仕事のこと 0
母の備忘録 0
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第10回1級 問題3の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題3】建築・美術・工芸について、次の間いに答えなさい。 (2点×10問=20点)(21)京町家の2階部分に見られる漆喰を施した窓(写真の囲み部分)を何というか。(22)岩倉具視幽棲旧宅(左京区)の敷地内にあり、岩倉具視に関係する資料などが展示されて いる国の登録有形文化財の建物の名称は何か。(23)空海の師・恵果が、空海に与えるため、唐の画家・李真らに、真言宗の祖師五人を描かせ た「真言五祖図」は、空海が持ち帰り、わが国でさらに2人を加えて、国宝として東寺に残 る。この国宝とは何か。(24)鞍馬寺の毘沙門天三尊像(国宝)の毘沙門天立像は、特徴ある格好をしているがそれは次 のどれか。最も適当なものを(ア)~(エ)から選び、記号を書きなさい。 (ア) 2本の腕を頭上高くかかげて組んだ掌の上に化仏をいただく (イ) ながめるように左手をかざしている (ウ) 左後方を振り返っている (エ) 髪の毛がアフロヘアのようになっている(25)室町時代の桧巻「泣不動縁起(重文)が伝わることから、今年(平成25年)、能「泣不 動」が数百年ぶりに上演された、浄上宗京都四ヵ本山の一つである寺院はどこか。(26)江戸中期の文人画家で、与謝蕪村とともに日本の南画の大成者とされる人物は誰か。妻の 玉瀾は、時代祭の江戸時代婦人列にも登場する。(27)日本画家、橋本関雪の邸宅「自沙村荘」にある50畳の大画室を同というか。(28)千家十職の一つで、茶の湯に使う道具(写真)をつくり、二条通で美術館を運営するのは 何家か。(29)釈尊か過去世で出家し修行したので、現在世で成道したという伝記を説いた「絵因果経」 (国宝)を所蔵し、聖徳太子の創建と伝わる北区の寺院はどこか。(30)寺社建築で、横に渡された梁などを支える部材で、装飾にも使われているものは何と呼ば れるか。写真参照。 栂尾の高山寺 石水院(国宝)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/17
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第10回1級 問題2の解答です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題2】神社・寺院に関する記述について、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点)【神社】 平成25年(2013)、伊勢神宮では20年に一度、出雲大社では60年に一度の式年遷宮が執り行われた。京都では、世界遺産である賀茂別雷神社(通祢・上賀茂神杜)と(11)(通称・下鴨神社)が、平成(12)年に式年遷宮を迎えることから社殿の修復などが順次、進められている。 神社に祀られる神様の使いとされる動物を「神使」と呼ぷが、お稲荷さんは「狐」、天神さんでは「丑(牛)」など特定の動物が決まっている場合か多い。石清水八幡宮は「鳩」、吉田神社では「(13)」が神使とされている。 神社のご利益は祀られている神様によって異なるが、下鴨神社の境内にある摂社の河合神社は美麗の神様として信仰があつく、美麗の祈願絵馬として「(14)絵馬」が授与されて、絵馬に化粧を施して身も心も美しくなることを願う。また、昔から参拝に訪れた多くの人びとが行き交う神社の門前には茶店か立ち並び大いに賑わう。北野天満宮の門前茶屋では餡餅ときな粉餅の2種が名物菓子「(15)」として愛され続けている。■(11)賀茂御祖神社 ◎ (12)27 ◎ (13)うさぎ 【正解】鹿 (14)鏡 ◎ (15)粟餅 ◎◆上賀茂神社・河合神社~鏡絵馬・鴨長明方丈(復元)・任部(とべ)社~ヤタガラスをおまつり・さるや宝泉~「葵祭の申餅」を復元・ならの小川→瀬見の小川・泉川・馬場~流鏑馬神事(5月3日)・糺の森~古本まつりも・相生社~縁結び・連理の賢木・御手洗池~みたらし団子・斎王代禊の儀・足つけ神事・御手洗社~井上社・言社~十二支・西本殿~賀茂建角身命・東本殿~玉依媛命・大炊殿~神様の台所・出雲井於神社~周囲にどんな木を植えても葉がギザギザになるので比良木社(柊社)・ちりめん生地の「姫守」・式年遷宮 21年に一度 史書「百錬抄」に記される。 4月下鴨神社 10月上賀茂神社◆狛?や神使・大豊神社境内末社~鳶、鼠、猿、狐・鞍馬寺~虎・木島神社(蚕の社)~狐・三宅八幡社~鳩・護王神社~猪・本法寺 摩利支天堂~猪・新日吉神社~猿・禅居庵(建仁寺塔頭)~猪・大原野神社~鹿・法輪寺(虚空蔵法輪寺)~牛と虎の一対の石像・伏見稲荷大社~狐・伏見神宝神社~天龍と地龍・猿丸神社~猿・岡崎神社~うさぎ◆北野天満宮(キーワード)・明月舎(北野大茶湯を記念)・地主社(北野天満宮創建以前の最古の社)・太閤井戸(『北野大茶会』ゆかりの井戸)・三光門(後西天皇御宸筆『天満宮』の勅額)・伴氏社(菅公の御母君伴氏を祀る)・影向松(初雪の日に御祭神がこの松に降りてこられ歌を詠まれるという言い伝えがある。)・松向軒(北野大茶会の折、細川三斎が茶の水を汲んだといわれている井戸がある)【寺院】 平安初期、中国・唐に渡って天台の教えを学んだ最澄は、帰国後に天台宗を開いた。天台宗の総本山・延暦寺の根本中堂には、最澄自らが刻んだと伝えられる本尊・薬師如来像か安置されている。その本尊の前にはすべての人びとを守り照らす明かりとして最澄が灯して以来、1200年の時を超えて灯り続ける「(16)の法灯」が安置されている。 一方、最澄と同じ遣唐使船で唐へ渡った空海は密教を学んで帰国して真言宗を開き、東寺で庶民救済に尽力した。東寺の講堂には空海の手による「立体曼荼羅」と呼ばれる仏像群が並び、中央に並ぷ五智如来の中心に密歓の教主とされる(17)如来が安置されている。 さて、円山公園の東に位置し、平安初期に最澄が創建した(18)は、平安末期になると、法然が吉水草庵を営んで専修念仏を広めた場所となり、弟子の親鸞もここで念仏の教えを学んだ。その吉水草庵の旧跡のすぐ北隣りには法然が開いた浄土宗の総本山・知恩院が広大な境内を誇り、除夜の鐘で有名な大鐘楼(重文)には重さ約70トンの鐘が吊られている。知恩院の鐘には、大正11年(1922)に来日した(19)博士が、鐘をつかせて、輪の真下には音の波が相殺し合って音が消える場所があることを確かめる実験をしたという有名なエピソードがある。 鐘は寺院に欠かせないもので、京都には様々な伝説を秘めた鐘が存在し、建仁寺の「陀羅尼の鐘」、六道珍皇寺の「迎え鐘」、報恩寺の「撞かずの鐘」、そして(20)には「安珍清姫ゆかりの鐘」が伝えられている。■(16)不滅 ◎ (17)大日 ◎ (18)??? 【正解】安養寺 (19)アインシュタイン ◎ (20)妙満寺 ◎◆延暦寺・南都に対して北嶺、園城寺(寺門)に対して山門・最澄の建立した薬師堂(のちの一乗止観院)が始まり・大乗戒壇設立の許可を得て翌年に延暦寺◆如来・お釈迦様が悟りを開いた後の姿・釈迦如来 阿閃如来 大日如来 阿弥陀如来 薬師如来 多宝如来 宝生如来 (閃:門構えの中はへの下に人が二つならぶ)・五智如来 大日如来(中心) 阿閦如来(東方) 宝生如来(南方) 観自在王如来(阿弥陀如来)(西方) 不空成就如来(北方)◆安養寺最澄が創建。吉水坊と称し、法然が30数年間ここを本拠に称名念仏を宣揚・親鷲も入信したが、専修念仏弾圧で荒廃。1385年(至徳2)国阿が入寺、時宗に改めて興隆、境内に子院六阿弥坊(中の重阿弥で赤種浪士が円山会議を開いた。)があったが、明治後期に消失、今は本堂、書院、弁天堂と料亭「左阿弥」を残7だけ。同寺の山号慈円山が円山公園の名称のもとになった。◆建仁寺の「陀羅尼の鐘」源融の河原院にあった鐘が洪水で流されて、鴨川七条の鐘ヶ淵という深淵に沈んだ。栄西禅師が官の許可を受けて鐘を引き揚げようとするが、鐘は少しも動かない。そこで、禅師は力者に「エーサイ、チョスゲ」と掛け声を掛けて引き出すように命じたところ、鐘をいともたやすく引き揚げることができた。昔は、陀羅尼経を誦してこの鐘を撞いたことから、「陀羅尼の鐘」という名がついた。(『都名所図会』)◆梵鐘・国内で特に知られる梵鐘のうち、最古の梵鐘は妙心寺にある。・日本三大梵鐘(東大寺、知恩院、方広寺)・日本三名鐘 「銘の神護寺」「姿の平等院」「音の三井寺」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 16点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/17
