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15「薩土密約の履行」中岡慎太郎は11月17日に死去したが、中岡が奔走し締結させた薩土討幕の密約が、その後の土佐藩の将来を決定づけることとなる。慶応3年12月(1867年12月下旬~1868年1月上旬)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。同12月28日(1868年1月22日)、土佐藩・山田平左衛門、吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩へは既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立。1月3日(太陽暦1月27日)、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日(太陽暦1月28日)、山田隊、吉松隊、山地元治、北村重頼、二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦。1月6日(太陽暦1月30日)、谷が土佐に到着。1月8日(太陽暦2月1日)、乾退助の失脚が解かれ、1月13日(太陽暦2月6日)、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した。 ◯薩土密約(さっとみつやく/さつどみつやく)は、江戸時代後期(幕末)の慶応3年5月21日(1867年6月23日)に、京都の小松帯刀(清廉)寓居(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟で、「薩土同盟」とも呼ばれるが、性質の異なる「薩土盟約」も「薩土同盟」と呼ばれるため区別して薩土討幕の密約ともいう。 薩土密約は、土佐藩士が鳥羽・伏見の戦いに際し参戦する根拠となった密約であり、これを起因として始まった戊辰戦争においても、官軍側の勝利に貢献することになる土佐藩の参戦を確約した軍事同盟である。 薩土盟約は土佐藩の公議政体派が大政奉還を通して、温和な手段での同盟を薩摩藩に提起した盟約であり、薩土盟約と薩土密約とは性質が全く異なる。 密約締結までの背景 勤皇の誓い[編集] 文久2年6月(1862年7月)、乾退助(板垣退助)は、小笠原唯八、佐々木高行らと肝胆相照し、ともに勤皇に盡忠することを誓う。 長州の動きを洞察 文久2年6月6日(1862年7月2日)付の片岡健吉宛書簡において退助は、 長州様には今日発駕の由に御座候。長井雅楽の切腹は虚説の趣に御座候[4]。乾退助(『片岡健吉宛書簡』文久2年(1862)6月6日付) と書き送り、国許の片岡に長州藩の動向を伝えている(長井雅楽の切腹は、翌年2月6日)。 尊皇攘夷(破約攘夷派)の退助は、幕府専制による無勅許の開港条約をなし崩し的に是認する事に繋がる長井雅楽の『航海遠略策』(開国策)を、皇威を貶めるものと警戒していたと考えられ、同時期にあたる文久2年6月19日(太陽暦7月15日)の長州藩・久坂玄瑞の日記にも、 私共一同、長井雅楽を斬除仕度決心仕候。雅楽奸妄弁智、身家を謀り、欺君売国之事、衆目之視る所にて候。此度之如く容易ならざる御耻辱を取らせ、恐多くも朝廷を侮慢し国是を動揺仕らんと相謀候事言語同断に有之申候。 彼罪科、去四月中旬言上仕候事に御座候。十九日後、日々熟慮仕候得共未だ時機を得不申候。— 久坂玄瑞 とあり、退助と同様に長井雅楽の『航海遠略策』に真っ向から反対し「朝廷を侮慢している」と糾弾している。 土佐勤王党・間崎哲馬と好誼 退助は、この頃既に土佐勤王党の重鎮・間崎哲馬と好誼を結んでいた。間崎は土佐藩田野学館で教鞭をとり、のち高知城下の江ノ口村に私塾を構えた博学の士で、間崎の門下には中岡慎太郎、吉村虎太郎などがいた。文久2年9月に退助と間崎が交わした書簡が現存する[2]。 愈御勇健御座成され恐賀の至に奉存候。然者別封、封のまま御内密にて御前へ御差上げ仰付けられたく偏に奉願候。参上にて願ひ奉る筈に御座候處、憚りながら両三日又脚病、更に歩行相調ひ申さず、然るに右別封の義は一刻も早く差上げ奉り度き心願に御座候ゆへ、至極恐れ多くは存じ奉り候へども、書中を以て願ひ奉り候間、左様御容赦仰付けられ度く、且此義に限り御同志の御方へも御他言御断り申上げ度く、其外種々貴意を得奉り度き事も御座候へども、紙面且つ人傳てにては申上げ難く、いづれ全快の上は即日参上、萬々申上ぐべくと奉存候。不宣 (文久2年)九月十七日 間崎哲馬 乾退助様 書簡を読む限り別封で、勤王派の重要人物から何らかの機密事項が退助のもとへ直接送られたと考えられている。 青蓮院宮令旨事件 間崎哲馬は、土佐藩の藩政改革を行うため、土佐勤王党が仲介して青蓮院宮尊融親王(中川宮朝彦親王)の令旨を奉拝しようと活動した。12月、佐幕派の青蓮院宮は令旨を発したが、この越権行為が土佐藩主の権威を失墜させるものとして文久3年1月25日(1863年3月14日)に上洛した山内容堂より「不遜の極み」であると逆鱗にふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)、間崎は平井収二郎、弘瀬健太と共に責任をとって切腹した。その2ヶ月後、間崎の門下にあたる中岡慎太郎が乾退助を訪問し、のちに薩土討幕の密約を結ぶ端緒となる(詳細は後述)。
2024年06月26日
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10「揺れ動く土佐藩」8月20日(太陽暦9月17日)、山内容堂が後藤象二郎の献策による大政奉還を幕府へ上奏する意思を示す。 ◯山内 容堂 / 豊信(やまうち ようどう / とよしげ)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主(文政元年10月9日(1827年11月27日) - 明治5年(1872年)6月)。官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進、明治時代には麝香間祗候に列し、生前位階は正二位まで昇った。薨去後は従一位を贈位された。諱は豊信。隠居後の号は容堂。 土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男。母は側室の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称した。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、当時の志士たちからは、幕末の時流に上手く乗ろうとした態度を「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。 藩主就任まで 文政10年(1827年)生まれ。豊信生家である南邸山内家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、豊信は分家の出であったため高知城下で生まれ育った。 13代藩主・山内豊熈の死後、その弟の山内豊惇が跡を継ぐが、藩主在職わずか12日という短さで急死し、山内家は断絶の危機に瀕した。豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがまだ3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった。 豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる薩摩藩島津家などが老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊惇は病気のため隠居したという形をとり、嘉永元年(1848年)12月27日、豊信が藩主に就任した。候姫の格別の推挙と幕閣に働きかけをした上での藩主就任が、その後の容堂の倒幕的行動を制限したとも言われる。 藩主時代 藩主の座に就いた豊信は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物・吉田東洋を起用した。嘉永6年(1853年)、東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立などの藩政改革を断行した。 翌安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。しかし3年後の安政4年(1857年)、東洋は再登用され、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用した。 豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。 阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、容堂ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。 一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し、政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。容堂はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・春嶽・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。 隠居後から大政奉還 前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった当初、忍堂と号したが、水戸藩の藤田東湖の薦めで容堂と改めた。容堂は、思想が四賢侯に共通する公武合体派であり、単純ではなかった。藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった。 謹慎中に土佐藩ではクーデターが起こった。桜田門外の変以降、全国的に尊王攘夷が主流となった。土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である公武合体派の吉田東洋と対立。遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。 文久3年8月18日(1863年9月30日)、京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した。以後、隠居の身ながら藩政に影響を与え続けた。 容堂は、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、逃れることのできた党員は脱藩し、土佐勤王党は壊滅させられた。同年末、容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く、短期間で崩壊した。 東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介によって、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した。
2024年06月26日
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慶応元年(1865年)閏5月11日、武市瑞山を獄に断じ、次いで慶応2年(1866年)、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、さらに上海を視察して海外貿易を研究した。 ◯武市 瑞山(たけち ずいざん)は、幕末の志士、土佐藩郷士。土佐勤王党の盟主。通称の武市 半平太(たけち はんぺいた)で呼ばれることも多い。 幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。 土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士島村源次郎の長女富子。板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたる[2]。 優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。 剣術家 文政12年9月27日(1829年10月24日)、土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。 天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ。嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。 嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き[6]、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。 安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった[7]。この道場の門下には中岡慎太郎や岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡や香美郡での出張教授を行う。 安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流の士学館(桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。 同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場(北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている。 これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる[11]。 安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信が大老・井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年)3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった。 同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬、島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている。 土佐勤王党結成 文久元年(1861年)4月、半平太は江戸で諸藩の攘夷派と交際を持っていた大石弥太郎の招請に応じて剣術修行の名目で出立、7月に江戸に到着し、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊王攘夷派と交流する。半平太は特に久坂に心服し、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」の思想に共鳴した。 土佐藩の尊王攘夷運動の立ち遅れを痛感した半平太は久坂・樺山と三藩の藩論を攘夷に一決して藩主を入京せしめ、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫ろうと提案し、この提案は一同の同意を得ることとなった。8月、半平太は築地の土佐藩中屋敷で少数の同志と密かに土佐勤王党を結成し、大石弥太郎の起草により、隠居させられた老公(山内容堂)の志を継ぎ、一藩勤王を旨とする盟曰(盟約)を定めた。9月に帰国した半平太は同志を募り、坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟した。
2024年06月24日
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11「円仁帰国後の活動」翌年帰京、大法師位に任じられ、翌嘉祥2年(849)延暦寺に灌頂を始終し、翌年春文徳天皇即位に際し、奏請延暦寺に総持院を建て常時修法の道場とした。文徳天皇(もんとくてんのう、827年〈天長4年8月〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)は、日本の第55代天皇(在位:850年5月4日〈嘉祥3年3月19日〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。仁明天皇の第一皇子。母は左大臣・藤原冬嗣の娘、皇太后・順子。承和9年(842年)、承和の変で皇太子・恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父・藤原良房にも推されて代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の譲位により践祚。こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強めた。文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年の3月に第四皇子(惟仁親王、のちの清和天皇)を産んだ。惟仁親王は11月に、生後8か月で3人の兄を押しのけ立太子した。天皇は更衣・紀静子所生の第一皇子・惟喬親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に大内裏の東部にある東宮雅院や、嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかった。また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。9世紀後半における摂関政治や陣定の成立など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある。やがて天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣・源信の諫言で取り止めとなった。かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。宝算32。通説では死因は脳卒中といわれているが、歴史学者の彦由一太はあまりの病状の急変から藤原良房による暗殺説を唱えている。翌翌年文徳天皇に両部灌頂を授けたのをはじめ、清和天皇に菩薩戒、太后に菩薩戒、灌頂を授けた。清和天皇(せいわてんのう、850年5月10日〈嘉祥3年3月25日〉 – 881年1月7日〈元慶4年12月4日〉)は、日本の第56代天皇(在位: 858年10月7日〈天安2年8月27日〉 – 876年12月18日〈貞観18年11月29日〉)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。略歴父・文徳天皇が践祚して4日目に生まれる。第四皇子であり、異母兄に惟喬・惟条・惟彦親王がいたが、 外祖父・藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8か月で皇太子となる。天安2年(858年)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。貞観8年(866年)には伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生した。善男を信頼していた天皇は、事件が解決しない最中の同年8月に良房を正式に摂政に任命した。なお、『日本三代実録』の清和上皇の崩伝記事(元慶4年12月4日条)によれば、応天門の放火の主犯は善男の子である中庸とされて善男はその連座に過ぎないとされたものの、清和天皇の意向によって厳罰に処せられたという。貞観18年(876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、太上天皇となる。2年半後の元慶3年(年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。翌年3月丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。宝算31。陽成天皇即位後の清和上皇が国政に関わったという記録は見えないものの、藤原基経の摂政任命及び上皇の崩御その日に行われた基経の太政大臣任命には上皇の意向が働いていたとする説もある[3]。嘉祥3年(850年) 生誕。同年、立太子。天安2年(858年) 践祚。11月7日(12月15日)に即位(9歳)。貞観8年(866年) 応天門炎上事件(応天門の変)。貞観18年(876年) 27歳で突然譲位。元慶3年(879年) 出家して仏門に帰依。仏寺巡拝の旅へ。元慶4年(880年) 崩御。
2024年06月14日
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文明3年になると信賢と国信の弟で安芸の留守を守っていた武田元綱が西軍の工作で反乱を起こし、毛利豊元も大内氏に誘われて安芸に帰国すると西軍に寝返り、安芸・備後は西軍有利に傾いた。東軍は国人衆に忠誠を誓わせ寝返り防止に努め、山名是豊も備後で転戦して形勢を立て直そうとしたが、文明5年から文明7年の2年間西軍の小早川弘景ら安芸・備後国人衆が東軍方の小早川敬平が籠城する高山城を包囲したにも関わらず救援に来なかったことから人望を失い、備後から追放され消息を絶った。文明7年4月23日に安芸・備後の東西両軍は和睦を結び、中国地方の戦乱は終息に向かった。戦後備後は山名是豊の甥(弟とも)に当たる山名政豊が領有することになり、残党は政豊に討伐された。安芸は武田氏を始め国人が割拠する状態に置かれ、武田元綱は文明13年に信賢の後を継いだ武田国信と和睦、安芸の国人領主として兄から独立し大内氏と友好関係を結んだ。他の国人衆も大内氏との対立を解消し安芸は平穏になったが、戦乱を通して大内氏の影響力は増大、備後で山名政豊と国人が対立して支配が揺らいだため、大内氏と新たに台頭した尼子経久が国人衆を巻き込み衝突していった。御霊合戦文正元年(1466年)12月、畠山義就が突如大軍を率いて上洛し、千本地蔵院に陣取った。これは、文正の政変の結果に満足しない山名宗全、斯波義廉の支援をうけたものであった。足利義政はこの動きに屈し、文正2年1月2日(1467)、畠山政長(管領)や、細川勝元に断ることなく、将軍邸の室町御所に畠山義就を招いた。追い討ちをかけるように足利義政は正月恒例の管領邸への「御成」を中止し、3日後の5日に畠山義就が宗全邸で開いた酒宴に出席、その席で義政は畠山義就の畠山氏総領を認め、畠山政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。畠山政長は反発して管領を辞任し、後任に山名派の斯波義廉が就任した。細川勝元は室町御所を占拠して足利義政から畠山義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して山名宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ山名宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町御所を囲み足利義政に畠山政長や細川勝元らの追放を願い出た。これを知った細川勝元・畠山政長・京極持清はそれぞれ御所の西側・北側・南側に布陣して御所への攻撃を企てた。足利義政は細川勝元の追放は認めなかったが、諸大名が一方に加担しないことを条件に畠山義就による畠山政長への攻撃を認めた。文正2年(1467年)1月18日、政長は無防備であった自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷いた。一方義就は後土御門天皇や後花園上皇、伏見宮貞常親王(上皇の実弟)を一つ車に御乗せして室町御所に避難させた。義政は畠山氏の私闘への関わりを禁じるが、宗全や斯波義廉(管領)、山名政豊(宗全の孫)、朝倉孝景らは義就に加勢した。一方勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかった。このため勝元は「弓矢の道」に背いたと激しい非難を受けた。御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就側は釈迦堂から出兵して政長を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走した。勝元邸に匿われたと言われる。室町御所が山名軍に占拠されたために、勝元は形式上は幕府中枢から排除された。だが、勝元は京都に留まり続けただけでなく、非常事態を口実に細川京兆家の当主として、独自に管領の職務である軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行わせた[12]。大乱前夜御霊合戦の後、細川勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させるなど緊張が高まった。文正2年(1497年)4月5日には元号が文正から応仁に改元された。4月になると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。片や宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、当初から東軍が優位を占めていた。西軍は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は、細川家、斯波家、畠山家と、京極持清、赤松政則、武田信賢であり、西軍の主力は、山名家、斯波家、畠山家、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や、土岐成頼、大内政弘であった。一方、関東や九州では鎌倉公方や少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、中央の大乱より前に戦乱状態に突入していた。
2024年06月12日
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8、「大聖寺藩前田家」*「前田 利治」(まえだ としはる)は、江戸時代前期の大名。加賀国大聖寺藩の初代藩主。小堀政一(遠州)から手ほどきを受けた茶人であった。元和4年(1618)、加賀藩2代藩主・前田利常の三男として誕生する。寛永16年(1639)、父・利常が隠居するにあたり、江沼郡を中心に7万石を分封される。当初、鉱山の開発に力を注ぎ、領内に金山銀山を発見した。この鉱山開発の途上で見つかった良質の陶土と、利治が茶人であったことが、後の九谷焼の生産に結びついた。万治3年(1660)に死去。享年43。跡を弟で養子・利明が継いだ。*「前田 利明」(まえだ としあき)は、江戸時代前期の大名。加賀国大聖寺藩の第2代藩主。寛永14年(1637)12月14日、加賀藩2代藩主・前田利常の庶子(五男)として金沢に生まれる。万治2年(1659)、兄で大聖寺藩初代藩主であった前田利治の養子となり、翌万治3年(1660)に利治が死去したため跡を継ぐ。治水工事や新田開発、用水路改修や製紙業の導入など、富国政策を重視して藩政を確立した名君であった。元禄5年(1692)5月13日に死去し、跡を子の利直が継いだ。1917年(大正6年)11月17日、贈正四位。*「前田 利直」(まえだ としなお)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第3代藩主。寛文12年(1672年)6月25日、第2代藩主・利明の長男として江戸に生まれる。貞享元年(1684)に将軍・徳川綱吉に御目見して以降、綱吉の寵愛を受け、藩主になる以前の元禄4年(1691)に、外様大名の世子の立場にもかかわらず奥詰に任じられ、待遇も譜代大名並に扱われた。翌元禄5年(1692)に父親が死去したために跡を継ぐ。このとき、弟の利昌に1万石を分与して、支藩である大聖寺新田藩を立藩させた。綱吉の側近であった立場から江戸に在府し、国に戻って藩政を執るということがほとんどなかったため、藩政は家臣団によって牛耳られ、実権をめぐっての対立が絶えず、また江戸藩邸の焼失などで藩財政が圧迫した。しかも晩年の宝永6年(1709)、綱吉が死去すると奥詰を解任された上、弟の利昌が大和柳本藩主・織田秀親を刺殺して切腹処分となり、新田藩も改易となるなど、不幸が続く中で、宝永7年(1710年)12月13日に死去した。跡を養嗣子の利章が継いだ。*「前田 利章」(まえだ としあきら)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第4代藩主。元禄4年(1691年)3月16日、加賀藩主・前田綱紀の五男として金沢で生まれる。大聖寺藩の第3代藩主で大叔父にあたる利直の養子となり、宝永7年(1710)に利直が死去したため、翌年1月29日に跡を継いだ。しかし、実父の諫言も聞かずに放蕩三昧な生活を繰り返して藩財政を悪化させ、さらには凶作が原因で正徳2年(1712)に百姓一揆が起こり、享保17年(1732)には幕命による江戸城改修工事による出費でさらに藩財政を悪化させた。元文2年(1737年)9月9日に大聖寺で死去した。享年47歳。跡を長男の利道が継いだ。*「前田 利道」(まえだ としみち)は、江戸時代中期の大名。加賀大聖寺藩の第5代藩主。享保18年(1733年)4月24日、第4代藩主・利章の長男として生まれる。元文2年(1737)の父の死去により跡を継ぐ。宝暦2年(1752)、東海道吉田大橋架け替えの手伝普請が命ぜられるが、完成した橋が半年ほど後に湾曲してしまう事態が生じた。井沢弥惣兵衛為永の子で工事を担当した勘定組頭の井沢弥惣兵衛正房は小普請組に降格され、利道には再度の手伝普請が命じられた。また、治世中に領内が災害に見舞われたこともあり、藩の財政は逼迫した。安永7年(1778)5月25日、家督を子の利精に譲って隠居し、安永10年(1781年)1月14日に死去した。享年49歳。 *「前田 利精」(まえだ としあき)は、加賀大聖寺藩の第6代藩主。宝暦8年(1758年)11月15日、第5代藩主・前田利道の次男として大聖寺で生まれる。宝暦9年(1759)に長兄・利貞が早世したため世子となり、安永7年1778年5月25日に父の隠居により家督を継ぐ。しかし安永10年(1781)、父が死去すると、遊郭に頻繁に通って女狂いとなり、無頼と交じって好き放題にふるまうなど、無法を繰り返すようになる。これら一連の行動に関して、家臣団は無論、本家の藩主・前田治脩も諫言したが、利精は聞く耳を持たなかった。このため天明2年(1782)8月21日、治脩は利精を「心疾」として監禁し、家督は利精の弟である利物に継がせた。寛政3年(1791年)9月15日に大聖寺で死去した。享年34歳歳。*「前田 利物」(まえだ としたね)は、加賀大聖寺藩の第7代藩主。
