ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

2017/05/26
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テーマ: 京都。(6100)
カテゴリ: 修学旅行ガイド
2017年 5月26日(金)】

 6月13日の修学旅行で御所を案内しなければなりません。今まで、修学旅行にしても、公募ガイドにしても、御所は行ったことがありません。Privateでも、春だったか、秋だったかの一般公開で1回か2回行ったきりです。

 それで下見が必要と思い、今日、 アスニーセミナー 某講座の伏見稲荷現地研修 に参加後、京都御所を訪問しました。

 以前は、京都御所は事前申し込みして観るか、春と秋の一般公開のときしか観るかことができませんでした。去年7月26日から予約不要の通年一般公開がされるようになりました(無料)。ですので、修学旅行や公募ガイドでの京都御所案内は我がガイド会でも増えています。

 入場は清所門からです。以前の一般公開のときは宜秋門からでしたが、現在はここからです。入場の際に、簡単な手荷物検査があり、見学者を示す札をもらって首から下げての見学でした。

 一通り廻って、ルート、必要な時間、見学・説明の要点など把握できました。説明を少なくして急いで廻れば40分くらいでしょうか。修学旅行では説明あまり要りませんが、今後公募ガイドを担当することもあると思い、帰りに売店で、3600円(税込)もしましたが、仙洞御所や大宮御所も載った詳しいガイドブック(京都新聞出版センター編)を買いました。




 下記は、見学できる場所について、そのガイドブックなどを参考にまとめものです。

​京都御所​
 平安京では、 大内裏 に、 紫宸殿 正殿 とする 内裏 があった。960年(天徳4年)に大内裏は最初の火災に遭い、以降、焼亡と再建を繰り返した。しかし、1227年(安貞元年)の火災以降は再建されなかった。

 再建による造営が成るまでの一時的な皇居として 里内裏 が置かれた。現在の京都御所は里内裏の一つであった 土御門東洞院殿 が起源。 光厳天皇 が元弘元年(1331)に土御門東洞院殿で即位された。さらに、1392年(明徳3年) 後亀山天皇 三種神器 後小松天皇 に渡して以降、南北両朝が統一されることになり、以来この里内裏は皇居として定着した。

 しかし、ここもその後幾度となく火災に遭い、都度再建が行われた。当初は現在の敷地の半分以下だったが、 豊臣秀吉 徳川家康 による造営により敷地は次第に拡張された。建築様式や全体構成は時代とともに変化していった。 光格天皇 の御代の天明8(1788)年の焼失時には、第 11代将軍徳川家斉 (いえなり)の命により、江戸幕府の 老中松平定信 を総奉行として再建された。 有職(ゆうそく)故実家 裏松固禅(光世) らの考証により、紫宸殿や清涼殿などを平安の古制に戻し、 飛香舎 (ひこうしゃ)などの失われていた御殿を復活して、寛政2年(1790)に完成した。

 しかし、この内裏も 孝明天皇 の御代嘉永7年(1854)に焼失し、天皇の命で 徳川家定将軍 が、翌安政2年(1855)に前回の内裏をほぼそのままの形で再建させた。今の京都御所の姿はこの時の再建によるもの。現在の御所は、孝明天皇及び 明治天皇 の日々のご生活や数々の宮中の年中行事に加え、幕末期の王 政復古の大号令 小御所(こごしょ)会議 五箇条の御誓文の発布 、明治・大正・昭和の天皇の即位式が行われた歴史的舞台である。

 平安京後半五百数十年は現在の京都御所の地が皇居であったことになる。現在の規模は、東西250m、南北450m、面積約11万平米。


​御車寄(おくるまよせ)​
 公卿をはじめとする高位の貴族などが、儀式や天皇との対面のために使用した玄関。
宜秋門 を入る公家たちは、門で履物を 浅沓 (あさぐつ)に履き替え、ここから参殿した。毎日午前10時に出勤し、午後3時に退出したという。 「牛車(ぎっしゃ)の宣旨(せんじ)」 を賜った貴顕に限り、宜秋門を乗り物で通過して 御車寄 まで乗りつけることができた。





​諸大夫の間(しょだいぶのま)​
 正式な御用で参内した公家や将軍家の使者の控えの間。身分に応じて部屋が決まっていて、右に行くほど身分が高く、西から東へ 「諸大夫の間」(桜の間) 、「 殿上人(てんじょうびと)の間」(鶴の間) 「公卿の間」(虎の間) と襖の絵にちなんで呼ばれている。畳縁の色の違いや部屋への入り方にも身分の違いが反映されている。虎の間・鶴の間を使用する者は正式な玄関である御車寄から参入するが、桜の間を使用する者については、建物の左にある 沓脱石 (くつぬぎいし)から参入した。









