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11「安国寺恵瓊は大名になったのか?」安国寺恵瓊については2つの像が語られている。1つは毛利氏に外交僧として仕え、その権力中枢の一員となっていたとする見方である。もう1つは豊臣秀吉から知行を与えられ、豊臣政権において6万石(異説あり)の大名になったとする説である。恵瓊を大名とする見方は、『廃絶録』に恵瓊に関する記述が存在し、明治以降の歴史学でも当然のように恵瓊は大名としてみなされてきた。その一方で、1970年代から進んだ織豊期の毛利氏の権力構造の研究の中で恵瓊は天正13年(1585年)以後も穂井田元清・福原広俊ら他の毛利氏年寄(重臣)とともに毛利氏発給の文書に署名している事実が指摘されてはいたが、この2つの恵瓊像の食い違いについては関心が払われていなかった。これに関して、津野倫明は恵瓊が大名に取り立てられたとする従来の考えに疑問を呈した。まず、『陰徳記』に記された四国国分寺に与えられたとされる伊予国2万3千石や『廃絶録』に記された6万石は裏付けとなる史料が存在しないこと、実在する「天正一九年三月一三日付安国寺宛秀吉朱印目録知行」の宛先も「安国寺」宛となっており、恵瓊本人の所領(大名領)か、寺院としての安国寺の所領(寺院領)か不明であることから恵瓊を大名とみなす証拠にはならないとした。更に文禄の役において 恵瓊が朝鮮に渡った事実を確認できるにも関わらず、同役の陣立書には恵瓊の名前が見られないことなどを挙げて恵瓊が大名であることを否定し、反対に恵瓊が他の重臣とともに発給に関わった毛利氏家中の文書が文禄年間にも存在すること、恵瓊自身が秀吉に雇われた関係であると述べた書状が存在することから、恵瓊は秀吉との間には一種の雇用関係が存在したが、その身分は毛利輝元と主従関係を結んだ毛利氏家臣(年寄)であり、時代が下るにつれて毛利家中における彼の立場が強化されていったとした。この津野説に対して、藤田達生は毛利家中には小早川隆景の事例があり、恵瓊も同様の事例であるとして恵瓊大名説を妥当とする立場からの批判を行ったが、これに対して津野は文禄の役の陣立書に小早川の名前はあるが恵瓊の名前は無く同列には扱えないとした上で、更に『義演准后日記』慶長5年8月5日条に「毛利内安国寺、尾州出陣千人斗云々、当郷罷通了」とあり、義演が恵瓊を独立した大名とみなしていなかったこと、関ヶ原の戦いにおいて恵瓊の兵力とされる兵が実際には毛利軍の兵力であったとする反論を行っている。 12「安国寺恵瓊の人物像」天正元年(1573年)12月12日付児玉三右衛門・山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の転落と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予想し、結果的にそれが的中したことで恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出される。これより派生して、『太閤記』における恵瓊は、無名時代の秀吉に「貴方には将来天下を取る相がある」と予言し、後年予言通りに天下人となった秀吉から領地を与えられる役どころとなっている。長宗我部氏の外交僧でもある非有と共に、一対坊主と称された。外交僧として豊臣政権の中枢で活躍していたために、諸大名から多くの寄進を受けており、実際の知行高以上に経済的に恵まれていたので、関ヶ原においても多くの兵を有し、軍装も他の大名よりも優れていたという。徳川家康の侍医であった板坂卜斎の記する逸話であるが、関ヶ原の合戦に敗れた後、東軍の追及の厳しさに逃亡を断念した侍臣・平井藤九郎と長坂長七郎の両名が、捕縛の辱めを受けるよりは自身の手に係り果てることを恵瓊に進言し、首を切ろうとした。だが、恵瓊は首を縮めて逃げ回ったため、刀は乗り物の屋根に当たり、恵瓊の右の頬先を少し傷つけただけであった(『慶長年中ト斎記』寛政年間成立)。了
2024年06月20日
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10「恵瓊と関ヶ原」恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近く、文禄年間に秀吉が病臥した際にはその回復を小早川家重臣・山田某に伝え、同じ書状で隆景の隠居に関しても連絡するなど秀吉と隆景との間を連絡する活動を行っており、隆景が死去すると毛利が軽視されかねないと将来を危ぶんだ。恵瓊の危惧は的中し、自身も小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功した。9月15日の関ヶ原における合戦では、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に騎馬700、足軽3,000という部隊で陣取った(『古今武家盛衰記』)。馬印は天蓋、旗は白地に一文字を使用した。前に布陣する広家が家康に密かに通じて毛利軍の参戦を阻んだため、家臣・椎野道季を派遣して問い質すも広家に言い抜けられ、結局戦闘に参加することなく、西軍は敗北した。敗北後、恵瓊は一旦毛利本家の陣に赴き、吉川広家に諭され逃亡し鞍馬寺、下間頼廉の婿である端坊明勝が住持である本願寺と匿われ京都の六条辺に潜んでいたが、奥平信昌隊の鳥居信商(長篠城攻防戦で使者として高名の鳥居強右衛門の子)に捕縛され、大津にいた家康の陣所に送られた。10月1日、西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首され、石田三成・小西行長と共に梟首に処せられた。享年62または64。墓所は建仁寺本坊内の庭に首塚があり、広島の不動院にも墓がある石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生した。幼名は佐吉。 北面武士であった下毛野朝臣の一族、もしくは三浦一族である相模国大住郡石田郷(現・神奈川県伊勢原市石田)の住人石田為久の末裔とされる他、石田村は古くは石田郷ともいい、石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとも言われている。羽柴秀吉が織田信長に仕えて近江長浜城主となった天正2年(1574年)頃から、父・正継、兄・正澄と共に秀吉に仕官し、自身は小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いた時、これに従軍した。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげた(『一柳家記』)。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにも従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられたと一般にはされているが、水口には天正13年7月に中村一氏が6万石で入っており、その後は同18年(1590年)に増田長盛、文禄4年(1595年)に長束正家と引き継がれている。天正14年(1586年)1月、当時名将として名高かった島清興(左近)を知行の半分を与えて召し抱えたといわれる(『常山紀談』。異説あり)。 秀吉はこれに驚愕、賞賛し、左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた。同年、越後国の上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきた時、これを斡旋した。また、秀吉から堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ、兵站基地として整備する。秀吉は翌天正15年(1587年)の九州平定に大軍を動員し、比較的短期間で終わらせるが、その勝因の1つは水軍を最大限に活用して大軍を動員・輸送する能力があったことである。こうした秀吉の遠征を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な吏僚達であった。九州平定後、博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多町割り、復興に従事した。また、天正16年(1588年)、取次として薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。天正17年(1589年)、美濃国を検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城、忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している。 関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお三成は取次として、常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、吏僚としての功績は大きかった。天正19年(1591年)4月、近江佐和山に入城する。ただし、これは蔵入地の代官の資格で佐和山城に入ったもので、城を預かる城代としての入城であった。当時の三成の所領は美濃国内、安八郡神戸とその周辺にあったと推定されている。文禄元年(1592年)からの文禄の役(朝鮮出兵)では渡海し、増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参加。その後、明軍の講和使・謝用梓、徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。
2024年06月20日
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9「文禄・慶長の役の活躍」朝鮮出兵においては小早川隆景率いる六番隊として渡海し、全羅道の攻略を担当。占領地の支配も行った。この間、「夏に酒を冷やす蔵まである」と朝鮮の兵糧の豊かさに驚嘆する文書を送ったり、現地の子供を集めいろはを教え、髪型を日本風に変えさせ召し使うなどの活動が散見する。戦闘にも参加しており、忠清道で決起した趙憲・霊圭らの私軍を立花宗茂とともに錦山に撃破し、両名を討ち取っている。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した李氏朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった。なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て和暦)で表記。( )の年は西暦である。日本の天下統一を果たした天下人・秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった。双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得なかった。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。名称豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現もあった。「朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年(草稿成立は1644年頃)に刊行された堀杏庵(堀正意)『朝鮮征伐記』において見られた。この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐や島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではないし、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる。堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判したが、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた。これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観(中朝事実)や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており、彼の野望は称賛されこそすれ、批判の対象ではなかったからである。明治初期に起こった征韓論に伴ってこの戦役も「征韓の役」などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久が万治年間(1658-60年)に編纂を命じた『征韓録』が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども『征韓偉略』(1831年)を著した。征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。「朝鮮出兵」の呼称も早くからあり、戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている。1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、「朝鮮侵略」が盛んに使われた時期もあり、「大陸侵攻」などの表現も登場した。1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を「文禄の役」として第二次出兵を「慶長の役」とし、併せて「文禄・慶長の役」とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。中国では「抗倭援朝」または「朝鮮之役(朝鮮役)」と呼ばれるが、後者は朝鮮戦争(または朝鮮での戦役)という意味であり、1950年の同名の戦争やその他の朝鮮での戦争と区別する意味で、中国の当時の元号である万暦を付けて「萬暦朝鮮之役」と称されている。日本で書き言葉に漢文が使われていた影響で「朝鮮役」という呼称も古くは使われたが、これはこの中国語の呼称をそのまま用いたものであった。
2024年06月20日
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8「肥後国人一揆」肥後国人一揆が起こった際には芸州衆からなる第二陣の将として・粟屋・古志・伊勢・小田・日野ら毛利家臣の兵を率いて小早川秀包・立花宗茂・鍋島直茂・筑紫広門らの第一陣に続いた。第一陣諸将と共に辺春親行、和仁親実の籠る田中城を攻めた際には辺春氏を内応させて落城に導いたほか、一揆の盟主・隈部親永を降伏させる。天草五人衆のひとり志岐麟泉の人質を受け取るなど有力国人たちを調略。大田黒城の大津山家稜を講和と偽り誘い出し、吉地浄満院での宴の最中に佐々成政の家臣に家稜を刺殺させ大津山氏を滅ぼす。降伏した内空閑鎮房を柳川城での桃の節句の宴に呼び寄せて謀殺。近隣諸氏に牧野城に拠った内空閑鎮照を討伐させる。など参謀・謀将として活躍した(「肥後古城物語」ほか)。戦後は佐々成政、和仁親実らの助命を嘆願するが、果たせなかった。肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)は、天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続いた。天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれたが、天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服、薩摩・大隅に押し戻された。同年6月、52人の肥後国人が秀吉から所領を安堵され、肥後国を拝領した佐々成政の家臣団に組み込まれることになった(九州国分)。しかし、一刻も早い肥後の領国化を望んだ成政が性急に検地を進めたため国人の不満が爆発することになった。経過同年7月隈部親永・親泰父子は、秀吉の朱印状を盾に検地を拒否して挙兵した。成政は直ちに7,000人の兵を率いて本拠にしていた隈本城を発し、親永の籠る隈府城を攻撃、落城させる。親永は親泰の籠る城村城へと逃亡、成政はこれも包囲したが、思いのほか守りが堅く攻略に手こずった。親永は甲斐親英と謀り、国人ら35,000余に兵を挙げさせ、和仁親実・菊池武国らに率いられた一揆軍は隈本城を攻囲するに至った。成政は急いで隈本城に取って返したが、自身の甥である佐々成能が内古閑鎮房に討たれるなど撤退の最中に多くの家臣が討ち取られるなどしたため、秀吉に援軍要請を行った。同年9月、鍋島直茂と安国寺恵瓊は要請を応じて救援の輜重隊を派兵したが、肥後南関にて大津山出羽守の伏兵に襲撃され救援は失敗した。次に救援出撃の 立花宗茂と高橋直次兄弟は、要請に基づき輜重隊を含む1,200の兵を率いて柳川城を出発。立花高橋勢は既に一揆方の伏兵の計を察知し、これを逆用して先に兵を騎馬鉄砲・輜重隊・長槍隊の三隊に分けて伏兵を配置、小野鎮幸の主力隊が南関を突破して大津山出羽守を討ち取り、大津山城(藟嶽城)を攻め落ちた。そして、城村城を牽制するために築かれた支城・平山東・西付城にて隈部勢の有働兼元に包囲された兵糧不足の佐々成政軍に補給作戦を行うことに成功している。立花高橋勢は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵と有働志摩守・有働下総守・大知越前守らの武将を討ち取るなど戦功を立てた。九州を唐入りの兵站基地と位置づけていた秀吉は、肥後国人一揆の早期解決を図って九州・四国の大名を総動員し、同年12月までに、小早川秀包を一揆討伐の総大将として出陣し、立花宗茂、高橋直次、筑紫広門、鍋島直茂、安国寺恵瓊らの九州大名勢や、戸田勝隆、福島正則、生駒親正、蜂須賀家政らの四国大名勢も参陣、和仁親実ら兄弟が籠城した田中城を包囲。戦闘の末に田中城を攻略した。12月26日、佐々成政、立花宗茂、安国寺恵瓊らは一揆の首謀者・隈部親永の城村城を攻め落として一揆を鎮圧した。戦後翌天正16年(1588年)2月、謝罪のため大坂に出向いた成政は、秀吉に面会を拒否されてそのまま尼崎に幽閉された。一揆の原因を作ったことを理由に、同年閏5月14日摂津国尼崎法園寺において切腹させられた。秀吉は、一揆に参加した国人ばかりか中立の国人に対しても処罰を加えた。一部残党が薩摩国へと逃れていたが島津義虎は名和彰広を、また清正に阿蘇を与えられた北里三河も下城右近大夫を殺害している。52人中48人の国人が戦死または処刑されたという。隈部一族ら12人は、5月27日に柳川城東南隅の黒門にて、隈部一族の武士名誉を保つように、立花家臣と隈部一族と同じ数の12人の討手と真剣勝負、放し討ちにして、全員戦死した。また動員の際、島津義弘、伊集院忠棟にも参加するよう秀吉の命が下っていたが、自分を討つものと勘違いした成政の命で球磨の相良頼房がこの行軍を阻止するという事件が発生していた。秀吉は相良氏に対し激怒したが、頼房の家臣・深水長智が大坂へ上り陳謝したことで改易を免れている。成政亡き後、肥後国の北半国が加藤清正に、球磨を除いた南半国が小西行長に与えられた。更に、許された肥後国人の城久基と名和顕孝は筑前国に移封され、代わって長野鎮展、原田信種、草野鎮永らが肥後へ入った。それらの余波か、同年11月には天草にて天草五人衆が一揆を起こし、こちらは清正と行長のふたりに鎮圧されている。影響この一揆には百姓が多く加わっており、しかもその百姓が各々刀や脇差しを所有していたことで鎮圧に手間取った経緯から、豊臣政権は天正13年(1585年)の紀州攻めの際に発布したものを更に徹底させた刀狩令を、天正16年(1588年)7月8日、発布した。
2024年06月20日
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7「秀吉近臣時代」天正13年(1585年)1月、毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊は四国征伐後、伊予国和気郡に2万3,000石を与えられ、天正14年(1586年)の秀吉の九州征伐後は6万石に加増され、僧でありながら豊臣大名という異例の位置付となった。恵瓊本人の禄ではないが、安国寺にも天正19年(1591年)1万1,000石の寺領が与えられている。また、恵瓊は秀吉の側近も兼ねることとなり、天正13年12月7日には九州征伐に先立ち黒田孝高・宮木宗賦とともに大友氏・毛利氏の和睦締結、九州諸将への指示伝達のため九州に派遣されるなどしたほか、秀吉の命令で行なわれた検地、厳島神社の千畳閣など作事の奉行を務めている。武将としても小田原征伐に兵を率いて参陣し、天正18年(1590年)3月には脇坂安治、長宗我部元親と共に清水康英が守る下田城を攻め、1ヶ月の籠城戦の後これを陥落させている。このとき内陸の横川に対して制札を出し、水軍将兵の同地での乱暴狼藉を禁じている。九州平定(きゅうしゅうへいてい)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏など、九州諸将との戦いの総称である。秀吉の「九州征伐」、「島津征伐」、「九州の役」、「九州攻め」、「島津攻め」などの名称で呼ばれることもある(詳細は#呼称と開始時期について参照)。この九州平定については呼称が複数見られ、豊臣政権による九州侵攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」と呼ばれることもあれば、織豊政権の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。なお、九州地方の各県・市町村の公式URLや公刊された県史・市町村史では「(秀吉の)九州平定」の用語が比較的多く用いられるのに対し、1983年(昭和58年)刊行の吉川弘文館『国史大辞典』では「九州征伐」(今井林太郎)が使用されている。大日本帝国陸軍参謀本部が編集した「日本戦史」においては、殆どの戦争に「役」の語を当てており、本項も「九州役」としている。「役」は、賦役などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、戦争のために人民を徴発し、人びとが軍事的に徴用されるところから「戦」の意で「役」の呼称が生まれたものである。開始時期について、小和田哲男氏は、年表などではこの戦役が天正15年(1587年)に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年3月1日、島津義久の降伏が4月21日なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている。そして、前年(1586年)段階における秀吉側の立役者は黒田孝高であったとしている(後述)。戦国時代後半の九州は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある。そのなかから、薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、さらに大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた。豊後の大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避するため、当時畿内近国、北陸、山陽、山陰、四国を平定し天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。これを受け、関白となった秀吉は、天正13年(1585年)10月島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津は従前織田信長と近衛前久の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた。この論理については大友側も同じ根拠で島津側が命じられた豊薩和平を破ったと主張している。さらに島津義久は天正14年(1586年)1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明した。3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った。島津氏側としては、すでに九州の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった。天正14年4月5日、大友宗麟は大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願している。秀吉と軍監(戦奉行)黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元・吉川元春・小早川隆景や、宮部継潤などの中国の大名、あるいは長宗我部元親・十河存保などの四国の大名を用いようとした。秀吉が天正14年 4月10日付で毛利輝元にあてた覚書には、城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、西海道にいたる道路の修造、および赤間関(山口県下関市)への兵糧蔵の建造を命じている。
2024年06月20日