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第10回1級 問題2の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題2】神社・寺院に関する記述について、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点)【神社】 平成25年(2013)、伊勢神宮では20年に一度、出雲大社では60年に一度の式年遷宮が執り行われた。京都では、世界遺産である賀茂別雷神社(通祢・上賀茂神杜)と(11)(通称・下鴨神社)が、平成(12)年に式年遷宮を迎えることから社殿の修復などが順次、進められている。 神社に祀られる神様の使いとされる動物を「神使」と呼ぷが、お稲荷さんは「狐」、天神さんでは「丑(牛)」など特定の動物が決まっている場合か多い。石清水八幡宮は「鳩」、吉田神社では「(13)」が神使とされている。 神社のご利益は祀られている神様によって異なるが、下鴨神社の境内にある摂社の河合神社は美麗の神様として信仰があつく、美麗の祈願絵馬として「(14)絵馬」が授与されて、絵馬に化粧を施して身も心も美しくなることを願う。また、昔から参拝に訪れた多くの人びとが行き交う神社の門前には茶店か立ち並び大いに賑わう。北野天満宮の門前茶屋では餡餅ときな粉餅の2種か名物渠菓子「(15)」として愛され続けている。【寺院】 平安初期、中国・唐に渡って天台の教えを学んだ最澄は、帰国後に天台宗を開いた。天台宗の総本山・延暦寺の根本中堂には、最澄自らが刻んだと伝えられる本尊・薬師如来像か安置されている。その本尊の前にはすべての人びとを守り照らす明かりとして最澄が灯して以来、1200年の時を超えて灯り続ける「(16)の法灯」が安置されている。 一方、最澄と同じ遣唐使船で唐へ渡った空海は密教を学んで帰国して真言宗を開き、東寺で庶民救済に尽力した。東寺の講堂には空海の手による「立体曼荼羅」と呼ばれる仏像群が並び、中央に並ぷ五智如来の中心に密歓の教主とされる(17)如来か安置されている。 さて、円山公園の東に位置し、平安初期に最澄が創建した(18)は、平安末期になると、法然が吉水草庵を営んで専修念仏を広めた場所となり、弟子の親鸞もここで念仏の教えを学んだ。その吉水草庵の旧跡のすぐ北隣りには法然が開いた浄土宗の総本山・知恩院が広大な境内を誇り、除夜の鐘で有名な大鐘楼(重文)には重さ約70トンの鐘が吊られている。知恩院の鐘には、大正11年(1922)に来日した(19)博士が、鐘をつかせて、輪の真下には音の波が相殺し合って音が消える場所があることを確かめる実験をしたという有名なエピソードがある。 鐘は寺院に欠かせないもので、京都には様々な伝説を秘めた鐘が存在し、建仁寺の「陀羅尼の輪」、六道珍皇寺の「迎え鐘」、報恩寺の「撞かずの鐘」、そして(20)には「安珍清姫ゆかりの鐘」が伝えられている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/16
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第10回1級 問題1の解答その2です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題1】(5)中京区木屋町三条下ルにあり、非業の最期をとげた豊臣秀次とその一族を弔うために、角 倉了以によって建立された寺院は( )である。■瑞泉寺 ◎◆豊臣秀次・豊臣秀吉の姉・日秀の子。秀吉の嫡男・鶴松が死去したため、秀吉の養子となり、後継者とし て関白職を継ぐ。大陸への合戦「文禄・慶長の役」に専念する秀吉に代わり、朝廷とのパイプ 役を務めた。秀頼誕生から秀吉に疎まれ、権力の構図が二重構造となる対立を招き、高野山に 追放され、切腹。居を構えた聚楽第もそれにともない破壊された。妻妾、子女は三条河原で処 刑され、その跡地に建った瑞泉寺に墓がある。角倉了意が高瀬川を開削する折に鴨川の調査を 行い、塚の後ろから秀次の首を納めた石びつを発見、瑞泉寺を建立して菩提を弔った。(6)和歌や公家の行事に関する貴重な資料を今日まで伝えているのは( )である。今年 (平成25年)6月には、天皇・皇后両降下が同地を訪問された。■陽明文庫 【正解】冷泉家◆歌道・『古今和歌集』が編纂された10世紀初め頃より、「うたのみち」が唱えられるようになった。 凡河内躬恒が「うたのみち」と述べたのが代表的な事例である。・11世紀中期以後は師弟制度の萌芽が見られ、六条源家・六条藤家・御子左家などが形成された。・その中でも伝統主義を重視しつつ和歌の実作と理論を有機的に結びつけた御子左家が他の家を 圧倒した結果、「歌道師範家」として家職を確立させていった。藤原為家の後、その子孫は 二条派・京極派・冷泉派の三派に分裂する。京極派の京極家の血脈は鎌倉時代に入り断絶し 二条派の二条家の血脈も室町時代に断絶する。冷泉派の冷泉家のみが今日まで家名を残したが、 二条家(御子左家嫡流)断絶後も門人らによって継承された二条派が中世近世を通じて最も 影響力を有した。・二条派には勅撰和歌集の理想とされてきた『古今和歌集』所収和歌の解釈に関する秘説が 「古今伝授」として師から弟子に秘かに継承されてきた。 古今伝授の代表的な継承者としては東常縁・宗祇・三条西家歴代当主・細川幽斎・智仁親王ら が挙げられる。・六条源家(源経信-俊頼-俊恵) 六条藤家(藤原顕季-顕輔-清輔) 御子左家(藤原俊成-定家-為家)(7)江戸時代後半、京都に観光ブームが到来した。その頃、滝沢馬琴は著書「羇旅漫録」に京 都にある三つのよきものとして、「女子、( )の水、寺社」と書いている。■賀茂川 【正解】加茂川◆花街の呼び方・中国で「花街柳巷(りゅうこう)」と呼んだのが由来。 「花街」「花柳界」と称した。・羇旅漫録、見た京物語では「遊女町」「傾城町」「曲輪」と表記して「いろざと」「いろまち」 「くるわ」と読ませている。・守貞漫稿に「遊女町。島原、吉原の如き官許にて、廓をなすものに花街の字あり」(8)現在の二条城には、徳川家光のころの拡張工事によって造られた二の丸御殿(国宝)と、 明治26~27年(1893~94)に京都御所北東部にあった( )から移築した本丸御吸 (重文)が主要建築物として残っている。■桂宮本邸 ◎◆京都御苑内スポット(西半分)・中山邸跡 明治天皇の生誕の地でもあり、京都御苑三大名水のひとつ、祐井(さちのい)がある。・桂宮邸跡 明治26年から27年にかけて二条城の本丸御殿として移築された。・近衛邸跡 糸桜と呼ばれる枝垂桜・一條邸跡 「縣井」は、かつて染井、醒ヶ井とともに京の三名水の一つといわれ、また、染井、祐井 とともに、御所三名水の一つ・清水谷家の椋・西園寺邸跡 白雲神社が残る。・枇杷殿跡 平安時代、権中納言藤原長良が建設した邸宅。 その後、長良の子関白藤原基経の邸宅となった。 邸内に果物が多く植えられていたために枇杷殿の名がついたという。 平安時代中期には三条天皇の里内裏となり、その後、三条天皇の中宮藤原妍子(藤原道長 の次女)とその皇女禎子内親王の邸宅となり、妍子はこの邸により枇杷殿皇太后と呼ばれた。 その後、枇杷殿は太皇太后藤原寛子(後冷泉天皇后・関白藤原頼通の娘)の御所となり、 関白藤原忠実の管理に入りました。しかし、藤原忠実が保元の乱で敗れた際、後白河天皇に よって忠実所有の枇杷殿は取り上げられ、院領にくみいれられて消滅した。・賀陽宮(かやのみや)邸跡 貽範碑(いはんひ)という石碑がある。・出水の小川・閑院宮邸跡・宗像神社 藤原冬嗣が桓武天皇の勅命を蒙り、皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である 東京第(東京一条第ともいう)の西南隅に祀ったものと伝える。・九條邸跡 拾翠亭、厳島神社・鷹司邸跡・凝華洞跡 凝華洞(別名、御花畑)は京都御所建礼門の南にあった屋敷。 京都守護職・松平容保は、多忙の為京都守護職屋敷に帰れない時に、宿舎として使用してた。 蛤御門の変(禁門の変)では、病を押してこの凝華洞で指揮を執ったとされている。・有栖川宮邸跡 京都御苑の西南に面したところにある平安女学院大学「有栖館」の建物になっている。(9)京都御御苑北西部にある糸桜(写真)は、五摂家の一つであった( )の邸宅跡に植 えられており、桜の季節には、そよ風にゆれ絶好の花見スポットとななっている。■近衛家 ◎◆(8)参照(10)事実上の東京遷都によってさびれた京都の復興策として実施された大土木事業である ( )は、琵琶湖の水を活用するため、大津三保ヶ崎から京都蹴上まで水路を開削した。■琵琶湖疏水 ◎◆京都市三大事業(最初の琵琶湖疏水はこれには含まれない)初代京都市長内貴甚三郎の後の第2代京都市長西郷菊次郎が行った都市基盤整備事業。「第二琵琶湖疏水(第二疏水)開削」、「上水道整備」、「道路拡築および市電敷設」の3つ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 15点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/16
