2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全23件 (23件中 1-23件目)
1
「ローマは一日にして成らず」このことわざ、実によく耳にする言葉ですよね。ふつうに良く使っているので、深刻に捉えることも少ないかもしれませんが、実はとても意味深いことわざだと思いませんか?なぜ? なぜ? なぜでしょう?世界を凌駕するような一大勢力をほこったローマ帝国は、何十年、何百年もの歳月を費やして、やがては世界に君臨したということなのです。つまり、どんなことでも一日で完成することなどあり得ないということではないでしょうか? 「取らぬ狸の皮算用」ということわざもあるように、毎日の精進、実践・実行無くしては、小さいことも大きなことも達成することは不可能であるという、列記とした証拠ですよね。何かを達成するためには、ぶれることのない明確な目標が必要であり、もちろんそれを実行して行くパワーがないといけません。実行とは、実のなる行いですから、確実に何らかの成果をあげていくのが当たり前なのです。ただ動き回っているだけでは、何の成果も現れず、やがて意気消沈して空しさ、自己嫌悪だけが残ってしまうのではありませんか?健康もまた然りであり、病気になってすぐに良くなることはありません。日々の努力が積み重なって、ようやく健康を手に入れることができるのです。何十年という無理の積み重ねで病気を発症しているわけですから、それを何十倍のスピードで改善しようとすれば、一時的な痛み、苦しみを伴なうことだって実際に起こりうるのです。病気と健康という間にある人は、まず病気とは、健康とは、そのことをじっくりと自分の中に落とし込んで、そこから日々の努力を続けられることを深く祈っています。わたしもまだまだ発展途上。幼いばかりの人間ですが、それでも健康であることの本質を毎日追求しています。その中で、健康とは「屈託の無い笑顔だ」と感じるようになりました。また、よき一日が始まりますように!(^.^)
2004年09月30日
コメント(1)
結局は”自分”今のわたしを形づくったのは、わたしなのだ!誰の責任でもない。わたしの考え方が”今の自分”を作ってしまったのだ。それを自覚しないで、今ある環境や他人の性にしていては、何の変化も訪れることはない。わたしが変わり始めたとき、すべては動き始めだす。だから何かが変わるためには、”自分”が変化しないといけない。わたしはものすごく不器用な存在だと、最近強く悟った。だから、一つのことをコツコツと積み上げていくしかホントの成功の道は開けてこないと自覚した。その日出会う人に正面から接して、素直に耳を傾け、目を捉え、じっくりと自分の気持ちを伝えて行ったとき、見えない心が見えてき始めた。まだまだ始まったばかり。でも希望の道はすでに出来ている。ありがとうございます。(^.^)
2004年09月29日
コメント(5)
自分の中で「実行力」が欠けているときは、心に不安や迷いが生じているときだと思う。わたしの場合は、大概そうである。「実行力」とは、読んで字の如く”実らせる行いのできる力”のことだから、ただフラフラ歩いて動いていても、何らかの成果(実)を達成することは少ないということだ。どこからでも実りを得ようとする強い意志があるところに、実の成る行いは生じてくるというわけだ!そのためには、決断力が必要になってくる。あれやこれやも悩むよりも、最後は自分のカンを信じて、”よし、決めた!”という勇気が必要になってくる。決断力とは、まずは「決めること」、次に過去を断つこと、つまり過去の自分でなく、今の自分、これからの自分を信じる勇気が必要になってくる。勇気は結局自分の中から生じてくるものである。勇気の源は、自分を愛する力、自分の信念に他ならない。開き直る勇気があれば、何度でもチャレンジできるとわたしはそう思う。そのためには、考え方が重要! わたしは人生は「試行錯誤」だと思っている。いろいろ試して失敗を積み重ねながら、やがてはその失敗の中から成功哲学を掴むことができるのだと思う。失敗を失敗と思わず、”ああ、いい経験をさせてもらった!ありがたい、ありがたい」と思って、手を合わせて行動する人には、ラッキーがいっぱい生じてくる。要はその人の「考え方」がポイントになってくるということだ。数多くの経験とは、2軍でのトレーニングと何ら代わることがない。大舞台の一軍で活躍するために、人一倍バットを振り、思いっきり三振の山を築いていくと、やがてホームランを打てる大打者になれる可能性も出てくるわけだ。わたしも今、トレーニングの真っ最中。毎日試行錯誤しながら、ワクワクドキドキの毎日を送っている。人生はなんと素晴らしいものだろう。神さまに心から感謝したい。「ありがとう!(^.^)」
2004年09月28日
コメント(2)
下っ腹(丹田)を意識して徐々に引っ込めて行くと、骨盤が自然と引き締まり、背骨が上にきれいに伸び始め、体のひずみが矯正されてきます。頭の中にイメージして、下っ腹をグーーと引っ込めていくわけですが、その結果として健康にも、姿勢にも、ダイエットにも、美容にも、大きく貢献できます。なぜかは、よ~く考えてみてください。
2004年09月23日
コメント(4)