​新御車寄(しんみくるまよせ)​
 さきほどの「御車寄」は「おくるるまよせ」と読ませるが、こちらは天皇陛下の玄関なので「みくるまよせ」。
 天皇は 紫宸殿 南階 (みなみのきざはし・十八階段)で鳳輦などに乗り、 承明門 建礼門 を出入りされた。明治になって馬車や自動車でお召しになるようになるが、大正4年の即位礼に際して、自動車が利用できるように新築されたのがこの新御車寄。御所で唯一ガラスのある御殿。





​紫宸殿​
 京都御所において最も格式の高い正殿であり、 即位礼 節会 などの重要な儀式がここで行われた。桧皮葺き屋根の木造高床式純和風建築ー 宸殿造り 。内部は 拭板敷き (ぬぐいいたじき・漆塗りの板)。外周は柱間ごとに一枚あての を嵌め、四囲に低い 高欄 をもつ 簀子縁 (すのこえん)をめぐらす。

 即位礼は本来 大極殿 で行うのであるが、安元3年(1177)に炎上の後は再建されることがなく、その後は長く 太政官 で行われてきた。その太政官も寛政6年(1465)に 後土御門天皇 の即位の礼を最後に、再建されることなく、応仁の乱となる。

 次の造営は安政2年(1855)だが、伝統的な儀式が行われるように平安時代の建築様式で建てられた。この再建では、天正17年(1589)と慶長11年(1606)年の 豊臣秀吉 による内裏改修で、旧紫宸殿の遺構が移築された 泉涌寺海会堂 (かいえでどう)、 仁和寺金堂 などが参考にされたという。入母屋造り、檜皮葺き。

 慶応4年(1868)には 「五箇条のご誓文」 の舞台ともなった。 明治、大正、昭和の三代の天皇の即位礼 はこの建物内で行われた。

回廊 に囲まれた白砂の庭を 「南庭(だんてい)」 といい、即位礼の時にこの庭に旗などが並び、殿上に皇族・諸大臣・外国使臣などが参列した。正面の門が 承明門 (じょうめいもん)、向かって右に 日華門 、左に 月華門 が建つ。回廊とともにいずれも唐風に丹塗りで、白木のままの紫宸殿と対照的。

 本来は日華門、月華門は閉じていて、御即位、立后、立太子その他の厳儀に開き、 左近衛府 右近衛府 (さこんえふ、うこんえふ)が入って南庭に陣を整えた。

 前の階段を 「南階(みなみのきざはし)」 という、ゆったりとした内裏正面にふさわしい階段。階段は数えて 18級 「九」の倍数 。中国では「九」は陽数であり、吉数。一から数えて九は数字の終わりで、数字の極限であり、神秘数として重んじられた。内裏は 「九重」 とも呼ばれた。

 紫宸殿から見て左側に 「左近の桜」 、右側に 「右近の橘」 が配されている。それぞれ左近衛府、右近衛府が整えた陣の先頭の位置なので、この名がある。左近の桜は 山桜 。もとは だった。梅は唐から移入された木であり、奈良以来の唐文化への憧れがが平安京内裏の造営にも受け継がれた。桜に植え替えられたのは、平安京五代目の 仁明天皇 のとき。右近の橘は、平安京造営時から植え継がれているが、なぜ橘なのかの理由は定かではない。一説に次のような話がある。

垂仁(すいにん)天皇 のとき、 田島守 (たじまもり)は勅命を受けて 「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」 を求めて全国を遍歴するが、目指す木の実を手に入れた帰ったとき、すでに遅く、天皇は亡くなっていた。田島守は実を御陵に捧げ、涙のうちに命を終えた。この「非時香菓」が橘で、田島守の美談を伝えて植えられたという。






檜皮葺きのカットモデル



清涼殿の東庭から紫宸殿北面を見る




高御座(たかみくら)・御帳台(ごちょうだい)
 紫宸殿には、中央に天皇の御座(ぎょざ)「高御座」と、その脇に皇后の御座「御帳台」が置かれる。これらは即位の礼などで用いられる調度品。現在の高御座は大正2年に製作されたもので、大正、昭和、平成の礼で使われた。今上陛下の即位の礼では、東京の皇居宮殿に運ばれて使われた。​
 高御座は高さ6.4メートル。金色の金具と黒漆塗りの格挟間(こうざま)に、金地に極彩色の 麒麟 が描かれる。中壇は八角形の屋形がすえられ、周りには朱色の勾欄をめぐらせる。天蓋には高さ1.7メートルの 鳳凰 が羽ばたき、八つの各棟には小さな鳳凰がとまる。

