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義経黄金伝説■第9回作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所第1章10 1186年(文治2年)10月 鎌倉薄ら寒い10月の鎌倉の朝もやの中で、西行が先ほどの情景を思い出している。「重蔵どの。頼朝殿は、流鏑馬に熟達し、当代第一の弓持ちと言われたこの西行の前で、弓矢の技を見せられたのだ」東大寺闇法師重蔵が返した。「それは何をお考えなのでしょうや」「頼朝殿、平泉を攻めるつもりであろう」「えっつ、やはり」十蔵は西行を見た。が西行はすでに自分の殻に入り考えにふけっている。不思議な方じゃ、重蔵は最初の出合いを思い出している。 ◎ 西行は、しばらく前から後からつけて来る僧衣の男に気付いていた。身構えている。足取りが早くなる。さすがは元、北面の武士である。 十蔵は西行の住処伊勢の草庵から着けていた、がそろそろ自ら自分の存在を知らしめた方がよいと考えていた。この西行のただならぬ武闘の力を見抜いていた。それゆえ、自分の身を西行が気付くようにあらわしている。「西行様、私はお味方」重蔵はつぶやく。「自己紹介いたします。私は十蔵、重源殿が遣わされた闇法師にございます。西行どのをお守り申します。西行殿、どうぞお気を付けなされませ。鎌倉殿、やすやすと東大寺への沙金動かすことなき気配あれば」「鎌倉殿が沙金を盗むとか。重源殿の指令それだけだったか」西行は十蔵をじっと見る。「と申しますと」十蔵は少したじろいでいる。「例えばじゃ、私が裏切って、平泉にて極楽郷を作るつもりとか」 西行は、初手から恐ろしい言葉を放っている。もし、西行の答え方いかんでは、十蔵はこの場で、西行と戦わねばなせない。十蔵の背後には、巨大な東大寺勢力が控えている。「さすれば、西行様はもう京都に帰られぬおつもりか」「ことと次第によってはな。わしはのう平泉の桜がすきなのだよ」 西行は、遠くを見、一瞬、思いにふけっていた。十蔵はそんな西行を、不思議な顔をして眺めた。いったいこの法師殿は何を考えてござるのか。十蔵には想像もつかない。あったことのない別種の人間だった。 ◎■■111186年(文治2年)10月 鎌倉文覚屋敷。「くそ、いらぬじゃまが、はいりおったわ。のう夢見よ」文覚である。夢見、後の明恵(みようえ)は答えた。「西行様の背後にはあるやんごとなき想いが見えます」「和歌(しきしまみち)に対する想いか」「いえ、そうではございません。人で御座います」。「女か」「いえ、ある男の方への想いで御座います」「では、まさか、あ、おの方へか、」文覚は、西行の想いが、待賢門院(たいけんもんいん)へかと思った。が,夢見ー明恵は違うという。待賢門院の兄は徳大寺実能、西行は藤原家徳大寺実能の家人であった。待賢門院は崇徳上皇の母である。夢見は感受性が強い、その人間の過去もうっすらと読み取る事ができる。夢見のよく見る夢は恐ろしい。きり刻まれた体の夢だ。夢見の父は,頼朝決起の戦いでなくなっている。母は紀州豪族湯浅氏の出身である。この時期の紀州は、熊野詣で大繁盛している。紀州熊野は仏教に在来の民間密教が結びつき、一大新興宗教センターとして機能している。密教秘儀を身につけて貴族の保護をうけるモノが、京都の政治を左右できる。桓武帝以降、宗教各派は、政治闘争を繰り返している。摂関政治に関与できた宗派が権威を持ち荘園を所有できる。仏教各教団は、経済組織集団でもあり、一般民衆もその権威に頼ろうとした。夢見の夢想の中に西行が現れている。(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
2008.04.09
「義経黄金伝説」第8回作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所第1章8 一一八六年(文治2年) 鎌倉 頼朝屋敷を出ようとすると、背後から声が掛かる。西行は後方を振り向く。「西行殿、ここで何をしておるのだ」聞いたことのある声だが…、やはり、、頼朝の荒法師にして政治顧問、文覚(もんがく)が、後ろに立っている。傍らに弟子なのかすずやかな眼差しをした小僧をはべらしている。「おお、これは文覚殿。先刻まで、大殿(頼朝)様と話をしておったのだ」「話じゃと、何かよからぬ企みではあるまいな」 文覚は最初から喧嘩腰である。文覚は生理的に西行が嫌いだった。西行は院をはじめ、貴族の方々とも繋がりをを持ち、いわば京都の利益を代表して動いているに違いない。その西行がここにいるとすれば、目的は怪しまなければならぬ。「西行、何を後白河法皇(ごしらかわほうおう)から入れ知恵された」 直截に聞いている。元は、後白河法皇から命令され、伊豆の頼朝に旗をあげさせた文覚であったが、今はすっかり頼朝側についている。それゆえ、この時期に、この鎌倉を訪れた西行のうさん臭さが気になったのだ。「さあ、さあ、もし、大殿に危害を加えようとするならば、この文覚が許しはせぬぞ」 西行も、この文覚の怒気に圧倒されている。文覚は二〇年ほど前を思い起こした。1166年京都「西行め、ふらふらと歌の道「しきしまみち」などに入りよって、あいつは何奴じゃ」 文覚は心の底から怒っていた。文覚は怒りの人であり、直情の人である。思うことは直ぐさま行い、気に入らぬことは気に入らぬと言う。それゆえ、同じ北面の武士(ほくめんのぶし)のころから、気が合わないでいた。西行は佐藤義清(さとうのりきよ)という武士であった頃は、鳥羽院(とばいん)の北面の武士。院の親衛隊である。西行は、いわば古代豪族から続く政治エリートであり、それがさっさと出家し、歌の道「しきしまみち」に入った。それも政治家など上級者に、出入り自由の聖(ひじり)なのである。 いわば、北面の武士よりも自由を得、知己も増えたのである。それが故、文覚の気に入らなかった。 文覚の罵詈雑言は、京都になり響いていた。やがて、後白河法王に対する悪言が、後白河の耳に入って来たのである。「私のことを悪し様にいう、文覚とか申す僧主おるそうな」「これは法皇様のお耳を汚しましたか。厳重に叱り付けましょう」「よいよい、その文覚という男に、私も会ってみたいのじゃ」「これは、法皇様も物好きな」 やがて、文覚が、法皇の前に呼ばれて来る。 法皇に対して正々堂々と政治の有り様を述べる文覚は、流石である。一応しゃべり終えたと思われる文覚に、後白河は思いも付かぬ言葉を告げた。「どうじゃ、お主、面白い男じゃ。いいか、伊豆へ行ってみぬか」「、、、伊豆ですと」意外な言葉に言葉もない。「そうじゃ、伊豆だ」「何を申される。このおり、私を罪に落とされるつもりか」「いや、そうではない。良く聞け。源氏の頼朝が伊豆に流されておる。その男に会って欲しいのじゃ」文覚は頼朝を説得していた。1180年永暦元年、今から6年前のことである。文覚は、頼朝を前に懐の袋から、古びた頭蓋骨を取り出していた。「頼朝殿、この髑髏、どなたの髑髏と思われる」 このとき、すでに文覚の幻術中に、頼朝は入っている。無論、そんなはずはない。それゆえ、常人の常識は通じない。文覚の声が、遠くから聞こえて来るようであった。「亡き父君のお骨ぞ」といい、文覚は涙を流した。「見られよ。平清盛のために殺された父義朝殿の成れの果てじゃ。何も思われぬか。お主は義朝殿の子供ぞ。お前に今源氏の氏長者は、お主じゃ。頼朝殿、この平家の」世の中でお主が、今立ち上がらなければ、誰が立つというのじゃ。父君、また源氏の恨み、このおり晴らすべきではないか。それが「人の道ぞ」。 文覚は大きな声で、一気にしゃべり終えた。頼朝の質問の暇など与えはしない。頼朝も、もう文覚の言語の勢いに飲まれるようだった。 本来ならば、判断力の鋭い頼朝であったが、このおりは熱病に取りつかれたようであった。「よし、余が源氏の旗をあげるのじゃ」サイは投げられていた。が、本当の振り手は、京都にいた。後白河法皇である。■■第1章9 1186年(文治2年)10月。鎌倉。西行は文覚に言う。「文覚どの、私はこの世を平和にしょうとおもうのだ」「平和だと、うろんくさいこと言うな。おぬしの口からそんな言葉がでようとは」「では、この国の形を変えるともしあげればどうだ」「くっつ」文覚は苦笑いしている。その笑いは同じく国を変えようとされているからであろう」「何年たっても私の考えがおわかりにならぬか」「わかりたくもない」「で、秀衡殿を呪殺されようというわけか」「主は何を企む。平泉と何を企む。まさか、」文覚はある考えを思う。「主は崇徳上皇にも取り入り、弟の後白河法皇に取り入り、また平泉にも取り入るつもりか」崇徳は30年前、1156年保元元年、弟の後白河法皇に敗れている。保元の乱である。この後、四国に流されている。「文覚どの、鎌倉には法皇の命令で、今は鎌倉の味方か」「だまれ、西行、貴様こそ、由緒正しい武士でありながら、「しきしまみち」を使うとは先祖に対して申し開きできるか」「文覚どの、その言葉そのまま返そう。お主も武士でありながら呪殺を江ノ島祈願いたしておろう」「うぬ。敵、味方はっきりしたならば、お主を平泉に行かせまいぞ」「よろしいのか。大殿とのの命は」確かに頼朝の命令は西行を平泉に行かせよである。「しかたがないのう。ここで雌雄を、、、」二人はにらみ合っている。恐るべき意識の流れがそこに生じていた。「御師匠様、おやめ下され」かたわらにいる子供が言いた。子供ながら恐るべき存在感がある。その顔は夢みる眦に特徴がある。「おおう、夢見か。わかった。この西行殿が顔を覚えておけ」「西行様、夢見でございます。京都神護寺からまいりました。師匠さまの事よろしくお願いいたします」夢見、後の明恵(みようえ)である。法然と宗教上で戦うこととなる。同時に、何かの集団が近きつつあった。「くそ、西行、味方が増えたらしいのう。集団で動くかお主も、勝負はいずれ,まちおれ」「生きて合えればのう」西行も悪態をつく。 二人はふた方向にわかれた。「西行様、ご無事で」いつのまにか東大寺闇法師重蔵が控えている。が、笑いをこらえている風情である。「おお、重蔵殿あいすまぬ。」汗をかいている。「ふふ、ワシとしたことが、つい歳を忘れてしまう。あやつにあうと」にが笑をしている。「お知り合いでございますか」「古い付き合いよ。北面の武士以来だ。」廻りの集団が気に成っている。「結縁の方々、ありがとうござる。何でもござらぬ。もう終わり申した」重蔵の言葉に近くの樹木の影にいた気配がすべて消えていた。西行はにがりきった笑いをする。「法眼殿の手下か」先ほどの手勢は、方眼が京都から連絡した結縁衆であろう。密かに西行を守っている。重蔵は、西行にもこのような面があるかと思い微笑んでいる。この有名なる京都「しきしきみち」の漢に子供のけんかのような、、「あの子供の方が気にかかります。なにやら恐ろしげな、、」重蔵はつぶやいている。 西行は生涯を通じて、交渉者たらんと欲した。佐藤家という彼の出自が大きくものをいっていた。時代は西行のような斡旋者を強く要求していた。保元の乱から始まる源平合戦は、古代より続いた貴族社会に住む人々にとって、青天の霹靂であった。仏教でいう末法が思われた。 武士という自分たちのルールに従わない人種が出現し、あれよあれよという間に政治の仕組みに食い込んで来た。そして、土台ごと乗っ取られていることに気がついたのである。 古来から貴族たちは、血が流れるのを嫌った。自分の勢力拡大のために、流れる血は気にしなかったのだが。今の世の中の血の流れている戦いは別種であった。古の壬申の乱以来である。 西行は源氏にも平家にも顔が効いた。まして、相国(しょうこく)平清盛入道とは、北面の武士のおり、同役であった。また征夷大将軍坂之上田村麿ゆかりの京都神護寺(じんごじ)の文覚とも同役であり、顔見知りであった。平家往時のおり、西行の庵は六波羅のすぐ側にあった。 六波羅は鴨川の東岸にあたり、鳥辺野の真ん中に位置する。平家政治集落の様相を呈していたのである。また、六波羅は清水寺への参道に位置していた。京の動きは街道の人の行き来から判断することができた。 西行に、上皇をはじめ、院、貴族層が気を許したのは、その歌の作詞能力(しきしまみち)であった。古代からの歌の伝統を踏まえ、美しい歌をつくることができる西行は、貴族たちと同じ人種であることを意味した。平家、源氏、貴族、そして寺社勢力、両方面に西行は顔が効き、出入りができたのである。 源平の争乱のとき、西行は伊勢の草庵に隠遁していた。そして、西行、最後の賭けの時が六十九才のおりに訪れて来た。西行の動き、あるいは言葉の一つで、この微妙なバランスで保たれている。日本の政治状況が変わるかも知れなかった。 西行は変えようとした。 彼は政党を持たない一個の政治家であり、思想家であった。(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