2024年06月04日
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その後の国清の消息は定かではなく、降伏時に斬殺されたとも流浪の末に大和で窮死したともいう。「津川本畠山系図」は正平17年/貞治元年(1362年)、畠山家記は正平19年/貞治3年(1364)に没したと伝えている。国清の失脚・叛乱によって畠山氏は一時没落したが、後に弟の義深が義詮に許されて越前守護に任命され、以降の畠山氏の嫡流は義深の系統に移った。とはいえ河内国の守護に任命されたのは国清が最初であり、河内畠山氏の実質的な祖は国清であるといえる。*「畠山 義深」(はたけやま よしふか/よしとお 、元弘元年(1331) - 康暦元年/天授5年(1379)10月12日は、南北朝時代の武将。畠山氏6代当主。畠山家国の子。兄弟に畠山国清、足利基氏室が、子に畠山基国、畠山深秋がいる。通称、三郎。増福寺と号。国清とともに幕政に参与、関東で兄とともに北朝方として戦う。以降兄と行動を共にし、康安元年(1361)11月、兄国清が伊豆で挙兵した際もこれに従うが(畠山国清の乱)、敗北し降伏 。貞治5年(1366)、幕府に許され、貞治の変で失脚した斯波高経の分国であった越前守護に任命され、高経を打ち破った。のち、能登守、越中守、河内守、和泉守、紀伊守、伊豆、越前の守護を歴任した[1]。*「畠山 基国」(はたけやま もとくに)は、南北朝時代から室町時代の武将・守護大名。家系は足利氏一門の畠山氏。畠山義深の嫡男。子に満家、満慶がいる。「基」の字は初代鎌倉公方足利基氏より偏諱の授与を受けたものとされているが、活動としては基氏の兄・義詮から続く足利将軍家に仕えて、室町幕府侍所頭人、第6代管領、越前・越中・能登・河内・山城・紀伊守護を歴任した。天授2年/永和2年(1376)に侍所頭人に就任、天授5年/康暦元年(1379)に父が死去したため越前守護を継承したが、同年の康暦の政変で管領となった斯波義将と越中を交換、越中守護に代わった。また、能登は当初は吉見氏頼(吉見氏)、次いで本庄宗成が守護職であったが、いずれも失脚したため元中8年/明徳2年(1391)に基国が守護となり、以後畠山氏の分国となった。弘和2年/永徳2年(1382)に楠木正儀追討を命じられ、正儀に代わって河内守護に就任、畠山氏の河内経営の拠点となる若江城を築城した。明徳3年(1392)1月、楠木正勝の守備する千早城は落城し、正勝らは大和国の吉野十津川方面へと逃走した。楠木氏は60年以上続いた最も象徴的な根拠地を失ったのと同時に、畠山氏は名実共に河内国の支配者となった。 また、元中8年/明徳2年に山名氏が蜂起した明徳の乱では幕府方の一員として参陣、翌年から応永元年(1394)まで侍所頭人に再任、山城守護も兼任した。応永5年(1398)6月には斯波義将の後継として管領に任じられ、応永11年(1404)7月までの6年間を務める。応永6年(1399)に大内義弘が蜂起した応永の乱でも戦い、戦後義弘の領国だった紀伊も領有、摂津欠郡(東成郡・西成郡・住吉郡)と大和宇智郡の分郡守護にも補任された。応永13年(1406年)1月17日、53歳で死去。嫡男の満家が当時失脚していたため、家督は次男の満慶が継いだ。法号は長禅寺殿春岩徳元。後に満慶は満家に家督を譲り能登一国を領有、子孫は分家として満家の系統の本家を支えていった。基国は畠山氏で初めて管領となった人物であり、室町時代に畠山氏が三管領家となった事から、畠山氏の中興の祖と言われている。*「畠山 満家」(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。応永6年(1399)の応永の乱では父と共に幕府軍の一翼を成し、敵将・大内義弘を討ち取る武功を挙げている。しかし、大御所足利義満から疎まれ一時失脚する。家督は父の没後は弟の満慶が継承していたが、義満が死去し4代将軍足利義持の治世になると、満慶から家督を返上され満家が当主となり河内・紀伊・越中3ヶ国の守護となった(「天下の美挙」と称えられた)。義持政権では重きをなし、応永17年(1410)6月から応永19年(1412)3月、応永28年(1421)8月から永享元年(1429)8月までの間に管領を務めた。応永31年(1424)に伊勢守護に補任、正長元年(1428)の北畠満雅の反乱で土岐持頼に交替、同年に山城守護に補任された。義持が引退した後は5代将軍足利義量を補佐したが、義量が早世したため前将軍義持が復帰することになり、再び義持の下で政務にあたった。正長元年、義持が死去した時、後継者を義持の弟4人のうちから籤引きで定めることを決めたのは満家である。この結果、天台座主義円が還俗し、6代将軍足利義教となった。義教の代においても宿老として幕政に重きを成したが、永享5年(1433年)9月19日、62歳で死去した。法号は真観寺殿真源道端。粛清を行なった将軍として恐れられた義教も、満家存命中はその行動を抑制されていた。満家は義教と鎌倉公方足利持氏の融和に努めることで戦争を回避しようと努力していたが、満家が死去したことで義教を抑制する人物がいなくなってしまったため、以後は義教による粛清が行なわれることとなるのである。*「畠山 持国」(はたけやま もちくに)は、室町時代の守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏一門の畠山氏出身。畠山満家の嫡男。義就の父。
2024年06月03日
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22、「越前一向一揆」(えちぜんいっこういっき)は、天正年間に越前国に起きた一向一揆のこと。天正2年(1574年)に越前国で発生した富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆との戦いと、天正3年(1575年)8月から9月にかけて行なわれた織田信長対一向一揆の戦いとに区別して解説する。天正元年(1573年)8月、織田信長の越前侵攻により朝倉義景は攻め滅ぼされ、朝倉氏の旧臣の多くが信長に降伏して臣従することにより、旧領を安堵された。 信長は朝倉攻めで道案内役を務めた桂田長俊(前波吉継)を越前「守護代」に任命し、事実上、越前の行政・軍事を担当させた。しかし朝倉氏の中で特に重臣でもなかった長俊が守護代に任命されたことを他の朝倉氏旧臣は快く思わなかった。特に富田長繁などは長俊と朝倉家臣時代からの犬猿の仲であったため、長俊を敵視するようになった。さらに桂田はこれら元同格の者たちに対して無礼で尊大な態度を取ったため、天正2年(1574年)1月、ついに富田長繁は長俊を滅ぼそうと考え越前中の村々の有力者と談合し、反桂田の土一揆を発生させた。対して、七里頼周と杉浦玄任も長繁を討つべく北ノ庄方面より集められた一揆勢5万人を差し向け、両者は浅水の辺りで激突した。このとき、長繁勢は一揆衆より兵力では圧倒的に劣勢であったが奮戦して一揆勢の先鋒を崩壊させ、潰走する一揆勢を散々に打ち破った(『越州軍記』)。次いで17日夕刻、長繁は浅水の合戦に参戦せず傍観していた安居景健、朝倉景胤らを敵対者と見なし、彼らの拠る長泉寺山の砦に攻撃を仕掛けた。しかし、一揆衆との合戦の影響で疲弊した長繁勢はさしたる戦果を挙げられなかった。長繁は翌18日に再度総攻撃を下知したものの、無謀な合戦を強いる長繁に対して配下の不満と不信が高まり、18日早朝からの合戦の最中、長繁は配下の小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で撃たれて討死、長繁勢は瓦解した。その首は19日、一揆軍の司令官の一人である杉浦玄任の陣に届き、竜沢寺で首実検が行われた。またこの日、一揆勢は白山信仰の拠点であった豊原寺を降伏させて味方につけている。4月に入ると、一揆衆の攻撃は勢いを増し溝江城(別名金津城、溝江館)を落城させ、溝江景逸と溝江長逸ら溝江氏一族は舎弟の妙隆寺弁栄、明円坊印海、宗性坊、東前寺英勝および小泉藤左衛門、藤崎内蔵助、市川佐助らとともに自害して果てた(長逸の一子、溝江長澄だけは溝江城から脱出した)。4月14日、一揆勢は土橋信鏡(朝倉景鏡)の居城である亥山城を攻撃、信鏡は城を捨てて平泉寺に立て籠もったが、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅。信鏡は逃亡を図ったものの、最期はわずかな家臣とともに敵中に突撃、討死した(『朝倉始末記』)。5月には織田城の織田景綱(朝倉景綱)を攻撃する。景綱も奮戦したが寡兵であったことから夜陰に乗じて家臣を見捨て、妻子だけを連れて敦賀に逃走した。こうして、朝倉旧臣団は一向一揆に通じた安居景健、朝倉景胤など一部の将を除いてことごとく滅ぼされ、越前も加賀に続いて「百姓の持ちたる国」となった。結果・影響この結果、信長は越前を失陥することになった、しかし、当時織田氏は武田氏、長島一向一揆、大坂の石山本願寺など他の敵対勢力との抗争に忙殺されており、すぐに失地回復のための討伐軍を派兵することは不可能であった。ところが、七里頼周や新しい越前の領主として石山本願寺から派遣された下間頼照ら坊官の政治は、越前の豪族や寺社勢力、領民の期待に沿うような善政ではなかった。下間らは自らの私利私欲を満たすため、織田氏との臨戦体制下であるという大義名分のもと、桂田長俊以上の重税や賦役を彼らに課した。このため、下間らの統治に不満を抱く層による一揆内一揆が発生、一揆勢は内部から崩壊し始めた。前述のとおり、顕如が越前「守護」として派遣した下間頼照や大野郡司の杉浦玄任、足羽郡司の下間頼俊、府中郡司の七里頼周ら大坊主らは、討伐した朝倉氏旧臣の領地を独占し、さらに織田軍との臨戦態勢下にあると称して、重税や過酷な賦役を越前在地の国人衆や民衆に課すなど悪政を敷いた。
2024年05月30日
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12、「松木 庄左衛門」(まつのき しょうざえもん、寛永2年1月25日(1625年3月3日)-承応元年5月16日(1652年6月21日))は、江戸時代前期の小浜藩の義民。実名は不詳。法号より長操(ちょうそう)とも称される。若狭国遠敷郡新道村(現在の福井県三方上中郡若狭町新道)の庄屋。経歴寛永17年(1640年)、16歳で庄屋の地位を継ぐ。小浜藩では関ヶ原の戦いで木下勝俊が改易されて京極高次が新藩主となったが、これまでの後瀬山城に替わって新たに小浜城を築城したために財政が苦しかった。このため、大豆納の年貢1俵の基準を1俵あたり4斗から4斗5升に改めて増徴を図った。築城で多くの農民が駆り出されたこともあって領民の生活は苦しくなり、藩側に大豆納を元に戻すように要求したが受け入れられなかった。寛永11年(1634年)に京極忠高(高次の子)に替わって小浜藩主となった酒井忠勝も引き続き税制を維持したために人々の不満は高まった。そこで寛永17年(1640年)に入って、若狭国内252ヶ村の名主が集まって郡代官所に陳情を行うことになり、この年に名主となったばかりの庄左衛門他20名を総代として陳情を行った。以後、数十回にもわたって直訴を繰り返したために、承応元年(1652年)に総代全員が捕らえられ、獄中で厳しい拷問を受けた。だが、Ⅰ人庄左衛門のみはこれを耐えて、獄中でもなお大豆納の引き下げを求めた。これに驚いた藩はやむなく大豆納を元の4斗に戻すことに応じたが、代わりに庄左衛門は同国日笠河原で磔に処せられ、28歳の命を終えた(小浜藩領承応元年一揆)。以後、領民は大豆の初穂を神前に供えて彼の威徳を謝した。墓所は日笠河原に近い正明寺にある。昭和になってから、彼を祀った松木神社が建立された。
2024年05月29日
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2、「義民」(ぎみん)とは、民衆のため一身を捧げた人をいう。飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、転じて幕末の尊皇攘夷運動において同様に私財を賭して国のために奔走した町民・商人などもこう呼ばれる。義人とも言うが、江戸時代初期を中心に各地の郷土史には義民伝説が残っている。主に江戸時代、村落共同体の代表として年貢の重圧による生活の困窮を領主、幕府に直訴(越訴)した人物。特に直訴は死罪とされていたため、その行為は義挙と賞賛された。例として、1761年に上田藩(現長野県上田市)浦野組(現長野県青木村上田市別所、塩田など)の農民約一万人が上田城へ押し掛けた上田騒動では、清水半平、中沢浅之丞などが一揆を指導し、死罪に処せられた。なお、水戸藩などでは、尊王攘夷の志に目覚め、水戸藩の志士たちと国事に奔走した義民がいわゆる義民郷士として取り立てられたり、明治維新後、賞典禄を受けた者も多い。 3、「佐倉 惣五郎」(さくら そうごろう、生年不詳 – 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち そうごろう)、通称は宗吾(そうご。惣吾とも)とされる。領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高いが、史実として確認できることは少ない[。惣五郎の義民伝説は江戸時代後期に形成され、実録本や講釈・浪花節、歌舞伎上演などで広く知られるようになった。確認できる生涯かつては非実在説が唱えられたこともあるが、堀田氏時代の公津村名寄帳によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことは確認できる。1715年に成立した『総葉概録』(佐倉藩主稲葉正往の命により藩儒磯辺昌言が編纂)には、堀田氏時代に公津村の「総五」が何らかの罪によって処刑されたこと、「総五」が冤罪であると主張して城主を罵りながら死んだこと、堀田氏の改易(1660年)が「総五」の祟りとみなされたこと、このために「惣五宮」という祠が建てられたことが記されている。しかし、惣五郎が一揆や直訴を行ったということを確認できる史料はない。さまざまな説惣五郎がかかわったのは千葉氏再興運動であったという説もある。また、事件の原因についても、過酷な年貢、隠し田摘発のための検地、利根川付け替え工事などの諸説が挙げられている。鏑木行廣は、承応2年(1653年)に行われた公津村の分村(台方村など5か村に分割された)と翌年の検地による年貢負担増加を史料で確認し、惣五郎が何らかの行動を起こしたのではないかと推測している。
2024年05月29日
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「蜂須賀 重喜」(はちすか しげよし)は、阿波徳島藩第10代藩主。号は公熙、南山、清風齋。元文3年(1738年)、出羽秋田新田藩2代藩主・佐竹義道の四男に生まれる。母は内藤政森の娘。幼名は岩五郎、初名は佐竹義居(さたけ よしすえ)。宝暦4年(1754)8月25日、阿波徳島藩第9代藩主・蜂須賀至央の末期養子として第10代藩主に就任する(至央は第8代藩主・蜂須賀宗鎮の実弟で、兄弟ともに讃岐高松藩松平家の一門松平大膳家からの養子である)。養子入りに際して諱を政胤(まさたね、「政」は藩祖・蜂須賀家政の1字を取ったもの)と改名する。この末期養子は、相次いで後継ぎが早世したために、家老の賀島出雲の提案により決定した。同年9月15日、第9代将軍・徳川家重に御目見する。同年11月25日に元服して家重より偏諱を受けて重喜と改名、従四位下阿波守に叙任する。後に侍従に任官する。宝暦5年(1755)4月15日、初めて領国に入部する許可を得る。留野留川の規制という法令を出し、家中の統制を図る。宝暦・明和期の藩政改革の萌芽と言える(中期藩政改革)。重喜が中心となって行なった改革の内容は、財政再建としての倹約令の施行と、藩体制の変革としての役席役高の制、若年寄の創設などであった。役席役高とは第8代将軍徳川吉宗(家重の父)の享保の改革で行なわれた足高の制を模範としているが、身分序列の崩壊を招いたことで、その性格は異なる。明和6年(1769)10月晦日、藩政宜しからずとして幕府より隠居を命じられ、長男・喜昭(のち治昭に改名)に家督を譲る。重喜32歳歳。隠居後は明和7年(1770)5月、江戸小名木屋敷に移り、大炊頭を称す。安永2年(1773)、療養のため国元へ帰り大谷別邸に住む。天明8年(1788)、かなりの贅沢三昧の生活を幕府に咎められ、江戸屋敷への蟄居を強要されそうになったので、同年8月、阿波の富田屋敷へ移り、江戸行きは免れた。享和元年(1801年)10月20日、富田屋敷で卒去した。享年64歳。蜂須賀家の膨大な蔵書は、重喜以降に増加したと推定される。数代に渡り蜂須賀家が収集した典籍は阿波国文庫と呼ばれる。公家との繋がり蜂須賀家では重喜以降、公家との婚姻が進む。これは、7代藩主蜂須賀宗英(寛保3年(1743)没)の墓が京都の清浄華院にあり、墓参と称した京都入りができた為と言われている。*「蜂須賀 治昭」(はちすか はるあき)は、阿波国徳島藩の第11代藩主。号は敬翁[1]。宝暦7年11月24日(1758)、10代藩主蜂須賀重喜の長男として生まれる。母は立花貞俶の娘・伝姫。幼名は千松丸。やがて父・重喜より偏諱を賜って喜昭(よしあき)を名乗る。明和4年(1767)7月28日、将軍徳川家治に初御目見する。明和6年(1769)10月晦日、父重喜の隠居により、家督を相続するが、父・重喜の失政により出仕をとどめられる。翌明和7年(1770)2月10日に赦される。同年11月7日従四位下阿波守に叙任する。なお、この日に元服し、将軍・家治から偏諱を賜り治昭(はるあき)に改名する。安永元年(1772)12月18日侍従に任官する。安永2年(1773)4月18日在国の許可を得る。文化3年(1806年)、藩祖・蜂須賀家政を祀る國瑞彦神社(徳島市)を建立。文化10年(1813)9月7日隠居し、次男・斉昌に家督を譲る。文化11年(1814)、58歳で死去。蔵書家としても知られていたらしく、足代弘訓は「書物ありきは聖堂なり、次は浅草・守村次郎兵衛(蔵前の札差で俳人)の十万巻、次は阿波の国・蜂須賀治昭の六万巻、次は塙氏(塙保己一)六万巻ばかりあり」と記した[2]。数代に渡り蜂須賀家が収集した典籍は阿波国文庫と呼ばれる。*「蜂須賀 斉昌」(はちすか なりまさ)は、阿波国徳島藩の第12代藩主。寛政7年7月10日(1795)、蜂須賀治昭の次男として生まれる。兄弟たち同様に父より偏諱を受け、諱を初め昭昌(あきまさ)と名乗る。文化6年(1809)、第11代将軍徳川家斉から松平の名字を授与されるとともに、その偏諱を授かり斉昌に改名する。文化10年(1813)9月、父・治昭の隠居にともない跡を継ぐ。この頃になると徳島藩でも財政が悪化していたため、藩政改革が必要となっていた。しかも幕府から甲斐国の河川の築堤などを命じられ、新たに4万5000両も拠出するなど、領民に多大な負担をかけた。子に恵まれなかったため、文政10年(1827)閏6月3日に家斉の二十二男・斉裕を養嗣子に迎えた。やがてこの斉裕が将軍の実子ということで天保6年(1835)12月に斉昌と同じ従四位上に叙せられると、養父としての立場がないと訴えて、天保10年(1839)12月には異例の正四位上叙任が認められるが、その際に老中水野忠邦に対して礼銭名目に4000両もの賄賂を贈ったという噂が庶民にまで広まった(『藤岡屋日記』)。このため、斉昌は財政再建のために徳島藩の特産品とも言えた煙草の専売に乗り出した。さらに、「煙草御口銀」という新たな税を課した。このため、領民は天保12年12月4日(1842)、600人近くが伊予国今治藩に逃散し、その翌年には一揆(山城谷一揆)も起こった。このとき、徳島藩は一揆の首謀者を処罰できなかったと言われており、領民の怒りが凄まじかったことがうかがえる。
2024年05月27日
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また、家臣団も時氏以前からの東国出身の譜代家臣、師義が佐々木氏(京極氏)に追われた後も彼に随従したことから重用された出雲出身の家臣、支配地域で新たに登用された家臣に分かれて争うようになり、それが主家一族の内紛に拍車をかけた。明徳元年/元中7年3月、義満は時義が生前将軍に対して不遜であり、時熙と氏之にも不遜な態度が目立つとして、氏清と満幸に討伐を命じた。時熙と氏之は挙兵して戦うが、氏清が時熙の本拠但馬、満幸が氏之の本拠伯耆を攻め、翌元中8年/明徳2年(1391年)に2人は敗れて没落した。戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職が新たに与えられた。備後も満幸の兄義熙が継承したが、同年に細川頼之に交替させられた。山名氏との対決義満の挑発山名氏を分裂させて時熙と氏之を追放したが、氏清と満幸の勢力が強まってしまった。義満は、今度は氏清と満幸に対して巧妙な挑発を行っていく。元中8年/明徳2年(1391年)、逃亡していた時熙と氏之が京都に戻って清水寺の辺りに潜伏して義満に赦免を嘆願。義満がこれを許そうとしているとの噂が広まった。氏清は不安になり、同年10月の義満を招いての宇治の紅葉狩りを直前になって病を理由に中止してしまい、義満の不興を買う。3月に斯波義将が管領を罷免され、後任の管領に頼之の弟で養子の頼元が就任、四国に逼塞していた頼之が赦免され上洛したことと、政変に参加していた土岐氏が勢力削減されたことから義満は斯波派の打倒も図ったと推測されている。その一方で、山名氏の内紛は観応の擾乱において時氏と師義が一時的に対立して以来の長期にわたる構造的な問題であること、時熙と氏之が討伐された後に氏清が山城守護に任じられた理由が説明できないことから、足利義満による守護大名家惣領への権力集中を回避する政策があったとしても、山名氏そのものに対する一族への分裂策や挑発が実際にあったかどうかは不明で、むしろ山名氏の内紛の深刻化に乱の原因を求めるべきであるとする考え方もある。同年11月、満幸の分国出雲において後円融上皇の御料である仙洞領横田荘を押領して、御教書にも従わなかったとの理由で、満幸は出雲守護職を剥奪され京都から追放されてしまった。仙洞領の保護はかつて応安大法によって規定されたもので、同法の施行時には守護や守護代が召集されて、当時幼少であった将軍義満および管領細川頼之から直々に遵守を命じられた経緯がある土地政策の基本法令であった。当時、幕府による守護統制は重要な課題となっており、幕府にとって重要法令と言える応安大法を無視した守護・満幸に対して解任という厳しい処分を下すことで、他の守護に対しても警告を示すと言う側面もあった。怒った満幸は舅の氏清の分国和泉の堺へ赴いて「昨今の将軍のやり方は、山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説いた。氏清もこれに同意して一挙に京へ攻め上ることを決意する。満幸を分国丹波へ帰国させて丹波路から京へ攻め寄せる準備をさせ、氏清は堺に兵を集めると共に、兄で紀伊守護の義理を訪ねて挙兵を説いた。義理は躊躇するが遂に同意した。氏清は大義名分を得るために南朝に降り、錦の御旗を下賜される。幕府に氏清、満幸謀反の報が12月19日に丹後と河内の代官より伝えられた。幕府重臣らは半信半疑であったが氏清の甥の氏家(因幡守護、氏冬の子)が一族と合流すべく京都を退去するに及んで洛中は大騒ぎになり、重臣達も山名氏の謀反を悟る。12月25日、義満は軍評定を開き、重臣の間では和解論も出た。氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込んだ義満だが、必勝を確信していたわけではなかった。山名氏の勢力は強大であり、時氏の時代には山名氏の軍勢によって2度も京都を占領されているからである。義満は和解論を退け「当家の運と山名家の運とを天の照覧に任すべし」と述べて決戦を決める。内野合戦幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つべく主力5千騎を旧平安京の大内裏である内野に置き、義満と馬廻(奉公衆)5千騎は堀川の一色邸で待機した。一色氏は若狭国の守護であったが、前任守護の斯波氏の時代に小浜など若狭国の主要部を占める今富名が恩賞として山名氏に与えられたために守護領のほとんどが失われて以来、歴代の若狭守護は領国経営の基盤を持てずに苦しんでおり、山名氏に対する強い反感を持っていた[4]。山名軍は決戦を12月27日と定めて、氏清の軍勢3千騎は堺から、満幸の軍勢2千騎は丹波から京都へ進軍した。丹波路を進む満幸の軍勢は26日には内野から三里の峯の堂に布陣する。
2024年05月23日
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1月に幕府では長州処分を「10万石取り上げ」と決まり、朝廷においても裁可されたが、長州ではその命を奉じず備中倉敷などで挙兵の行動に出たため、幕府軍が進発、6月には戦端が開かれた[47]。7月20日、将軍徳川家茂が大阪城で病死した。容保は哀痛の情の中であったが、情勢は一変し、薩摩藩は挙動を変え、征長軍と長州の戦闘は敗報がしきりに続いた。7月22日、薩摩藩が幕府の失体を条挙し、長州の救解を上奏した。容保は奮然として「長門藩兵が勢いに乗じて近畿に迫ることがあれば京の薩摩兵は必ずこれに応じるであろう。しからば前門の虎、後門の狼となり、なすすべがなくなる。座して敵の来るのを待つよりも、我から機先を制するにしくはない。すなわち京師の守護を所司代に譲り、みずから在京の兵を引き連れて石州口から進み、慶喜卿は山陽道の軍を監督し、互いに約して勝敗を一挙に決めれば、他の諸軍も軍気を挽回することができよう」として、慶喜や老中に出征を催促した。しかし慶喜は「肥後守が京から離れれば朝議がたちまち一変する恐れがある」としてひたすらに許さない。8月11日、さらに続く敗報に慶喜は休戦の評議にかかる。容保は大いに不可として慶喜と争ったが容れられず。容保は書簡を呈する。以下抜粋、一つ、将軍家御決定、勅命をもって諸藩へ出兵を仰せ付け、粉骨をつくし藩あり、城を失いし藩あり。しかるに今に至り、筋道に反していない幕府側が解兵を言い出せば、上は天朝、中は諸侯、下は万民への信義立たせざること。一つ、奉命尽力の諸藩を見殺しなされ武道筋に於いていかがこれあるべきや。一つ、違勅をもって賊名負いし者に、再勅出しては、義賊分明せず。忠否乱れ、天下の耳目違乱致し事。一つ、長州が休戦に応じず勢いに乗じ押し寄せるに至りては、一度惰気に相成り人衆の奮発、これあるまじき事。一つ、これまで天幕の命に応じ攻めかかり諸藩へ長州より報復致し候わば、いかがいたすのか。一つ、天前において仰せ立てられ件々にことごとく相反し、節刀をも賜り、申訳これなく。勅諚を改めとなってはこれまでのことも皆偽勅と相成り申すべき事。しかし慶喜も老中も容保の意見は聞かず、容保はただただ慨嘆するのみであった。10月17日、容保は「中納言(慶喜)は京に於いて内外諸制の革新を実行に移す。不肖、守護職が嘱望を集めて対立するようなことがあっては新立の将軍家にとって有害であろう」として守護職の辞職を申請。しかし老中より却下される。この間、過激派公卿が勢い付き巻き返しを図り、二条殿下・中川宮を威嚇し辞職に追い込むよう画策し、また、八・一八の政変の際に追放された公卿の復権など上奏したが、孝明天皇の怒りに触れ退けられている。12月25日、孝明天皇が突然の崩御。容保は最も頼りにして忠義を尽くしてきた2人を続けて失くし、公武一和の策を失うことになる。「これを私にしては数回優渥の聖詔が髣髴として今なお耳にあり、当時を追想する毎に哀痛極りて腸を断んとし、暗涙千行、満腔の遺憾はどこにも訴える所なく、遂に慶応二年も暮れ行きぬ」と容保は回想している。鳥羽・伏見の戦い慶応3年(1867年)2月12日、容保は辞表を提出する。この頃、会津藩士たちの幕府への怒りは怫然として高まる。「いったい幕府は先帝の叡旨を奉行することもできず、軍職にありながら武力の発揚もできず、尽言を進めても採用もしない。わが公に大政に参与するよう命じておきながら大事の決定にも相談せず。今ではもはや輔翼の道は絶えた。天恩の万分の一は報い宗家への義務も尽くした。藩祖公への遺訓にも背かなかったと信ずる。辞職し領土に帰る、今が時期である」との気運が怫然とした。容保は重臣を集め、「国に帰ろう」と言い、重臣らは一人も異議なかった。しかし京都所司代松平定敬、老中板倉勝静らからは「中将が今京を離れれば何が起きるか分からない」と止められ続ける。2月13日、幕府より「将軍家に代わり征長の解兵を奏上せよ」と命じられるが、容保は「この使命はあえてお断りする」と辞退する。4月8日、幕府へ書面にて賜暇を申請する。「昨年国元大火にて城下の過半焼失し、加えて非常の凶作にて四民飢餓離散の程、千万心配仕り候。止むをえざる都合、御察し御許容なされ候よう相願い候」しかし帰国の件は何かと引き伸ばされ、やがて政変に際し実現せずに終わる[54]。4月23日、朝廷より勅を賜り参議に就任する。この勅は元治元年2月に一度辞退しているが、勅には「先帝の叡慮を尊奉、永々守護の職掌を相励み、その功少なからず」とあり、また「再度の推任であるから固辞は許さない」とあり、重臣たちからも「先帝の叡慮云々とあり、さらに押して辞退するのは非礼にあたりましょう」として5月2日にこれを受けた。10月、15代将軍・徳川慶喜より大政奉還の意中を聞き、容保はその英断を賞揚する。10月14日、慶喜が大政奉還を上表、江戸幕府が消滅する。同じ日には「会津宰相に速やかに誅戮を加えよ」と命ずる勅書(討幕の密勅)も出されていた。12月8日、朝議にて長州藩の罪が許され、毛利家の官位が復旧する。12月9日、王政復古の詔勅が下る。この勅をもって守護職と京都所司代は廃止され、帰国が命じられた。蛤御門の守衛も解かれ、土佐藩が替わった。朝廷から幕府へは「大政奉還の至誠を嘉賞し天下と共に同心して皇国を維持するように」とあったが、会津など幕府側は政権からは疎外され、朝議があっても参加させず、実権を握った諸藩士や過激の徒は公卿を誘惑して会津を仇敵視した。