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6「毛利氏の外交調停」天正10年(1582年)、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中に本能寺の変が起き、織田信長が横死した。このとき秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめた。天正11年(1583年)8月22日、毛利輝元の家臣に送った手紙で老母の罹病を理由に恵瓊が境目についての会合に不参加を表明している。公務を投げ出しても母を看取り、その危機を救うのが一般的な当代の母子の実像であった。また、本能寺の変の事実判明後の7月、講和交渉が再開した際には和睦が成らず毛利家が滅ぼされた時には小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしいとも願い出ている。結局、両名を人質として出すことと引き換えに、毛利氏の領国は認められた。恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得た。備中高松城の戦い(びっちゅうたかまつじょうのたたかい)は、日本の戦国時代におきた戦い。天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を攻略した戦いである。秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。水攻めの最中に主君である織田信長が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きた。その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を姫路へ引き返した。戦いに至るまでの情勢戦国時代の備中は守護の細川氏が衰退した後、国人領主が割拠する状態にあったが、なかでも台頭していたのは三村氏であった。三村家親は、出雲尼子氏に代わって西国の覇者となった安芸毛利氏に接近し勢力を西備前、西美作に広げたものの、備前浦上氏の傘下の宇喜多直家により家親が暗殺され、つづく備前の明善寺合戦において三村氏は敗退、その勢力は衰えた。のち直家と結んだ毛利氏により三村氏は滅ぼされ(備中兵乱)、その傘下であった城主の多くは毛利氏を頼ったが、その一人が清水宗治である。一方で畿内においては織田信長が上洛を果たし、反対勢力(信長包囲網)の一部を滅ぼし、将軍足利義昭を追放し(室町幕府の滅亡)、天下統一事業をおしすすめていた。毛利氏と信長とは、毛利元就の代においては友好的な関係であったが、その後継の毛利輝元は義昭を庇護し(鞆幕府)、さらに最大の反信長勢力である石山本願寺と同盟し、信長への敵対の態度を強めていった。信長にとって石山本願寺を滅ぼすためにはその背後の毛利氏を屈服させる必要があったため、1578年、家臣の羽柴秀吉を総大将とする中国路への侵攻戦(中国攻め)を開始した。秀吉はまず播磨に進出、黒田孝高の居城であった姫路城を拠点に小寺氏・置塩赤松氏・龍野赤松氏を服従させ、反抗する佐用赤松氏を滅ぼし、支配を固めた。しかし、石山本願寺・毛利氏に呼応して、信長に同盟したはずの摂津荒木村重が反乱を起こし(有岡城の戦い)、播磨においても小寺氏、別所氏が反旗を翻すなど、秀吉の中国攻めは当初から困難が多かった。別所氏を滅ぼした三木合戦においては腹心の竹中重治が陣没し、その他多くの将兵を失い、また上月城の戦いでは尼子勝久ら尼子氏の残党軍を失った。播磨をようやく再び平定した秀吉は但馬、因幡に進出し、山名豊国らを降参させ、山名氏の反織田氏勢力と結んだ毛利氏の吉川経家を鳥取城の戦いにおいて破り、弟の秀長や宮部継潤に命じ山陰道への侵攻を進めさせた。宇喜多直家は当初は毛利氏の傘下として行動し、織田寄りであった主君の浦上宗景を追放して下剋上を果たしていたが、織田氏と秀吉の力を知ると毛利氏を見限り、秀吉に降参を申し入れた。直家は天正9年(1581年)に病没し、幼少であった子の宇喜多秀家が跡を継ぎ、そして秀吉の猶子になった事で、備前もまた秀吉の傘下におさまった。備中高松城の戦いはこのように秀吉(織田氏)が優位を築いた状況において勃発したものである。戦いの経過羽柴秀吉の出陣と高松城の包囲宇喜多秀家が領していた備前岡山から先は毛利の勢力範囲であったため、織田軍と毛利軍は備前・備中国境地帯で攻防を繰り広げることとなった。天正10年(1582年)3月15日、秀吉はついに姫路城から備中へ向け2万の軍勢をひきつれて出陣。途中、宇喜多氏のかつての居城であった亀山城(別名:沼城、ぬまじょう)(現:岡山市東区)で宇喜多氏の動向を探り、宇喜多氏が織田軍に味方することを確認、宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍勢で備中へ入った。備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城、ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かった。城を守るのは清水長左衛門尉宗治で、3,000〜5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではなかった。そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月15日、秀吉方は宇喜多勢を先鋒に3万近い大軍で城を包囲した。そして2回にわたって攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退した。水攻めの開始秀吉は毛利輝元と直接対決に備えて、甲斐武田氏を滅亡させたばかりの主君・信長に対して援軍を送るよう使者を向かわせた。
2024年06月20日
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武田 信重(たけだ のぶしげ)は、戦国武将の武将。安芸武田氏の一族である。武田信実が逃亡した後に、安芸武田氏の家督を継いで当主になったとする説や、安国寺恵瓊の実父の説がある。安芸武田氏の当主・武田元繁の子、武田下野守(名は不明。伴繁清とする説もある。)の子であるとされ、当主を継いだ武田信実とは同世代の親族関係にあるとされる。ただし、安芸武田氏の家系図には疑問点も多いとされるため、史実として正確であるとは断定されていない。武田信実は天文4年(1535年)に武田光和が死去した後(異説あり)に若狭武田氏から養子として迎えられて当主となったが、養子のために家中の統率ができずにいた。天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦いで出雲国の尼子詮久が毛利元就に敗れて出雲に撤退すると、尼子と同盟関係にあった武田方の佐東銀山城は孤立無援となり、信実は城を捨てて尼子の援軍であった牛尾義清らと共に出雲に逃亡した。しかし、城兵300人ほどは一族の信重を擁立してなおも抵抗する。しかし勝敗は既に決しており、毛利元就に攻められて佐東銀山城は落城し、信重は自害した。これにより、安芸武田氏の勢力は滅亡した(佐東銀山城の戦い)。同時期、信重の父とされることもある伴繁清もまた、伴城に籠るも討死している。子孫銀山城(伴城とする説もある)落城の際、武田信重の遺児が家臣に連れられて安芸国の安国寺(不動院)に逃れた。後に安国寺恵瓊として毛利元就に仕える外交僧となり領地をも得て、戦国の世に名を馳せることになる。伴 繁清 / 武田 繁清(とも しげきよ / たけだ しげきよ)は、戦国時代の武将。安芸武田氏の一族で、武田元繁の子とも弟とも、娘婿とも言われている。略歴永正14年(1517年)の有田中井手の戦いでは、武田元繁配下として出陣し、品川信定らと有田城包囲軍に加わる。しかし、突出した熊谷元直に引き続き、毛利元就によって総大将・武田元繁が又打川で討死するに及び、撤退した。その後は元繁の遺児・光和を支えて大内氏やその傘下の毛利氏と対抗する。天文2年(1533年)、安芸武田氏と家臣であった熊谷氏が対立。光和は熊谷信直討伐を企てて、繁清は総大将として香川光景、己斐直之、山田重任、温科家行らを従え、三入高松城下へ出陣、横川表の戦いとなる。この戦いでは少数の熊谷勢が武田勢を圧倒。繁清も負傷して退却した。天文10年(1541年)、吉田郡山城の戦いで出雲国の尼子詮久(後の尼子晴久)率いる尼子軍が敗れて撤退すると、安芸武田氏の居城・佐東銀山城から当主・武田信実が尼子方の援軍(牛尾幸清ら)と共に出雲に逃亡、実質安芸武田氏は滅亡した。佐東銀山城では武田家臣らが信重を擁立し、繁清は居城の伴城に籠るも、同年(翌年説もある)に毛利氏らの攻撃を受けて両城は落城、信重は自害(佐東銀山城の戦い)、繁清は討死した。滅亡時に繁清の孫(信重の子息)が伴城から脱出するが、この遺児が成長して安国寺恵瓊と名乗る事となる。 3「東福寺時代」天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃で安芸武田氏が滅亡すると、家臣に連れられて脱出し、安芸の安国寺(不動院)に入って出家した。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。恵心は毛利隆元と親交があったため、これがきっかけとなり毛利氏と関係を持つこととなった。僧としては天正2年(1574年)に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力している。このほか方丈寺、霊仙寺といった寺院を再興し、大内義隆が建立した凌雲寺仏殿を安国寺に移築するなどした。毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将・大名。毛利氏の第12代当主。 安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で、大江広元の四男・毛利季光を祖とする。家紋は一文字三星紋。元就は用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られており、家督を継いだ時点では小規模な国人領主に過ぎなかった毛利家を、一代で山陽・山陰10か国を領有する戦国大名の雄にまで成長させた(しかも、完全な老境に入ってから版図を数倍に拡大させている)。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。家督相続明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主・毛利弘元と正室の福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われており、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。明応9年(1500年)、幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意した。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に父・弘元が酒毒]が原因で死去した。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。
2024年06月20日
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松下家臣時代はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した。なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3,000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。天正2年(1574年)、筑前守に任官したと推測されている。天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。天正4年(1576年)、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。天正5年(1577年)、越後国の上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げた(信貴山城の戦い)。播磨・但馬の攻略 - 中国攻め詳細は「中国攻め」を参照天正5年(1577年)10月23日、信長に西国の雄毛利輝元ら毛利氏の勢力下にある山陽道・山陰道である中国路攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国に出陣した。播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを従える。11月中に播磨は平定できると報告して、信長より、その働きを賞賛される朱印状を送られた。秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入った。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前・美作の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国の荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男の山名氏政は落城前に羽柴家に帰参)が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮されている。信長の死から清洲会議まで詳細は「本能寺の変」および「山崎の戦い」を参照天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害した(本能寺の変)。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、備中から京都に軍を返した(中国大返し)。
2024年06月20日
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2「安国寺 恵瓊の出自」(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗の僧で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説だが、異説もある。出自が安芸武田氏の一族であることは確定しているが、生年・父親には諸説があり、前者は天文6年(1537年)とも天文8年(1539年)ともいわれる。また後者については武田信重(光広)を父とする説と、信重の父である伴繁清を父とする説とが存在する。豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、清洲会議で信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として知られる。秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことは出来ていない。生母である大政所は秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない。秀吉は自身の御伽衆である大村由己に伝記『天正記』を書かせているが、大村由己による秀吉の素性の説明は、本毎に異なっている。大村は本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分として描いたが、『天正記』の中の関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることがほのめかされている。当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、関白就任を側面援護するために秀吉がそのように書けと云ったとみられている。また松永貞徳が著した『載恩記』にも、秀吉公が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりか玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記録されている。しかし、これらは事実とは考えられていない。一般には下層階級の出身であったと考えられている。江戸初期に成立した『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。通俗説で父とされる木下弥右衛門[注釈 5]や竹阿弥は、足軽または農民、同朋衆、さらにはその下の階層とも言われてはっきりしない。竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。江戸中期の武士天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている。また『尾州志略』では蜂須賀蓮華寺の僧であるとし、『平豊小説』では私生児であったとしている。『朝日物語』『豊臣系図』では一般に継父とされる、信長の同朋衆であった竹阿弥が実父であったとしている。生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。
2024年06月20日
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「安国寺恵瓊の群像」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「安国寺恵瓊の出自」・・・・・・・・・・・・・33、 「東福寺時代」・・・・・・・・・・・・・・・・184、 「毛利家臣時代」・・・・・・・・・・・・・・・565、 「秀吉の外交調停役」・・・・・・・・・・・・・916、 「毛利氏の外交調停役」・・・・・・・・・・・・1027、 「秀吉近臣時代」・・・・・・・・・・・・・・・1148、 「肥後国人一揆」・・・・・・・・・・・・・・・1299、 「文禄・慶長の役の活躍」・・・・・・・・・・・13410、「恵瓊と関ケ原」・・・・・・・・・・・・・・・13911、「暗黒恵瓊は大名になったのか?」・・・・・・・15312、「安国寺恵瓊の人物像」・・・・・・・・・・・・15513、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・157 1、「はじめに」安国寺恵瓊(?~1600)安土桃山時代の禅僧、大名。恵瓊は法諱、瑶甫と号す。安芸国銀山城主武田重信の遺孤という。1541年(天文10)銀山落城の時、竹若丸(恵瓊の幼名)は逃れて安国寺の不動院に入り出家。1553年安国寺の上寺の縁で東福寺の竺雲恵心を頼り法弟となる。その後、恵瓊は1569年(永禄12)に安芸国安国寺の住持をも兼ね、さらに1579年(天正7)東福寺退耕庵主、1598年(慶長3)には東福寺住持となった。その間、不動院金堂・鐘楼・山門や厳島の大経堂、建仁寺方丈など、時代を代表豪壮絢爛な建造物の新築・修復に尽くした。一方、恵瓊はその師恵心が毛利氏の使僧としていたのを受け継いで、外交僧になって活躍した。1573年将軍足利義昭と織田信長の不和調停のために上洛した際、信長没落刀伊木下藤吉郎の将来を予言したことが有名である。1583年頃毛利氏の外交僧から「秀吉の直臣となり、1585年の四国平定に後は6万石を領地する大名になった。秀吉の死後、石田三成に加担しが、関ヶ原の戦に敗れ、京都で曝し首にされた。年は63歳か64歳、墓は京都建仁寺方丈の裏手にある。
2024年06月20日
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「延暦寺に出家得度」久寿元年(1154年)、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である[1]。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。歴史比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。最澄最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。
2024年06月18日
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「延暦寺に出家得度」久寿元年(1154年)、14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。最澄の開創以来、高野山金剛峯寺とならんで平安仏教の中心であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である[1]。日本仏教の礎(佼成出版社)によれば、比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。延暦7年(788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、最澄没後の弘仁14年(823年)のことであった。延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。比叡山は文学作品にも数多く登場する。1994年に、ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。また、「12年籠山行」「千日回峯行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、日本仏教の代表的な聖地である。なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が817年に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。歴史比叡山は『古事記』にもその名が見える山で、古代から山岳信仰の山であったと思われ、東麓の坂本にある日吉大社には、比叡山の地主神である大山咋神が祀られている。最澄最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれた(生年は767年説もある)。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗る。青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れた。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となった。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智顗の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。
2024年06月18日
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3「仏教教学を修学」『阿毘曇心論』、『阿毘曇心論経』、『雑阿毘曇心論』、および『アビダルマコーシャ』(倶舎論)が本書の教理をまとめた綱要書であるとするのが木村泰賢以来、半ば定説化した学説である。仁平元年(1151年)、備中の安養寺の静心に師事する。安養寺(あんようじ)は、岡山県倉敷市にある高野山真言宗の寺院である。伝承によれば、安養寺は奈良時代の延暦元年(782年)、報恩大師により真言宗の寺として開山。朝原千坊の中院として13世紀の室町時代には浅原の谷一帯に『浅原寺』と総称される寺院が立ち並んでいたとされている。池田家文庫等によると安養寺は享保2年(1717年)以前は現在地より220m南、倉敷市街よりにあり、客殿や庫裏を備えた朝原寺の本坊であったことが判っている。また、源平盛衰記では鹿ケ谷の変で治承元年(1177年)、備前国に追放された藤原成親が備中国安養寺に出家・受戒したと書かれている。安養寺は倉敷と総社を結ぶ浅原峠にあり、寺社地正面には天王池と呼ばれる池に朱色の浮見堂が造られている。参道の石段にある楼門の上に大きな毘沙門天が乗り、その下には船の大きな碇が置かれている。境内に上がると毘沙門堂に高さ約26mの多宝塔、羅教堂、鐘楼、茶室などが配置されている。本殿である毘沙門堂には、金色の毘沙門天本尊が祀られ、成願堂には平安時代に造営された経塚の出土品で、釈迦誕生仏像・瓦経・等身大の毘沙門天像などの文化財が保存され、仏像は無料で公開されている。約11tの重量がある梵鐘は中国四国一の大きさとされている。また、神仏習合の寺であるため境内には鳥居が三箇所あり、七福神の銅像も配置されている。
2024年06月18日
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2「栄西の出自と出家」(みょうあん えいさい/ようさい、永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日(1215年8月1日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧。日本における臨済宗の開祖、建仁寺の開山。天台密教葉上流の流祖。字が明菴、諱が栄西。また、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られる。永治元年(1141年)4月20日、吉備津神社の権禰宜・賀陽貞遠の子として誕生。吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」とも称したが、現在は「吉備津神社」が正式名である。岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備の中山(標高175m)の北西麓に北面して鎮座する。吉備の中山は古来より神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る。足利義満造営とされる本殿は独特の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定。また社殿3棟が国の重要文化財指定されるほか、特殊神事の鳴釜神事が有名である。当地出身の政治家犬養毅は、犬養家遠祖の犬飼健命が大吉備津彦命の随神であるとして、吉備津神社を崇敬したという。神池の畔に犬養毅の銅像が建てられ、吉備津神社の社号標も同人の揮毫になる。
2024年06月18日