2008.04.09
「義経黄金伝説」 第7回の2第1章7 一一八六年(文治2年) 鎌倉1186年(文治2年)、草深き坂東鎌倉に三人の男が対峙しょうとしている。東国で武家の天下を草創しようとする男。頼朝。その傍らにて、京都王権にては受け入れられず、坂東にて「この国の形」を変えようとする土師氏(はじし)の末裔。大江広元。対するに、京都王権の交渉家、貴族政治手法である「しきしまみち」敷島道=歌道の頂点に立つ。西行。ここにひとつの伝説が作られようとしていた。頼朝にとって、西行は打ち倒すべき京都の象徴であった。京都から忌み嫌われる地域で、忌み嫌われる職業、武家。いたぶるべき京都。京都貴族王権の象徴物・大仏の勧進のために来た男・武士「武芸道」からはじきでた、貴族の象徴武器である歌道「しきしまみち」に乗り換えた男。結縁衆(けちえんしゅう)なる職業の狭間にいる人間とつながりのある男。さらには、奥州藤原氏とえにしもある。坂東王国を繰り上げようとした、平将門を倒した俵俵太の末裔。この坂東にも、そして、義経を育て平泉に送りこんだた男。対手である。その男がなぜ、わざわざ敵地に乗りこんだか。その疑問が頼朝の心に暗雲を懸ける。西行にとってこの頼朝との邂逅は、今までの人生の総決算にあたるかも知れぬ。その長き人生において最後の最終作品になるものかも知れなかった。心に揺らぎが起こっていた。が、その瞬間、重源(ちょうげん)と歩んだ高野山の荒行の光景が蘇ってきた。山間の厳しい谷間、千尋の谷、一瞬だが、谷を行き渡る道が浮かぶ。目の前にあるその道をたどる以外にあるまい。「西行どのこちらへ」 大江広元が頼朝屋敷の裏庭に案内される。矢懸場が設けられている。武家の棟梁頼朝は、毎日犬追物をたしなんでいる。的と砂道が矢来をさえぎられ続いている。「さっさ、こちらへ」促されるまま、西行は裏庭物見小屋へいざなわれる。遠くに見える人馬が、的を次々と射ぬきながら、こちらへ走ってきた、頼朝である。「いざ、西行殿の弓矢の極意を昨晩お伺いし、腕前の程をお見せしたかったのです」「大殿は、毎日武芸にたしなみを、」「西行殿は、我が坂東の武芸の祭りをご存知でしょうな」坂東のしきたりが、京都の弓矢道と結びついているのが、西行には理解できた。京都人でありながら、武芸は坂東と、頼朝は言っているのだ。馬をもといた場所にとって返し、再び、馬を駆けさせ、用意された的をすべて、射抜いている。我が坂東の武芸の祭りとは、坂東足利(あしかが)の庄にある御矢山(みさやま)で行われる八幡神を祭る坂東最大の祭事である。いわば武家のオリンピっクである「西行殿、奥州平泉からお帰りにこの祭りに参加いただきたいのです」馬上から、息をつきつつ、頼朝が叫んでいる。返事は無用という訳だ。答えようとする西行の前から姿を消し、再び馬首を元の方へ。西行は義経を助けなければ。が、藤原氏の黄金が、果たして役に立つのか。秋風の吹きはじめた鎌倉で、西行は冷や汗がでてきている。三度、的をすべて打ち矢って、頼朝は馬上から叫ぶ。「さらに、西行殿、義経のおもいもの、静の生まれし子供の事聞きたいのではござろうぞ。和子は男子がゆえに不敏だが、稲村ヶ崎に投げ捨てましたぞ」と言い捨てている。後ろ姿に笑いが感じられる。頼朝は、西行の策を、封じようとした。西行は動揺を表情に出さず。が、考えている。かたわらにいる大江広元を見た。(広元殿、政子殿がいるなかば、わづかばかりの希望あろう。また、そうか、あるいは、静の母磯の禅師が糸を引いているかも知れぬ。わずかだが、希望の光はある。極楽浄土曼陀羅、あの平泉におあわす方が。早く合いたい、さすれば、この身、西行法師の体は、まだ滅ぼすわけにはいかない、平泉を陰都となし、この世の極楽を、さらには、しきしま道にて日本を守れねばならぬ)頼朝は四度目もすべて撃ち終え、今度はゆっくりと馬を歩ませてきた。「西行殿、御家、佐藤家は、紀州にその領地がありと聞きます。弟君の、佐藤仲清殿。高野と争い絶えずときく。誠でしょうか」馬上の頼朝は、しばし、西行の回答を待っていた。「その御領地を、この頼朝の元に預けられぬか。さすれば、高野山との争いは解決して見せようぞ」佐藤家は、高野山山領地、荒川荘の領地におしいっている。西行のなりわいはこの弟の家からでている。いわば佐藤家の家作からから活動資金がでている。紀伊の国、那賀郡、田仲庄は紀ノ川北岸にあり、摂関家徳大寺の知行である。佐藤家はこの徳大寺の家人である。今では平家の威光を背景にしてきたのだ。その根っこを、頼朝は押さえよとしているのだ。「どうでありましょうな、西行殿、この申し出は」(絡め手か。やはり、頼朝殿は、この西行と義経殿の関係を気づいているか。京都でもそのとこしるは、わずかだが、、)大江広元が、秀才顔でしらぢらと西行をにらんでいる。大江は、水を得た魚。京都から呼びだされ、この鎌倉に根付いた時、歴史は変わった。日本最優秀頭脳集団・大江家。元は韓国(からくに)から来た血筋。この関東坂東で同じ韓国(からくに)の史筋武家の平家と結びついた。「すべてのご返事は、平泉からの帰途におこないましょうぞ」西行は、頼朝の前から去ろうとした。「まて、西行殿」 大江が呼びとめようとするが、「勝負は、後じゃ」頼朝が止めた。「はっつ」頼朝が打ち据えた的が割れていた。的の裏側には、平泉を意味する曼荼羅が描かれているのだ。武家の棟梁頼朝が、打ち破るべき国だ。そして黄金もまた、、そして、西行は、まだ、最大のライバル文覚とは、対峙していない。(続く)
2008.04.09
「義経黄金伝説」 第7回第1章6 一一八六年(文治2年) 鎌倉■■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 静の母、白拍子の創始者磯の禅師(いそのぜんじ)が頼朝の御台所、北条政子(ほうじょうまさこ)に呼ばれている。「よろしいか、禅師殿。このたびの静(しずか)殿の舞にて、頼朝殿の心決まりましょうぞ」「舞とは…」 禅師は、娘の静とは、しばらくの間会っていなかった。いや会えるはずがなかった。静は義経の行方を調べるために、獄につなぎおかれたのだ。「その舞に頼朝殿への恭順の意を表されれば、頼朝殿もお考え改めましょう。それに私が内々のうちに、静殿の和子生かす手立て考えましょう」「ありがとうございます。このご恩、決して忘れませぬ」 禅師はまた床ににはいつくばった。その頭上から政子の冷たい声が聞こえた。「よろしいか、宮中への事、大姫のこと、くれぐれも…」「わかりました」禅師は深々と頭をさげた。■一一八六年(文治2年) 四月八日鎌倉。静の舞当日 その思いにふける禅師の前で、ようやく静の舞は終わり、舞台の袖にいる禅師の方へ戻って来るのが見えた。 磯禅師が静を問い詰める。「静、なぜお前は、この母の言うことを聞けぬか」 激しい口調である。「母上、私はあの義経様に愛された女でございます。私にも誇りがございます」「義経殿の和子を危険な目にあわせても、私の言葉きけぬのか」「それは……」静は言葉に詰まり、涙ぐんでいた。「もう、いかぬ。残る手だてはあの方か……」 禅師は、期待するような眼差しで、観客席の方を見やる。頼朝と政子は退席しようとしていた。頼朝の怒りが、禅師には手に取るようにわかった。諸公の前で、笑い者にされたのである。頼朝はプライドの高い男なのだ。それがあのような形で…。■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日 政子を訪れた同日、磯禅師は大江広元(おおえひろもと)屋敷を訪れている。「よろしい、広元の一存じゃが、禅師殿、静殿の生まれた和子、私に手渡してくれ」「和子をどうなさるおつもりですか」「よいか、義経殿、すでにもう平泉に入っているやもしれん。秀衡殿と示し合わせ義経殿が、この鎌倉へ軍を進めたときの人質に、その静殿の和子がなろう」「和子を人質になさる……」 禅師の顔色が変わっていた。そのような、人質だと。「どうした、我が処置に不満か」 広元は強気で禅師を追い込む。広元としては、万全の方策をとっておきたかったのである。今や、鎌倉幕府の中枢は広元が握っている。「いえ、そのようなこと」 禅師は、ここは広元の話に乗って置く方が善策と考えた。「よろしいですか、和子を助けるだけありがたいと思い下され」と、広元は押し付けがましく言う。が、その時、禅師は、別の人物にしゃべる言葉を考えていた。■一一八六年(文治2年) 四月七日。鎌倉。静の舞前日同日、磯禅師は、源頼朝と関係深い勧進僧(かんじんそう)文覚(もんがく)にの前にいる。「文覚殿、お願い申し上げます。どうぞ義経殿の和子生き残れますよう、お力をお貸しください」「禅師殿、わかり申した。この文覚、いささか頼朝殿とは浅からぬ縁がござる。この伊豆に源氏の旗をあげさせ、決起するもとを作ったのは拙僧でござる。まかされよ、頼朝殿の心反してみましょうぞ」「よい話でありがとうございます」 禅師と文覚がふと目が会う。お互いが別のことを考えていることが、わかっている。■一一八六年(文治2年)四月八日。鎌倉。静の舞当日「大姫(おおひめ)様、あなた様のお気持ち、この静はわかります」静は舞いの後、大姫の前に呼ばれている。「まて、姫のおん前であるぞ。直接お話を申し上げるとは何事だ」 警備の武士が静を引き離そうとする。「よい、静の好きにさせるがよい。それが大姫がためじゃ」 政子が許しを出した。「大姫様、志水冠者(しろうかじゃ)様のこと、それほどお思いでございましたか」 志水冠者は木曽義仲(きそよしなか)の息子であり、頼朝の命で殺されていた。 志水冠者の名が静の口から上ると、大姫の嘆きは一層激しくなるのだった。「わかります。大姫様、お泣きなされ。それしか、方法はございますまい。この私とて、義経様には恐らく二度と会うことなどできますまい。いっそ死んでしまいたいくらいです。が、私には義経様の命が宿っております」■「禅師殿、お願いじゃ」「これは政子様。何かこの静が」 政子は舞の日の夕刻、密かに禅師のもとを尋ねて来たのである。「静殿の舞いを、今一度見せてはくださらぬか」「政子様、それはお許しください。そんなことを繰り返せば、頼朝様の怒りが増すばかり」「いや、そうではない。この政子の娘、大姫一人のために踊ってほしいのです」「大姫様のため、一体何のためでございます」「あのこの気鬱を晴らしてやりたいのじゃ。のう禅師殿。お前様も母親ならば、おわかりであろう。娘を思う親の気持ちが」 結局、大姫一人のために、静は政子の別棟で舞うことになった。「しずやしず、しずのおだまき繰り返し…」 その静の踊りを見て、「よよ…」と、大姫は泣き崩れたのである。静はすぐさま大姫の前に跪いていた。「静、それ以上しゃべるでない」禅師が止めた。「いえ、言わせてください、お母様。私は頼朝の手にありましても、常に義経様と一緒なのでございます。二度と会うことはできなくても、私はこれからの一生、義経様を愛し続けます」「お前は何ということを」禅師が絶句する。「静殿、、、」かぼそい声で、大姫が初めて口を開いた。まだ13歳のあどけなさが残る。が、すでに婚約者を殺されている。心の傷は大きい。「この世で、、初めて、、、友を得たような気がします」「ありがたい、、お言葉を、大姫様、、、、」 二人の女性は、お互いに手を取り合って、泣き崩れる。 そばにいる二人の母親も、その光景を目にして、しばし言葉がでないのだった。やがて政子が口を開いた。顔色が変わっている。「禅師殿、私は心を決めました」「はい、、」「この政子がお約束いたしましょう。必ずや、静の子供を助けると」「政子様、そのお言葉、、、ありがとうござります。力強ございます」禅師は京都ばかりでなく、鎌倉も手に入れていた。(続く)
