温故知新 0
徐福 0
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領国拡大天文18年(1549年)に家臣の謀反で松平広忠が暗殺されると、義元は領主が死去して不在となった松平家に対して支配していた西三河地域を今川家の領土にしようとした。嫡子の竹千代は織田の人質となっていた事から、岡崎付近に向けて今川軍を派遣した。岡崎城(現在の愛知県岡崎市)家臣を送り込み、事実上松平家の所領を領有した。松平家の支配下にあった三河国の国人領主を直接今川家の支配下に取り込んでいった。また、織田方の三河安祥城を攻略(現在の愛知県安城市)して、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した。これにより継承直後から続いた西の織田氏との争いは今川氏勝利の形で決着した。また、このおり信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還、実質自らの配下とすることで尾張進出への足掛かりを着々と築いていく。天文20年(1551年)に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。更に天文22年(1553年)には亡父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えたが、ここにおいて現在の今川領国の秩序維持を行っているのは足利将軍家ではなく今川氏そのものであることを理由に、室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言し、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。これは、今川氏は既に室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを明確に宣言したものでもあった。天文23年(1554年)、嫡子・今川氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した(この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂いを断った。また弘治元年(1555年)に行われた第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させた。駿河・遠江・三河で検地も実施している。永禄元年(1558年)には、支配下においていた松平元康をして、三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めさせて下した。同年、義元は氏真に家督を譲り隠居する。これ以後、今川氏の本国である駿河・遠江に発給される文書の著名は氏真名となる。一方、義元は新領土である分国の三河の鎮圧および経営に集中し、それが成るとさらには尾張以西への侵攻に力をそそぐこととなる。最期永禄3年(1560年)5月には那古野城を目指し駿・遠・三2万余の軍を率いて尾張国への侵攻を開始。織田方に身動きを封じられた大高城(現在の名古屋市緑区大高)を救うべく、大高周辺の織田方諸砦を松平元康などに落とさせる。幸先良く前哨戦に勝利した報せを受けて沓掛城で待機していた本隊を大高城に移動させる。ところがその途上、桶狭間(おけはざま)山で休息中に織田信長の攻撃を受け、松井宗信らと共に奮戦するも、織田家家臣・毛利良勝に愛刀・義元左文字と首級を奪われた。享年42。その後、残存した今川兵によって駿府まで連れ帰ろうと試みられたが、首の無い義元の遺体は想像以上に腐敗の進行が早く、三河国宝飯郡に埋葬された。死後織田方に討ち取られた首級は、鳴海城に留まり奮戦する義元の重臣・岡部元信と信長との開城交渉により後に返還され、駿河に戻った。義元の戦死により氏真が後を継いだが、この混乱に乗じて松平元康が西三河で自立(独立)した。この動きに追従する様に東三河でも戸田氏・西郷氏などが離反、松平氏の傘下へ転属していく。この様な三河の動揺が隣国・遠江に伝播すると、正誤の判別がつかない噂が飛び交い、遠江領内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥ってしまった(遠州錯乱)。この動揺期において氏真は若輩だったこともあり人心掌握の才に欠け、井伊直親や飯尾連竜などを粛清することで事態の収拾を試みたが、逆に人心の離反を加速させてしまい家臣(国人領主)の離脱が相次いだ。多くの国人領主の支持を失い自国領内すらまともに統治できない状態となった今川氏は、見る見るうちに衰退していき義元の死から9年後の永禄12年(1569年)、氏真は信玄と家康によって駿河・遠江を追われ、大名としての今川家は滅亡した。駿河追放後、氏真は妻・早川殿の実家北条家に身を寄せたが武田・北条の同盟が復活すると徳川家康の家臣となる。江戸期に今川氏は高家旗本として幕臣に列した。
2023年09月10日