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「高僧名僧伝・栄西」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「栄西の出自と出家」・・・・・・・・・・・・・・・・・・43、 「仏教の修学」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・334、 「延暦寺の出家得度」・・・・・・・・・・・・・・・・・・395、 「天台宗を学ぶ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・486、 「大山寺の基好に師事する」・・・・・・・・・・・・・・・597、 「天台を立て直すべく入宋」・・・・・・・・・・・・・・・658、 「天台山・南宋に禅を学び重源と帰国」・・・・・・・・・・739、 「興禅護国論を著す」・・・・・・・・・・・・・・・・・・9810、「帰国後密教と禅宗に再入宋」・・・・・・・・・・・・・・10311、「禅宗を習得して帰国後布教」・・・・・・・・・・・・・・10612、「鎌倉に招請され布教する」・・・・・・・・・・・・・・・11613、「頼家より建仁寺建立の外護」・・・・・・・・・・・・・・11914、「京都に禅宗の拠点」・・・・・・・・・・・・・・・・・・12615、「栄西没後」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13116、「栄西の影響」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13717、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・143 1、「じはじめに」栄西(1141年~1215年)平安末期から鎌倉初期の僧。日本臨済宗の初祖とされる。「栄西えいさい」ともいう。号は明庵。千光国師ともいう。備中吉備津宮神宮賀陽氏の人。14歳で出家、天台と密教を学ぶがとくに大山の基好からは禅宗が請来する頃まで密教をを受法している。1168年(仁安3)4月入宋して天台山・阿育王山などを巡拝重源と出会ってともに帰国、天台座主明雲に請来の典籍を呈す。その約20年間は密教の研鑽と撰述を専らとし、台密葉上流の祖となる。1187年(文治3)再入宋してインドに行こうとして許可されず、天台山へ赴いて臨済宗黄龍派の虚菴懐敞に会う。密教と禅について問答を交わし、天台山から天童山へ移る虚菴に従って臨済宗を受法。1191年(建久2)に帰国して筑前博多聖福寺で禅法を説き、また「出家大綱」を著して戒律、とくに比丘戒の重要性を強調した。筥崎の良弁の訴えもあり、延暦寺からの圧力で1194年朝廷から、達磨宗の大日能忍とともに弘法を停止される。これに対して1198年「興禅護国論」を撰し、自ら意図が最澄の古法の復興にあること、叡山教学に禅の否定であることを述べ、禅宗が時機相応・鎮護国家の教えであると主張した。1199年(正治元)頃鎌倉に降り、源頼朝の忌日法要や密教祈祷の導師を務めるなどして幕府の帰依を受け、寿福寺を建立して鎌倉での地歩を築き、1202年(建仁2)には将軍源頼家の本願で建仁寺の建立に着手、3年で完成して再び京に拠点を得た。その後も幕府の権威を背景とし、重源の後を受けて東大寺の勧請職についたり法勝寺の塔を再建するなどし、京と鎌倉を往来して活躍して、1213年(建保元)権僧正にに任じられた。従来、密教との兼修という栄西の禅は純粋禅の宣揚による軋轢を避けた便宜的なものとされ、建仁寺に真言院・止観院を置いて延暦寺の末寺としたものも同様の配慮であるとみられている。しかし「興禅護国論」の主張や建仁寺建立中に撰した「日本仏法中興願文」を見ると、一貫して戒律の厳守による仏教界の刷新と最澄への復興が述べられており、密教と禅の兼修も便宜的な姿勢でなく、積極的な宗風であったと思われる。また明全を通じて道元にも多大な影響を与えている。1215年(建保3)6月5日鎌倉で母したといわれるが、京で没したともいわれている。
2024年06月18日
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●鉄のカーテン(てつのカーテン、英: Iron Curtain)は、冷戦時代のヨーロッパにおいて東西両陣営の緊張状態を表すために用いられた比喩である。同じく冷戦による分断の象徴として有名なベルリンの壁とは異なり、物理的な構造物のことではない。イギリスのウィンストン・チャーチルが第61代首相を退任後の1946年3月、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンに招かれて訪米し、ミズーリ州フルトン(英語版)のウェストミンスター大学(英語版)で行った演説[1]の中で、下記の演説をしたことにちなむ。米ソ冷戦の緊張状態を表す言葉として盛んに用いられた。その後、ヨシップ・ブロズ・チトーが指導していたユーゴスラビア、またアルバニアが社会主義国でありながらも東側陣営から離脱して非同盟の動きを見せたり、ドイツの東西分裂により生まれたドイツ民主共和国(東ドイツ)が発足後に東側陣営へ組み入れられるなどして、境となる線は何度か変化した。有名になったのは上記のチャーチル演説以降であるが、ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスがこの1年前に、同様の言葉を雑誌に寄稿した論文に用いたり、日記にしたためたりしている。またさらに遡ること15年、ソビエト連邦の作家レフ・ニクーリンが著したエッセイの中にも、ヨーロッパの東西陣営の緊張を表す言葉としてこの言葉が登場している。この「鉄のカーテン」は、ヨーロッパの東西分断を象徴する言葉でもあり、「西欧」「東欧」という表現が盛んに用いられる契機ともなった。ベルリンの壁ヨーロッパで「鉄のカーテン」を象徴する出来事は、1948年6月24日のベルリン封鎖、1949年の東西ドイツ分離独立、1961年8月13日のベルリンの壁の建設である。ドイツは両陣営によって東西に分断されたため、特にカーテンの影響を受けやすい状況にあった。「鉄のカーテン」の消滅1989年5月、改革を進めていた時のハンガリー首相ネーメト・ミクローシュにより、ハンガリー・オーストリア国境間に存在した鉄条網が撤去された。ハンガリーの西欧復帰を目指した政策の一つであったが、これが鉄のカーテンに穴をあけることになった。この報道を西ドイツのテレビ放送によって知った東ドイツ国民は、ハンガリーを経由して西側に亡命できると思い、同国に殺到した。8月19日の汎ヨーロッパ・ピクニックを経て、9月11日にはハンガリーは東ドイツ国民の西側諸国への出国を解禁した。そしてこれにより、東ドイツ国民が西への出国を求めてチェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド等へ殺到、東ドイツ国内でも政府への不満と自由を求める動きからデモが頻発し、11月9日のベルリンの壁崩壊に至った。また、東欧諸国でも民主化運動(東欧革命)が勃発した。1990年10月3日には東西ドイツが統一され、これをもって「鉄のカーテン」は消滅した。「鉄のカーテン」消滅は、ドイツを中心とした「中欧」の概念が復活・クローズアップされることにもつながった。●『サザエさん』は、長谷川町子による日本の漫画[1]。また、その主人公である「フグ田サザエ」の呼び名である。原作とアニメでは内容が大きく異なっている事に留意する必要がある。作品解説原作漫画は新聞連載の4コマ漫画である(ただし、5ページほどのショートストーリー漫画が雑誌連載されており、「別冊サザエさん」に収録されている)。西日本新聞社から独立したフクニチ新聞社の整理部長牟田口宗一郎が長谷川に福岡の地方新聞『夕刊フクニチ』誌上での連載を依頼。1946年(昭和21年)4月22日から連載を始めたが、長谷川が東京へ引越しするために連載を打ち切った。連載開始当初は、台詞がカタカナで書かれていた。漫画の舞台は博多で、サザエは独身だったが、連載を打ち切る時にサザエがマスオと結婚している(福岡時代の最終回とみられる回のオチの部分が、小さいながらも『サザエさんうちあけ話』の作者の回想で描かれている)。長谷川の家族が東京の桜新町へ引っ越した後は、『夕刊フクニチ』で連載を再開。舞台も東京へ移り、マスオが磯野家に同居する。掲載誌は間もなく『新夕刊』(東京スポーツの源流となる夕刊紙)に移り、『夕刊朝日新聞』(『朝日新聞』本紙とは別扱の新興紙)を経て、1951年(昭和26年)4月16日からは『朝日新聞』の朝刊に移る。途中、長谷川の病気が理由で1951年(昭和26年)11月7日から11月14日まで休載されたが、11月15日に連載を再開、また、1953年(昭和28年)1月16日にも健康上の理由から同年3月31日まで休載されたが、4月1日に再び連載を再開。その後はほぼ無休で連載が続いたが、1973年(昭和48年)になると毎週月曜日の定期休載に加えて短期の休みが多くなり(7月15日から8月9日、9月5日から9月9日など。理由はすべて「作者病気のため」)、1974年(昭和49年)2月21日をもって休載に入るが、その後は連載が再開されることはなかった[1]。話数は6477話に及んだ(ただし単行本未収録の話もあり、サザエさん公式HPには4コマ漫画の本数は6500回以上と記載されている)。本作はいわゆるストーリー漫画ではなく、一貫した舞台、人物が登場する比較的独立したエピソードからなる。季節が移り変わっても登場人物達は年を取らない形式となっている。
2024年06月17日
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●「NHKのど自慢』(エヌエイチケイのどじまん)は、日本放送協会(NHK総合・NHKラジオ第1)の公開視聴者参加の生放送生オケ番組、音楽番組である。1946年の放送開始以来、長きに渡って放送されている長寿番組である。姉妹番組として、1999年4月から2004年3月までNHK衛星第2テレビで放送された『BSジュニアのど自慢』、および『アニソンのど自慢』・『バーチャルのど自慢』についても本項で後述する。日本各地の都市(年に一度国外からの場合もある)を巡回し、アマチュア(原則)出場者が、書類審査、会場での予選審査を経て本番組に出場し、持ち歌を歌い、採点され競うものである。毎回書類審査と会場での予選審査を勝ち上がった20組の出場者が自慢ののどとパフォーマンスを披露し、ゲスト審査員2人を交えた審査により、チャンピオンと熱演賞(審査員特別賞)が1組ずつ表彰される(以前は22組や25組の頃もあった。また、海外公演は25組もしくは30組が出場する)。1947年から1970年3月までの番組名は「のど自慢素人演芸会」。この当時までは漫才や浪曲、ものまねなどを披露する出場者もおり、現タイトルとなってからも、1970年代前半頃までは歌以外の芸を披露する者が稀に見られた。出場者は様々で、中にはプロ歌手を目指す者やアマチュアバンドのメンバーもいる。また、日本人のみに留まらず、在日外国人(黒人演歌歌手として、後にプロデビューを果たしたジェロなど)や日系南米人、交換留学生などが出場することもある。 年に一度行われるグランドチャンピオン受賞者を中心に、後にプロ歌手やタレントとしてデビューした者もいる(後述)。予選会を「NHKのど自慢予選会」として全出場者の歌を放送することもある。基本的には会場となる各地の放送局のみでの放送であるが、NHK BSプレミアムで「NHKのど自慢予選会」として放送することもある(2012年9月15日深夜(同年9月16日未明)に千葉県木更津市での予選会の模様が放送された)。またNHK以外での放映したケースでは、地域のケーブルテレビ局エリア(大阪狭山市・市制施行30周年記念事業の一環として2017年7月16日分予選)などの例もある。また、総合テレビとNHKワールド・プレミアムのみの放送であるが、毎年12月の最終日曜日には「NHKのど自慢 熱唱熱演名場面」と題して1年間に放送された熱唱の名場面を総集編として放送している(その他、番組の裏側も紹介している)。長らく参加可能年齢が15歳以上の高校生からとなっていたため、2014年度までは中学生以下は出場できなかった。そのため、そういった児童・生徒の受け口として衛星第2テレビで本番組に出場できない中学生以下を対象にした「BSジュニアのど自慢」の放送もあった(2004年終了)。2015年度から12歳以上の中学生も出場できるようになり、出場者の年齢層が大幅に広がった。タイトルロゴにデザインされている鳥は、スズメがモデル。歴史番組の企画者は、『NHK紅白歌合戦』も企画立案したNHK音楽部のプロデューサー、三枝嘉雄(健剛)。軍隊時代に経験した余興大会にヒントを得たという。1946年1月19日にラジオ番組「のど自慢素人音楽会」として、東京都千代田区内幸町のNHK東京放送会館(現在の日比谷シティの場所)から午後6時(18時)から1時間30分、公開放送されたことが始まり。翌1947年に「のど自慢素人演芸会」と改称(このタイトルで1970年3月22日まで放送)。1949年10月ごろから、宮田輝アナウンサーが17年あまりにわたって毎週司会を務めていた。テレビ放送は1953年3月15日午後2時(14時)から2時間放送したことが始まりで(ラジオと同時公開放送)、当初はスタジオのあった東京での公開のみ放送された。なおこの第一回目の放送をラジオで募集したところ最終的に応募者数は900名を超えたという。1965年度までは別な番組と平行して放送されていた(参考)。単独放送となったのは1966年度からである。宮田輝アナウンサーが新たに始まったNHKの大型公開番組『ふるさとの歌まつり』に移った1966年から1970年まで、番組の人気は下降した。起死回生策が図られるもことごとく失敗し、1967年4月から1969年3月まで東日本・西日本地区で司会が異なり、更に1969年度の1年間は地域ブロック単位に分割される形で、各地区の拠点局のアナウンサーが司会を務める形式となっていた。1970年4月に現在の「NHKのど自慢」にタイトルを変更。伴奏も、それまでのピアノとアコーディオンが交互に弾くスタイルから、ファイブピースバンド(スリーピース+ピアノ+シンセサイザー)に変更。程なくして金子辰雄が司会に就任してから人気が回復した。毎週地方からの中継のため、全国を結ぶカラー放送用マイクロ回線網が完成するまで白黒放送が続けられた。本番組はNHK総合テレビでの中ではカラー化が遅れた番組の一つであり、カラー化されたのは1971年4月である。
2024年06月17日
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●赤線(あかせん)は、 GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に、半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。赤線区域、赤線地帯などとも。1946年1月、 GHQは民主化改革の一環として、日本政府に公娼制度(貸座敷・娼妓)の廃止を要求し、これに基づき戦前からの取締法令が廃止された。女性を前借金で拘束する人身売買を禁止しようとしたものである。東京では吉原、新宿二丁目などの貸座敷(遊廓)や、玉の井(東京都墨田区東向島)、鳩の街(東京都墨田区東向島)などの銘酒屋の看板を変え、飲食店などとして風俗営業許可を取ることになり、娼妓・私娼は女給になった(東京はカフェー、大阪では料亭など、地域によって異なる)。戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという。終戦後のカストリ雑誌などでは「特飲街」(特殊飲食店街の略)という表現が用いられており、「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降である。1950年に大田区武蔵新田のカフェー業者が池上に進出しようとして反対運動となり(池上特飲街事件)、参議院厚生・文部・地方行政委員会による視察、調査が行われた。結果、現行法では取り締まれないとして、建築基準法や旅館業法の改正が進められた。また、委員会では鳩の街(墨田区)の業者が「赤線区域内は一軒や二軒建つても 大目に見る場合が沢山ある、併し赤線から外へ出るということはいけない」と証言した。1951年7月11日は、参議院文部委員会委員が三鷹駅北口付近に形成し始めた八丁歓楽街の現地調査を行っている。また1952年の衆議院行政監察特別委員会で人身売買事件が問題になり、3月4日には厚生事務次官が「赤線区域と申しまするものはないに越したことはないけれども、今日としてはやむを得ない」と証言し、黙認していることを認めた。東京の場合、カフェーらしくするため、1階にはダンスホールやカウンターなどが造られた。働く女性(女給)は2階の部屋に間借りをしていたが、ここが営業場所も兼ねていた。女性たちは店頭に並び、道行く客に声をかけて店に誘っており、風紀上も目に余る状態になっていたことは事実である。赤線廃止売春防止法(1956年制定)の完全施行を控え、1958年3月までに赤線内のカフェーなどは一斉に廃業した。店舗は、バーやスナック、ソープランドや料亭などの飲食店に転向するもの、旅館・ラブホテル・公衆浴場 ・アパート・下宿屋になるもの、密かに風俗営業を続けるものなどさまざまであった。文学・映画・ゲーム赤線を描いた小説には、吉行淳之介『驟雨』(1954年)・『原色の街』(1956年)、高城高『X橋付近』(1955年)、五木寛之『青春の門』(1969年)などがある。映画には、沢賢介監督『娘を売る街 赤線区域』(1953年)、溝口健二監督『赤線地帯』(1956年)、川島雄三監督『洲崎パラダイス赤信号』(1956年)、田中重雄監督『赤線の灯は消えず』(1958年)、神代辰巳監督『赤線玉の井 ぬけられます』(1974年)などがある。ゲームには、『赤線街路〜昭和33年の初雪〜』(2007年)(18禁恋愛アドベンチャーゲーム。売春防止法施行直前の架空の赤線が舞台)がある。日本のバンド、レピッシュの楽曲で「赤線口」、「赤線イ」という曲がある。青線特殊飲食店として営業するには当時の風俗営業法に基づく警察の許可が必要であったが、この許可を得ずに食品衛生法に基づく保健所からの飲食店営業許可を得ただけで特殊飲食店と同様の営業を行っていた地区を言う。
2024年06月17日
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●「輪タク」自転車タクシーとは、2輪車もしくは3輪車で人力により乗客を運ぶ車両である。通常は、ドライバー以外に1人ないし2人の乗客を乗せることが出来るようになっている。自転車タクシーは人力車を改良したもので、英語ではCycle rickshawとなる。また自転車タクシーが発展し、オートバイや三輪自動車などを用いるようになったものはオートリクシャー、と呼ばれる(三輪タクシー、バイクタクシーを参照)。Rickshawは人力車のことで、Cycle rickshawは自転車の人力車と言う意味である。Rickshawの語源は日本語の 人力車 である(りきしゃから派生)。自転車タクシーの車両はドライバーの脚力が動力源だが、電気モーターの力を補助的に使うものもある。車両は3輪のものが多数派でトラクターとしての自転車と、乗客を乗せる人力車の部分で構成される。非常に稀だが4輪車もあり、2輪自転車とリアカーを合体させたものである。また、前に乗客を載せるタイプもある。自転車タクシーはアジアで広く使われている。自転車タクシーは人力車の代替交通機関として発達した。自転車タクシーはアジアで広く使われているが、道路混雑の原因になると考えられており、しばしば規制の対象になっている。広く普及しているアジアでは、人力車は農村地帯からの貧しい出稼ぎ労働者の重要な仕事となっている。しかし、最近では経済的で環境に優しい交通手段として再認識され、先進国でも復活する例が増えてきた。日本の自転車タクシー日本ではかつて自転車タクシーのことを輪タクとも言った。輪タクは当時、終戦時の物資不足から燃料がわずかで、タクシーを走らすことができなかったことから大正初期に生まれた「人働車」を新たに登場させたもので、その名称は、自転車を指す「銀輪」と「タクシー」という言葉の合成させたものからきている。日本における輪タク営業のはじまりは、1947年(昭和22年)2月1日に闇市を統率してきた関東尾津組が2人乗りの輪タク営業を東京で始めたものだといわれている。ちなみに営業当初は24キロ10円で、その後10月には20円に値上げされ、1キロごとに10円の加算となっていた。都電と都バスの料金が50銭だった当時から考えると高級な乗り物だった。その後、同じような営業が各地に広まり、1949年(昭和24年)には全国に70を超え、色々な種類の輪タクや業態が登場した。新潟市の厚生車では、リヤカーに一人用の幌をつけた急造的なもので、日中は駐輪場で、日暮れからは飲み屋などのある盛り場に停車場を設け、客を待つ日々だったという。輪タクの多くは、1951年(昭和26年) - 1952年(昭和27年)ころにはほとんど姿が見られなくなったが、大分県佐伯市では1955年(昭和30年)2月にまだ、15・16台の輪タクが営業していたという。秋田市内でも、1965年(昭和40年)頃まで営業していたという証言もある。
2024年06月17日
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14「昭和21年・世情・社会状況。」●尋ね人の時間(たずねびとのじかん)は、昭和中期に放送されたNHKラジオの番組の通称。正式名称は尋ね人(たずねびと)。「『尋ね人』の時間です」とアナウンスされたことから、『尋ね人の時間』が番組の呼称として親しまれた。この項目では、同時期に並行して放送された復員だより(ふくいんだより)、引揚者の時間(ひきあげしゃのじかん)についても記述する。『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組は、聴取者から送られた、第二次世界大戦(太平洋戦争)の混乱の中で連絡不能になった人物の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。当初は対象者別に以上の番組が設けられていたが、やがて『尋ね人』に集約した。放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件であり、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人を探し出せたとされる。内容依頼人の手紙の内容が端的にまとめられ、番組の題に即した要旨がアナウンサーによって淡々と抑揚なく読み上げられた。具体的には、次のような読み上げが行われた。· 昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。· シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。· 旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。· ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。· 昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。· これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。対象者は復員兵、引揚者、シベリア抑留者、戦中時に知り合った兵隊仲間など様々であり、依頼者の多くは同様の立場や境遇にあったか、戦時・戦後の混乱でやむを得ず離別した人であった。関係性でみると、依頼人と対象者とは親族、友人、戦友、知り合い同士などであった。なかには、日本に復員したにもかかわらず本人の意思で故郷に戻らない傷痍軍人や、復員していない残留日本兵と思われる者を尋ねる内容もあったという。依頼の中には、GHQに所属する日系二世の駐留軍人からのものもあったという。しかし、 局員のフランク・正三・馬場(馬場も日系二世である)が、「アメリカ国籍者からの依頼には対応すべきでない」と判断したために、採用が見送られたとされる。放送時期・時間· 復員だより – 1946年(昭和21年)1月から1947年(昭和22年)2月。終了時期は南方からの復員が一段落した時期と重なる· 尋ね人 – 1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日· 引揚者の時間 – 1947年(昭和22年)7月から1957年(昭和32年)3月放送時間の全容については、たびたび移動していたとみられたり、同時期資料での記述がまちまちであったりして、はっきりしない。ただ、ある程度の期間単位で定時放送されていたために、多くの人が流しっぱなしのラジオから一度はこの番組を耳にした経験があるといわれ、民間のラジオ放送開局後も聴取率は90%であったとされている。その他· 戦後50年の節目にあたる1995年に、テレビ朝日系列で『戦後50年企画 尋ね人の時間』が放送された。· 新井満の小説に、同名の『尋ね人の時間』がある(第99回芥川賞受賞作)が、関連はない。· 井上ひさしは、同番組をもとに戯曲『私はだれでしょう』を執筆し、こまつ座によって、2007年1月22日から2月25日、紀伊國屋サザンシアターにて上演された。同演目では「聴取率90%」とされる同番組のスタッフが描かれ、GHQによる番組内容の検閲により、広島や長崎の依頼人からの手紙は読み上げられなかった、といった場面が創作されている。· 横溝正史の推理小説『獄門島』の中で、登場人物が『復員だより』を聞いている場面があり、金田一耕助の推理の材料の一つとなっている。
2024年06月17日
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13「南海地震」・12月21日・南海地震(なんかいじしん)は、紀伊半島の紀伊水道沖から四国南方沖を震源域とする巨大地震の呼称。南海トラフ西側でプレート間の断層滑りが発生する低角逆断層型の地震と考えられている。狭義の南海地震は1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震を指す名称であるが、広義には安政南海地震や宝永地震(南海トラフのほぼ全域が震源域)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれ南海地震と総称される。さらに2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以降は、土佐湾から紀伊水道沖を震源域として発生するとされる固有地震の名称としても使用されるようになった。また、南海大地震(なんかいだいじしん)や南海道地震(なんかいどうじしん)と呼称される場合もある。この付近の南海トラフでは、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に沈み込んでいるため、たびたび M8 級の海溝型地震が100 - 200年程度の再来間隔で起きている。巨大な地震となる原因について、年齢の若いプレートは薄く比較的高温でプレート間の固着が起こりやすいとするアスペリティモデルが提唱され、これが高い地震カップリング率と連動型の地震を生じる要因と考えられていた。実際にフィリピン海プレートは年齢が2千万年程度で、南海トラフの沈み込み帯では の観測からプレート間の固着による東海沖・南海沖の広い範囲でプレート間の滑り遅れが確認されている。しかし、逆に連動型地震が起こりにくいとされた古いプレートの境界でスマトラ島沖地震 (2004年)や東北地方太平洋沖地震が発生し、必ずしも当てはまらない例があることも指摘されている。 また、昭和南海地震でも確認されたように、単純な低角逆断層のプレート間地震ではなく、高角逆断層である分岐のスプレー断層の滑りをも伴う可能性も指摘されている。一方、付加体を形成する沈み込み帯では地震は巨大となりやすく、このときの陸側のプレートの沈み込み帯では津波地震が発生しやすいという説がある[8]が、発震機構にはまだ不明な点が多い。将来の発生が予想される南海トラフ沿いの巨大地震の震源域では、固有地震の考えに基づく震源域として東海地震・東南海地震とならぶ大規模地震に位置付けられ、地質学者・地震学者から注目されてきた。地震の特徴として· 中部地方西部、紀伊半島、中国、四国、大阪平野および九州東部に至る広い範囲に及ぶ強震。数分以上の長い地震動。著しい長周期地震動を伴う。· 太平洋沿岸の広い範囲に津波襲来。四国や紀伊半島で特に著しく、数時間から十数時間に亘り何度も押寄せ第3波前後に最大となることが多い。中国の上海やアメリカ西海岸にも到達。· 潮岬、室戸岬付近の隆起、高知平野および土佐湾岸西側付近の沈降など南東上りの傾動を示す地殻変動。足摺岬付近は各地震により隆起、沈降の挙動が異なる。· 地殻変動の結果と推定されるプレートの体積歪みによる地下水位の低下および、道後温泉、南紀白浜温泉、湯の峰温泉などの湧出の一時停止。などが挙げられる。南東上りの地殻変動は低角逆断層のプレート間の滑りで説明されているが、異論もあり、地盤沈下は地震動による地盤の圧縮、岬先端付近の隆起は東西方向の圧縮応力にかかる地震動の結果であり、西南日本外帯の地形に見られる東西性の波曲構造もこの結果によるとする見方もある。歴史地震の記録からは、東海・東南海地震とほぼ同時に連動、または2年程度までの間隔をあけて連動して発生していると考えられてきた(東海・東南海・南海地震)。このような発生パターンや推定される規模も様々で、地殻変動や津波の規模で直近のものを比較すると大きいものから宝永地震>安政南海地震>昭和南海地震の順であった。例えば宿毛市大島の鷣(ハイタカ)神社の石段は宝永地震津波では39段目まで浸水し、安政南海地震では7段目、昭和南海地震では石段まで達しなかった。2011年12月に発表された中央防災会議の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」の中間とりまとめでは、南海トラフで起きると想定される3連動型巨大地震の最大規模として、震源域が従来のほぼ2倍に拡大され、暫定値としてMw9.0の超巨大地震の想定が示された。地震調査委員会等による想定· 2012年1月の地震調査研究推進本部の予測では、30 -~50階建て程度の超高層建物など、固有周期が約3 ~ 5秒の建物が長周期地震動による強い影響を受ける可能性があり、特に大阪平野、奈良盆地、京都盆地、徳島平野、濃尾平野(名古屋市付近)の広い地域で速度50〜100カイン(cm/s)、最上部振幅1m以上の揺れが予想されている。特に東大阪市では南北方向に地面で2m・30階建て高層ビルで2.5m、大阪市舞洲では地面1.5m・30階1.9m、名古屋市の愛知県庁付近で東西方向に地面30㎝・30階40㎝揺れるとする。· 2012年1月の地震調査委員会の公表によれば、マグニチュードは8.4前後、地震発生確率は10年以内は20%程度、20年以内は60%程度、30年以内は90%程度である。