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第10回 問題1の解答その1です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題1】歴史・史跡に関する記述について、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点)(1)貞観8年(866)、大納言伴善男が応大門を放火した事件「応天門の変」は、平安時代を代 表する絵巻物の( )(国宝)の題材となった。■伴大納言絵巻 【正解】伴大納言絵詞◆・日本の四大絵巻物 『源氏物語絵巻』・『信貴山縁起』・『伴大納言絵詞』・『鳥獣人物戯画』 作者は常盤光長とされている。 ・応天門の変 平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件。 応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣・源信の犯行であると告発したが、 太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。 その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。 これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。 藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。 源 信(みなもとのまこと)は、平安時代前期の公卿。 嵯峨天皇の七男(第一源氏)。初代源氏長者。北辺大臣と号した。(2)治承4年(1180)、後白河天皇の皇子の( )は、源頼政の勧めに応じて平氏打倒を 計画し、諸国に令旨を発したが失敗し、平氏軍に追われ奈良興福寺へ向かう途中で落命し た。■以仁王 ◎◆・以仁王の挙兵 治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を 計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。 準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期 に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である 治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。 ・高倉天皇 第80代。第77代後白河天皇の皇子。母・平滋子(建春門院)は、平清盛の妻・平時子 (二位尼)の異母妹。皇后は清盛の娘・平徳子(建礼門院)。第81代安徳天皇、第82代 後鳥羽天皇らの父。 後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)に葬られた。傍らに天皇の寵姫・小督局の墓 と伝える宝篋印塔「比翼塚」がある。 1172(承安2)天皇が祇園会を上覧時、獅子をはじめ神輿三基を「祇園社(八坂神社)に 奉納したという。 中宮徳子(建礼門院)が無事に皇子(安徳天皇)を出産したことに対する礼状「高倉天皇 宸翰消息(国宝)が、仁和寺に残る。・源頼政 摂津源氏、源仲政の子。平治の乱では初め源義朝につき、途中で平清盛に味方した。 のちに以仁王(後白河法皇の皇子)の令旨で、平氏打倒の兵を挙げたが敗北、奈良へ向か う途中、平等院で自刃。「鵺退治」のエピソードがある。 二条公園に鵺池碑が立つ。 神明神社は鵺退治にあたって祈願した故地という 大将軍神社の鵺の森に樹齢800年という銀杏の大樹があり、鵺退治伝説が残る。 安井金毘羅宮の祭神の一人でもある。 平等院で自刃後、醍醐から宇治に通り抜けた道を頼政道という。伏見区長尾天満宮内に 石碑がある。 平等院の扇の庭は自刃の地と伝わり、塔頭最勝院に石造宝篋印塔の頼政塔がある。 また最勝院には、頼政の念持仏という「片袖阿弥陀像」「絹本著色源頼政像」が残る。 亀岡市立つつじヶ丘小学校の横に「頼政塚」がある。(3)永禄11年(1568)、戦国大名の( )は、足利義昭を擁して上洛し、京都の都市政策 を推進した。■織田信長 ◎◆織田信長の入洛・当時の室町幕府は三好三人衆と松永秀長によって足利義栄(よしひで)が第14代将軍として 擁立されていた。三好と松永は前将軍の足利義輝を暗殺し、義輝の弟でもある義昭の命も 狙っていた。そんななか正嫡の義昭を奉じて入洛した信長は、大義名分をもって三好、松永 勢力を駆逐して義昭を15代将軍に擁立した。 入洛直後、織田信長の軍勢が山城国勝竜寺城を攻め、摂津にまで兵を進めている。(4)下の絵図は、江戸時代に刊行された京都の名所案内記の一つで、秋里籬島の代表作の ( )である。「三條大橋」(国際日本文化研究センター所蔵)■都名所図会 ◎◆昔の京都(など)観光案内他・黒川道祐~雍州府志・日次紀事・中川喜雲~京童・京童跡追・浅井了以~京雀・水雲堂孤松子~京羽二重・滝沢馬琴~羇旅漫録・二鐘亭半山~見た京物語・喜田川守貞~守貞漫稿・秋島籬島~都名所図会、都林泉名勝図会・山本泰順~洛陽名所集・林吉永~京大絵図・換書堂主人~京(花洛)羽津根・十返舎一九~東海道中膝栗毛・東海道五十三次~歌川広重・義演准后日記・にぎはひ草~灰屋紹益(桂離宮)・隔蓂記~鳳林承章(修学院離宮)・槐記~18世紀初頭の摂関・太政大臣であった近衛家熙の言行を、その侍医であった山科道安が 記した日記。(陽明文庫に4冊残る)(修学院離宮)・相国寺塔頭鹿苑院主きん叔(きんしゅく)の日記(桂離宮)(きん叔の「きん」は目偏に近いのシンニュウなし)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/16
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第10回 問題1 問題 です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題1】歴史・史跡に関する記述について、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点)(1)貞観8年(866)、大納言伴善男が応大門を放火した事件「応天門の変」は、平安時代を代 表する絵巻物の( )(国宝)の題材となった。(2)治承4年(1180)、後白河天皇の皇子の( )は、源頼政の勧めに応じて平氏打倒を 計画し、諸国こ令旨を発したが失敗し、平氏軍に追われ奈良興福寺へ向かう途中で落命し た。(3)永禄11年(1568)、戦国大名の( )は、足利義昭を擁して上洛し、京都の都市政策 を推進した。(4)下の絵図は、江戸時代に刊行された京都の名所案内記の一つで、秋里籬島の代表作の ( )である。「三條大橋」(国際日本文化研究センター所蔵)(5)中京区木屋町三条下ルにあり、非業の最期をとげた豊臣秀次とその一族を弔うために、角 倉了以によって建立された寺院は( )である。(6)和歌や公家の行事に関する貴重な資料を今日まで伝えているのは( )である。今年 (平成25年)6月には、天皇・皇后両降下が同地を訪問された。(7)江戸時代後半、京都に観光ブームが到来した。その頃、滝沢馬琴は著書「羇旅漫録」に京 都にある三つのよきものとして、「女子、( )の水、寺社」と書いている。(8)現在の二条城には、徳川家光のころの拡張工事によって造られた二の丸御殿(国宝)と、 明治26~27年(1893~94)に京都御所北東部にあった( )から移築した本丸御吸 (重文)が主要建築物として残っている。(9)京都御御苑北西部にある糸桜(写真)は、五摂家の一つであった( )の邸宅跡に植 えられており、桜の季節には、そよ風にゆれ絶好の花見スポットとななっている。(10)事実上の東京遷都によってさびれた京都の復興策として実施された大土木事業である ( )は、琵琶湖の水を活用するため、大津三保ヶ崎から京都蹴上まで水路を開削した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/15
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第9回1級 問題8、9、10 解答2 です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載(文章で答える問題だが、ここではキーワードのみ解答した。)◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【第9問】京都の水と食について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点) (「梨木神社にある名水の名称」、「善気水で知られる寺院名」、「酒造りの最も有名な地域名」、 「豆腐や生麩と並んで京都を代表する大豆を主原料とした食品名」、「寺町通から高倉通の間 にある『京の台所』と称される商店街の名前」は必ず含むこと)■「梨木神社にある名水の名称」:??? 【正解】染井の水 「善気水で知られる寺院名」:法然院 ◎ 「酒造りの最も有名な地域名」:伏見 ◎ 「豆腐や生麩と並んで京都を代表する大豆を主原料とした食品名」:湯葉(ゆば)◎ 「寺町通から高倉通の間にある『京の台所』と称される商店街の名前」: 錦市場(錦市場商店街)◎<解答例> 三方を山に囲まれた京都は、良質な地下水に恵まれている。