温故知新 0
徐福 0
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信頼一派に加勢した武将の運命は、その後どうなったのか。源義朝と藤原信頼の関係は信西憎しの一点で結びついていた。また、信頼が義朝が関東で勢力拡大をしていた時の武蔵守で、その後も、知行国主であり、義朝の武蔵国への勢力拡大も突然の従五位下、下総守への徐目も信頼の忖度があったと思われる。三条殿を襲撃し逃れた後は信西を倒して以降、信頼が政局の中心に立つ、信西追討の恩賞を受けて義朝は播磨守に任官し、その子・頼朝は右兵衛佐に任じられた。信西を倒したことによって、元々信西憎しの一点で結びついていた後白河院制派と二条天皇親政派は結束するが理由もなくなり空中分解し始める。そして今度は藤原信頼と二条親政派との反目が発生する、離京していた清盛は勝者・信頼に臣従素振りを見せて都に戻る。その後、二条天皇親政派らの謀略によって二条天皇が清盛六波羅邸に脱出したことを知って、形勢が逆転、後白河上皇も仁和寺を脱出する。この段階で義朝は梯子を外された形になった。藤原信頼らに当初同意していた光保は元々二条親政派であるため信頼陣営から離反、源頼政も信頼陣営から距離を置き朝廷の重職らも続々と六波羅に出向いたため清盛軍は官軍の地位を獲得した。こうして一転賊軍となった信頼・義朝らは討伐の対象になり12月27日に京中で戦闘が開始される。平家ら官軍に兵数で大幅に劣っていた義朝軍は壊滅する。 源重成平治の乱では源義朝らと共に信頼方に参加し、この時は信頼が一時拘束した後白河上皇を源光基・季実らと共に護送し、さきの崇徳上皇の例と合わせて「二代上皇を護送」したとして世上に大きな話題を呼んだ。しかし二条天皇が六波羅に御幸すると、藤原信頼派賊軍に転落し、攻め寄せてきた平清盛軍と交戦する。その戦には信頼軍は敗れ、重成は義朝と共に僅かな手勢で東国を目指し落ち延びる。「平治物語」には途中で、美濃にて落人追討の一団に遭遇した歳、義朝を逃がした上でで「我こそは源義朝なり」と名乗り自害した。その際、身元が割れないようにすべく、自ら散々顔面に傷つけた上で果てたという。 源季実は平治の乱では藤原信頼・源義朝に同心して信西を討ち取り、一時的に従五位下・河内守に任じられる。しかし、やがて平清盛の反撃にあい敗走、官を解かれた上で嫡子・季盛と共に捕らえられ斬首された。 鎌田政清は平治の乱では、内裏占拠後は藤原信頼の主導で徐目で佐兵衛慰に任じられる。 待賢院の戦いで義朝の長男・義平と共に清盛長男・重盛と戦い活躍する。六条河原の戦いに源氏が敗れ、義朝が討ち死にしようとするのを引き留めて、義朝の子や大叔父の源義隆、従弟の源重成と共に東国を目して落ち延びていった。途中、近江国の落ち武者への捜査の苦難に遭いながら、義朝主従は政清の舅である尾張国野間内海荘の領主・長田忠致の館に辿り着く。だが、忠致の裏切りにあい、義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちにあい、忠致の子、景致の手にかかって殺された。享年38歳。信西と信頼は、それまでも院政で牛耳ってきた一部の有力藤原一門から、一階の低い官職が平安京を肩書無しで支配した。信西、信頼は関白でも右大臣でもない、二条親政派と後白河親政派の狭間で仕官した下級貴族に過ぎなかった。これら、保元の乱、平治の乱以降は、平氏の時代に移って行く。後白河法皇と二条天皇の対立は廷臣が共倒れたために小康状態となった。「院・内・申し合いつつ同じ御心にて」とある様に、二頭政治が行われたが、乱の勝利の最大の貢献者の清盛は冷静に混乱を判断し、偏よらず、慎重に行動をした。平治の乱で徐目による恩賞で、平氏一門は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職に占め、平氏の知行も増大させ、日宋貿易で得た豊かな財力で、郎等にも維持できる経済基盤は他を抜き出たものになった。京都の公卿や重職の財力は、軍事貴族の戦乱で淘汰された。財力を背景に、京都の治安維持・地方反乱の鎮圧・荘園管理の役割も平氏独占となった。国家的な軍事・警察権も事実上掌握した。それら軍事力・経済力を以て朝廷内も武士の地位を向上させ、確立させた。武家が正三位に叙され、参議に、公卿に任命され、地位に着いた。これを機に平氏は、公卿、殿上人が輩出されて、平氏政権が誕生するのである。平治の乱で、二条天皇も後白河法皇も藤原信頼に押籠められたと書いているが、拘束されたのではない。鳥羽上皇の後継者として当初、守仁親王(二条天皇)が即位するように定められたが、守仁親王が幼少ゆえに中継ぎで雅仁親王(後白河天皇)が即位した。信西は鳥羽上皇の側近であって、鳥羽上皇の言いつけ通り、二条天皇の治世に後白河法皇が院政を敷く資格がないはずだった。将来的に総師信西に院政を停止させられると考えた、後白河法皇は二条親政派による院政を危惧し信西に失脚の示唆をしたと考えらえる。決して、人間的に信西の失脚を意図したことなないだろう。信頼を起用した後白河院は、二条天皇の院政を阻止するために、信頼の手による信西の失脚が、後白河院と二条天皇の対立という不都合に、信頼を切り捨てた。25日の二条天皇の六波羅に御幸の段階で「平治の乱」は終結していた。翌日の義朝はそれを悟った最後の抵抗に過ぎなかった。「平治の乱」を予測してたように、鳥羽上皇は自分の死後を案じて、後白河天皇の即位時に将来を危惧する言葉を述べた。その危険性を避けるために、鳥羽上皇の信西に二頭政治を避けることに信西に託した。予測通り、実父後白河法皇と実子二条天皇の、前代未聞の権力争いが生じた。
2023年07月16日