2024年06月17日
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12「日本国憲法公布」・11月3日・日本国憲法(にほんこくけんぽう、にっぽんこくけんぽう、旧字体:日本國憲󠄁法、英: は、現在の日本の憲法。国家形態および統治の組織・作用を規定する。民定憲法として1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。日本国憲法第10章により、同憲法は日本の法体系における最高法規に位置付けられる。昭和憲法(しょうわけんぽう)、あるいは単に現行憲法(げんこうけんぽう)とも呼ばれる。他の多くの国の憲法と同じように、硬性憲法であり人権規定と統治規定を含む。また象徴天皇制や間接民主制、権力分立制、地方自治制度、国務大臣の文民規定が盛り込まれ、加えて戦力放棄、刑事手続(犯罪捜査・裁判の手続)についての詳細な規定等もなされている。1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。 GHQは、占領以来半年、日本の天皇制がいかに根強いものであるかを知り尽くしており、もし天皇制を廃止して共和制を実施したら大混乱をきたし、アメリカの占領統治が収拾不能に陥ることは火を観るより明らかであると認識していたが、ソ連が1946年2月26日に第一回総会の開会が予定されていた極東委員会において、日本に共和制を布くことを決定させて、日本を大混乱に陥れ、それに乗じて北海道侵入を敢行しようと策動し、ソ連、中国、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどによって支持されそうな形勢が現れたという情報をつかんだ。GHQはこれを阻止するために、先手を打って日本の憲法を早急に改正し、天皇の権能を全面的に剥奪して、極東委員会に対しては、日本の民主化は完全に終わり、あえて共和制を布く必要はないとの了解を求め、他方、日本国民に対しては、象徴天皇の名称を憲法に残すことによって、天皇制は存続され、日本の国体は変革されない、と納得させる以外に手はないとの結論に達した。マッカーサー元帥の命令によってわずか1週間で作成された英文の民政局草案を骨子として、連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で、徹夜して1日半で「憲法改正草案要綱」を作成した。民政局草案を起草したのは、民政局長のコートニー・ホイットニーと民政局員のマイロ・ラウエルを中心としたアメリカ人スタッフである。その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、枢密院が10月29日に新憲法案を可決、改正が成立した。極東委員会は1946年10月17日、「日本の新憲法の再検討に関する規定」の政策決定を採択していたが、吉田内閣及び昭和天皇は1946年(昭和21年)11月3日、公布文の上諭を付したうえで日本国憲法を公布した。上諭文は10月29日の閣議で決定し、10月31日昼に吉田総理が上奏し裁可を得た。朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。同憲法は明治憲法と異なり、内閣は憲法・法律の規定を実施するための施行令(政令)を制定することが規定されていた。〔内閣の職務権限〕第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。…六、この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。…新憲法は第100条の規定により、公布から6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。個人の尊厳という日本国憲法の目的を達成するため国民主権の原則を採用し、国民主権に基づいて象徴天皇制を定め、さらに基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という平和主義を定める。また国会・内閣・裁判所の三権分立の国家の統治機構と基本的秩序を定めている。「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の3つは、日本国憲法を特徴付ける三大要素と呼ばれることもある。2017年現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である。2004年(平成16年)10月3日には、施行期間が20973日に達し大日本帝国憲法の施行期間(20972日)を追い抜いた。日本国憲法は、当用漢字表と現代かなづかいの告示より前に公布されたもので、原文の漢字表記は当用漢字以前の旧字体であり、仮名遣いは歴史的仮名遣である。原本は国立公文書館に保管されており、不定期に公開されている。日本国憲法をブルジョア憲法(資本主義憲法)の一種と分類する学者もいる。日本国憲法の理念・基本原理日本国憲法の理念日本国憲法の三つの基本原理(詳細後述)の根底には、「個人の尊厳」(第13条)の理念があるとする学説がある。樋口陽一の1992年の著述では、ジョン・ロックの思想(国民の信託による国政)では人権思想の根もとには個人の尊厳があり、ロックの思想によれば日本国憲法の三大原理の根底に個人の尊厳の理念がある、とされている。
2024年06月17日
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11「第二次農地改革」10月21日・第二次農地改革・一般には、第二次世界大戦後、日本が連合国軍の占領下に置かれた際に、占領政策の重要な一環として実施された「農地改革」(1946~50)をさす。 戦前、日本農業は日本の資本主義経済にとって重要な地位と役割を有した。1940年(昭和15)段階においても、農業就業者は全就業者の41%、農林水産業は全国民所得の24%を占めていた。農業では、農家一戸当り平均経営耕地面積約1ヘクタールと零細農民経営が圧倒的であり、農家の半分は賃労働を主とした兼業農家だった。全耕地の半分は小作地であり、70%の農家は大なり小なり土地を借りる小作農民だった。小作農民は、小作地について収穫米の半分に達する高額現物小作料を徴収され、農業所得では最低限の生活を維持することさえ困難で、生活は貧しく、高利負債にあえぐ者が多かった。農業では生きていけない農民は子女も含めてその多数が低賃金で出稼ぎし、生活を補った。ここでは、零細農民経営、とりわけ高額小作料を負担する小作農民経営から低賃金労働力が生み出され、逆に、その賃金が農家所得を補充することによって零細農民経営と高額小作料が維持存続されるという相互規定関係がみられた。これによって、日本の資本家は農村から低賃金労働力を豊富に調達しえたし、またそれを有力な武器として対外市場を拡大し、アメリカ、イギリスなど先進資本主義国との対立を激化し、やがて戦争へと突入した。 連合国による対日占領の実権は資本主義超大国=アメリカが掌握したが、アメリカとしても、日本が農村を基盤とする低賃金を武器にふたたび脅威を及ぼすことを防止する必要があった。また、対日占領を開始してまもなく、中国や朝鮮で共産主義勢力が急速に勢力を増して政権を掌握していくが、その際、徹底した土地改革による広範な農民の支持の獲得がてことなっていた。また、日本国内でも、生産の著しい低下のもとで、労働・農民運動が高揚し、徹底した土地改革が要求され、共産主義勢力の伸長と相まって政治的危機が進行していた。こういった内外の諸条件に支えられて、地主制度の解体による自作農の広範な創出を目ざす農地改革が、占領政策の重要な一環として断行されることとなった。 農地改革遂行のための法律は、「自作農創設特別措置法」と「農地調整法改正」であり、1946年(昭和21)10月に公布された。それは、同年6月の対日理事会で提案・採択されたイギリス案を骨子としたものである。 そのおもな内容は次のとおりである。[1]不在地主の小作地はすべて、在村地主の小作地は、北海道4ヘクタール、都府県平均1ヘクタールを超える部分を国が買収する。[2]農地の買収価格は、田は賃貸価格の40倍(10アール当り平均750円)、畑は48倍(平均450円)とし、農地証券で支払う。[3]国は買収農地を小作人に直接売り渡す。その際、小作農は24年年賦の低利資金の融資を受けることができる。[4]農地の買収・売渡しを二か年で終える。[5]農地の買収・売渡し計画の立案・審議、紛争処理の機関として地方自治体に農地委員会を置く。市町村農地委員会は小作5、地主3、自作二の委員構成とし、階層別選挙により委員を選出する。[6]小作料は定額金納とし、最高小作料率は収穫物価額の25%(田)、15%(畑)とする。[7]小作農が「信義に反した行為」をするなど「正当の事由」がない限り、地主はかってに賃貸借契約を解除することはできない、などである。 すでに1920年代以降、小作争議が激化し、さらに戦時に入って社会平和と農業生産力増進の必要が強く叫ばれるようになった段階に、自作農創設政策は登場していた。また、現実には実施されなかったが、終戦直後の45年12月、占領軍とは独自に農地改革案が政府の手でつくられた(「農地調整法改正」、通称第一次農地改革案)。だが、そのいずれと対比しても、実施された農地改革は、地主的土地所有の解体とそれによる自作農の創設という点でははるかに徹底しており、その間に大きな断層が認められる。 この農地改革によって、かつての小作地(1945年で244万8000ヘクタール)の80%に及ぶ194万2000ヘクタールの農地が解放され、小作農に売り渡された(うち、買収=175万7000ヘクタール、財産税物納による「管理換」=18万5000ヘクタール)。解放農地の6割は在村地主、4割は不在地主の所有地であった。 改革前には全農地の46%、田の53%が小作地であったが、改革後(1949)にはそれぞれ13%、14%に激減した。地主保有地として残った「残存小作地」についても、小作料は低く抑えられ、小作農の小作料負担は著しく軽減され(小作料率は1950年代後半でも5~6%)、耕作権も強化された。そして、改革前には自作農は全農家の28%にすぎなかったが、改革後は55%と過半を占めるに至り、逆に、農地をまったくもたぬ小作農は28%から8%に著減し、大なり小なり農地を小作している小自作・自小作農家も改革前の41%から改革後には35%に減った。
2024年06月17日
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8「第一次吉田内閣誕生」5月22日・第1次吉田内閣(だいいちじ よしだないかく)は、外務大臣・貴族院議員の吉田茂が第45代内閣総理大臣に任命され、1946年(昭和21年)5月22日から1947年(昭和22年)5月24日まで続いた日本の内閣である。 これが旧憲法下で天皇から組閣の大命を受けて発足した最後の内閣となった。吉田茂内閣の顔ぶれは下記の通りである。内閣総理大臣・吉田茂・45代・貴族院・外務大臣・日本自由党。外務大臣・吉田茂・56代・貴族院・総理大臣と兼任・日本自由党総裁・内務大臣・大村清一・65代・内務省・初入閣。大蔵大臣・石橋湛山・50代・民間・初入閣。復員大臣・吉田茂・2代・貴族院・総理兼任・司法大臣・木村篤太郎・47代・司法省・初入閣。文部大臣・田中耕太郎・61代・民間・初入閣。厚生大臣・河合良成・15代・貴族院・・初入閣。農林大臣・和田博雄・4代・農林省・初入閣。。商工大臣・星島二郎・3代・衆議院・初入閣。逓信大臣・一松定吉・1代・日本進歩党・転任。国務大臣・幣原喜重郎・日本進歩党・日本進歩党総裁。国務大臣・上原悦二・衆議院・日本進歩党・初入閣。国務大臣・金森徳次郎・貴族院・憲法改正担当・初入閣。国務大臣・膳桂之助・貴族院・初入閣。「吉田 茂」(よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 – 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。外務大臣(第 73・ 75・ 78・79 代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代)などを歴任した。東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、および1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田と安倍晋三の2人のみである。政治活動以外の公的活動としては、廃止された神宮皇學館大學の復興運動に取り組み、新制大学として新たに設置された皇學館大学において総長に就任した。また、二松学舎では、金子堅太郎の後任として学校法人の理事長にあたる舎長に就任した。なお、内務官僚を経て貴族院議員となり、米内内閣の厚生大臣や小磯内閣の軍需大臣を務めた吉田茂は、同時代の同姓同名の別人である。生い立ち1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)[注 1]に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。実母の身元はいまでもはっきりしない。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。吉田の実父と義父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった。1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。養父・健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した[2]。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などといっている。学生時代少年期は、大磯町西小磯で義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科、学習院大学の前身)を卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まったが、大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。
2024年06月17日
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7「食糧メーデー」5月19日・食料メーデー。飯米獲得人民大会(はんまいかくとくじんみんたいかい)とは、1946年(昭和21年)5月19日に、日本の東京都千代田区の皇居(宮城)前で行われた、日本国政府の食糧配給遅延に抗議する集会であった。食糧メーデーとも呼ばれる。第二次世界大戦後の社会主義運動の高まりによって、最大で25万人が集結した。集会の開催は、太平洋戦争敗戦による食糧・衛生事情悪化と、労働力が出兵したことによる農産物の不作、流通経路の破壊、加えて前年の収穫期を襲った台風の被害によって、国の食糧配給が滞っていたことが背景にある。国民は闇市などで食糧を買い求めたが、需要過多によって価格は暴騰し、失業者のあふれる市街地は問題が特に深刻であった。東京での配給は10日に1度までに落ち、各地で「米よこせ大会」が巻き起こっていた。一方、1945年10月に徳田球一ら共産主義者が釈放されたことにより、日本共産党(以下、共産党と略記)が再結成されたほか、日本社会党(以下、社会党と略記)が支持者を急速に拡大しており、日本全体に社会主義運動の拡大の兆しがあった。ある程度の労働者の意識向上によって、米国式の民主主義を植えつけようとしていた GHQSCAPにとっては、この段階はまだ理想的な状況であった。1946年4月10日に新選挙法による第22回衆議院議員総選挙が行われ、保守の自由党が第一党となって、総裁の鳩山一郎が社会党の閣外協力を含めて組閣の準備に入った。社会党は第三党であった。ところが、GHQ/SCAPは、鳩山を公職追放にすることを決定した。そこで自由党は吉田茂を後継に指名し、5月16日に吉田に組閣の大命が下った。しかし、この間の5月1日に日本で11年ぶりのメーデーが行われており、(主催者発表で)100万人以上の労働者が集結して民主人民政府の設立や食料の人民管理を決議していた。吉田は反共主義で知られ、社会党の協力はありえなかった。大会開催5月19日、宮城前広場に25万人が集結し、食糧要求を訴える集会を行った。労働者代表として聴濤克巳と鈴木東民などが挨拶し、世田谷区の主婦代表の永野アヤメがおんぶ姿で劣悪な食糧事情の現状を訴えた。続いて集団はデモ行進に移った。この際、共産党員の松島松太郎はプラカードに昭和天皇を批判する文言を掲げたため、大会の3日後に警察から出頭を命じられたがこれを拒否し、最終的に6月14日に不敬罪で逮捕されている(プラカード事件)。デモ隊は3つの集団に分かれ、聴濤の率いる集団は坂下門から宮城内に突入し、天皇への面会を要求したが、犬山宮内省総務課長が拒否した。そこで、聴濤らは「天皇に食糧事情改善のため、人民の総意を汲み取り、適切な指導をするように願う」旨の上奏文を犬山に渡して撤収した。別のデモ隊は、社会党の鈴木茂三郎や共産党の徳田に率いられて、総理大臣官邸の吉田茂内閣総理大臣に面会を求めた。このとき、吉田は東京大学教授の東畑精一を農林大臣に据えようと説得していたが、東畑は拒否していた。そもそも国内の食糧総生産量が人口に見合わず、戦前は台湾や朝鮮半島から輸入していたため、また外地からの復員の分、人口が増えるわけであり、満足な供給には無理があった。農民も復員してきているとは言え、今すぐに食糧が増えるわけではなく、誰が大臣になっても解決策は無かった。GHQの声明大会翌日の5月20日、GHQ最高司令官マッカーサーは「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」と声明を出し、社会党と共産党を牽制した。天皇の声明昭和天皇は、5月24日に『祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟をあらたにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならない』という「おことば」を述べたラジオ放送を行った。プラカード事件この大会の際、日本共産党員の松島松太郎が天皇の飽食を揶揄するプラカードを掲げ、不敬罪の容疑で逮捕された。天皇の特別扱いを嫌うGHQは、日本国政府に圧力をかけ、名誉毀損罪の訴追に変更させた。1946年11月の恩赦により松島は釈放されたが、松島は控訴を続けた。影響デモを「暴民」と位置づけるGHQ声明に対して組合と左翼陣営は大きなショックを受け、以後の民衆運動を萎縮させる効果をもたらした。事件の翌日、マッカーサーは首相の吉田に対して、アメリカが日本に食糧支援をすることを約束した。これにより難航していた吉田の組閣が可能になった。内閣総理大臣吉田茂は、農林大臣に革新官僚の和田博雄農政局長を据え、5月22日に組閣を終えた。また、同年は幸いなことに気候が安定し、豊作となったため、翌年以降の危機は回避された。
2024年06月17日
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7「極東軍事裁判」5月3日・東京裁判。極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。この裁判は連合国によって東京に設置された極東国際軍事法廷により、東条英機元内閣総理大臣を始めとする、日本の指導者28名を、「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて 行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、人道に対する罪(C級犯罪)および通常の戦争犯罪(B級犯罪)の容疑で裁いたものである。「平和に対する罪」で有罪になった被告人は23名、通常の戦争犯罪行為で有罪になった被告人は7名、人道に対する罪で起訴された被告人はいない。裁判中に病死した2名と病気によって免訴された1名を除く25名が有罪判決を受け、うち7名が死刑となった。日本政府及び国会は1952年(昭和27年)に発効した日本国との平和条約第11条によりこのthe judgmentsを受諾し、異議を申し立てる立場にないという見解を示している[3]。詳細は日本国との平和条約第11条の解釈参照。戦犯裁判までの経緯「ニュルンベルク裁判#前史」および「国際軍事裁判所憲章」も参照アメリカの対日政策裁判方式1944年8月から終戦以降の政策方針と敗戦国の戦争犯罪人の取り扱いについて議論された。ヘンリー・モーゲンソー財務長官はナチス指導者の即決処刑を主張し、他方、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は「文明的な裁判」による懲罰を主張した。アメリカの新聞はモーゲンソーの即決処刑論を猛攻撃し、ルーズベルト大統領も裁判方式を支持することとなった。スティムソンは裁判は「報復」の対極にあるとみなしていた。国務・陸軍・海軍三省調整委員会極東小委員会アメリカ対日政策を検討する機関として1944年12月に国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が設立された。さらにその下位組織極東小委員会が1945年1月に設立され、日本と朝鮮の占領政策案が作成された。戦犯裁判方式にするか、指導者の処刑方式かの検討もなされ、1945年8月9日報告書(SFE106)では対独政策を踏襲し、「共同謀議」の起訴を満州事変までさかのぼること、日本にはドイツのような組織的迫害の行為はなかったので人道に対する罪を問責しても無駄であると報告された。8月13日の会議では日本に対しても平和に対する罪、人道に対する罪の責任者を含めることが合意され、8月24日のSWNCC57/1で占領軍が直接逮捕をし、容疑者が自殺で殉教者になることを防ぐ、連合国間の対等性を保障し各国が首席判事を出すこと、判決の権限はマッカーサーにあるとされた。連合国戦争犯罪委員会による対日勧告また、1943年10月20日に17カ国が共同で設立した連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)は戦争犯罪の証拠調査を担当する機関であったが、終戦期には政策提言などを行うようになっており、オーストラリア代表ライト卿が対日政策勧告を提言し、1945年8月8日には極東太平洋特別委員会を設置し、委員長には中華民国の駐英大使顧維鈞が就任し、8月29日に対日勧告が採択された。SWNCC57/3指令アメリカ統合参謀本部がJCS1512、またアメリカ合衆国内の日本占領問題を討議する国務・陸軍・海軍調整委員会が1945年10月2日にSWNCC57/3指令をマッカーサーに対して発し、日本における戦犯裁判所の設置準備が開始された。しかし、ダグラス・マッカーサーはこうした「国際裁判」には否定的で、「57/3指令を公表すれば、日本政府がダメージを受けて直接軍政をせざるをえない、東条英機を裁く権限を自分に与えるよう1945年10月7日の陸軍宛電報でのべ、アメリカ単独法廷を主張し、ハーグ条約で対米戦争を裁くことによって「戦争の犯罪化」に反対した。GHQ参謀第二部部長ウィロビーによれば、マッカーサーが東京裁判に反対したのは南北戦争で南部に怨恨が根深く残ったことを知っていたからとのべている。スティムソン、マクロイ陸軍次官補らはマッカーサーの提言を採用せず、57/3指令の国際裁判方針を固守した。イギリスイギリス外務省はアメリカの対日基本政策に対して消極的で、日本人指導者の国際裁判にも賛同していなかった。もともとイギリスは、1944年9月以来、ドイツ指導者の即決処刑を米ソに訴えていた。イギリスは、裁判方式は長期化するし、またドイツに宣伝の機会を与えるし、伝統的な戦犯裁判は各国で行えばよいという考えだった。結局英国は、1945年5月に、ドイツ指導者の国際裁判に同意した。ただし、この時点でもまだ日本指導者の国際裁判には同意していなかった。のち、イギリス連邦政府自治省およびイギリス連邦自治領のオーストラリアやニュージーランドによる裁判の積極的関与をうけたが、イギリスは1945年12月12日、アメリカに技術的問題の決定権を委任した。
2024年06月17日