京都の寺社には、京都三名水の一つである梨木神社の染井の水や法然院の善気水など多くの名水があり、茶会をはじめとする様々な行事に使われている。また、御香水で有名な伏見地域では酒造りが盛んである。豆腐や生麩と並んで、おいしいゆばができるのは良質な水によるところが大きい。京の台所と称される錦市場商店街では、地下水を使う店舗が多く、新鮮な旬の食材が揃う。(200字)◆京の名水・天之真名井(市比賣神社) ・長寿の水(鞍馬温泉)・醒ヶ井(亀屋良長) ・義経公息次ぎの水(鞍馬寺)・神供水(若一神社) ・御霊水(九頭竜大社)・飛鳥井(白峯神社) ・神水(貴船神社)・潜龍井(白峯神社・潜龍社) ・谷の水(三宅八幡神社)・金龍水(水火天満宮) ・御神水(平野神社)・妙音堂井戸 ・白山名水(善峯寺 あじさい園) ・染井の水(梨木神社) ・お香水(善峯寺 観音堂東)・清浄水無垢の井(護浄院(清荒神) ・亀の井(松尾大社)・下御霊香水(中川井)(下御霊神社) ・独鈷水(眼病平癒の霊水)(楊谷寺(柳谷観音))・白雲神社井戸 ・醍醐水(上醍醐の清滝宮拝殿前)・晴明井(晴明神社) ・不二の水(藤森神社)・明月舎(北野天満宮・境内北) ・石井(いわい)の御香水(御香宮)・桃乃井の名水(キンシ正宗堀野記念館) ・さかみず(月桂冠大倉記念館内)・錦の水(錦天満宮) ・伏水(キザクラカッパカントリー)・麩嘉の井戸(麩嘉 滋野井跡) ・白菊水(鳥せい本店)・柳の水(馬場染色工業株式会社) ・金運清水(大黒寺)・御手洗(下鴨神社・井上社(御手洗社))・板橋白菊の井戸(板橋小学校敷地内)・三本杉神水(下鴨神社・河合神社手水) ・常盤井の水(キンシ正宗本社工場内)・祇園神水(力水):八坂神社本殿東南 ・閼伽水(辧財天長建寺)・音羽の滝(清水寺) ・清和の井(料理旅館清和荘玄関横)・夜泣泉(三十三間堂 東側) ・洗心井(北向不動院)・独鈷水(泉涌寺来迎院) ・菊水若水(城南宮 手水舎) ・桐原水(宇治上神社) ・手水の清水(平等院)【第10問】源義経について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点) (「義経が牛若丸として幼少期を過ごした寺」、「童謡で歌われるところの弁慶との決闘の場」、 「弁慶との決闘をテーマとした祇園祭の山の名」、「奥州への旅路の無事を祈願したという神 社」、「静御前と出会ったとされるところ」は必ず含むこと)■「義経が牛若丸として幼少期を過ごした寺」:鞍馬寺 ◎ 「童謡で歌われるところの弁慶との決闘の場」:五条橋 【正解】五条大橋 「弁慶との決闘をテーマとした祇園祭の山の名」:橋弁慶山 ◎ 「奥州への旅路の無事を祈願したという神社」:首途八幡宮 ◎ 「静御前と出会ったとされるところ」:五条天神社 【正解】神泉苑<解答例> 源義経は平治の乱後、鞍馬寺に預けられ、幼少期を過ごす。鞍馬の地で学問、兵法を学ぶ。童謡に歌われた五条大橋の決闘に勝利し弁慶を家来とした。祇園祭の橋弁慶山は、この逸話をもとに作られた謡曲「橋弁慶」題材としている。その後、鞍馬山を下山し、奥州へ向かうとき旅路の無事を祈願したといわれる首途八幡宮が今出川智恵光院に残る。また、義経と静御前の出会った場所と伝えられる神泉苑など京都には義経ゆかりの地が多い。(200字)◆源義経・源義朝9男。平治の乱後、捕らわれたが助命され、鞍馬寺に入る。・奥州に赴き、兄・頼朝の挙兵に馳せ参じ、木曽義仲、平氏を討つ。・その後頼朝と対立、追求を受け奥州衣川で敗死。・鞍馬山には「牛若丸背比べ石」「義経息次ぎの水」「義経供養塔(東光坊跡)」「義経堂」 などがある。・「願王寺」には、「義経かどで地蔵尊」が祀られている。・北区紫竹牛若町は、父・義朝別業の地で母・常盤が住したところといい、「牛若丸誕生井」 「牛若丸胞衣塚」「源義経産湯遺址」の石碑がある。・首途八幡宮は、牛若丸が金売吉次の屋敷であったこの地から奥州に向け出発したともいう。・神泉苑は義経が静御前と出会った場ともいわれる。・五條天神社(天使の宮)」も「義経記」では義経が弁慶と出会った場所という。・弁慶と出会う五条大橋(松原橋)、武勇談の蹴上の「義経大日如来」などもある。・絵馬「牛若弁慶図」(江戸期)(江村春甫筆)が安井金毘羅宮にある。・義経の側室静御前を祀る「静神社」が京丹後市網野町にある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 第8問 10点中8点 第9問 10点中8点 第10問 10点中7点第9回全推定得点 150点中 108点120点が合格ラインなので不合格よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/15
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第9回1級 問題8、9、10 解答1■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載(文章で答える問題だが、ここではキーワードのみ解答した。)◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【第8問】北野天満宮について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点) (「祭神」、「現在の本殿を寄進した人物」、「本殿の建築様式」、「本殿前の中門の愛称」、「2月 の天神さんの日に行われる祭典」は必ず含むこと)■「祭神」:菅原道真 ◎ 「現在の本殿を寄進した人物」:徳川家光 【正解】豊臣秀頼 「本殿の建築様式」:権現造 ◎ (「八ツ棟造」も正解) 「本殿前の中門の愛称」三光門 ◎(模範解答は「星欠けの三光門」) 「2月の天神さんの日に行われる祭典」:梅花祭 ◎<解答例> 北野天満宮は菅原道真を祀り、学問の神様として知られている。道真を祀る国宝の本殿は豊臣秀頼が寄進したものであり、建築様式は八ツ棟造(権現造)と称されている。本殿の手前にある中門は星欠けの三光門(重文)と称され.北野天満宮七不思議のーつとして知られている.また、梅の見頃となる、道真の命日である2月25日の祭典「梅花祭」には、上七軒の芸妓、舞妓による「野点大茶湯」が催され、多くの参拝者で賑わいをみせる。(200字)◆北野天満宮七不思議・影向松 表参道の大鳥居(一ノ鳥居)をくぐってすぐ右手に、石の玉垣をめぐらせた一本の松がある。 毎年三冬(初冬より晩冬まで)の間に初雪が降ると、天神さまが降臨され雪見の歌を詠まれる という伝説があり、その時は硯・筆・墨をとりそろえてお供えし初雪祭を行う。 菅原道真公は天台座主尊意より仏舎利を伝播し、常に襟に掛けて護持されていたが、初雪の 降った日にこの掛舎利が大宰府より飛来してこの枝にかかったと伝えられ、以後この松を影向松 と呼ぶようになった。・筋違いの本殿 楼門(南門)をくぐった正面には地主神社があり、菅公を祀る本殿は西よりに位置している。 この神社は北野天満宮御鎮座以前の承和三年(836)に祭られており、天暦元年(947)天満宮創祀の 際、地主神社の正面を避けて建てられたためである。・星欠けの三光門 御本殿前の中門は、日・月・星の彫刻があるために三光門と呼ばれるが、一説にこの彫刻は、 日と月と三日月はあるが星はないといわれる。 これは平安京造営当初の大内裏が千本丸太町にあったため、旧大極殿が天満宮の南方位に位置 し、帝が当宮を遥拝(離れた所から神様を拝むこと)される際に、この三光門の真上に北極星が 瞬いていたので星は刻まれていないのだと伝えられる。・大黒天の燈篭 三光門の少し東南に、安政二年(1855)、河原町正面にあった「大黒屋」を中心とする質商組合 によって奉献された石燈籠がある。台座には大黒様の像が刻まれており、この大黒様の口 (または頬とも云われる)に小石をのせて落ちなければ、その小石を財布に入れて祈ると お金に困らないといわれる。・唯一の立ち牛 菅原道真公(天神様)は、承和十二年(845)六月二十五日の御誕生であるが、この年は「丑歳」 に当り、且つ菅公の伝説には牛にまつわる話が数多く存在するとともに牛にまつわる縁起が多 く伝えられ、牛は天神様の神使(お使い)となっている。 中でも延喜三年(903九州)大宰府で御生涯を閉じられた菅公の御遺骸をお運びする途中、車を 引く牛が座り込んで動かなくなったため、近習達が已む無くその付近の寺院、安楽寺に埋葬 したのだが、この故事により境内各所にある神牛の像は臥牛(横たわった牛)の姿となって いる。ところが、拝殿欄間の彫刻には、当宮では珍しく立った牛の姿の神牛が刻まれている。 何故一頭だけ立像の牛があるのかは神秘的で今もって謎とされるところである。・裏の社 ふつう神社は前拝のみであるが、当宮の本殿は背面にも御后三柱という御神座持つ。 道真公の御神座と背中合わせの形で北向きに祭られているのは、天穂日命(菅公の祖先神)・ 菅原清公卿(菅公の祖父)・菅原是善卿(菅公の父)の三柱の神。 明治維新までは上記の影向松に飛来した仏舎利を祭っていたので、この御神座の前にある門を 舎利門と呼んだ。その昔、天満宮の参拝は、この御后三柱も含めて礼拝するのを常とした。・天狗山 天満宮の乾方位すなわち境内西北の角には、天狗山と呼ばれる小山がある。 