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花倉の乱による内部対立を引き摺ったまま家臣団の統制がとれなかった今川軍は、北条軍に対して適切な反撃が行えず河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。義元は武田の援軍と連帯して領土奪還を試みたが、花倉の乱で恵探側に組した堀越氏・井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが義元から離反したため、家臣の反乱と北条氏の侵攻との挟撃状態に陥り、河東は北条氏に占領されたまま長期化の様相を見せた。さらに追い討ちをかけるが如く、尾張国(愛知県西部)の織田信秀が天文9年(1540年)に三河国(愛知県東部)に侵攻を開始した。義元は三河に援軍を送り三河の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に織田軍との一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされている(第一次小豆坂の戦い。ただしこの戦いは後世の創作である可能性もあり)。天文10年(1541年)、苦杯を嘗めさせられた北条氏綱が死去、北条氏は氏康が家督を継いだ。『高白斎記』によれば、同年5月25日に甲斐国の武田信虎は嫡男の武田晴信(信玄)を伴い、信濃国の諏訪頼重や村上義清とともに信濃佐久郡侵攻を行う(海野平の戦い)。信虎は6月4日に甲斐へ帰国すると、6月14日に義元訪問のため駿州往還を経て駿河へ出立するが、晴信により路地を封鎖されるクーデターが発生する。義元は信虎の身柄を預かりつつ、家督を相続した晴信とも同盟関係を続け、高遠合戦では武田に援軍を派遣した。苦しい状況が続く中、天文14年(1545年)、義元は氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた(第二次河東一乱)。同年8月22日、義元と憲政との同盟によって河東と関東方面に戦力が分断される形となった北条軍に対して、義元は武田の援軍を得て河東に侵攻し、同じく関東においては両上杉氏(上杉憲政・上杉朝定)が古河公方・足利晴氏らと連合し8万の大軍で河越城を包囲した。河東では今川軍が北条軍を打ち破り、関東では上杉連合軍が河越城を包囲し続け、北条軍は西の今川軍と東の上杉連合軍との挟撃状態に陥り、窮地に立たされた。進退窮まった氏康は武田晴信に仲介を頼み、義元との交渉で河東の地を今川家に返還するという条件で和睦、今川氏は北条氏との争いに実質的に勝利した。これにより一先ず西方に安堵を得た氏康は関東方面に戦力を集中させ、河越城の戦いにおいて苦境から一転、逆転勝利を収めた。河東の地の遺恨を巡って両者の緊張関係は続いたが、北条氏が関東方面への侵攻に集中していったことで徐々に両者の緊張関係は和らいでいった。一方、三河においては西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わし、尾張の織田家の妨害を受けつつも、着実に三河勢の従属化に努めていった。この際、護送を請け負った三河田原城(愛知県田原市)の国人領主・戸田康光が裏切って竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼしたため、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これ対して義元は戸田宗家を武力でもって徹底的に滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が侵攻してくるが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝した。(第二次小豆坂の戦い)。
2023年09月10日
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今川 義元(いまがわ よしもと)は、戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主。姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させた。戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られた。内乱と家督相続永正16年(1519年)、今川氏親の三男して生まれる[注釈 2]。母は父の正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)。ただし、義元は本来は側室の子で花倉の乱後に寿桂尼と養子縁組をしたとする説もある(後述)。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄の氏輝、及び彦五郎がいたために4歳で仏門に出され、駿河国富士郡瀬古善得寺の琴渓承舜に預けられた。享禄2年(1529年)に承舜が没したために、彼の弟子であった九英承菊(後の太原雪斎)がその役割を継承した。その後、雪斎と共に建仁寺に入り常庵龍崇の元で得度し栴岳承芳(せんがくしょうほう)となった。さらに雪斎と共に妙心寺で大休宗休に学び学識を深めた。その後、氏輝の命を受けて京都から駿河に戻るが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の彦五郎がいたために継承権はなかったが、彦五郎までもが氏輝と同日に死亡したために継承権が巡ってきた。氏輝・彦五郎と同じ寿桂尼所生であることも後押しとなり、重臣たちから還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる征夷大将軍・足利義晴から偏諱を賜り、義元と名乗った。だが当主継承は有力家臣の福島(ふくしま)氏の反対で混迷化し、最終的に福島氏は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を当主として掲げて反旗を翻した(花倉の乱)。恵探側は今川館に攻め寄せる等攻勢をみせたが太原雪斎・岡部親綱ら義元側の家臣団の奮戦の前に苦戦が続いた。