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「総選挙婦人議員39人誕生」4月10日・総選挙婦人議員39人誕生。女性参政権(じょせいさんせいけん)とは、女性が直接または間接的に国や地方自治体の政治に参加するための諸権利のこと。かつて婦人参政権(ふじんさんせいけん)と呼ばれていた用語を現代的に言い換えた表現である。18世紀末のフランス革命で、普通選挙が実現したが、参政権が付与されたのは男性のみであった。欧米社会にあっても、社会参加は男性が行い、女性は男性を支えていればよいとの意識が強かった。女性参政権は19世紀後半にごく一部で実現したが、欧米において女性参政権が広まったのは20世紀に入ってからであった。世界初の恒常的な女性の参政権は、1869年にアメリカ合衆国ワイオミング州で実現した(ただし選挙権のみ)。1871年にフランスのパリ・コミューンで短期間ながら女性参政権が実現された。被選挙権を含む参政権の実現は1894年のオーストラリア南オーストラリア州が世界初である。女性参政権は20世紀を通してほとんどの国で認められるようになった。ヨーロッパで比較的遅いスイスでは、1971年(連邦レベル)、1991年(全土)であった。21世紀に入ってからはそれらの国々でも女性参政権が徐々に認められてきており、現在でも純粋に女性参政権を認めていない国は、サウジアラビアとバチカン市国などである。日本日本の「婦人参政権運動(婦人運動)」の中では、A 国政参加の権利、衆議院議員の選挙・被選挙権。B 地方政治参加の権利、地方議会議員の選挙・被選挙権(公民権)。C 政党結社加入の権利(結社権)。の3つを合わせ、「婦選三案」あるいは「婦選三権」と呼ばれてきた。日本における女性参政権獲得までの歴史日本で普通選挙が実現したのは、1925年(大正14年)であった。しかし、フランス革命当時の欧米と同じように、男性のみの参政権が明文化された。日本の婦人運動は、戦争の激化による中断はあるものの明治末年からの歴史を有し、女性の中には政治的権利を希求する意識が醸成されていた。明治の末年から大正デモクラシーの時期にかけて、女性参政権を求める気運が徐々に高まってくる。堺利彦、幸徳秋水らの「平民社」による治安警察法改正請願運動を嚆矢として、平塚らいてうの青鞜社結成を経て、平塚と市川房枝、奥むめおらによる新婦人協会(1919年)や、ガントレット恒子、久布白落実らによる日本婦人参政権協会(1921年、後に日本基督教婦人参政権協会)が婦人参政権運動(婦人運動)を展開。続いて各団体の大同団結が図られ、婦人参政同盟{日本婦人協会}(1923年)<理事山根キク>、婦人参政権獲得期成同盟会(1924年、後に婦選獲得同盟と改称)が結成、さらに運動を推進した。これらの運動は、戦前の日本において、女性の集会の自由を阻んでいた治安警察法第5条2項の改正(1922年)や、女性が弁護士になる事を可能とする、婦人弁護士制度制定(弁護士法改正、1933年)等、女性の政治的・社会的権利獲得の面でいくつかの重要な成果をあげた。1931年には婦人参政権を条件付で認める法案が衆議院を通過するが、貴族院の反対で廃案に追い込まれた。その後、市川は戦争遂行の国策に協力することで女性の政治地位向上を目指し、婦人参政権運動団体は最終的に大日本婦人会へ統合され、市川は大日本言論報国会の理事として活動した。これは戦後に市川の公職追放理由となった。1945年9月20日、沖縄戦の後からアメリカの軍政下にあった沖縄本島の収容所で行われた市会議員選挙で、女性に参政権が認められ選挙が行われた。日本本土では第二次世界大戦後の1945年10月10日幣原内閣で婦人参政権に関する閣議決定がなされた。翌10月11日、幣原内閣に対して連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーが行った五大改革の指令(「日本の戦後改革」を参照)には「参政権賦与による日本婦人の解放」が盛られていた。また、終戦後10日目の1945年(昭和20年)8月25日には、市川房枝らによる「戦後対策婦人委員会」が結成され、衆議院議員選挙法の改正や治安警察法廃止等を求めた五項目の決議を、政府及び主要政党に提出。同年11月3日には、婦人参政権獲得を目的とし、「新日本婦人同盟」(会長市川房枝、後に日本婦人有権者同盟と改称)が創立され、婦人参政権運動を再開している。1945年11月21日には、まず勅令により治安警察法が廃止され、女性の結社権が認められる。次に、同年12月17日の改正衆議院議員選挙法公布により、女性の国政参加が認められる(地方参政権は翌年の1946年9月27日の地方制度改正により実現)。1946年(昭和21年)4月10日の戦後初(かつ帝国議会最後)の衆議院選挙(第22回衆議院議員総選挙)の結果、日本初の女性議員39名が誕生する。そして、同年5月16日召集の第90特別議会での審議を経て、10月7日に大日本帝国憲法の全面改正案が成立し、第14条の「法の下の平等」で女性参政権が明確に保障された日本国憲法が同年11月3日公布、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
2024年06月17日
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5「片岡仁左衛門一家殺害事件」3月16日(かたおかにざえもん いっか さつがい じけん)は、1946年(昭和21年)3月に発生した殺人事件である。1946年3月16日、東京都渋谷区千駄ケ谷で歌舞伎役者・十二代目片岡仁左衛門一家5人が殺害されているのが見つかる。殺されたのは、片岡仁左衛門(当時65歳)、その妻で元日活女優の小町とし子(当時26歳)、四男(当時2歳)、女中2人(当時12歳と当時69歳)である。5人とも頭を薪割り用の斧で殴られていた。特にとし子は頭部をめった打ちにされていた。捜査線上に浮かんだのは、殺害された女中(当時12歳)の兄・X(当時22歳)で、事件直後から行方が分からなくなっていた。捜査本部はXを指名手配。3月30日、逃亡先の宮城県川渡温泉で逮捕された。捜査によって、Xは仁左衛門宅に座付見習作家として住み込みで働いていたが、戦後間もない当時の食料事情の悪さなどから配給米を不当に搾取され、1日2食(合計米1号3勺程度)しか与えられていなかったことと、とし子との諍いや、事件直前に仁左衛門がXを「座付き作家としてセンスがない」などと罵倒したことが犯行の動機になったと伝えられている。また、Xは薪を使った炊き出しをさせられていたのに対し、夫妻は電気コンロを使って蓄えた米をたくさん食べていた。さらに事件前日にはこれまで渡していた配給米をメリケン粉に変えるととし子から告げられたうえ、夫妻と口論になって仁左衛門から「今夜原稿を書いたら出て行け!」と怒鳴られた。そしてせっかく出した原稿も「これでも作家か!」と罵倒され、憤激を抱えたままXは床に就いた。その翌日の早朝便所に行った後、薪割り用の斧につまずいた後で5人を殺害したという。そしてXは台所にあった米飯とザラメを食べ、国民服に着替えたうえ家にあった現金を盗んで現場から逃走した。Xはそれまでに精神障害の既往はなかったが、取り調べで事件当時から逃走に至るまでの記憶が欠落していることが明らかとなったため東京大学医学部精神科教授の内村祐之による精神鑑定が行われた。鑑定結果は、激しい情動のため一時的な意識障害をおこしていたことを示唆するものであった。一方内村とは別に精神鑑定を行った菊池甚一は、少なくとも2人目以降の殺人については一時的に精神病状態であったと結論づけた。1947年10月22日、Xは無期懲役の判決を受けた。求刑は死刑であり、5人を残虐な手段で殺害しており、責任能力が認められれば死刑相当の事件であった。この刑について、一般には精神鑑定により心神耗弱状態だったと認定されたためとの説が流布されているが、実際の判決では全ての行為について責任能力を肯定すべきであるとしており、内村、菊池いずれの鑑定も採用されていないし、刑法39条の適用もしていない。それにも係わらず死刑判決にならなかったのは、低栄養や片岡家における葛藤、犯行前夜からの紛争、不眠等の理由で、Xの感情が著しく興奮して安定を失っていたことを考慮したものとのことである。Xのその後については現在も明らかにされていない。
2024年06月17日
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4「天皇の神奈川県巡幸」2月19日・天皇、神奈川県巡幸。昭和天皇 焦土の街歩いた 戦前、「現人神(あらひとがみ)」とされた昭和天皇は、終戦後の1946年、「人間宣言」をし、焦土と化した国土を歩き始めた。「巡幸」と呼ばれるその「旅」の出発点となったのが神奈川だ。焼け野原から奇跡の復興へ。巡幸はまさに戦後日本の出発点ともなった。 46年2月19日午前9時、宮城(きゅうじょう)(皇居)を自動車で出発した昭和天皇一行は、昭和電工川崎工場(川崎市)を訪ねた。爆薬の原料となる硝酸や海軍向けの溶接用酸素を作っていた同工場。度重なる空襲で壊滅的な打撃を受けたが、早くも化学肥料・硫安の生産を再開していた。背広にグレーのコート姿の昭和天皇は、工員などに「なにか生活に不自由はないか」などと言葉をかけ、「あっ、そう」とうなずいた。「あっ、そう」は流行語にもなった。 県内の巡幸は川崎工場を皮切りに、日産重工業横浜工場、県庁、大口商店街(横浜市)などと続き、翌20日も横須賀の復員軍人や引き揚げ者の収容施設などを訪ねた。 明治憲法で「天皇は神聖にして侵すべからず」と神格化されたが、敗戦から4カ月余りの46年1月1日、年頭詔書(人間宣言)で昭和天皇は神格を否定。「共に在り」とした国民との距離を少しでも埋めるかのように、巡幸先の各地で話しかけた。 横浜市旭区の石川啓次郎さん(81)は、2月19日の稲荷台共同宿舎(横浜市西区)への巡幸の際、昭和天皇に話しかけられた体験を持つ。当時、西前国民学校5年生だった石川さん。学校の先生から昭和天皇が横浜に来ることを知らされ、友人らと見に行った。両手のしもやけがひどく、母親から「粗相がないように」と渡された軍手を両手にはめ、寒さに耐えながら1時間ほど待ったという。 「シーンと静かに、みんなでただお辞儀をしていた」という中、昭和天皇は石川さんの前で立ち止まって帽子を取り、「家は焼けましたか」「学校の道具は焼けなかったのか」と尋ね、石川さんは無我夢中で答えたという。巡幸で声をかけられた最初の児童となり、そのやりとりは翌日の朝日新聞などに取り上げられた。 「戦前は神ですから、昭和天皇との距離感が分かりませんでしたね。街はバラックばかりで、まだ混沌(こんとん)としていましたが、巡幸で昭和天皇を間近で見て、戦後が始まったという気がしましたね」と石川さん。児童向けの新聞に感想文を記すと、全国の同世代の子どもから手紙が届き、数カ月間返信を書き続けたという。 神奈川から始まった巡幸は、米国の施政権下にあった沖縄を除き、約3万3千キロに及んだ。55年夏の記者会見で、昭和天皇は「直接に国民を慰め、あるいは復興の努力を激励したいと思った」と動機を語っている。歴史家の成田龍一・日本女子大教授(日本近現代史)は、巡幸は「天皇への人々の感情の観測」とともに、連合国軍が最初に上陸した神奈川から始まったことで、「連合国軍と天皇との関連を可視化させた」と見る。維新期の明治天皇の巡幸と同じく、「体制安定への天皇の関与の訴えを戦後に再現した」とし、「戦後と戦前の連続性と非連続性が凝縮してあらわれた」と指摘する。 54年8月の北海道への訪問で、8年をかけた計165日の戦後巡幸を終えた。唯一、沖縄訪問の望みは生涯かなわなかった。巡幸を終える2年前の52年、日本は沖縄などを切り離したまま、サンフランシスコ講和条約の発効で、連合国の占領から独立。56年、日本は国連に加盟し、国際社会への復帰を果たす。同じ年、政府の経済白書は「もはや戦後ではない」と記した。
2024年06月17日
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3「GHQの公職追放指令」1月4日・GHQ、軍国社等を公職追放を指令。公職追放(こうしょくついほう)は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本が太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された占領政策をいい、本項で扱う。「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」を参照日本政府が1945年(昭和20年)9月2日に「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」とあるポツダム宣言第6項の宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印し、同年9月22日にアメリカ政府が「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」を発表し、第一部「究極の目的」を達成するための主要な手段の一つとして「軍国主義者の権力と軍国主義の影響力は日本の政治・経済及び社会生活により一掃されなければならない」とし、第三部「政治」と第四部「経済」の中でそれぞれ「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を規定していた。同年10月4日のGHQの「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」で警察首脳陣と特高警察官吏の追放を指令し、同年10月22日の「日本の教育制度の行政に関する覚書」及び同年10月30日の「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」で軍国主義的又は極端な国家主義的な教職員の追放を指令した。1946年(昭和21年)1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」を追放することとなった。A 戦争犯罪人B 陸海軍の職業軍人C 超国家主義団体等の有力分子D 大政翼賛会等の政治団体の有力指導者E 海外の金融機関や開発組織の役員F 満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官G その他の軍国主義者・超国家主義者上記の連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。公職追放者は公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために動静について政府から観察されていた。一方、異議申立に対処するために1947年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(1948年3月に廃止、内閣が一時担当した後に1949年2月復置)、1948年に楢橋渡、保利茂、棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になった。これは当初のアメリカの日本の戦後処分の方針であるハード・ピース路線として行われた。逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、保守勢力の議席を守ったケースも多い。GHQ下で長期政権を務めた吉田内閣時代は名目は別にして実質としては吉田茂首相とソリが合わなかったために公職追放になったと思われた事例について、公職追放の該当理由がA項からG項までに区分されていたことになぞらえ、吉田のイニシャルをとってY項パージと揶揄された。その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化し、さらに大陸では国共内戦や朝鮮戦争などで共産主義勢力が伸張するなどの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(逆コース)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わった(レッドパージ)。また、講和が近づいた1949年、再び公職資格訴願審査委員会が設置。32089人の申請が受理されたが、1950年10月に発表された第一次追放解除者は10090人に留まったこの際、石井光次郎・安藤正純・平野力三ら政治家及び旧軍人らの一部も解除されている。翌1951年5月1日にマシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めた。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われた。公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(公職追放令廃止法。
2024年06月17日
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2「天皇の人間宣言。」1月1日・人間宣言(にんげんせんげん)は、連合国占領下の日本で1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書で、正式名称は『新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ』(しんねんニあたリちかいヲあらたニシテこくうんヲひらカントほっスこくみんハちんトこころヲいつニシテこノたいぎょうヲじょうじゅセンコトヲこいねがフ)。「人間宣言」は当時の日本のマスコミや出版社がつけた通称。詔書内には「人間」「宣言」という文言は一切ない。詔書の後半部には「天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定した」と解釈される部分がある。その部分を指して「人間宣言」と呼ぶこともある。詔書の概要「日本の民主主義は日本に元々あった『五箇条の御誓文』に基づいていること」を示すのが、昭和天皇による詔書の主な目的だった。「人間宣言」については最終段落の数行のみで、詔書の6分の1しかない。その数行も既成事実を確認するのみで、特に何かを放棄しているわけではない。いわゆる「人間宣言」についての記述は以下の通りである。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ— 『新日本建設に関する詔書』より抜粋このGHQ主導による詔書により、「天皇が神であることが否定された」とされる。しかし、「天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であること」を否定していない。歴代天皇の神格も否定していない。神話の神や歴代天皇の崇拝のために天皇が行う神聖な儀式を廃止するわけでもなかった。起草の経緯ポツダム宣言受諾による日本の降伏から4か月余り、日本はGHQの占領下にあるとはいえ、大日本帝国憲法の施行下にあった。1945年(昭和20年)12月15日、GHQの民間情報教育局 (CIES) 宗教課は、国家ないし政府が神道を支援・監督・普及することを禁止する「神道指令」を発した。さらに、「天皇は他国の元首より秀でた存在で、日本人は他の国民より優れている」といった教説を教えることを非合法化した。しかし、天皇が皇居で執り行う神道に基づく宗教儀式(宮中祭祀)はあくまで私的な事柄とされて、禁じられなかった。占領当局は天皇自身で自分の神格を否定してほしいと期待したため、神道指令では天皇の神格について言及しなかった。自分を神と主張したことのない昭和天皇は、占領当局の意向に同意した。宮内省(後に宮内府、現在の宮内庁へ改編)は、学習院に英語教師として赴任していたレジナルド・ブライスに、占領当局が納得するような案文を練るよう依頼した。ブライスはGHQの教育課長で日本文化の中でも俳句の造詣が深かったハロルド・ヘンダーソンに相談し、二人は人間宣言の案文を作成した。· 12月23日、昭和天皇は、木下道雄侍従次長に対し、前日進講した板沢武雄・学習院教授の講義の内容について語った。板沢の講義は「マッカーサー司令部の神道に関する指令について」と題するもので、昭和天皇が語ったところによれば、最後の結びの言葉は「この司令部の指令は、顕語を以て幽事を取り扱うものでありまして、譬えて申しますならば、鋏を以て煙を切るようなものと私は考えております」というものだった。· また、昭和天皇は、興味を引いた点について、「後水尾帝御病にて疚(きゅう)の必要ありしも、現神には疚を差上ぐる訳には行かぬと云う所から御譲位の上、治療を受け給いしこと」、「徳川氏が家康を東照宮と神格化し、家康の定めたることは何事によらず神君の所定となし、改革を行わず、時のよろしきに従う政事を行わず、遂に破局に至りしこと」、「幽顕二界のこと。謡曲の発達、君臣の濃情を言い現わせる謡曲はかえって皇室衰微の時代に発達せること。顕界破れて幽界現われたること」の3点を挙げた。· また、天皇は、23日にマッカーサー司令部の高級幕僚たちと鴨猟を行う予定であった石渡荘太郎・宮内大臣に命じて、板沢の話を高級幕僚たちにも聞かせようと考えたが、石渡がすでに鴨場へ出発していたため断念した。· 12月24日、昭和天皇は幣原喜重郎内閣総理大臣を召して、「ご病気の後水尾天皇が側近に医者を要請されたところ、医者の如き者が玉体にふれることは、汚らわしいとの理由でおみせしなかったそうだ。· 同天皇はみすみす病気が悪化して亡くなられた」という歴史的実例を挙げて、神格化の是非について暗示した。また、昭和天皇は、「(自身の祖父にあたる)明治天皇の五箇条の御誓文を活用したい」とも話した。· これに対し幣原は「これまで陛下を神格化扱いしたことを、この際是正し改めたいと存じます」と答え、昭和天皇は静かに肯定し「昭和21年(1946年)の新春には一つそういう意味の詔書を出したいものだ」と言った。
2024年06月17日
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「戦後日本の回想・S21年」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「天皇の人間宣言」・・・・・・・・・・・・・・・33、 「GHQの公職者追放の指令」・・・・・・・・・・104、 「天皇の神奈川県巡幸」・・・・・・・・・・・・・265、 「片岡仁左衛門一家殺害事件」・・・・・・・・・286、 「総選挙で婦人議員39人誕生」・・・・・・・・・317、 「極東軍事裁判」・・・・・・・・・・・・・・・・378、 「食糧メーデー」・・・・・・・・・・・・・・・・549、 「第一次吉田内閣誕生」・・・・・・・・・・・・・5910、 「小平事件」・・・・・・・・・・・・・・・・6911、 「第二次農地改革」・・・・・・・・・・・・・・7412、 「日本国憲法公布」・・・・・・・・・・・・・・7913、 「南海地震」・・・・・・・・・・・・・・・・・9614、 「昭和21年世情・社会状況」・・・・・・・・・10615、 「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・141 1、「はじめに」戦後の間もない昭和21年は瓦礫と廃墟と化した国土の再建と、衣食住の食糧難が国民に敗戦という重苦しい国民の心に大きな重荷となって死にものぐるいで、形振り構わず、ただ今日一日を懸命に生きる。闇市は全国的に乱立、大日本帝国の価値観の転倒、アメリカに追準するほか成すすべがなかった。進駐軍に媚びて物乞いまがいの誇りを捨てての生き残りであった。GHQは戦前の軍部責任執行者・政治家などを「公職追放の処分をした。所が治安・公的処理が不全になって国家運営が滞り、その後、徐々に公職に復帰させていった。国民はアメリカ的民主主義を理解して、それなりの自由主義を理解をしていった。文化芸術は思想的理由で迫害されていた左翼と言われる人々の自由な表現ができるようになっていった。左翼労働者の共産党は潜行して活動から、堂々と表面に出て活動の場を与えられ、GHQも労働者や労働組合運動を理解を持って応じていた。何より戦後日本人の娯楽の面で戦前になかった視野が広まっていったが、食料品や生活必需品は慢性的に困窮し、栄養失調に日々の食料品に闇市や闇米によって流通していった。筆者は進駐軍の脱脂粉乳を飲んだ子供の一人である。当時の食糧難の時代でも脱脂粉乳の不味さは未だに忘れられない。
2024年06月17日
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羅生門・映画・『羅生門』(らしょうもん)は、1950年(昭和25年)8月26日に公開された日本映画である。大映製作・配給。監督は黒澤明、出演は三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬。モノクロ、スタンダード、88分。芥川龍之介の短編小説 『藪の中』と『羅生門』を原作に、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取った。舞台は平安時代の乱世で、ある変死事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿をそれぞれの視点から描き、人間のエゴイズムを鋭く追及した。自然光を生かすためにレフ板を使わず鏡を使ったり、当時はタブーとされてきた太陽に直接カメラを向けるという撮影を行ったり、その画期的な撮影手法でモノクロ映像の美しさを極限まで映し出している。撮影は宮川一夫が担当し、黒澤は宮川の撮影を「百点以上」と評価した。音楽は早坂文雄が手がけ、全体的にボレロ調の音楽となっている。日本映画として初めてヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞し、黒澤明や日本映画が世界で認知・評価されるきっかけとなった。本作の影響を受けた作品にアラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』などがある。2008年(平成20年)から角川映画、映画芸術科学アカデミー、東京国立近代美術館フィルムセンターの3社によってデジタル復元が行われ、2010年(平成22年)に3社に対して全米映画批評家協会賞の映画遺産賞が贈られた。あらすじ打ち続く戦乱と疫病の流行、天災で人心も退廃を極めた平安時代の京の都。荒れ果てた羅城門で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。まず、金沢を殺した下手人として盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は、山で侍夫婦を見かけた際に真砂の顔を見て欲情し、金沢を騙して捕縛した上で、真砂を手篭めにしたことを語る。その後、凛とした真砂が両者の決闘を要求し、勝った方の妻になると申し出たことから、多襄丸は金沢と正々堂々と戦い、激闘の末に金沢を倒したという。ところが、その間に真砂は逃げており、短刀の行方も知らないと証言する。次に真砂の証言が始まる。手篭めにされた後、多襄丸は金沢を殺さずに逃げたという。真砂は金沢を助けようとするが、眼前で男に身体を許した妻を金沢は軽蔑の眼差しで見据え、その目についに耐えられなくなった真砂は自らを殺すように懇願した。