2024年05月22日
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しかしこれより病状は悪化、この後数十日の間起き上がることも出来なくなる。2月18日、会津国元の重臣たちに自身の親書を届ける。この親書には京都の現状の報告や、会津領内民衆の困窮を心配する容保の心情、「会津も海軍を持つように、財政のやりくり、倹約には特に気をつけるように」など、今後の方針や国元の方針などが細かく書かれ「繰り言ながら…頼み入り候」と念を押して依頼している。 またこの親書に天皇より将軍家茂に賜った年始の勅諚の写しを付けて、「この書状、江戸藩邸・蝦夷領内・国元領内、士分以上のものには漏れなく見せ、それ以下、領民に至るまで下々にも本文の趣意を見せ、また聞かせるように」と依頼し、会津の気持ちを一つにと願う容保の心情が伺える。2月24日、幕府からの命により会津の兵制を革新、軍備更張し西洋式を伝習する。2月28日、家臣小室当節、秋月胤永らに命じて摂海の砲台築造工事を監督する。この日、容保は職の辞退を願い出る。病の身で寝たきりのまま職を全うできず時を過ごすことを恐れたためであり、同時に時事の意見を建議した。しかし幕府は慰め諭し、許さなかった。またこの頃、会津の家臣たちは容保が慶喜の指揮を受けることについて「これが実に難儀、切に憂慮である」と心配している。4月7日、京都守護職に復職する。復職の要望は天皇のみならず幕府内にも多く、板倉勝静からは「当時の急務は肥後殿の復職」、徳川茂承からは「皇国の安危に関係仕り候」とあり、新選組に至っては春嶽の支配下を嫌がり容保の下で働きたいと願ってやまないので、50日ぶりの復職となった。しかしこの頃には病が重く、食物は喉を通らず衰弱甚だしく、医者も手をこまねいて術の施しようがなかった。家臣たちは皆呆然として明日はどうなるかと憂慮するのみで、「天朝と幕府の寵命は感銘にたえないけれども、真にいかんともすることもできない」として職の辞退の書面を呈した。書面には「たとえ家来ども力を合わせて周旋仕らせ候とも、行き届き候見込みこれなく、かえって公辺御為筋に相成らず」とある。4月14日、幕府から命があり、辞職は許されず。4月17日、事務の渋滞を恐れて重ねて「心外千万ながら何とも致し方御座なく候」と辞職を願い出る。しかし幕府は懇切にさとして、あえて願いを聞こうとしなかった。4月21日、容保は朝廷より賜った横浜鎖港と長門藩処置についての勅諚を見て、「慄然として痛心にたえず、絶命重大、病気保養している時ではない、むしろ職に斃れて祖宗に報ずべきだ」と決意、守護職の命を拝した。4月28日、天皇の将軍家への恩遇は厚く公武一和が結ばれつつあったが、参与となった雄藩諸侯と幕府有司との間に溝があり、容保を困らせた。幕府有司としては旧来の権威にこだわり、諸侯の声望が上回るのを恐れ参与の連中を嫌悪し、幕府の不利を謀るもののように疑い、権威の失墜を恐れた。参与もまた幕府有司の大勢に暗いことを侮り、有司の意見を退けることが多く、このため大議のたびに議論の場は紛然とした。これにより幕府側は江戸への帰国を謀り、将軍家東帰につながった。国内の安定を願った容保は愕然痛嘆するばかりであった。5月6日、将軍家は東帰の途に就き、容保は続けて京を任された。蛤御門の戦い6月5日、池田屋事件が起こる。配下の新選組が京都の大火を未然に防ぎ、容保の暗殺も阻止した。容保は将軍家に人材の登用を勧め、先に賠償金問題で職を引いていた小笠原長行など有能な諸有司の名を挙げ、力を合わせるようにと書面にしたためた。「いずれも長ずるところこれある人物に候間、国家の急を重んじ、銘々の存意を張らず、一致一和にて合力致し候よう、直に仰せ付けられたく存じ奉り候」6月27日、長州兵襲来の気配ありとの知らせが入る。容保は隊を従え参内、守護し奉るようにと詔をたまい、兵を九条河原まで向かわせた。6月29日、孝明天皇より宸翰が守衛、総督に伝わる。「昨年八月十八日の議、且つその後申し出候件々、真実に候。偽勅との風説これあり候えども必々心得違いあるまじきこと。守護職の議、肥後守へ申し付け候、同人忠誠の周旋、決して私情をもって致し候にてはこれなく、その旨心得べきこと。長州人の入京は決して宜しからざること」7月6日、数日の間撤兵を勧告したが長州兵は従わず、容保は「長州人の主のために哀訴しようというのは臣子の情として無理もないことであるが、大勢の兵で禁裏に迫るのは実に不臣も甚だしきもの。再び諭して、もし応じなければすみやかに掃蕩すべきである」としたが、慶喜は「おだやかに事を運ぶに越したことはない。追討のことはやむをえないという時になってからで遅くはない」と意見が割れた。これをみて会津兵と新選組の面々が「慶喜卿が優柔不断で大事を誤る」と憤り、慶喜の屋敷に直談判しようと乱入する事件が起こる。これには会津の首脳や新選組組頭らも鎮撫に方法がなく、容保に急使を馳せて奉じ、容保が外島義直を出して諭し、ようやく事なきを得た。7月18日、長州兵より送戦状が届く。内容には「肥後守はその性剛腹にて庸劣、名分等を相弁えず、神州崩裂の勢を醸し候はまったくもって松平肥後守その職を得ざるよりのこと、国賊を誅除仕り候ほかは御座あるまじく、尋常に天誅を請け候よう」とある。
2024年05月22日
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関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立った。その最期については、黒田長政軍の菅正利率いる鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、死去した。正午過ぎ、小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり、左近は再び出陣。正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、敵の銃撃により討ち死した。備中早島戸川氏に伝わる伝承によれば、再び出陣の島左近を戸川達安が討ち取った。とする説がある。関ヶ原合戦での戦いぶりは、徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせたことが『常山紀談』に記されている。江戸初期、筑前福岡城において、関ヶ原に出陣し左近を襲撃した老いた武将達がその服装について若侍相手に語り合ったが、指物、陣羽織、具足に至るまでそれぞれ記憶が違い、理由をその恐ろしさに記憶が曖昧であったとしている。享年は61歳。左近の墓地は奈良市川上町の三笠霊苑内、京都市上京区の立本寺塔頭教法院墓地に存在する。この他にも左近の墓は対馬、陸前高田などにもあるとされる。異説・伝説慶長5年(1600)、徳川家康を危険に感じた左近は三成に家康暗殺計画を持ちかけた。これに対して三成もすでに家康暗殺を近江水口岡山城主の長束正家と計画しており、正家に会津征伐で東下する家康をもてなさせ、水口城内で家康を斬るという作戦であった。家康はこの企てを知っており、その夜の内に水口を出立したため、計画は失敗に終わった(『徳川実紀』)。関ヶ原開戦の直前に島津豊久に対して、「若い頃は武田信玄に仕官し山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」と語ったという(『天元実記』)。が、島氏は大和国の在地土豪で筒井氏に長年仕えており、裏付けとなる資料も他にないので、真偽は不明。関ヶ原の戦いを脱して落ち延び、京都に潜伏し寛永9年(1632)に没したとする説もある(『石田軍記』、『古今武家衰退記』、『関ヶ原御合戦当日記』、『新対馬島誌』、『関ヶ原町史』)。左近の遺体は、関ヶ原の合戦で戦死した大谷吉継の首級と共に見つかっていない。さらには合戦後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだという。京都市の立本寺には島清興の墓があり、関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている。位牌や過去帳が塔頭に残され、寛永9年6月26日没などと記されていることがその根拠となっている。静岡県浜松市天竜区に島家の後裔が在住している。23代目の島茂雄によれば、島清興は島金八と名を変えて百姓に変装し、春になると自身の部下を集めて桜の下で酒宴を催したという。また居住地を「おさか」と呼んだといわれており、これは大坂のことと推察されている。隆慶一郎はこの地を訪問して島茂雄から話を聞き、小説「影武者徳川家康」の題材とした。東広島市西条最古の酒造業者、白牡丹は自社の創業に関し、古書において「慶長五年九月 関ガ原の戦に、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。次男彦太郎忠正母と共に京都に在りしが、関ヶ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」とある旨を紹介しており[23]、現在も同社の社長職は島家が引き継いでいる。熊本市の西岸寺には、中興の泰岩和尚は島左近が鎌倉光明寺で出家した後身であり、細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立し、加藤忠広の改易後、細川忠利の肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本に入り情報収集に努めたという由来記が残る。滋賀県伊香郡余呉町奥川並には関ヶ原合戦後も左近は生き延び、同村に潜伏していたという伝承がある。 10、「おわりに」筒井氏については多くの謎をはらんで戦国大名を生き続けたが、家臣に恵まれず、後継者にも恵まれず、運にも見放され、戦国の世に埋没した武将であった。また、主君としての信長や秀吉にも評価されず、疎外され冷遇され続け、誤解の上に、主君選びに、選択にも見誤り、時代の狭間に翻弄された戦国大名であった。後世の評価は芳しくないが、戦国の世を上手くわたり切れなかった不遇な面も否めない。了
2024年05月20日
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また、三好氏の場合は在京の幕臣の中に義輝殺害に対する反発や義栄への非協力的な動き(特に行政実務を担当していた奉行衆でこの動きが強く、一部は義昭の生存を知って越前に向かう)があり、三好氏に擁された義栄が上洛できる環境にはなかったとする指摘もあり、実際に三好氏は京都周辺にあった幕臣の所領の安堵と引換に義栄陣営への取り込みを図っている。そこで朝廷は2人の将軍候補に対して取り敢えず一万疋(百貫)の銭貨の献金を将軍就任の要件として求めた。これに対して先に応じたのは義栄であった。義栄は一万疋の献金を半分にまけて貰った上に永禄11年(1568)2月に摂津富田において将軍宣下を受けた。だが、京都の情勢は不安定で義栄の入京は先送りとなった。ところが、義昭は尾張の織田信長に頼って同年9月に上洛、織田軍は三人衆の勢力を駆逐、久秀と義継は信長に降伏、富田の義栄は阿波に逃れるものの間もなく病死した。朝廷は10月になって義昭を新将軍とした(義栄の死去日ついては諸説あり、前将軍の義栄は解任されたか死去によって将軍職が空席になったのかは不明である)。義昭は先の義栄将軍宣下の関係者の処分を要求し、関白近衛前久と参議高倉永相は石山本願寺を頼って逃亡し、権中納言勧修寺晴右は蟄居、参議水無瀬親氏は義栄と共に阿波に下った。これに対して、義昭のために越前国に下って義昭の元服の加冠役を務めた二条晴良は、義昭の後押しによって次の関白に任じられている。これまで、公家社会では近衛家(いわゆる近衛流摂関家)が足利義晴及びその子である義輝と婚姻を結んで外戚の地位を獲得し、これに対して摂関の地位を巡って競合関係にあった九条家や二条家(いわゆる九条流摂関家)が足利義維・義栄父子を支援して更に石山本願寺とも深くつながっていた。このため、義晴や義輝が京都を追われた際には近衛家も随従するのが恒例であった。ところが、永禄の変において近衛前久では父・稙家の病気の影響か、稙家の弟である義俊の計らいで奈良を脱出した義昭を擁して近江や越前に下ることをせず、三好三人衆と和睦して義栄を擁する方向に路線転換し、両者の接近を警戒する九条稙通や二条晴良が反対に義昭を支援したため、公家社会の力のバランスに変動を起こした(なお、九条流摂関家とともに義栄を支持してきたとみられる本願寺は立場を変えなかったため、義昭に追放された前久を受け入れるとともにこれまで二条家に依頼してきた法主の猶父を近衛家に切り替えている)。義昭・信長と前久・石山本願寺との対立は後の石山合戦の一因となるが、兵乱の過程において、信長との関係が悪化した義昭は本願寺と和解し、反信長同盟(いわゆる信長包囲網)を形成するも信長に敗れ、室町幕府は滅亡することになる。筒井城争奪戦巻き返しを図る順慶は、永禄9年(1566)になると、松永軍に対する反撃を開始する。順慶は三好三人衆と結託し、筒井城の奪還を企図する。4月11日から21日にかけて両軍の間で戦闘が行われ、美濃庄城を孤立させて降伏させている。順慶と三人衆は筒井城へ迫った。対して5月19日久秀は大和を通過し河内に赴いて同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流、堺で三好義継と久秀との間で戦闘が起こった。順慶はこの間隙を突いて筒井城の奪還を画策、筒井城周囲に設置された松永の陣所を焼き払うなどした。久秀は筒井城の救援には向かえず(『多聞院日記』『細川両家記』)、友能登屋、臙脂屋(べにや)に斡旋させて和睦を結び、5月30日に姿を消した。周囲の陣を焼き払い、外堀を埋めた順慶は本格的に城の奪還に着手、6月8日、ついに城の奪還を果たした。順慶が筒井城を奪還できた背景には、阿波三好家の重臣・篠原長房の進軍によって久秀の足場が揺らぎ、筒井城に軍勢を差し向けられる余裕がなかったことが指摘されている。筒井城を奪還した順慶は春日大社に参詣した。この時、宗慶大僧都を戒師として得度し藤政から陽舜房順慶と改名した(正式に順慶を名乗るのはこの時から)。翌永禄10年(1567)には再び三人衆や篠原長房と結んで奈良の大仏殿を占拠し要塞化して、多聞城の久秀と対峙した。10月10日久秀軍が東大寺に討ち入り決戦し大仏殿が久秀軍の兵火の残り火の失火で焼け落ちるが久秀側が勝つこととなる(東大寺大仏殿の戦い)。この頃、織田信長の台頭が見られ、永禄11年(1568)には足利義昭を奉じて上洛、三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、足利義栄も上洛できないまま急死し、義昭が15代将軍に擁立され、畿内は信長に平定された。松永久秀は織田信長・足利義昭と誼を通じたが、対する順慶は久秀の打倒に専念するあまり、情報収集が遅滞した。劣勢の順慶を見限り、菅田備前守などの家臣が順慶から離反し七條を焼き討ちしている。そして、松永久秀は幕府の直臣(信長の家臣ではなく、義昭の家臣)となり、大和一国を「切り取り次第」とされた(『足利季世記』)。久秀は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫った。順慶は叔父の福住順弘の下へと落ちのびた。10月10日には、信長の応援軍の佐久間信盛、細川藤孝の2万が来軍し、両軍で大和を制圧し始める。福住城にいた順慶だが、元亀元年(1570)に十市遠勝の死によって内訌を生じた十市城を攻め落とす。さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀と渡り合うための準備をしていた。
2024年05月20日
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6、「浦上 則宗」(うらがみ のりむね)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。赤松氏の家臣。赤松政則の家臣。 雌伏、主家再興 浦上氏の主君・赤松氏は播磨国・備前国・美作国の守護であったが嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で6代将軍・足利義教を暗殺したために滅ぼされていた。則宗は赤松政則に仕え、赤松氏の再興に尽力した。政則からは偏諱(赤松氏の通字「則」の字)を受けている。Ø 嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した際に兄・則永が誅殺を恐れて信濃国に逃亡した為浦上氏の名跡を継ぐ。 応仁の乱では山名宗全から領国を奪回するために東軍に属して戦い、赤松氏が旧領国を回復し播磨、備前、美作の守護に任じられたのは則宗の力によるところが大きい。Ø また、文明年間に入ると、伊勢貞親に代わって、則宗が西軍に属していた朝倉孝景の調略工作を担うようになり、文明3年(1471年)、孝景の寝返りを成功させ、同年に赤松政則が侍所頭人に任ぜられると則宗は侍所所司代、一族の浦上基景が備前守護代に任じられる。Ø 応仁の乱の後、播磨に下向していった政則に京の仕置きを任せられた則宗は領国の事は一族の者に任せ、京に留まる事になる。Ø そして文明13年(1481年)に政則が山城守護に補任されると則宗も山城守護代に補任され、侍所所司代・山城守護代職として京の平安の為に尽力し、更にその権威は強まった。 山名氏との抗争、家中分裂 文明15年(1483年)11月、則宗と同じく赤松氏の被官で備前西部に勢力を持つ金川城主・松田元成が、赤松氏に奪われた失地回復を狙っていた山名政豊と通じ、赤松氏の守護所である福岡城を急襲した。この際、京に居た則宗は子・則国(弟とも)や櫛橋則伊ら守備方の劣勢を受けて政則に救援を依頼している。Ø 政則は福岡城の救援に則宗の子・浦上則景・宇野政秀らを派遣する一方で自身は但馬国の山名氏を叩くべく真弓峠に出陣する。Ø しかし、政則は真弓峠での合戦で山名政豊の軍勢に返り討ちに遭い、姫路へと敗走した。この報を聞いた則景と政秀も播磨防衛のために兵を返してしまったので結局、翌文明16年(1484年)の1月には福岡城は松田・山名の軍勢の手に落ちてしまい、更に政則の軍勢を破った但馬の山名勢もこれを機と見て播磨へと雪崩れ込むという事態に陥る。 事を重く見た則宗は1月の中旬に京を立ち、急ぎ播磨へと下向すると政則に失望した国人領主の多くが則宗の許に馳せ参じ、政則は和泉国の堺に出奔した。Ø ここに赤松氏の実権を掌握した則宗は小寺則職らと会談して政則を廃し、赤松氏一門である有馬則秀(有馬元家の子)の子、慶寿丸(のち足利義澄の偏諱を賜り有馬澄則と名乗る)に赤松氏宗家の家督を継がせる事を画策して幕府にもこれを承認させようとしたが2月20日に申請は却下され、これによって有馬右京亮が山名に寝返り、赤松一族の在田、広岡氏が新たな赤松家当主を擁立する事を目論むなど播磨国衆が空中分解してしまい、より混迷は深まった。Ø 則宗を中心とした赤松方は2月に松田元成を討つ事に成功していたものの、国衆が分裂した状態では形勢は変えられず以後は敗戦を重ね、やむなく一旦領地を捨てて上洛をした為に播磨を山名氏に奪われてしまう。Ø この状況を打破する為には、内紛を解決する事が先決と考えた則宗は、8代将軍・足利義政の仲介で政則と和解し、播磨奪回に向けての態勢を立て直す。 その後、文明17年(1485年)の合戦で子の則景・則国(この時、死亡していないとの説も)を失うなどしたものの、山名・松田連合を相手に戦局を優位に進め、東播磨を制圧し西播磨に陣を張る山名軍と対峙。長享2年(1488年)7月に浦上宗助が福岡城に入城し山名政豊が但馬に退去するまで長きに渡る抗争となった。 なお、この一連の争乱で子を失った則宗は安富元家から祐宗を養嗣子として迎えている。 「則宗の尽力で足利 義政に政則和解させる」(あしかが よしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 ~– 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。初名は足利 義成(- よししげ)。慈照寺の銀閣を建てたことで有名。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。 将軍職就任[編集] 永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍足利義教の五男で庶子として生まれる。次期将軍として期待されていた同母兄の足利義勝が政所執事であった伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、その可能性が低かった義政は母方の一族である公家の烏丸資任の屋敷にて育てられた。 嘉吉元年(1441年)、父が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された後、兄の義勝が7代将軍として継いだが、嘉吉3年(1443年)に義勝も早世したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得て、8歳で将軍職に選出され、元服を迎えた文安6年4月29日(1449年)に将軍宣下を受けて同日のうちに吉書始を行って宮中に参内、正式に第8代将軍として就任した。
2024年05月19日
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「浦上氏一族の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「浦上氏の出自」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「嘉吉の乱」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・44、 「籤引き将軍の運命」・・・・・・・・・・・・・・・・・165、 「将軍暗殺」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・206、 「浦上則宗」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・347、 「浦上村宗」.・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・488、 「浦上宗景」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・559、 「浦上氏の天神山城の戦い」・・・・・・・・・・・・・・8810、「浦上政宗」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10811、「浦上晴琴」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12612、「おわりに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13213、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・134 1、「はじめに」室町期の武家。本姓は紀氏。本貫地は播磨国揖西郡浦上荘。鎌倉末期に赤松氏と婚姻関係を持ち、南北朝時代に赤松氏が有力守護大名に成長するとその有力な被官になった。貞治3年(1364)になり浦上行景が備前守護代となり、南北朝末期まで同職を浦上一族が歴任。浦上則宗(1429~1502)備前国三石城主で、赤松の被官。美作守。嘉吉の乱(1441)赤松氏の再興に尽力尽くし、幼主赤松政則を補佐、応仁・文明の乱では東軍に属した赤松氏の勢力挽回に尽力し文明二年(1470)頃に政則が侍所所司となる。その後、山城守護代を経て1483年には将軍の陪臣として異例の山城守護に命じられた。備前では守護代松田氏を駆逐し子の則景を守護代とし、自らは播磨・美作両国の守護代となって赤松領国の支配の実権を握った。政則没後はその継嗣義村を擁立しして赤松家中の混乱を鎮め浦上氏の全盛の基盤を築いた。
2024年05月19日
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7、「加賀斎藤氏」鎮守府将軍・藤原利仁の子叙用の孫で加賀介であった忠頼を祖とする。忠頼の子斎藤吉宗は弘岡斎藤氏の祖となる。加賀斎藤氏から堀氏などが分かれ、弘岡斎藤氏は林氏・富樫氏となった。越前斎藤氏鎮守府将軍・藤原利仁の子叙用の孫で越前国押領使であった伊傳の子孫である越前国敦賀郡疋田(現在の福井県敦賀市疋田)を本拠とした疋田。*「斎藤 朝信」(さいとう とものぶ、大永7年(1527)? - 文禄元年(1592)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越後上杉氏の家臣。赤田城主。斎藤定信の子。子に乗松丸(斎藤景信)。下野守を称す。武勇の誉れ高く、「越後の鍾馗」と呼ばれたという。越後国の武将・斎藤定信の子として誕生。上杉謙信に仕え、越中攻略、1561年(永禄4年)の甲斐武田氏との第四次川中島の戦い、北条氏との小田原城攻囲戦では第三陣、1564年(永禄7年)の下野の佐野城攻めや唐沢山城の戦いなど各地を転戦して武功を発揮する。特に第四次川中島の戦いでは、不穏な動きをする一向一揆に備えるため、山本寺定長と共に越中に出陣し、上杉本隊の川中島入りを助けた。「第四次合戦」『甲陽軍鑑』によれば、永禄3年(1560年)11月には武田氏一族の「かつぬま五郎殿」が上杉謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたとする逸話を記している。勝沼氏は武田信虎の弟である勝沼信友がおり、信友は天文4年(1535)に死去しているが、『甲陽軍鑑』では「かつぬま五郎殿」を信友の子息としているが、一方で天文8年頃には府中今井氏の今井信甫が勝沼氏を継承して勝沼今井氏となっている。信甫の子息には信良がおり、謀反を起こした「かつぬま五郎殿」はこの信良を指すとする説がある。川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、第四次合戦については前提となる外交情勢については確認されるが、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみである。そのため、本節では『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書は残存しているほか、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることから、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。】1575年(天正3年)の「上杉家軍役帳」によると217人の軍役を負担した。主君・謙信からの信頼は絶大で、謙信の関東管領職の就任式の際には、柿崎景家と共に太刀持ちを務めた。武道に通じ、多くの武勲を挙げた以外にも柿崎景家と共に奉行職を務めた。また、発想力に富む戦術家であったことから、謙信は強敵と思われるところには朝信を差し向けた。織田信長が侵攻すると北陸方面の柴田勝家らを魚津城などで迎え撃った。1578年(天正6年)の謙信死後の家督争いである御館の乱では上杉景勝を支持し、上杉景虎を支持をしていた甲斐の武田勝頼との外交交渉にも当たっている。その後、家督争いは景勝が勝利し、1580年(天正8年)3月、主君・景勝から刈羽郡の六ヶ所と景虎派に加担して滅亡した三条城主・神余親綱の旧領を与えられ、併せて嫡子・乗松丸にも北条氏の旧領から恩賞地が与えられた。御館の乱で景勝を助けて活躍した朝信に、景勝は厚く報いたのである。朝信は忠義、仁愛の心が深く、士卒をいたわり、百姓をいつくしんだので万人から慕われた、内政においても活躍し武闘派の多い上杉家臣の中で目立つ存在だった。本能寺の変後まもなく老齢で隠居し、文禄元年(1592年)頃に死去したともいわれる。子の乗松丸は、朝信の死後に景信と名乗り家督を継ぎ、新発田重家攻めなどで軍功を立てた。しかし、病のため1598年(慶長3年)の上杉氏の会津移封に付き従わず、越後村上に隠棲した。1643年(寛永20年)、景勝の子で出羽米沢藩第2代藩主・上杉定勝は景信の子・信成を越後より呼び戻し300石で召抱え、以後子孫は米沢藩士として幕末まで続いた。「田斎藤氏」と同国足羽郡河合郷(福井県福井市河合)を本拠とした河合斎藤氏の2派に分かれる。「疋田斎藤氏」藤原叙用の孫で越前国押領使であった伊傳の子斎藤為延を祖とする。越前国敦賀郡疋田を根拠地とした。斎藤姓も用いたが、地名から取り、為延の子為輔が方上氏(進藤氏)を称し、その弟斎藤為頼の子である斎藤頼基・斎藤成真・斎藤為永らがそれぞれ竹田氏・宇田氏・疋田氏を称した。さらに竹田氏から大谷氏、宇田氏から葦崎・志比氏、疋田氏から千田・熊坂氏などが分かれた。『平家物語』で滝口入道として知られる斎藤時頼はこの系統といわれる。
2024年05月17日