室町時代の『社頭古絵図』(北野参拝曼荼羅)には、ユーモラスな鳥天狗が描かれている。 大昔、この辺りには天狗が出没したのかもしれない。この場所には往古より牛祠が祭られ、 一願成就の祠として信仰を集めたが、現在、この牛祠は南西の角に遷座している。◆北野天満宮神事・行事(「天神さん」以外)・2月25日:梅花祭~梅花御供・10月1日~5日:瑞饋祭~瓦をかしら芋、瓔珞(ようらく)を茄子や唐辛子、ほおずきなどで 飾った瑞饋神輿・11月26日:お茶壷奉献祭~北野大茶湯ゆかりの献茶祭◆神社の再興(テキスト掲載分)・わら天神(敷地神社):足利義満の北山殿造営の時に現在地に移転・北野天満宮:豊臣秀頼が片桐勝元を奉行に再興・熊野神社:聖護院宮道寛法親王が再興・熊野若王子神社:豊臣秀吉によって再興・吉田神社:吉田兼倶(かねとも)が唯一神道を唱え、天神地祇八百萬神を奉斎する大元宮 を創設・下御霊神社:豊臣秀吉が現在地に移転・錦天満宮:豊臣秀吉が現在地に移転・新熊野神社:東福門院が社殿を再興・梅宮大社:檀林皇后が現在地に移した。・大原野神社:後水尾天皇が社殿を再建・御香宮神社:豊臣秀吉が伏見城を築城するときに大亀谷に移し、伏見城の鬼門の守護神にした。 徳川家康が旧地である現在地に移した。多くの社殿が徳川家康の寄進。 本殿は徳川家康の再建。表門は伏見城の遺構。・長岡天満宮:八条宮智仁親王が社地を整備。八条ヶ池を灌漑用水を兼ねて造営。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/15
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第9回1級 問題8、9、10 問題◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【第8問】北野天満宮について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点) (「祭神」、「現在の本殿を寄進した人物」、「本殿の建築様式」、「本殿前の中門の愛称」、「2月 の天神さんの日に行われる祭典」は必ず含むこと)【第9問】京都の水と食について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点) (「梨木神社にある名水の名称」、「善気水で知られる寺院名」、「酒造りの最も有名な地域名」、 「豆腐や生麩と並んで京都を代表する大豆を主原料とした食品名」、「寺町通から高倉通の間 にある『京の台所』と称される商店街の名前」は必ず含むこと)【第10問】源義経について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点) (「義経が牛若丸として幼少期を過ごした寺」、「童謡で歌われるところの弁慶との決闘の場」、 「弁慶との決闘をテーマとした祇園祭の山の名」、「奥州への旅路の無事を祈願したという神 社」、「静御前と出会ったとされるところ」は必ず含むこと)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/14
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第9回1級 問題7 解答です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題7】京福電気鉄道の駅名について、次の問いに答えなさい。 (2点×5問=10点)(1)足利義満が延命を祈願して康暦元年(1379)に創建した宝幢寺の闘山塔所であり、同寺院 名が使われている駅は何か。■等持院 【正解】鹿王院(2)境内に芸能神社があり、かつて明治の文人富岡鉄斎が宮司を務めていた神社の鳥居がホー ムから見える駅は何か。■車折 【正解】車折神社(3)上嵯峨、下嵯峨、太秦などの別れ道であった地で、道の方向が北側ばかりに延びて、南側 に道かなく、片側のみに分岐していたことなどの諸説から名づけられた地名が使われている 駅は何か。■かたびらの辻 【正解】帷子の辻(4)境内の元糺の池に京都三珍鳥居の一つの三鳥居がある木島神社の摂社の名を由来とし、こ の神社の通称がついた駅は何か。■蚕の社 【正解】蚕ノ社(5)京の六地蔵めぐりの一つである源光寺に近く、源義経の母の名にゆかりのある駅は何か。■常磐 【正解】常盤◆京福電鉄嵐山本線四条大宮→西院(さい)→西大路三条→山ノ内→嵐電天神川→蚕ノ社→太秦広隆寺→帷子ノ辻→有栖川→車折神社→鹿王院→嵐電嵯峨→嵐山◆京福電鉄北野線北野白梅町→等持院→龍安寺→妙心寺→御室仁和寺→宇多野→鳴滝→常盤→帷子ノ辻◆叡山電鉄 叡山本線出町→元田中→茶山→一乗寺→修学院→宝ヶ池→三宅八幡→八瀬比叡山口◆叡山電鉄 鞍馬線宝ヶ池→八幡前→岩倉→木野→京都精華大前→二軒茶屋→市原→二ノ瀬→貴船口→鞍馬◆地下鉄 烏丸線竹田→くいな橋→十条→九条→京都→五条→四条→烏丸御池→今出川→鞍馬口→北大路→北山→松ヶ崎→国際会館◆地下鉄 東西線太秦天神川→西大路御池→二条→二条城前→烏丸御池→京都市役所前→三条京阪→東山→蹴上→御陵(みささぎ)→山科→東野→椥辻(なぎつじ)→小野→石田→六地蔵◆阪急京都線(京都府部分)大山崎→西山天王山→長岡天神→西向日→東向日→洛西口→桂→西京極→西院→大宮→烏丸→河原町◆阪急嵐山線桂→上桂→松尾大社→嵐山◆京阪本線(京都府部分)橋本→八幡市→淀→中書島→伏見桃山→丹波橋→墨染→藤森→深草→伏見稲荷→鳥羽街道→東福寺→七条→清水五条→祇園四条→三条→神宮丸太町→出町柳◆京阪電車 京津線(京都府部分)御陵→京阪山科→四宮→追分◆京阪電車 宇治線中書島-観月橋-桃山南口-六地蔵-木幡-黄檗-三室戸-宇治◆近鉄(京都府部分)山田川-木津川台-新祝園(しんほうその)-狛田(こまだ)-近鉄宮津-三山木(みやまき)-興戸-新田辺-富野荘(とのしょう)-寺田-久津川(くつかわ)-大久保-伊勢田-小倉-向島-桃山御陵前-近鉄丹波橋-伏見-竹田-上鳥羽口-十条-東寺-京都◆JR東海道本線(京都線・琵琶湖線)京都府部分山崎-長岡京-向日町-西大路-京都-山科◆JR奈良線(京都府部分)京都-東福寺-稲荷-JR藤森-桃山-六地蔵-木幡-黄檗-宇治-JR小倉-新田-城陽-長池-山城青谷-山城多賀-玉水-棚倉-上狛-木津◆JR嵯峨野・山陰線(亀岡まで)京都-丹波口-二条-円町-花園-太秦-嵯峨嵐山-馬堀-保津峡-亀岡◆嵯峨野観光鉄道トロッコ嵯峨-トロッコ嵐山-トロッコ保津峡-トロッコ亀岡◆京都丹後鉄道(丹鉄)観光列車 丹後くろまつ号(レストラン列車) 丹後あかまつ号(定員予約)、 丹後あおまつ号(自由席)宮舞線(西舞鶴)・宮福線・宮豊線◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 10点中 3点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/14
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第9回1級 問題7の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題7】京福電気鉄道の駅名について、次の問いに答えなさい。 (2点×5問=10点)(1)足利義満が延命を祈願して康暦元年(1379)に創建した宝幢寺の闘山塔所であり、同寺院 名が使われている駅は何か。(2)境内に芸能神社があり、かつて明治の文人富岡鉄斎が宮司を務めていた神社の鳥居がホー ムから見える駅は何か。(3)上嵯峨、下嵯峨、太秦などの別れ道であった地で、道の方向が北側ばかりに延びて、南側 に道かなく、片側のみに分岐していたことなどの諸説から名づけられた地名が使われている 駅は何か。(4)境内の元糺の池に京都三珍鳥居の一つの三鳥居がある木島神社の摂社の名を由来とし、こ の神社の通称がついた駅は何か。(5)京の六地蔵めぐりの一つである源光寺に近く、源義経の母の名にゆかりのある駅は何か。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/13