2024年06月16日
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14「昭和25年の世情と社会状況」・●朝鮮戦争特需景気・特需景気(とくじゅけいき)とは、好景気の通称で何らかの社会現象など他の要因に牽引される形で、特定地域の経済が大幅に活性化することをいう。単に特需(とくじゅ・特別な需要の略)とも。特需景気は、他の地域で発生した社会現象なり事件なりに関連する形で発生する需要によってそれら必要とされる物品などの市場価値が上がり、好景気を博することではあるが、一般に特需景気として語られる過去の現象の中には、単純に特定事象のみによって発生した訳ではなく、他の要因も関連している景気上昇も含まれる。特需とされる場合の例では、他にとっては非常に経済的な損失を発生させる戦争であっても、軍需産業の側にすれば「製品を使ってもらえる良い機会」である。また直接戦争で消費される兵器関連の産業だけではなく軍事活動で需要が増大する鉄鋼・エネルギー・食料・繊維など様々な方面に国家予算が投下され、それらに関連する企業に利益をもたらす。実際の例では第二次世界大戦開戦前後において世界恐慌により冷え込んだ経済界は軍需景気を期待した(→大戦景気)。特需景気の問題ただ特需景気に軍需景気にしろ一過性の好景気に過ぎない場合がほとんどであるため、この特需の間に収支や設備関連への投資の健全化や関連産業の育成といった産業界の姿勢が無い場合には、特需終了直後に没落するケースも発生、更なる社会的混乱を誘発する傾向も見られる。こと特需に当て込んで無目的なまでの増産にのみ注力した場合では、需要後退後に拡大させた生産設備を持て余し、結果的に産業全体が立ち行かなくなる場合すらみられる。また特需景気の傾向として、急速に需要が増大するために労働者の募集や産業体制の充実が間に合わず、しわ寄せが労働者に行き易い傾向が見られる。急激な増産により労働者の労働時間が急激に増加したり、あるいは老朽化した危険な設備での増産を余儀なくされた結果、安全確保が後回しになる傾向を含むためである。こういった問題は社会全体にも及び、発展途上国では児童労働の蔓延といった問題も見られる。戦争と特需朝鮮戦争では、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領時下の日本を中継基地とした米軍が日本で物資調達のために大量の米ドルを投下したため、多大な利益をもたらした。これを指して朝鮮特需という。ただ、これは第二次世界大戦で産業レベルが一度徹底的に後退した(どん底)であった日本の復興期でもあり、単純に朝鮮戦争による米軍が日本に落としていった米ドルの力だけではないともみられている(→朝鮮特需参照)。しかし敗戦国で多大な戦時負債を抱えた日本経済が、急激に回復する一助ともなっていた部分があり、この特需は高度経済成長の足掛かりともなった。しかしこの特需で真に潤ったのは一部財界のみで、この当時はまだ特需の利益が労働者にまで還元されてはいなかった様子もうかがえ、当時の日本国民に於ける1日摂取カロリー量は、特需の期間中でも伸びは余り芳しくない。さらに注意すべきは、当時の日本は莫大な占領軍経費を「終戦処理費」の名目で負担していたことである。1952年(昭和27年)までの占領総経費は47億ドルとも言われ、朝鮮戦争特需の売り上げに相当する額を政府会計から米軍に支払っていた。すなわち、米軍から日本企業への支払いを日本政府が負担したに等しい。なお、朝鮮戦争は国際的な物品不足をもたらしたため、輸出を伸ばした国が見られた。たとえば、西ドイツは、朝鮮戦争により輸出を大幅に伸ばした。流行と特需・日本バブル景気の頃より様々な流行が見られたが、この流行の陰で世界各地で特需景気を巻き起こしている。例えばナタ・デ・ココやハバネロは日本で大流行を見せた食材だが、これの産地が特需景気に沸いている。しかしナタデココブームでは、急激に流行していつのまにか消え去ったブームのせいで、ブームを当てこんだ業者の中には倒産を余儀なくされた所も出たとする話も漏れ聞かれる。また鳥インフルエンザが社会問題として取り沙汰されると、タミフルの個人輸入が増大、一頃は日本円換算で薬価の10倍の価格(医者で処方してもらった場合と個人輸入代理業を仲介させた場合の比較)が付く場合もあるにも関わらず品薄状態が続いていると2005年(平成17年)11月22日の読売新聞が報じている。この他、2011年(平成23年)~2012年(平成24年)にかけて実施されたアナログ放送終了の直前には、薄型テレビやデジタルチューナーの特需が見られた。特に薄型テレビはエコポイントが大幅減少される直前の2010年(平成22年) 11月にかけて、大幅な需要の増加がみられた。
2024年06月16日
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13「貧乏人は麦を食え・池田外相」12月7日・池田 勇人(いけだ はやと、1899年〈明治32年〉12月3日 – 1965年〈昭和40年〉8月13日)は、日本の政治家、大蔵官僚、全日本居合道連盟創立者と初代会長。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第56・代)、通商産業大臣(第2・7・56代)、経済審議庁長官(第3代)、自由党政調会長・幹事長、内閣総理大臣(第58・59・60代)などを歴任した。大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、吉田茂の右腕として頭角を顕し、吉田内閣の外交・安全保障・経済政策に深く関与した。佐藤栄作と並ぶ「吉田学校」の筆頭格である。保守合同後は自民党の宏池会の領袖として一派をなし、1960年に首相に就任した。19世紀生まれの最後の首相である。所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展に最も大きな役割を果たした。生い立ち広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)にて父・池田吾一郎、母・うめの間に7人兄弟の末子として生まれた。旧制忠海中学校の1年時に陸軍幼年学校を受験するが、近視と背丈の低さで不合格となる。一高を受験するが2度落第、五高を経て京都帝国大学法学部卒業。大蔵官僚時代・挫折と生命の危機の克服京都帝国大学法学部卒業後、高等試験をパスし1925年、同郷の政友会代議士・望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省。入省同期は山際正道、植木庚子郎、田村敏雄など。大蔵省の中枢は当時からすでに東大出身者で固められており、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流であった。本来ならば地方の出先機関の局長や税関長止まりというキャリアで、入省後は相場の通り地方を廻る。1927年、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だった。宇都宮税務署長を務めていた1929年、当時不治の病といわれた難病の落葉状天疱瘡を発症して大蔵省を休職、休職期間が切れたため1931年に退職、以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた。原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で、栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈み、出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の迫水久常に切歯扼腕する思いであった。少しよくなりかけた頃、四国巡礼をする。闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、1934年に奇跡的に完治する。医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる。再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定したが、挨拶を受けた秘書課長の谷口恒二や松隈秀雄から復職を薦められる。同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職した。玉造では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた前尾繁三郎と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。財政家として基盤の形成復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ税制関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、野間清治や根津嘉一郎の遺産相続時の取り立ては凄まじかったといわれる。当時省内では、賀屋興宣と石渡荘太郎の二大派閥が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻り、しばらくは重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされたが、1941年、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となる。本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。丁度太平洋戦争と重なり、賀屋と共に、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた。国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が国の借金となり、国家財政は事実上の破綻に至る。1942年、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)。1944年、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長。出世の遅れに嫌気が差し、1期上の飲み仲間で当時満州国の副総理格だった古海忠之に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが、母親に猛反対され断念した。1945年2月に主税局長となり、出世の遅れはここでほぼ取り戻した。初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった。この頃、家族を埼玉県春日部市に疎開させる。5月25日の東京大空襲で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散した。主税局は雑司が谷の自由学園明日館に移っており、同所で終戦を迎える。終戦後、池田は戦後補償の担当者だったといわれ、軍需会社や民間の会社が大蔵省に殺到した。1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) から「日本の租税制度について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴いGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした。戦時補償の打ち切りと財産税法創設問題に精力的に取り組み、1947年2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、主計局長だった野田卯一を飛び越えて大蔵次官に就任する。
2024年06月16日
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12「鳴尾事件」9月5日・鳴尾事件(なるおじけん)とは、1950年9月9日に兵庫県武庫郡鳴尾村(現在の西宮市)の鳴尾競輪場(後の甲子園競輪場)で起こった騒擾事件。事件の舞台となった鳴尾競輪場は、この事件直前の9月3日に関西地方を直撃したジェーン台風により、メインスタンドや投票所の屋根が吹き飛ばされるなど、施設に大きな被害が出た。このため主催者側では明石競輪場で代替開催する事も検討したが、災害救援レースと銘打ち、収益の全てを災害復興資金に充てる事で開催に踏み切った経緯があったのだが、結果的にこれが裏目に出た。1950年9月9日、午後4時50分に発走した第11レース(B級選抜、距離2000メートル)は、実用車を使用して9車立てで行われた。490メートル付近(当時は500mバンク)で、ある本命視されたN選手(『競輪三十年史』の表記ではイニシャルだが、『近畿競輪二十年史』では実名で表記されている)より、クランクピンが緩んだのでレースをやり直したいと審判員に申告があり、N選手自らはコースを離れてスパナで緩んだピンの締め直しを行った上でレースに復帰した。既にレース中から観客からはレースのやり直しを求めて罵声や怒号が上がっていたものの、レースは中断されずに継続され成立し、結果として1着6番、2着1番で払戻金が11820円(的中車券216枚)の万車券となった。審議結果の発表前より一部のファンが走路に押し込み審判台周辺で警察官などと押し問答を繰り返していたが、場内に「原因は対象選手の手落ちによるもので、同選手を1ヶ月の謹慎処分とする」旨と、「第12レースの発売を開始する」というアナウンスが流れるや否や、自転車が故障したN選手の責任で済まそうとしたことに納得いかなかった400〜500名のファンが罵声で叫びつつ金網を破って走路内に侵入して騒ぎ出したことで、これ以上の開催継続は困難と判断した主催者側は、第12レースの開催中止と車券の買戻しを発表し、事態の沈静化を図った。だが、一部のファンは収まらず、待機中の消防車をひっくり返してガソリンを抜き取り木造のスタンドや払戻所4か所に放火した。さらに、車券売場を目掛けて投石し窓ガラスを全て破壊した上で金庫付近にも押しかけ投石、破壊、掠奪など悪質な暴行を行い、終いには穴場に入った一群が800万円もの大金の入った秘密金庫をも強奪せんと迫ったことから、事務所内に僅かに残っていた警察官は、現金強奪を図る暴徒に向けて威嚇射撃を行ったものの、ファン1名がその流れ弾に当たって死亡したため、騒乱は最高潮に達した。最終的に、観客のうち約5千名(当日の観客は1万人超)が暴徒と化した。丁度この頃、応援に駆けつけた600名の警察隊やアメリカ陸軍のMP数名が到着して鎮圧を開始、催涙弾2発を発射して暴徒を場外に退散させ、騒乱の扇動者や事務所に放火した多くの観客を逮捕するとともに、場内に留まっていたファンの場外への誘導に務め、騒乱発生3時間後の午後8時にようやく沈静化した。ただ、正門付近で頑張る1500名が不穏な形成を見せたことで、警官隊は夜9時半より検挙を開始、約250名を逮捕した。事件の影響事件直後より、新聞紙上では「競輪を廃止せよ」の論調一色となった。このため、9月14日に通産省は鳴尾競輪場での開催中止を指令するとともに、各競輪場の施設改善や騒乱発生防止対策の導入を指示したが、既に世論は政府にまで達しており、当時の吉田茂首相が関係閣僚と会見して競輪廃止の方針を確認した上、閣議了承するに至った。この結果、9月16日からの全国一斉の2ヶ月間の開催自粛を決定するとともに、政府内で競輪存続の是非を検討したが、最終的には競輪存続が決定した。しかしながら、世論では引き続き競輪廃止論が収まらなかったため、選手の資質の改善や開催方法の見直し、施設改善などの運営方法の改善を図るなどして競輪再開への環境整備に努め、11月15日に開催再開された。1951年、日本共産党より競輪廃止法案が提出され、大差で否決されたものの、引き続き諸制度の見直しを行った。なお、騒乱の舞台となった鳴尾競輪場は、甲子園競輪場と名称を改めるなどして、同年にレースを再開した。また、この事件をはじめ、各地の競輪場や競馬場で発生した騒乱事件や、ギャンブルを社会悪と見る風潮から1955年には、当時の河野一郎農林大臣が「公営ギャンブルの開催は土日に限定させるべき」という談話を発表し、事件の印象が強く残る関西地方の競輪場では、豊中競輪場や神戸競輪場、明石競輪場を始め、収益が好調であった大阪市の2競輪場も閉鎖されるなどの影響が出た。事件以前は競輪を「きょうわ」、「きょうりん」と発音していたが、鳴尾事件が発生した時に語られた揶揄(「狂輪」や「恐輪」など)を避けるため、事件以降は「けいりん」に改められた。さらに、鳴尾村は上述のようにジェーン台風による被害を受けて財政的に厳しい状態となっていたが、この事件で競輪の収益が断たれたこともあって危機的な状態となり、翌1951年4月1日に西宮市へ編入された。なお、この鳴尾事件の顛末と、その後の開催自粛、競輪廃止論から再開に至るまでの経緯は、『競輪三十年史』のp.172 – 189にかけて詳細な記述がある。その他事件の発端となったクランクピンの緩みは、本来競走向きではない実用車(一般の商用タイプの自転車)を競走に使用していることから、この事件が発生する前から何度か発生していたといわれる。このため、事故報告書においては、自転車のクランクピンの材質に問題があり、弛緩防止のための材質変更などを防止策の一つとしてあげている。
2024年06月16日
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11「ジェーン台風」9月3日・(昭和25年台風第28号、国際名:ジェーン)は、1950年(昭和25年)に主に強風により近畿地方や四国地方などに大きな影響を与えた台風である。1950年8月30日、硫黄島の南西海上で台風第28号が発生。当時の日本はアメリカの占領下にあり、気象業務も米軍と共同で行われていたため、番号ではなく、アメリカ式に「ジェーン台風」と呼ばれた。1950年は暖候期を中心に台風の発生緯度が比較的高く、ジェーン台風も高緯度で発生している。最盛期は、中心気圧940ヘクトパスカル、最大風速50m/sであった。台風は、9月3日10時に、徳島県日和佐町(現美波町)付近に上陸した。その後、台風は淡路島付近を通過し、12時頃神戸市垂水区付近に再上陸した。その後、若狭湾へ抜け、日本海へ進み、9月4日4時頃、北海道渡島半島南端に再上陸した。台風は北海道を縦断し、オホーツク海へ抜けた。台風による影響は、降水による影響よりも、強風による影響の方が大きかった。四国・紀伊半島の沿岸では35m/sの暴風が吹いた。また、近畿・北陸・東海では30m/sの暴風が吹いた。和歌山では、最大風速36.5m/s、最大瞬間風速47.2m/sを記録した。神戸海洋気象台でも、最大瞬間風速40m/s以上となったが、計測器の破損により、一時欠測となった。大阪湾では、台風の強風による吹き寄せで高潮が発生し、船舶に被害が出たり、多くの家屋が浸水したりした。被害死者 – 398名· 行方不明者 – 141名· 負傷者 – 26,062名· 住家全壊 – 19,131棟· 住家半壊 – 101,792棟· 床上浸水 – 93,116棟· 床下浸水 – 308,960棟和歌山県箕島町(現有田町)では、辰ヶ浜漁港から出漁した漁船が台風に遭遇。13隻13が流出、3隻が沈没、21隻が破損。100人以上が行方不明となった。
2024年06月16日
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10「ガリレオ資金」・8月14日・ガリオア資金(ガリオアしきん)とは、 GARIOA) 、占領地域救済政府資金のこと。第二次世界大戦が終わると、アメリカ軍占領地の疾病や飢餓による社会不安を防止し、占領行政の円滑を図るためアメリカ政府がオーストリア等の占領地、そして旧敵国の占領地である日本と西側ドイツに対して陸軍省の軍事予算から支出した援助資金である。例外として朝鮮にも割り当てている。この資金は、1947年度からは正式に陸軍省予算から計上され、1951年度まで続いた。一般的に、食糧・肥料・石油・医薬品など生活必要物資の緊急輸入という形で行われ、これらが国内で転売換金されることで資金としての性格を持った。なお、1946年7月より よる陸軍救済計画として実施された支出については、後にプレ・ガリオア資金と呼称され、返済等についてガリオア資金と同等の扱いをうけた。西ドイツでは、1948年7月のアメリカとの協定で見返り資金[1]として利用することを義務付けられた。特にガリオア資金の場合、別勘定とすることは資金を被援助国の債務として保全する意味も持った。一方日本では、当初は貿易資金特別会計[2]に繰り入れられ、貿易の補助金として日本政府の裁量で運用されていたが、1949年からはドッジ・ラインの枠組みの中で西ドイツと同様に見返り資金としての計上を義務付けられた。対日援助額は、1946年度から1951年度までの累計で16億ドル弱であり、占領地域経済復興資金 と合わせて18億ドルである。西ドイツは、1953年に33.178%の返済率のもとで資金返済に関してアメリカと協定を調印した。日本は、アメリカとの断続的な交渉の上で、1962年に西ドイツの返済率にならって約5億ドルの返済協定を調印した。
2024年06月16日
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9「レッドパージ始まる」・7月24日・レッドパージは、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの、日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。中国大陸では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。民間情報教育局(CIE)教育顧問のW.C.イールズが1949年7月19日に新潟大学の講演で「共産主義の教授は大学を去るのが適当」と演説し、以降各地の大学で同様の演説を行った(イールズ声明)。1950年5月3日、マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突(人民広場事件)、6月6日に徳田球一ほか日本共産党中央委員24人、及び機関紙「アカハタ」幹部といわれた人物を公職追放し、アカハタを停刊処分にした。同年7月には9人の日本共産党幹部について、団体等規正令に基づく政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反容疑で逮捕状が出た(逮捕状が出た9人の日本共産党幹部は地下潜行し、一部は中国に亡命した)。こうした流れのなかで、マッカーサーは数次にわたり吉田首相に対し「共産分子の活動に関する書簡」を送付。各報道機関は1950年7月28日から書簡の趣旨に従い社内の共産党員、同調分子らに解雇を申し渡し始めた。初日の解雇数だけでも朝日新聞社72人、毎日新聞社49人、読売新聞社34人、日本経済新聞社10人、東京新聞社8人、日本放送協会104人、時事通信社16人、共同通信社33人に及んだ。さらに同年9月の日本政府の閣議決定により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放(解雇)が行われていった(なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放がほとんど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった)。当時の日本共産党は1月のコミンフォルム批判(平和革命論を否定)により、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。公職追放の指令それ自体は1952年のサンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる。なお、1950年にはアメリカ合衆国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた。この一連の動きも含めた全てをレッドパージと呼ぶ場合もある。詳細は赤狩りの項を参照。裁判また、雇用主を相手取った訴訟は、主権回復前の1952年4月2日の共同通信事件の最高裁決定で報道機関に対するレッドパージが、そして主権回復後の1960年4月18日の中外製薬事件の最高裁決定でも重要産業に対するレッドパージが、いずれも「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」として原告敗訴となり、以降の関連訴訟の判決の判例となっている。1950年に電気通信省、旭硝子、川崎製鉄で追放解雇・免職にされた3人が、思想・良心の自由に対する侵害であるとして2004年に人権救済を申し立てた事をきっかけに、2008年現在、70人により同様の申し立てがされている。なお3人については2008年、日本弁護士連合会より救済勧告、後に神戸地方裁判所に国家賠償を求める訴訟を起こす。原告側は「報道機関や民間重要産業でのレッド・パージについてGHQは示唆したが指示まではおらず、日本政府が主導した」と主張したが、裁判所はこの主張について「示唆と受け取れるGHQ文書もあるが、実際はGHQの指示で日本政府には従う義務があった」とし、その上で「レッドパージはGHQの指示による超憲法的な措置で、解雇や免職は有効」と従来の判例を踏襲して2011年5月26日に請求を棄却。二審の大阪高等裁判所も、2012年10月24日に控訴棄却、2013年4月25日に最高裁判所第一小法廷にて上告不受理決定し判決確定した。2010年にも長崎県の7人について、同県弁護士会からの救済勧告が出た。日本共産党は神戸訴訟上告棄却・不受理について「日弁連も勧告を出しているように、日本国憲法第19条が保障する思想・良心の自由を蹂躙する人権侵害であり極めて不当なもの」とする抗議談話を発表した
2024年06月16日