2008.04.09
「義経黄金伝説」 第6回作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所第2章2 1186年 鎌倉 西行の頭の中に奈良での会話が思い起こされた。一一八〇年の平家による南都焼き打ちにより、東大寺及び大仏は焼け落ちていた。 都の人々は、何と平家の横暴なことを考えた。また、貴族の人間にとっては、聖武帝以来の、いわばふれざる東大寺を焼き打ちする平家の所業が人間以外のものに思え、また自分のために属する階級に危機が及んでいると考えざるを得なかったのである。 東大寺大仏は硝煙の中、すぐに再建に着工され、すでに大仏は開眼供養が一一八五年、後白河法皇の手で、行われていた。大仏を囲う仮家屋や、回りの興福寺を中心とする堂宇の修復が急がれていた。今、南都は建築ラッシュを迎え、活気に満ちていた。 西行は東大寺焼け跡にある仮建築物にいる重源(東大寺勧進僧)を訪ねている。重源は齢六十五才であったが、精力的に各地を遊説し、東大寺勧進を行っていた。また全国に散らばらせている勧進聖から、諸国の様子が手にとるように分かった。 勧進聖は、当時の企業家でもある。技術集団を引き連れ、資材を集め、資金も集める。勧進の場合、費用のために半分、残りの半分は聖の手元に入る。 西行は、佐藤義清という武士であった頃は、鳥羽院の北面の武士であった。 西行の草庵は、鞍馬、嵯峨などで、草庵生活を送っていた。草庵といっても仙人のように山奥に一人孤独に住む訳ではない。この当時の聖の住む位置はほぼ決まっていた。そして藤原家を縁とする寺塔が立て並んでいる。 別に難行苦行の生活をするのではない。政事の流れから外れて、静かに物事を考えるのである。日々の方便については、佐藤家は藤原家の分家であり、大豪族であった。その日々の心配はないのだ。「重源殿、お久しぶりでございます。このたびの大勧進抜でき、誠に祝着至極」「おお、これは西行殿。わざわざ伊勢から奈良まで御足労おかけいたします。実はお願いがござる。西行殿の高名にすがりたいのです」 数日前、伊勢の庵に重源が訪ねてきて、ぜひ東大寺再建の様子を見に来てほしいというのだ。重源が呼ぶからには、これは大事と思っている西行だった。若き頃、高野山の聖時代に知り合った二人だったが、すでに重源は二度宋に渡って、建築土木のテクノクラートとして帰国していた。 国の政府と結び付いていた宗教は、南都北嶺であり、中世は禅宗となる。栄西は臨済宗の禅宗である。「はて、それは……」「奥州に行ってきていただきたい。奥州は遠く聖武帝の時代より、黄金の産地。できますれば、金をこの東大寺のために調達いただけまいか。平泉は黄金の仏教地と聞き及びます。もし、藤原氏との交渉なれば、黄金が手に入りましょう」 重源は、西行と奥州藤原氏とのかかわりあいを知っていた。この言葉は重源から出ていたが、無論,話の出所は朝廷に違いなかった。 それに時期が時期だ。この時期に奥州へ、それは朝廷から藤原氏へのある種の意向を伝えるために違いない。思ったより大きい仕事。が、これも私を信じておられるゆえんか。私の最後の一働きになるかもしれん。重源は思った。「それと、これは平泉におられる方々への手土産じゃ」「何でござりますかな。重源殿のことでございますから」「これは…」 絵図面である。「ありがたく頂戴いたします」 西行の顔色は変わっている。「あの方の役に立てばよろしいですが」「役に立ちますとも。では、重源様、私に町をよく見て参れと」「そうです。その鎌倉が様子を、詳しく書状に認めてきだされ。さすれば、重源、いろいろな技術と語らい、新たな計画書をお作りしましょうぞ」「ありがとうございます」「よろしいか、重源がかようにするは、京都のためにでございますぞ」が、西行は重源はさりげなく秀衡たちに、自分の腕前を披露しようとしていることに気がついている。 重源が西行が去ったあと、重源に雑色(ぞうしき)が話しかける。「この御時世でございます。西行様がため、東大寺闇法師を護衛に付けた方がよろしいのでは」「おう、よい考えじゃ。誰か心当たりの者はおるのか」重源は、はたと気付く。「十蔵が、いま高野山から降りてきております」「わかった。ちょうどよい。十蔵を呼べ」 僧衣の男、十蔵が重源の前に呼ばれる。十蔵は東大寺のために荒事を行う闇法師である。闇法師は僧兵の中から選ばれた、いわばエリート戦士である。十蔵は陰のように重源の前に、出現していた。その突然の現れ方は、重源を驚かせる。「十蔵、わざわざ、かたじけない。今度の奥州藤原氏への西行殿の勧進、大仕事だぞ。西行殿にしたがって奥州に行ってくれるか」「あの西行さまの……わかりもうした」「さて、十蔵、今述べたのは表が理由」「重源様、まだ別の目的があるとおっしゃいますか」「さようじゃ。西行殿、俺が思いどおりには動いてくださらぬ可能性がある。ましてや、この時世。頼朝殿、奥州藤原氏と一戦構えるかもしれぬ。いいか十蔵、西行殿が我々を裏切らぬとも限らぬ」「西行様がお師匠様を裏切ると。しかし、西行様は、もう齢七十でございましょう」「いや、そうじゃこそ、人生最後の賭けにでられるかもそれぬ。西行殿は義経殿と浅からぬ縁がある。この縁はばかにはできぬ。こころしてかかれよ」 重源は気迫のこもった眼差しで、十蔵に命じた。 重源にとっても、この大仏再建の仕事は大,仕事。失敗する訳にはいかなかった。重源は自らを歴史上の人物と考えていた。 重源の使命。いや生きがいは今や東大寺の再建であった。先に重源は平家の清盛から依頼され、神戸福原の港を開削していた。この日の本に、重源以上の建築プロデューサーは、存在しないのである。 重源は世の中に形として残るものを、生きている間に残しておきたかったのである。重源の背後には宋から来た陣和慶という建築家がいた。また朝鮮半島から渡ってきた鋳物師もいる。 そして、有り難いことに運慶、快慶が同時代人であった。この日本のミケランジェロたちは、運慶工房とも思える工房システムを作り上げ、筋肉の動きを正確に表す、誠に力強い存在感のある彫刻像を続々と作り上げていった。日本の始まって以来、二度目の建築改革の波が押し寄せて来たかのようであった。「重源様のご依頼ならば。断るわけにもいきますまい」 十蔵はにやりと笑う。そしてつけくわえた。「承知いたしました。が……」 闇法師は自らの意志などもたぬ。その闇法師の十蔵が、何らかの意向を重源に告げようとしていた。不思議な出来事であった。「何か、まだ疑問あるのか」 切り返す十蔵の問いにはすごみがあった。「死に場所がありましょうか」 重源はその答えに冷汗をかき答えた。死に場所だと、闇法師は東大寺がために死ぬことが定め。が、その十蔵とかいう男は、別の死に方を求めている。それも自らが闇法師中の闇法師という自信を持って言っているのだようやく重源は答えた。「時と事しだいぞ」 それにたいして平然と言う十蔵。「わかりもうした」 十蔵はすばやく姿を消した。「十蔵め、この仕事で死ぬつもりか」 重源は、十蔵が消えた方向を見遣り、つぶやく。「まあまあ、重源殿。そう悩まずともいいではないか。重蔵殿にまかしておかれよ。茶を一服どうじゃ」 話を聞いていたのか、後から一人の若い僧が手に何かを持って現れている。巨大な頭のハチに汗がてかっている。 栄西であった。 重源と栄西は、留学先の中国で知り合い、友人となっていた。 そして、栄西は、仏典とともに、日本の文化に大きな影響をもたらす「茶の苗」を持ち帰っていた。栄西が手にしているのは、茶である。まだ、一般庶民は、手に入れることができぬものである。「ほほう、どうやら、茶は根付いたと見える。よい匂い、味じゃ。妙薬、妙薬」 重源は、栄西が差し出す茶碗をうまそうに啜った。「さすがじゃのう、栄西。よい味じゃ」 その重源の様子を見て、栄西が尋ねる。「重源様、どう思われます。この茶を関東武士たちに、広めるというのは」「何と、栄西。あの荒々しい武者ばらに、この薬をか…」 重源は茶に噎せた。 重源は少し考え込む。やがて意を決したように、若者のように眼を輝かせながら言った。「いい考えかも知れぬ。思いもかけぬ組み合わせだが。貴族よりも、むしろあの武人たちをおとなしくさせる薬効があるかもしれぬ」 なるほど、栄西はおもしろいことを考える。 重源や栄西には、自負があったのだ。日の本を実質動かしているのは、貴族でも武士でもない。我々学僧なのだ。僧が大和成立より、エリート階級として、日の本のすべてを構築してきたのだ。それを誰もが気付いておらぬ。が、大仏再建がすでに終わり、この東大寺再建が済めば、我々の力を認めざるを得まい。重源の作るものは形のあるもの。そして、栄西は、茶というもので、日の本をいわば支配しようとしている。おもしろいと重源は思った。 ◎「これは、これは有り難きご教示、有り難うございました。もう夜も白んで参りました。 鎌倉の酉が鬨の声を告げていた。二人は一晩中語り合ったのであった。 西行はわれにかえっている。まだ鎌倉にいて、頼朝の前なのだ。「西行殿、この鎌倉にお止まりいただけぬか」唐突な頼朝の提案であった。「いや、無論、平泉から帰られた後でよいのです」 と頼朝は付け加えた。「それはありがたい提案ですが」 西行は考える。黄金をこの地鎌倉に留め置くつもりか。加えて西行をこの鎌倉に留めおき、平泉の動き、京都の動きを探ろうとする訳か。「いやはや、これは無理なお願いごとでございましたな。それではどうぞ、これをお受取ください。これは旅の邪魔になるやもしれませんが…」 頼朝が手にしたのは、黄金の猫である。「ほほう、これを私めに、それとも奥州藤原家に…」「いや、西行殿でございます」「私はまた猫のようにおとなしくなれという意味かと思いました」「いや、旅の安全を願ってのこと。他意はござらぬ」(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
2008.04.09