私たちは、自分の胸の奥に、自分だけの素晴らしいシンフォニーを奏でる泉を持っていることをご存知だろうか?そこにはこの世の生き物とは思えないような、それはそれはきれいな龍のような魚が一匹あるいは二匹住んでいるらしい。そこは神さまが住まわれる大事な大事な泉であり、疎かにしていると、その泉は枯れてなくなってしまう。わたし達がその泉に向かって、心を静かにして素直な気持ちになり、大事なものを大切に包み込むように手を合わせて、「ほんとにありがとう!」と念じたとき、その言葉は一滴の尊い命の水となり、ポチャーンと音のハーモニーが体中に響き渡るみたいだ。それから、ニッコリ笑顔で出かけると、きっと朝から幸せを感じる出来事がいっぱい起こるはずだよ。人との出会いは宝物。神さまが与えてくださった神さまの使い。あっと驚くような出会いもいっぱいあるかもしれない。怒りを発したくなる出会いもあるかもしれない。それでも、すべてがわたしに必要があって出会っている晴れの舞台であれば、笑顔を失うことはないでしょう。今日という一日を与えていただいた神さまに感謝いたします。今日もまた日記を書くことができました。ありがとう!(^.^)
2004年09月22日
コメント(2)
わたしはかなり不器用な人間の一人だろう。これをつい最近自覚できたことは、わたしにとって大きな収穫だと思うのだ。わたしの中では傲慢にも、わたしは人よりもずっ~と器用な人間だと、そう信じて生きてきていたのだ。このことが、さらに自分の傲慢さを生み出していたのでしょう。思い込みとは実に怖い話でありますなあ。(~_~;)人よりもう~んと不器用だと自覚すると、あれもこれもと考えるわけにはいかなくなる。たくさんのことを同時にこなそうという発想が根底から崩れて、とにかくひとつのことを大事に、ていねいに、誠意をもってこなしていこうと、そう考えるようになってくる。とは言っても、今までの思考が全部が全部切り替わるわけではないけれど、とにかく目の前のひとつのことを大事にして行きたいと思えるようになったことは、わたしの中の重大な変化だと感じている。今日も一日精一杯働かせていただきます。素晴らしい出会い、素晴らしい出来事が雨霰のごとく、皆さんに降り注ぎますように。(^_-)
2004年09月21日
コメント(0)
ここ1週間あまりの中で、わたしはたくさんの気づきを与えてもらっています。神さまがどれだけわたしを愛してくださっているのか、日を追うごとに痛感する毎日です。今日という新しい一日を与えていただき、心から感謝いたします。m(__)mわたしはかなり頑固な性格で、自分に素直になれない自分がいるんですね。そうなると、なかなか人も寄ってきませんし、自分からも寄ろうとはしません。誰と我慢比べしているか、たぶん神さまと我慢比べしているのでしょうが、意地を張っても所詮神様には適いません。何ヶ月もの我慢比べもようやく素直に反省して、「本当にごめんなさい!」であります。(^^ゞ神さまはこの我慢比べの期間、わたしのために最高のパートナーたちを準備してくださっていました。(^.^) 神さまの愛はなんと深いことでしょうか? 気づけば目の前に幸福の条件がいくらでも転がっているのですね。わたしは随分と無いものねだりをしていました。自分に実力が、人脈が、信頼がないから・・・などと思っては、拗ねていたわけです。そうする中で、どんどんと行き詰まっていきました。最終的に、これしか道が無いという状況にまでなり、必死にそのことに没頭していったのです。短期間の中に、気づいたときには、ある程度の実力も、人脈も、信頼もいただくようになっていたのです。わたしという存在が今できることには限界があります。結局10%の力しかない人は、10%のもてる力を100%出し切ることが大事なのだと思います。そうすることで、10%が15%に、20%に、30%にレベルアップしていくのですね。判っているようで、全く実は判っていなかったのですね。「継続は力なり」という言葉、ほんと素晴らしいですね。いま、わたしができることを精一杯努力することを心がけしています。わたしは人に「最高の笑顔」を提供する健康インストラクターです。未熟ではあってもプロである以上、誠心誠意真心を尽くして努力したいと思います。わたしが必死にお世話する姿と、明るい笑顔をみて、感動し、喜んで、生きることの楽しみを感じてくれる人がひとりでも出てきたら、それがわたしの生きる糧になるのです。今日も日記を書いて一日を出発できることに感謝します。(^.^)心からありがとうございます。m(__)m
2004年09月20日
コメント(3)
もっともっと自分を信じてみよう。もっと自分に誇りを持とう。わたしは最高の運を持って生きている。(^.^)そして、まずは信頼し合える10人の人と心のつながりを持とう。昨日、わたしの最高の友だちから、こんなアドバイスをいただきました。心からありがとう!! (^.^)(^.^)(^.^)
2004年09月19日
コメント(0)
いろいろと笑いについて考えるよりも、素直に笑ったほうがいい。笑いは笑いを生み出す。(^.^)
2004年09月18日
コメント(0)