加えて義元が伊豆国(静岡県伊豆半島)・相模国(神奈川県西南部)を領する後北条氏からの支援を得ることに成功すると一層敗色は濃厚となり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は今川氏当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。統治初期の事績天文6年(1537年)2月、氏輝期まで抗争状態にあった甲斐国の守護・武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結ぶ(甲駿同盟)。周囲の守りを固めんとして行われた甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として自らの当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買ってしまい、同年同月、北条軍は駿河国富士郡吉原に侵攻した(第一次河東一乱)。
2023年09月10日
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氏親の葬儀は増善寺で執行され、7,000人の僧侶が参加し、葬儀の喪主である氏輝が祭文を読み、棺の綱は善徳寺の御曹司・栴岳承芳(後の今川義元)、御位牌は花倉の御曹司・玄広恵探がもって曹洞宗最高の法式で行われた。『増善寺殿法事記録』『今川氏親公葬記』に葬儀の詳細が記録され現存している。人物今川氏の歴代当主は臨済宗を重んじてきたが、氏親だけは曹洞宗を重んじてきた。これは幼少時に小鹿範満に追われた時に龍王丸を保護した法永長者(長谷川政宣)が石雲院を開いた崇芝性岱の門人・賢仲繁哲の庇護者で、氏親も賢仲や同門の辰応性寅を深く崇敬して曹洞宗の保護に積極的であった。氏親は代々崇敬してきた臨済宗の善徳寺の保護にも努めて同寺の住持を長く務めた黙堂寿昭が没すると、琴渓承舜を招いて息子の芳菊丸(後の今川義元)を預けているが、氏親の葬儀で主な役割を務めた僧侶はほとんどが崇芝性岱の流れを汲む僧侶であった。氏親の没後、後を継いだ氏輝と母の寿桂尼が琴渓承舜の弟子である太原雪斎を顧問とし、続いて臨済宗の僧侶から還俗した義元が後を継いだことで、再び臨済宗が重んじられるようになるが、曹洞宗の勢力も今川氏領国において無視できないものとなっていた。氏親の男子の出生順は通説では氏輝・彦五郎・玄広恵探・栴岳承芳(義元)とされるが、これについては近年様々な異説がある。例えば、黒田基樹は氏輝・玄広恵探・彦五郎・栴岳承芳(義元)とする説を採り、大石泰史は氏輝・玄広恵探・栴岳承芳(義元)・彦五郎の順とする説を採る。なお、黒田・大石ともに氏豊・象耳泉奘は江戸時代初期の今川氏の系譜にみられないことから、氏親の子ではないとする見解を採り(今川氏一門の出身であった可能性はある)、黒田は氏親の女子で実在を確認できるのは、吉良義堯室・中御門宣綱室・北条氏康室(瑞渓院)・瀬名貞綱室の4名とし、瀬名貞綱の実弟である関口氏広の室を義元の妹とするのは貞綱との誤認と推測している他、小笠原春茂の室や鵜殿長持の室に関しても『寛政重修諸家譜』には記述があってもそれよりも古い『寛永諸家系図伝』には記載がなく事実ではないとする。
2023年09月10日
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今川家当主延徳3年(1491年)、堀越公方足利政知が死去した後に堀越公方内部で内紛が発生し、一旦は京都に戻っていた伊勢盛時も再び駿河に下向している。明応元年(1492年)、甲斐国では守護武田信昌が嫡男の信縄に当主を追われ、信昌や穴山信懸は次男の信恵を後継者に立てて信縄と争った。氏親は諏訪頼満と共に信昌を助けるために甲斐に出兵した。その後、穴山氏は氏親に従属の約束をしている。この武田氏の政変と今川氏・諏訪氏の介入の背景には足利政知没後の堀越公方の内紛と関わりがあるという見解も出されている。その後も堀越公方の内紛が続き、明応2年(1493年)に11代将軍足利義澄の命により、盛時(以後早雲と表記する)は義澄の異母兄足利茶々丸を討伐して、伊豆を手中にした。氏親も早雲に兵を貸してこれを助けている。これは管領・細川政元が起こした明応の政変に連動した動きであった。以後、氏親と早雲は密接な協力関係を持って支配領域の拡大を行うことになる。駿河国の隣国・遠江は元は今川氏が守護職を継承していたが、後に斯波氏に奪われていた。遠江奪還は今川氏の悲願となり父は遠江での戦いで命を失っている。当主となった氏親も積極的に遠江への進出を図り、守護斯波義寛と対立した。遠江への侵攻の兵を率いたのは早雲で、明応3年(1494年)頃から始まり、遠江中部まで勢力下に収めた。早雲は更に兵を進めて文亀年間(1501年 – 1504年)には三河岩津城(愛知県岡崎市岩津町)の松平氏を攻めているほか、牧野古白を滅ぼして奥平定昌の従属には成功している。同じ頃甲斐都留郡にも出兵して郡内領主の小山田氏や守護の武田氏と戦っている。一方、氏親も早雲の関東進出にも協力して長享の乱に介入し、扇谷上杉家に味方して山内上杉家と戦った。永正元年(1504年)の武蔵立河原の戦いに早雲と共に出陣して関東管領・上杉顕定を破っている。永正2年(1505年)頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎える[23](この頃より修理大夫を称す)。永正3年から5年(1506年 – 1508年)には再び早雲率いる今川軍が三河へ侵攻して、松平長親(長忠)と戦ったが、岩津城下井田野(愛知県岡崎市井田町)で敗れたが、結果的には岩津松平家は衰退して長親の安祥松平家が台頭することになった。永正6年(1509年)以降は早雲の今川家の武将として活動がなくなる。