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四、信西失脚と連座藤原俊憲、信西の息子、保安3年生まれ、父の威光を以て、文学博士、参議、実父譲りの才智を以て登用され、保元の乱後の徐目で右少弁に任官。信西の権勢で要職を歴任し、正5位下に昇叙し、東宮学士など出世を重ね、二条天皇の蔵人頭をも兼ね、院と朝廷の橋渡しもした。平治の乱の勃発で、父、信西は殺害され、更に乱後、戦乱を招いたとして解任ご連座して、流罪に処された。俊憲は越後国に配流になり、これを契機に出家し真寂と称し,宰僧入道と呼ばれた。翌永暦元年には平安京に召喚されるが、その後政治の表舞台に立つことなく、7年後46歳で死去した。 藤原是憲、信西の三男、保延5年生まれ、母は高階重仲の娘。少納言、従5位下、信濃守であったが、平治の乱の父信西に連座して免職され佐渡の配流。21歳で出家し、法然の弟子に成る。浄土宗の僧。是憲は父信西が失脚すると、すぐに信頼の家人らに捕縛され、官職を解かれ、有無を言わさず、佐渡配流の裁可が下された。静賢、信西の子息。天治元年生まれ、天台宗山門派。法印に叙され、法勝寺執行・最勝寺上座など御願寺の要職を歴任。その後、父信西は平治の乱で討たれるが、争乱を招いた当事者として、その遺族が処罰されることになり、静賢もその一人として安房国へ配流される。父が権力の座にあって失脚した、僧侶の身でも容赦がなかった。仏門に入り、仏に仕える身でも「私は俗界を離れ仏に仕える身、何故、裁きや罰を受けねばならぬのか。」と捕縛に来た役人に訴えたが聞き入れられず安房国に配流になった。この際父の俗称の「憲」の字を避け、静賢と改称する。ほどなくして赦免され京に戻り、後白河法皇の側近となる。澄憲、信西の子息、太治元年生まれ。天台僧。蓮行房。安居院法印とも号す。珍兼に師事し天台教学を学び、初め比叡山に北谷竹林院に、その後、竹林院の里房である安居院に住した。澄憲は安居院で勤行中にも関わらず、引っ立てられて、取り調べを受けて、下野国に配流となったが、間もなく帰京している。承安4年には最勝講で祈雨法を修して権大僧都に任じられて、治承元年には明雲から一心三観の血脈を相承した。多くの法会で導師を務め、説法唱導の名手と言われ、安居院流唱導の祖と言われている。藤原成範、信西の子息。父信西の権勢で左近衛少将、左近衛中将、遠江守、播磨守、清盛の娘と婚約し、その前途は盤石であるかに見えたが、平治の乱で、信西が殺害後、連座する形で、罪状を問われ暗転し、下野国に流罪となった。永暦元年2月には早くも赦免され平安京に召し戻された。公卿に列した。藤原脩範、信西の子息。父信西の子息。と言うことで急速に昇進し、従5位下、左近衛少将に叙任されるが、平治の乱に連座し、隠岐国に流罪になった。翌年永暦元年に京に召し戻され本位に復した。覚憲、信西の子息。興福寺に入り、蔵俊に師事して法相・唯識を学び、藤原頼長に将来を嘱望された。平治の乱の後、父信西に連座して伊豆国に配流されたが、安元元年には奈良大安寺の別当に任じられ、興福寺の復興に努めた。建久6年には壺坂寺に隠棲した。 平治の乱で一応落着を見て、徐目が信頼の手によって行われた。この徐目で源義朝は播磨守、嫡男・頼朝は右兵衛権佐となった。信頼は近衛大将になったとするが、『愚管抄』にはその話はない。藤原伊通はこの徐目について「人を多く殺した者が官位を得るなら、なぜ三条殿の井戸に官位をやらないのか」と皮肉を言ったという。信頼の政権奪取には大半の貴族が反感を抱いていたが、二条親政派も義朝の武力を背景とした信頼の独断専行を見て、密かに離反の機会を窺っていた。その最中、東国より兵を率いて馳せ参じた源義平は直ちに清盛の帰路を討ち取ろうと主張したが、信頼はその必要はないと退けた。信頼にしてみれば嫡男・信親とは女の婚姻関係にあり、清盛も自ら協力者に成ると踏んでいた。一方、清盛は、紀伊国で京都の異変を知った。動転した清盛は九州へ落ち延びることを考えたが、紀伊の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の協力で、17日帰京するまで、伊藤景綱・館貞保など伊賀・伊勢の郎党が合流した。清盛の境地を察して、伊勢より馳せ参じた、伊藤景綱は子息を率いて清盛軍の戦陣を挙げて従五位下、伊勢守に任じられた。『保元物語』には景綱が伊勢鈴鹿山で山賊をからめ取って副将軍の宣旨を受けたという武勇が記されている。景綱の子や孫らは平家有力家人として多くの合戦に活躍している。「清盛様、我々一同、境地と聞くに及んで伊勢より千余名の兵をかき集め馳せ参じました。」伊勢景綱の心強い応援に清盛泣かんばかりに感動をおぼえ、「おー、ありがたきことか、深く礼を申すぞ。」また、湯浅宗重は湯浅を拠点に湯浅郎等を数百名、野詣に来ていた清盛と共に京都での信頼の反乱に兵を進めた。「湯浅殿、かたじけない。この恩は必ずや」清盛にとって都を遠くにして遠方の地の応援の兵は何より有難いものだった。また、熊野より行動を共にしていた、熊野本宮の社僧をしていた湛快は、僧兵約千余名が随行していた。ほかにも清盛にかけ参じた武士郎等など合わせ清盛軍は三千名ほどに膨れ上がり、気勢を上げながら京都に向かった。一方、義朝はクーデターのために隠密裏に少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していなかった。やがて、六波羅合戦へと事態は動いていった。信頼側の戦力は、三条殿襲撃に参加した源義朝・源重成・源光基・源季実・源光保の混成軍であった。義朝軍の配下の軍勢は、子息の義平・朝長・頼朝、叔父・義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義などの郎等により形成され、義朝の勢力基盤である関東からは、三浦義澄・上総広常・山内首藤などが参戦した。義澄は義平の叔父、広常は義朝を養君として擁立していた上総氏の嫡男、山内首藤氏は源氏譜代の家人であった。いずれも義朝と個人的に深い関係を持つ武士である。保元の乱では国家による公的な動員だったのに対して今回のクーデターのための隠密裏の招集であり、義朝が動員できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だった。清盛は内裏が戦場に成ることを防ぐために六波羅に敵を引き付ける作戦を立て、た。この戦いで重盛と義平が待賢門で一騎打ちを繰り広げ、御所の右近の橘・左近桜の間を七度も義平が重盛を追い回した。