わたしは人一倍、不器用な人間だと思う。それに実に世渡りがうまくない。つい最近、親しくなった会社社長に、「あなたはほんと不器用な人だ。人生をかなり損している!」とそう言われた。わたしも最近そう思う。バカ正直すぎるみたいなのだ。だいたい、こんなこと書いていること自体、かなりのバカじゃないだろうか?(^^ゞ 誰が見ているかさっぱりわからんのに、おかしな話である。もともといい加減な人間の癖に、妙に完璧を求めるところがあるが(~_~;)、 そもそも人生におけるパーフェクトとは、一体なんだろうか?難しいことあれやこれや考えても、人生が楽しくなるわけでも何でもない。「笑う角に福来る!」と言われるけど、大人でも少年のように目を輝かせて、ケラケラ笑っている人を見ると、自然にこちらまで楽しくなってくるものだ。とすれば、人生などというものは、みんなで腹いっぱい笑えるようになれば、それでいいということになる。自分の家族が笑って暮らせれば、それで十分だということだ。家族が笑えるということは、その周囲の人も笑っていることにもなるのだから・・・へ理屈をいっぱい並べて、苦虫噛んでいる自分がいるのなら、そんなのは早く捨ててしまえばいい。そのとき一生懸命がんばっても、今は50%、60%、下手すると30%でも、それで一度は満足するしかない。満足してなおかつ前進していけば、30%が40%になり、40%が50%になっていく。80%まで行ったと思ったら、まだ最終到達点が30%にも到達していなかったということだってあるわけだ。今の自分の実力がたとえ十分でなかったとしても、だからといって中途半端な気持ちになることは、さらに事態を悪化させることになってしまう。今の自分ができる精一杯の気持ちを伝えること、それを何度も何度も繰り返すことで、最高の笑顔を提供できるようになるでしょう。今日は子供のようにニッコリと笑う大人の笑顔を拝見させていただいた。それだけで、とてもとてもありがたいと思った。いつでも、笑顔の素敵なおじさんになりたいなあ~ と、素直にそう思いました。
2004年09月17日
コメント(0)
わたしは”あまのじゃく”な性格の持ち主である。わたしは自分をそう思って生きていた。でも、その”あまのじゃく”な性格を嫌っている自分が、今までずっ~といたのも事実である。わたしの”あまのじゃく”な性格は、世の中の常識を常識と捉えず、神さまと対話することも、宇宙人と交信することも、霊界と交流することも、時空を超えることも、ある一定の法則を探り出すことさえできれば、絶対に可能であると確信して、それを素直に追求していった。一人でも多くの人たちが、神さま、宇宙人、霊界と普通に触れ合うことができるようになれば、それはそれでハッピーなことだと思ったからだ。となりのおじさん、おばさん感覚で、お付合いできれば、もっとみんなが人生を楽しめると純粋に思っていたのだ。突然の衝撃的な守護霊との出会い、神さまとのワクワクするような会話、高級霊たちとの涙溢れるふれあい、宇宙人からの愛のあるメッセージ、摩訶不思議な音楽の数々・・・ 何十人かはその喜びを共有し、数多くの涙を流した。でも、わたしは図に乗ってしまった。傲慢になってしまった。数多くの試練の中で”性格が裏目に出て、自ら交信を絶ってしまった。今また、こんなわたしを神さまは必要としている。二日間の九州商業界ゼミの期間中、たくさんの出会いを通して、神さまからわたしへのメッセージを受け取った。”あまのじゃく”なわたしは、一度駄々をこねると、なかなか心を開こうとしない。そのため、あの手この手で神さまは、わたしにアクセスを試みてくれる。神さまのそんな愛を拒み続けるわたしに、神さまはなんで愛想をつかさないのだろうか? それが人類に対する「神さま」の愛なのだとそう素直に感じた。中途半端な”あまのじゃく”であってはならない。中途半端だと、世の中に返って迷惑をかけることになる。これからは真っ当な”あまのじゃく”になって、自分らしさを追求していこうと心に誓った。わたしにしかできないこと、わたしが生まれた今のこのときに生きている証、皆さんと共に喜びを共有できることを楽しみにしております。(^.^) (^.^) (^.^)
2004年09月16日
コメント(0)
「無欲になれ! 無心になれ! 空になれ!」とときどき言われることがあります。我を忘れて無我夢中でやったときに、大きな飛躍があるとも言われます。このことは簡単そうで難しく、難しそうで簡単という、わけのわからん世界に入ってしまいますよね。(^^ゞつまり、感覚で体験した人にはその世界が見えるのに、感覚が得られない人にとっては、サッパリわからない頭を悩ませる見えない世界の話だからです。おまけに、「頭で考えるからわからないのだ!」なんて、言われるとさらに混乱を起こしてしまいます。どうしたら納得してもらえるのか? と、あれやこれやとこちらが心配しても仕方のない話なのですよね。むしろ理解のある人に話をすることが大切なのかもしれません。常識の尺度を超えた感覚の世界は、有限の現実世界とは異なり、とてつもなく無限な世界であります。空の世界は無限に広がるすべての記憶を司る世界だとわたしは思っています。空とは空気のごとく、目に見えなくとも確実にわたしたちに情報を提供し、生きるための酸素を供給して、不必要な二酸化炭素を自然に返しているのです。この空気のごとく、空を世界を当たり前のように感じることができれば、見えない世界から見える世界に必要なものを、誰でもが自由に手に入れることができるようになるでしょうね!そのカギはすでにこの地上に存在しているわけです。ひとりひとりに必要なアクセスキーを受け取るだけで、異次元の世界との扉(スターゲート)が開かれて、私たちの魂に新しい息吹が吹き込まれてくることでしょう。まさに宇宙人との接触、セックスに等しいものではないでしょうか?宇宙人とのセックスは、魂の中の情報交換、あらゆる記憶の受入となるはずです。すでに覚醒した人の中には、空の世界にアクセスして、そんな体験をしている人が無数に存在しているはずです。「ようこそ!地球から宇宙へ」(^.^)わたしの勝手な空想ですから、あしからず・・・
