ワルディーの京都案内

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2021/05/29
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テーマ: 京都。(6436)
カテゴリ: 若冲と応挙
【2021年5月29日(土)】

 今日は、もともとは修学旅行ガイドの予定でしたが、コロナでキャンセルとなり、在宅でした。6月1日の準備を今日終えたかったのですが、明日に持ち越しです。


「奇想の画家 若冲と応挙」の第15回、「売茶翁との交流と若冲の名の由来」です。

◆第2章 伊藤若冲(続き)

2-10  売茶翁との交流と若冲の名の由来

 若冲の生涯と主な作品について述べてきました。そのなかで、若冲と交流のあった人物のうち、最も重要な人物は 大典顕常 であると記しました。若冲は大典以外にも、多くの文化人や禅僧と交流をもっていました。 池大雅 、黄檗僧 伯珣照浩 、儒学者 皆川淇園 、 木村蒹葭堂 (けんかどう・大坂の酒造業者で文人・好事家)などですが、大典の次に忘れてはならないのが 売茶翁

 売茶翁は、肥前(佐賀県)に生まれ、11歳で肥前の黄檗宗 龍津寺 (りゅうしんじ)に出家し、僧名を 月海元昭 といいました。江戸、仙台などで修業し、 黄檗山萬福寺 でも修業しました。その間に長崎で煎茶の知識を得たといわれています。

 享保16年(1731)、月海57歳のとき龍津寺を法弟に譲り上洛します。そして、享保20年(1735) 、月海61歳のとき東山に 「通仙亭」 という庵を構え、街中で茶を売りながら禅や人の生き方を説きました。人々は親しみを込めて「売茶翁」と呼ぶようになりました(以下「売茶翁」と記します)。売茶翁のもとには多くの文化人も集まり、そのなかに若冲もいたのでしょう。そして、売茶翁は、延享元年(1744)70歳のときから約10年間、相国寺塔頭 林光院 に住まいます。大典顕常はそのとき26歳で相国寺の役僧でした。そこで、大典も売茶翁と知り合うことになったのだと思われます。

 この売茶翁が所持した茶道具 注子(ちゅうす・水差し)が現存しています(右写真)。その腹には次のような漢詩が書かれています。

『去濁抱清 縦其灑落 大盈若冲 君子所酌』

誰がどこで詠んだものかも刻まれています。

『丁卯之夏日 東湖山人題 于糺林水涯』

「丁卯」=延享4年(1747)」の夏の日、「東湖山人」=大典顕常、「糺林水涯」=下鴨神社糺ノ森(ただすのもり)の川辺。延享4年は、売茶翁が林光院に住み始めて4年目、大典と売茶翁が下鴨神社の糺ノ森に遊び、大典が詩を書き、注子に刻んで、後日売茶翁にプレゼントしたのでしょう。詩の書き下しは 「濁を去(あら)い清を抱き、其の灑落(しゃらく)を縦(ほしいまま)にす。大盈(たいえい)は冲しき(むなしき)が若し、君子の酌む(くむ)所」 。意味は「非常に大きな器があるとする。その中に何も入っていないときは、役に立たない無用の長物と見える。しかし、そこに水か酒でも満たし始めると、底知れぬ大きさだと気付くだろう。」

「大盈若沖」 は、大典オリジナルではなく、次の 老子第四十五章 からの言葉です。

「大成若欠 其用不敞 大盈若沖 其用不窮 大直如屈 大巧如拙 大弁如訥」

書き下しは、 「大成は欠けたるが若きも、其の用は敝きず。大盈は沖しきが若きも、其の用は窮まらず。 大直は屈するが如く、大巧は拙なるが如く、大弁は訥なるが如し。」 意味は「本当に完全な物は何かが欠けている様に見えて、その働きは衰える事が無い。本当に満ちている物は空っぽに見えて、その働きは枯れる事が無い。本当に真っ直ぐな物は曲がっている様に見えて、本当に巧妙な者は下手くそに見えて、本当に能弁な者は口下手に見える。」

「若沖」 にすい(冫)」 ですが、老子の原文の「じゃくちゅう」は 「さんずい(氵)」 です。雅号「じゃくちゅう」は「にすい(冫)」。ですので、 「若冲雅号、注子から説」 をとりたいところです。

