ワルディーの京都案内

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2026/06/03
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テーマ: 鉄道(27795)
カテゴリ: 京都市の鉄道史
京都市の鉄道史
~その1~

1.はじめに
 京都市には、JR在来線4線(東海道本線・山陰本線・奈良線・湖西線)・東海道新幹線、そして阪急・京阪・近鉄3社の大手私鉄が乗り入れている。嵐電、叡電といった京都市内だけを走る地元密着のローカル鉄道も走っている。また、昔は市電も走っていた。京都は日本最初の営業用電車が走った街でもある。愛宕山鉄道という第二次世界大戦中に廃線となった鉄道もある。そして、昭和末期には、ようやく地下鉄も営業を開始した。時代の流れのなかで、経営母体が変わったり、京都駅以南のように、目まぐるしく路線のやりくりが行われたところもある。それら京都市の各鉄道(関係する関西圏の鉄道も含む)の歴史を「えっ、そうだったの?」というトリビアなエピソードの数々を交えながら振り返る。

2.プロローグ
1) 『別段風説書』(べつだんふうせつがき)が伝えた欧米の鉄道事情
 世界で初めて公共交通手段として営業的に成功を収めた鉄道は、イギリス産業革命の最終局面にあたる1830年に開業したリバプール/マンチェスター間、約70kmの鉄道であった。鉄道はその後急速に欧米諸国に伝搬し、ほぼ20年後の1849年には、世界の総営業距離は約3万kmに達した。
 これら情報は、バタフィア(現在のインドネシアのジャカルタ)のオランダ領東インド政庁が毎年提出した『別段風説書』によって江戸幕府に伝えられた。また、ペリー提督の来航もこの書は予測していた。

2) ペリーの献上品に蒸気機関車の模型があった
 『別段風説書』の予測通り、嘉永6年(1853)6月にペリーが浦賀に来航し、日本に開国と通商を求めた。大統領の親書を渡していったん退去するが、翌年嘉永7年(1854)2月に回答を求めて再び来航した。このとき、ペリーは将軍への献上品の一つとして蒸気機関車の模型を持参し、幕府の応接掛(おうせつがかり)の前で運転をしてみせた。

 また、ロシア使節プチャーチンもペリー初来航直後の嘉永6年(1853)7月に通商を求めて長崎に現れたが、やはり蒸気機関車の模型を携えていた。これを見学した一人が佐賀藩精錬方雇(せいれんかたやとい)の中村奇輔(きすけ)であった。中村は田中儀右衛門(「からくり儀右衛門」と呼ばれた)らと研究し、2年後の安政2年(1855)、蒸気機関車の模型を製作し、模型ではあるが、日本で初めて「鉄道」を走らせることに成功した。


3) 日本人で初めて鉄道に乗ったのは・・・
 海外渡航が禁止されているなかで、アメリカにわたって実際に鉄道に乗った日本人がいた。ジョン万次郎こと中浜万次郎である。中浜万次郎は土佐の漁師で、天保12年(1841)に遭難しアメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡った。万次郎は、1850年、カリフォルニアの金山に入ることを目的に、サクラメントで鉄道に乗った。初めて鉄道に乗った日本人ということになる。プチャーチンが蒸気機関車の模型を日本に持ち込む3年前の出来事であった。中浜万次郎は、帰国後の取り調べで「1日に300里(1,178km、江戸・福岡間距離相当)走った」と語っている。

4) 江戸幕府など使節の欧米派遣
 その後、開国を経て条約の批准などで欧米に向けて幕府の使節が派遣されるようになる。
 安政7年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のため、70数人の使節団がアメリカに派遣され、パナマ/アスピンウォール間で鉄道に乗り、使節団の一人で仙台藩士であった玉虫誼茂(やすしげ)は『来航目録』に「其の奇巧の精密、只々驚き入るのみ」と書いている。
 文久元年(1862)、幕府は修好通商条約批准のため、欧州にも使節団を派遣した。福沢諭吉はこの使節団に随行し、マルセイユ/パリ間などで鉄道に乗った。途中立ち寄ったリヨンの繫栄の要因が鉄道の要地であることを見出し、鉄道は政府ではなく、株式会社によって敷設されていることも知った。(福沢諭吉『西航記』)