「義経黄金伝説」 第5回の2作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所「トリニテイ・イン・腐敗惑星」 山田企画事務所飛鳥京香の「義経黄金伝説」 携帯電話版「義経黄金伝説」携帯電話版 飛鳥京香フアンタジー劇場01第1章5 一一八六年 鎌倉・頼朝屋敷 驟雨が鎌倉を覆っている。頼朝の屋敷の門前に僧衣の男が一人たっている。老人である。その老人を尋問する騎馬が二騎現れていた。二人は、この僧を物乞いかと考え、追い払おうとしている。「どけどけ、乞食僧。ここをどこと心得る。鎌倉公、頼朝公の御屋敷なるぞ。貴様がごとき乞食僧の訪れる場所ではない、早々に立ち去れい」語気荒々しく、馬で跳ねとばさんばかりの勢いである。「拙僧、頼朝公に用あって参上つかまつった」「何を申す。己らごときに会われる、主上ではないわ。どかぬと切って捨てるぞ」ちょうど、頼朝の屋敷を訪れようとしていた大江広元が、騒ぎを聞き付けて様子を見に来る。「いかがした。この騒ぎは何事ぞ」 広元が西行に気付く。「これは、はて、お珍しい。西行法師殿ではござらぬか」「おお、これは広元殿、お久しゅうござる。みども乞食僧と呼ばれおるか。何卒頼朝公にお引き合わせいただきたいのです」「何と。天下の歌詠み西行殿とあれば、歌道に詳しい頼朝様、喜んでお会いくだされましょう」 広元が武者に向かい言う。「この方をどなたと心得る。京に、天下に有名な歌人、西行殿じゃ。さっさと開門いたせ」 広元は西行の方を向かい、「重々、先程の失礼お詫び申す。なにしろ草深き鎌倉ゆえ、西行殿のお名前など知らぬやつばら」「私は、頼朝殿に東大寺大仏殿再建の勧進のことお頼み申したき次第でございます」「何を南都の…東大寺の…」広元の心の中に疑念が生じた。その波は広元の心の中で大きくなっていく。「さよう、拙僧、東大寺勧進重源上人より依頼され、この鎌倉に馳せ参じました。何卒お許しいただきたく」 頼朝と西行が体面している。横には広元が控えていた。「西行殿、どうでござろう。この鎌倉の地で庵を営まれましては」「いやいや、私は広元殿程の才もありませんでな」「それは西行殿、私に対するざれ言でござりますかな」「いえいえ、そうではございません」「西行殿、わざわざこの頼朝が屋敷を訪れられたのは、歌舞音曲の事を話してくださるためではありますまい」西行の文学的素養は、絢爛たるものがあった。母方はあの世界史上稀に見る王朝文学の花を開かせた一条帝の女房である。 西暦一千年の頃、一条天皇には「定子」「彰子」という女房がいたが、定子には「枕草子」を書いた清少納言が、また彰子には「源氏物語」を書いた紫式部などが仕えていて、お互いの文学的素養を誇っていた。「さすがは頼朝殿、よくおわかりじゃ。法皇様からの書状もっております」 西行ははっとしたが、頼朝に書状をゆっくり渡す。 頼朝、それを読む。「さて、この手紙にある義経が処置いかがいたしたものか。法皇様は手荒ことなきようにおっしゃっておられるが」「義経殿のこと、頼朝様とのご兄弟の争いとなれば、朝廷・公家にかかわりなきことなれど、日々戦に明け暮れること、これは常ではございますまい」「それはそれ。このことは私にまかされたい。義経は我が弟なればこそ、命令に逆らいし者、許しがたいのです。……」 頼朝は暗い表情をした。しばらくして、表情が変わった。「西行殿、これから行かれようとしている平泉のことだが……」 西行は、平泉のことを意を決してしゃべる。「ようぞ聞いてくだされた。秀衡殿は、平泉に将兵を集めて住まわせることなどはしておりませぬ。よろしゅうございますか。藤原氏の居館は、城ではございません。平泉の町には、軍事施設はないのでございます」「では兵はどうするのじゃ」「いざ戦いがあれば、平泉に駆けつけると聞き及びます。秀衡殿、頼朝殿に刃向かうつもりなどないのでございます」 頼朝は、この西行と藤原氏の関係をむろん疑っている。聞ける情報はすべて聞き出そうと考えていた。広元も先刻、西行と会う前に、耳元で同じ旨を告げていた。この西行、果たして何を企む。頼朝は、頭をひねりながら、西行の話を聞く。平泉は城ではないというのか。まるで平泉全体が大きな寺ではないか、と頼朝は思った。「初代清衡殿は中尊寺、二代基衡殿は毛越寺、三代秀衡殿は無量光院をお造りになったと聞いております」「それでは、すべて寺院ばかりではないか」「さようでございます。平泉は仏都でございます。中尊寺建立の供養には、こう書かれているのでございます。これは初代清衡公のお言葉。長い東北の戦乱で、多くの犠牲者がた。とくに俘囚の中で死んだものが多い。失われた多くの命の霊を弔って、浄土へ導きたい。また、この伽藍は、この辺境の蕃地にあって、この地と住民を仏教文化によって浄化することである。こう書かれているのでございます」 頼朝はふふうという冷気を浴びせるようなな視線を、西行に浴びせている。「西行殿は平泉がお気に入っておられるか」頼朝のその質問に、西行の頭の中に、あるイメージが浮かんでいた。平泉・束稲山の桜である。「私は花と月を愛しますがゆえに」 頼朝屋敷は夕刻を迎えている。「が、なぜ、西行殿、秀衡殿を庇いなされる。ただ東大寺がために勧進とはおもわれぬ。聞くところによれば、西行殿と、秀衡どのとは浅からぬ縁あると聞くが……」 頼朝は矛先を、藤原氏と西行とのかかわりに向けてきた。この質問に、西行はいささか足元をすくわれる感じがした。この頼朝という男、さすがである。「いや、それは単なる風聞でございましょう。私は唯の歌詠み。東大寺のために、沙金をいただきに秀衡様のところへ参るだけでございます」「それならば、そういうことにしておきましょう。で、西行殿」頼朝はかすかに冷笑した。その笑いの底に潜む恐ろしいものを感じ、わずかに言葉がかすれている。「何か」「西行殿は、昔は北面の武士。あの平清盛と同僚だったとも聞き及びます。なにとぞ、この頼朝に弓の奥義などお聞かせいただきたい」「よろしゅうございます」 話の矛先が急に変わったことに、西行は安堵した。頼朝は、これ以上、西行を追い込むことを避けたのだ。あまりに西行を追及すれば、この場所で西行を殺さねばなるまい。殺さずとも、閉じ込めねばなるまい。今、それは政治的にはマイナスであろう。無論、広元もその案には賛成すまい。 ここは少しばかり話を流しておくことだと頼朝は思う。一方、西行は虎穴に入らずにはと考えたが、頼朝という男は虎以上に恐ろしかった。このことすぐさま、法皇様に書状をもって報告せねばなるまい。この男の扱い方は、義経殿のようにはまいらぬ、そう考えていた。頼朝は、西行がある程度、義経の行方を知っていると考えている。第2章1 1186年 鎌倉 西行は、奥州藤原氏のことをしゃべり終わると、急に無口になった。頼朝は、話題を変えた。歌曲音舞、そして弓道のことなどである。頼朝はこの伊豆に住みながら、いつも京都のあのきらびやかな文化を、生活を恋い焦がれていた。 武士という立場にありながら、京の文化を慈しみ愛していた。それゆえ、その京の文化に取り込まれることを恐れていた。 義経は、京の文化、雰囲気という、得も知れぬものに取り込まれ、兄頼朝に逆らったのだった。同じように義経より先に都に入った義仲も、京都という毒に当てられて死んだ口だった。 京都は桓武帝以来、霊的都市であった。藤原道長のときの安倍晴明を始祖とする土御門家が陰陽師として勢力を張っていた。 京のことを懐かしむ頼朝に、西行は佐藤家に伝わる弓馬の術などを詳しく述べていた。これを語る西行は、本当に楽しげであった。 鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には西行と頼朝、夜をあかして話し合ったとある』(続く)作 飛鳥京香1
2008.04.09
「義経黄金伝説」 第5回作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所5.一一八六年 黒田荘・東大寺荘園奈良にある黒田荘(ショウ)(現三重県)は東大寺に属している。先月の東大寺があげての伊勢神宮参詣もこの地で、重源を始め多数の僧が宿をとっている。いわば東大寺の情報中継基地である。 あばら家の中、どぶろくを飲んで横たわっている二人がいる。太郎佐。そこに弟の次郎佐が訪れる。「兄者、兄者はおられぬか」「おお、ここじゃ、次郎左」「何じゃ、なぜそんな不景気な顔をいたしておるのじゃ」「これがよい顔をしておられるか。お主、何用じゃ俺に金の無心なら、無用じゃ」「兄者、よい話じゃ。詳しい話は、ここにおる鳥海から聞け」 蓬髮で不精髭を生やした僧衣の男が汚らしい格好で入ってくる。着物など頓着していない様子なのだ。顔は赤銅色に焼けてはいるが、目が死んでいる。鳥海は興福寺の僧兵として、かなりの腕を振るったものである。園城寺、比叡山との僧兵たちとの争いでも、引けを取らなかった。が、東大寺炎上の折りから、腑抜けのようになっていた。一人生き延び、この太郎左、次郎左のところに転がり込んでいいのである。 鳥海は、話を始めた。「太郎佐殿は、先年、東大寺が焼き払われたこと、ご存じでござろう」「おお、無論、聞いておる」「東大寺の重源、奥州藤原氏への勧進を依頼した。さて、使者は西行法師」「たしか先月、重源と、、そうか、あのおいぼれ。確か数え七十ではないか」「供づれはおらぬ。いかに西行とて、この黒田悪党のことは知るまい」「ましてや、みちのく。旅先、七十の坊主が死んだとて、不思議はあるまい」「お前、東大寺勧進の沙金を…」太郎佐は言う。「そうよ、奪えというのじゃ。この話し、京都のやんごとなき方から聞いた。ほれこのとおり支度金も届いておる」「さらば、早速」「まて、まわりがおかしい」太郎左が皆を圧し止めた。動物のような感がこの男には働くのである。「ようすを見てみろ」次郎左が命令を聞き、破れ戸の隙間からまわりをみやる。鳥海も他の方向を覗き見ている。「くそっ、お主ら、付けられたのか。馬鹿者め」 まわりは、検非違使(けびいし)の侍や、刑部付きの放免(当時の目明かし)らが、十重二十重に取り囲んでいる。検非違使の頭らしい若侍が、あばら家に向かって叫んでいた。「よいか、我々は検非違使じゃ。風盗共、そこにいるのはわかっておる。おとなしく、縛につけ。さもなくば討ち入る」「くくっ、何を抜かしおる」太郎左、次郎左は、お互いをみやって笑った。戦いの興奮の血が体を回り始めているのだ。「来るなら来て見ろ。腰抜け侍め」大声で怒鳴った。「何、よし皆、かかれ」若侍が刀を抜き言った。「ふふっ、きよるわ。きよるわ」「よいか、次郎左。ここは奥州の旅の置き土産。一つ派手にやろうぞ」「わかったわ」 太郎左と次郎左は、後手に隠してあった馬に乗り、並んで頭の方へ駆けていく。侍は、急な突進にのぞける。「ぐわっ」 太郎左の右手、次郎左の左手に、握られていた太刀が交差した。 瞬間、検非違使の頭が血飛沫を上げ、青空に飛びあがっている。後は蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。「ふふっ、少しばかり、馬をいただいておこうか」 三人は逃げ去る侍の方へ目がけて駆けていく。 近畿地方の馬と、阪東や泉王国の馬とは、種類が違っていた。脚力、体長とも、平泉の馬が勝っている。近畿の馬が、軽四輪ならば、平泉や関東の馬は、四輪駆動である。 太郎左たちは、関東に入りつつ、盗みを立ち働いていた 太郎左たちは、関東に入りつつ、盗みを立ち働いていた。まず、第一の目的はよい馬を得ることである。 関東平野の何処か・屋敷武者の家が焼けている。中には多くの死人。そこから阪東の馬に乗り飛び出してくる三人の姿がある。「さすが阪東の馬よのう。乗り心地、走りごこちが違う」 次郎佐は叫ぶ。「それはよいが、次郎左、屋敷に火を放ったか」 太郎佐が、その言葉を受ける。「おお、それは心得ておる。この牧の屋敷は、もうすぐ丸焼けじゃ」「行き掛けの駄賃とはよう言うわ。地下に埋めたあった金品もすべてこちらがものよ」 鳥海が言う。鎌倉の方に向かう三人だった。「義経黄金伝説」 第5回 (続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
2008.04.09
