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2012/01/29
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上の続き

■8.「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」

 翌1944(昭和19)年3月、インド独立運動に点火しようと、日本軍とインド国民軍が合同で、北ビルマから東インドに進攻しようとするインパール作戦を始めたが失敗に終わり、敗走する日本軍を追って英印軍がビルマに戻ってきた。[b,c]

 この状況に、それまで日本とともに戦っていたビルマ独立の志士たちも分裂した。バーモウ内閣で国防大臣を務めていたアウンサン将軍は、敗北必至の日本と心中するわけにはいかないとして、日本軍に対する反乱に立ち上がった。

 バーモウは最後まで日本側について、終戦時には日本に亡命した。日本軍の訓練を受けた志士の一人ミン・オンは日本を裏切ることはしのびないと自決した。

 アウンサン将軍にしても、日本軍への攻撃に立ち上がった際、バーモウに長い手紙を書き、その中に「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」「日本軍のビルマ撤退が懸命な方法」「日本を責めない」等と書き送っている。[1,p290]

 戦後、鈴木敬司将軍が、ビルマに連行され、英軍によって軍事裁判にかけられそうになった時、アウンサンは「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛反対し、釈放させた。


■9.「アウンサンの旗」

 日本の降伏後、ビルマはふたたびイギリスの植民地に転落した。アウンサンは植民地政府の一員となりながらも、粘り強く独立交渉を続けた。しかし、1947年7月、祖国の独立を見る前に何者かに暗殺されてしまう。



 ビルマが英国から独立を回復したのは1948年だが、その時の国軍の最高司令官ネウィンも、日本軍の訓練を受けた志士の一人だった。ネウィンはその後、クーデターを起こして政権を握るなど、長く支配者として君臨した。

 ネウィンは1981(昭和56)年、鈴木敬司司令官の未亡人、および南機関関係者6名をビルマに招き、ビルマ独立義勇軍生みの親として、ビルマ最高の栄誉である「アウンサンの旗」という勲章を授与している。

 ビルマ独立後に母国に戻ったバーモウは、その著書『ビルマの夜明け』でこう書いた。

__________
 もし日本が武断的独断と自惚(うぬぼ)れを退け、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの開放の真心が軍人の間にもっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否、過半数の人々からの信頼と感謝とを日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。[1,288]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 確かに惜しむべしとは思うが、それでも「南機関や鈴木大佐らの開放の真心」は、ビルマの人々の心に深い感銘を与えた。その真心からは、現代の我々にも学ぶ所があるだろう。

(文責:伊勢雅臣)





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Last updated  2012/01/29 01:04:18 PM
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