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そもそも、京は盆地にあって攻めやすく守りにくい立地である。呉座勇一によれば、特に、越前国・若狭国(現在の福井県)から京への物流の要である、近江国(現在の滋賀県)琵琶湖西岸の湖西路を制圧されると、京の防衛側は途端に干上がって撤退せざるを得ない。ただ京を制圧しただけでは、何の益にもならないのである。前述の『太平記』の逸話について、亀田俊和は、「[正儀の]現状認識の正確さには驚かされる」と称賛している。後村上天皇の治世末期和平交渉(1367年)既に南北間は5年ほど和平交渉は途絶えていた。しかし長引いた戦乱に両朝とも疲れたのか、南朝後村上天皇は徐々に態度を和らげ、将軍足利義詮も文治派の斯波高経を起用するなど、徐々に歩み寄りをするようになった。正平20年/貞治4年(1365年)4月ごろ、南朝の領地である摂津国四天王寺で金堂上棟式が行われ、後村上天皇が臨席した際、幕府も馬を献上している。同年8月ごろ、再び交渉を再開をしようとするが、しかし一旦は北朝の側から断られている(『華頂要略門主伝』貞治4年8月23日条)。8月3日、後村上天皇綸旨の奉者を、武士の身分に過ぎない正儀が務めており、このとき帝にとって最大の側近となっていた。正平21年/貞治5年(1366年)8月末から9月初頭ごろ、南朝は再度和平交渉を持ちかけた。今回は両陣営が非常に乗り気であり、今までになく合一の機運が高かった。8月、貞治の変で幕府の実権を握る斯波高経・幕府執事斯波義将父子が失脚するが、将軍義詮は斯波氏の融和路線をそのまま継続した。11月10日、法皇寺長老空照が北朝の大外記中原師茂に告げて、南方御合体(南北朝合一)については両朝でほぼ合意が形成されてきて大詰めの段階にあるが、まだ関東(鎌倉公方足利基氏/関東執事上杉氏)との意見調整が終わっていないため、使者を派遣して返答待ちの状況だと言う。翌正平22年/貞治6年(1367年)にも交渉は継続して続き、この頃は南朝前大納言洞院実守が交渉を代表した。4月27日、南朝の勅使葉室光資(中納言)が上洛、五条東洞院に宿泊した。4月29日、勅使葉室光資は寝殿で将軍足利義詮と対面し、和睦の綸旨を手渡す。ところが、綸旨の内容を知った義詮は激怒し、和睦は破断となってしまった(『師守記』)。この部分、史料の文字が摩耗しており解読しづらいが、「降参」という語があり(『師守記』)、南朝側が「北朝・室町幕府の南朝への降参」という形式にこだわったことに、義詮が気分を害したのではないかと考えられている。森茂暁の推測によれば、このころ後村上天皇が病気か何かで影響力が弱まり、そのため主戦派が台頭して、「降参」などという文言が入ったのではないかという。当時、南朝の皇子懐良親王は九州の主要部をほぼ制圧し独自の王国とも言える一大勢力を築いており、このことも主戦派を強気にさせた。佐々木導誉はこの和平交渉に幕府側として関わっていたため、義詮から譴責された(『師守記』)。5月2日、南朝勅使葉室光資が出京し、南朝に帰還。武士たちの憤懣は収まらず、5月16日、将軍義詮は南朝を7、8月には攻めるとまで言い放った。だが、正儀は和平を決して諦めず、自身が替わって南朝代表となり、6月に至っても、粘り強く働きかけ続けた。6月8日、正儀は代官の河辺駿河守を特使として派遣し、義詮に謁見させた。7月14日、清水坂に宿を取っていた楠木代官の河辺駿河守が30騎を引き連れ、出京し南朝に戻る(『師守記』)。7月29日朝、摂津能直が幕府側の使者となり、若党10余人をつれて南朝に向かう。8月9日、幕府使者摂津能直が帰京し、正儀本人に会うことはできなかったが、南朝から料馬1疋を、楠木氏から束馬1疋と鎧1装を、和田氏(和田正武?)から馬1疋と腹巻1つを贈られたことを報告した。南朝を攻めるとまで憤った義詮だが、このように戦は回避され交渉は続けられており、藤田精一の主張によれば、正儀の誠意に、義詮が心を動かされたのだという。正儀の功績に報いるためか、あるいは箔付けして代表として動きやすくするためか、後村上天皇は正儀を昇進させることにした。同年10月4日までには右兵衛督に(『久我家文書』河野辺駿河守宛書状)、さらに翌正平23年/応安元年(1368)12月8日までには左兵衛督に任じられている。兵衛督は中納言や参議などの公卿が兼任することもある高官で、南朝側の武士では新田義貞が就いていたこともあり、室町幕府側では足利氏鎌倉公方家当主や後には三管領筆頭斯波氏当主が任じられ、当時の武士にとっては征夷大将軍に次ぐ地位である。正平22年/貞治6年12月7日(1367)、二代将軍足利義詮薨去。細川頼之が幕府管領となり、若き足利義満を補佐することになった。正平23年/応安元年3月11日(1368)、後村上天皇崩御。後村上天皇は、その治世の初期には強硬的な側面もあったが、徐々に態度を和らげ、条件によっては和睦による和平も厭わない政治的バランス感覚に優れた君主だった。年齢も近く、20年もの間に渡り、強固な信頼関係を構築してきた主君の崩御は、正儀に痛恨の打撃を与えた。
2024年05月13日
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頼之は正儀に心酔しており、破格の厚遇を与えた。北朝の官位としては左兵衛督(足利将軍家と同等)や中務大輔(御一家や地方の大勢力と同等)などを歴任。幕府の守護としては、軍事・商業・交通の要衝であり足利氏祖河内源氏発祥の地でもある河内・和泉・摂津住吉郡(合計して現在の大阪府にほぼ相当)の二国一郡の守護となり、通常であれば管領クラスの氏族四人が分割で担当する地域を、たった一人で掌握した。正儀が北朝に出奔したのは、長慶天皇との不和、そして頼之からの熱心な引き抜き工作が直接的な理由だが、一説に、南朝や北朝という枠に囚われず、何らかの形で南北朝の内戦を速く終わらせる道筋を模索していたのではないか、という主張もある。正儀も頼之も戦乱を好まない気質のため、二年ほどは畿内で大きな戦が無かった。しかし、そのことが反細川派の武将から猜疑心を呼んだ。建徳2年/応安4年(1371年)4月、正儀の居城である河内瓜破城が南朝に攻撃され、頼之が正儀の救援を号令すると、諸将は正儀が南朝のスパイだと断じて、管領の命令を拒否した。怒った頼之は5月20日未明、管領を辞任すると宣言して寺に引退、将軍義満が慌てて駆けつけて京に引っ張ったが、頼之は帰り道でもごねてずっと正儀救援を主張し続けたため、この時は将軍のお墨付きで正儀への増兵が決まった。瓜破城に対する南朝の大攻勢は11月5日まで続いたが、頼之の支援もあって勝利した。文中2年/応安6年(1373)8月10日、征南総将細川氏春のもと、先鋒武将(実質の総大将)として赤松光範と共に南朝臨時首都天野行宮を陥落させた。同族の武将橋本正督も北朝に投降し、正儀はいよいよ勢力を強めた。ところが、正督は、天授元年/永和元年(1375年)8月、および天授4年/永和4年(1378年)11月2日と、二度に渡って幕府に反乱を起こした。同族の誅殺をためらう正儀と、その後ろ盾の頼之に諸将の怒りは爆発し、成長した将軍義満も正督追討を支持したため、懲罰処分として正儀は和泉守護と摂津国住吉郡守護を、頼之の親族細川業秀は紀伊守護を解任された。細川派への追求は止まらず、天授5年/康暦元年(1379)閏4月14日、康暦の政変で頼之はとうとう失脚し、10年以上握った管領の地位を離れた。同年7月17日、ついに橋本正督が反細川派の幕将山名氏清に討たれ、正儀は今度は北朝内で孤立していった。その一方で、没落した南朝では和平派が増えつつあった。弘和2年/永徳2年(1382年)閏1月上旬、正儀は南朝へ帰参した。しかし、幕府の報復措置として送り込まれた山名氏清に河内国平尾で敗退し、手痛い代価を支払った。同年2月28日までに左兵衛督に復任、12月24日までには参議に任じられ、公卿(国政を司る太政官の最高幹部)の地位に登りつめた。公称橘氏として公卿に栄達した人物としては橘恒平以来399年振り、しかも実際は楠木氏の前身が本当に橘氏なのかは定かではなく、本姓不詳の人物としては前代未聞の事件だった。武将としてだけではなく、政治家としても南朝の最高幹部となったことで、皇太弟で和平派の熙成親王を擁立し、後亀山天皇として即位させることに成功した。最晩年の行動ははっきりしないが、和睦による南北朝合一に向けた土壌作りに努めたと推測されている。元中5~6年(1388~1389)ごろに没。その生没年(1330年代前半–1388年?)は、南北朝時代の始終期(1336~1392年)とほぼ重なり、乱世と共に生まれ、乱世を終わらせるために費やした生涯だった。元中9年/明徳3年閏10月5日に南北朝合一が実現。正儀は既にこの世になかったが、合一が成るには南朝の治天の君が和平派であることが大前提であり、正儀が公卿として後亀山天皇を奉じなければ起こり得ないものだった。しかも、和睦がただの理想論ではなく、現実に締結可能なものとして双方に了解があったのは、かつて後村上天皇の治世下、正儀が地道に根気よく交渉を続けた実績があってこそだった。約56年間に及んだ内戦の時代はここで幕を閉じ、久方ぶりの太平の到来は「南北御合体、一天平安」と称賛された。史料からは温厚で誠実、恩情のある人柄だったと見られ、同時代の軍記物(『太平記』)および室町時代の文学作品(『吉野拾遺』『三人法師』等)でも、敵味方を問わず他人を助けようとする有情で慈悲深い人格者として描かれた。存命時は能力・人格・功績を高く評価され、その弱小な血統に対し、日本史上全体でも数例あるかないかという異例の栄達を遂げた。ところが、軍記物『太平記』で凡愚な将としての描写もされたことから、江戸時代には評価が低かった。さらに明治時代から昭和初期にかけては、南朝を唯一正統とする皇国史観のもと、国家的英雄氏族の汚点として白眼視された)。ただし、その時代にあっても少数派ではあるが正儀を弁護する者は存在した。南北朝時代の実証的研究が進んだ20世紀末以降、正儀への再評価が始まり、父の正成・兄の正行と同様に南北朝時代を代表する名将・重要人物で、両朝合一の中心的存在であるという評価がなされている。楠木氏棟梁を継ぐ誕生1330年代初頭、後醍醐天皇が鎌倉幕府に勝利した元弘の乱での最大の立役者であり、後醍醐帝の建武政権でも最高政務機関記録所等の要職を歴任した武将・官僚楠木正成の三男として誕生。正儀の正確な生年は不明だが、正平3年/貞和4年(1348年)1月6日時点で元服を済ませておらず幼名を名乗っていたと見られるため、仮にこの年に丁度数え16歳だったとすれば、元弘3年/正慶2年(1333年)の誕生となる。
2024年05月13日
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平家嫡流である平重盛の娘を妻としていたため頼朝に滅ぼされたものの、その一族の活動が見られる。次男の小笠原長清は小笠原氏を、三男の南部光行は南部氏の祖となった。四男の光経が加賀美氏を継ぎ、五男の於曽光俊(経行)は奥州合戦の際に軍略で功を立てた。また、娘の大弐局は頼朝の子頼家・実朝2人の養育係を務めている。一方、鎌倉では弘安8年(1285)11月17日に安達泰盛・宗景父子が誅殺される霜月騒動が発生し、騒動では小笠原氏や秋山氏、南部氏など加賀美一族が連座している。このため在地においては加賀美一族は衰退し、戦国時代には代わって甲斐守護・武田氏の一族である武田大井氏が台頭する。】 3、「阿波小笠原氏」阿波小笠原氏の祖は小笠原長経の次男、長房である。承久3年(1221)の承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となったとされる。ただし、今日の研究では実際には長房が長男で長忠は三男であったとする説があり、また長忠の系統は京都を活動の中心としていた可能性が高い。文永4年(1267)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に26000町余りの所領が与えられ、岩倉城を拠点とした。阿波の小笠原氏は南北朝時代には南朝に属したとされ、その子孫の多くは室町時代には国人化して阿波の守護を務めた細川氏に仕えたとされる。代表的な例としては三好氏、安宅氏、一宮氏(小笠原成助)、大西氏(大西覚養)、赤沢氏(赤沢宗伝)などが挙げられる(ただし、それぞれの出自には諸説ある)。阿波小笠原氏の子孫の三好氏などについては、それぞれの記事を参照。その他の阿波小笠原氏の支流にも七条氏・高志氏などがある。阿波守護職となった小笠原長房]の子、長親が弘安の役の軍功によって、石見国邑智郡村之郷を得て、移り住んだ事に始まる。長親は地元の有力国人である益田氏当主兼時の息女を室に迎え、弘安の役の後の不安定な石見国周辺の海岸を警護した。南北朝時代の当主小笠原長胤は武家方に従って活動、川本温湯城を居城とした。戦国時代に入ると石見銀山の支配を巡って対立する大内氏と尼子氏に挟まれ、当主の小笠原長雄はその間を転々とし、最終的には大内氏の後を継いだ毛利氏に仕えた。天正20年(1592)に国替えにより出雲国神門郡神西に移封されたことで石見国を去る。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長移封の際には一度毛利氏を離れることとなるも後に帰参し、石見小笠原氏は長州藩士として明治を迎えた。 *「「小笠原 長経」(おがさわら ながつね)は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原長清の子。二代将軍源頼家の近習として仕え、蹴鞠の相手や流鏑馬の射手を務めている。正治元年(1199)4月、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される5人の近習にも選ばれている。同年8月、頼家が安達景盛の愛妾を奪ったことで両者が対立すると、頼家の命を受けて安達邸を包囲したが、北条政子に制止されている(『吾妻鏡』)。建仁3年(1203)9月、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。承久3年(1221)、承久の乱で父長清は鎌倉方の大将軍として子息8人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後の貞応2年(1223)、長経は父の跡を継いで阿波国の守護となっており、5月27日、土御門上皇の土佐国から阿波国への還御にあたって、対応を命じられている。出家して小笠原入道と称され、宝治元年(1247)5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている(『葉黄記』)。宝治元年(1247年)11月5日、69歳で死去。】 *「小笠原 長房」(おがさわら ながふさ)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。阿波国守護。小笠原長経の次男で阿波小笠原氏の祖となる。承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった。文永4年(1267)に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に2万6千町余りの所領が与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは三好氏などを輩出した。】
2024年05月12日
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4、「鎌倉時代・室町時代の里見氏」鎌倉時代になると、義俊の長子里見義成が源頼朝に仕えて御家人となった。義成は頼朝に重用され、頼朝の死後も代々の将軍に近侍した。鎌倉時代末の里見義胤(義俊の6世の孫)は、本宗家の新田氏と共に倒幕軍に参加。新田義貞に随行し、鎌倉攻めに加わり功を挙げ、戦後越後国の守護代に任ぜられた。南北朝の動乱では南朝方に従っていたものの、宗家が没落すると一族の中に北朝側に参加する者が現れた。室町幕府に従って美濃国に所領を得た里見義宗もそのひとりである。義宗は観応の擾乱で足利直義に従ったが、直義は敗北して美濃里見氏は所領を失い、没落した。その後、鎌倉公方足利満兼に召しだされて常陸国に所領を得た人物に、里見家兼がいる。家兼の子の里見家基は、足利持氏に奉公衆として仕えた。家基は、上野国・常陸国などに所領を与えられていた。しかし永享の乱で家兼が自害、続いて結城合戦で家基・家氏父子が討たれ、上野里見氏嫡流はここで断絶した。家基のもうひとりの子とされる義実は安房国に落ち延び、のちに安房里見氏の祖となったとされている。だが、近年において、義実(あるいは家兼)を旧来の伝承による上野里見氏嫡流ではなく、美濃里見氏・義宗の末裔であったとする説が出されている。室町時代以降、発祥地・上野国における里見氏は、里見義連(義胤の子)の三男である仁田山氏連の系統に属して、戦国時代に二階堂政行配下で仁田山城主であった里見家連(宗連)などが散見され、家連は後に上杉謙信の討伐を受けて戦死を遂げて、子の宗義(後に戦死)と義宗は碓氷郡里見郷に逃れて、榛名里見氏と称したという。また、家連の許には同族の縁を頼り、安房国を追われた安房里見氏一族の里見勝広という人物が身を寄せたと伝えられる。里見 義俊(さとみ よしとし)は、平安時代末期の武将。略歴事績などは不明だが、里見氏に伝わる家系図に義俊の名が記されている。新田氏の初代当主新田義重の庶長子だったが[3]、妾腹のために家督を嫡出の異母弟の義兼に譲って分家し、上野国新田荘竹林(高林)郷[4]を与えられた。久寿元年から2年(1154年 – 1155年)頃に、北方の碓氷郡(八幡荘)里見郷付近に碓氷城]に移り、山城を築き、居を構えた時に里見氏と称した。父・義重に先立ちこの世を去った。天台宗・里見山光明寺に葬られている。異説では、建久4年(1193年)8月に安房国守護となり、安房国平郡(平群郡)を拠点とした安房里見氏の祖となったという[8]。脚注 「里見 義成(さとみ よしなり)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての上野国の武将。里見義俊(里見氏の祖)の子。源義重の孫。妻は足利義清の娘。上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市)を本拠とした。治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵した際、祖父の新田義重は寺尾城に軍勢を集めて自立の姿勢を示し、その後も日和見の態度を続けたが、京にいた義成は頼朝に従う決意をして「祖父とともに頼朝を討つため、上野に帰る」と偽って京都を脱出し鎌倉に馳せ参じた。この事により頼朝の信頼を得て、鎌倉幕府成立後、新田氏一門が冷遇される中、義成は御家人として重用された。建久4年5月15日(1193年6月15日)、頼朝が富士の巻狩での狩の休日(その代り1日中酒宴を行っていた)の際に地元の手越・黄瀬川の遊女たちが問題を起こしたために、頼朝から「遊君別当」に任ぜられて遊女の選抜から彼女たちの訴訟一般までを扱わせたと言う(『吾妻鏡』)。これは、義成が拠点としていた碓氷郡が東山道交通の要所で、義成が宿駅の管理に慣れていたからだと考えられている。また、弓の名手としても知られ、建久6年8月16日(1195年9月21日)の鶴岡八幡宮での流鏑馬では2番手の射手に選ばれている(『吾妻鏡』)。元久元年4月13日(1204年5月14日)には伊賀守、従五位下に任じられている。藤原定家の『明月記』(同年4月14日条)には、これは京都守護平賀朝雅の年給であったとされる。当時、朝廷では三日平氏の乱に対応するため、本来公卿や寺社が任じられていた知行国主に武家である朝雅が任じられており、伊賀守の任命も伊賀国内の鎮圧を目的としていることから、当時の義成も京都に滞在して直ちに同国に入った可能性が高い。
2024年05月11日
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12、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。合戦までの経緯尾張(愛知県西部)出身の戦国大名である織田信長は、駿河の今川義元を討ち取り、斎藤龍興から美濃を奪取したのち、上洛を目的として近江に侵攻した。侵攻に先立ち、北近江を治める浅井長政には、妹であるお市の方を娶らせて織田氏との縁戚関係を結んでいた。信長は、浅井氏からも援軍を得て、共通の敵である南近江の有力大名である六角義賢父子を破り(観音寺城の戦い)、足利義昭を奉じての上洛を果たした。その後、信長からの上洛参集要求などを拒んで対立した越前の朝倉義景に対し、元亀元年(1570)4月に信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。優位から一転、挟撃される危険に陥った信長は撤退を開始。信長の家臣たちは「金ヶ崎の退き口」を経て退却した。開戦織田軍の撤退後、朝倉義景は自身は敦賀に滞陣し、戦後処理や浅井長政との連絡に努め、5月11日に一族の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に進発させる。朝倉軍は浅井軍とともに南近江まで進出し、六角義賢と連携し信長の挟撃を図ったが、この連携はうまくいかず、信長は千草越えにより5月21日に岐阜への帰国に成功し、六角軍は6月4日、野洲河原の戦いで柴田勝家、佐久間信盛に敗れてしまう。このため、浅井・朝倉軍は美濃の垂井・赤坂周辺を放火するとともに、国境に位置する長比・苅安尾といった城砦に修築を施し兵を入れて織田軍の来襲に備えた。朝倉軍は6月15日に越前へ帰陣するが、前後して長比城に配置された堀秀村・樋口直房が調略により信長に降り長比・苅安尾両城は陥落する。これを受けて6月19日、信長は岐阜を出立しその日のうちに長比城に入った。6月21日、信長は虎御前山に布陣すると、森可成、坂井政尚、斎藤利治、柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、木下秀吉、丹羽長秀らに命じて、小谷城の城下町を広範囲に渡って焼き払わせた。翌6月22日、信長は殿軍として簗田広正、中条家忠、佐々成政らに鉄砲隊500、弓兵30を率いさせ、いったん後退した。6月24日、信長は小谷城とは姉川を隔てて南にある横山城を包囲し、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。ここで徳川家康が織田軍に合流し、家康もまた竜ヶ鼻に布陣。一方、浅井方にも朝倉景健率いる8000の援軍が到着。朝倉勢は小谷城の東にある大依山に布陣。これに浅井長政の兵5000が加わり、浅井・朝倉連合軍は合計13000となった。6月27日、浅井・朝倉方は陣払いして兵を引いたが、翌28日未明に姉川を前にして、軍を二手に分けて野村・三田村にそれぞれ布陣した。これに対し、徳川勢が一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かった。午前6時頃に戦闘が始まる。浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり(信長記)」という激戦になったが、浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は榊原康政に命じて側面から攻めさせた。まずは朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走した。結果的に織田・徳川側が1100余りを討ち取って勝利した。合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせる。信長は小谷城から50町ほどの距離まで追撃をかけ、ふもとの家々に放火したが、小谷城を一気に落とすことは難しいと考えて横山城下へ後退した。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れた。奇襲説姉川の戦いは朝倉・浅井軍の奇襲であったという説を高澤等は唱えている。6月27日早朝に浅井・朝倉軍は一旦大依山から姿を消した。この時の状況を『信長公記』では「六月廿七日の暁、陣払ひ仕り、罷り退き候と存じ候のところ廿八日未明に三十町ばかりかゝり来なり」と陣払いして退却したと思った浅井・朝倉軍が突然として距離三十町のところに現れた様子を記している。織田軍は敵勢が陣払いしたと勘違いして再び軍勢を横山城の包囲体制に戻し、織田軍は本陣の背を突かれる形となり両軍陣形を整えず即座に戦いに突入したとする。また姉川の戦いは両軍日時を取り決めた合戦だったとしている。
2024年05月08日
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11、「蔵王堂藩と堀氏」(ざおうどうはん)は、越後国古志郡(現在の新潟県長岡市)に江戸時代前期に存在した外様大名の藩。藩庁は蔵王堂城(長岡市西蔵王)。現在の長岡市域は、戦国時代には越後守護代長尾家(のち上杉家)の一族古志長尾家が古志郡蔵王の蔵王堂城に拠って治めていた。その古志長尾家の景信が御館の乱により戦死した後は、上杉家の直接支配を受けることとなる。その後、慶長3年(1598年)に上杉家が陸奥会津に移封すると、かわって越後に入封した堀秀治の弟堀親良が4万石を与えられて蔵王堂城主となった。堀家は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に属して旧領を安堵され、蔵王堂藩が成立した。慶長7年(1,602年)、親良は病気のため甥の鶴千代に藩主の座を譲った(ただし、実際は家中の内紛によるもので、親良は後に出奔して下野国真岡藩主に取り立てられる)。しかし、慶長11年(1606年)に鶴千代は早世したため、鶴千代の後見を行っていた堀直寄が治める坂戸藩へ吸収編入され、蔵王堂藩は2代で一旦は断絶する。その後、慶長15年(1610年)、宗家の堀忠俊が家老堀直寄兄弟の内紛を収められなかった罪で除封された。豊臣家恩顧の大名の取り潰しに、騒動が利用されたともいえる。代わって徳川家康の六男松平忠輝が高田藩に入封すると、蔵王堂城もその属領となった。元和2年(1616年)、今度は忠輝が大坂の陣における不始末から除封されると、6年前の騒動の一方の元凶であった堀直寄が8万石をもって蔵王堂に入封した。しかし、直寄は蔵王堂城が信濃川に面して洪水に弱いことから、その南にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡駅周辺)に長岡城を築城、城下町を移して越後長岡藩を立藩し、蔵王堂藩は2度目の廃藩(事実上、長岡藩への移行)となった。歴代藩主]「堀 親良」(ほり ちかよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名。信濃飯田藩堀家初代。堀秀政の次男。生涯[編集]父・秀精や兄・秀治と共に豊臣秀吉に仕える。小田原征伐のとき、11歳で初陣を飾り、父の死後越前国に2万石を領し、天正19年(1591年)従五位下、美作守に叙任され、秀吉より羽柴氏と豊臣姓を下賜され、秀家の名を賜る。堀直敬は秀家改名前の名乗りを「秀成」とするが、親良文書を一覧化した田嶋悠佑は、慶長12年(1607年)に死去した山中長俊宛の書状に秀成の署名が見られることから、同年以前に秀家から秀成へと改名したとする。その後、秀治と共に越後国に転封となり、蔵王堂に4万石を領し、うち1万石を家老の近藤重勝に分与した。秀吉が死去すると、遺品として「助真の刀」を拝領。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与する。「上杉景勝本国にありなから逆謀をくはだて、斎藤・柿崎・丸田等を軍長とし、一揆の党をひきひて会津のさかひ下田村に楯籠、このとき親良みつから軍士をあいしたかへ、いとみたたかひて首級を得、すなはち、上意に達す、」(『寛永諸家系図伝』)とあるように、会津の上杉氏が越後で仕掛けた上杉遺民一揆の鎮圧に奔走する。この功により、徳川家康、秀忠から感状を賜る。感状には羽柴美作守殿とあり、この頃はまだ羽柴を称していた。戦後、家康から所領を安堵された。慶長7年(1602年)頃、同族の堀直政と不和になって対立し、病と称し京都伏見にあった亡父の屋敷に隠遁した。このとき、家督を養嗣子の鶴千代に譲っている。譜代の家臣を連れて京、大坂を経て紀州に入り、紀州を領していた妻の生家の浅野家に寄った。岳父の浅野幸長に身の処置について相談、駿府の家康に拝謁して、命により将軍・秀忠の家臣となった。4年勤めた後、慶長16年(1611年)、下野国真岡に1万2000石を賜り、江戸で秀忠に拝謁する。一方、この間に堀氏宗家は改易処分を受けているが、出奔していた親良は連座をすることはなかった。
2024年05月04日