■義経黄金伝説 第4回 作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所 第1章4 一一八六年 京都・後白河法皇(ごしらかわほうおう)の宮殿後白河は望みもせず、運命のいたずらでこうなってしまった天皇であり、上皇であった。 若い頃より今様に打ち込み、政治のことなどはまったく知らぬ政治を治める天皇の器には程遠い、ほうけもの、不良少年、不適格者であると見なされていた。 このあやまって天皇になってしまった男が、日本最大級の政治家になろうとは、京に住む公家の誰もが思わなかったに相違ない。「あの、ほうけものが…」というのが、貴族の一般的な反応であった。 遠くに見える比叡山を背景に人々のざわめきや歌声が響いていた。 後白河の宮殿である。この時期、法皇はよく宮殿を移動している。部下の貴族の邸宅をそれにした。法皇はもの想いにふけっている。法皇にとっては、頼朝は、単なる地方の反乱軍のひとつにすぎす。平家六波羅政権を打ち倒す方策にすぎなかった・それが坂東平家・北条にとりこまれ、このような大勢力になるとは、思いもよらなかったのである。法王が仕掛けた手紙による爆弾は次々に効果を産み、日本全土を混乱のちまた。京都王朝始まっていらいの動乱へと導いていた。朕が悪いか?いやいや、そうではあるまい。崇徳(すとく)じゃ。あの兄の怨霊が、戦乱・地震・飢餓を次々と呼び起こしているのだ。保元元年(1156年)兄崇徳を讃岐に流し、8年後亡くなっている。世に言う保元の乱である。京都鴨川の河岸には鳥べ野で処理できない死体の山がはみだし、川が氾濫する度に腐乱した人間であったもの腐乱した肉片が陸地におしもどされて腐臭を放ち、犬や烏が群れをなしてがそれをついばんでいる。混乱の京都から何人かの貴族流れものが行った。得にに大江家がこれほどはまるとは、、法皇はため息をつく。それに比べて朕の傍には、、、よほど才能というものが、この京あたりには枯渇しておるらしい。いつも考えているのは坂東・奥州のポジションニングの問題なのである。征服王朝である京都王権にとっては、この両地方のバランスが大切なのである。源頼朝はこの両地方を手にいれようとしている。それは許しがたい。何らかの方策が、、ひとつは西行。もう一つは義経。どう転ぶか。予断を許さない。ましてや、西行の計画は法王自身の精神問題にもつながっている。怨霊である。近頃崇徳ののろいが、、苦しめている。憂さ晴らしとして、今様を歌ざるを得ない。騒がざるを得ない。しかし、時代は代わってしまったものよ。法皇は京都政権を守らねばならなかった。武士はとは、殺人をないわいとする職業集団。いみ嫌うその集団を、北面の武士といういわば、親衛隊をつくり自分を守らねばならない。その矛盾はある。26年前、頼朝の事は覚えている。父を、この平安京始まって以来。殺人刑に処した。あの折の頼朝の表情は覚えている・たぶん、朕をうらんでいるであろう。文覚もあの折には、、、 今、後白河は、白拍子たちを集め、宴を開らこうとしているのである。白拍子は流行歌手であり、一種のアイドルである。今様は流行歌であった。「殿下、もっと見目形のよい白拍子を呼ばれた方が…」 関白九条兼実が、その甲高い声で言った。「乙前のことか。兼実は不思議に思うであろうな。あの八十才にも手が届く白拍子を俺が呼ぶのを。が、兼実よ、人の値打ちは見目形や身分や年ではない」「で、何でお決めになると」「才じゃよ」「はっ」「才能じゃ。あの乙前は、今様を数多く謡えることにかけては、当代並ぶものもあるまい。この才においては、兼実、お前ですら、及ばないであろう。それに…」 後白河は、思わず言い捨ててしまいそうになる。氏が何になろう。人間の世は才能よ。それも天賦の才に加えて、才を磨くことに長けたものが生き残ることができる。現に朕がそうだ。 その才能という武器に、お前は気付かぬのか。兼実、所詮、お前は藤原の貴族よのう。「それに、何でございましょう」 やや、惚けた顔で、兼実が尋ねた。「よいか、今様は、民の心の現れだ。民の心知らずして、何ゆえにこの俺は頼朝や秀衡と比べても、民の心がわかっておるだろうて。ましてや、この民の心の歌を書物に纏めて後の世に残して置こうと思うのだ」「ご立派なお心でございます」 民のことを考えるだと、恐ろしいことを言う方だ。この法皇は、今までの院の方々とは少しばかり違う。考え方が桁外れだ。私も考え方を変えねばのう。いままでの院や天皇のように扱うことはできぬ。「よいか兼実、殿上人は申しているであろう。法皇は下々のこともとてもお好きじゃとな。が、この世の中は殿上人や武家だけのものではあるまい。世の中は民で成り立っておるのじゃ。後の世に名が残るのは果たして朕か、頼朝か秀衡か」「それは法皇様でございましょう」 兼実は追従を打った。が、後白河はにやりと笑い、その大きな目を向け、大きな声で言った。「いや、むしろ兼実、お前かもしれんのう」 法皇は笑みを兼実に返した。が兼実は心の奥底にこの冷たいものを感じた。しかし、法皇はもう兼実を見てはいなかった。西行は、奥州に旅立つ前に、法皇を訪れて何かを相談していたのだ。 その西行が出て行った後、京都公家政治の代表的人物である後白河法皇とその寵臣の関白、藤原兼実は、西行に頼んだ企みを毎日のように話し合っている。「どう思う兼実、あのはかりごとの可能性は」「あくまで平泉の秀衡殿の心次第でございましょう。秀衡殿の黄金と東北十七万騎、加えて義経殿のあの武勇、三つ揃いましたなら、鎌倉の頼朝殿も危うございましょう」「そちは義経びいきじゃからのう。が、安心はできまい」「と申しされますと」「鎌倉の頼朝には、大江広元という知恵袋がついているからのう。まあ、よい、いずれに転んでも、朕に腰を屈せねば、この日の本の政権は維持できまい」「誠にその通りでございます、法皇様」「ふふう。さよう、頼朝ごときは俺を大天狗とか呼んでおるようじゃが、俺は天狗どころではないぞ」「が、法王様、天狗といえば、あの弁慶はどうしておりましょう」「さよう、弁慶もくせ者じゃ。何しろ、あやつの背後には、全国の山伏の群れがついておる」「あの弁慶はたしか、法皇さまの闇法師だったのでは……」「そうじゃ。昔はのう」「あの弁慶は、どちらの味方をするか、決めかねておるのでございますね」「さよう、あやつら山伏も、古くは持統帝の頃より情報網を、この日本中張り巡らしておるから恐ろしい奴らじゃ」「彼らの唐より伝わる武術書・『六闘』からあみだした武闘術恐れねばなりますまい」「そうじゃ。ともかくは西行の報告をまとう」 法皇は院御所に植わっている桜の木を見て言う。「ところで、兼実、桜がなかなかきれいじゃのう。一節歌うてみるか」「はっ、これ、誰か白拍子をこれへ。ほんに法皇様は今様がお好きじゃ」 白拍子の一団が、庭に入ってきた。「兼実、これも我が書物、梁塵秘抄のためじゃ、書物のためじゃ。皆歌え」 梁塵秘抄は法皇がまとめている今様の歌集である。 白拍子も、法皇も歌い始める。「おお、これは乙前、朕が師匠殿、一節たのむぞ」 白拍子の乙前が目の前にいたのである。「乙前、今日はどんな歌じゃ。はよう謡ってくれ」 乙前はろうろうと歌い上げた。年を感じさせない。「おお、それはどんな者が謡っておのるだ。詳しく聞かせてくれぬか」 法皇は今までの兼実に見せていた顔と、違う面を見せている。それが、兼実には恐ろしくもあった。この法皇は底知れぬ。「ほほ、ほんに法皇様は歌がお好きですこと」「乙前、この世の中で、今様が一番好きなのはこの朕だ」「ほほう、殿下はおもしろいことをいわれますなあ」 乙前は、ほとんど歯の残っていない口をみせた。 突然、乙前は歌を急にやめる。「法皇さま、西行さまは、、、」怪訝な顔つきである。「そういえば、乙前と西行とは知り合いじゃったのう」「さようでございます。西行殿の外祖父様、源清経殿は我が母を囲っておりました」「そうじゃった。が源清経もわしの今様の師匠じゃ。悪ういうではない」 源清経は目井とその養女乙前を囲っていたのだ。(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
2008.04.08
■義経黄金伝説■第3回■作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所第1章 一一八六年 鎌倉八幡宮2 文治二年(1186)四月八日(承前)大江広元(おおえひろもと)は、これから奥州平泉を攻めようとする頼朝にとっては勝利を確約する、いわば勝利の女神であった。なぜなら、大江広元の曾祖父は、奥州攻略を成功させた八幡太郎の知恵袋だったのである。いわゆるプランニングマスターである。占いの専門職。占いはこの時期の総合科学である。広元は恐怖を感じて青ざめている。このままでは、会場の武士を味方にしてしまう。大殿はいかに、頼朝をかいま見る。政治顧問である,荒法師の異名をとる文覚(もんがく)でさえ、静の舞に内心は心動かされていた。文覚は若い頃、北面の武士の折、色恋沙汰で殺傷事件を起こしている。感情の高ぶりをおさられないのである。この感情の濃さがいい具合に発露すると、それが、勧進となった。また、頼朝に対する挙兵のアジテーションとなった。いわば、頼朝のメンターである。頼朝とは幼き頃、朝廷で顔を見知り置いている。その後、文覚は数々の荒行をこなし今は、江ノ島で、藤原秀郷の呪殺を、頼朝から依頼され、とり込んでいる。先年、後白河法皇から許可を受け、京都から、頼朝の父、義朝の骨を発見し、クビからぶら下げ、東海道を下るという鎌倉幕府成立のパーフオマンスを行い帰ってきたばかりである。この寺は、勝長寿院・大御堂という。骨の髄から、頼朝は、平泉を恐れている。16万の軍旗が、義経という天才に率いられて鎌倉を背後から、また海から襲ってくる事。おそらく、この日本で、義経は最高の軍事指揮官であろう。それは頼朝もいらなぶ、坂東武者もわかっている。傍らに控える大江広元も、文覚も理解しているだろう。この勝利はまさに義経のおかげである。そのため、そのおもいものである静かが、ここで、頼朝に対して恭順のいを著わすべきであった。が政子が、、意図と違う事を、わずかながら、意思の疎通がうまくいかぬ。また、最大のネゴシエイター西行が、この鎌倉を目指していると文覚から、聞いている。京都王朝で、始めて伊勢神宮と、東大寺の手を握らせた男。後白河法王の意図で動く男。そして義経とも、平泉とも、近しい。この坂東でも、佐藤家の威光は輝いている。加えて、当代一の詩人・この文学的功名は、京都貴族の中において光り輝いている。いわば京王朝のエースカード。ジョウカー。また、平泉にとっても最強の交渉カード。まして、民衆の指示を受けつつある重源(ちょうげん)の友人。後ろには結縁衆。恐らくは東大寺を始めとする京宗教集団の力も。意図は何か。西行は1万の武装集団よりも怖い。頼朝はそう思った。源氏は鉱山経営と関連が深い。祖先・源満仲は、攝津多田の庄(現・兵庫県川西市)の鉱山経営の利益を得ている。能勢・川辺・豊島三郡における鉱脈を支配し、最盛期2000を越える抗を穿っていた。鉱山の警備隊として武士団を養い、鉱山経営のうまみを知った源氏は、その後、京都大江山鉱山の利権も手にした。いわゆる大江山鬼退治の伝説であ。源氏は一族の血の記憶として,鉱山経営のうまみをしっている。目指すは奥州金山である。源氏の護り神、八幡神は、産銅・産鉄神である。最終目標は奥州。また、そのためにもこの独立運動はまもらねばならぬ。東国王朝は、源氏の悲願である。奥州平泉王朝を打ち倒す事もまた。それぞれの思いの中やっと頼朝は、言葉を発した。 3 観客席の中央にいる源頼朝が、急に怒鳴っている。「あの白拍子めが。この期に及んで、ましてや鎌倉が舞台で、この頼朝が面前で義経への恋歌を歌うとは、どういう心根じゃ。この頼朝を嘲笑しているとしか思われぬ」 頼朝は毒づいた。それは一つには、政子に対するある種の照れを含んでいる。「よいではございませぬか。あの静の腹のありようお気付きにありませぬか」 政子はとりなそうとした。