2004年09月13日
コメント(3)
数日間、日記の書き込みが出来ない状況でした。わたしに日記を心待ち?にしていた方には、どうも失礼しました(^^ゞ実は9月14日、15日に、別府のスギノイホテルを会場にして、第39回商業界九州ゼミナール大分が開催されます。九州一円から商人道を学ぶために、500名以上に経営者・事業主・社員が集まり、朝から晩まで一流の講師をお招きして、講演を聴いたり、交流会をしたり、ディスカッションを行います。毎年、九州の各地区持ち回りでゼミは行われていますが、大分で開催されるのは6年ぶりのことなのです。わたしも恥ずかしながら運営委員の一人として参加していますが、運営委員のメンバーは約一年間の激しい闘いを乗り越えて、心から笑える仲間へと進化してきました。(^.^)運営委員は約20名いますが、大小は別にしてほとんどがオーナーですから、皆さん一筋縄では行きませんでした。当然わたしも含めてですけど・・・ということで、その最終準備・打ち合わせのために、日記を書く暇がありませんでした。ごめんなさいね!明日から前夜祭を含めてスギノイホテルに泊り込みで、15日まで帰ってきませんので、その間日記とか返事はできなくなりますので、ご了承くださいませ。m(__)mちなみにわたしは記録係りの部長を承っています。録音・録画・講義投影、カメラ撮影など、ほとんど気が休めない真剣勝負ですが、すばらしい3日間になることは間違いありません。今回のテーマのみ記載しておきますね。「第39回商業界九州ゼミナール大分」 メインテーマ”君よ健康こそが商人道” サブタイトル”身体の健康・心の健康・経営の健康”
2004年09月12日
コメント(1)
最近全く疑うことがなくて、全然気づいていなかったけど、霊の存在ってみんな信じているのだろうか?わたしは霊がいることが当たり前の生活をしているので、疑うとか、信じないとか、そんな次元で最近考えたことがなかった。他人の神さまは良くわからないけど、自分の神さまが存在していることも当たり前だと思っているので、神様を信じる、信じないとそんなことを思ったこともなかった。一般的には、神さまの存在論議、霊の存在論議は未だに続いているのだろうか? そう言えば、わたしの周囲の人は、特定の宗教に関わりなくても、神さまとか、霊のことなど当たり前に感じている人が普通なので、実は世の中の常識が、非常識になっているのではなかろうか? と、ふと思ってしまった!原因不明で過食症になったり、拒食症になったり、あちこちに痛みが生じたり、何度も入退院を繰り返したり、マイナスばっかり考えるとか、やたら良くないことばかり起こるなど、そんなときは霊的な影響が関わっているケースが多い。そんなときは、その人に関わる霊が、何かのメッセージを伝えようとしているわけだから、きちんと受け止めることが大事だと思う。例え生きていてもコミュニケーションは必要不可欠なのだから、亡くなった人とのコミュニケーションだって、とても重要だと思いますよ!見えようが見えざろうが、生きていようが死んでいようが、魂はれっきとして存在しているわけだから、どんな環境にいたとしても、コミュニケーションを取ることが大切だと思う。
2004年09月10日
コメント(10)
私たちはふだんの生活の中で、普通に声を掛け合っている。何気なく母親と子供たちの会話に聞き耳を立ててみると、その会話はとても心地よいものがある。子供の声に耳を傾けながら、子供の目線で楽しそうに母親が言葉を返しているのだ。ごく当たり前のことなんだけど、母親も子供も潜在的にほんの小さな喜びを感じながら生きているのでしょうね。(^.^)生きて行く上で、会話・・・・・<また、書きますね! 仕事です(^^ゞ>
2004年09月09日
コメント(0)
稲穂は成長と共に頭を下げて、頭を低くすると言われますが、人間は成長するにしたがって、なかなか頭を下げることができなくなりますね。自分に素直さが無くなって来ると、子供のような純真な心まで無くなって行くようです。大人でも、わからないことはわからないと言って、笑顔で教えをいただこうとする人は、偉大な人だと、頭の下がる思いがします。わたしなどなかなかこうは行きません。(^^ゞさて、まだまだ台風の突風が吹いている中、目前にあるスーパーの駐車場に散歩に出かけた。台風の影響と夜の8時を過ぎていることもあり、車はほとんどなかった。軽く車500台は止まれる駐車場で、夜空を見上げるには最高のスポットなのだ!その駐車場の角隅に、未だに残る水田がある。ほんの30年前は、ここら一体は水田ばかりの田舎だったそうだが、今ではすごいにぎやかな町になっている。だから、水田があるのは珍しい光景になっている。