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第9回1級 問題6の解答です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題6】明治以降の近代建建築について、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×5問=10点)(1)帝室建築家として活躍した片山東熊か設計し、明治28年(1895)に東山に完成した ( 〉の本館は、わが国の本格的な西欧様式建築として知られる。■国立京都博物館 【正解】京都国立博物館(2)明冶37年(1904)に竣工した京都府庁旧本館(重文)は、創建時の姿をとどめる現役の官 公庁の建物として、日本最古のものとして知られている。この建者を設計したのは( ) である。■松室重光 ◎〈3)辰野金吾と長野宇平治が設計し、明治39年(1906)に完成した旧日本銀行京都支店(重文〉 は、現在、( )として改装され、多彩な催し物が行われている。■京都文化博物館別館 【正解】京都府立京都文化博物館(4)昭和11年(1936)、劇場建築の名手といわれた木村得三郎の設計により建築された ( )は、白鷺城(姫路城)を模したデザインで、和風の伝統が随所に盛り込まれてい る。■祇園センター 【正解】弥栄会館(5)明治から昭和にかけて活用した建築家の( )は、京都市役所本館や京都府立図書館 など、多くの建物の設計に関与し、京都の近代建築の礎を築いた。■武田五一 ◎◆近代建築(大正時代) ・日本キリスト教団京都御幸町教会(ヴォーリズ建築事務所) ・大谷大学「尋源館」 ・同志社女子大学ジェームス館(武田五一) ・京都大学文学部博物館旧館(旧京大文学部陳列館)(永瀬狂三・山本治兵衛) ・京都大学医学部 旧生理学教室研究室 (永瀬狂三・山本治兵衛) ・順正清水店洋館(旧松風嘉定・五龍閣)(武田五一) 松風嘉定 しょうふう-かじょう 1870-1928 明治-昭和時代前期の実業家。 尾張(おわり)(愛知県)瀬戸の陶工井上延年の長男。 明治23年京都の製陶業松風家をつぐ。 松風工業,日本硬質陶器,松風陶歯製造(現松風)などの会社を経営,高圧碍子(がいし)や 磁器,人工歯の生産,輸出につとめた。 昭和2年京都陶磁器商工同業組合長。 ・京都市考古資料館(旧西陣織物館)(本野精吾) ・同志社大学致遠館(W.M.ヴォーリス) ・京都大学工学部土木工学教室本館(永瀬狂三・山本治兵衛) ・百石斎(旧田邊朔郎書斎)(田邊朔郎) ・伏見・夢・百景(月桂冠旧本店社屋) ・聖ヨゼフ修道院門の家・門(旧住友家衣笠別邸の門衛所・門) ・同志社大学啓明館(山本唯三郎が寄付)(ヴォーリズ設計事務所) ・京都大学工学部建築学教室本館(武田五一) ・カーニバルタイムズ(旧京都中央電話局上分局)(吉田鉄郎) ・船岡温泉 ・京都大学百周年時計台記念館(時計台・京都大学本部会館) ・京都大学楽友会館 ・東華菜館(旧・矢尾政) ・藤井斉成会有鄰館第一館(武田五一) ・レストラン菊水 ・新風館(旧京都中央電話局)(吉田鉄郎) ・香鳥屋本店 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 10点中 6点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/13
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第9回1級 問題6 問題◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題6】明治以降の近代建建築について、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×5問=10点)(1)帝室建築家として活躍した片山東熊か設計し、明治28年(1895)に東山に完成した ( 〉の本館は、わが国の本格的な西欧様式建築として知られる。(2)明冶37年(1904)に竣工した京都府庁旧本館(重文)は、創建時の姿をとどめる現役の官 公庁の建物として、日本最古のものとして知られている。この建者を設計したのは( ) である。〈3)辰野金吾と長野宇平治が設計し、明治39年(1906)に完成した旧日本銀行京都支店(重文〉 は、現在、( )として改装され、多彩な催し物が行われている。(4)昭和11年(1936)、劇場建築の名手といわれた木村得三郎の設計により建築された ( )は、白鷺城(姫路城)を模したデザインで、和風の伝統が随所に盛り込まれてい る。(5)明治から昭和にかけて活用した建築家の( )は、京都市役所本館や京都府立図書館 など、多くの建物の設計に関与し、京都の近代建築の礎を築いた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/12
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■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題5】次の文章を読んで、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点) 日本の最も古い作庭の伝書である(41)の著者とされる橘俊綱は作庭家でもあった。 平安期の浄土庭園の代表的なものは、京都府木津川市加茂町にある寺院(42)の庭園で、国の史跡・特別名勝に指定されている。南北朝・室町時代に後醍醐天皇、足利尊氏が帰依した著名な禅僧(43)は、天龍寺庭園、西芳寺庭園などを手がけた。室町時代半ばには、阿弥号を有する(44)が足利義政に取り立てられ、作庭分野で名を残している。■(41)作庭記 ◎ (42)浄瑠璃寺 ◎ (43)夢窓疎石 ◎ (44)相阿弥 【正解】善阿弥◆・平安時代中期 ・藤原義房邸 ・摂関家が伝領した東三条殿 ・藤原基経が創建したのちに堀河天皇の里内裏ともなった堀河院 ・藤原頼通の高陽院 ・この時期は「寝殿造庭園」。和歌に詠まれるような名所の風景を写しこんだ風情ある庭園 ・現存する庭園はなく、源氏物語などの文学や絵巻物語にうかがうことができる。 ・「作庭記」を書いた橘俊綱は藤原頼通の息子 ・平安時代末期 ・浄土庭園 ・藤原道長によって法成寺の庭園が営まれて本格化 ・藤原頼通が造営した平等院庭園には、当時の阿弥陀堂である「鳳凰堂」が今に伝わる。 ・浄瑠璃寺には九体阿弥陀堂(国宝)が現存。 浄瑠璃寺庭園は阿弥陀如来の浄土であり、薬師如来の浄土。 東側に薬師如来を祀る三重塔(国宝) ・白河上皇が院の御所として鳥羽離宮を造営。 御所に御堂が併設され、池庭がつくられた。 当時の南殿の「秋の山」を見ることができる。 ・鳥羽天皇の中宮だった待賢門院が造営した法金剛院には、往時の滝石組である青女滝が 残る。 ・浄土庭園の様式は奥州藤原氏の毛越寺庭園をはじめ諸国の寺院に波及。 ・龍安寺の鏡容池は、円融天皇が造営した円融寺の園池を引き継ぎ、院政期の左大臣 藤原実能(さねよし)が作庭 ・鎌倉時代から室町時代 ・天龍寺は後嵯峨・亀山殿の、西芳寺は浄土宗の西方寺のそれぞれ旧地に営まれた。 夢窓疎石は、中国の画論を作庭に導入。心象風景を石組で表現。 西芳寺庭園の洪隠山、天龍寺庭園の滝石組と石橋・岩島の造形は枯山水や園池護岸の 発達を促した。 ・足利義満の北山殿は鹿苑寺(金閣寺)庭園として、義政が営んだ東山殿は慈照寺(銀閣寺) 庭園として伝わる。両者とも西芳寺の庭園をモデルとしている。 ・善阿弥~足利義政に仕える。東山殿の庭園を作庭したといわれる。 能阿弥、芸阿弥(子)、相阿弥(孫)を三阿弥という 相阿弥~座敷飾りの秘伝書「君台観左右帳記」 慈照寺庭園、聴松院(南禅寺塔頭)庭園、龍源院方丈北庭「龍吟庭」 成就院(清水寺塔頭)庭園「月の庭」(松永貞徳とも) 青蓮院池泉回遊式の「相阿弥の庭」 大徳寺塔頭である大仙院書院庭園は、(45)様式の代表例で、立石を滝と眺め、白砂を敷いて渓流が大海へと至る風景を表現している。江戸期に小堀遠州が作庭に携わった南禅寺塔頭の金地院庭園(鶴亀の庭)も同じ様式である。■(45)枯山水◆・枯山水 ・大仙院書院庭園~一幅の山水画を見るよう ・龍安寺方丈庭園~白川砂 三群十五個の石 「虎の子渡し」の説話とも 雲海に頭を出す山岳の姿とも どの位置からもすべての石を見渡せない。人智の限界を示す戒めの庭とも ・禅宗寺院において修行の庭としてふさわしい庭ととらえられた。 ・妙心寺霊雲院庭園 ・妙心寺退蔵院庭園(元信の庭) ・大徳寺真珠庵庭園(東庭) ・江戸時代 南禅寺金地院庭園 三代将軍家光の御成りを想定して作庭。背後に東照宮。蓬莱山の石組。 鶴亀の庭。庵主以心崇伝。書院造庭園 ・その他書院造庭園 ・二条城二の丸庭園~大広間からは力強い石組。黒書院からは穏やか、風流。 ・露地 ・市中の山居。千利休「浮世の外の道」 ・表、裏、武者小路各千家庭園、薮内家燕庵庭園 ・小堀遠州~幕府の作事奉行、伏見奉行として活躍 ・孤蓬庵、金地院庭園、二条城二の丸庭園 ・南禅寺大方丈前、「虎の子渡しの庭」 ・曼殊院大書院前庭園 ・蓮華寺(石川丈山作とも) ・正伝寺「獅子の子渡しの庭」 ・大徳寺芳春院(加賀前田家菩提寺)の方丈裏山水庭(横井等怡(とうい)と) ・高台寺庭園 ・圓徳院北庭(賢庭作とも) ・青蓮院「霧島の庭」 ・養源院庭園 ・御香宮社務所石庭。 ・賢庭 ・三宝院の作庭に携わった。後、小堀遠州の弟子になった。 ・金地院庭園「鶴亀の庭」、圓徳院北庭などを小堀遠州とともに作庭したとも ・西本願寺大書院「虎溪の庭」を作庭とも 明治・大正期に入ると、七代目(46)が現れ、無鄰庵、平安神宮神苑など、後世に受け継がれる名園を残した。昭和期に活躍した庭園史研究家、作庭家の(47)が造った東福寺方丈庭園は、禅宗のモダンな庭園として世界に紹介されている。また、中根金作は、妙心寺塔頭の(48)に余香苑という庭をつくった。余香苑には水滴が落下して響くかすかな水音を楽しむ庭園装置(技法)の(49)が使われている。 平成17年(2005)に開館した京都迎賓館の庭園の設計には、「庭と建初をー体につくる」という考え方「(50)」が取り入れられている。