頼盛が退却中敵に追いつかれそうになり、重代の名刀「抜丸」で辛くも撃退した。この時、陽明門を警護していた源光保・光基は門の守りを放棄して寝返った。京都の軍事均衡は大きく変化し、信頼の揺らぐことになる。信西と親しかった内大臣・三条公教は信頼の専横に憤りをいだき、清盛を説得と共に二条親政派の経宗・惟方に接触を図った。経宗・惟方は勝利を収めた反信西だったが、主導権は源義朝の武力を背景とした信頼ら院政派が握っていた。信西殺害に成功して院政派と組む必要が無くなった、経宗・惟方は、密かに平清盛と内通して、信頼に内裏に監禁されている事を知らせた。二条親政派にすれば信西打倒を果たしたことから、信頼ら後鳥羽院政派は御用済みとなっていた。それでも、実権を握った信頼の権勢は大変なもので、保元3年の加茂祭の際、信頼といざこざを起した。「関白忠通か、この間加茂祭で信頼の家人ともめごとが有ったのか?」「はは、ちょとしたことで乱闘となりました」「ならぬ、今日から二カ月間閉門を命じる」「お上様かしこまりました。」関白で有りながら、信頼の家人のいざこざで閉門とは、「なげかしきことよ」とうなだれ引き下がった。関白藤原忠通は後白河上皇から叱責を受けて東三条殿に閉門の憂き目に会った。(忠通は5日後に許されたが、家司の平信範が解官されて二カ月間謹慎した)その後、忠通は嫡子・基実の妻に信頼の姉妹を迎えることとなった。信頼の威光を受けてのことで、その腹から基実嫡子・基通が生まれる。これを見ても信頼の権勢を見ることができる。経教と惟方により二条天皇の六波羅蜜行幸が練られ、伊藤尹明(信西の従弟)が密使を帯びて内裏に参入する。25日早朝、清盛は信頼に名簿を提出して恭順の意を示し、婿に迎えていた信親を送り返した。信頼は清盛が味方に付いたと喜ぶが、義朝は信頼を警護していた清盛の郎党(灘波経房・館貞保・平盛信・伊藤景綱)が「一人当千」の武者であるから危惧したという。清盛が恭順の意を表したのは、信頼・義朝一派を欺くためとは知らかったクーデター一派は油断を招き敗因の要因になった。「上様、惟方でございます。二条帝は内裏を脱出されたにございます。」25日、惟方が後白河の元に訪れ、二条天皇の脱出計画を知らせると、「そうか、朕もここを出て参ろう。」後白河はすぐ仁和寺に脱出した。平治の乱の際、当初は藤原信頼や源義朝らと共に内裏を占拠、信西を殺害して気勢を上げる。だが、信頼の器量に不信感を抱くようになり、兄の光頼の諫めもあって、程なくして信頼から離反を決意。「帝、どうか私と一緒に脱出してください。」経宗や妻の兄弟の藤原尹明らと共謀し、信頼によって監禁されていた二条天皇を女装させた上で平清盛の六波羅まで付き添って脱出させ、戦局の行方を決定的なものにした。日付けが、変わって26日二条天皇は内裏を出て清盛邸である六波羅へと移動する。藤原成瀬(惟方の弟)がこれを触れ回ったことで、公卿・諸大夫は続々六波羅に集結する。「良いか、お上様仁和寺から、帝も内裏から出られたようです。」と公卿や官職に触れ回った。信頼と連携関係にあった摂関家の忠通・基実父子も参入したことで、清盛は一気に官軍として体裁を整えるに至り、信頼・義明の追討の宣旨がくだされた。「上様・帝より我らに官軍の任を下された。」「追討の任も下されたのか」「如何にも」この時から、藤原信頼・源義朝は賊軍となった。26日早朝、天皇・上皇の脱出を知った後白河院制派は激しく動揺し、義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したという。信頼・成親は義朝とともに武装し出陣するが、源師仲は保身の為に三種の神器の一つである内侍所(神鏡)を持ち出した。信頼側の戦力は、三条殿襲撃に参加した源義明、源重成、源光基、源季実、信西を追放した源光保らの混成軍であった。義朝配下の軍勢は、子息の義平、朝長・頼朝・叔父義隆、信濃源氏の平賀義信などの一族、鎌田広常、後藤実基・佐々木秀義などの郎党により形成されており、義朝の勢力基盤である関東からは三浦義澄・上総氏の嫡子、山内首藤氏などが参戦したに過ぎない。義澄は義平の叔父、広常は義朝を養君として擁立していた上総氏の嫡子、山内首藤は源氏譜代の家人であり、いずれも義朝と個人的に深い関係を有する武士である。保元の乱では国家による公的な動員だったのに対して今回のクーデターのための隠密裏の招集であり、義朝が組織できたのは私的武力に限られ兵力は僅少だった。清盛は内裏が戦場となることを防ぐため六波羅に敵を引き寄せる作戦を立て、嫡男・重盛と弟・頼盛が出陣した。重盛と義平が侍賢門で一騎打ちを繰り広げ、御所の右近の桜の間を七度も義平が重盛を追い回した、頼盛が退却中に敵に追いつかれそうになり重代の名刀「抜丸」で辛くも撃退した。この時、陽明門を警護していた源光保、光基は門の守りを放棄して寝返るが、光保は美福門院の家人で政治的には二条親政派であり、信西打倒に信頼に協力していたに過ぎなかった。また、源頼政が味方に着かなかったとするが、もともと頼政も美福門院の家人であり信頼・義朝に従属する立場ではなかった。平氏軍は予定通り退却し、戦場は六波羅近辺へと移った。義朝は決死の覚悟で六波羅に迫るが六条河原であえなく退却する。義朝は平氏軍と頼政軍の攻撃を受け、山内首藤俊通・片桐景重らが必死の防戦する間に戦場から脱出できた。戦いは、信頼派軍の総崩れとなり、平氏軍の一歩的勝利に終わった。藤原信頼・成親は仁和寺の覚性親王のもとに出頭してきた。清盛の前に引き出された信頼は自己弁護をするが、信西殺害、三条殿襲撃の首謀者として処刑された。成親は重盛の室の兄と言う理由で助命され、解官されるに留まった。逃亡していた師仲は、神鏡を手土産に六波羅に出頭するが処罰は厳しく、下総国への配流が決定した。義朝は東国への脱出を図るが途中で頼朝にとはぐれ、朝長・義隆を失い、12月29日尾張国内海荘司・長田忠致の邸に辿り着いたところを鎌田政清とともに殺害された。義朝と政清の首は、正月9日、京都で獄門に晒された。義平は18日、灘波経房の郎党・橘俊綱捕らえられ、21日に、六条河原で処刑された。