それで、我が家の子供たちは、この水田からおたまじゃくしを捕まえてくる。先日、この水田に子供たちが遊んでいたボールが入り込んで、稲を少し痛めてしまった。家族全員で「申し訳ありません」と謝りに行った。(^^ゞ随分とタイトルから離れてしまったようだ~。どうも魂がさ迷っているらしい(^.^) ~~~@まあ、何を言いたいのか言えば、実が付き始めたばかりの稲穂は、台風の突風に激しく揺れても、稲全体がその風をじょうずに受け流し、からだを前後左右に美しく動かしているのだ。そこには全くの乱れがないことに、感動と共に驚いた。稲は水田深くに根を張って、足元はびくともしない。その根の張りがあるからこそ、上半身は自由にからだを表現することがでているのである。ものすごく柔軟性をもって対処しているのだ。今回の台風で、たしか長崎辺りの路地の大木がたくさん倒れていた。よく見ると、巨木の割には根の張りが非常に浅いことに気づかされた。神社仏閣にある昔ながらの巨木は、大地にしっかりと根を下ろして、台風で倒れることは滅多に無いようだ。それもたくさんの仲間(ご神木)がその周りに存在して、お互いに助け合って大地を育み守っている。自然は自分たちの生き様を通して、私たちに多くの教訓を教えてくれている。ありがたいことである。日本に住まわれる八百万の神さまに深く感謝したい気持ちである。(^.^)大自然の恵みに感謝!!
2004年09月08日
コメント(4)
こころが乱れて迷走している時、瞑想することをお勧めします。(^.^)迷走している時は、こころが苦しかったり、焦りがあったりで、ソワソワして胸が締め付けられているので、まずは深呼吸から入ってくださいね。迷走状態のとき、呼吸が浅いので、すぐには深呼吸ができません。脈拍もとうぜん速くなっています。ですから、ゆっくりと呼吸を整えることが大切なのです。臍の下に両手をおいて、肩を呼吸に合わせてゆっくりと上下させながら、全身の力を抜いていきます。お腹の筋肉も緩めてもらって大丈夫です。誰もいない砂浜の波の音とか風の音をイメージしたり、リラクゼーションミュージックをかけてみてもいいですね。イスの上でも、あぐらかいても、正座でも、車の中でも構いませんよ。カタチも大切ではありますが、こころを落ち着けることが重要なことなのです。こころ静かに周囲の音を遠くに感じられるくらいになったら、鼻呼吸に切替えて、下腹を使うようにして、ゆっくりと深呼吸を行ってください。胸の中から息をゆっくりとできる限り吐いてください。それから、下腹を引っ込めながら、胸に呼吸を貯めていきます。こうすることで、全身に血液と酸素が行き渡り、こころも落ち着いた状態になっているはずです。やなぎが心地よい風に吹かれてゆらゆらと動くように、からだを静かに左右に振ってみてください。波に漂うような心地よさを感じるはずです。からだが自然に大きく振れるような状態になる人がいます。これは気功では”自発功”と呼ばれるもので、自己の内面がからだのひずみを調整しているのです。恐れずにその揺れに身を任せていくと、自分の体のシコリがだんだんと無くなっていく事を感じられるはずです。”自発功”は、個人差が大きく、かなりの揺れを伴うことがあります。霊に乗り移られたのでは?と錯覚するぐらいです。(~_~;)5分~10分ぐらいで自分の意志で止めて下さいね。(^^ゞ最後に静かにこころを整えて、額のずっ~とずっ~とはるか先に小さくて温かな光を感じてください。イメージするだけでけっこうです。そして、その光を自分の額に近づけてください。どんどん近づけて、額の中に取り込んでください。それが完了したら、静かに目を開けてみてください。今までの世界とは少し違った世界に見えてきませんか?一日ではなく、一日に何回も、それを1週間も継続すると、ふと違った自分に気づき始めるはずです。あなたはあなたであってあなたではない、別の世界の扉が開かれる可能性がありますよ。わたしの今日の日記で、さらに迷走してしまった人は、ごめんなさい。m(__)m 今のうちに謝っておきます。(^^ゞ
2004年09月07日
コメント(8)
5日の夜半から雨が断続的に降り続いている。雨音が突然激しくなったり、しばらく静かになったり、けっこうお天気も忙しいらしい。私たちはお空の上から雨が降ることなんて、当然のように考えている。確かに生まれたときから、いやずっ~と太古からこの地球上では雨が降ってきたのである。「はて、なんでだろう?」と疑問に思ったとしても、雨が降らなくなることもないだろう。でも、水力発電の原動力になっている川の水は、間違いなく雨によってもたらされたものに違いない。私たちが食べている野菜や果物も、雨による恩恵と言える。だって、一年を通じて雨が降らない砂漠地では、日本のような豊富な野菜も果物も育つことはない。雨無しには砂漠を緑地化する手立てがないとも言える。今回の台風18号は、先回の16号に負けないぐらいの強力なものになるかもしれない。恵みも大きいが、リスクも大きいかもしれない。でも、必要な水を日本中に供給しているわけで、自然とは実に摩訶不思議である。
2004年09月06日
コメント(0)
