『福島の歴史物語」。ただいま、「鉄道のものがたり」を連載しています。

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2014.02.21
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     手紙3 (三春鉄道馬車)

 前略用件のみ申し上げます。私は三春町大手前の出生です。福島民報紙上であなた様の企画を知りました。大層重要な案件ですので、私の知る記憶を申し上げます。私は大正二年に東京の学校に転校しましたので、その時点であることを御了承下さい。

 三春馬車鉄道はトーテー馬車の愛称で親しまれました。馭者の吹く真鍮のラッパ(のちの豆腐屋のラッパ)の音色が、トーテーと聞こえたからです。三春駅すなわち馬車会社は、中町の中央部八幡町の向かって左側にありました。相当の敷地でした。御案内出来ないのが、残念です。

 停留所はありません。合図をすれば、何処ででも乗り降りできる便利なものでした。山田に交換所兼停留所がありまして、上り下りどちらでも先に着いた方が待ち合わせる仕掛けでした。ポイントが一基ありました。交換所の前に店屋が一軒ありまして、駄菓子屋や、夏は氷水などを売っていました。その店屋は、今もある様です。郡山までの運賃は、片道二十五銭くらひではないかと思います。当時の二十五銭は、米一升より高値で大変な出費ですから、足の強い人とか若い者はわらじを履いて歩きましたからそう込み合うことも事もありません。

 開成山の花見や競馬の時は込みました。その時は臨時に台車を運行しました。むしろを敷いて落ちない様に、真ん中に一固まりになって座りました。馬は忠実にトコトコ走りました。ラッパの音を聞いてお客様が高い屋敷から駆け下りてくると、ジッと待ってくれました。のどかなものでした。郡山の駅・駅というよりは終点は郡山駅前の一等地にありました。略図で示す通りです。御案内出来れば一目瞭然ですが、近日に兵庫県に帰りますからそれができません。略図を添えました。御参考になれば結構です。

 大変難しい根気の要るお仕事ですが、どうぞ完成してください。あなた様がやらなければ、歴史は消えてしまいます。何分六十年以上七十年近く年月が経ておりますが間違い有りません、九十パーセント正確ですから、どうぞ念頭に置いて頂き度く存じます。先は御参考まで。

     昭和五十五年四月二十七日
          大越町下大越字原一二七 角喜六

     手紙4 (三春馬車鉄道)

   昭和五十五年十二月十七日
 拝啓
 師走も中ばを過ぎあわただしくなりました。
 三春馬車鉄道のTVを見たと、おばあちゃんが大変喜んでおりましたが、私は車の中でラジオを聞きました。近所の農家に保存されていた明治二十二年の新聞に、三春馬車鉄道の記事が載っておりましたので、コピーを送りました
 何かの参考になればと思います。
 どうぞ研究を続けられますようお祈り致します。
                        敬具。
                    三春町大町 横山昭治

     手紙5 (三春馬車鉄道)

 前略、此の度は御心をこめたお招き頂いて夢に見た馬車の実物に乗せて頂きまして、心から喜んで居ります。御苦心の跡が見られ、しつかりとよく出来て居り感心してます。何もお役に立たずお恥ずかしい限りです。よくここ迄完成された事と存じます。

 日露戦争当時で、車代が大人片道三十銭小人十五銭との事青春の夢の実現、御成功をお祝いします。

 度々おいしい物頂き厚く御礼申し上げます。御礼がおそくなりまして、誠に失礼致しました。お詫び迄。
     昭和五十六年五月七日

               三春町中町三二 勝間キク

 この手紙は、実物大で馬車鉄道の客車の模型(現在三春第一保育所にて保管)を作り、ゴールデン・ウィークに三春公民館で展示、町の古老をお呼びし御意見をお聴きした時の  礼状で、文中完成とあるはこの模型のことで、復元には未だ至っていない時のものです。

     手紙6 (三春馬車鉄道)

 拝啓、御多忙の中何時も御心にかけられ、厚く厚く御礼申し上げます。日曜の午前中娘と拝見して、あまり立派に完成されて驚いて参りました。(郡山の)資料館を引き立たせてピカ一、失礼ながら暫く腰掛けさせて頂いて昔を偲んで来ました。永い間の夢、御苦労もありどんなにか実現されて御喜びの事と、お祝い申し上げます。母に一度見せたいとつくづく思いました。三春町の誇り郡山に、チョッビリ残念に感じました。
 本当に、お目出度ございます。
                           敬具
     昭和五十七年四月十三日
               三春町中町三二 勝間キク 内

 この手紙は、復元終了後、郡山歴史資料館に展示された時のもの。すでにキクさんは老齢のため家を離れられず、嫁さんと孫さんが、見に来られた時のものです。

     馬車鉄道の引っ越し (小名浜馬車軌道)

 私が中学の頃、小名浜の親戚へ行った。泉から馬車鉄道に乗ると、隣の客が話しかけて来た。三春から来たことを話すと、「この馬車鉄道は、三春馬車鉄道が廃止になったので払い下げを受け、ここに移設して作ったものだ。」と教えてくれた。「馬車鉄道も引っ越しすんだァ〜」と思った記憶がある。今、年表等で調べてみると、時期的には大正五年の小名浜〜江名聞の増設の時と思われる。(平田善一郎談)

     乗合馬雪舟(ソーリ)広告 (喜多方・一瞬舎)