これは、室内にいながら自然の中に身をおいているように感じ取れる空間を理想とすることをいう。■(46)小川治兵衛 ◎ (47)重森三玲 ◎ (48)退蔵院 (49)水琴屈 【正解】水琴窟 (50)??? 【正解】庭屋一如◆・七代目小川治兵衛(植治) ・山縣有朋の無鄰庵庭園、平安神宮神苑(東・西・南・中の南以外)、円山公園庭園 ・白河院庭、對龍山荘庭園、旅館八千代、有芳園(住友)、洛翠庭園、高瀬川源流庭園、 ウェスティン都ホテル京都葵殿庭園及び佳水園(佳水園は子・白楊の作) 京都国立博物館庭園、清水家十牛庵庭園、並河靖之七宝記念館庭園 大橋家庭園(苔涼庭)◆・中根金作作庭の庭 ・退蔵院「余香園」、妙心寺大心院「阿吽の庭」、城南宮「楽水苑」 青蓮院将軍塚枯山水庭園 ・水琴窟 ・圓光寺、瑞春院、宝泉院、西寿寺(泉谷)、退蔵院、梅小路公園、成就院(清水寺)、 正法寺、大橋家(苔涼庭)、松花堂庭園 ・重森三玲 ・著書「日本庭園史大系」「日本庭園史図鑑」など。 ・貴船神社本宮庭園「天津磐境」、大徳寺瑞峯院「独坐庭」「閑眠庭」、 妙顕寺教法院「御題目庭園」、真如院(本圀寺元塔頭)庭園、 東福寺本坊「八窓庭」、東福寺光明院(虹の苔寺)「波心の庭」、 龍吟庵「龍吟庭」、東福寺霊雲院「九山八海の庭」「臥雲の庭」 泉涌寺善能寺「遊仙苑」、松尾大社「松風苑三庭」 ・京都迎賓館 江戸時代に園家・柳原家・櫛笥家など、複数の公家の邸宅が建っていた京都御苑の 敷地の北東部に建設された。 ・夕映の間(大広間) 壁面装飾は綴れ織により、東面が「比叡月映」(ひえい つきばえ)、 西面が「愛宕夕照」(あたご ゆうばえ)下図:箱崎睦昌 ・藤の間(大広間で晩餐室) 人間国宝の江里佐代子による截金が施された檜舞台と舞台扉「響流光韻」 (こおる こういん)を備える。下図:鹿見喜陌 ・桐の間「和の晩餐室」 天井は全て同一材料で作られた長さ12メートル中杢天井、床は長さ8メートルの大床。 座卓は長さ約12メートルの等圧合板を下地に漆黒の漆を施してあり、座椅子の背には 政府及び京都迎賓館の紋である五七の桐が蒔絵で描かれている。 欄間「日月」には江里佐代子による截金が施されている。 ・滝の間 和室 瀬戸内の犬島、白石島から運ばれた花崗岩を中心に組み立てられた大滝を配した庭園 に面する。 ・貴船の間 水明の間と対をなし、金をイメージして作られた貴賓室。 江里佐代子による截金透塗飾り台がある。 ・水明の間 首脳会談などに用いられる、大池に張り出した開放的な空間。 貴船の間と対をなし、銀をイメージして作られている。 天井を船底とし、椅子のファブリック(布地)は立涌文様の中に波紋を織り込んだ 西陣織。床は青海波文様の段通。「悠久のささやき」と題した飾り台や卓子にも蒔絵 や螺鈿が描かれるなど水をテーマとしたデザインで統一される。 ・聚楽の間 晩餐会の待合などに使用される。 友好の心をイメージして、人間国宝の早川尚古斎による竹花器や伊砂利彦の型染の 屏風、椅子ファブリックは西陣織、釘隠には千代結のデザインが施されている。 ・日本庭園 玄関前の「真の庭」、館内の中央「行の庭」、賓客宿泊室に面する「草の庭」の3面で 構成される。「庭屋一如」の現代和風の庭園として、尼崎博正の監修により、 佐野藤右衛門を棟梁とする京都の庭師により作られた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 15点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/12
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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題5】次の文章を読んで、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点) 日本の最も古い作庭の伝書である(41)の著者とされる橘俊綱は作庭家でもあった。 平安期の浄土庭園の代表的なものは、京都府木津川市加茂町にある寺院(42)の庭園で、国の史跡・特別名勝に指定されている。南北朝・室町時代に後醍醐天皇、足利尊氏が帰依した著名な禅僧(43)は、天龍寺庭園、西芳寺庭園などを手がけた。室町時代半ばには、阿弥号を有する(44)が足利義政に取り立てられ、作庭分野で名を残している。 大徳寺塔頭である大仙院書院庭園は、(45)様式の代表例で、立石を滝と眺め、白砂を敷いて渓流が大海へと至る風景を表現している。江戸期に小堀遠州が作庭に携わった南禅寺塔頭の金地院庭園(鶴亀の庭)も同じ様式である。 明治・大正期に入ると、七代目(46)が現れ、無鄰庵、平安神宮神苑など、後世に受け継がれる名園を残した。昭和期に活躍した庭園史研究家、作庭家の(47)が造った東福寺方丈庭園は、禅宗のモダンな庭園として世界に紹介されている。また、中根金作は、妙心寺塔頭の(48)に余香苑という庭をつくった。余香苑には水滴が落下して響くかすかな水音を楽しむ庭園装置(技法)の(49)が使われている。 平成17年(2005)に開館した京都迎賓館の庭園の設計には、「庭と建初をー体につくる」という考え方「(50)」が取り入れられている。これは、室内にいながら自然の中に身をおいているように感じ取れる空間を理想とすることをいう。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/11
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■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題4】次の問いに答えなさい。 (2点×10問=20点)(31)5月12日深夜、葵をかざした宮司以下神職が神霊を迎える葵祭の神事は何か。■御阿礼神事 ◎◆葵祭 路頭の儀前の神事・1日 競馬会足汰式(上賀茂神社馬場殿前)・3日 流鏑馬神事(下鴨神社糺の森)・5日 歩射神事(下鴨神社) 小笠原宗家による屋越式、大的式、百手式 競馬会神事 宮中の女房が菖蒲の根合わせという遊びを行った際、勝負の祈願をした女房が勝った ことから、そのお礼として、競馬を奉納したのが起こりとされている。・初旬の吉日 斎王代 女人御禊神事 上賀茂神社 ならの小川 下鴨神社 御手洗池 人形(ひとがた)を流して御禊を行う・12日 御阿礼神事 上賀茂神社 深夜 秘儀で完全非公開 御蔭祭 下鴨神社 神職・伶人・供奉員・神馬 東游・切芝の神事(糺の森) (32)小説「花の生涯」に登場する村山たか女が、幕末から明治の激動期、尼として入り、晩年 を過ごした寺院はどこか。■金福寺 ◎◆村山たか・幕末期の井伊大老の隠密。・祇園の芸妓にもなり、子(多田帯刀)も設けた。・井伊直弼の寵愛を受け、国学者長野主膳の愛人にもなった。・尊王攘夷急進派の天誅組に捕えられ、岡田以蔵らに三条河原で生き晒しにされた。・金福寺に入り、直弼、主膳を弔って暮らした。・金福寺の弁天堂はたかが建てた。・圓光寺に墓(33)12月上旬、千本釈迦堂において、中風除けや無病息災を願い、参拝者に大鍋で煮込んだ野 菜を振る舞う行事を何というか。■大根炊き 【正解】大根焚き◆(37)に同じ(34)餅の上につぷ餡をのせたもので、自い餅と草餅の二種類があり、城南宮のそば、鳥羽街道 の名物菓子として知られるものは何か。■おせき餅 ◎◆寺社・街道・関所ゆかりの菓子(要注意点)・あぶり餅 北側でより古い店~一和 南側~かざえりや・粟餅~粟餅所澤屋・鎌餅~大黒屋鎌餅本舗・唐板~水田玉雲堂・幽霊子育飴~みなとや幽霊子育飴本舗・長五郎餅~長五郎餅本舗 初代河内屋長五郎に因む。 豊臣秀吉に北野大茶湯で賞賛・どら焼~熱した銅鑼で焼く 笹屋伊織・走井餅~走井餅老舗。 大津時代は歌川広重の錦絵「東海道五十三次」にも登場・鳩餅~三宅八幡茶屋・法螺貝餅~もとは「ふのやき」という菓子に似ている。 孝明天皇が安政の御所炎上時、避難先の聖護院門跡で食したという。 年に一度、節分護摩供の供用菓子 柏屋光貞・やきもち~神馬堂(葵餅)、葵屋やきもち本舗 葵餅とふたば餅・みたらし団子~御手洗池の水の泡を表す 加茂みたらし茶屋 亀屋粟義(35)琵琶湖疏水の第1疏水第3トンネル西口に掲げられている扁額に「美哉山河」の文字を揮 毫した幕末・明治期の公家出身の政治家は誰か。