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8「総評結成」7月11日日本労働組合総評議会(にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい)は、かつて存在した日本における労働組合のナショナルセンター。略称、総評(そうひょう)。日本最大の全国的労働組合中央組織だった。第二次世界大戦の日本敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の保護と育成の下に再出発した日本の労働運動は経済・社会情勢を背景に急進的かつ政治的色彩の濃いもので、日本共産党も大きな影響力を及ぼしていた。冷戦の激化・GHQの方針転換に伴い、産別会議や全労連などに集約されていたそのような労働運動は行き詰まりをみせていた。一方で労働組合主義や共産党の排除、国際自由労連(世界労連から分裂して結成)加盟などを指向する運動潮流の分岐と結集が進み、そのナショナルセンターとして1950年(昭和25年)7月11日、日本労働組合総評議会(総評)は結成された。初代議長には炭労出身の武藤武雄・事務局長には都市交出身の島上善五郎が選出され、総同盟、国労、日教組、都労連、海員組合、私鉄総連など主要なナショナルセンターと単産が参加した。総評結成にはGHQの強い意向が働いており、結成大会で日本共産党排除や国際自由労連への接近を内容とする大会宣言を採択し、産別会議・全労連とは一線を画する労働組合として出発した。GHQの援助の下、反共的色彩の強いナショナルセンターとして出発した総評であったが、翌1951年3月の第二回大会で行動綱領として平和四原則を決定し、国際自由労連に加盟する議案を否決するなどして、早くも左傾・反米へと方向転換した。吉田内閣の国家公安保障法(後に破防法として成立)、集会デモ取締法、ゼネスト禁止法、労働三法改正の成立を図ったことに対しては、1951年6月に「労働法規改悪反対闘争委員会」(労闘)を設置し、国会審議中の1952年には政治ゼネストを4波にわたって行った(労闘スト)。加盟単産も日本炭鉱労働組合連合会(炭労)と日本電気産業労働組合(電産)を筆頭に戦闘的な争議を展開した。この変化を、当時のマスコミは“ニワトリからアヒルへ”と呼んだ。一説に、これは総評の変化を当時のGHQ労働組合担当者が、“チキン(臆病者)が役立たず(レームダック)になった”と罵ったのを通訳が理解できず、「アヒルになった」と直訳したからという。1952年7月の第3回大会では右派の国際自由労連一括加盟案が否決され、左派社会党への支持を決定して左派路線を明確にした。人事においても電産委員長の藤田進が新たに選ばれ,高野実が事務局長に再選され民同左派の主導権が確立した。一方、右派は役員を出さず、総評内の左右の対立は深まっていった。1952年12月、全繊同盟・海員組合・全映演・日放労の4単産は総評指導部の政治闘争を重視した指導を批判する「総評批判――民主的労働組合の立場に立って」の題する声明を発表し、右派系組合と執行部の確執が表面化した(4単産批判)。両者の対立は解消されることなく第4回大会を経た1953年7月から11月にかけて日放労を除く右派系の3単産は相次いで総評から脱退し、右派ナショナルセンターである総同盟(1951年6月再建)と1954年、新たな連絡協議体として全日本労働組合会議(全労)を結成した。一方で総評は3単産の脱退を機に階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標に据え、第2回大会以来の路線転換を完成させた。日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めた。総評の持つ政治的影響力は絶大で、しばしば横紙破りな行動が物議をかもしたところから、「昔陸軍、今総評」などと揶揄された。この総評の左派路線形成には社会主義協会の影響があった。関係者の回想では、1950年代後半から1960年代にかけて、総評本部の専従者はほとんどが社会主義協会会員であったという。1958年2月、産別会議は2つの単産が加盟していたのみだったが、その1つの主力単産である全日本金属労働組合(全金属)が総評の全国金属労働組合(全国金属)と統合して総評へ合流し、同時に産別会議も解散した。1978年(昭和53年)には労働組合諮問委員会へ参加。1983年(昭和58年)には49単産、451万人、全組織労働者の36%が総評傘下にあり、その約7割は官公労働者だった。毎年、中立労連とともに春闘共闘会議を組織し、春闘を賃金決定機構として定着させた。1987年に発足した全日本民間労働組合連合会(全民労連。後の日本労働組合総連合会(連合))に合流するため、1989年11月に解散した。総評の政治活動を継承する組織としては、1989年9月に総評センターが作られ、さらに1992年10月には社会党と連帯する労組会議に移行。そのようにして、連合とは別の形態で社会党(のちに社民党)を支持していたが、民主党の結成後は軸足を民主党に移す動きが強まり、1997年7月に民主・リベラル労組会議に移行。1999年5月には、連合政治センターの結成に伴い、民主・リベラル労組会議も解散し、独自の政治活動に一応の終止符を打った。政治活動日本社会党支持を運動方針に明記し、日本共産党とは個別の課題で共闘するとしていた。1964年の4.17ゼネスト問題で、日本共産党がストライキに反対する方針をとった結果、一部の組合では組合内の日本共産党員に対して攻撃をかけることもあった。
2024年06月16日
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6「チャタレイ事件」6月26日チャタレー事件(チャタレーじけん)は、イギリスの作家D・H・ローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎に対して刑法第175条のわいせつ物頒布罪が問われた事件。日本国政府と連合国軍最高司令官総司令部による検閲が行われていた、占領下の1951年(昭和26年)に始まり、1957年(昭和32年)の上告棄却で終結した。わいせつと表現の自由の関係が問われた。『チャタレイ夫人の恋人』には露骨な性的描写があったが、出版社社長も度を越えていることを理解しながらも出版した。6月26日、当該作品は押収され、7月8日、発禁となり、翻訳者の伊藤整と出版社社長は当該作品にはわいせつな描写があることを知りながら共謀して販売したとして、9月13日、刑法第175条違反で起訴された。第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では出版社社長小山久二郎を罰金25万円に処する有罪判決、伊藤を無罪としたが、第二審(東京高等裁判所昭和27年12月10日判決)では被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決とした。両名は上告したが、最高裁判所は昭和32年3月13日に上告を棄却し、有罪判決が確定した。弁護人について被告人側の弁護人には、正木ひろし、後に最高裁判所裁判官となる環昌一らが付き、さらに特別弁護人として中島健蔵、福田恆存らが出廷して、論点についての無罪を主張した。論点· わいせつ文書に対する規制(刑法175条)は、日本国憲法第21条で保障する表現の自由に反しないか。· 表現の自由は、公共の福祉によって制限できるか。最高裁判決最高裁判所昭和32年3月13日大法廷判決は、以下の「わいせつの三要素」を示しつつ、「公共の福祉」の論を用いて上告を棄却した。わいせつの三要素A 徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、B 通常人の正常な性的羞恥心を害しC 善良な性的道義観念に反するものをいう(なお、これは最高裁判所昭和26年5月10日第一小法廷判決の提示した要件を踏襲したものである)公共の福祉「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持することが公共の福祉の内容をなすことについて疑問の余地がないのであるから、本件訳書を猥褻文書と認めその出版を公共の福祉に違反するものとなした原判決は正当である。」事件の意義わいせつの意義が示されたことにより、後の裁判に影響を与えた。また、裁判所がわいせつの判断をなしうるとしたことは、同種の裁判の先例となった。国内だけでなく、東京でのこの裁判は、のちのイギリスやアメリカでの同種の裁判の先鞭となり、書籍や映画の販売促進に効果的な手段としてみなされ、利用されるようになった。公共の福祉論について公共の福祉論の援用が安易であることには批判が強い。公共の福祉は人権の合理的な制約理由として働くが、わいせつの規制を公共の福祉と捉える見方には懐疑論も強い。補記· 出版された本のタイトルは『チャタレイ夫人の恋人』だが、判決文では「チャタレー夫人の恋人」となっている。憲法学界における表記も「チャタレー事件」「チャタレイ事件」の2通りがある。· この裁判の結果、『チャタレイ夫人の恋人』は問題とされた部分に伏字を用いて1964年に出版された。具体的には該当部分を削除し、そこにアスタリスクマークを用いて削除の意を表した。1996年に新潮文庫で、伊藤の息子伊藤礼が削除部分を補った完全版を刊行した。· 伊藤は、当事者として体験ノンフィクション『裁判』を書いた。『チャタレイ夫人の恋人』は、1973年に羽矢謙一が講談社文庫で完訳を刊行した。· 宮本百合子は『「チャタレー夫人の恋人」の起訴につよく抗議する』を発表した。
2024年06月16日
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5「朝鮮戦争勃発」・6月25日・朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(南朝鮮、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争。1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した。分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側社会主義陣営諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されていない。2018年4月27日、板門店で第3回南北首脳会談が開かれ、2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表されたが、実現には至っていない。第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国はカイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表した。1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて米英中ソ四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された。1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍(赤軍)は8月13日に当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸していたが、同じく連合国を構成していたアメリカ合衆国は、1945年4月12日に大統領に昇格したハリー・S・トルーマンの反共主義の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し連合国に降伏、朝鮮は解放された。しかし8月24日に平壌に進駐したソ連軍は朝鮮半島北部を占領、既存の朝鮮建国準備委員会を通じた間接統治を実施した。一方、朝鮮半島南部では、9月8日に仁川に上陸したアメリカ軍が朝鮮建国準備委員会を解体した後、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁による直接統治を開始。朝鮮半島は米ソ両国によって南北に分断されたまま、朝鮮半島内で抗日運動を行っていた人士や海外から帰国した左翼と右翼が衝突する連合国による軍政を迎えた。その後、米ソ対立を背景に1948年8月15日、南部に大韓民国が建国され、翌9月9日に残余の北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。南北の軍事バランスは、ソ連および1949年建国の中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢だった。 武力統一支配(赤化統一)を目指す金日成率いる北朝鮮は1950年6月、中国の指導者である毛沢東と、ソ連のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、事実上の国境であった38度線を越えて侵略戦争を起こした。侵略を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、カナダ、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦。北朝鮮側にソ連が参戦すると米ソ間で第三次世界大戦が起こりかねないので北朝鮮側には抗美援朝義勇軍(実態は金日成に韓国侵略を許可した中国人民解放軍)が加わった。ソ連は武器調達や訓練などで支援したほか、戦闘パイロットを秘密裏に参戦させた(後述)ので実際は微妙に米ソ衝突していた。北朝鮮が意図的に起こしたため、「代理戦争」や「内戦」と表現する者には、韓国内において親北だと批判がなされている。· 本項では、停戦後の朝鮮半島の南北分断の境界線以南(大韓民国統治区域)を「南半部」、同以北(朝鮮民主主義人民共和国統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。· これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。朝鮮戦争時に日本が果たした役割
2024年06月16日
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4「山本富士子・第一回ミスに選ばれる」・4月22日・山本 富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )は、日本の女優。本名は同じ。愛称はお富士さん。身長159㎝。1931年(昭和6年)、大阪市西区立売堀(いたちぼり)生まれ[2]。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。自宅が進駐軍に接収されたため引越し、大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)から京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)に転入し、1949年(昭和24年)卒業。1950年(昭和25年)、読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)において、満場一致でミス日本の栄冠に輝いた。この時の審査や授賞式の模様を伝えた白黒ニュースフィルムが現存する。1951年にミス日本として公式訪米し、ニューヨークのヤンキー・スタジアムでマリリン・モンローとジョー・ディマジオに会った。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトされるが、当初女優になる意思はなかった。しかしスカウトが途切れず、悩んだ末、姉の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。ミス日本になってから3年後の1953年、映画会社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに、3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。1954年に『金色夜叉』、1955年には『婦系図 湯島の白梅』のヒロイン、1956年の映画『夜の河』が大ヒットし、大映の看板女優として活躍した。1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。永田は一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台からも締め出すよう工作する。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。彼女はテレビドラマに活路を求め、『山本富士子アワー』などに主演した後、演劇に新境地を開き、2013年現在まで演劇一筋で主演を続けている。なお、五社協定から49年が経過した2012年の今も映画界には復帰していない。ただ、テレビ番組『映像美の巨匠 市川崑』(1999年、NHK)の中で、1983年に市川崑から映画『細雪』への出演依頼があったが断っている。結局、岸惠子が演じることとなったが、公開になった映画を観て、出演しなかったことを後悔したと語っている。1962年、ギタリスト・作曲家の山本丈晴(旧姓:古屋、古賀)と結婚(2011年9月7日に死別)。1968年、長男を出産。現在は孫もいる。2002年12月、日本経済新聞で「私の履歴書」を連載。2011年11月21日、夫・丈晴のお別れの会が東京都千代田区紀尾井町にあるホテルニューオータニで開かれ、喪主を務めた。会には芸能界や政財界などから約1000人が出席した。エピソード· 実家は南大阪では知られた素封家であり、富士子たち娘の花嫁道具としてうなるほどの着物を買い溜めていた。ところが戦後、米軍用住宅として住居が洋館風だったために接収され、その中の家財道具としてそれらの着物も没収され、二度と戻ってこなかった。· その時に落胆する両親の姿を見て、富士子は「女性も手に職を持たなければ」と実感させられたという(参考文献 『私の履歴書』(『日本経済新聞』連載))。· 山本は日本銀行の就職試験をうけるも不採用となったが、後年、当時を知る日銀関係者がさる雑誌のインタビューで「適性など能力には全く問題がなかった。ただあの美貌ゆえ、男子行員達が落ち着かなくなるのではと心配されて採用が見送られた。」と明らかにした。· ミス日本に推薦されたきっかけは、父の友人だった京都市役所の広報課だった人物の薦め。米国からの支援物資の答礼使節としての大任であるとの趣旨に感動して、推薦を承諾した。· 作家の三島由紀夫は自分の小説「にっぽん製」(1953年)の映画化の時、主演する山本と会って話をした。三島はその時の山本の印象を「外見だけでなく内面も素晴らしい女性」と絶賛している。· レコード録音のため古賀政男邸にレッスンに行ったことが縁で、古賀門下の高弟・古賀丈晴と知り合う。 · この時のレコード「青春日記」は、古賀政男と古賀丈晴がギター伴奏をした。結婚について両家は大反対だった。丈晴は結核を患っており、手術が成功したら結婚をすると約束。映画『彼岸花』の撮影中、丈晴の兄から「手術は無事成功した。」との電話を受け、泣いたと語っている。
2024年06月16日
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3「二俣事件」・1月6日・二俣事件(ふたまたじけん)とは、1950年1月6日に当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で発生した、四人が殺害された事件である。逮捕・起訴された少年が地裁・高裁とも死刑判決を受けたが、最高裁が審理を差し戻した後の地裁・高裁とも無罪判決を受け、無罪が確定した。同じ静岡県内で起きた袴田事件と並ぶ冤罪事件の一つとして知られる。この事件では、当時静岡県警察の警部補であり、多くの冤罪を作った紅林麻雄による拷問での尋問と自白強要、これに基づく供述調書作成などが、同僚警官の告発書により明らかとなった。1950年1月6日、当時の静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で、就寝中の父親(当時46歳)、母親(当時33歳)、長女(当時2歳)、次女(当時生後11か月)の四人が殺害された。父親と母親の夫妻は鋭利な刃物で多数の部位を刺傷した出血による刺殺、長女は扼殺、次女は母親の遺体の下で窒息死した。被害者宅の時計は針が11時2分を指した状態で破損し、被害者の血痕がついた犯人の指と推測される指紋が付着していた。建物周辺には被害者一家の靴と合致しない27㎝の靴跡痕があり、犯行に使用した刃物と被害者の血痕が付着した手袋が発見された。犯行現場には血痕がついた新聞が残されており、犯人は殺害した後に新聞を読んでいた可能性がある。同じ部屋にいた長男(当時10歳)と次男(当時8歳)と三男(当時5歳)及び隣の部屋にいた祖母(当時87歳)は無事で、朝に起きて殺人に気づいたという。1950年2月23日、警察は近所の住人である少年(当時18歳)を犯行当時の所在が不明であるという、犯行の証明にならない推測を理由にして本件殺人の被疑者と推測し、窃盗被疑事件で別件逮捕した。警察は自白の強要と拷問を行って、少年が四人を殺害したとの虚偽の供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。なお、この供述調書において、殺害現場の柱時計は23時に止まっており、犯行時間が23時の場合はアリバイがあることになるが、警察は、少年が推理小説マニアで、止まった時計の針を回してアリバイを作るという偽装工作が出てくるミステリ映画『パレットナイフの殺人』を見ており、近くで当該作品が上映されていることなどの傍証を積み上げてアリバイを否定した。1950年3月12日、検察は少年を強盗殺人の罪で起訴した。少年を尋問した紅林麻雄警部補は拷問による尋問、自白の強要によって得られた供述調書の作成を以前から行っており、幸浦事件や小島事件の冤罪事件を発生させている。本事件を捜査していた山崎兵八刑事は読売新聞社に対して、紅林麻雄警部補の拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造を告発した。法廷では弁護側証人として本件の紅林麻雄警部補の拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造、および、紅林麻雄警部補が前記のような捜査方法の常習者であり、県警の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があると証言した。県警は拷問を告発した山崎刑事を偽証罪で逮捕し、検察は精神鑑定(名古屋大学医学部の乾憲男教授による。山崎兵八は脊髄液を採取された)で「妄想性痴呆症」の結果が出たことにより山崎刑事を不起訴処分にして、警察は山崎刑事を懲戒免職処分にした。少年の無実の根拠、検察が主張する証拠の不証明は下記のとおりである。· 被害者宅の破損した時計に付着していた、被害者の血痕が付いた犯人のものと推測される指紋は少年の指紋と合致しない。· 少年の着衣・所持している衣服・その他の所持品から、被害者一家の血痕は検出されていない。· 少年の足・靴のサイズは24㎝であり、被害者宅の建物周辺で検出された、被害者一家の靴と合致せず犯人の靴跡と推測される27㎝の靴跡痕とも合致しない。· 被害者一家の殺害に使用された鋭利な刃物を少年が入手した証明が無い。· 司法解剖の結果、四人の死亡推定時刻はいずれも23時前後であり(検察が主張する犯行時刻は21時)。· 少年は23時頃には父の営む中華そば店の手伝いで麻雀店に出前に来たという麻雀店店主の証言がある。裁判の経過・結果裁判で少年は、捜査段階で警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件にいかなる関与もしていない、無実であると主張した。裁判は下記のとおりの経過・結果になった。· 1950年12月27日、静岡地方裁判所は少年に死刑判決をした。少年側は無実・無罪を主張して控訴。· 1951年9月29日、東京高等裁判所は控訴を棄却した。少年は無実・無罪を主張して上告。清瀬一郎が弁護人に。· 1953年11月27日、最高裁判所は原判決を破棄。· 1956年9月20日、静岡地裁は無罪判決をした。検察は控訴。· 1957年10月26日、東京高裁は控訴を棄却。検察は上告を断念し、元少年の無罪が確定した。その後この事件では、少年の犯罪の証拠は上記の事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。またAが犯行日時に被害者宅と別の場所に所在したというアリバイがあったが、警察は無視した。
2024年06月16日
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2「共産党分裂」・1月6日・1950年問題(分裂、武装闘争路線)平和革命論批判と分裂アメリカ合衆国による日本占領が続く中、1948年の朝鮮半島で分断国家である大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の成立、1945年の中国での国共内戦に勝利した中国共産党による中華人民共和国の成立などで、東アジアの緊張が高まった。「逆コース」を参照1950年1月6日、ヨシフ・スターリンが指導するコミンフォルムは、機関紙に論文「日本の情勢について」を掲載し、当時の日本共産党の野坂参三らの「占領下での革命」論(平和革命論)を批判した。これに対して徳田球一らは論文「“日本の情勢について”に関する所感」を発表して反論した(このため後に所感派と呼ばれた)。しかし中国共産党も人民日報で日本共産党を批判すると、第18回拡大中央委員会で宮本顕治らはスターリンや毛沢東による国際批判の受け入れを表明して、主流派の徳田らと平和革命論を批判した(このため後に国際派と呼ばれた。不破哲三は後に、当時はアメリカ占領軍撤退が優先されるべきと思ったと発言している)。また1950年2月には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。1950年5月には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーが、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして日本共産党の非合法化を検討しているとの声明を出した。直後に日本共産党と占領軍の間の大規模な衝突である人民広場事件が発生し、6月にはマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を指令した。7月には9人の共産党幹部(徳田球一、野坂参三、志田重男、伊藤律、長谷川浩、紺野与次郎、春日正一、竹中恒三郎、松本三益)に対し、政府の出頭命令を拒否したとして団体等規正令違反で逮捕状が出た(後に春日正一に懲役3年の有罪判決、松本三益に免訴判決が言い渡された)。公職追放と逮捕状が出た徳田球一や野坂参三らは、中央委員会を解体して非合法活動に移行し、中国に亡命して「北京機関」とよばれる機関を設立し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った(これらを後の日本共産党指導部は「一種の『クーデター的な手法』による党中央の解体」と呼び批判している。)6月25日には朝鮮戦争が勃発した。コミンフォルム論評への対応に加えレッドパージによる弾圧もあり、日本共産党は、主流派である徳田らの所感派と、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら 日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。所感派の非合法活動詳細は「51年綱領」、「中核自衛隊」、および「山村工作隊」を参照1951年2月、主流派(所管派)は第4回全国協議会(4全協)を開催し「軍事方針」を含む行動方針を採択した。この「軍事方針」はアメリカ帝国主義によるアジアでの侵略戦争を批判し、その暴力支配から日本国民を解放するため、中核自衛隊を組織しての武装蜂起、労働者の遊撃隊組織、山村工作隊による革命工作、などを掲げた。1951年4月、統一地方選では都道府県6人、市区町村489人の議員を当選させ党の強さを発揮した。1951年8月、コミンフォルムは主流派(所感派)による4全協を支持し、宮本ら国際派を「分派活動」と批判した。このため宮本ら国際派は自己批判して党に復帰し、統一を回復した。(ただし現在の執行部は、再統一は1955年の六全協と主張している。)1951年9月、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印された。(日本共産党は「部分講和」に反対し「全面講和」を主張した。)1951年10月、第5回全国協議会(5全協)で51年綱領(武装闘争不可避論、武装闘争路線、暴力革命路線)と「軍事方針」を採択した。この武装方針に沿って、練馬事件、白鳥事件など様々な非合法活動が行われた。しかし、これらの武装闘争路線は国民の支持を得られず、多数の離党者を生む結果となった。また血のメーデー事件、火炎瓶事件など多数の武装闘争・騒乱事件が発生した。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになった。また、武装闘争方針により政府与党は治安立法を強化、1952年には破壊活動防止法(破防法)が制定された。破防法における破壊的団体の規制に関する調査を行う公安調査庁は、発足当初から一貫して日本共産党を主要な調査・監視対象としている。