イエス・キリストは、2000年前に十字架にかかった。それは歴史上の事実。イエス・キリストの12弟子たちは、最後にすべて裏切った。「最後の晩餐」は有名な話になっている。その裏切りによって、イエス・キリストは十字架にかかり、やがて壮絶な死を迎えた・・・十字架上のイエス・キリストから、見えたものは何だったのか?12弟子たちは、自分たちが罰せられるのが怖くて、近づくことができなかった。逃げ回ったのだ。そんな中にあって、逃げ出さなかった弟子たちがそこにいたことをご存知だろうか?十字架上のイエス・キリストを見て、激しく泣いていたのである。「もし適うことであれば、わたしが代わってあの十字架の磔になりたい」と、切に願った弟子たちである。それはイエス・キリストを最後まで愛した女性の弟子たちであったと、わたしはそう感じた。イエス・キリストは、彼女たちの涙を見て、大いなる喜びと悲しみを感じたのではなかろうか?自分の死を通して、これから起こる彼女たちの悲劇は? イエス・キリストは、神さまに彼女たちのことを切に願ったに違いない。イエス・キリストの死から3日後に、彼女たちはイエス・キリストの死体をもらい受けに行っている。しかし、すでにイエス・キリストの死体はそこにはなかった。イエス・キリストが復活して弟子たちの前に現れたが、弟子たちはまったく気づかなかった。これはどういうことだろうか?それはイエス・キリストの霊が、ひとりの青年に一時的に乗り移ったからに他ならない。わたしも一度、わたしの守護霊がわたしの体に現れ、3日間直接気功の元になった導引術を教えてもらったことがある。それから、意識することで霊との交信ができるようになった。イエス・キリストの霊をすぐに感じたのは、実は彼女たちである。それは姿かたちでなく、女性特有の感覚によるものだと思う。それから2000年の時を経て、長く続いた男性社会が急激に崩壊しつつある。家庭の時代に変わってきていることは間違いないと、わたしは思います。すでにイエス・キリストが願った子羊の婚姻のときは来ている。仕事も家庭を中心にしたものに再び変化を遂げようとしている。イエス・キリストは、女性の愛によって救われた。だから、21世紀は女性が愛される時代になったのではなかろうか?わたしの勝手な解釈ではあるが、アダム・エバの失楽園以来、聖書が世界に広がることによって、エバ(女性)は不浄なもののように扱われてきた。しかし、本来神さまがもっとも愛したものは、エバそのものに他ならない。女性が女性らしく、彩りを添えることができるようにと、わたしは願っている。(^.^)もう10年以上聖書を手にすることはないが、さまざまな場面がわたしの頭の中に記憶されている。アダム・エバから始まった聖書の物語は、これから真実の物語へと変化してもいいのではなかろうか? 神さまが神さまらしくあるために・・・ユダヤの神さまも、イスラムの神さまも、ヒンズーの神さまも、日本の神さまも、同じ土俵の上に乗らないと、人類の悲劇は神さまの名のもとに行われることになってしまう。人間のエゴによって、神さまが最終戦争の引き金を引きかねない状況に神さまは深く心を痛めている。
2004年09月05日
コメント(0)
昨日は、昼間も夜も、食材、味、水すべてにこだわりのある洋食屋で食事をさせてもらった。水は社長自ら車で1時間はかかる水汲み場まで汲みに行き、1時間かけて水汲み場をきれいに掃除して、野菜は15年も前から契約農家と一緒になって、有機無農薬の野菜作りに精を出している。ここのオムレツはどれも格別においしい。ひとつひとつの素材がバランスよくマッチしているからだ。ドレッシングも手作り。卵だって、信頼のおける農家から直接仕入れている。で、余談はともかくとして本題は何か? と言えば、「おもてなし」のこころである。たった一杯のお水ではあるが、そこには「おもてなし」のこころがこもっているということだ。だから、とにかく水がおいしい。大事に大事にありがたくいただくその一杯。水いっぱいに、これだけのこだわる社長の地道な苦労を知らない人がほとんどであるが、「おもてなし」はじんわりじんわりと、こころに温もりを与えてくれるものである。聖書の中で、イエス・キリストが語った言葉の中に、「わたしにたった一杯の水でも与えたものは、決してわたしの救いからもれることはない」ここでいう一杯の水とはどんなものだったのだろうか?当時の貧しいイスラエルには蛇口など当然無かった。共同の深い井戸から水汲みをしないといけなかった。女性にとっては重労働のひとつである。イエス・キリストはボロボロの着物をまとっていた。そして、からだも大きく、ひげは伸び放題。風呂に入ることもせず、とにかく臭くて仕方がなかった。あまりに疲れて、井戸の近くで倒れこんでいた・・・マクダナのマリアは、小さな子供たちを抱えるシングルマザー。まともな仕事もなく、夜の仕事をするしかない。ユダヤ教では本来姦淫は最大の罪である。しかし、子供を養うにはそれしか手がない。そのために、ふだんは昼間に水汲みなど決してできない。夕方になって人気がまばらになった頃、こそこそと水汲みをしていたのだ。マクダナのマリアは、昼頃窓から子供たちと外を眺めていた。すると、暑い陽射の中、行きずりの大きな若者らしき男が道端に倒れているのが見えた。しかし、誰に彼に近寄るものがいない。マクダナのマリアは、葛藤する・・・「誰か、彼に声をかけるものはいないのか?」「誰か、食べ物を分けてあげる人はいないのか?」と。やがて彼女は意を決して、彼のもとに近づく。水が必要なことを感じた。