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古楽ファンの勝手気ままなモノローグ。
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2026.10.04
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カテゴリ: 音楽
週末に大昔(1990年代末)の新聞スクラップを整理していたところ、作家の島田荘司さんが映画『アマデウス』のラストシーンでのサリエリの台詞「私は、すべての凡庸なる者のチャンピオンなのだ!」を取り上げたコラム記事(A新聞に掲載)に行き当たりました。

島田さんは記事の中で、映画を見た当時にはこの言葉の意味がよく理解できず、「自分は天才にかなわなかった挫折者であるが、同類たちのうちにあってはそれでもナンバー・ワンなのだ、というせいぜい負け惜しみの意味に受け取っていた」とのこと。ところが、その後米国で暮らすようになって、台詞にある「チャンピオン(champion)」という英語が「擁護者」というもうひとつの重要な意味を持つことを知り、ここでもそのような意味が込められていることに気づきます。曰く、「サリエリは、精神病院で没する直前、自分がすべての凡庸なる者の擁護者であった使命を悟ったのだ。そしてこの言葉を吐いた瞬間、凡庸なる彼は、「アマデウス」の主役に踊り出た。」



映画では、サリエリが生涯敬虔な信仰心とともに生真面目な努力を傾け、ついには「宮廷楽長」という当時の音楽家にとって最高の地位のひとつを得たにもかかわらず、彼の前にどこからともなく現れて騒動を引き起こす「チャラ男」モーツアルトが実は真の天才であり、自分の才能がその足元にも及ばないことを誰よりも深く悟ってしまう、という残酷な運命に苦悩するサリエリの姿をこれでもかと描いています。亭主もこのコラム記事を読み返すうちに『アマデウス』のラストシーンがありありと脳裏に蘇ってきました。



『アマデウス』の中心的なメッセージは、クラシック音楽を代表する音楽家モーツァルトを 「天才=聖人君子」という虚像から解放すること にありました。モーツァルトの音楽がいかに素晴らしいものであっても、人物としてのモーツァルトがある種の俗物(?)であったことは彼と家族の間の手紙からもよく知られており、映画でもその点が意図的に強調されています。

しかしながら、この映画はモーツアルトの虚像を剥ぎ取ってみせる一方で、クリエイターとしての彼を相変わらず 19世紀的な「天才」として偶像化している ことも明らかで、このところ話題にしている能力主義(メリトクラシー)の観点からもそこが気になり始めました。

近代以降のメリトクラシーにおいては、「結果(成功)」の正当性を勝者の能力で説明しようとします。しかし、もし「能力=どれだけ血の滲むような努力と練習をしたか」の総量で測られてしまうと、結局は「環境の格差(教育を受けられる経済力や親のバックアップ)」の差に行き着いてしまい、身分社会の再生産ではないかという批判に直面します。 そこで、「努力のプロセス」を隠蔽し、あたかも天から与えられた「神聖な閃き(天分)」であるかのように見せかけることで、不平等な結果を「個人の資質の差」として美しく正当化する装置として「天才」という概念が機能した面は否めません。

モーツァルト自身、幼少時から「教育パパ」であるレオポルトの徹底的な教育訓練に応えて自ら大変な努力をしていたように見えます。さらには、過密な演奏旅行や、常に「神童」であり続けることを要求されるプレッシャーに心身をすり減らしました。実際、モーツアルトは度重なる旅行の間にチフス(1765年、9歳)、天然痘(1967年、11歳)など命に関わる複数の深刻な感染症や伝染病にかかり、発育不全で体も小さかったようです。また、6歳ごろに罹患した猩紅熱のせいで、少年期を通じて何度もリウマチ熱の発作を起こしていました。これらの若年期における度重なる感染症や免疫系の病気は彼の体に大きな負担を与え、35歳という若さで亡くなった最期の病(腎不全などの合併症)の引き金になったという説が現代の医学調査でも有力視されています。

ところが、周囲(父や社会)が彼に求めたのは「努力している生身の人間」ではなく、「神の声をそのまま代弁する神秘的な存在」でした。 彼が自分たちと同じ泥臭い努力や苦悩の果てに優れた作品を生み出していると認めてしまうと、自分たちの無力感に向き合わなくてはならなくなります。「彼らは生まれながらの別格(天才)なのだから、自分たちがかなわないのは仕方がない」と諦めるために、世間は「天才」という虚構を必要としてきたのかもしれません。

亭主がまだ10代だった頃、当時購読していたリーダーズダイジェストという雑誌の中に散りばめられていた警句のひとつとして今でも思い出されるのが「 不幸とは能力と期待の落差である 」。これはまさにサリエリの苦悩そのものです。 彼は音楽に対して誰よりも真面目に向き合い、厚い信仰とたゆまぬ努力でその地位を築きました。だからこそ、「神に選ばれたはずのモーツァルトが、実際には(そのような真面目な努力とは無縁そうな)下品で軽薄な振る舞いをする人間である」という現実(落差)に直面したとき、精神が崩壊しかけました。 もしモーツァルトを「努力の怪物」と認めてしまうと、自分のこれまでの人生の正統性が揺らいでしまいます。「あいつは神に愛された特別な(=努力を超越した)天才なのだ」と思い込むことで、かろうじて自分の尊厳を保とうとしたとも読めます。つまり、「天才」とは、凡人たちが圧倒的な他者の才能の前に打ち砕かれそうになったとき、その敗北を納得するための「お守り(あるいは免罪符)」のような役割を果たしてきたと言えます。

メリトクラシーの冷徹な競争社会がもたらすプレッシャーの中で、我々は「努力すれば報われる」という神話と、「努力しても生まれ持った天才には勝てない」という諦めの二つの矛盾の間で揺れ動いてきました。そのあわいに生まれた「天才」というフィクションは、メリトクラシーの残酷さと、それを何とか耐え抜こうとする健気な自己防衛の歴史そのものなのかもしれません。

ちなみに、亭主が愚考する「天才」の本質とは、「自分がいくらそれをやっても飽きない(それが好きで楽しい/やめられないと感じる)対象を持っていること」です。努力という言葉は「何かの目的のために意に沿わないことをやる(その苦痛に耐える)」というニュアンスが濃厚ですが、「天才」とはそれが楽しくて夢中でやっているうちにいつの間にか誰をも凌駕してしまった、という人達です。(もちろん、その「好きなこと」で稼げるかどうかはまた別の話ですが…)






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最終更新日  2026.10.04 17:20:14
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