 長州藩は西欧の科学技術を学ぶため、文久3年(1863)、伊藤博文、井上馨など5人の若者(後に「長州ファイブ」とよばれる)を英国ロンドンのユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)に留学させた。その中に井上勝(まさる)がいた。井上は鉱山・鉄道の分野を学び、明治維新直後の明治元年1月に26歳で帰国した。この井上が明治4年(1871)に鉄道頭(てつどうのかみ)に就任し、以来、明治26年に鉄道庁長官を辞任するまで、ほぼ20年間にわたり、鉄道専門官僚として、日本の鉄道システム構築の陣頭指揮をとった。井上勝は「日本の鉄道の父」と呼ばれた。



1) 明治政府による廟議決定

 幕末時期、薩摩藩や幕府が西欧列強国と手を組み鉄道敷設を計画する動きも見られたが、順調には進まず、やがて明治維新を迎え、鉄道敷設の決定権は明治新政府の手に委ねられることになった。海外からの働きかけもあったが、いずれも「外国管轄方式」に近い計画であったため、明治政府はすべて拒否し、「我内国人民合力を以って」敷設するという「自国管轄方針」を決定した。政府はまず国内の民間資本を調達し、外国人技術者を雇用して敷設するという試みをするも、うまくいかず、国内の民間資本導入による敷設はあきらめざるを得なかった。そして、明治2年11月、イギリス資本導入を前提とした鉄道敷設計画「幹線ハ東西両京を連絡シ枝線ハ東京ヨリ横浜ニ至リ、又琵琶湖辺ヨリ敦賀ニ達シ、別ニ一線ハ京都ヨリ神戸ニ至ルヘシ」が決定した。

2) 広軌か狭軌か
 海外資本による敷設に根強い反対論は残っていたが、伊藤博文、大隈重信ら、いわゆる開明派官僚が強力に鉄道敷設を推し進め、ついに明治3年3月に東京/横浜間、同年8月に神戸/大阪間の工事が開始された。この区間から工事が開始されたのは、大きな港があり、物資輸送上利点があることと、大都会に近いためである。イギリスから外国人技術者団が招聘され、エドモンド・モレルが建築技師長に就任した。まず、軌間(左右のレールの幅)を決める必要があった。イギリスなどの西欧諸国では、1,435mmの広軌が採用されていたが、植民地などの経済発展が遅れている地域では、敷設コストの安い1,067mmの狭軌の方が適しているとの論がイギリスで優勢であったため、モレルは狭軌を進言した。前出の井上勝も、同じコストでできるだけ距離を延ばせる狭軌を押し、狭軌が採用されることになった。しかし、狭軌採用は、後の工業化進展で輸送力不足を招くことになり、井上勝も後に「先見の明なきを愧ず(はず)」と『鉄道時報』で述懐している。

3) 汽笛一声 新橋/横浜間開通 
 明治5年5月7日、品川/横浜間23.8kmが仮開業し、当初は一日2往復の列車が走ったが、徐々に増便された。そして同年9月12日(1872年10月14日)、明治天皇臨席のもと開業式が行われ、新橋/横浜間29kmが正式開業した。一日9往復で、導入された機関車10両すべてがイギリス製であった。この10月14日は、現在「鉄道の日」となっている。建築技師長のモレルは、建設工事のさなか肺結核の病に倒れ、開業を目にする前に30歳という若さで亡くなった。横浜の外人墓地に夫人とともに眠っている。





次回「京都市の鉄道史」→





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最終更新日  2026/06/08 11:04:09 AM
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