彼女は周囲の主婦たちが見ていることも構わず、井戸で水を汲み、そして彼にいっぱいの水を分け与えたのだ。イエス・キリストは、この一杯の水によって、救われたのだ。多くの人々から捨てられ失いかけていたイエス・キリストの灯し火は、このときから再び光を増していったのだ・・・イエス・キリストの言う「一杯の水」とは、そんな「おもてなし」の水なのである。自分のいのちを捨てたところにある「水」のことである。マクダナのマリアの与えた一欠けらのパンとは、どれほどのごちそうだったことか?イエス・キリストの愛とは、マクダナのマリアが灯した愛に他ならない。神さまの愛はすべての人に平等の降り注いでいる。しかし、人はそれを受け取ろうとはいない、わたしを含めて。わたしはここ何年も愛を語ることができないで来た・・・それは、「おもてなし」をすることが怖かったからなのだろう。いま、一生懸命「おもてなし」をしようとがんばっている。どんなに否定しようとしても、「おもてなし」することは、わたしは好きなのだ!
2004年09月04日
コメント(5)
実はですねえ、わたしはここ1,2ヶ月ひどいスランプに陥っていたのでした。なかなか思い通りに事が運ばないと言うか、やること成すこと、ホント成果が出ない状況が続いていた・・・目に見えない壁にぶつかっていて、それが何なのか、ハッキリ見えてこない、トンネルの先が見えて来ない状況下にあった。人生にはこんなスランプがたま~にあるものなのだ。でも、数日前辺りから改善の兆候がチラホラ見え隠れするような気配を感じるようになっていた。そして、今日、決定的にわたしの運は切り替わったのだ!その理由をお知らせしましょう。「ええ~、そんなウソのような出来事で何でわかるの~」と皆さんは思うかもしれないけど・・・(^.^)本日、車の窓ガラスを半分ほど開けて、車を走らせていた。そうしたところ、一匹の○○蜂(バチ)”名前が不明”が、窓にぶつかり、わたしの太もものの上に突然落ちてきた。思わずびっくり! って感じですよね。おまけに車を走らせているわけだし。スズメバチの小型版みたいな蜂なので、正直言って怖かった。羽をひどく打ったらしく、しばらくもだえて、わたしの足に刺がいつ何時刺さりはしないか不安だったが、それからわたしの足元に転げ落ちた。わたしはそれを踏み潰すこともできたが、太宰治の雲の糸ではないけれど、その蜂が哀れに思ってそれをせずに、放っておいた。そうしたら、なんとしばらくしてその蜂は奇跡的に回復し、みごと飛び去ったのである。これは神さまからわたしへの暗示なのだと一瞬にしてそう悟ったのだ。わたしの場合、こんなナゾナゾじみたお知らせが良くあるのだ。・この蜂はわたしを暗示していたのだ。・窓ガラスは目に見えない壁を暗示している。・もだえるとは、つまりしばらく思い悩むこと。・落ちるとは、光を失う、先が見えなくなること。・そして蜂(バチ)は、もうひとつの意味、すなわち「バツ」と読むわけだ。・足元に落ちて靴に踏まれそうになるとは、ギリギリの状況になって、世の中さえ否定しかけること。・放っておいたら奇跡的に飛び立つは、無欲になってやるべきことに立ち返ったら、不思議な運勢に乗り、飛躍すること。わたしは神さまから何かのために「バツ」を与えられて、目に見えない壁にぶつかり、一度暗闇に落ちてしまったのだ。そして落ちているときに、不安や恐怖で動けない状況になったが、何とかふんばり、それを足で投げて踏み潰すことをしなかったので、神様はそれを「良し」とされて、再び飛び立つことを許されたのだ。「お前の運はあるキッカケで落ちてしまって、壁にぶつかったが、気づきを得たので、もう一度運を掴む直すことができた(飛んだ)!」きっとそういうことだろう。案の定、それから運がどんどん回ってくるようになった。「ありがとうございます、神さま!」m(__)m今回の問題は、ある裏切り行為と思えることを境に、わたしはそれにだんだんと囚われて、物事の本質を見失ってしまったのだ。つまり、目に見えない壁とは、見なくても良いことにあえて囚われてしまって、全体を見ることができなくなったということだと思う。それがなぜ起こったのか、ばずはその全体的な大きな流れ(長期的目標設定)をはじめに掴んで、その中からその場面の出来事(短期的なズレ)を判断して、的確な判断をすべきだということなのだ。つまり、はじめに物事の全体をしっかりとイメージできることが大事(ビジョン化)で、そうすれば、あらかじめ起こりうる先の予測が判断できるようになり、間違いなく王道を沿った行いをなすことができるということだろう。わたしの悪い部分は、目の前で起こっている出来事にしか眼中になくて、その場しのぎで、小手先で、人生を繰り返してきているので、今このときに方向転換しないといけないというのだ。自分の今までの考え方を180度切替えなさい! そう言っているように思えてならない。「まあ、いいか?」「まあ、あまり関係ないし・・・いいかな?」こんな無責任なわたしでは絶対に困ることが、今から先、すぐにでも発生するのだろう?「すべてはわたしに責任がある。ある以上は、まずは全体をハッキリと把握して、みんなが安心して生活できるように、心がけることだ。また、神さまは人格を変えるための「気づき」を与えんと、神さまご自身が必死だったのかもしれない。今日はここまでにします。ありがとうございました!!