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「上総の武田氏」上総武田氏は武田信満の子・武田信長に始まる家系である。古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した。信長の息子・信高の死後、本家は庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えた。嫡流は地名を取って庁南氏(ちょうなんし)を名乗ることもあった。上総武田家最後の当主・武田豊信は地元の伝承では甲斐武田氏の武田信玄の三男・信之と同一人物とされており、織田氏による甲斐武田氏滅亡後に弟の仁科盛信の家族を匿ったとする説がある。以後、豊信は北条氏傘下の将として反織田氏・反豊臣氏路線を貫き、1590年に小田原征伐中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害し、同氏は滅亡した。一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗った。戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。真里谷信清は古河公方足利政氏の子・義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。だが、庶出ながら一人息子であった信隆に家の実権を譲った後に正室から次男・信応が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂してしまった。信清の死後、当主になった信隆ではあったが、程なく信応派が足利義明や里見義堯と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放してしまう。このため、信隆は北条氏綱の元へと亡命することとなった。これが第一次国府台合戦の一因とも言われている。同合戦後、北条軍に攻められた真里谷信応とその支持者は降伏して信隆が当主に復帰したが、信隆の死後に里見義堯が信隆の跡を継いだ信政を攻め滅ぼして真里谷氏を支配下に収めるのである。だが、第二次国府台合戦後には再び北条氏に屈服し、豊臣氏の小田原征伐によって所領を奪われて那須氏のもとへ亡命、真里谷氏も庁南の本家と運命をともにするのである。本家庁南氏の豊信の子・氏信が生存し、庁南城落城の後家臣団に守られて近隣に移住、郷士として土着したともされている。この子孫を名乗る家系は現在も血筋が続いている。分家真里谷氏のその後は不明である。 「因幡の武田氏」因幡守護・山名氏の家臣に若狭武田氏傍流の一族がいる。いつ頃から因幡山名氏に仕えたのかは不明だが、『蔭涼軒日録』延徳3年(1491)11月6日条に山名豊時家臣として「武田左衛門大夫」の記述が見える。 天文14年(1545)、山名誠通の家臣武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。(国信の最後に関しては諸説あり、天文9年の橋津川の戦いで討ち死にしたとする説もある)天文年間に鵯尾城が築城され、国信の嫡男武田高信が入ると弟の武田又三郎に鵯尾城を任せ、自らは鳥取城に入り守護山名豊数に対抗するような姿勢を見せる。永禄6年(1563)、安芸の毛利氏と結んだ高信は鹿野城主・山名豊成(誠通の子)を毒殺、同1563年(永禄6年)4月の湯所口の戦いで豊数を破った。布勢天神山城を追われた豊数は鹿野城へ逃れたものの、後に病死した。天正元年(1573))、出雲の戦国大名尼子氏の支流・新宮党の遺児である尼子勝久と山中幸盛が因幡に侵入し、甑山城に入城する。武田氏は山名豊国・尼子勝久連合軍と戦うため、これを攻撃するが破れ、鳥取城を主家 山名氏に明け渡し、鵯尾城に退いた。天正6年(1578)、美作の国人領主・草刈氏が因幡国智頭郡に淀山城を構え、勢力を伸ばすと、山名氏はこれを討伐するため、同国佐貫の大義寺に陣を敷き、武田高信に軍議に応ぜよと招聘した。高信が寺に入ると門を閉ざし、これを討ったため、因幡の武田氏は滅亡した。なお、近年の研究によって武田高信の死は天正元年(1573)5月以前であることが判明しており、同天正元年(1573)5月4日付の「小早川隆景書状」(『萩藩閥閲録』)には「不慮に相果て」と記されている。また、数年後の毛利氏側の史料には織田方との密通が明らかになったため、山名豊国によって切腹させられたと記されている。『陰徳太平記』『因幡民談記』などによれば、高信の遺児・武田源五郎は南条元続の元に、源三郎(武田助信)は毛利秀包の元に身を寄せたという。この内、武田源三郎は村岡藩主となった山名豊国が200石をもって召抱えたとされる。明治元年(1868)1月の『山名家加封之時藩士格録人名』には武田氏の名前が見えており、因幡武田一族の一部は山名家に仕え、村岡藩士となり、明治維新を迎えたことが分かっている。*武田国信(豊前守)*武田高信(嫡男)*武田助信(村岡藩士となり、山名豊国に仕える)14、「おわりに」武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、天正3年(1575)長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、天正10年(1582)織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)。徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち家康自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。天目山の戦いの後、信玄の次男・竜芳(海野信親)の子の信道は織田氏による残党狩りから逃れた。その後、信道は大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流されたが、その子・信正の代で許されて元禄13年(1700)に幕臣となり高家として仕えた。大正4年(1915)、大正天皇御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主武田信保に信玄に対する位記宣命が渡された。以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主武田英信へ受け継がれて現在に至っている。
2024年04月25日
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3、「甲斐武田氏」治承・寿永の乱における活動、甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の宗家である。4代・武田信義(源信義)は治承4年(1180)4月に以仁王から令旨を受け取ると、甲斐源氏の一族を率いて挙兵する。甲斐源氏は、治承4年10月20日の富士川の戦いにおいて主力となってこれに勝利し、伊豆の源頼朝から武田信義が駿河守護に、安田義定が遠江守護に補任された(『吾妻鏡』)。治承・寿永の乱において、甲斐源氏の一族は『吾妻鏡』以外の記録史料を総合すると頼朝の傘下ではなく独自の勢力であったと考えられ、この補任は、敗走する平家方を追討した信義・義定らが駿遠地方を占拠した後、甲斐源氏の戦功を頼朝が追認したものであると考えられる。その後、その勢力を警戒した頼朝から粛清を受けて信義は失脚し、弟や息子たちの多くが死に追いやられた。信義の五男・信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、韮崎にて武田氏嫡流となる。*「武田 信義」(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。源清光の次男。逸見光長は双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏4代当主であり、武田氏の初代当主である。大治3年(1128)8月、新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延6年(1140)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。治承4年(1180)4月、以仁王の令旨に応じ、信濃国伊那郡へ出兵して平家方の菅冠者を討つ。その後、安田義定ら甲斐源氏の一族は甲斐・石和御厨(笛吹市石和町)に集結し、挙兵する(『山槐記』)。このとき信義は53歳であった。その後、駿河国に進出して駿河目代・橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。吾妻鏡によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。そのような中、甲斐源氏の中に分裂が見られ、弟の加賀美遠光とその次男・小笠原長清、信義の子・石和信光は頼朝に接近し安田義定は平家を打ち破って都に進撃する義仲とともに東海道から都に上洛し、その功により「遠江守」の官位を手中にする。やがて源義仲と頼朝が対立関係となると、信義や甲斐源氏は頼朝と協調路線を選択し、その後も武田軍は源範頼、源義経と共に義仲の追討・一ノ谷の戦い・平家追討山陽道遠征・壇ノ浦の戦いに参加した。だが、それと同時期に甲斐源氏は自分と同格の武家の棟梁の存在を排除もしくは屈服させるという頼朝の路線の障害となる存在となってしまう。養和元年(1181)には、後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かされている。元暦元年(1184)6月16日、子の一条忠頼が鎌倉に招かれ宴席で暗殺された。その一条忠頼殺害の前後に木曽義高残党討伐という名目で頼朝は甲斐信濃に出兵している。また土肥実平より上位にあるという書状を送った子の板垣兼信に対して頼朝が実平優位を示す返書を出すということもあった。その一方で親頼朝派の加賀美遠光に対しては「信濃守」任官を朝廷に申請するなど厚遇した。このように、親和策と弾圧をそれぞれの一族が個別に受けた結果、挙兵時頼朝や義仲と同格の武家棟梁であった甲斐源氏は鎌倉殿の御家人という扱いへと転じていくことになる。『吾妻鏡』によると文治2年(1186)3月9日、享年59歳で病没したとあるが、建久元年(1190年)の頼朝上洛の隋兵に武田信義の名があったり、建久5年(1194)の東大寺造営や小笠懸の射手に信義の名が見られることから、文治2年(1186)以降も信義が生存している可能性が濃厚であるとの指摘もある。家督は五男の信光が継いだ。墓は山梨県韮崎市神山町鍋山の願成寺にある。) 信光は承久3年(1221)の承久の乱でも戦功を上げ、安芸守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。信光の息子である信政の子の代に2つに分かれ、政綱が甲斐を、信時が安芸を継承した。*「武田 信光」(たけだ のぶみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。源義光(新羅三郎)を始祖とする甲斐武田氏の第5代当主。第4代当主・武田信義の5男。伊豆守。甲斐国・安芸国守護。甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する。馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された。『吾妻鏡』に拠れば、治承4年(1180)の源頼朝が挙兵したことに呼応して父と共に挙兵し、駿河国にて平氏方の駿河国目代橘遠茂と戦い、これを生け捕りにするという軍功を挙げたという(鉢田の戦い)。
2024年04月24日
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12「死後の両細川の乱 」 半将軍と呼ばれるほどに力を持った政元が死亡すると細川京兆家は家督をめぐる内紛を重ねて政権体制、領国、家臣団ともに急速に力を失っていくことになる。 政元暗殺後の後継者について、まず細川家の血を引かない澄之の排除に関しては一族で一致をみることができたが、澄之敗死後の澄元(後にはその子の晴元)・高国両派の対立は、幕府将軍の義澄・義稙両派の争いとも絡んで、20年以上の長きに渡り細川家を二分し畿内に争乱をもたらすものとなった(両細川の乱)。 両細川の乱 この擾乱を契機として、京を押さえた細川高国らと、細川澄元・その子晴元・三好氏ら阿波勢との攻防が長期にわたって繰り返された。 永正6年(1509年)、細川澄元・三好之長が京侵攻を企てるが、細川高国・大内義興は協同して撃退している(如意ヶ嶽の戦い)。 同年10月、高国らが近江に侵攻し、澄元・之長は阿波に逃亡した。之長の子・三好長秀は伊勢に敗走したが、北畠材親に攻められ自害する。 永正7年(1510年)、高国らが近江に侵攻したが、澄元方を支持する国人の反抗もあって大敗した。 永正8年(1511年)、澄元は細川政賢・細川尚春らと(芦屋河原の合戦)、また河内守護畠山尚順らと(和泉・深井の合戦)合戦に及び、播磨・備前守護赤松義村などと連携して京に侵攻する。 高国・義興は一時は劣勢に追い込まれ、将軍足利義稙を擁して丹波に撤退余儀なくされる。 しかしこの最中に、阿波勢の擁する前将軍義澄が病死する。8月、高国・義興軍が船岡山合戦に勝利した。細川政賢は自害し、澄元は阿波に撤退する。 永正14年(1517年)、三好之長は淡路水軍を掌握するため淡路に侵攻し、淡路守護細川尚春は和泉の堺に逃亡した。 永正15年(1518年)8月、出雲の尼子氏や安芸の武田氏などが不穏な動きを見せ、麾下の国人の離反も相次いだため、約10年在京していた大内義興が周防に帰国する。 永正16年(1519年)5月、細川尚春は澄元に降るが、之長に殺害される。 同年11月、澄元・之長らが摂津国兵庫に上陸、瓦林正頼(別名:河原林政頼)の越水城を落とす(越水城の合戦)。 永正17年(1520年)2月、高国が摂津で澄元・之長に敗れ、将軍義稙は澄元側に通じる。 高国は近江坂本に逃走するが、近江の六角定頼・京極高清、丹波の内藤貞正らの支援を得て5月、京に侵攻し、澄元・之長を破る(等持院の戦い)。之長は高国に拝謁し助命を請うが、細川尚春の養子・彦四郎の要求で自害に追い込まれる。また、澄元を摂津に追放する。6月、澄元は阿波勝瑞城で病死。 永正18年(1521年)3月、高国は対立した将軍義稙を追放し、新たに足利義晴(義澄の子)を12代将軍として擁立した。8月、大永に改元。この年、赤松義村の重臣浦上村宗、義村を幽閉ののち暗殺。 11月に義晴の元服儀礼のために高国は管領に就任するが、儀式終了後の12月には辞任している(一次史料から確認可能な室町幕府における最後の管領在職)。 大永4年(1524年)10月、高国の重臣香西元盛・柳本賢治らが阿波勢の残党を和泉で破る。 大永6年(1526年)7月、丹波守護細川尹賢の讒言により、高国が香西元盛を謀殺。このため元盛の兄・波多野稙通・柳本賢治らは阿波の細川晴元・三好元長と連携して丹波で挙兵。高国は細川尹賢を丹波に侵攻させたが敗退。 大永7年(1527年)2月、波多野稙通・柳本賢治らが京に侵攻、高国・尹賢は桂川で迎え撃つが敗れ、将軍義晴を擁して近江坂本に逃亡(桂川原の戦い)。前将軍義稙の養子・足利義維(義澄の子で義晴の弟)を擁する晴元・元長は堺に進出し、京の支配を行う(堺公方)。 享禄元年(1528年)、高国は京奪回を試みるが、晴元に敗れる。細川尹賢、晴元方に寝返る。 享禄3年(1530年)、柳本賢治が播磨出陣中に死去。高国は浦上村宗と連携して京に侵攻。 享禄4年(1531年)3月、高国は三好元長の反撃を受けて摂津国中嶋の戦いで大敗。 6月、さらに高国は天王寺の戦いで元長に敗れて尼崎に逃走したが、捕らえられ自害し、浦上村宗も討死。 7月、細川尹賢が木沢長政に殺害される。長政と元長が対立するようになるが、細川晴元は長政を寵愛する。 天文元年(1532年)6月、晴元は証如や木沢長政と結び、一向一揆に堺の元長を攻めさせる。元長は敗れて自害。晴元は将軍義晴と和睦する。この後、天文の錯乱が勃発。 また政元をもって京兆家嫡流である細川頼元の血筋は絶え、頼元の弟である細川満之・細川詮春の子孫が細川家家督の地位を争うこととなる[11]。 了
2024年04月20日
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この侵攻を高国は防ぎきれず、永正17年(1520年)1月になると山城で土一揆が起こるなどして遂に近江に逃亡する。この時、高国と不仲だった義稙は高国と行動を共にせず、澄元の庇護を受けた。しかし5月になると近江に逃れた高国は大軍を率いて京都に侵攻し、澄元は摂津に敗走し、三好之長は捕らえられて処刑された(等持院の戦い)。 そして6月10日、澄元も最終的に逃亡した阿波勝瑞城で病死した。 高国政権 澄元の死で敵対者がいなくなった高国であるが、元々実力者である大内義興の力を背景にした政権であったことからその政権基盤は脆弱なものであり、義興が帰国した後の高国は強権政治を敷きこれを維持せざるを得なかった。 功臣の河原林政頼や利倉民部丞らを粛清したのを始めとして、大永元年(1521年)には対立していた将軍・足利義稙を追放して義澄の子・足利義晴を新たに第12代将軍に擁立するなど、まさに「今は心に懸る事もなく、威稜日月に増長」であった。 大永5年(1525年)4月、高国は子の稙国に家督を譲って隠居するが、稙国は12月に早世してしまい、やむなく家督を再相続した。 大永6年(1526年)、又従兄弟に当たる丹波の守護・細川尹賢の讒言を信じた高国は、重臣の香西元盛を誅殺してしまった。 これにより、元盛の兄である波多野稙通や柳本賢治らは細川六郎(澄元の嫡男、後の晴元)や三好元長(之長の孫)と通じて高国に反乱を起こした。 これに対して高国は波多野討伐を実行したが、内藤国貞らの反抗もあって失敗する。大永7年(1527年)2月には桂川原の戦いで波多野・三好軍らに高国は敗れて将軍・足利義晴を擁して近江に逃亡した。 六郎達は義晴の兄弟に当たる足利義維を擁立、仮政権・堺幕府を樹立した。 享禄3年(1530年)5月、高国に代わって京都で権勢を振るっていた柳本賢治が家臣の中村助三郎によって暗殺された。 これを機に高国は再び京都復帰を果たしたが、享禄4年(1531年)3月には摂津中嶋の戦いにおいて三好元長に敗れ、6月4日の天王寺の戦い(大物崩れ)でも元長に敗れて捕らえられ、6月8日に自刃に追い込まれた。こうして高国政権は崩壊したのである。 晴元による家督内紛収束と細川政権崩壊へ 高国の死後、三好元長に擁されて細川京兆家の家督を継いだのは澄元の子の細川晴元である。 しかし享禄5年(1532年)に三好政長・木沢長政や茨木長隆の讒言を受けて、本願寺第10世証如を通じて一向一揆を動かし、一揆軍に対する敗戦責任を口実として元長を誅殺し、堺幕府と決別した。 一向一揆の暴走(天文の錯乱)には法華一揆・六角定頼の力を借りて戦い、天文5年(1536年)に和睦、京都で勢力を伸ばした法華一揆は定頼と比叡山延暦寺に与して鎮圧(天文法華の乱)、京都の安定を確保して将軍・義晴と和睦、義晴を傀儡とした管領晴元による幕政が行われた(もっとも、晴元が継承できたのは細川京兆家の家督のみで、高国の死後管領職は廃絶となったとする異説もある。 また、当時の幕政は将軍と内談衆ら側近による合議制に移行して管領の職務は儀礼的なものに限定され、細川京兆家も管領職の任免によって将軍に統制されることを望まず、将軍の後見人として実質的権力を振るう方針を採ったとする指摘もある)。 だが、30年に及んだ両細川の内紛によって細川氏一門およびその領国が二分されただけではなく、細川京兆家を支えていた内衆の多くが討たれたり追放されたりして姿を消し、細川政権はその政治的・軍事的基盤を失うことになった(特に大物崩れでは滅亡した高国陣営に譜代の内衆が多く、室町期から受け継がれてきた細川京兆家の持つ政治的ノウハウを喪失させることになり、同家の政治力低下につながった)。更に細川氏の守護や内衆によって抑圧の対象となっていた国人が内紛の混乱に乗じて在地において力を伸ばすことで、在京生活が多く在地における基盤を固めきれなかった内衆は没落し、あるいはその動きに対抗するために在地に戻って自らも国人領主化していった。 こうした事態に対応するために細川政権は体勢の立て直しに迫られた。1つは外部勢力の支援を受けて支持基盤を強化する方法である。 もう1つは三好氏や茨木氏といった本来内衆には加えられていなかった有力国人を政権に取り込んでいく方法である。 細川高国が大内義興と結んだのは前者の戦略によるもので、細川晴元が京兆家にとっては外様である三好元長・長慶父子や茨木長隆を守護代に抜擢にしたのは後者の戦略によるものであった。 高国・晴元を通じて細川氏の守護としての領国は解体され、内衆は完全に姿を消すことになる。 この時点で細川政権の前提となる細川氏一族の同族連合と内衆の合議制に基づく意思決定が放棄されたのである。 天文2年(1533年)、かつての高国陣営は高国の実弟である細川晴国を擁して挙兵をした。しかし、晴国は本来は高国に代わってその実家である野州家(当時は房州家とも称した)を継ぐ存在であり、京兆家の後継者として典厩家から高国の養子に迎えられ、かつ年長でもあった細川氏綱を支持する勢力からは協力を得られず、3年後に晴国が敗死したことで一旦は晴元の体制は安定化した。
2024年04月20日
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*「長瀞 義保」(ながとろ よしやす)は、戦国時代の武士。中野義時と同一人物ともいわれる。最上義守の三男として誕生。兄・義光の命により最上氏の庶流でかつて最上八楯の一員として最上本家に対抗した長瀞氏を継いだが、早世したとされる。しかし、長瀞氏の居城・長瀞城には義保が住んだという記録は残っていない。九戸政実の乱で戦死したという説も伝わる。 *「楯岡 光直」(たておか みつなお)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。最上氏の一門。嫡兄・最上義光からの一字拝領であれば、読み名は“あきなお”になる。出羽国の戦国大名・最上義守の子として誕生する。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが勃発。兄・義光が徳川氏に与したことにより、敵方の上杉氏が最上領へ侵攻すると、光直は700挺の鉄砲隊を含む1000の軍勢を率いて甥・清水義親と共に長谷堂城の志村光安の救援にあたった。この鉄砲隊により、上杉重臣・直江兼続も苦戦を強いられたという。元和4年(1618)、楯岡城主となった(1万6000石)。元和3年(1617)、山形藩2代当主・最上家親が死去した。なお、家親が鷹狩り後に楯岡城へ立ち寄った際に、光直の饗応を受けたその夜に突如悶死したという説がある。しかし、史実では家親は江戸で死去しており、現在では謬説とされている。家親が死後、家中では後継者争いが発生した。家親の子である最上義俊(家信)を推す一派と、その叔父で義光の四男・山野辺義忠を推す一派とが対立した。「家信(義俊)若年にして国政を聴く事を得ず。しかのみならず常に酒色を好みて宴楽にふけり、家老これを諌むといえどもきかざるにより、家臣大半は叔父義忠をして家督たらしめんことをねがう」と伝わるほどに義俊の人望はなく、家臣の多数が義忠を推していたが、その筆頭が鮭延秀綱や最上一族である光直であった。最上騒動と呼ばれた一連の問題は江戸幕府の介入と和解案によって、義俊後継とする両派融和決着の道が図られたが、光直ら多くの家臣がこれに納得せず、光直らは幕府に対し「家臣全員、高野山に上って出家する」などと回答するなど、相変わらず藩政が乱れたため、やむなく幕府は最上家の改易を決定した。元和8年(1622)、騒動の中心人物の一人であるとされた光直は、最上家改易と同時に豊前の細川家に御預けの身となった。肥後では厚遇を受け、光直が病に臥せっていた際、当主である細川忠利自らが光直屋敷へ見舞いに来た話が残る。寛永6年(1629)、死去。子孫は肥後藩に仕官し、同藩家老職となった。なお、前述の山野辺義忠は同じく岡山藩池田忠雄の国許への幽閉処分を下されたが、後に徳川頼房により水戸藩が立藩された際、幕府に要請される形で同藩家老職(1万石)となり、頼房の後継者の光圀の教育係も務めた。山野辺家は代々同藩家老職を勤めたが、義忠の子の義堅に子がいなかったため、光直子孫の肥後楯岡家から婿養子(山野辺義清、光直の孫)を迎えて後継としたため、以降は光直の子孫ともいえることになる。 6、「最上 義光」(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、上杉景勝と戦い、最上家を57万石の大大名に成長させて全盛期を築き上げた。家督相続まで天文15年(1546)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将の娘との間に長男として生まれる。幼名は白寿丸。永禄元年(1558)または永禄3年(1560)に元服、将軍・足利義輝より偏諱を賜り、源五郎義光と名乗った。永禄3年(1560)3月には、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。永禄6年(1563)、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁し、この時に義守・義光父子は幕府より御所号で遇されている(『言継卿記』)。永禄7年(1564)には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567)には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。元亀元年(1570)頃。当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じる。5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解することになる。そして、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌元亀2年(1571)に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。しかし天正2年(1574)1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが輝宗に同調するなど四面楚歌の状況であったが、義光はこれらの攻勢を巧みに退けた。9月10日には義光有利のうちに和議が成立し、最上氏は伊達氏からの完全な独立に成功した。以後、義守・義光父子は和解し、再び争うことはなかった。従来、義守が義光を廃嫡して次男の義時に後を継がせようとしたことが両者不和の原因とされてきたが、一級史料には全く義時の名が見られないため、今日ではこの説は義時の存在も含めて後世の創作と見なされている(詳細は天正最上の乱を参照)。
2024年04月16日
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弘和2年/永徳2年(1382)に楠木正儀追討を命じられ、正儀に代わって河内守護に就任、畠山氏の河内経営の拠点となる若江城を築城した。明徳3年(1392)1月、楠木正勝の守備する千早城は落城し、正勝らは大和国の吉野十津川方面へと逃走した。楠木氏は60年以上続いた最も象徴的な根拠地を失ったのと同時に、畠山氏は名実共に河内国の支配者となった。 また、元中8年/明徳2年に山名氏が蜂起した明徳の乱では幕府方の一員として参陣、翌年から応永元年(1394)まで侍所頭人に再任、山城守護も兼任した。応永5年(1398)6月には斯波義将の後継として管領に任じられ、応永11年(1404)7月までの6年間を務める。応永6年(1399)に大内義弘が蜂起した応永の乱でも戦い、戦後義弘の領国だった紀伊も領有、摂津欠郡(東成郡・西成郡・住吉郡)と大和宇智郡の分郡守護にも補任された。応永13年(1406年)1月17日、53歳で死去。嫡男の満家が当時失脚していたため、家督は次男の満慶が継いだ。法号は長禅寺殿春岩徳元。後に満慶は満家に家督を譲り能登一国を領有、子孫は分家として満家の系統の本家を支えていった。基国は畠山氏で初めて管領となった人物であり、室町時代に畠山氏が三管領家となった事から、畠山氏の中興の祖と言われている。 *「畠山 満家」(はたけやま みついえ)は、南北朝時代から室町時代にかけての武将、守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・伊勢・山城守護。畠山基国の嫡男で満慶の兄。子に持国、持永、持富。応永6年(1399)の応永の乱では父と共に幕府軍の一翼を成し、敵将・大内義弘を討ち取る武功を挙げている。しかし、大御所足利義満から疎まれ一時失脚する。家督は父の没後は弟の満慶が継承していたが、義満が死去し4代将軍足利義持の治世になると、満慶から家督を返上され満家が当主となり河内・紀伊・越中3ヶ国の守護となった(「天下の美挙」と称えられた)。義持政権では重きをなし、応永17年(1410)6月から応永19年(1412)3月、応永28年(1421)8月から永享元年(1429)8月までの間に管領を務めた。応永31年(1424)に伊勢守護に補任、正長元年(1428)の北畠満雅の反乱で土岐持頼に交替、同年に山城守護に補任された。義持が引退した後は5代将軍足利義量を補佐したが、義量が早世したため前将軍義持が復帰することになり、再び義持の下で政務にあたった。正長元年、義持が死去した時、後継者を義持の弟4人のうちから籤引きで定めることを決めたのは満家である。この結果、天台座主義円が還俗し、6代将軍足利義教となった。義教の代においても宿老として幕政に重きを成したが、永享5年(1433年)9月19日、62歳で死去した。法号は真観寺殿真源道端。粛清を行なった将軍として恐れられた義教も、満家存命中はその行動を抑制されていた。満家は義教と鎌倉公方足利持氏の融和に努めることで戦争を回避しようと努力していたが、満家が死去したことで義教を抑制する人物がいなくなってしまったため、以後は義教による粛清が行なわれることとなるのである。*「畠山 国清」(はたけやま くにきよ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名である。足利氏の支流畠山氏出身。和泉、紀伊守護を経て関東管領となる。伊豆守護家の祖。父は畠山家国。弟に義深など。子に義清、義晴。足利尊氏に従い鎌倉幕府討幕、建武の新政から離反した後の南朝との戦いで和泉、次いで紀伊の守護となる。後に河内の守護にもなり、畿内に勢力を広げた。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏の弟である足利直義に属し、政争に敗れた直義が京都を脱出して吉野の南朝に属すると国清も従うが、後に尊氏方に付き、武蔵野合戦に参戦している。延元元年/建武3年(1336)9月1日、南朝の武将岸和田治氏と戦い、八木城(現在の岸和田市八木地区?)まで撤退させる(『岸和田治氏軍忠状』)。しかし、7日、天王寺から中院右少将(右中将の中院定平?)と楠木一族の橋本正茂らが治氏の援軍に来ると、治氏は城中から撃って出たため、国清は挟み撃ちされた格好になり、蕎原城(大阪府貝塚市蕎原)まで撤退して籠城、しかしこれも落とされて敗走する(『岸和田治氏軍忠状』)。正平8年/文和2年(1353)、尊氏が関東地方の統治のために設置した次男の鎌倉公方足利基氏を補佐する立場の関東管領となり、伊豆の守護となった。同年、鎌倉府を武蔵入間郡入間川に移し(入間川御陣)、遠縁である秩父氏ら武蔵平一揆を率い、武蔵守護にもなり権勢を振るった。正平13年/延文3年(1358)に南朝方の新田義興を謀殺した。正平14年/延文4年(1359)、2代将軍足利義詮からの援軍要請を受け、関西に攻め上った。しかし陣中で仁木義長と対立、幕府執事(管領)の細川清氏と協力し、義長を政治から失脚させる。しかし正平15年/延文5年(1360)には、今度は清氏が義詮と対立し失脚することになり、政治的に苦しい立場となった。国清は軍勢と共に関東へ無断で帰還したが、清氏の投降で攻勢に出た南朝により京都が一時失陥する事態を招くことになり、これにより国清はますます面目を失うことになった。正平16年/康安元年(1361)11月、かつての直義派の武将達から基氏に対して国清の罷免の嘆願が出ると、国清は失脚し領国の伊豆へ逃れた。