頼朝も2月9日、頼盛の郎党に・平宗清の郎党に捕まり、処刑されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命された。この背景には頼朝が上西門院の蔵人を務めていたため、上西問院とその近臣、熱田大宮司が待賢門院、近臣家出身の池禅尼に働きかけた可能性が考えらえる。義朝と行動を共にした源重成・季実も滅亡の運命を辿り、ここに後白河院制派は事実上壊滅することになる。合戦が終息した12月29日、恩賞の徐目があり、頼盛に尾張守、重盛が伊予守、宗盛に遠江守、教盛に越中守、経盛に伊賀守にそれぞれに任じられ、平氏一門の知行国は乱前の5ヵ国から7ヵ国に増加した。同日、二条天皇は美福門院の八条殿に行幸し、清盛が警護した。翌永暦元年正月、二条は近衛天皇の皇后だった藤原多子を入内させ、自らの権威の安定に務めた。実権を握った二条親政派の経宗・惟方は後白河院に対する圧迫を強める事となる。正月6日、後白河院が八条堀河の藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河のあった木材の外から打ち付け視界を遮るという嫌がらせを行った。後白河院は激怒して清盛に経宗・惟方の捕縛を命じ、2月20日、清盛の郎等である藤原忠清・源為長が二人の身柄を拘束、後白河院の目前に引き据えて拷問をかけた。貴族への拷問は免除されるのが慣例であるが、後白河の二人に対する憎しみの深さを表している。経宗・惟方の失脚の理由として、信西殺害の共犯者として責任の追及とみられた。2月22日、信西の子息の帰郷が許され、入れ替わりに3月11日、経宗が阿波に、惟方が長門に配流された。6月には信西の首をとった源光保と子の光宗が謀反の疑いで薩摩に配流された、14日、斬首された。信西打倒に関わった者は、後白河院制派、二条親政派を問わず政界から一掃された。
2023年07月16日
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三、信頼の台頭後白河上皇にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。そこで後白河上皇は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。信頼は保元2年に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議・皇后宮権亮、8月に権中納言、11月には検非違使別当と急速に昇進する。もともと信頼の一門は武蔵・陸奥を知行国としており、両国と繋がりが深く、源義朝と連携していた。鳥羽院の近臣・藤原忠隆の4男として生まれ、父の知行国の受領を歴任、右兵衛佐を経て、武蔵守を任じられ、後白河天皇に近侍するや、周囲から「あさましき程の寵愛あり」と言われるまでの籠臣となる。26歳にして正三位・参議になった。これらの昇進に関して『平治物語』では後白河天皇と男色関係の寵愛の為と評されている。「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし、ただ朝恩のみにほこりて」と寵愛によって出世する無能な男と評されている。ただし実務官僚には優れていると評されている。家柄としては祖父は基隆、父の忠隆と共に従三位に叙されており、信頼自身も公卿になる家格を有していた。また、武士達にとって必要な物資を産出する奥州と深い繋がりを持ち、軍事貴族の清盛とも婚姻関係で結ばれていた。九寿2年8月に源義平(義朝の長男)が叔父の義賢を滅ぼした武蔵国大倉合戦においても、武蔵守であった信頼の支援があったと推測される。保元3年8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。急速の台頭する信頼は、信西より26歳もとした。信頼は源義明と連携し、検非違使に就任し、権力を着々と拡大していった。信西が源為朝に容赦ない死罪を命じた非情さが、多くの根深い反発者を生み、その反発を源氏一派と信頼が吸収し勢力拡大につながっていった。「我々、源氏一門は信西の為朝への仕打ちは忘れまい」事あるごとに、源氏一門は言い放った。義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係が強固になった。義朝の武力という切り札を得た信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・基実の婚姻も実現させる。摂関家は保元の乱によって忠実の知行・頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為朝らが処刑されたことで各地の荘園の紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させた。混乱の収拾のためには代替えの武力が必要であり、義朝と密接なつながりのある信頼と提携も止む得ない事であった。後白河上皇の近臣としては他にも、藤原成親や源師仲が加わり院政派の陣営も整えられていった。ここに、信西一門・二条新政派・後白河院政派・平氏一門と言う連携派が出来上がっていった。信頼と信西の確執は、信頼の近衛大将を希望したのを、信西が断ったため確執が生まれたとある。信西一門の政治主導に対する反発が、平治の乱勃発の原因と思われる。二条親政派と後白河院制派は互いに激しく対立していったが、信西排斥と言う点では意見が一致し、信西打倒の機会を窺っていた。二条天皇の即位後は信西の排斥の動きが顕著になっていった。かつての、後白河上皇に寵臣されていた信西に取って代わって、信頼が後白河上皇に信任を得ていたが、信西を突き落としには同意をしていなかったが、二条親政派と後白河上皇一派の反信西派が信西追放が一致していた。一方、清盛は自らの娘を信西の子、成憲に嫁がせていたが、信頼の嫡子・信親にも娘を嫁がせるなど、両派の中立的立場にあった。