 若冲の制作年が分かっている一番早期の作品は 「松図番鶏図」 (現在所在不明)で、37歳のときの作品です。そこに「若冲」の落款があります。注子の大典の詩が作られた後で、かつ若冲が大典の知遇を得た後ですから、次期的には符合します。しかし、制作年代は分からないものの、この絵よりさらに早い作風の狩野派風の 「旭日鳳凰図」 (第10回で紹介)にも「若冲」の落款があり、大典と知り合う前から「若冲」を使っていた可能性はあります。そうなると「若冲」が老子四十五章に由来しているとしても、どのような経緯で「若冲」を名乗るようになったのかは謎となります。

 売茶翁と若冲の関係は非常に濃密だったようです。若冲は人物画をほとんど描いていません。肖像画となると皆無といってもよいくらいですが、売茶翁だけは肖像画を描いています。しかも、複数描いています。右図はそのうちの1つで、大典顕常の賛も入っており、大典、売茶翁、若冲の3人の親密さを示すものといえるでしょう。



 一方、売茶翁は若冲の絵の技量に惚れ込んでいました。次のような一行詩を若冲に与えています(右図)。

「丹青活手妙通神」 (丹青活手の妙、神に通ず。たんせいかっしゅのみょうかみにつうず。)

「丹」は丹塗りの「に」で赤色のこと。「丹青」は赤と青で「絵」という意味です。「あなたの素晴らしい絵は神と通じ合っている」最上級の賛辞です。詩の両側に「宝暦庚辰(10年)冬極月」「八十六翁高遊外書付 若冲隠士」とあり、宝暦10年(1760)若冲46歳のときに、86歳の 高遊外 (売茶翁の還俗後の名)が若冲に送ったことが分かります。若冲が「動植綵絵」の制作をしていたころで、売茶翁はその細密で印象的な絵の数々に感動したのでしょう。若冲はこの一行詩を、「動植綵絵」の1つ 「蓮池遊魚図」 の遊印に使っています(右図)。この一行詩は明治時代「動植綵絵」と併せて皇室の御物となり、現在は「動植綵絵」同様、 宮内庁三の丸尚蔵館 に所蔵されています。

 また若冲は 「斗米庵」「米斗翁」 という雅号も落款として使っています。この雅号の由来もみていきましょう。寛政6年(1794)若冲78歳のとき、浅野家陪臣の 平賀白山 らが、石峰寺門前に住む若冲宅を訪問しています。その白山が 「蕉斎筆記」 の中で、若冲と交流のあった大坂の画家・ 松本奉時 から聞いた話として、次のように書いています。

「今は稲荷街道に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後ろの山へ自身の下絵の思い付きにて、羅漢一体ずつ建立しぬ。よりて米斗庵と落款をば書きぬ。」

これをもって、石像群を建てるようになってから、米一斗(約18ℓ、「一斗缶」で想像できます)相当の代金で絵を売り、米斗庵の落款を使うようになったとされることもあります。しかし、色んな場面で依拠として引用した、若冲51歳のときに大典が書いた「寿蔵碣銘」に「 観る者、その妙なることに感服し、遂にこれを以て斗米に易えて給に取る。ここにおいて斗米庵の号あり。」 と書かれています。また、少なくとも若冲55歳までには全部完成した「動植綵絵」のなかの 「池辺群虫図」 に「斗米庵」の落款があり(右図)、石像群を建立するずっと以前から「斗米庵」という落款を使っていたことが分かります。

 その時期は家督を次弟に譲ったものの、金銭が特に必要な生活環境ではありませんでした。では何故、米一斗あるいはそれに値する金銭を絵と引き換えに受けとったのでしょうか。ここにも売茶翁の影響があるという見方があります。売茶翁が僧職を捨て、煎茶を売ってわずかばかりの金銭を得る生活に転じたのは、宗教家や知識人の「商いは卑しい」という考え方への痛烈な批判からではないかともいわれています。その考え方に啓蒙された若冲が同じような行動をとったという見方です。あり得るかもしれません。これに加え、家督を次弟に譲り、いわば居候だった若冲が、せめて自分が食べる分だけは稼がなければという現実的な側面もあったのかもしれません。後者のほうは筆者の勝手な推測ですが。

 一方「米斗翁」のほうは、前回紹介した、天明の大火で焼け出された直後に描いた大坂・ 西福寺 の 「仙人掌群鶏図」 に初めて落款として登場します。ですので、こちらの方は石峰寺石像群を建立し始めた後から使いだした雅号ということになりそうです。 「白衣観音・鶴・亀図」 にも「米斗翁」の落款がありますが(右上図)、「米斗翁」のあとに「行年八十歳画」とあり、かなり晩年の作品です。



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最終更新日  2021/06/03 03:13:25 PM
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