2024年04月15日
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また制圧されはしたものの時の守護を兼帯した関東管領上杉朝房の攻撃に対して、これを迎え撃って合戦に及ぶ事件なども続いた。南北朝合一の後、永らく北朝方として戦い、足利将軍家から信濃守護家として遇された小笠原氏が念願の信濃守護に再び補任されるのは応永6年(1399)のことであった。) また吉沢好謙が延享元年(1744)に著した『信陽雑志』によれば永享12年(1440)の結城合戦に参陣した禰津越後守遠光の配下にも、大塔合戦と同じく、真田源太・源五・源六の名が見られる。これらのことから、おそらく真田氏は滋野三家(海野・祢津・望月)である根津氏の支流だった可能性が濃厚であろうと考えられている。はっきりしているのは、戦国時代のはじめころ、信州小県郡の山間にある真田郷に真田幸隆(幸綱)と名乗る在地の土豪がいたということである。高白斎(こうはくさい、駒井政武)が記した『高白斎記』の天文18年(1549年)3月14日の条に「七百貫文ノ御朱印望月源三郎方へ被下候、真田渡ス、依田新左衛門請取」と出ている。ここに出てくる真田氏が幸隆である。*「結城合戦」(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。永享7年(1435)からの鎌倉公方・足利持氏と補佐役の関東管領・上杉憲実の対立から永享10年(1438)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍・足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、永享12年(1440年)3月に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。幕府方は総大将・上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、永享12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。嘉吉元年(1441)4月16日、結城氏朝・持朝は敗北し討死し、城は落城した。持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺され、永寿王丸(後の足利成氏)は京都に送られた。)*「真田 幸隆 / 幸綱」(さなだ ゆきたか / ゆきつな)は、繁信の祖父。戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され[、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では一徳斎の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子として生まれたとされている。幸綱の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸綱以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸綱が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎は天文10年(1541)に同盟関係にある信濃諏訪郡の諏訪頼重や、信濃小県郡の村上義清と共に信濃小県郡・佐久郡へ侵攻する。同年5月23日の海野平の戦いにより海野一族は敗北して上野へ亡命している。幸綱が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野国に逃れている。信虎は海野平合戦から帰国した同年6月14日に嫡男・武田晴信(信玄)により駿河へ追放され、晴信が家督を継承する。晴信はまず翌天文11年(1542)に独断で関東管領の上杉憲政と和睦して領地を割譲した諏訪頼重を滅ぼすと、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。幸綱は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。『高白斎記』に拠れば、幸綱は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田方に臣従させたという。江戸時代初期の『甲陽軍鑑』に拠れば、天文17年(1548)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦している。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の足軽大将である山本勘助(菅助)の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は300~400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に、同じ滋野一族の禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸綱を推挙したと推測して天文12年説を提唱し、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546)4月に河越夜戦で上杉勢を上野国から駆逐していることから、幸綱の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが幸綱であったと推測している。武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っている。
2024年04月10日
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この一件は高秀の京極氏と頼之の細川氏との確執を深め、後の康暦の政変へと繋がっていったと言われている。なおこの間、正平23年/応安元年(1368)に評定衆へと加わり、従四位下大膳大夫に任ぜられ、文中2年/応安6年(1373)には父道誉が亡くなり家督を継いでいる。天授5年/康暦元年(1379)に起こった康暦の政変では、美濃国の土岐頼康と共に政敵である頼之の管領罷免を求め近江で兵を挙げ、3代将軍・足利義満から追討令を受けた六角氏と近江で戦う。そうした中、鎌倉公方の足利氏満も反乱の構えを見せたため、恐れをなした義満は高秀らを許した。高秀は京に上り服従を誓うが、翌日になって斯波義将、土岐頼康らと共に大軍で花の御所を包囲し、再び頼之の罷免を迫り成し遂げる。しかし京極氏の領国は全て取り上げられて高秀・秀満は失脚、2年後の弘和元年/永徳元年(1381)には赦されたものの飛騨一国しか返還されなかった。その後は幕府に仕え、元中7年/明徳元年(1390)には義満の命により美濃で反乱を起こした守護土岐康行(頼康の甥)を追討した(土岐康行の乱)。翌年の元中8年/明徳2年(1391年)に64歳歳で亡くなり、長男・高詮が後を継いだ。高詮は同年に起こった明徳の乱で功績を上げて出雲・隠岐を取り戻し、京極氏の勢力回復に努めた。一方、高秀の存命中に後継者と目されていた次男・秀満は、家督を継げなかったことに不満を持ったのか高詮と対立した。応永6年(1399)に勃発した応永の乱において反幕府方につき挙兵したが、敗れた。『応永記』では、森山で幕府方の京極勢と対峙したが小勢のため戦わず、土岐詮直へ合流しようと美濃国へ落ちる途中、垂井で土一揆に囲まれて散逸、行方知れずとなったとしている。高秀は和歌を好み新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集に入集している。また、三男・高久には近江尼子郷を与えている。高久は後に出雲の戦国大名となる尼子氏の祖となった(一説に高久に尼子郷を与えたのは高秀ではなく、その父である道誉であるとも)。 「京極 高詮」(きょうごく たかのり)は、室町時代前期の武将、守護大名。室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城・石見守護。正平7年/文和元年(1352)、京極高秀の子として誕生。正平20年/貞治4年(1365)、佐々木氏宗家六角氏頼の嫡男・義信が17歳で死去した。京極氏は佐々木氏傍流であったが祖父・佐々木道誉の時代に隆盛を極めており、道誉の孫でもある京極家嫡男・高経(高詮)は養嗣子として六角氏に赴き、京極氏の後継者は次弟の吾全秀満とされた。しかし氏頼は正平24年/応安2年(1369)に新たに亀寿丸(後の六角満高)をもうけ、翌年には死去してしまう。このため跡目争いが生じ、高経は管領・細川頼之が主導する幕府から亀寿丸が成人するまでの後見役を命じられ、六角氏が代々務めていた近江守護へと任じられる。しかし、僅か7年後の天授3年/永和3年(1377)に近江守護職を解かれ、高経は京極氏へと戻る。この出来事は父が後の康暦の政変で反頼之陣営に加わる原因となった。康暦の政変においては、父・高秀は斯波義将らと共に将軍義満に強訴し政敵・細川頼之を罷免させることには成功したものの、京極氏の領国はすべて没収されてしまい、それから2年後にようやく飛騨のみ返還された。政変前後の高詮の動向は不明であるが、父や弟と行動を共にしていたものと思われる。明徳2年(1391)、父が亡くなり家督と飛騨の守護職を継いだ。またこの年には、全国66ヶ国中11ヶ国の守護を務めていた山名氏が幕府に背く明徳の乱が起こり、高詮は幕府方に従軍して京都の内野合戦で功を上げ、翌年には出雲・隠岐守護へと任ぜられる。出雲へは弟・尼子高久の子・持久を守護代として派遣し、その子孫は戦国大名の尼子氏となる。また出雲大社において当時とぎれていた祭事の三月会を復興している。応永元年(1394)から応永5年(1398年)には侍所頭人も務めており、明徳の乱に敗れ京都の五条坊門高倉に潜伏していた山名満幸を捕らえて処刑した。京極氏は高詮の代である応永5年に侍所頭人を務める四職の一つと定められている。この後には出家し浄高(じょうこう)と名乗っており、主君である義満の出家に従ったとも考えられる。しかし高詮は出家後も京極氏の実権を握っており、応永6年(1399)末に勃発した応永の乱でも幕府方の部将として活躍した。乱後に義満から石見守護職も与えられ、父・高秀時代の京極氏の勢力をほぼ回復した。なお、応永の乱においては高詮の家督相続に不満を持っていたとされる弟の秀満が反幕府方に呼応し挙兵しているが、程なく鎮圧されて没落している。応永8年(1401)に出雲・隠岐・飛騨の守護職を嫡男・高光に継がせ[6]、程なくして死去した。享年49歳。
2024年04月08日
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天正10年(1582年)3月、織田信長が武田領に攻め込む(甲州征伐)と、諏訪氏家臣団は頼豊に対して武田氏を離反して諏訪氏再興を図るべきと進言するが、それを拒んで出陣する。鳥居峠の戦いで敗れた後、織田軍に捕らえられて処刑されたという。これにより、家臣達は弟の頼忠を擁して諏訪氏再興を図る。 「諏訪 頼忠」(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。信濃諏訪藩の基礎を築いた。武田家、家臣時代信濃国諏訪氏の一族。天文11年(1542)6月、諏訪氏の当主で、頼忠の従兄にあたる頼重は、甲斐国の武田信玄の諏訪侵攻で自害する。父・満隣は、高遠頼継・矢島満清らが諏訪大社上社の諏訪大社大祝(おおほうり)の簒奪を画策すると、これに対して頼重の遺児・千代宮丸(虎王丸、又は長岌)を擁立した。その後、満隣の動向は不明[5]。満隣の子では頼忠のほか頼豊・頼辰もそれぞれ武田家に仕えている。諏訪大社の大祝は頼重の弟・頼高が務めるが頼高は天文11年(1542)に殺害され、『当社神幸記』によれば、同年12月以前には頼忠が諏訪大社上社の大祝となり、12月7日には諏訪明神御渡の注進を行っている。『当社神幸記』によれば、天文16年(1547)1月11日時点で「頼忠」を名乗っている。永禄7年(1564)7月19日には武田氏の飛騨侵攻に際して信玄から祈祷を依頼されている。永禄8年(1565)12月・永禄9年(1566)には諏訪大社上社や末社の祭礼再興に尽力している。天正6年(1578)・天正7年(1579)には武田勝頼により諏訪大社の造営が実施され、頼忠もこれに携わっている。天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、諏訪家旧臣千野氏らに擁立されて河尻秀隆の郡代・弓削重蔵を駆逐し、信濃高島城(旧城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ本領を回復した。北条家、家臣時代信濃の混乱(天正壬午の乱)に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して[2]北条氏政に接近し、再起を図ろうとした。しかし同年12月、酒井忠次、小笠原信嶺ら家康の信濃平定軍に敗れて和睦[2]の形で臣従する事となる。翌天正11年(1583)3月に諏訪郡を所領として安堵されることとなった。 天正18年(1590)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い、武蔵国比企郡奈良梨、児玉郡蛭川、埼玉郡羽生に計1万2000石の所領を与えられた。文禄元年(1592)には上野国総社に所領を移される。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務めた。 「諏訪 頼水」(すわ よりみず)は、安土桃山時代、江戸時代前期の大名。信濃諏訪藩の初代藩主。諏訪頼忠の長男。天正5年(1577)、6歳で父頼忠から諏訪大社大祝(おおほうり)職を譲られる。天正18年(1590)、父と共に小田原征伐に従軍する。その後、主家の徳川氏が関東に移封となったため、頼忠父子はこれに従って諏訪を離れて関東に移り、武蔵国奈良梨に所領を与えられた。その翌々年、上野国総社へ移封され、同年に父から家督を譲られている。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従い、信濃国や上野国の守備を命じられた。その功績により、戦後の慶長6年(1601)10月、信濃国高島2万7000石へ復帰を許された。第二次上田合戦後には上田城の受取役を果たしている。慶長19年(1614)からの大坂の陣では甲府城の守備を命じられ、長男の忠頼が諏訪軍を率いて出兵した。頼水は冬の陣の際に自身が城の留守居などのような閑職に留められていることに奮起し、夏の陣では大坂へ従軍させてもらうように願ったが、かなえられず夏の陣でも甲府城の守備を命じられた。元和2年(1616)、改易となった松平忠輝の身柄を預かり、その後、諏訪氏は忠輝の面倒を生涯見ている。寛永11年(1634)、第3代将軍・徳川家光から杯と饗応を受けるという厚遇を受けるほどの信任を受けた。寛永17年(1640)、忠頼(忠恒)に家督を譲って隠居し、翌年の寛永18年1月14日(1641)に72歳で死去した。人柄頼水は政治手腕に優れ、前領主の七公三民(江戸時代の年貢率の一つ。その年の収穫高の7割を年貢として領主に納め、3割を農民の所得とするもの)のせいで荒れ果てていた農地から逃散していた百姓を呼び戻して新田開発を奨励するなど、藩政の安定に尽力し、家臣や領民に人気があった。
2024年04月02日
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出家後頼綱はその後法然の弟子証空に師事したが、建保2年(1214)頃までには鎌倉政庁の許しを得、5月には園城寺改修を拝命、山王社及び拝殿の修復に努めている。浄土宗に帰依した頃よりその潤沢な財力をもって京常盤や宇都宮、桐生などに念仏堂(庵)を建て、その由緒は現在もそれぞれ光明寺流「西方寺」、宇都宮「清巌寺」、桐生「西方寺」として受け継がれていると云われる。建保4年(1216)、頼綱が伊賀国壬生庄の地頭を称し春日大社領を押領していると、興福寺の僧信賢が朝廷を介して鎌倉政庁に訴えて来たが、幕府の訴訟の範疇でないため記録所で示談された。承久3年(1221)6月、 承久の乱が起きたが、頼綱は鎌倉留守居を務め、その功績から戦後、伊予国の守護職を与えられた。建長2年(1250)3月、京の閑院殿の改築に際し、その造営雑掌の西二封の当番となる。嘉禄3年(1227)に発生した嘉禄の法難の際には、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るために、蓮生(頼綱)の他、弟である信生(塩谷朝業)、法阿(東胤頼)、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らと共に、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。また、同族である藤原定家と親交が厚く、娘をその嫡男である為家に嫁がせている。為家が安貞元年(1227)信濃国の知行国主になると、東国の事情に明るい頼綱が定家・為家親子の相談役として信濃国統治に関する助言を行っている。正元元年(1259)11月12日、京にて死去。享年88歳。その遺言により京西山三鈷寺の証空の墓の側に葬られたとされる。現在、この善峯寺のほか、栃木県宇都宮市清巌寺と同芳賀郡益子町地蔵院にも墓碑がある。頼綱は父譲りで歌人としても優れており、同族である藤原定家と親交を深め、宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。百人一首は京の別荘小倉山荘に住まった折に、定家に選定してもらった和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まるといわれている。十三代集に頼綱の作品が多数修められている。】 5、「鎌倉時代と宇都宮氏」「牧氏事件」(まきしじけん)は、鎌倉時代初期の元久2年(1205)閏7月に起こった鎌倉幕府の政変。牧氏の変ともいわれる。発端正治元年(1199)に頼朝が死去した後、頼朝の妻・北条政子の実父である北条時政は、有力御家人である梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして、北条氏の地位を一段と高めてゆく。そして遂には建仁3年(1203)、頼朝の後継者の源頼家も廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し、自らは執権となる。元久元年(1204)、京の平賀朝雅邸で、将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われた。その席で時政の後妻牧の方の娘婿である朝雅と時政の前妻の娘婿畠山重忠の嫡子重保との間で言い争いとなる。周囲の取りなしで事は収まったが、さらに重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死した。そして政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届く。元久2年(1205)、この重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画する。このとき、時政の息子である北条義時は、重忠とは友人関係にあり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱く(『吾妻鏡』)。しかし、父の命令に逆らえず、武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼした。しかし、人望のあった重忠を強攻策をもって殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになった(畠山重忠の乱)。「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)は、鎌倉時代初期の元久2年6月22日(1205)7月10日)、武蔵国二俣川(現神奈川県横浜市旭区保土ケ谷区)において、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人排斥の一つ。鎌倉幕府創設者である初代将軍源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き正治2年(1200)の梶原景時の変、建仁3年(1203)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は14歳の3代将軍源実朝を擁する北条時政が握っていた。畠山重忠は秩父氏が代々継承してきた武蔵国の武士団を統率する留守所総検校職の地位にあり、その武勇と人望により頼朝の時代には常に先陣を務め、その死に際して子孫を守護するように遺言を受けた有力御家人であった。また時政の前妻の娘婿であり、梶原景時の変、比企能員の変ではいずれも北条氏側に協力していた。武蔵国は将軍によって国司が推挙される関東御分国(将軍家知行国)の一つであり、数多の武士団が存在し、鎌倉防衛の戦略上の要地であった。この頃の武蔵国司は、時政の後妻牧の方の娘婿平賀朝雅であり、比企能員の変の翌月の建仁3年(1203年)10月、朝雅は京都守護のため上洛し、朝雅の上洛後に時政が将軍実朝の命によって武蔵国務職に任じられ、武蔵国衙の行政権を掌握していた。
2024年03月31日
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2、「宇喜多氏の出自」(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。旗紋は兒文字と考えられているが、剣片喰や唐太鼓も散見され、兒文字は他の武将の旗紋の可能性もある。宇喜多氏の出自について確実なことは不詳であり、多くの戦国大名同様に諸説がある。一般には出自に諸説有る備前三宅氏の後裔とされるが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や平朝臣を名乗っていた。なお、宇喜多姓自体は、鎌倉期の『吾妻鏡』や南北朝期の『太平記』等にもその名は確認できず、室町時代において『西大寺文書』に記載された「宇喜多五郎右衛門入道宝昌」とあるのが文献で確認できる初出であることから、守護・地頭といった鎌倉時代以降の統治機構に元々は組み入れられていなかった人々により、室町時代に成立した比較的新しい苗字であると考えられている。以下に、最近の極少数説も含めて概説する。百済王族子孫の三宅氏後裔説従来から広く一般に敷衍している通説で、「兒」を旗紋とする百済の3人の王子が備前の島(現在の児島半島)に漂着し、その旗紋から漂着した島を児島と呼びならわし、後に三宅を姓とし、鎌倉期には佐々木氏に仕え、その一流が宇喜多(浮田)を名乗ったとするもので、本姓を備前三宅氏(三宅連:新羅王族子孫)とする。この説は、『宇喜多和泉能家入道常玖画像賛』(『宇喜多能家画賛』)の記載に基づくものである。宇喜多氏自身が称した出自であることから、地元岡山県に於いても古くから広く受け容れられ、20世紀末以降に入って出版された岡山県史・岡山市史・倉敷市史など地方公共団体が編纂した歴史書などでも、この説を採っている。備前岡山藩士・土肥経平が安永年間にまとめた備前軍記では、『宇喜多能家画賛』の全文や宇喜多氏の出自についての諸説を紹介した上で、宇喜多氏の出自を備前三宅氏と結論付け、この備前三宅氏について「(宇喜多能家画賛とは異なり)新羅王族の子孫とするものもある、古代朝鮮王族の子孫が備前児島の東21カ村を指す三宅郷という地名から三宅連の姓を賜り、後の三宅氏となった」との説を紹介している。なお、備前三宅氏については、備前に置かれていた古代大和王権の直轄地である屯倉に由来するとの説も古くからある。浮田(宇喜多)姓に相当する地名は、古くに遡っても備前児島には存在せず、地名ではなく地形等に由来する姓であるものと思われるが、岡山県編纂の『岡山県史』では宇喜多氏が本拠とした備前豊原荘一体にはもともと備前児島に由来する三宅氏が分布していたことから、宇喜多氏が本姓三宅氏で三宅氏の支流であることに矛盾はないとする。ただし、児島郡に三宅郷という郷名や三宅連という人名は見られず、三家郷と三家連の誤りと思われるうえ、三宅連は新羅の王族であるアメノヒボコの子孫であり、宇喜多氏が称する百済王族子孫との整合性に大きな矛盾が生じる。藤原北家閑院流三条家後裔及び百済王族子孫説一方で、上記の通説とは逆に、宇喜多氏が備前児島半島の三宅氏の先祖であるとする極少数説もある。百済王族の子を宿した姫が備前児島宇藤木に上陸し、備前児島唐琴に居住。この姫が「日の本の人の心は情けなし、我もろこしの人をこそ恋へ」という歌を詠んで助けられた話が都に伝わり、藤原北家閑院流三条家の宇喜多中将(宇喜多少将とも)へ嫁いで宇喜多氏となり、その系譜を汲む東郷太郎・加茂次郎・西郷三郎(稗田三郎)の三家を祖として三宅氏の家の元祖とするものである。一説に、東郷太郎は百済王族の子、加茂次郎と西郷三郎は三条の中将と百済の姫の子とされ、藤原北家閑院流三条家の血を引くとする系図が多数を占める。具体的には三条実親の玄孫にあたる参議・三条実古の子公頼(加茂次郎)が、山城国大荒木村宇喜多又は、山城国大荒木田宇喜多社領から備前国東郷に下向、公頼の子・実宗(東郷藤内、土佐守)の時水沢姓が分かれ、実宗の子・信宗(宇喜多十朗)が宇喜多姓を称し(赤松家家臣浮田四郎敏宗の養子となったともいう)、信宗の子宗家(宇喜多修理進三郎、土佐守) が文明2年(1470)上道郡西大寺に居住したとする。なお、三宅姓は古くから確認できるのに対し、宇喜多姓自体は室町時代の『西大寺文書』が文献で確認できる初出である(既述)。その他の説他の説として、宇喜多氏を児島高徳の後裔とし、高徳を宇多源氏佐々木氏の一族、あるいは後鳥羽天皇の皇子・冷泉宮頼仁親王の子孫とする説もある。また、能家自身は平朝臣を意味する「平左衛門尉」と称した記録があり、宇喜多氏自身の称する本姓にも揺らぎがあったようである。
2024年03月27日