平治元年1月、清盛が熊野詣に赴き京都を軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。前年の12月9日、深夜、藤原信頼と信頼に同調した武将や軍勢が院御所・三条殿を襲撃する。信頼らは後白河上皇を・上西門院の身柄を確保し、三条殿に火をかけ、逃げる者には容赦なく矢を射かけた。上西門院とは統子内親王鳥羽天皇の二皇女異母兄弟に後白河天皇、崇徳天皇らがいる。警備に当たっていた大江家仲・平康忠、一般官人や女房などが犠牲となるが、いち早くこの動きを知った信西一門は逃亡していた。信頼らは後白河と上西門院を二条天皇が居る内裏内の一本御書所に移して軟禁状態にした。『愚管抄』には後白河は「すゑまいらせて」とあり、信頼は一本御書所に後白河を擁したとも解される記述をしている。後白河を乗せる車は源師仲が用意し、源重成・源光基・源季実が護送した。これは、予め準備周到の上、計画されたもので、二条親政派にも根回し、暗黙の了解を得たものとして決行された。また、平清盛の熊野詣でを知って上の決行の要因も考えられる。源光基は美福門院の家人・源光保の甥であり、京都の治安を預かる検非違使別当は藤原惟方であることから、クーデターは二条親政派の同意があったと推測される。翌10日には、信西の子息4人が捕縛された。22日に全員配流が決定した。信西は一部の家人と逃亡を図り、手勢20人ばかり引き連れ密かに、宇治の木幡付近まで逃げて切ったと思ったが、追手が執拗に信西を追い。追いつかれてしまった。木幡に家人に穴を掘らせて、大きな木箱に自ら入って地中に埋めさせた。信西の逃亡先を聞きつけて、木幡付近に来た源光保・光宗二人は5,60人の追手の手勢に一軒、一軒付近の寺院、神社や屋敷の空き家を探し回った。「この辺りに違いがない。皆、漏れの無いように調べよ」と家人に申し付けた。「光保様、この辺りが怪しいかと」その時、様子を穿っていた信西の家人が遭遇し、刀を抜きあい、戦いになった。「信西一派の者か?」「お前たち、何者か?」「源光保様の家人の者だ」「皆、信頼一派を返り討ちだ」信頼の家人は多勢に無勢で、残った者に拷問を加え信西の隠れ穴を教えてしまった。「ここだ、掘り起こせ」穴の中ではこの騒ぎを知った信西は最早ここまでと刀で自らの喉を突き自決をした。「早く箱のふたを開けろ」畳半畳くらいの中で信西は息絶えていた。13日信西は山代国田原に逃れ、土中に埋めた箱の中に隠れたが、発見され掘り起こされ音を聞き、喉を突き自害した。「首を撥ねよ」家人はまだ生暖かい信西の首を切り落とし、信西の衣を割き袋にして、槍の無きに括り付け、意気揚々と京都へ引き上げていった。光保は首を切って京都の戻り、首は大路を渡された獄門に晒された。信西が自害した翌日の14日、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した信頼は、臨時徐目を行った。その後、その信西殺害の張本人の源光保と甥の藤原光宗は、発見するや殺害、首を撥ねて京都に持ち帰り、京都の都大路に晒し首に処した。すぐさま二人は信頼・義朝の反乱に加担し、二条天皇が内裏から脱出すると、大義を失い信頼側を裏切り、清盛側に寝返った。 保元の乱後、信頼軍が敗れると混乱で信西殺害の処罰を逃れるが、後白河院は信西殺害の意趣返しを忘れなかった。永禄元年6月、源光保、源光宗の二人は、後白河院の命を狙ったと、いう罪状で逮捕された。後白河上皇の示唆で薩摩国に配流され、間髪を置かず、同国川尻において誅殺された
2023年07月16日
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二、総師信西の出現出家をすると言って、失望の日々を送っていた。信西、何の心境の変化か、豹変か、所が、信西は出家しても俗界から離れることなく、「ぬぎかぶる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ」とその心境を詠んでいる。鳥羽上皇の政治顧問だった葉室顕頼が久安4年(1148)55歳で死去すると、顕頼の子が若年だったことから、その地位を奪取することに成功した。急変直下、葉室顕頼の死去で、信西の活路が見えた。「どうじゃ、通憲(信西)いや信西、もう一度、鳥羽殿に仕えてみてはどうか?」「お上様、ありがたきお言葉、もう一度お仕えさせていただきます。と鳥羽上皇の御招きに、信西は快く仕官することに同意した。信西46歳、鳥羽上皇に晴れて、信頼できる腹心に成れることができた。実際は葉室顕頼との相性が悪かっただけだったのか、いや自ら、望んでかのように鳥羽上皇から下命を受けるなどして信任を強固なものにしていった。そのような中で久寿2年に近衛天皇が崩御し、後継の天皇を決める王者決定会議が開かれた。この時も、鳥羽上皇から信西に相談があった。「信西、だれが次の帝に相応しいかのー」「はは、まだ守仁親王は幼き故に、ここは御成人された雅仁親王が相応しいかと存じます」「そうか」ことが信西の助言が思い通りに行く様を見て有力公卿は快くはなかった。候補として重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位すること雅仁親王(後白河天皇)。美福門院はと天皇の皇后藤原徳子、太政大臣の長実の娘、母は左大臣源俊房の娘になり、体仁親王(近衛天皇)を生み、鳥羽上皇を口説き落とし、崇徳天皇を退位させ、崇徳天皇を即位させた。近衛天皇が没すると後白河天皇を即位させた。突然の雅仁親王(後白河天皇)の擁立の背景には、雅仁親王を養育していた信西と美福門院の策動があったと推測される。「うん、どうせ信西の上皇への進言が通りになっただけ」と憎々しく雅仁親王(二条天皇)支持派が望む公卿連中にとって内心の反発があった。美福門院を後ろ盾に、後白河天皇を養育した信西は総師としての地固めをしていった。保元元年に鳥羽上皇が崩御すると信西はその葬儀を取り仕切り、直後保元の乱では対立勢力である崇徳上皇・藤原頼長を挙兵に追い込み、源義朝の夜襲の献策を積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした。乱後、信西は薬子の変を最後に公的に行われていなかった死刑を復活させて、源為義らの武士を処断した。保元の乱では、為義は頼賢、為朝ら一族を率いて崇徳上皇方つき、後白河天皇方の義朝、平清盛らと戦うが敗れる。敗戦後、東国に落ち延びようとしたが、義朝のもとに降伏し、出家する。義朝は自らの戦功に代えて、為朝と弟たちの助命を願うが許されず、義朝によって斬首された。享年61歳であった。これが平安時代の政権が律令に基づいて死刑はとして処罰された数少ない事例であり、これ以降保元元年の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約346年間一件も無かった。「どうか、私の戦功に代えて弟為義のお命だけは」懇願したが、総師信西ら朝廷は許さなかった。この非常な裁可が日々に信西の禍根となって、身を滅ぼして行った。摂関家の弱体化と天皇の親政を進め、保元親政を定め、記録荘園券契所を再興して荘園整理を行うなど、絶大な権力を振るう。また大内裏の再建や相撲節会の復活など手腕を振るった。信西は摂関家の勢力を削ぎ、親政政治を強化させた。この政策を行う上で、信西は自分たちの息子を要職に就けた。そのことが旧来の院近臣や貴族の反感を買った。信西の長男藤原俊憲は実父信西譲りの才智をもって登用され、保元の乱後の徐目では宇少弁に任官、要職を歴任、検非違使、二条天皇の蔵人頭も兼ね参議と公卿に列し、従三位に叙せられた。信西の三男藤原是憲は信濃守、従五位下、少納言に叙せられた。信西の子息の中で三人の出家した静賢は法勝寺執行、最勝寺の上座、法橋に叙せられ、御願寺の要職を歴任した。澄憲は蓮行房、安居院法印とも号し、比叡山北谷竹林院の里房で安居院に住した。信頼に連座して下野国に流されたが、間もなく帰京し、最勝講で祈雨法で導師を務め権大僧都に任じられた。天台宗の明雲から一心三観の血脈を相承した、多くの法会で導師を務め、説法唱導の名手と言われ、安居院流の祖となたt。 信西は、また強引な政治刷新は反発を招いた。一方、保元3年8月には鳥羽法皇が本来の皇位継承者である二条天皇が即位する。この皇位継承は「仏と仏と評定」すなわち美福門と信西の協議で行われた。この二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子を送り込んだ。今度はそのことが天皇の側近に反感を招き、院近臣、天皇側近に「反信西」の動きを生じるようになった。保元元年の保元の乱に勝利した後白河天皇は、「保元親政」と呼ばれる代替わりに新政を発令した。総師信西は政策で荘園制度改革に着手した功績も大きい。「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を強く宣言したこの新政は、荘園整理令を主たる内容にしていた。鳥羽院政期は全国に多くの荘園が形成され、各地に国務の遂行を巡って紛争が起きていた。「この領地は開墾の許可を得て私領になったもので自分の私領と認めてほしい」「記録所では、あなたの私領と記録されていない」あるいは、「国司の業績が認めら、恩賞として与えられた私領であるので認めてほしい」という、高官の訴えや寄進荘園で租税逃れをする、寄進荘園主の狡さに荘園整理令で洗い流すことも必要だった。寺社荘園には租税が微々たる納税で、名義上、寺社荘園にしておく税金逃れが横行していた。三重租税、土地にかかる税、人頭税、住民税が朝廷に入っていく仕組みであった。荘司、郡司、国衙役人と紛争が絶えなかった。荘園地図と言っても、平面的無い「絵図」で登記していたので、紛争が絶え間なかった。荘園制度で公領と私領の明確な線引きがなく、曖昧な点があって、公領を天皇の強権を以て統治し、諸国で紛争が絶えなかった。荘園の乱発が横行し、乱雑になって、朝廷に訴える事案が増えて対応できないようになって行った。この荘園整理令は混乱を収拾して、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図としたものであり、荘園公領制の成立への大きな契機となったと新政と評価されている。その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近の信西であった。「あの、総師信西は役人を、農民を苦しめる悪いやつだ」と巷に公卿たちにも不満を募らす者が増えていった。信西は改革実現のために、記録所を設置する。長官である上卿には大納言・三条公教が就任、実務を担当する右中弁・藤原惟方、左少弁藤原雅頼(信西の子)が起用された。その下で21人の寄人が荘園領主から提出があれば文書の審査、本所間の争論の裁判に当たった。この時、信西は「後白河は暗主」と語った言うことは、その後に重きをなす。「これはいったいどうゆうことだ」と責め立てられた際には「暗主のご指示」の一言で、公家、官職も文句が言えなかった。さらに内裏の復興にも着手して、保元2年10月に再建した。その直後にも新たに親政30か条を出し、公事・行事の整備、官人の綱紀粛正に取り組んだ。この過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女の母とする俊憲・貞憲は弁官として父と共に実務を担当する一方で、紀二位を母とする成憲・脩憲はそれぞれ遠江・美濃の受領となった。「総師信西は身内に優遇し私腹を肥やしている」そんな噂が広まって、敵を増やしていった。信西の最も愚策は、身内を重職に取り立てて反感を買った。周りを身内で固めることで、身の保身と安全を保持したかった。信西自身は、保元の乱で敗死した藤原頼長の所領を没収して後院領に組み込み、自らはその領所に成るほど経済基盤の確保にも余念がなかった。「悪左府の異名の頼長の私領をも剥ぎ取った。総師信西はひどいやつだ」とささやかれ、評判を落としていった。まして、信西の出家の際、引き留めてくれた恩ある人を仇で返した。頼長は綱紀粛正で取り組み、その苛烈で妥協のない政策で、嫌われ終焉は哀れであった。総師信西も禍根を残すような生き方をするのではと「信西の人間性に悖る」と後白河天皇は嘆いた。