薄笑いが浮かんでいることに、頼朝は気付かぬ。「なに、まさか義経が子を…」「さようでございます。あの舞いは恋歌ではなく、大殿さまに、我が子を守ってほしいというなぞかけでございます」「政子、おまえはなぜそれを……」 疑惑が、頼朝の心の中にじっくりと広がって行く。今、このおりに頼朝に、自分の腹の内を探らせめる訳にはいかぬ。あのたくらみが、私の命綱なのだから。政子は俯きながら黙っている。「……」「まあよい。広元をここへ」 頼朝の部下、門注所別当・大江広元が頼朝のもとにやってくる。「よいか、広元。静をお前の観察下に置け。和子が生まれ、もし男の子なら殺すのじゃ」[では、殿。もし、女の子ならば、生かして置いてよろしゅうございますな」「……それは、お前に任せる」 広元はちらりと政子の方を見ていた。 頼朝は広元と政子の、静をかばう態度に不審なものを感じている 政子は静を一眼見たときから、気に入っていた。その美貌からではなく、義経という愛人のために頑として情報を、源氏に渡さなかった。その見事さは、一層、政子を静のファンとした。また、京の政争の中に送り込まれるべく、その許婚を殺されたばかりの、政子と頼朝の子供大姫をも味方に取り込んでいた。義経の行方を探索する人間は、何とか手掛かりを取ろうと静の尋問を続けた。が、それは徒労に終わった。尋問した者共も、顔には出さなかったが、この若い白拍子静の勇気を心の中では褒めたたえていた。 観客席の中で、静の動静を悩む者が、もう一人。静の母親磯禅師(いそのぜんし)が、固唾を呑んでその舞いを見ていた。裏切られた。そういう思いが心に広がっている。愛娘と思っていたが、「あの静は、この母が苦労を無にするつもりか……」やはり、血の繋がりが深いものは…。この動乱の時期に女として生き残って来た者の思いが、頭の内を目まぐるしく動かしている。その思いは、しばらくの前のことに繋がる。禅師は、政子の方を見やった。 4「どうか、政子様。我が子静の腹を痛めし子供。生かしてくださいませ」 この舞いの数日前、鎌倉・頼朝屋敷で、許しを得て、床に吸い付くほどに、禅師は頭を下げている。「それはなりませぬ。禅師殿。私が頼朝の妻たることを頼んでこられたと思いますが、私も頼朝殿と同じ考えにございます。思い起こせば平清盛殿の甘さ、頼朝殿や義経殿を生かしておいたが故の平家の滅亡。この源氏も同じ轍を踏みたくはありません」 冷たく、政子は言い放った。 禅師は、もはやあの計画しかあるまいと思い詰めた。頭を上げる。その目には、政子のふくふくしい顔がある。が、その目は冷徹な政治家の目であった。 さてはて、どのような反応をするものか、禅師は心の中でほくそ笑んだ。「が、政子殿。政子殿も頼朝殿も、現在祈願せしことございましょう」「われらが祈願せしこと………」 思った通り、政子の顔色が変わる。それを見て禅師は続けた。ずるがしいこい表情をちらりと見せる。「大姫様を天皇の後宮にお遣わしになること、本当でございましょうか」 小さく呟く。禅師の言葉に、政子は驚ろいている。「どうして、それをあなたが」 大姫のことになると、政子も甘いのである。政治家ではなく、母親の顔になっている。「そのこと、都では噂でございます。清盛殿も同じように娘を皇家に捧げられた。平家の繁栄の礎はその婚姻から始まっていること、京都の童でも知っております。遠くは藤原氏が天皇の外戚となり、権力を握ったこと、知らぬものはござりますまい。それゆえに頼朝殿も大姫様を宮中にあげしことを願うは、これは親の常」 禅師は政子の表情が、少しばかり落ち着いて来るのに気付く。政子は、ここは一つ、この女の話を聞いてみてもよい。悪い話ならば断り、最悪の場合この女を亡き者にすればそれで済む。「して禅師殿、大姫の話と、義経殿の和子を助けるのと、いかような拘わりがあると申すのか」「私、少しばかり、京、宮中には詳しゅうございます。いかにすれば、大姫様のこと、速やかにはこぶか。その者共紹介できぬ訳ではございません。すこしばかりお耳を……お貸し下さいませ」この勝負勝ったと禅師は思う。 話を聞くうちに、政子の冷たい表情が少しばかり打ち解けて来たことが、禅師にもよくわかった。「おお、そのような方をご存じか。さすがは禅師殿じゃ」 京の暗黒界で、清盛の頃から活躍してきた禅師である。田舎育ちの政子とは、キャリアが違うのである。(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
2008.04.08
義経黄金伝説第2回作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所第1章 一一八六年 鎌倉八幡宮2 文治二年(1186)四月八日(承前)あの女、手に入れたい。頼朝はふと思った。たとえ、義経の思いものであったとしても…。 義経の女の趣味は良い。誉めてやりたいぐらいだった。頼朝は今でも心のうちは、京都人である。京都の女が好きなのであった。この田舎臭い鎌倉近辺の女どもには、あきあきしている。が、そのあたりには、異常に感の鋭い政子のために、今までにも、散々な目にあっている。いままた、頼朝はちらりと…、横目で政子の方を向く。視線がばったりあう。いかぬ。政子はその頼朝の心を見抜いているかのようだった。が、政子は、そんな頼朝の思いを知らぬげに、静の舞に見ほれている。よかった。感づかれなかったかと、頼朝は安心した。 政子の思いは別のところにあったのである。北条家・平政子は、この日本のファースト・レディになれたという自負もあり、肌色もよろしく、つやつやしている。新しい坂東独立国が、京都の貴族王朝にもかなわぬ国が、我が夫、頼朝の手でなったのである。 義経のことは、気にならなかった。静という、コマを手に入れているのだから。それに静の体には。「ふふう」と、思わず政子は笑った。 大殿もそのことはご存じあるまい。せいぜい、京都から来た白拍子風情に、うつつを抜かされるがよい。私ども、関東武士。平家の北条家が、この日本を支配する手筈ですからね。あなた、大殿ではない。誇りが、政子の体と心を、一回り大きく見せている。頼朝はある種の恐れを、我妻政子に感じている。やがて,後に政子は、日本で始めて、女性として京都王朝と戦いの火蓋を切るのだが、その胆力は、かいま見えているのだ。 この政子と頼朝に共通している悩みと言えば、それは…愛娘大姫のことであった。舞台の上の静の元気さ、華麗さを見るたびに、比較して打ちし抱かれたようになっている大姫の心の内を思い悩む二人であった。 その問題は二人の、この鎌倉幕府成立の内にたなびく暗雲である。 大姫はうつむきかげんに静の舞いを見ている。舞台を見て嗚咽が会場のあちこちに広がっている。見事である。それが、武士達にとっての正直な感想であろう。いわば敵に囲まれながら、どうどうと義経への恋歌を歌うとは、歌姫・白拍子・女の戦士としては、静は十分にこの戦場で勝利をおさめようとしていた。(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
2008.04.07
■義経黄金伝説■第1回 作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所第1章 一一八六年 鎌倉八幡宮 1 文治二年(1186)四月八日のことである。 鎌倉八幡宮の境内、音曲が響いてくる。「京一番の舞い手じゃそうじゃ」そこに向かう雑色(ぞうしき)が仲間と声高に話していた。相方がこれも声高に答えた。「おまけに義経が愛妾とな」「それが御台所様のたっての願いで、八幡宮で舞うことを頼朝様がお許しになられたのそうじゃ」「大姫様にもお見せになるというな」「おう、ここじゃが。この混み様はどうじゃ」鎌倉の御家人たちもまた、この静の白拍子の舞を見ようと、八幡宮に集まって来ている。大姫は頼朝と御台所・北条政子の娘であり、木曽義仲の子供である許婚を頼朝の命令で切り殺されたところでもあり、気鬱になっていた。去年文治元年(1185)三月平家は壇ノ浦で滅亡している。その立役者が義経。その愛妾が話題の人、静。平家を滅ぼした源氏の大祝賀会である。その舞台にある女が登場するのを、人々はいまか今かと待ち兼ねて、ざわついている。 季は春。舞台に、観客席に桜の花びらがヒラヒラと散ってきて風情を催させる。 その時、どよめきが起こった。 人々の好奇心が一点に集中し、先刻までのどよめきが、嘘のように静まっている。舞台のうえにあでやかな人形があらわれた。 舞殿(まいどの)の上、ひとりの男装の白拍子が舞おうとしている。 頼朝から追われている源義経の愛妾静その人であった。この時、この境内の目はすべて静に注目している。 衣装は立烏帽子に水干と白い袴をつけ、腰には太刀より小振りな鞘巻をはいている。 静は、あのやさしげな義経の眼を思っている。きっと母親の常盤様そっくりなのだろう。思考が途切れる。騒がしさ。ひといきれ。 静の母親の磯禅師は今、側にはしり寄って執拗に繰り返す。「和子を救いたくば、よいか、静、頼朝様の前での舞は、お前の恭順の意を表すものにするのです。くれぐれもこの母が、どれほどの願いを方々にしたか思ってくだされ。わかってくだされ。よいな、静」涙ながら叫んでいる。 が、静にも誇りはあった。 母の磯禅師は白拍子の創始者だった。その二代目が静。義経からの寵愛を一身に集めた女性が静である。京一番といわれた踊り手。それが、たとえ、義経が頼朝に追われようと…。 静は母の思わぬところで、別の生き物の心を持った。要塞都市、鎌倉の若宮大路。路の両側に普請された塀と溝。何と殺風景なと静は思った。その先に春めいた陽炎たつ由比ガ浜が見えている。その相模の海から逃れたかった。 かわいそうな一人ぼっちの義経様。私がいなければ、、そう、私がここで戦おう。これは女の戦い。知らぬうちにそっと自分の下腹をなででいる。義経様、お守り下させ。これは私の鎌倉に対する一人の戦い。別の生き物のように、ふっきれたように、静かの体は舞台へ浮かんだ。 しかし,今、舞台真正面にいる頼朝の心は別の所にある。 頼朝は、2つの独立を画策していた。ひとつは、京都からの独立、いまひとつは、階級からの独立である。武士は貴族の下にいつまでもいる必要がない。とくに、東国では、この独立の意識が強いのだ。西国からきた貴族になぜ、金をわたさなければいけなにのか。だれが一番苦労しているのか。その不満の上に鎌倉は成り立っている。しかし、義経は、、あの弟は、、義経は人生において、常に逃亡者である。自分の居場所がない。世の中には彼に与える場所がない。義経は、頼朝が作ろうとしている「組織」には属することが不可能な「個人」であった。その時代の世界に彼を受け入れてくれる所がどこにもない。 頼朝はまた平泉を思う。頼朝に宿る源氏の地が奥州の地を渇望している。源氏は奥州でいかほどの血をながしたのか。頼朝は片腹にいる大江広元(おおえひろもと)をみる。土師氏(はじし)の末裔。学問を生業とする大江一族。頼朝は京から顧問になる男を呼び寄せる折、あるこだわりを持った。なぜなら、彼の曾父は大江匡房(まさふさ)。博学の士。八幡太郎義家に兵法を伝授し、奥州での勝利を確約したといわれている。頼朝はその故事に掛けている。奥州との戦いのために学問の神、大江家が必要だったのだ。さらに別の人物を頼朝は眺める。文覚(もんがく)は十年前、後白河法王の密命を受けてきた荒法師で、が今は頼朝の精神的な支えとなっている。皮肉な運命だった。法王はそこまで、頼朝が大きくなるとは考えてなかった。 その想いの中を歩む心に、声が響いて、頼朝はふと我にかえる。「しずや、しずしずのおだまき繰り返し、昔を今になすよすがなる。