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立正大師・続。平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。〇十月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の三年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である。〇文永十一年(1274)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する三度目の諌暁をおこなう。「富木殿御書」「日蓮聖人註画讃」によれば、五月七日には身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。〇文永十一年(1274)蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。〇建治三年(1277)九月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに龍の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。〇弘安二年(1279)九月二十一日、駿河熱原の神四郎等二十人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。〇弘安五年(1281)蒙古軍再襲来(弘安の役)。〇1弘安五年(1282)九月八日、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮は病を得て地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。十日後の弘安五年九月一八日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。〇十月八日、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。〇十月十三日辰の刻(午前八時頃)、池上宗仲邸にて入滅。現在、大本山池上本門寺となっている。享年六一(満六十歳)。〇十月二十五日、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮の遺骨が身延山に送られる。 「遺文」 日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、日興と日目と日常と日頂などの信徒や弟子達もこれを書写し大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片点を越える 。〇守護国家論(しゅごこっかろん)1259年〇災難興起由来(さいなんこうきゆらい)1260年〇災難対治抄(さいなんたいじしょう)1260年〇立正安国論(りっしょうあんこくろん)、1260年〇顕謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年〇法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年〇八宗違目抄、1272年〇開目抄(かいもくしょう)1272年〇真言諸宗違目1272年〇祈祷抄(きとうしょう)1272年〇如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)1273年〇顕仏未来記(けんぶつみらいき)1273年〇小乗大乗分別抄、1273年〇木絵二像開眼事、1273年〇法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年〇神王国御書、1275年〇種種御振舞御書、1275年〇撰時抄(せんじしょう)1275年〇報恩抄(ほうおんしょう)1276年〇四信五品抄(ししんごほんしょう)1277年〇諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年〇三大秘法禀承事[14][15](さんだいひほうほんしょうじ、さんだいひほうぼんじょうのこと)1282年〇唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)〇本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)〇兄弟抄〇下山御消息(しもやまごしょうそく)他四百余篇。「立正安国論」 日蓮が文応元年(1260)七月一六日得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。 日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。 その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。 しかし、時頼没後の文永五年(1268)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。 日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278)に改訂を行い(「広本」)、さらに二回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に三回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。了
2024年03月25日
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23、立正大師「日蓮」(日蓮)日蓮宗の宗祖。貞応元年(12222)安房国長狭郡東条郷片海に生まれる。日蓮は「海人が子」と自称している。教団では武士の子と伝えるが、当時の荘官クラスの子と考えらえる。〇幼名薬王丸・善日麿とも伝える。天福元年(1233)の頃近傍東北荘の天台寺院清涼寺に登った。〇嘉禎三年(1237)出家得度。房号は是聖房と言った。僧名は初めのころは蓮長、さらに日蓮と改めた。〇出家の理由は無常観抱懐にあった。遠国安房に就学の師なしとした日蓮は延応元年(1239)のころから、鎌倉さらに京畿に留学した。〇留学の中心は天台宗比叡山延暦寺で、日蓮は『涅槃経』の「法に依れ、人に依らざる」の教えにより『法華経』を寄るべき法=経典とする法華経至上主義に到達、その一方、反浄土教の立場をとっていた。〇寛元三年(1245)比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。〇寛元四年(1246)三井寺へ遊学。〇宝治二年(1248)薬師寺、仁和寺へ遊学。〇宝治二年(1248)高野山・五坊寂静院へ遊学。〇建長二年(1250)天王寺、東寺へ遊学。〇建長四年(1252)のころに清涼寺に帰り、翌年四月二十八日同寺において法華信仰弘通を開始。教団ではこれ立教開宗とする。〇建長五年(1253)清澄寺に帰山。〇建長五年(1253)四月二十八日朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける。〇建長六年(1254)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。〇正嘉元念(1257)富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経(法華経)を奉納。〇弘通反浄土教の主張を伴ったもので、同寺内の浄土教信奉者や近傍の地頭東条景信ら信奉者たちから反発を受けた。〇加えて、日蓮はその父母が「御恩」を蒙った領家の尼に味方して、尼の土地浸食しようとした景信の野望を砕いたことも重なり、景信は清涼寺での日蓮の師道善房に日蓮の勘当=追放を迫った。〇このために、日蓮は建長六年のころ同寺を退去、鎌倉を出て名越で教え広める。〇正嘉元年(1257)から文応元年(1260)にかけて地震、暴風雨。洪水、疫病、飢饉などが続出、死者、病人、飢餓者が輩出した。〇日蓮は災害続出の原因と対策宗教的立場から考えて、『守護国家論』〇正元元年(1259)『立正安国論』(文応元年)を執筆『立正安国論』くぉ北条氏得宗に北条時頼に提出。〇立正安国論』は邪法である法然浄土教に人々が帰依して法華信仰を棄捨したことを災害続出の原因とし、対策を浄土教徒への布施を禁止と法華信仰の回帰とし、そうしなければ、教が説くように自界反逆難(内乱)の起こること疑いなしとした。〇『立正安国論での主張を知った鎌倉浄土教徒は、日蓮と問答したばかりでなく、名越に日蓮に襲撃をした。〇その危難は免れたが、日蓮は幕府に寄り弘長元年(1261)伊豆国伊東に配流、同三年赦免。〇翌文永元年(1264)日蓮は安房に帰省し弘通するが、東条松原大路で東条景信らによる襲撃の難に会うが逃れて鎌倉に戻る。〇文永元年(1264)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。〇文永五年(1268)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。〇文永六年(1269)富士山に経塚を築く。〇文永八年(1271) 七月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 九月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。
2024年03月25日
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真空大師・続。 もっとも、宗風や叢林としての規矩清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っていたことから、既に日本に根付いていた臨済宗とは趣を異にし、その違いにより、自ずから一派を形成する方向に向かったものである。 隠元の『黄檗清規』は、乱れを生じていた当時の禅宗各派の宗統・規矩の更正に大きな影響を与え、特に卍山道白らによる曹洞宗の宗門改革では重要な手本とされた。 隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。 萬福寺の住職の地位にあったのは三年間で、寛文四年(1664)九月に後席は弟子の木庵性瑫に移譲し、松隠堂に退いた。 松隠堂に退隠後、八十二歳を迎えた寛文十三年(1673)正月、隠元は死を予知し身辺を整理し始め、三月になり、体調がますます衰え、四月二日には後水尾法皇から「大光普照国師」号が特諡された。 翌三日に遺偈を認めて示寂。世寿八十二歳。 大正六年(1917)には大正天皇から大師号を追贈される(真空大師)。能書家としても知られ、木庵性瑫、即非如一とともに黄檗の三筆と称される。「黄檗宗」(おうばくしゅう)は、日本の三禅宗のうち、江戸時代に始まった一宗派。 江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592~1673)を開祖とする。 本山は、隠元の開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺。 黄檗宗の名は、唐の僧・黄檗希運(?~850年)の名に由来する。 教義・修行・儀礼・布教は日本臨済宗と異ならないとされる。 黄檗宗の宗風の独自性は、日本臨済宗の各派が鎌倉時代から室町時代中期にかけて宋と元の中国禅を受け入れて日本化したのに比較して隠元の来日が新しいことと、明末清初の国粋化運動の下で意図的に中国禅の正統を自任して臨済正宗を名乗ったことによるとされる。 日本の江戸時代元和・寛永(1615~1644)のころ、明朝の動乱から逃れた多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住していた。 とくに福州出身者たちによって興福寺(1624)福済寺(1628)崇福寺(1629)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていた。 「創始」 承応三年(1654)中国臨済宗の明僧、隠元隆琦により始まる。隠元の禅は、鎌倉時代の日本臨済宗の祖である円爾(1202~1280)や無学祖元(1226~1286)等の師でもある無準師範(1177~1249)の法系を嗣ぐ臨済禅であり、当初は正統派の臨済禅を伝えるという意味で臨済正宗や臨済禅宗黄檗派を名乗っていた。 また元文五年(1740)に第十四代住持に和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。 こうした活動から次第に教勢が拡大し、萬福寺の塔頭は三十三ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。明治七年(1874)、明治政府教部省が禅宗を臨済、曹洞の二宗と定めたため、強引に「臨済宗黄檗派」(りんざいしゅうおうばくは)に改称させられたが、明治九年(1876)黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。 萬福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある黄檗宗大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦、本尊は釈迦如来である。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物や仏像の様式、儀式作法から精進料理に至るまで中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有する。「万福寺」と表記されることもあるが、宗教法人としての名称は「萬福寺」であるため、本項でも「萬福寺」と表記する。黄檗宗大本山である萬福寺の建築、仏像などは中国様式(明時代末期頃の様式)でつくられ、境内は日本の多くの寺院とは異なった空間を形成している。寺内で使われる言葉、儀式の作法なども明朝風に行われるため、現在でも中国色が色濃く残っている。
2024年03月25日
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22、真空大師「隠元隆琦」(いんげん りゅうき)特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・〇文禄元年(1592)~ 寛文十三年(1673)は、明末清初の禅宗の僧。日本黄檗宗の祖。福建省福州府福清県の生まれで、その俗姓は林である。〇隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。〇また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。〇なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。〇1592年、福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。俗名は林曽炳。〇十歳で仏教に発心する(一六歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。二十一歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。〇二十三歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者でありながら1年ほど茶頭として奉仕した。〇二十九歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺の鑑源興寿の下で得度した。〇三十三歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、これに随行した。三十五歳で黄檗山の費隠通容から印可を受けた。〇三十八歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、四十五歳で費隠に嗣法した。〇その後、萬福寺を出て獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり、明崇禎十年(1637)に晋山し、黄檗山の主を七年間つとめた。後に退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治三年(1646)に再度晋山し、再び九年間つとめた。 「渡来以降」〇江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。〇当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死したため、やむなく自ら良静・良健・独癡・大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼ら二十人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗り、承応三年(1654)七月五日夜に長崎へ来港した。月洲筆「普照国師来朝之図」にこのときの模様が残されている。〇隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。〇明暦元年(1655)崇福寺に移る。同年、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も二百人以内に制限された。〇隠元の渡日は、当初三年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、万治元年(1658)には、江戸幕府四代将軍・徳川家綱と会見した。〇その結果、万治三年(1660)山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。〇寛文三年(1663)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。「黄檗宗開教以降」 これによって、隠元は日本禅界の一派の開祖となったが、当初から黄檗宗と名乗っていたわけではない。本人は歴とした臨済宗を嗣法している自負があったので、臨済正宗を名乗っている。
2024年03月25日
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常済大師・続。 瑩山は師僧義介の遺志を受け継ぎ、道元以来の出家修行に加えて密教的な加持、祈祷、祭礼などを取り入れ、永光寺を伝道の拠点として下級武士や商人に禅を伝え信徒を拡大した。 これには瑩山が依拠した寺院が、白山系の天台寺院であったことや、兼修禅的傾向の強い法灯派の僧らと瑩山との密接な関係が影響したと考えられる。 弟子門下には四哲と呼ばれる明峰素哲、無涯智洪、峨山韶碩、壺庵至簡をはじめとする俊英逸材が多数輩出し、曹洞宗興隆の基礎を固めた。 また、晩年の道元は女性の出家修行に否定的であったが、瑩山は積極的に門下の女性を住職に登用し、女人成道を推し進めた。 2015年現在、日本伝統宗派最多の寺院数を持つ曹洞宗の隆盛は、瑩山とその門下によるものであり、全寺院の八割は元は總持寺系と言われる。このため、第四世でありながら、釈迦、道元と共に一仏両祖として尊崇されている。「瑩山開山の総持寺」「總持寺」(そうじじ)は、神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目にある曹洞宗大本山の寺院である。〇1911年に石川県鳳至郡門前町から現在地に移転。山号は諸嶽山(しょがくさん。本尊は釈迦如来。寺紋は五七桐紋。 能登国櫛比庄(現在の石川県輪島市)の真言律宗の教院「諸嶽観音堂」が、「總持寺」の前身である。〇1321年(元亨元年)曹洞宗四世の瑩山紹瑾は、「諸嶽観音堂」への入院を住職の定賢から請われる。 また同年に定賢より「諸嶽観音堂」を寄進され、寺号を「總持寺」、山号は「諸嶽観音堂」にちなみ「諸嶽山」と改名し禅院とする。〇1322年(元亨二年)後醍醐天皇より「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗を公称する。住職を五つの塔頭(普蔵院、妙高庵、洞川庵、伝法庵、如意庵)からの輪番制となる。〇1615年(元和元年)徳川幕府より法度が出され、永平寺と並んで大本山となる。栴崖奕堂以降独住制となる。〇1898年(明治三十一年)火災で焼失する。〇1911年(明治四十四年)、神奈川県横浜市鶴見区鶴見二丁目の現在地に移転。石川県輪島市門前町の旧地は總持寺祖院と改称された。「境内」 敷地面積は約五〇万 あり、横浜市鶴見区の広域避難場所の一つに指定されている。境内には仏殿、大祖堂をはじめ多くの堂宇があり、鶴見大学などの学校施設もある。本尊釈迦如来像を安置する仏殿よりも、道元、瑩山紹瑾など歴代の祖師を祀る大祖堂の方が規模が大きいのが特色である。 總持寺は、1911年(明治四十四年)に石川県から神奈川県に移転してきた寺院であるため、堂宇の大部分は近代の建立であるが、他所から總持寺へ移築された建物のうちには、近世末期のものも若干ある。 大祖堂、三門などは太平洋戦争後に建立された鉄筋コンクリート造であるが、仏殿をはじめとする主要建物の多くは二十世紀前半(大正時代〜昭和時代前期)の本格的な木造建築である。 2005年(平成十七年)に仏殿など一六件の建造物が登録有形文化財に登録されている。
2024年03月25日
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21、常済大師「瑩山紹瑾」(けいざん じょうきん)諡号:佛慈禅師、弘徳圓明国師、常済大師。〇文永五年十月八日(1268)~ 正中二年八月一五日(1325)は、日本の鎌倉時代の曹洞宗の僧侶。瑩山派(總持寺派)の派祖で、教団では第四祖とする。〇一般には瑩山禅師と呼ばれ、教団内では日本曹洞宗開祖で永平寺派派祖の道元を高祖大師、瑩山派派祖の瑩山を太祖大師とする。〇越前多禰(現在の福井県越前市帆山)の豪族瓜生氏の長男として生まれる。幼名は行生(ぎょうしょう)。母親の熱心な帆山観音信仰の影響を受け、幼少時から信仰心に目覚める。〇道元の建仁寺時代からの熱心な信者で、母方の祖母である明智優婆夷の影響で、八歳で永平寺に入り、徹通義介の下で沙弥となる。1280年、十三歳の時、師の勧めで永平寺二世孤雲懐奘に就いて、その最後の弟子として出家得度。〇1280)年 孤雲懐奘について得度〇1285年年 諸国行脚に立つ。宝慶寺寂円などを訪ね、比叡山に上って天台教学を学ぶ〇1286年 紀伊由良(現在の和歌山県日高郡由良町)の興国寺に心地覚心を訪ねる〇1288年 宝慶寺寂円を再訪し、永平寺に帰山〇1289年 三代相論により永平寺を下山した義介に従って加賀(現在の石川県金沢市)大乗寺に移る〇1295年 阿波国海部郡司が開基した城満寺(現在の徳島県海部郡海陽町)に招かれ、同寺を開山、住職となる(1296年との説もある)。眼可鉄鏡をはじめ、七十人余に授戒する。義介より嗣法する〇1298年 義介に呼ばれ、加賀国大乗寺に戻る〇1300年 義介の代理として大乗寺の修行僧に対し釈尊以来五十二祖の機縁を提唱(=講義)する。後に『伝光録』としてまとめられる〇1302年 大乗寺二世となる〇1311年 大乗寺を明峰素哲に譲り、加賀常住寺を開山する〇1313年 能登(現在の石川県羽咋市)永光寺を開山する〇1320年 後醍醐天皇より「十種の勅問」が下され、奉答したとされる〇1321年 藤原行房の書による「總持寺」の勅額と紫衣(しえ)を天皇から賜り、能登總持寺を開山する。〇1322年 後醍醐天皇より總持寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨が下される(元亨二年)〇1324年 『瑩山清規』を著わす〇1325年 永光寺にて示寂「太祖忌」 毎年、亡くなった八月一五日(新暦換算で九月二十九日)に、道元と共に両祖忌として法要が行われている。五〇年に一度ずつ遠忌が總持寺で開催される。「思想」 道元は祈祷や祭礼を否定はしなかったものの、その対象は永平寺の僧たちの安全祈願及び寺院周辺の天候回復などの祈願が主であり、晩年の1249年に『永平寺住侶利親』で「まさに諸方への護持僧参勤事を停止すべし」と命じたように、他の寺院が行なっている、寺院以外での加持祈祷は禁じていた。 これに対し、永平寺三世となった徹通義介は元に留学して密教の祈祷を学び、仏殿を建て礼仏を取り入れるなど積極的な改革を行った。 こうした改革は寂円等の道元の遺風を慕う一派との対立を生み、「三代相論」とよばれる内紛に発展した。
2024年03月25日
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承陽大師・続。 道元は易行道(浄土教教義の一つ)には、否定的な見解を述べている。「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)は、主に禅僧である道元が執筆した仏教思想書を指す。正法眼蔵という言葉は、本来は仏法の端的な、すなわち肝心要の事柄を意味する。禅家はこれをもって教外別伝の心印となす。著者によって大別すると、次の三種類に分かれる。①『正法眼蔵』 - 三巻。大慧宗杲著②(仮字)『正法眼蔵』(仮名記述) - 七十五巻+十二巻+拾遺四巻(現在の研究結果による)。道元著⓷(真字)『正法眼蔵』(漢文記述) - 300則の公案集。道元選(ただし道元による若干の変更あり)ここでは、二番目の道元著(仮字)『正法眼蔵』について述べる。日本曹洞宗の開祖である道元が、1231年から示寂する1253年まで生涯をかけて著した八十七巻(=七十五巻+十二巻)に及ぶ大著であり、日本曹洞禅思想の神髄が説かれている。道元は、中国曹洞宗の如浄の法を継ぎ、さらに道元独自の思想深化発展がなされている。 真理を正しく伝えたいという考えから、日本語かつ仮名で著述している。当時(鎌倉時代)の仏教者の主著は、全て漢文で書かれていた(法然、親鸞『教行信証』、栄西、日蓮、…)。古い巻の記述を書き直し、新しい巻を追加して、全部で百巻にまで拡充するつもりであったが、八十七巻で病のため完成できなかった。その後、拾遺として四巻が発見され、追加されている。『正法眼蔵』は、道元の禅思想を表現するために、語録から特に公案で使われてきた重要な問答を取り出し、それに説明注釈する形で教えを述べている。その種本が(真字)『正法眼蔵』であり、十種類ぐらいの禅語録から、道元がみて重要な300則の禅問答を抜き出している。ただし、そのまま写したのではなく、(抜き出した段階で既に)道元の思想によって若干の変更が加えられていることが、研究の結果分かっている。「道元の永平寺開山」 永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。「道元の求法」 曹洞宗の宗祖道元は正治二年(1200)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。 幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、十四歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。 道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。 道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した二年後に、既に世を去っていた。 比叡山を下りた道元は、建保五年(1217)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。 しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら二人は師弟ともども貞応二年(12239に渡宋する。 道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。 道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、四年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航二年後に現地で病に倒れ、二度と日本の地を踏むことはできなかった。 日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。「越前下向」 旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243)のことであった。 当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元二年(1244)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元四年(1246)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
2024年03月25日
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20、承陽大師「道元」(どうげん)正治二年(1200)~建長五年(1253)鎌倉時代初期の禅僧。〇日本における曹洞宗の開祖。晩年に希玄という異称も用いた。同宗旨では高祖と尊称される。諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄。一般には道元禅師と呼ばれる。〇徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を伝えた。『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた。〇道元は、正治二年(1200)京都の久我家に生まれた。幼名は信子丸。両親が誰であるかについては諸説ある。〇一時定説化した仏教学者・大久保道舟の説によれば、父は内大臣・源通親(久我通親または土御門通親とも称される)であり、母は太政大臣・松殿基房(藤原基房)の娘である藤原伊子であって、京都・木幡の松殿山荘で生まれたとされていた。〇だが、説の根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記』の記載の信用性に疑義があり、上記説の優位性が揺らいだ。これを受けて、上記説では養父とされていた、源通親の子である大納言・堀川通具を実父とする説も有力になった。いずれにせよ、上級貴族、公卿の家の生まれである。〇四国地方には道元の出生に関して、「稚児のころに藤原氏の馬宿に捨てられていたのを発見され、その泣き声が読経のように聞こえるので神童として保護された」との民間伝承が残っている。これはキリストや聖徳太子の出生にまつわる話と混同されて生じたものであると考えられる。〇伝記である『建撕記』によれば、三歳で父(通親)を、八歳で母を失って、異母兄である堀川通具の養子になった。〇また、一説によれば、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったとも言われている。〇この時の逸話として残っているのが、誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を、その花に群がっていた虫ごとむしりとって食べはじめ、無言のうちにその申し出を拒否する意志を伝えたという話である。〇建暦三年(1212) 比叡山にいる母方の叔父良顕を訪ねる。〇建保二年(1214) 天台座主公円について出家し、仏法房道元と名乗る。〇建保三年(1215) 園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める。〇建保五年(1217) 建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事。〇貞応二年(1223) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り〇南宋の宝慶一年(1225)天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟。中国曹洞禅の、只管打坐の禅を如浄から受け継いだ。曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。[要追加記述]その際の問答記録が『寶慶記』(題名は当時の年号に由来)である。〇安貞二年(1228) 帰国。帰国前夜『碧巌録』を書写したが、白山妙理大権現が現れて手助けしたという伝承がある。(一夜碧巌)〇天福元年(1233 京都深草に興聖寺を開く。〇1234年 孤雲懐奘が入門。続いて、達磨宗からの入門が相次いだことが比叡山を刺激した。この頃、比叡山からの弾圧を受ける。〇寛元元年(1243)七月 越前国の地頭波多野義重の招きで越前志比荘に移転。途中、朽木の領主佐々木信綱の招きに応じ、朽木に立ち寄る(興聖寺の由来)〇寛元二年(1244) 傘松に大佛寺を開く。〇寛元四年(1246) 大佛寺を永平寺に改め、自身の号も希玄と改める。〇宝治二.三年(1248~1249)執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。鎌倉での教化期間は半年間であったが、関東における純粋禅興隆の嚆矢となった。〇建長五年(1253) 病により永平寺の住職を、弟子孤雲懐奘に譲り、俗弟子覚念の屋敷(京都高辻西洞院)で没す。享年五十四(満五三歳没)。死因は瘍とされる。「教義・思想」 ひたすら坐禅するところに悟りが顕現しているとする立場が、その思想の中核であるとされる。 道元のこの立場は修証一等や本証妙証と呼ばれ、そのような思想は七十五巻本の「正法眼蔵」に見えるものであるとされるが、晩年の十二巻本「正法眼蔵」においては因果の重視や出家主義の強調がなされるようになった。 成仏とは一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり(修証一如)、釈迦に倣い、ただひたすら坐禅にうちこむことが最高の修行である(只管打坐)と主張した。 鎌倉仏教の多くは末法思想を肯定しているが、『正法眼蔵随聞記』には「今は云く、この言ふことは、全く非なり。仏法に正像末(しょうぞうまつ)を立つ事、しばらく一途(いっと)の方便なり。真実の教道はしかあらず。 依行せん、皆うべきなり。在世の比丘必ずしも皆勝れたるにあらず。 不可思議に希有(けう)に浅間しき心根、下根なるもあり。仏、種々の戒法等をわけ給ふ事、皆わるき衆生、下根のためなり。人々皆仏法の器なり。非器なりと思ふ事なかれ、依行せば必ず得べきなり」と、釈迦時代の弟子衆にもすぐれた人ばかりではなかったことを挙げて、末法は方便説に過ぎないとして、末法を否定した。