この頃に早雲は政治的に今川家から独立したようで、以後は関東進出を本格化させる。ただし、その後も少なくても永正9年(1512年)頃まで早雲が駿府を訪問し、同年発生した長尾景春の駿河亡命にも早雲が関与しているとみられることから、早雲と今川氏の関係はその後も続いていたと考えられている。永正年間に入ると、足利義澄の後見人であった細川政元が斯波義寛と上杉顕定の連携を働きかけるようになり、氏親と早雲は次第に義澄と距離を取り始めて、従兄弟である前将軍足利義稙との関係を図るようになる。永正5年、義澄が義稙に将軍職を奪われると、正式に幕府と将軍家から遠江守護に任じられ、遠江支配の大義名分を得た。永正8年(1511年)に遠江・尾張守護の斯波義達が今川方の刑部城(現在の静岡県浜松市)を攻めると出陣してこれを退けたが、義達はなおも攻撃を続け、遠江での斯波氏との戦いが激化した。永正13年(1516年)に引馬城(現在の浜松市)の大河内貞綱が今川家に背き、義達も加わる。氏親は出陣して引馬城を包囲。永正13年(1517年)、氏親は安倍金山の鉱夫を用いて坑道を掘って水の手を絶って引馬城を降伏させた。貞綱は討ち死にし、義達は出家して降伏し、尾張へ送り返された。これにより、遠江が平定された。また、永正12年(1515年)には、甲斐西郡の国人領主である大井信達に味方して守護・武田信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時占拠している。永正14年(1517年)、氏親は信虎と和議を結び撤兵し、信達は信虎に降伏した。その後も、氏親後期に甲駿同盟が成立するまでたびたび甲斐への侵攻を行い、武田氏との対立が続いた。
2023年09月10日
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2「桶狭間の戦いの起因」(おけはざまのたたかい)は、日本の戦国時代の永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。2万5千人(異説あり)といわれる大軍を率いて尾張東部に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲または奇襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。日本三大奇襲に数えられる、日本の歴史的に有名な戦いである。戦後、東海道 に君臨していた今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急激に台頭するきっかけとなり、戦国時代の重要な転機となった。別名「桶狭間村・田楽狭間の戦い」。合戦の経過、合戦以前の情勢信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった。当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである。こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う。そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた。15世紀末、駿河国守護の今川氏親は東海地方において勢力を拡大し、後を継いだ今川義元は駿府を本拠とし駿河・遠江に領国を形成する。今川氏・織田氏の勢力拡大路線で隣国で紛争を起こして対峙すること多く、決着をつけるため桶狭間で合戦が繰り広げられた。 家永遵嗣は『今川記』の異本である『富麗記』の記述により、堀越公方足利政知が晩年に古河公方討滅を意識して「氏満」と名乗った上で龍王丸に偏諱を与えて「氏親」と名乗らせたが、延徳3年(1491年)に政知が死去して堀越公方と今川氏が対立関係となり反対に一時的に古河公方との関係改善が図られる中でこの元服と偏諱の事実を秘匿する必要があったが、最終的には堀越公方は没落して古河公方との関係修繕も失敗したために公然と「氏親」と称するようになったとする。これについて黒田基樹は『富麗記』に記された政知の改名の事実を裏付ける史料などは発見されておらず、この説を採用することは出来ず、20歳を過ぎても元服も諱を持たないことも異質ではあるものの、氏親の今川館入城の問題と共に国内問題と考えるしかないのではないか、と推測している。これより前、同年10月に龍王丸は大名で初めての印判状の文書を発給している(定着はせず、後に通常の花押を用いるようになっている)が、これも前述の問題を踏まえると文明19年(1487年)から明応3年(1494年)まで氏親が元服できなかった(花押が持てなかった)事態を反映していた可能性がある。氏親の家督継承に功績があった盛時には富士下方12郷と興国寺城が与えられた他、御一家(後述)と同様の待遇が与えられたとみられている。黒田基樹は国内平定の過程でそれまで堀越公方や扇谷上杉家などの影響力が及んでいた駿河東部にも今川氏の支配が及んだ結果、盛時が興国寺城に入ることになったと推測している。氏親には男兄弟がいなかったこともあり、今川氏の一族などを「御一家」として重用し、氏親の補佐や時には職務の一部の代行をさせた。永正10年(1513年)に駿府を訪問した冷泉為広の日記によれば、今川民部少輔(小鹿範満の甥・孫五郎と推定)・瀬名源五郎(瀬名氏貞)・葛山八郎(葛山氏広)・関口刑部少輔(関口氏兼)・新野(遠江新野氏か)・名古屋新五郎(今川名古屋氏か)の6名が挙げられ、母方の叔父である伊勢盛時もその一人と考えられている。
2023年09月10日
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