神戸/大阪間の工事は、新橋/横浜間の工事に遅れることわずか4か月で、明治3年8月に開始された。モレルが伴ってきたジョン・ダイアックとジョン・イングランドが技術指導にあたった。明治5年、モレルの後任として、リチャード・ピカース・ボイルが着任し、神戸に駐在し、阪神間の鉄道建設を統括した。阪神間にはトンネルは不要のように思われるが、石屋川、芦屋川、住吉川という3つの天井川があり、それぞれにトンネルが掘られた。石屋川トンネルは明治4年7月に竣工し、我が国初の鉄道トンネルとなった。明治7年2月竣工の武庫川橋梁(全長255m)が我が国初の鉄橋となった(新橋/横浜間にも鉄道橋はあったが木橋であった)。こうして、明治7年5月21日から神戸/大阪間の営業が開始された。一日8往復、神戸/大阪間の所要時間は1時間15分であった。
大阪/京都間の工事は政府の財政難もあり、開始が遅れ、ようやく明治6年12月にダイアックを中心として開始された。明治9年7月、大阪/向日町間開通。中間駅は高槻だけ。明治9年8月に中間駅として、吹田、茨木、山崎が加わり、9月5日には京都大宮通りに仮営業所を設けて一日6往復で大宮/神戸間(うち1往復だけ大阪止め)で営業を開始した。京都駅は大宮仮停車場の東約800mの場所に明治10年2月に竣工した。赤煉瓦造り2階建てで中央が小さい塔のようになった左右対称の建築であった。初代京都駅である。2月6日、明治天皇の行幸をあおぎ大阪、神戸、京都で開業式が挙行された。初代京都駅は「ひっちょのステンショ」(七条のステーション)の愛称で市民に親しまれた。
何故、京都駅は七条通近くに造られたのであろうか。当時の京都の中心は、モダン建築が今も多く残る三条通であり、それらモダン建築の分布をみると、三条通のなかでも烏丸通/河原町通間に集中している。ここが明治期の京都の中心だったと考えられる。国土地理院公開の京都駅近辺の最も古い地形図である明治22年版を見てみよう。初代京都駅ができた12年後の地図である。西洞院通から本町通にかけての市街地の最南端は七条通であることが分かる。土地買収がしやすくて、かつ烏丸通/河原町通間に近いこの場所が選ばれたのではないかと、筆者は推定している。
明治11年、内務卿大久保利通は海運網と連絡する鉄道を重視する政策に転換し、大津/京都間、敦賀/米原間の鉄道敷設などに予算を振り向けた。
今も、旧逢坂山トンネルの遺構が残っている。東北側トンネル入口の中央上部には、三条実美(さねとみ)公揮毫の「楽成頼功」の扁額が見られる。「工事に関わった人々の功に頼って落成した」という意味だが、「落成」では「落盤」などを連想させるため、「楽成」というポジティブな言葉に変えているのが面白い。工事に携わった人々が、犠牲者を伴う難工事の末このトンネルを完成させ、これが楽しい世の中に繋がるという意味を伝えたかったのであろう。このトンネルは戦時中は軍需工場に転用された。また、昭和35年に鉄道記念物指定された。現在では京都大学防災研究所地震予知研究センターの施設として利用され、防災のために有効活用されている。
「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」の歌い出しで有名な歌は明治33年に世に出た鉄道唱歌東海道編であるが、その45番で「大石良雄が山科の その隠家はあともなし 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山」と山科と伏見稲荷が歌われている。その伏見稲荷部分を刻んだ歌碑が、JR稲荷駅の「JR稲荷駅ランプ小屋」(準鉄道記念物)の傍らに建つ。今この歌碑だけ見れば、何故、奈良線なのに鉄道唱歌東海道編の歌碑があるのかと不思議に思うだろうが、これは、当初の東海道本線が前述のように稲荷を通るルートをとったことによるものである。
明治14年9月に、琵琶湖湖上輸送を担う太湖汽船が設立され、明治15年5月、日本初の鉄道連絡船が大津/長浜間に就航した。琵琶湖東岸から敦賀に至る鉄道ルートについては、明治17年4月に長浜駅/金ヶ崎駅(かねがせき)(後の敦賀港駅)間が全通した。これにより、連絡船経由ではあるが、神戸(太平洋側)と敦賀(日本海側)が鉄道によって結ばれることになった。 
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