2024年03月25日
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禅宗系19、無想大師「関山慧玄」(かんざんえげん、建治3年(1277年) - 正平15年/延文五年十二月十二日(1361)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗の僧。〇信濃国高井郡の国人領主高梨氏で高梨高家の子とされる。朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師と追諡された。 〇1307年に鎌倉の建長寺に入り、南浦紹明に師事。慧眼の法名を授かり、南浦寂後も鎌倉にあって物外可什、巨山志源などに参禅。その後帰郷。〇建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じ、ここで宗峰妙超(大燈国師)を紹介され、京都大徳寺に遷って宗峰に師事。やがて1329年に雲門の関字の公案で開悟し、宗峰がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名した。〇その後、後醍醐天皇に法を説くなどしたが、のち美濃の伊深に草庵を結んで隠棲した。〇1337年、花園上皇は、離宮を禅苑に改めてその寺名命名と開山となる禅僧の推薦を宗峰に依頼。宗峰が関山を推挙し、関山は妙心寺開山となった。〇禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、枯淡な禅風で修禅に専念したという。『沙石集』には「本朝ならびなき禅哲なり」と称賛されている。形式に拘らず厳しく弟子を指導し、法嗣は授翁宗弼(じゅおう そうひつ)ただ一人であり、また妙心寺の伽藍整備や経営に拘泥することはなかった。〇1360年十二月十二日、関山は旅の支度をして授翁に行脚に出るといい、「風水泉」と称する井戸の辺で授翁に遺戒し、立ったまま息をひきとった。遺戒は授翁が門下の雲山宗峨に成文させ、今日「無相大師遺誡」と称し読誦されている。〇関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状以外にほとんど残されていない。さらに遺命して肖像を残させなかったため、今日の関山像は後世に作成された物である。〇南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみな〇この法系に属する。関山の禅は、後に系統に白隠慧鶴が出て大いに繁栄し、他の臨済宗諸派が絶法したのに対し、その法灯を今日に伝えている。『関山慧玄の開山」『妙心寺」(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)。 日本にある臨済宗寺院約六千か寺のうち、約三千五百か寺を妙心寺派で占める。 近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の十二町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。 京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。 前者を「禅林」または「叢林(そうりん)」、後者を「林下(りんか)」といった。 妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。 平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。 法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武四年(1337)十二月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。 その頃、美濃(岐阜県)の伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応五年/康永元年(1342)、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。 関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)の他、ほとんど残されていない。 妙心寺では開山関山慧玄以降、二祖授翁宗弼、三祖無因宗因、四祖日峰宗舜、五祖義天玄承、六祖雪江宗深までを「六祖」と呼んで尊崇している。なお、この初祖〜六祖は法系を指すものであって、妙心寺の住持として何世目であるかを指すものではない。住持の世代としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深がそれぞれ七世、八世、九世にあたる。 妙心寺 六世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。 応永六年(1399)義満は妙心寺の寺領を没収して青蓮院の義円(後の足利義教)に与え、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。 義円は没収した寺領をさらに南禅寺の廷用宗器に与え、廷用は寺号を「龍雲寺」と改めた。こうして妙心寺は一時中絶することとなった。妙心寺が復活するのは永享四年(1432)のことである。同年、廷用は微笑塔(開山関山慧玄の塔所)の敷地をその頃南禅寺にいた根外宗利に与えた。関山慧玄の流れを汲んでいた根外は、犬山瑞泉寺から日峰宗舜を迎えて妙心寺を復興させた。
2024年03月25日
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証誠大師・続。〇正応二年(1289)一月下旬に大山祇神社の供僧長観(一月二四日)、地頭代の平忠康(二七日)など複数の大山祇神社関係者に一遍を招待すべしとの夢告があり、二月五日大山祇神社の社人が招請のため二十余艘の船団で別宮へ渡海、招かれた一遍一行は二月六日再度大山祇神社参詣、二月九日大山祇神社の桜会(さくらえ)に参列して魚鳥の生贄を止めるよう懇請、その後で善通寺、曼荼羅寺を巡礼、六月一日阿波の大鳥の里の川辺で発病、七月初めに淡路に渡り大和大国魂神社、次いで志筑神社に詣でて結縁した後、七月一八日明石に渡り、死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年五十一歳(満五〇歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で旧暦八月二十三日午前七時頃没し、15年半の遊行を終えた。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられる。「遊行と一遍」 一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた。その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時宗である。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」とコメント。 阿弥陀仏以外の地蔵菩薩や薬師如来などを信ずることは雑修とする立場であったが、「聖絵」によれば一遍は十四の神社に参詣して結縁した。 一遍の神祇観は「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」との言に代表され、神明すなわち日本の神をあがめ、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないというものであり、熊野権現の神託や鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠も受け入れた。 浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。 念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、一遍が関わる人のみならず、ひとりでも多くの人が往生できるように(一切衆生決定往生)との願いを込めた安心の六八の弘誓(ぐぜい)「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算した。「六十万人」とは一遍作の頌「六字名号一遍法 十界依正一遍躰 万行離念一遍証 人中上上妙好華」の最初の文字を集めたものであり、一切衆生の名であり、まず六十万人の衆生に賦算し、しかる後にさらなる六十万人に賦算を繰り返すということであり、一遍製作の算を受け取り勧進帳に記名した入信者数は二百五十万人に達したという。 寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、「我が化導は一期ばかりぞ」との信条を貫き、入寂の十三日前の正応二年八月十日の朝に所持していた書籍のうち少数を書写山の僧に託して奉納した後、手許に残した自著及び所持書籍すべてを「阿弥陀経」を読み上げながら自ら焼却し、「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言して教学体系を残さなかったという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。 和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。 いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は後世のものと考えられる。 「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属することが指摘できる。 一遍の踊念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近い。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、男女の踊り手(一遍の同行者は二十から四十人おり、ほぼ半数は尼僧だった)が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だった。 その過激な狂乱状態は保守的な人々からは反発を受けた。例えば六条有房の『野守鏡』では、法悦状態で服を脱ぎ罵詈雑言を叫ぶ踊念仏の見苦しさに対する強烈な批判が述べられている。「時宗」(じしゅう)は、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつ。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。 他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町時代までに関しては時衆の名称を用いている。 時衆とは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」から来ており、一日を六分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指し、古代以来、顕密寺院にいた。「時宗」と書かれるようになったのは、寛永十年(1633)の『時宗藤沢遊行末寺帳』が事実上の初見である。一遍が布教していた同じ時期に、全く別個に一向俊聖も同じような思想を持って布教を行っていた。
2024年03月25日
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18、証誠大師「一遍」(いっぺん)延応元年(1239)~ 正応二年(1289)は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。〇「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。 〇近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏とも、通秀とも、通尚ともいうが、定かでない。古来日本では、人の名をむやみに呼ぶべきではなく、人に知らせるものではない、ましてや実名では呼ぶべきではないという慣習が存在したことが原因と考えられる。〇延応元年(1239)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、河野通広(出家して如仏)の第二子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘四年(1334)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。〇有力御家人であった本家の河野氏は、承久三年(12221)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。〇十歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 建長三年(1251)十三歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で十年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。聖達は、随縁に浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水にいた華台のもとへ最初の一年間派遣し、華台は法名を智真と改めさせた。〇「法事讃」(巻下)に「極楽無為涅槃界は、随縁の雑善をもってはおそらく生じ難し」とあり、念仏以外の善は雑善(少善根)であり、往生できない根源の雑善である随縁を名とするのは好ましくないとの判断であった。〇建長四年(1252)から弘長三年(1263)まで、聖達のもとで修学。〇弘長三年(1263)二十五歳の時に父の死(五月二四日)をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永八年(1271)三十二歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行。〇窪寺では十一不二の偈を感得する。文永十一年(1274)二月八日に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。〇紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。〇この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。〇建治二年(1276)には九州各地を念仏勧進し、鹿児島神宮で神詠「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶに生まれこそすれ(常に南無阿弥陀仏と念仏すれば、弥陀と一体になり浄土に生まれることができる)」を拝し、建治三年(1277)に豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる。〇さらに各地を行脚し、弘安二年(1279)には伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。〇弘安三年(1280)に陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。〇弘安五年(1282)には鎌倉入りを図るも拒絶される。〇弘安七年(1282)上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう。〇弘安九年(1286)四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する。〇弘安十年(1287)は書写山圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。〇1274年以来十四年の遊行を経て、正応元年(1288)瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻り、菅生の岩屋へ巡礼、繁多寺に三日間参籠して浄土三部経を奉納、十二月一六日一遍一行は三艘の船に分乗して今治の別宮大山祇神社付近から大三島へ渡海、河野氏の氏神である大山祇神社に三日間参籠後、今治に戻る。
2024年03月25日
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慧燈大師・続続編。 明応8年(1499年)2月20日、死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参。3月20日、下間蓮崇を許す。3月25日(1499年5月14日)、山科本願寺において85歳で没した。妻の死別を四回に渡り経験し、生涯に五度の婚姻をする。子は男子十三人・女子十四人の計二七子を儲ける。死の直前まで公私共に多忙を極めた。 『御文』(『御文章』)を中心に行われた。後に蓮如の孫、円如がこれを収集して五帖八〇通(『五帖御文』)にまとめた。これに含まれない消息は『帖外御文』と言われ、倍くらいの数の消息が数えられている。 また、これまで本願寺は毎日の勤行に善導著作の『往生礼讃』を用い、一日を六つに分けてそれぞれの時間帯に読経を行う六時礼讃を行っていた。 しかし、蓮如は吉崎滞在中に越前で三門徒が親鸞著作の『三帖和讃』を頻繁に唱えていた事からこれを取り入れると同時に、勤行のやり方を全面的に改正し、朝・夕に親鸞著作の『正信念仏偈』(『正信偈』)と『三帖和讃』を唱える方式に制定、一般の門徒に広く受け入れられるようにした。 こうして文明五年(1473)三月、吉崎にて『正信念仏偈』・『三帖和讃』の開版、印刷が行われ、さらなる布教に邁進していった。また、門徒個人が所有する「道場」、村落ごとに形成された「惣道場」の本尊に「十字名号」(文明期以降は、「六字名号」や「阿弥陀如来絵像」)を与えた。 その他の著作に『正信偈大意』『正信偈証註釈』、信仰生活の規範を示した「改悔文」(「領解文」)などがある。また蓮如の死後、弟子達が蓮如の言行録を写し継いだ書物として『蓮如上人御一代記聞書』(『蓮如上人御一代聞書』)全三一六箇条が残されている。 「吉崎御坊」(よしざきごぼう)は、越前吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)にあった坊舎。「史跡 吉崎御坊跡」の石碑が立つ。 文明三年(1471)七月下旬、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第八世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した。吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であったが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若い頃に経覚の元で修行していた事、また偶々吉崎の代官の地位にあったのが当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本覚寺の住持蓮光であったという関係もあって経覚が蓮如のために吉崎を譲ったのだといわれている。 「山科本願寺」(やましなほんがんじ)は、京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第八世法主蓮如により、文明一五年八月二十二日(1483)に完成・建立。 周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年八月二四日(1532)六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。 現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。
2024年03月25日
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慧燈大師・続。〇寛正六年(1465)一月八日、 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定、翌一月九日、同寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却する。三月二十一日、再度これを破却。蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。〇更に蓮如と親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれた事に抗議して絶縁した(寛正の法難)。〇文正二年(1467)三月、延暦寺と和議。条件として、蓮如の隠居と順如の廃嫡が盛り込まれた。廃嫡後も有能な順如は蓮如を助けて行動する。〇応仁二年(1468)北国、東国の親鸞遺跡を訪ねる。三河に本宗寺を建立する。〇応仁三年(1469)三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立、順如を住持として祖像を同寺に置く。〇文明二年(1470)十二月五日、第二夫人蓮祐尼が死去「本願寺の興隆」 文明三年(1471)四月上旬、越前吉崎に赴く。付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。 七月二七日、同所に吉崎御坊を建立し、荒地であった吉崎は急速に発展した。一帯には坊舎や多屋(門徒が参詣するための宿泊所)が立ち並び、寺内町が形成されていった。信者は奥羽からも集まった。 文明六年(1474)加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。 蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。 だが、加賀の民衆が次第に蓮如の下に集まる事を政親が危惧して軋轢を生じた。更に蓮如の配下だった下間蓮崇が蓮如の命令と偽って一揆の扇動を行った(但し、蓮如ら本願寺関係者が蓮崇の行動に対して全く関知していなかったのかどうかについては意見が分かれている)。 文明七年(1475)八月二十一日、吉崎を退去。一揆を扇動した下間蓮崇を破門。小浜、丹波、摂津を経て河内出口に居を定めた。 文明一〇年(1478)一月二十九日、山科に坊舎の造営を開始。八月十七日、第三夫人如勝尼が死去。 文明十三年(1481)、真宗佛光寺派佛光寺の法主であった経豪が佛光寺派の四八坊のうちの四十二坊を引き連れて蓮如に合流。蓮如から蓮教という名を与えられて改名し、興正寺(真宗興正派)を建立する。これによって佛光寺派は大打撃を受けた。 文明十四年(1482)には真宗出雲路派毫摂寺第八世で真宗山元派證誠寺の住持でもあった善鎮が門徒を引き連れて合流してきた。 文明一五年(1483)八月二十二日、山科本願寺が落成する。同年、長男順如が死去。 文明一八年(1486)紀伊に下向。後の鷺森別院の基礎ができる。同年、第四夫人宗如尼が死去。 長享二年(1488)五月、加賀一向一揆が国人層と結びついて決起。同年六月九日、加賀の宗徒は守護富樫政親を高尾城にて包囲し、自刃に追い込む。七月、蓮如は消息を送って一揆を諌めた。延徳元年(1489)七十五歳。寺務を五男の実如に譲り、実如が本願寺第九世となる。 明応二年(1493)真宗木辺派錦織寺の第七代慈賢の孫勝恵が伊勢国・伊賀国・大和国の四十ヶ所の門徒を引き連れて本願寺に合流した。
2024年03月25日
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17、慧燈大師「蓮如」(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧。〇浄土真宗本願寺派第八世宗主・真宗大谷派第八代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。〇明治一五年(1882)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。〇しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。文献によっては「蓮如」と「辶 」(二点之繞)で表記される場合がある。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である 。〇父は第七世存如。広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。〇他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。「本願寺の低迷」〇応永二十二年二月二十五日(1415)京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第七世存如の長子として生まれる。〇母は存如の母に給仕した女性と伝えられているが、詳細は不明。一説には、信太(現在の大阪府和泉市)の被差別部落出身だったともいう。幼名は布袋丸。〇応永二七年(1420)蓮如六歳の時、存如が本妻如円尼を迎える。この時点で生母は本願寺を退出しその後の行方は分かっていない。〇蓮如幼年期の本願寺は、佛光寺の隆盛に比し衰退の極にあり、参拝者(後に蓮如の支援者となった堅田本福寺の法住ら)が余りにも寂れた本願寺の有様を見て呆れ、仏光寺へ参拝したほどであった。〇永享三年(1431)十七歳の時中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度し名を中納言兼壽と改める。 その後、本願寺と姻戚関係にあった大和興福寺大乗院の門跡経覚について修学。父を補佐し門末へ下付するため、多くの聖教を書写した。〇永享六年(1434)五月十二日の識語をもつ『浄土文類聚鈔』が、蓮如により書写された現存する最古のものである。〇永享八年(1436)祖父の第六世巧如が住持職を父に譲り、四年後の永享十二年十二月十四日(1440)に死去した。〇嘉吉二年(1442)に第一子(長男)順如が誕生する。〇文安四年(1447)父と共に関東を訪ね、また宝徳元年(1449)父と北国で布教する。〇享徳四年(1455)十一月二十三日、最初の夫人、如了尼が死去する。〇長禄元年(1457)六月十七日、父の死去に伴い本願寺第八代を継ぐ。留主職(本願寺派における法主)継承にあたり、異母弟応玄(蓮照)を擁立する動きもあったが、叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。〇なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。〇この裁定に対して、応玄と継母如円尼は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられる。〇この頃の本願寺は多難で、宗派の中心寺院としての格を失い、青蓮院の一末寺に転落していた。青蓮院の本寺であった近江比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。〇長禄二年(1458)八月一〇日、第八子(五男)実如誕生(寛正五年(1464)とも)。
2024年03月25日
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