吉野山みねの白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき」 ひらひらと舞台の上に舞い落ちる桜吹雪の中、静は妖精のようだった。人間ではない、何か別の生き物…。 思わず、頼朝をはじめ、居並ぶ鎌倉武士の目が、静に引き寄せられていた。感嘆の息を吐くのもためらわれるほど、 それは…、人と神の境を歩んでいる妖精の姿であった。 ■■■ 広野から見えるその山は、荒錆びた様子で噴煙をあげている。富士山である。「おうおう、何か今の時代を象徴しておるような…」 一人の僧服の老人が、目の前の風景に嘆息をしている。心のうちから言葉が吹き出していた。その歌を書き留めている。詩想が頭の中を襲っている。湧き上がる溢れんばかりの想い。老人は、もとは武士だったのか屈強な体つきである。 勢い立ち噴煙を上げているは富士の山。活火山である。『風になびく 富士のけぶりの空に 消えて行方も知らぬ 我が思いかな』「我が老いの身、平泉まで持つかどうか。いや、持たせねばのう」 老人は、過去を思いやり、ひとりごちた。 豪奢な建物。金色に輝く社寺。物珍しそうに見る若き日の自分の姿が思い起こされて来た。あの仏教国の見事さよ。心が晴れ晴れするようであった。みちのくの黄金都市、平泉のことである。「平泉じゃ、平泉に着きさえすれば。秀衡(ひでひら)殿に会える。それに、美しき仏教王国にも辿り着ける」。僧は、自らの計画をもう一度思い起こし、反芻し始めた。 平泉にある束稲山(たばしねやま)の桜の花の嵐を思い起こしている。青い空の所々が薄紅色に染まったように見える。その彩は、絢爛たる仏教絵巻そのものの平泉に似合っている。それに比べると都市(まち)としては鎌倉は武骨である。「麗しき平泉か、、そうは思わぬか、重蔵殿」言葉を後ろに投げている。後ろの草茂みにいつの間にか、黒い影が人の形を採っている。東大寺闇法師である。「西行(さいぎょう)様はこの風景を何度もご覧に」「そうよなあ、、吾が佐藤家はこの坂東の地にねずいておるからのう」西行ー佐藤家は藤原北家、そして俵藤太をその祖先とする。平将門の乱を鎮めた秀郷(ひでさと)である。「重蔵殿、まだ後ろが気にかかられるか。はっつ、気にされるな。結縁衆(けちえんしゅう)の方々じゃ。ふう、鬼一法眼(きいちほうがん)殿が、良いというのに後詰めにつけてくだされている」 一息。「さてさて、重蔵殿、鎌倉に入る前、いささか、準備が必要じゃ、御手伝いいただけるか」しっかりとした足取りで、西行は歩きはじめた。■■■おなじころ、奈良東大寺。大仏の鋳造も終わり、大仏殿の建築にとりかかろうとしている時勢である。 治承四年(1180)平重衡の手で東大寺をはじめ興福寺の伽藍が焼かれ大仏が焼けた折は、京都の貴族はこの世の終わりと思ったものだが、、勧進聖の手でその姿を再びこの世に現せている。 牛車が荷駄を載せ、大工、石工、彫師、何かわからぬ諸業の人間が一時に奈良に集まり、人のうねりが起こっている。その活気に囲まれ東大寺の仮屋でこの勧進事業の中心人物が、もう一人の若い僧と湯釜からでる湯気を囲んで話し合っている。「どうでございますか。西行さまは」、 若い僧が年老いた僧に尋ねる。「それは西行殿が我が東大寺にためにどれほどの事をしてくださるかという問いかな、、」何か言外に言いたげな風情である。「左様作用でございます」 若い僧ははこの高名な僧の話し振りにヘキヘきする事もあるのだが、なんと言っても当代「支度一番(したくいちばん)」の評判は彼の目から見ても揺ぎ無いところだ。このような難事業はやはりこの漢しかできまい。「蒼いのを、、」「といいますと」少しばかりの怒りが含まれている。「西行殿はあるお方の想いで動いておられる。人生の最後の花と咲かせるおつもりじゃ」「では、平泉の黄金は、大仏の屠金はどうなります、、いあやはやしかし、重源(ちょうげん)さまは西行さまの高野の勧進事業をお手伝いされたのでは、、」若い僧は事態に困惑している。「蓮華乗院の事か。ふう。あれはあれ、これはこれよ。伊勢参拝の件で恩は返してくれている。はてさて物事どう転ぶか、な」 高野山蓮華乗院の勧進を西行が行っていた。治承元年(1177)の事である。 西行の働きで歴史始まって以来初めて、、仏教僧が伊勢神宮に参拝している。重源(ちょうげん)の一団である。西行は神祇信仰者であった。本年文治二年(1186)であった。「重源様は、西行様と高野山では長くお付き合いされたと聞き及びます」「そうじゃ、西行殿が麓の天野別所に妻と子供も住まわせておったこともしっておる。また、弟佐藤仲清殿が佐藤家荘園の田仲庄の事で高野ともめておった事も分っておる。さらに、相国殿(平清盛)との付きあいもな、よく存じ上げておる」 田仲庄は紀州紀ノ川北岸にあり,粉河寺と根来寺の中ほどにある。「ああ、和田の泊まりも重源様の支度でございましたな。そうか。それで、重蔵殿を、、」「そうじゃ。すべては、平泉に這いいてからじゃな」 二人は栄西が中国・宋から持ち帰栽培した茶をたしなんでいる。 独特の香ばしい馥郁たる香りが二人をゆったりと包んでいる。(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所山田企画事務所 飛鳥京香の「義経黄金伝説」 携帯電話版「義経黄金伝説」
2008.04.07
■義経黄金伝説■第1回 作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所山田企画事務所飛鳥京香の「義経黄金伝説」携帯電話版「義経黄金伝説」第1章 一一八六年 鎌倉八幡宮 1 文治二年(1186)四月八日のことである。 鎌倉八幡宮の境内、音曲が響いてくる。「京一番の舞い手じゃそうじゃ」そこに向かう雑色(ぞうしき)が仲間と声高に話していた。相方がこれも声高に答えた。「おまけに義経が愛妾とな」「それが御台所様のたっての願いで、八幡宮で舞うことを頼朝様がお許しになられたのそうじゃ」「大姫様にもお見せになるというな」「おう、ここじゃが。この混み様はどうじゃ」鎌倉の御家人たちもまた、この静の白拍子の舞を見ようと、八幡宮に集まって来ている。大姫は頼朝と御台所・北条政子の娘であり、木曽義仲の子供である許婚を頼朝の命令で切り殺されたところでもあり、気鬱になっていた。去年文治元年(1185)三月平家は壇ノ浦で滅亡している。その立役者が義経。その愛妾が話題の人、静。平家を滅ぼした源氏の大祝賀会である。その舞台にある女が登場するのを、人々はいまか今かと待ち兼ねて、ざわついている。 季は春。舞台に、観客席に桜の花びらがヒラヒラと散ってきて風情を催させる。 その時、どよめきが起こった。 人々の好奇心が一点に集中し、先刻までのどよめきが、嘘のように静まっている。舞台のうえにあでやかな人形があらわれた。 舞殿(まいどの)の上、ひとりの男装の白拍子が舞おうとしている。 頼朝から追われている源義経の愛妾静その人であった。この時、この境内の目はすべて静に注目している。 衣装は立烏帽子に水干と白い袴をつけ、腰には太刀より小振りな鞘巻をはいている。 静は、あのやさしげな義経の眼を思っている。きっと母親の常盤様そっくりなのだろう。思考が途切れる。騒がしさ。ひといきれ。 静の母親の磯禅師は今、側にはしり寄って執拗に繰り返す。「和子を救いたくば、よいか、静、頼朝様の前での舞は、お前の恭順の意を表すものにするのです。くれぐれもこの母が、どれほどの願いを方々にしたか思ってくだされ。わかってくだされ。よいな、静」涙ながら叫んでいる。 が、静にも誇りはあった。 母の磯禅師は白拍子の創始者だった。その二代目が静。義経からの寵愛を一身に集めた女性が静である。京一番といわれた踊り手。それが、たとえ、義経が頼朝に追われようと…。 静は母の思わぬところで、別の生き物の心を持った。要塞都市、鎌倉の若宮大路。路の両側に普請された塀と溝。何と殺風景なと静は思った。その先に春めいた陽炎たつ由比ガ浜が見えている。その相模の海から逃れたかった。 かわいそうな一人ぼっちの義経様。私がいなければ、、そう、私がここで戦おう。これは女の戦い。知らぬうちにそっと自分の下腹をなででいる。義経様、お守り下させ。これは私の鎌倉に対する一人の戦い。別の生き物のように、ふっきれたように、静かの体は舞台へ浮かんだ。 しかし,今、舞台真正面にいる頼朝の心は別の所にある。 頼朝は、2つの独立を画策していた。ひとつは、京都からの独立、いまひとつは、階級からの独立である。武士は貴族の下にいつまでもいる必要がない。とくに、東国では、この独立の意識が強いのだ。西国からきた貴族になぜ、金をわたさなければいけなにのか。だれが一番苦労しているのか。その不満の上に鎌倉は成り立っている。しかし、義経は、、あの弟は、、義経は人生において、常に逃亡者である。自分の居場所がない。世の中には彼に与える場所がない。義経は、頼朝が作ろうとしている「組織」には属することが不可能な「個人」であった。その時代の世界に彼を受け入れてくれる所がどこにもない。 頼朝はまた平泉を思う。頼朝に宿る源氏の地が奥州の地を渇望している。源氏は奥州でいかほどの血をながしたのか。頼朝は片腹にいる大江広元(おおえひろもと)をみる。土師氏(はじし)の末裔。学問を生業とする大江一族。頼朝は京から顧問になる男を呼び寄せる折、あるこだわりを持った。なぜなら、彼の曾父は大江匡房(まさふさ)。博学の士。八幡太郎義家に兵法を伝授し、奥州での勝利を確約したといわれている。頼朝はその故事に掛けている。奥州との戦いのために学問の神、大江家が必要だったのだ。さらに別の人物頼朝は眺める。文覚(もんがく)は十年前、後白河法王の密命を受けてきた荒法師で、が今は頼朝の精神的な支えとなっている。皮肉な運命だった。法王はそこまで、頼朝が大きくなるとは考えてなかった。 その想いの中を歩む心に、声が響いて、頼朝はふと我にかえる。「しずや、しずしずのおだまき繰り返し、昔を今になすよすがなる。吉野山みねの白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき」 ひらひらと舞台の上に舞い落ちる桜吹雪の中、静は妖精のようだった。人間ではない、何か別の生き物…。 思わず、頼朝をはじめ、居並ぶ鎌倉武士の目が、静に引き寄せられていた。感嘆の息を吐くのもためらわれるほど、 それは…、人と神の境を歩んでいる妖精の姿であった。山田企画事務所飛鳥京香の「義経黄金伝説」携帯電話版「義経黄金伝説」
2008.04.07
