社の社殿は北向きとされており、毘沙門天などを祭る例が多いとされます。なお三春の古四王堂もこれに沿ってか北向であり、しかも三春城が正面になるように配されているようです。古四王堂のご本尊の一つである毘沙門天は、招福と勝負、鬼門を守護する神様ですが、三春藩領内に、古四王の信仰は広がらなかったようです。ブログランキングです。 ←ここにクリックをお願いします。
2018.03.01
閲覧総数 306

![]()