2004年09月03日
コメント(4)
わたしはクーラーはあまり好きではない。理由は健康にあまり良くないと思っているからだ。免疫力がかなり低下しているときに、クーラーの温度切替えが、たった0.5度変わるだけで、咳き込んでしまうことがある。これは以前のわたしの話だけど、世の中にはけっこういると思います。外出先からクーラーの入っている室内に入った途端、咳がなかなか止まらなくなる人、いませんか?旋風機は世の中に当たり前のようにあるけど、これが発明された当初はどれだけ感謝されたことでしょうか?首フリまで始めたときには、これまたびっくりだったでしょうね!旋風機が家族団欒の中で回っている風情を思い浮かべるだけで、何だか胸にジーンと来るものがあります。旋風機がなぜ風を起こすのか、それはあの羽の形にありますね。上手に周囲の空気を掴んで、送り出しているわけです。その風を感じて、空気の存在を感じることができますよね。たぶん、宇宙空間で旋風機をまわしても、風は発生しないでしょうね。「たぶん」というのは、自分で実験したことがないからです。理論的にはそうに違いないということですけど・・・同じような原理で飛行機を飛ばしたり、船を走行させたり、プロペラの技術が世の中に大きく貢献していることになります。競艇の好きな人は、プロペラの発明家に感謝しないといけませんねえ!
2004年09月02日
コメント(0)
愛を語れないわたしの話し。(^^ゞわたしはこの5年間、たぶん愛を語ったことがないでしょう。自分の中にちっとも”愛”というものが何なのか、見えてこなかったからです。そして”愛”を語ることが本当は怖かったからでしょう。愛に対する深いトラウマを持っているわけです。わたしの今生での最終目的地は、”愛”を学ぶことと思い、死ぬときにそれがわかるだろうと考えてきたのです。今までに”愛”を語るたくさんの宗教団体に、それとなく足を運びましたが、”愛”を語る割には、そこには”愛”を発見することができませんでした。そして、”愛”の源である神さまとか仏様と、自然に触れ合い対話している姿を、そこで見たことがなかったのです。何で信仰している人が、その源と直接対話しようとしないのだろうか? 神さまとはもっと身近な存在ではないのか?いつしかわたしは”愛”をまったく語らなくなりました。それでも生活する上で、別段何の支障もなかったからです。ただただ、病気で苦しむ苦痛に満ちた顔が、”笑顔に変わる”その瞬間を喜びにしていたところがあったようです。ようするに、人に”笑顔を取り戻す”ためのピエロを演じていたのかもしれないということです。時には人がわたしを見て、やさしいとか愛があるとか、そう言われることもあるけど、わたしにしてみれば、どこがやさしいのか、どこに愛があるのか、サッパリわからんという具合だったのです。でも、今日になって”愛”を語ることも大事かな~と突然思うようになったわけです。「いつまで寝ているか、このバカ!!」ですねえ。10代からずっ~と”愛”を求めて放浪してきたわたし。”愛”を口にしなくなっても、世の中から”愛”が消えたわけではないらしい。(^^ゞ”愛はわかりません”と言ってしまえば、一生愛はわからないもので終わってしまう、きっとそんなもんでしょう! ”愛”を自分の中に呼び戻すために、”愛”という積極的な行動を興す自分にならんといかんようです。そうしたら、きっと”愛”を語れるようになるでしょう!!自分の中に眠る神さま「ウッチー」への呼びかけの言葉です。神さま!そんなに拗ねてないで、そろそろ活動してください。アマノジャクな性格はわかりますが、それでは世の中がよくはなりませんよ。日本の神さまなら、日本のためにまじめに働かないと、台風だけでも日本はメチャクチャになってしまうじゃありませんか! 自分に害がなければそれでいい、そんな気持ちじゃあ人はついてきませんよ!他の神さまがあきれているじゃありませんか? あなたの兄弟たちも笑っていますよ! 能無しと・・・ほんとうは一番力があるのですから、そろそろ起きてもらわんと困ります。(T_T)バカには「バカもんー!!」と言わんと、危険ですなあ~
2004年09月01日
コメント(4)
全23件 (23件中 1-23件目)
1