2024年06月16日
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「戦後日本の回想・昭和25年」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「共産党分裂」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33、 「二俣事件」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・214、 「山本富士子第一回ミス選出」・・・・・・・・・・・・265、 「朝鮮戦争勃発」・・・・・・・・・・・・・・・・・・326、 「チャタレイ事件」・・・・・・・・・・・・・・・・・577、 「金閣寺焼失」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・628、 「総評結成」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・669、 「レッド・パージー始まる」・・・・・・・・・・・・・7510、「ガリレオ資金」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8011、「ジェーン台風」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8212、「鳴尾事件」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8413、「貧乏人は飯を食え・池田外相」・・・・・・・・・・・・8814、「昭和25年の世情と社会状況」・・・・・・・・・・・12415、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141 1、「はじめに」昭和25年、朝鮮戦争が勃発、戦後復興に軍需産業の活況に日本経済は大きく景気拡大に展開する。日本も国力あった軍備を備えることを望む保守政党は憲法改正に動きを見せるが野党の強い反対で遅々として進まず、序段階の動きとして「警察予備隊公布」と「海上保安庁8000人」の増員を指示し、国体を整備をしていった。国民の娯楽は映画・ラジオからテレビの試験放送が開始され、それに伴ってプロ野球も国民的人気を得ていった。政党の編成は自由党・国民民主党など緑風会など離合集散を繰り返し、自由党と民主党が政治の基軸として国会運営がなされていった。この年、紙幣が1000円札が発行されて、国家予算の拡大の一方、人口も9000万人近く増大していった。再建日本の建設ダッシュに徐々に景気が上昇して行くのであった。
2024年06月16日
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12、「元親の逸話と評価」 幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいた。「「家督相続前」 幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいた。 初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方と大将の行動を聞いたという逸話がある。 秦泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。 そしていざ戦になると元親はその通りに行動し、敵兵を見事に突き崩し(『元親記』)、「鬼若子」と賞賛された。 一条氏の臣従時代に寺社奉行であった関係からか、熱心に寺社復興を行っており、四国統一戦の最中にも讃岐国の寺院を復興させるなど、手厚く僧侶を保護しており、谷忠澄や非有など神官・僧侶出身の者が家臣に抜擢される例も多かった。 特に非有は元親の信頼を得て出頭人として領国支配に広範な権限を行使した。「四国制圧期の逸話」 土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれた。土佐を統一した後、天正5年(1577)、阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。 住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた。 土佐統一を果たした年、37歳の若さで「雪蹊恕三(雪渓如三)」と法号を称している。 「雪蹊」には徳のある人物には多くの人が自然に帰服してくる、そして「恕三」には広く大きな心で事に処せば、前途に万物が生じるという意味が込められているという。 家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされる。 『土佐物語』では「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方に発向して軍慮を廻らし」と元親が述懐したとしている。 讃岐国の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈る麦薙戦術を行ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、一畦おきに刈取らせた。「豊臣政権下での逸話」 豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。 それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。 朝鮮出兵の際、泗川城で垣見一直に対し鉄砲狭間の高さの指導をした。 家来に対して、「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」と言っていたとされる。 土佐領内で禁酒令を出していたにも関わらず、自分自身が酒を城内へ運び込ませていたことがあった。これを福留儀重に厳しく諌められて、以後改心したという。 山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(後の春日局)を岡豊城でかくまったとされる。 後継者として期待していた信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするなど信親没後の元親は久武親直の讒言があったとしても片意地になり、それまでの度量を失っていた。 戸次川の戦いで信親が戦死した事を知り、自分も死のうと思ったが家来に諌められている。 その後、秀吉から大隅国を加増するとの話があったがこれを固辞している。 『土佐物語』などの信憑性はともかく、信親が死んで変貌する前までの元親には家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量があった。 阿波の勝瑞城攻略においては上級家臣の意見より下級の一領具足の意見を聞き入れたという。 また情け深く、妹婿の波川清宗が元親に謀反を起こして討たれたとき、弟の次郎兵衛や五郎大夫は助命した。 だが2人は兄の仇を討つため岡豊から出奔したので、家臣は2人を追討しようとしたが元親は許さなかった。 阿波白地城主の大西覚養が三好氏に寝返ったときも人質としてあった甥の上野介を殺さずに優遇したり、三好康長の子・康俊が父の誘いを受けて寝返ったときも、人質として岡豊にあった康俊の子を殺さずに丁重に送り返して康長に感謝されたりしている。
2024年06月15日
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11、「戦後の元親とその後」「元親の秀吉に降伏」 天正13年(1585)春、秀吉が紀州征伐に出てこれを平定すると、秀吉は元親に対して伊予・讃岐の返納命令を出した。 元親は伊予を割譲することで和平を講じようとしたが、秀吉は許さず弟・羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿・讃・予の海岸線沿いに防備を固め抗戦する。秀吉は宇喜多秀家・黒田孝高らを讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。 そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣・谷忠澄の言を容れて、7月25日に降伏し、阿波・讃岐・伊予を没収されて土佐一国のみを安堵された(四国国分)。 元親は上洛して秀吉に謁見し、臣従を誓った。 これを機に蜂須賀正勝・家政が長宗我部氏の取次になったとされるが、取次としての実態が不明なために疑問視する研究者もいる。また増田長盛を取次とする説もある。「豊臣政権下」 天正14年(1586)、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援に向かう。 しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の軍監・仙石秀久の独断により、島津軍の策にはまって敗走し、信親は討死した。 元親は信親の死を知って自害しようとしたが家臣の諌めで伊予国の日振島に落ち延びた。 天正16年(1588)、本拠地を大高坂城へ移転する。 その後に起こった家督継承問題では、次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定する。 その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興・吉良親実などを粛清し、盛親への家督相続を強行している。 天正17年(1589)ころに、羽柴の名字を与えられている。天正18年(1590)の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて参加し、後北条氏の下田城を攻め、さらに小田原城包囲に参加した。 天正19年(1591)1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋の鯨を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。 年末頃には本拠を浦戸城へ移転する。通説では洪水の多い大高坂城を元親が嫌ったからとされているが、近年では浦戸城は朝鮮出兵に備えた軍事拠点として築かれたもので、将来的には大高坂城を本拠に戻すことを前提に引き続き整備が進められていたとする指摘もされている。 また朝鮮出兵がなくとも行政機構整備は行われたとする指摘もある。 文禄元年(1592)から朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。豊臣政権は諸大名の石高に応じて軍役人数を課したが、長宗我部の軍役は3000人で固定され、水軍としての軍事力を期待されていた。 慶長元年(1596)にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年(1597)3月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。「最期」 慶長3年(1598)8月18日に秀吉が死去すると政情が不安定になる。 元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、11月26日に徳川家康の訪問を受けた。 その後、年末か年明けに土佐に帰国した。 慶長4年(1599)3月、三男の津野親忠を幽閉している。その直後から体調を崩しだした。 4月、病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在。4月23日には豊臣秀頼に謁見している。だが5月に入って重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわず、死期を悟った元親は5月10日に盛親に遺言を残して、5月19日に死去。享年61歳。高知県高知市長浜にある天甫寺に葬られる。長宗我部元親の死後の継子は四男長兄信親天正14年(1586)の戦死後、家督と定められ、父と共に小田原攻めに、文禄・慶長の役に参戦した。慶長2年(1597)父と連名で『長宗我部元親百カ条』を発布。翌年関ケ原の戦い委では西軍に属し、美濃南山に陣したが戦わずして土佐国に帰国。徳川家康に兄の津野親忠が入れたが罪に問われ、領国を没収された。後に伏見に住み、大岩祐夢ろ号し寺子屋の師匠などで暮らす。1614年に豊臣秀頼の呼びかけに応じて、大坂冬の陣に参戦した。翌年の夏の陣では藤堂高虎と戦い敗れ、のちに橋本で捕られ、5月15日京都は六条河原で意板倉勝重に斬られた。盛親はもとより盛親の子らもすべて斬首され直系は絶えた。長宗我部国親の四男・親房が島氏を名乗り(島親益)、その子孫である島親典(後述)が土佐藩に下級藩士として仕えた。断絶した直系に代わり、この島氏が現代の長宗我部当主家に繋がっているが、土佐藩時代は長宗我部への復姓や家紋の使用は禁じられていた。再び長宗我部を名乗ったのは明治維新後である。元親の甥・吉良親実(元親の弟・吉良親貞の子)の子孫は肥後藩に仕え、傍系の一族は他家に仕えるか帰農して生きながらえた。この際、島姓など他の名字に改姓し、明治時代にいたって長宗我部姓に復した者も多い。
2024年06月15日
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10、「長宗我部元親の降伏」 白地城へ戻った谷忠澄は『南海治乱記』によると次のように述べて降伏を勧めた。【上方勢は武具や馬具が光り輝き、馬も立派で、武士たちは旗指物を背にまっすぐに差して、勇ましい。兵糧も多くて心配することは少しもない。これに比べて、味方は10人のうち7人は小さな土佐駒に乗り、鞍も曲って木の鐙をかけている。武士は鎧の毛が切れくさって麻糸でつづりあわせてある。小旗を腰の横に差しており、上方とは比較にならぬ。国には兵糧がなく、長い戦争などできるはずがない。】これに対し元親は、『元親記』によると次のように以後の戦略を述べた。【縦(たと)い、岩倉・一の宮を攻落さるる共、海部表へ引請け、一合戦すべき手立、この中、爰許(ここもと)に詰候つる軍兵、又、国元の人数打震いて打立ち、都合その勢一万八千余、信親大将して野根・甲浦に至り着合ひ、海部表への御働を相待つ筈なり。】 右同書での元親はさらに、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言い、また降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っている。 しかし忠澄を始めとする重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏した。交渉に当たっては蜂須賀正勝が仲介を務め、8月6日までには講和が成立した。講和の条件は、長宗我部氏に土佐一国安堵、長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、人質の提出、徳川家康との同盟禁止とされている。これに従い、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を割譲した。8月23日、秀長は戦後処理を終えて大坂に帰還した。「四国国分とその後」 四国平定の結果、豊臣政権によって「国分(くにわけ)」がおこなわれた。 長宗我部氏は土佐一国を安堵され豊臣政権に繰り込まれ、元親の三男の津野親忠が人質となった。 その他の3国は没収され、阿波に正勝の子の蜂須賀家政(一部に赤松則房)、讃岐に仙石秀久(聖通寺城)、うち山田郡2万石に十河存保(十河城)、伊予に小早川隆景(一部に小早川秀包、安国寺恵瓊、来島通総、得居通幸)が封じられた。 また淡路は脇坂安治が津名郡3万石(洲本城)、加藤嘉明が津名・三原郡1万5000石(志知城)に封じられた。 こうして、伊予には毛利旗下の大名、讃岐・阿波・淡路には豊臣系の大名が配されることとなった。 豊臣政権による天正13年の大規模国替えにより、検地と動員に代表される近世的統治が始まると各地で膨大な数の中世城郭が破却・整理されるとともに織豊系城郭が誕生していった。 四国を含む環瀬戸内海では播磨国明石城(高山右近)・室津城(小西行長)、淡路国洲本城(脇坂安治)・志知城(加藤嘉明)、阿波国徳島城(蜂須賀家政)、讃岐国聖通寺城(仙石秀久)、伊予国湊山城(小早川隆景)などが築城・修築され、豊臣政権による九州征伐への準備が進められた。「国分後の動向」 戦後処理の後、秀吉は惣無事令に反した島津氏他を討伐するために九州征伐を開始したが、豊後の大友宗麟救援のため仙石秀久、十河存保、長宗我部元親など四国の大名が先発で派遣された。 しかし豊臣軍は島津軍に戸次川の戦いで大敗北を喫し、秀久は戦場から逃亡、存保は戦死、元親の嫡男である信親も戦死したことによりお家騒動の原因となった。 本隊の到着により九州征伐は豊臣方の勝利に終わったが、九州国分により四国の勢力地図も書き変わることとなった。 逃亡した秀久は讃岐を召し上げられ、変わって後に生駒親正が入った。伊予では僅か2年弱で隆景が筑前へ転封となり、変わって福島正則(東部及び中部の一部)・粟野秀用(中部の一部)・戸田勝隆(南部)に入った。 後に正則が尾張に転出し、後嗣のない戸田氏が除封されると、小川祐忠(東部)・加藤嘉明(中部)・藤堂高虎(南部)・池田秀氏(南部の一部)が伊予に配置された。 一方、四国の在地勢力として伊予東部の河野通直は秀吉と敵対もせず、毛利氏と婚姻・友好関係にあったが大名として認められなかったため毛利氏に身を寄せ、家臣は領主となった隆景に従った。 伊予南部の西園寺は後に戸田氏の配下となったが後に謀殺され、後に讃岐の生駒氏の配下に繰り入れられた十河氏の勢力も次第に減殺されて弱体化していった。 これら有能な外様大名が存続したのに対して、様々な理由により豊臣政権に貢献出来ない大名達は時間とともに様々な理由で淘汰されて行くこととなった。「毛利輝元の四国出兵」 豊臣秀吉の四国攻めにより四国は豊臣体制に繰り込まれ、太閤検地と軍役動員によって四国の諸勢力は近世大名へと変貌を遂げていった。 また、秀吉の関白任官以降の基調となった惣無事の論理により、諸大名は私戦や自力救済による領土拡張を禁じられ、これを破るものは豊臣政権による制裁を受けた。 しかし、秀吉の死に伴い次第に影響力を強めていった家康に反発して関ヶ原の戦いが勃発し、一方の盟主であった輝元の手により四国諸国にも戦乱が起こることとなった。 輝元は、豊臣政権を運営する大老という名目の下に惣無事の論理を以って西軍諸将を統制・動員しつつ、一方では阿波国の蜂須賀氏に家臣を送り込んでこれを支配下に置き、さらに徳川方の伊予国を制圧すべく、豊臣政権によって廃絶された旧領主や土着勢力を動員して伊予へ出兵するなど(三津刈屋口の戦い)、まるで惣無事以前の戦国時代的な毛利氏の領土拡張の行動を取った。
2024年06月15日
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9、「秀吉の四国攻め開始」(四国の役) 事前の交渉に 秀吉はたびたび背後を長宗我部氏に脅かされたため、四国出兵を考えるようになった。 秀吉・元親とも当初は交渉による和解を模索したが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂した。 『長元記』によると、元親は秀吉に進物を贈って和解を試みたが、秀吉は讃岐・伊予の返納を命じた。元親は伊予一国を返還することで妥協を見出さんとするも秀吉は認めず、交渉は決裂した。 天正13年(1585))5月4日、秀吉は黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じ、また一柳直末には明石で待機するよう命じた。*黒田孝高」天正13年(1585)の四国攻めには、讃岐国から攻め込んだ宇喜多秀家軍に軍監として加わり、先鋒として諸城を陥落させていった。植田城に対してはこれを囮であると見抜いて阿波国へ迂回するなど、敵将・長宗我部元親の策略を打ち破ったと言われる。阿波国の岩倉城が攻略されたところで長宗我部軍は撤退・降伏した。この頃に、孝高は高山右近や蒲生氏郷らの勧めによってキリスト教に入信し、「シメオン」の洗礼名を与えられている。) 8日、秀吉は四国出陣の準備として、羽柴秀長に対して和泉・紀伊の船舶の数を調査するよう命じた。 また同日紀伊の国人白樫氏・玉置氏に対しても四国攻めの準備と船の手配を命じた。 これに従って秀長は翌9日、船数調査の実施と紀伊・和泉の船を同月27・28日までに紀ノ湊(現和歌山市)へ集結させることを命令している。 6月、秀吉は四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から四国への進軍を命じた。 当初秀吉は6月3日を四国出陣の日に予定していたが、越中の佐々成政がなお健在であり、また病を得たため自身の出馬を諦め、代わって弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定めた。 6月16日、秀吉は岸和田城に在陣しつつ、秀長以下の諸将を四国へ侵攻させた。 元親は、この年の春より秀吉の侵攻に備え土佐勢6000を含む2万から4万の軍勢を動員した。 5月には四国4ヶ国の境にあり各方面と連絡が取れる阿波西端の白地城に元親の本陣を置き、全軍を督戦した。 また羽柴方が阿波方面から侵攻することは長宗我部側も予測しており、阿波諸城に重臣らを配置して防備を固めていた。また讃岐でも植田城(現高松市)を築いた。 この戦いの最中の7月、秀吉は関白に就任した。以後、四国攻めは天下平定戦争の一環という色合いを強める。「讃岐」 宇喜多秀家率いる備前・美作の兵に加えて播磨から蜂須賀正勝・黒田孝高、さらに仙石秀久が加わり計2万3000(1万5000とも)の軍が屋島に上陸した。 秀家等はまず200の長宗我部軍が守る喜岡城(当時の高松城)を攻略して高松頼邑を討ち取り、香西城・牟礼城を攻略した。しかし、戸波親武の守る植田城の守りの堅さを見てとった孝高はこれを放置して阿波攻撃を優先することを主張したため、他の諸将もこれに同意して大坂越えより阿波に入り、秀長軍との合流を図った。この転進について山本は「元親の防衛策は早くも失敗したのである」と述べている。「伊予」 毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢は、3万から4万(2万5000とも)に達した。 輝元は備後三原に残り、6月下旬に三原及び安芸忠海の港を発し、同月27日に小早川隆景の第一軍が今治浦に上陸した。 続いて7月5日、吉川元長・宍戸元孝・福原元俊らの第二軍が今治浦もしくは新間(新麻、新居浜)に上陸した。 その最初の攻撃目標は宇摩・新居郡を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である金子元宅であった。 元宅は東伊予の実質的な指導者であり、長宗我部氏とは同盟関係にあった。元宅は自らは高尾城に在城し、高峠城に当時8歳の主君石川虎竹丸を置いて近藤長門守以下800余の兵で守らせ、金子城には弟の対馬守元春を配した。高尾城には土佐から派遣された長宗我部氏の援兵も籠城に加わった。*「丸山城の戦い」(まるやまじょうのたたかい)は、四国平定をめざす羽柴秀吉に伊予攻略を命じられた毛利輝元が、配下の小早川隆景と吉川元長に中国8か国の兵3万余をあたえて進発させた、いわゆる「天正の陣」の前哨となった伊予国丸山城(愛媛県西条市)の攻囲戦。丸山城の城主黒川広隆は戦わず降伏した。丸山城攻囲戦に先だって小早川隆景の四国上陸戦があったが、その際、隆景率いる軍は、海岸で迎撃しようとする長宗我部勢を巧みな用兵により打ち破って首級700余をあげたと言い伝えられている。つづいて隆景は、金子城と高尾城の攻略を企図し、天正13年(1585)7月2日。高尾城の支城丸山城を包囲した。高尾城主金子元宅は敵状視察を兼ねて30余騎を出動させたが敗走した。衆寡敵せずと判断した丸山城の守将黒川広隆は戦わずして降伏、隆景に城を明け渡した。その後、黒川広隆は小早川勢の嚮導役を命じられ、金子城・高尾城攻めに参加した。) 7月14日に中国勢は黒川広隆が守る丸山城(高尾城の出城)を攻略(丸山城の戦い)し、続いて15日から元宅と片岡光綱(長宗我部からの援軍)の籠る高尾城を包囲して17日には落城させ、元宅も討死した。 緒戦で中心人物を失った新居郡の将兵の打撃は大きかった。中国勢は続いて新居郡の高峠城を攻め、高峠城兵は石川虎竹丸を土佐に逃がしたのち野々市原(現西条市)にて迎撃、全滅した。
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