義経黄金伝説■プロローグ02 作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所山田企画事務所飛鳥京香の「義経黄金伝説」携帯電話版「義経黄金伝説」第1章ーー作者独白ーー日本版三国志の物語。時代は,源平の争いから、鎌倉幕府が成立しょうとしていた時期。瀬戸内海荘園群を経済地盤とする、後白河法王を頂点とする貴族制西国王朝。新興勢力である東国騎馬武士団を率いる源頼朝。古代よりエミシの血を受け継ぐ奥州に黄金・仏教王国を構える藤原秀衡。この三者にあって糸を噤む、当時最大級文化プロデユーサー西行法師。最大級武人、源義経。日本の背後に潜む闇のカタチなく存在する住民、道々の輩。ケッシテ歴史小説ではありません。時代アクション小説です。歴史用語の間違いなどお許しを。ともかく1186年、鎌倉八幡宮、静の舞より、舞台の幕は上がります。、、、―――――――――――――――――――――――――――■義経黄金伝説■プロローグ02 500年後、徳川家康は、頼朝を敬慕し、吾妻鏡を熟読、その政治方針の参考とした。現在に残る吾妻鏡は欠損部が多いといわれるが、これは徳川幕府の施政方針の一環ともいわれる。徳川光圀は、その「大日本」編纂事業のひとつとして、「義経」に関する故事来歴を全国各地から収集させた。それより後、明治時代になり、明治政府および帝国陸軍参謀本部は、また、大陸政策を立案するべく、東京帝国大学の満州探検の奨励、満鉄調査部の研究も奨励した。いわゆる有名な研究資料「笹竜胆印の探求」全書である。むろん義経遺跡の探求を目的とした、ツングース族の口承伝承をも仔細に研究したといわれる。この小説の資料は、東洋文庫及び皇室に保管されている資料を基本とする。GHQがその占領政策にあたって、日本人の精神構造の研究家としてその著書「菊と刀」で有名なべネデイクト女史の指導により、持ち帰ったともいわれている。現時点では、この完全版資料の行方は、行方不明であり捜索中である。この小説は、大阪島本町にある中州興業大学歴史資料館の御協力により、その現存する貴重な資料の一部部分を使用している事を付記しておく。1990年盛夏、著者は、鎌倉にある頼朝に関する遺跡の数々を訪れていた。頼朝公事跡の裏山にそれは合った。大江広元公の墓である。ごねん江戸時代末期、長州藩家老周布が江戸賛府のおり記念の碑を作っている。また、島津家もこの大江家を祖とする。大江は、この国の形を鎌倉幕府で作り、明治維新は、長州・島津家協同の日本革新作業であったとすれば、すべては、やはり、鎌倉に始まるといえよう。小説「義経黄金伝説」は、大江広元公墓に出会ったこの瞬間に生まれた。これは12世紀日本の3つの都市と、京都王朝につかえる3人の騎士の物語である。(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所山田企画事務所飛鳥京香の「義経黄金伝説」携帯電話版「義経黄金伝説」
2008.04.06
義経黄金伝説■プロローグ (全60回)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所■義経黄金伝説■プロローグ ●1180年(治承4年)四国白峰。老僧が荒れ果てた神社の鳥居の前に佇んでいる。鳥居から見える四国瀬戸の荒海はひゅひゅうと音を立てて荒れすさんでいる。「ようやく参りましたぞ、崇徳上皇様、しかし、この荒れよう、いかにかならぬものか。上皇様、上皇様、どうかお姿をお見せくださいませ。西行が、佐藤義清が参りましたぞ」西行は大声で叫んでいる。ここは四国の山中である。が、社殿は静まり返っている。その静けさが、何とも恐ろしい。「いかがなされました。何かご不満がおありになられるのか」「ふ……」どこからともなく、うめき声が、あたりの静寂を破る。突然、風が強くなってくる。空が急激に曇り始め、やがてポツリと西行の頬を雨脚が濡らした。「遅いわ、西行よ。朕を、何年待たせるのじゃ。さような奴輩が多いがゆえ、京都に災いの種を、いろいろ蒔いてやったわ。四つの宮、後白河もいやいや腰をあげたであろう。俺が恐ろしいはずじゃ。う、悔しや。もっとあやつ、、、、後白河を苦しめてやるぞ」その声は恨みに満ち満ちている。「上皇様、お待ちくだされい。民には、何の咎もございませぬ。どうか、他の人々に災いを与えるのはお止めくだされい」「ふふう、何を言う。日本の民が苦しめば、あやつも苦しむ。もっともっと苦しめばよい。俺の恨みはいかでも晴れぬは」「お聞きください、上皇様。では上皇様のための都を新たに作るという策は、いかがでございますか」声が急に途切れる。「何、西行よ、お前、何かたくらんでおるのか。いやいや、お主は策士じゃ。何かよからぬことをたくらんでいるに違いない」意を決して、西行が顔をあげた。「上皇様、奥州でございます」「何、あの国奥州に」「そうでございます。この国の第二の都を。それならば中国にも前例がございましょう」「何、平泉を、第二の京に。そして朕を祭ると、、そういうことか、西行」「さようでございます」西行は、顔を紅潮させていた。「西行、たばかるでないぞ。わかったぞ。朕は、少しばかり様子をみる事としょう。がしかし、再度謀れば、未来永劫、朕はこの国に、祟るぞ」風雨は、急に止み、天に太陽が姿を現す。汗がしたたり落ちている西行の顔は、まぶたが閉ざされている。体が瘧のようにぶるぶると震えている。腰は、地に落ちている。「これでよろしゅうございますか、兄君、崇徳上皇様に告げましたぞ。後白河様。はてさて、恐ろしい約束事を…。この私が平泉を第二の京にしなければなりませぬなあ…」ひとりごちている西行は、心中穏やかではない。西行は四国白峰にある崇徳上皇の塚にいる。崇徳上皇は保元の乱で破れ、弟、後白河上皇に流されたのだ。(続く)作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所
2008.04.06
義経黄金伝説■第47回作 飛鳥京香(C)飛鳥京香・山田企画事務所http://www.yamada-kikaku.com山田企画事務所飛鳥京香の「義経黄金伝説」携帯電話版「義経黄金伝説」第8章 1190年(建久元年) 河内国弘川寺 花の下にて我死なむ■1 1190年(建久元年) 河内国葛城弘川寺葛城の弘川寺に西行はいる。 背後には葛城山脈が河内から紀州に南北に広がり河内と奈良古京の道をふさいでいる。庵の文机に向かい、外の風景を見ていた西行は、いにしえの友を思い起こしていた。平泉を陰都にする企ては、昨年の源頼朝の奥州成敗により、ついえていた。おもむろにつぶやく。「我が目的も、頼朝殿の手によって潰えたわ。まあ、よい。義経殿、またその和子善行も生きておられれば、あの沙金がきっと役に立つだろう」西行は、崇徳上皇のため、平泉を陰都にしょうとした。また、奥州を仏教の平和郷であり、歌道「しきしま道」の表現の場所にしょうとした。それが、鎌倉殿、源頼朝の手で費えたのである。西行はぼんやりと裏山の方、葛城山を見つめている。季は春。ゆえに桜が満開である。「平泉の束稲山の桜も散ったか。俺の生涯という桜ものう……」桜の花びらが散り、山全体が桃色にかすみのように包まれている。「よい季節になったものじゃ」西行はひとりごちながら、表へ出た。何かの気配にきずいた西行は、あたりをすかしみる。「ふふつ、おいでか?」と一人ごちる。 そして、枝ぶりのよい桜の枝をボきボキと折り、はなむけのように、枝を土に指し始めた。ひとわたり枝を折り、草かげの方に向かって、話しかけた。「準備は調いましたぞ。そこにおられる方々、出てこられよ。私が、西行じゃ。何の用かな」音もなく、十人の聖たちが、草庵の前に立ち並んでいた。「西行殿、どうぞ、我らに、秀衡殿が黄金のありか、お教えいただきたい」「が、聖殿、残念じゃが俺らの道中、悪党どもに襲われ、黄金は、すべて奪い去られてしもうた」「ふつ、それは聞けませぬなあ。それに西行殿は、もう一つお宝をお持ちのはず」「もう一つの宝とな。それは」西行の顔色が青ざめた。「そうじゃな、秀衡殿が死の間際に書き残された書状。その中には奥州が隠し金山の在りかすべて記していよう」「よく、おわかりじゃな。が、その在りかの書状のありかを、お前様がたにお教えする訳にはいかぬよ」「じゃが、我らはそういう訳にもいかん」「私も、今は亡き友、奥州藤原秀衡殿との約束がござる。お身たちに、その行方を知らす訳にはいかぬでな」「西行、抜かせ」聖の一人が急に切りかかって来た。西行は、風のように避けた。唐突にその聖がどうと地面をはう。その聖の背には大きな桜の枝が1本、体を、突き抜けている。西行、修練の早業であった。「まて、西行殿を手にかけることあいならぬ」片腕の男が、前に出て来ている。「さすがは、西行殿。いや、昔の北面の武士、佐藤義清殿。お見事でござる」西行は何かにきづく。「その声は、はて、聞き覚えがある」 西行は、その聖の顔をのぞきこむ。「さよう、私のこの左腕も御坊のことを覚えてござる」「ふ、お前は太郎左か。あのおり、命を落としたと思うたが…」いささか、西行は驚いた。足利の庄御矢山の事件のおりの、伊賀黒田庄悪党の男である「危ういところを、頼朝様の手の者に助けられたのじゃ。さあ、西行殿、ここまで言えば、我々が何用できたか、わからぬはずはありますまい」「ふ、いずれにしても、頼朝殿は、東大寺へ黄金を差し出さねばのう。征夷大将軍の箔が付かぬという訳か。いずれ、大江広元殿が入れ知恵か」西行はあざ笑うように言い放った。「西行殿、そのようなことは、我らが知るところではない。はよう、黄金の場所を」「次郎左よ、黄金の書状などないわ」「何を申される。確か、我々が荷駄の後を」「ふふう、まんまと我らが手に乗ったか。黄金は義経殿とともに、いまはかの国にな」「義経殿とともに。では、あの風聞は誠であったか。さらばしかたがない。西行殿、お命ちょうだいする。これは弟、次郎左への手向けでもある」「おお、よろしかろう。この西行にとって舞台がよかろう。頃は春。桜の花びら、よう舞いおるわ。のう、太郎左殿、人の命もはかないものよ。この桜の花びらのようにな」急に春風が、葛城の山から吹きおち、荒れる。つられて桜の花片が、青い背景をうけて桃色に舞踊る。「ぬかせ」 太郎左は、満身の力を込めて、右手で薙刀を振り下ろしていた。が、目の前には、西行の姿がない。「ふふ、いかに俺が七十の齢といえど、あなどるではないぞ。昔より鍛えておる」恐るべき跳躍力である。飛び上がって剣先を避けたのだ。「皆のものかかれ、西行の息の根を止めよ」弘川寺を、恐ろしい殺戮の桜吹雪が襲った。桜の花びらには血痕が。舞い降りる。西行庵の地の上に、揺れ落ちる桜花びらは、徐々に血に染まり、朱色と桃色がいりまじり妖艶な美しさを見せている。「まてまて、やはり、お主たちには歯が立たぬのう」大男が聖たちの後ろから前へ出てくる。西行は、その荒法師の顔を見る。お互いににやりと笑う。「やはりのう、黒幕はお主、文覚殿か」「のう、西行殿。古い馴染みだ、最後の頼みだ。儂に黄金の行方、お教えくださらぬか」西行はそれに答えず、「文覚殿、お主は頼朝殿のために働いていよう。なぜだ」「まずはわしが、質問に答えてくれや。さすれば」「お前は確か後白河法皇の命を受け、頼朝様の決起を促したはず。本来ならば、後白河法皇様の闇法師のはず、それが何ゆえに」西行は不思議に思っていた。文覚は、後白河法皇の命で頼朝の決起を促したのだ。「俺はなあ、西行。頼朝様に惚れたのじゃ。それに東国武士の心行きにな。あの方々は新しき国を作ろうとなっておる。少なくとも京都の貴族共が、民より搾取する国ではないはずじゃ。逆にお主に聞く。なぜ西行よ、秀衡殿のことをそんなにまで、お主こそ、後白河法皇様のために、崇徳上皇のためにも、奥州平泉を第二の京都にするために、働いていたのではなかったのか。それに、ふん、しきしま道のためにも、、」「ワシはなあ、文覚殿。奥州、東北の人々がお主と同じように好きになったのじゃ。お主も知ってのとおり、平泉王国の方々は元々の日本人じゃ。京都王朝の支配の及ばぬところで、生きてきた方々じゃ。もし、京都と平泉という言わば二つの京都で、この国を支配すれば、もう少し国の人々が豊かに暮らせると思うたのだよ」文覚は納得した。「ふふ、貴様とおれ。いや坊主二人が、同じように惚れた男と国のために戦うのか」文覚はにやりと笑う。「それも面白いではないか、文覚殿。武士はのう、おのが信じるもののために死ぬるのだ」西行もすがすがしく笑う。「それでは、最後の試合、参るか」文覚は八角棒を構えた。西行は両手を構えている。八角棒は、かし棒のさきを鉄板で包み、表面に鉄びょうが打たれている。「西行、宋の国の秘術か」「そうよ、面白い戦いになるかのう」(続く)義経黄金伝説■第47回山田企画事務所飛鳥京香の「義経黄金伝説」携帯電話版「義経黄金伝説」
2008.04.06
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