国政改革推進のために、信西は平清盛を厚遇する。平家一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後には清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛に淡路守、経盛に常盤介と兄弟に四カ国の受領を占めてさらに勢力拡大した。また、荘園整理令、荘官、百姓の取り締まり、神人・悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持の為に、平氏の武力は不可欠だった。大和守に平基盛が任じられたのも、平氏に対する期待の表れであった。大和は興福寺の所領が充満していて、これまで国検をしょうとしても神人・悪僧の抵抗によって悉く失敗に終わった。悪名高い「興福寺僧兵」国検を以て荘園を調査をしょうとすれば、僧兵を以て京都に大挙押しかけ、手の施しようがなかった。検非違使を以て鎮圧をしょうとすれば、興福寺の僧と春日社の神木を奉じて八省に押しかけ「やーやー、お頼み申す。お出会え召され」朝廷の高官の屋敷に騒ぎ立てるに苦慮した、総師信西は平氏の武力の手を借りなければ、対応できなかった。清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度認めるなど柔軟な態度を、大和の知行国支配など行った。さらに、清盛は太宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的に実力を高めた。当時は日宋貿易無くして日本の遺領が成り立たなかった。越前守であった平忠盛は日宋貿易に着目し、後院領である肥前国神崎荘を知行として独自に交易をおこない、舶来品を院に献上し近臣として認めらえるようになった。平氏政権が誕生すると伊勢に産出する水銀など輸出し貿易を行って膨大な資金を得た。信西は、自らの子・成憲と清盛の女の婚約によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調に進行するかに見えた。しかし、ここにもう一つの政治勢力が存在した。美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図る二条親政派である。信西の後白河天皇を擁立したのに対しての、対抗勢力が二条親政派であった。美福門院はかねてよりの念願であった。自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。二条親政派の攻撃は美福門を中心に東宮・守仁親王の擁立を図るグループ(二条親政派)である。美福門は鳥羽法皇から荘園の大半を相続し最大の荘園領主となっており、その意向を無視することは出来なかった。藤原得子(美福門)は待賢門院を出家に追い込んだ今、美福門院の発言力は大きく、実子で近衛天皇は15歳で即位し、17歳で早世した美福門院は守仁の実母が生まれると同時に亡くなって藤原得子(美福門)が養育し人一倍愛情をもって育てたので即位を心待ちをしていた。「信西殿、かねてから申している、守仁の即位は何時になるや」度々の催促に言い逃れの出来なくなっていた。「今上様の御意思をご確認の上しかるべき時期に即位儀を参議の会議で決め等ございます。」「たのみもうしますぞ」美福門院はかねてからの念願であった自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、信西も美福門の要求を拒むことが出来ず、保元3年8月4日、信西と美福門院の協定により後白河天皇は守仁親王に譲位した。ここに、後白河上皇と二条天皇の二元政治が始まった。ここに後白河院制と、二条天皇親政派の対立が始まった。二条親政派は藤原経宗が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。これに対して後白河上皇は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみである。信西自身も元は鳥羽上皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。
2023年07月16日
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『信西と信頼の興亡』 一、信西頭角を現す信西(藤原通憲)は嘉承元年生まれ、出家後の法名は円空、俗名藤原通憲、または高階通憲と名乗り、藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子で正五位下、少納言である。家系は代々学者の家系として知ら、祖父藤原季綱は大学頭であった。信西7歳の頃、父の蔵人所で急死したため、家は没落、縁戚のであった高階経敏の養子になる。高階家は院近臣・摂関家の家司として活動、諸国の受領を歴任するなど経済的に裕福だった。信西は高階家の庇護の下で学業に励み、祖父譲りの才幹を磨き上げていった。その後、養父高階重仲に娘を妻としている。信西は鳥羽上皇の第一の寵臣の藤原家成とは同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛親子とは親しい交流があった。家成は鳥羽上皇の第一の籠臣として活躍し、中央においては、美福門と共に中枢部と関わりが深く、多くの荘園を形成し経済的にも目覚ましい躍進をした。信西も鳥羽上皇に家臣として、一歳下の家成には引き立て貰って、その地位を上げていった。「通憲殿、お主は学問の家系、御所の学問に携わり役立てればよいと思う」「家成様からありがたきお言葉、精進し、過去の帝の資料などを調べております。」と何かにつけ、公卿の身だしなみと、教養を身に着ける努力をする競争相手であった。信西の最初の官位は天治元年18歳の時に中宮少進であり、藤原璋子院号宣下に伴い待賢門院蔵人に補された。