 各位いよいよ御安静奉賀候随而弊舎馬車儀積雪ノ為不通相成侯故御客様ノ不便利云ワン方ナシ暇令其日ニ往復ノ出来ル御用向タリ共膝栗毛ニテハ其日ノ往復ハ六ツケ敷、空敷一泊ノ時日ヲ費ス様ノ工合ニテ此貴キ時日ヲ徒ニ費ス有様ヲ弊舎是ヲ見るに不忍侯ニ付今般馬雪舟ヲ仕立馬車ニ換損得ハ兎モ角モ時間モ貸金モ馬車同様二致シ諸君ノ御便利ニ供ニ付此段諸君二広告ス

 若松発時間
   壱番 午前八時 弐番 午後二時
 喜多方発時間
   壱番 午前八時 弐番 午後二時
 貸金 若松、喜多方間 金二十銭
    若松、 塩川間 金二十五銭
    喜多方、塩川間 金八銭
発着取扱所 喜多方町 岩屋八次郎
若松大町二ノ竪五番地
       喜多方町  二瞬舎
  明治二十二生二月二十七日開業 (岩磐史談復刻判第一巻一八二ページ)

     湯ノ川温泉案内 (亀函馬車鉄道)

函館を距る三里許亀田郡湯ノ川村に温泉場あり函館唯一の保養所として就中夏期は遊客尤も多きが一〜二年前は人力車にあらざれば円太郎馬車に依らざるを得ざりしを以て頗る不便と感じたるが目今鉄道馬車が通ぜしょり便利言はむ方なく従って遊客の数も加わり湯ノ川の繁盛復た先頃の観にあらず。(明治三二年八月・観光案内)

     手紙7(亀函馬車鉄道)

 お便り拝見致しました。
 私共と致しましても、NHKのニュースで全国に流れるとは思いもよらず、馬鉄復元と言う事で報道された様でございます。これは当市の港祭りの協賛行事の一環で、交通局の山車としての作製であり、特に資料に基き、正確を期したものではありませんが、馬鉄の当時の写真が函館図書館に若干ありましたので、それを参考にし、また材料などに関しては、当課内で利用出来ます物を使用いたしました関係で、復元のための縮尺には忠実ではありませんので、橋本様の参考になるか疑問でありますが、来函の際は、私の調査した範囲でお話し申し上げたいと存じます。ついては、来函の時期の事でございますが、九月十五日は祝日でもありますので、出来得れば前後に来局下されば幸いと存じます。
 取り急ぎ乱筆で失礼いたします。

   昭和56年8月21日
      函館市交通局 安宅昭治

     ミッチー・ブーム以前(岩手県小岩井農場馬車鉄道)

 皇后陛下・美智子様が、未だご成婚前にお父様とご一緒に、小岩井農場を訪ねられたとがあった。当時小岩井農場には自家用の軌道があり、貨車のみを稼動して国鉄小岩井駅と農場の間で物資の集荷・輸送に使われていた。もともと、国鉄小岩井駅自体が農場に寄付されたものであり、言ってみれば私有地のみで運行されていたためか、陸運局の許可を得て作られた形跡がなく、「資料 日本の私鉄」にも記載がない。それでも客車が昔からあり、農場の役員とか重要な客の送迎に使われていたが、自動車の時代となってからは、使われないでいた。

 そして、美智子様が来られた時に大掃除をされたこの客車が、御乗車の栄を賜ったそうである。お帰りには勿論自動車が使われたというが、とにかく、これが最後の馬車鉄道の勇姿であったという。
 その客車は現存せず、遊園地用に作られた馬車鉄道が往時をしのばせるのみである。


     走れなかった馬車鉄道 (水戸市)

 明治二十五年、水戸市に馬車鉄道の敷設計画が立てられた。ところが、この計画を知った人力車夫の強い反対で、ついに実現されなかったという事実があった。

 敷設計画は、水戸市の大関俊徳ほか五名によって茨城県に出願された。これを受けた県庁は、水戸市役所に市会の意見を求め、その結果、敷設に問題なしの答申を得た。ところが、その事を知った人力車の営業者や車夫は大いに驚き、敷設は自分達の収入の道を断たれることになるので黙視できないとして早速集会を開き、種々協議の上、三月十八日、八十余名の車夫が大挙して、市役所、県庁に押しょせ、責任者に面会を求めた。県庁では、不在を理由に面会を避けたので、車夫等は馬車鉄道敷設を許可しないように陳情を取・り次いでほしいと述べて退去したが、彼らはその足で発起人の大関宅を尋ね、面会を求めた。大関はたまたま上京中であったが一同はそのまま座り込み、願書の取り消しを要求し、不在ならば東京に電報で問い合わせよとまで強談した。

 警察は説諭して一同を退散させたが、依然として不穏な状況であったので、大関家では出入りの大工などを頼んで厳重に警戒した。二十日、彼らは十名の委員を選び、発起人の一人が面会し取消願書を提出する約束を取り付けた。更に県庁・市役所を尋ね、市会の議決の折の賛成者を調べ、その一人一人を尋ねて理由を聞きだすという行動に出た。

 こうして、車夫達の結束と迅速な抗議行動により、馬車鉄道出願は中止となった。(人力車 齋藤俊彦 二七八ページ)





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最終更新日  2014.02.21 14:41:16
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