 御帳台の造りは高御座とほぼ同じだが、大きさは1割程度小さくなっている。








​春興殿​
内侍所 ともいう。平安京では武具の格納所。鎌倉末期から 神器 が奉安されるようになった。

 現在のものは大正天皇の即位礼に建てられたもの。檜造り、銅葺き屋根、反りのない向拝を付ける。


​清涼殿​
 紫宸殿が公事、儀式の御殿であり、南面して建つのに対して、清涼殿は天皇の日常の御殿であり東面する。檜皮葺き、入母屋造り。紫宸殿同様 宸殿造り であるが、日常の御殿であるため内部は襖などでの間仕切りが多くなっている。

 もともと平安京内裏での天皇の日常御殿は、紫宸殿の北、清涼殿の東隣にあった 仁寿殿 (にじゅでん)であり、 宇多天皇 のころの平安初期から中期の過渡期に清涼殿に移ったといわれる。平安京内裏の古制を紫宸殿よりよく伝えている。

 日常の御殿ではあったが、政事・神事などの重要な儀式もここで行われた。天正18年(1590)に 御常御殿 にお住まいが移ってからは、主に儀式に使用された。

 中央の畳を敷いた部分が 「昼御座(ひのおまし)」 といい、天皇の日常の御座である。 繧繝縁 (うんげんべり)の厚い畳2畳を敷き、上に 御茵 (おしとね)が置かれる。後ろに白絹の帳(とばり)を下した 御帳台 が置かれる。

 南廂の板敷きの間が 「殿上(てんじょう)の間」 。大臣・公卿の詰所や会議室として使用された。ここに昇ることができる者を 「殿上人(てんじょうびと)」 と呼んだ。

 前の庭は 「東庭」 。向かって左に 漢竹 (かわたけ)、右に 呉竹 「徒然草」 に登場する。左右の配置が対象ではなく、前後にもずれている。ともに中国伝来の竹で、呉竹は 真竹 の異称で、漢竹は 皮竹の転訛説 がある。

 前面に 御溝水 (みかわみず)が流れ、北の端に流れの落ち口がある。 「滝口」 と呼ぶ。清涼殿を警護する武士が滝口の前に詰めた。




昼御座 後ろに御帳台



蔀戸



漢竹



呉竹




​荒海障子​
 清涼殿に置かれた襖障子。左半分の画面には、やたら足の長い男が、やたら手の長い男を肩車している。右半分の画面には、手の長い男が、長いその手を伸ばして水中をまさぐっている。この不思議な画題は、中国古代の「山海経(さんがいきょう)」に見える。障子の場面は、中国の西のはての、長臂国(ちょうひこく)、長股国(ちょうここく)の住民が魚をとって生活する故事による。

 裏面はうってかわって大和絵風な宇治川の網代。

 襖障子には 地獄組 という方法で組まれており、その説明書きもある。

「殿上の間」 の東には 「年中行事障子」 がある。一年間の宮中儀式を一つ一つ克明に墨書したもの。 孝孝天皇 の仁和元年(885)に 太政大臣藤原基経 が創始したものと伝えられる。

 東廂には「荒海障子」に対照する位置に 「昆明池(こんめいち)障子」 が立つ。唐の長安城の西郊にあった昆明池を極彩色で描いている、裏面は、鷹狩りをする近衛司の人物を描いている。人物は 藤原季綱 (すえつな)の少将といわれ、舞台は嵯峨野の推測されている。

荒海障子の説明
​​




襖障子の構造の説明






小御所(こごしょ)
 小御所と御学問所はともに平安京内裏にはない御殿。

 主に皇太子の元服式や立太子礼に用いられたが、幕府の使者や大名の拝謁などにも使われた。、慶応3年(1867)12月9日の 王政復古の大号令 御学問所 で発せられ、天皇のもとに総裁、議定、参与の 三職 を置く中央政府が設立されたが、 小御所会議 はその夜開かれた三職による初めての会議。 明治天皇 岩倉具視 山内容堂 松平慶永 (よしなが)、 大久保利通 後藤象二郎 西郷隆盛 らが着座した。明治維新史上画期的な出来事であった。