待賢門院は藤原璋子で崇徳・後白河天皇の母で朝廷内では大きな発言力を持ち、鳥羽天皇の中宮、その待賢門院の蔵人、蔵人は秘書役で待賢門院の事務方の属し、朝廷の深く関わる重要な地位を占めた。「通憲、わらわの次の予定はどうなっているのか」「はは、崇徳天皇と会われる予定でございます」と通憲は予定記録を受け持ち、蔵人を通じてなければ、待賢門院には面接できなかった。年齢的にも通憲より6歳上で温厚にして、白河天皇に籠姫として7歳にして父公実を失い、祇園女御に養育された。 璋子の子である崇徳天皇の六位蔵人も務めたが、叙爵してから蔵人の任が解かれた。通憲、この年に二人目の妻、藤原朝子が、鳥羽上皇の第4皇子・雅仁親王(後白河天皇)の乳母に選ばれた。通憲(信西)は妻が雅仁親王(後白河天皇)の乳母に選ばれ半ば教育係にもなる存在である・「若上様、和歌はこのように詠みなす」等と言いて皇族の教養を指南していった。その後、散位(位はあるが官職がない)になって信西は長承2年頃から鳥羽上皇の北面(天皇ん警護)に伺候(仕え)するようになり、当世無双の宏才博覧と称された。蔵人の職を解かれ、官位はあるが、官職がない鳥羽上皇の北面になった。北面武士は院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警護、あるいは御幸に供奉した武士の事である。11世紀白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。その後、従来の大学寮の家柄の活かされた、学問所に学んだ、朝廷の事務方に手腕を発揮した。博識を武器に院殿上人、院判官代とその地位を上昇させていき、日向守に任命された。信西の思いは曽祖父・祖父の後を継ぎ大学寮の役職に就いて、学問の家に相応しい学籍を残して家名の再興にあった。高階家の戸籍に入ってしまった以上、資格ははく奪され、大学寮の官職には就けなくなっていた。信西は高階家に養子のように入り、娘を娶り、七人の男子に恵まれ、出自の藤原藤原南家貞嗣流の学問の家柄を付けないことに嫌気がさしたのだろう。これに失望した信西(通憲)は、無力感から出家を考えるようになった。信西の厭世の噂を聞き藤原頼長は信西の才能を惜しみ通憲(信西)に手紙を出し引き留めようとした。「通憲、そなたしかできない、史書の編纂を命じる。」鳥羽上皇は信西(通憲)の才能を見込んで命じたものであった。「はは、私の能力の限りを尽くします」信西(通憲)は44歳から53歳の間に学者の才能を十分に発揮、鳥羽上皇の命により、『六国史』の後を継ぐと言われる史書として『本朝世紀』の編纂をした。宇多天皇から近衛天皇まで扱う、諸家の日記・系図を原文のまま時代順に整頓したものである。信西が平治の乱で死亡したため、未定稿に終わった上に、多くは散逸している。この「本朝世紀」が朝廷内外に評価された。「その才を以て顕官に居らず、すでに以て厭世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡くすなり」と書状を送った。数日後、信西と頼長は対面し世の不条理嘆き、信西(通憲)は「臣、運の拙きを以て一職を帯せず、すでに以て厭世せんとす。人、定めておもえらく、才の高きを以て、天、之を亡す、。いよいよ学廃す。願わくは殿下、廃することなかれ」告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れずに」と涙したという。「そなたの才能を惜しむばかりである」としつこく引き留めようとした頼長は周囲と衝突を繰り返す問題児の態をなし、通憲(信西)は良き理解者で、心の支えで会った。「通憲どの、貴殿なら守仁親王の即位についてどう思う」などと政局の難題に心置きなく相談できる相手でも会った。「私なら中継ぎとして雅仁親王の(後白河天皇)がよろしいかと思われます。」と進言した。頼長は藤原忠通と対立し、孤独であった。「何としてでも通憲の出家は引き止めなければ」と周りに漏らすこと度々あった。「そなたの優れた才能を官職に励めば、家系も残せると言うもの」通憲(信西)は「つまじき者は宮使い」と嘆くのは、人間関係に悩む日々だった。学者なら権力にくみしないだけ、気が楽というもの、そこに鳥羽上皇の出家引き留めが、お声がかりがあって、理由を求められて、言い訳の苦慮する日々が続いた。二回目の妻、藤原朝子が鳥羽上皇の第4子、雅仁親王の乳母に選ばれているのが、益々本来の学寮職家系を遠のかされているに至って、官職に嫌気がさしていた。通憲(信西)が鳥羽院を辞する実際の理由は、葉室顕頼(藤原顕頼)存在があった。「通憲殿、この書類の何の意味じゃ」と意地悪く聞いては、通憲(信西)の面目を潰していった。辞したいが理由が見当たらず、家系の学問の復帰できない悩みを周りのもに漏らし、鳥羽上皇に伝えた。実務官僚でその名を馳せた葉室顕頼(藤原顕頼)通憲(信西)目の上の瘤で、顕頼が健在な内は出世も活路もなかった。 「お前の妻が、我が雅仁親王の乳母だ、縁を切れるようにあってはならない。」通憲(信西)とって有難き言葉だった。鳥羽上皇は出家を思い止めさせようと康治2年、信西に正5位下、翌年には藤原姓を許して、少納言に任命し、更に息子・俊憲に文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である認めて宣旨を与えた。矢継ぎ早に鳥羽上皇の引き留め策に、心が揺らぐが、出家となれば理解がしてもらえる。「上さま、出家してわが身を確かめて見たく思います。」再三の鳥羽上皇への出家願いに折れた形で承諾を貰った。官職のへの人間関係に一時的に厭世的になっていた。信西(通憲)の意思固く、同年出家して信西と名乗った。実際は、鳥羽上皇の腹心として「内外権を執り、際会人に超ゆ」と言われ、通憲(信西)の上司に当たり12歳年上で、とても経験の上で叶わない人であった。「通憲どの、そなたが出る幕ではない。私が事を納めるのでそこに控えているがよい。」と何でも自分で決めてしまう実力者であった。
2023年07月16日
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