半蔀 (はじとみ)の内側に 明障子 (あかりしょうじ)を立て、 宸殿造り から 書院造り へ移行する時期の建築様式とされる。半蔀とは、上半分を外側へ吊 (つ) り上げるようにし、下半分をはめ込みとした蔀戸 。

 昭和29年に鴨川で打ち上げられた花火の洛下で小御所だけ焼失し、昭和33年に復元された。(花火が原因ではないという説もある)





​蹴鞠の庭​
​ 小御所と御学問所の間の白砂の空間。蹴鞠の最盛期は鎌倉時代から南北朝時代。宮中だけでなく武家にも及んだ。 飛鳥井流 難波流 の門流も生まれた。


小御所と蹴鞠の庭



御学問所(おがくもんしょ)
 慶長18年(1613)に 徳川家康 による内裏造営で、 清涼殿 に角にあったっものを独立させて造営した御殿。家康は 「禁中諸法度」 を定め、「天皇が修めるべきものの第一は学問である。」とした。この天皇の行動を規制する意図に沿ったもの。御読書始(おどくしょはじめ)や和歌の会などが行われ、実際には純粋の書斎、学問修養の場ではなかった。前述のようにここで明治天皇が親王・諸臣を引見され、 「王政復古の大号令」 を発せられた。

 格子戸の蔀に替えて 遣戸(舞良戸) 障子 で四面を閉ざし、床や違い棚を備え、内部は畳敷きなど、 書院造り の様式を色濃く伝えた御殿。違い棚は 「千鳥棚」 と呼ばれ、 桂離宮の「桂棚」 修学院離宮の「霞棚」 とともに、 御所の三棚 と呼ばれる。( 「天下の三名棚」 は、この「千鳥棚」に代わり、 醍醐寺三宝院奥宸殿の「醍醐棚」 が入る。)








​御池庭​​​
回遊式庭園 。前面に 洲浜 を控え、その中に飛石を配して船着に導いている。右手にゆったりと弧を描いた 欅橋 がかかり対岸の樹間を縫う苑路を廻って様々な景色を楽しむことができる。

 御池庭は室町時代の内裏には見えない。江戸時代初期の 徳川家康 の造営で作庭された。 前田玄似 が作り、江戸初期に 小堀遠州 が手を入れた。








​御常御殿​
 清涼殿に設けられるようになっていた常御所(つねごしょ)が、天正18年(1590)に建物として独立したもの。天皇のお住まいであるとともに、南面に上・中・下段を備えて儀式や対面の場としても使われた。檜皮葺き、入母屋造り。平安時代の趣を伝えた 宸殿造り の様式をとどめる。内部はすべて畳敷きで 書院造り

 この殿舎で天皇に奉仕したのは、稚児と年老いた何人かの男性を除いてほとんどは女官、 女嬬 (にょじゅ)といった女性で、男子禁制の殿舎であった。









御内庭(ごないてい)
 曲折した遣り水を流し、所々に土橋、石橋を架け、燈籠や庭石を配し、植栽に工夫を凝らしたお庭。 池泉回遊式 の庭で、 「流れの庭」 とも呼ばれる。​
​ 奥に 数寄屋造り の茶室 「錦台(きんたい)」 を構える。四畳半の茶室。庭園を見下ろす物見台でもあった。

 北に見える赤土壁の杮葺きの瀟洒な建物は 「地震殿(じしんでん)」 とも 「泉殿(いすみどの)」 ともいい、地震の際に一時避難するためのもの。平屋で天井もなく、畳敷き2間と便所だけで、壁は薄く、軽い屋根など地震に強い構造になっている。また納涼の場でもあり、暑さを避けて招宴が開かれたり、歌舷の催しや茶会が行われた。

 北にたどれば、「御常御殿」に結ばれた清雅な 「迎春(こうしゅん)」、 「御涼所(おすずみしょ)」、奥には茶室 「聴雪(ちょうせつ)」 といった建物がある。「迎春」は 孝明天皇 の御書見の間として建てられた。東南には 「龍泉門」 と呼ばれる牡丹の花を透かし彫りした門がある。









御三間(おみま)
 御常御殿の西。御常御殿の中にあって、日常の御座所であった時期もあったが、寛永の造営で別棟になったという。三つの間は同時に用いられ、涅槃会、茅輪(ちのわ・夏越払へ)、七夕、目出度事御盃(めでたごとおさかずき・盂蘭盆)などがここで行われた。​







右が御学問所、左が御三間と御常御殿



(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)



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最終更新日  2019/06/01 04:21:15 AM
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