■岩倉具視 【正解】三条実美◆疏水トンネル扁額・第2疏水取入口 萬物資始(ばんぶつとりてはじむ) 久邇宮邦彦 筆 すべてのことがこれによって始まる(易経)・第1疏水第1トンネル東口(大津側) 氣象萬千(きしょうばんせん) 伊藤博文 筆 千変万化する氣象と風景の変化はすばらしい (宋・岳陽樓記の一節)・第1疏水第1トンネル内壁 寶祚無窮(ほうそむきゅう) 北垣国道 筆 皇位は永遠である・第1疏水第1トンネル西口(藤尾側) 廓其有容(かくとしてそれかたちあり) 山縣有朋 筆 悠久の水をたたえ,悠然とした疏水のひろがりは, 大きな人間の器量をあらわしている・第1疏水第2トンネル東口 仁似山悦智為水歓歡 (じんはやまをもってよろこびちはみずをもってなるをよろこぶ) 井上 馨 筆 仁者は知識を尊び,知者は水の流れをみて心の糧とする(論語)・第1疏水第2トンネル西口 隨山到水源(やまにしたがいすいげんにいたる) 西郷従道 筆 山にそって行くと水源にたどりつく・第3トンネル東口 本邦最初鐵筋混凝土橋 昭和7年 建立されたわが国 初の鉄筋コンクリート橋の碑・第1疏水第3トンネル東口 過雨看松色(かうしょうしょくをみる) 松方正義 筆 時雨が過ぎるといちだんと鮮やかな松の緑をみることができる(唐・盧綸の詩)・第1疏水第3トンネル西口 美哉山河(うるわしきかなさんが) 三条實美 筆 なんと美しい山河であることよ くにの宝である美しい山河を守るには,為政者の徳と国民の一致が大切との含意も (史記・呉記列伝)・疏水合流トンネル北口 藉水利資人口(すいりをかりてじんこうをたすく) 田邊朔郎 筆 自然の水を利用して,人間の仕事に役立てる・一身殉事萬戸霑恩(いっしんことにじゅんずるはばんこおんにうるおい) 田邊朔郎 筆 明治35年 田邊朔郎が私費建立した第1疏水殉職者慰霊碑(蹴上)・蹴上”ねじりマンポ”南側 雄觀奇想(ゆうかんきそう) 北垣国道 筆 見事なながめとすぐれた考えである・第2期蹴上発電所入口 亮天功(てんこうをたすく) 久邇宮邦彦 筆 民を治めその所を得さしめる(書経・舜典)(36)「源氏物語」で黒木の鳥居や小柴垣のある野宮神社が舞台となる巻は何か。■賢木 ◎◆源氏物語 第1巻~20巻1桐壷 2帚木(ははきぎ)3空蝉 4夕顔 5若紫 6末摘花(すえつむはな) 7紅葉賀(もみじのが) 8花宴(はなのえん)9葵 10賢木(さかき)11花散里(はなちるさと) 12須磨 13明石 14澪標(みおつくし)15蓬生(よもぎう) 16関屋 17絵合(えあわせ)18松風 19薄雲 20朝顔(槿)(37)12月、嵯峨の広沢池において、水を抜いて底に溜まった泥をさらい、魚を収穫する冬の風 物詩を何というか。■鮒ざらえ 【正解】鯉揚げ◆12月の行事・1日 献茶祭 北野天満宮 ・1日 しまい大黒祭 地主神社・7~8日 大根焚き 大報恩寺 千本釈迦堂(成道会法要)・8日 針供養祭 針神社・8日 針供養 法輪寺・上旬 嵐山花灯路・上旬 鯉揚げ 広沢池・10日 しまい金比羅 安井金比羅宮・11日 京都中央市場秋祭 市比賣神社 ・12日 漢字の日 清水寺・13~31日 空也踊躍念仏 六波羅蜜寺・14日 山科義士まつり 毘沙門堂・瑞光院・岩屋寺・大石神社・山科市街地・14日 義士会法要 法住寺 身代わり不動と四十七士の小像・18日 中風除お粥接待 一言寺・中卯日 醸造初神事 御香宮神社・20日 お煤払い 西本願寺・東本願寺・21日 終い弘法 東寺・23日 天長祭 新熊野神社 つなかけ祭・25日 終い天神 北野天満宮・28日 御身拭式 知恩院 法然上人木像を香染めの羽二重で拭う儀式・28日 鑚火式 をけら火のきり出し・31日 師走の大祓 各神社・31日 をけら詣 八坂神社・31日 おけら参り 北野天満宮(38)享保2年(1717)、伏見において呉服店大文字屋(後の大丸)を創業し、海宝寺と縁のあ るのは同家か。■下村家 ◎◆創業者・下村彦右衛門正啓、京都伏見に呉服店「大文字屋」を開業。(大丸創業)・1831年(天保2年)、京都で飯田新七が古着・木綿商を開き、義父の飯田儀兵衛の出身地で ある滋賀県高島郡(現高島市)から高島屋と名付けた。・中林仁一郎(にいちろう)によってに創業された「中林呉服店」がルーツで、 大正9年に京都駅前へ「京都物産館」として進出し、大正15年の京都物産館新館(6階建)完成 と共に百貨店形態の店舗を開設したのが始まり。・真如堂に三井家家祖・三井高利夫妻の墓がある。(39)東山三十六峰の穏やかな姿を見て、「布団着て寝たる姿や東山」と詠んだ江戸時代の俳人 は誰か。■服部嵐雪 ◎◆東山三十六峰・比叡山 ・御生山 ・赤山 ・修学院山 ・葉山 ・一乗寺山 ・茶山 ・瓜生山 ・北白川山 ・月待山・如意ヶ嶽 ・吉田山 ・紫雲山 ・善気山 ・椿ヶ峰・若王子山 ・南禅寺山 ・大日山 ・神明山 ・粟田山 ・華頂山 ・円山 ・長楽寺山 ・双林寺山 ・東大谷山 ●高台寺山 ●霊鷲山 ●鳥辺山 ・清水山 ・清閑寺山・阿弥陀ヶ峰 ●今熊野山 ・泉山 ・恵日山 ・光明峰・稲荷山●:今回書き出せなかったもの(40)小畑川は雨が降るとは橋をも流す暴れ川となる。そのため、通行人から通行料を徴収して橋 の架け替えの費用に充てた、という伝承からついたとされ、向日市と長岡京市の市境に架か るこの橋の名前は何か。■一文橋 ◎◆京都の伝説(テキスト274、275P分)・合槌稲荷 三条小鍛冶宗近 後一条天皇から鎮護の刀をうつことを命ぜられる。 稲荷に祈願し、満願に近い日、立派な刀うちになりたいという童子が現れ、この童子を合槌に 名刀「小狐丸」を打ち上げた。この童子の正体は稲荷のキツネの化身であった。・業平の塩竃跡(キーワード) 在原業平 十輪寺 大原野神社にかつての恋人二条の后(藤原高子)・方丈石 千人(ちびき)石とも・宇治川の亀石 豊臣秀吉が伏見城を築いた際、宇治川の水を城内に引くため地下道を引かせ、その取り込み口 に、この石を置いてカモフラージュしたという。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 15点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/11
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【京都検定】第9回 問題4 問題(1級過去問題レビュー)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題4】次の問いに答えなさい。 (2点×10問=20点)(31)5月12日深夜、葵をかざした宮司以下神職が神霊を迎える葵祭の神事は何か。(32)小説「花の生涯」に登場する村山たか女が、幕末から明治の激動期、尼として入り、晩年 を過ごした寺院はどこか。(33)12月上旬、千本釈迦堂において、中風除けや無病息災を願い、参拝者に大鍋で煮込んだ野 菜を振る舞う行事を何というか。(34)餅の上につぷ餡をのせたもので、自い餅と草餅の二種類があり、城南宮のそば、鳥羽街道 の名物菓子として知られるものは何か。(35)琵琶湖疏水の第1疏水第3トンネル西口に掲げられている扁額に「美哉山河」の文字を揮 毫した幕末・明治期の公家出身の政治家は誰か。(36)「源氏物語」で黒木の鳥居や小柴垣のある野宮神社が舞台となる巻は何か。(37)12月、嵯峨の広沢池において、水を抜いて底に溜まった泥をさらい、魚を収穫する冬の風 物詩を何というか。(38)享保2年(1717)、伏見において呉服店大文字屋(後の大丸)を創業し、海宝寺と縁のあ るのは同家か。(39)東山三十六峰の穏やかな姿を見て、「布団着て寝たる姿や東山」と詠んだ江戸時代の俳人 は誰か。(40)小畑川は雨が降るとは橋をも流す暴れ川となる。そのため、通行人から通行料を徴収して橋 の架け替えの費用に充てた、という伝承からついたとされ、向日市と長岡京市の市境に架か るこの橋の名前は何か。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/10
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【京都検定】第9回 問題3 解答(1級過去問題レビュー)■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題3】次の間いに答えなさい。 (2点×10問=20点)(21)父が人間国宝の片山幽雪、姉に京舞井上流家元五世井上八千代と、芸道一筋の家に生まれ、 現在、京都観世会会長として能楽界の振興発展に努めている能楽師は誰か。■片山九郎衛門 【正解】十代片山九郎右衛門◆・江戸時代、観世流宗家が徳川将軍家に仕えるため江戸に移った後、京都において素謡の師範 にあたった五家を京観世五軒家という。 ・当初は観世流脇方の福王流家元の服部宗巴、後に息子の宗碩が観世流の諸用向きを取り仕切 り、服部家の門弟であった浅野、井上、岩井、薗、林の五家を京観世五軒家と称した。 ・宗碩没後は、服部家に代わって片山九郎右衛門家が京都の観世流を取り仕切る体制に変わっ ・六世片山九郎右衛門晋三は京舞井上流三世井上八千代(本名片山春子)と結婚。 現在は十世片山九郎右衛門(本名片山清司)。五代目井上八千代(本名片山三千代。旧姓片山) (22)能装束をはじめ、南座など全国の大劇場の緞帳や横綱の化粧まわしにも使われている、経 済産業人臣指定の伝統的工芸品は何か。■西陣織 ◎◆経済産業人臣指定の伝統的工芸品・京焼/清水焼 ・京漆器 ・京指物 ・京扇子 ・京うちわ・京人形 ・京表具・京仏壇と京仏具 ・京石工芸品 ・西陣織 ・京友禅 ・京小紋 ・京鹿の子紋 ・京繍 ・京黒紋付染 ・京くみひもその他の工芸品・京竹工芸品 ・京象嵌 ・京刃物 ・京印章 神祇装束調度品(23)歌道の冷泉家では、月次歌会など王朝以来の貴重な行事を今に伝えているが、その中で公 家の七夕行事は何か。■きっこう奠 【正解】乞巧奠◆冷泉家・冷泉家は近衛中将に代々任官された羽林家と呼ばれる家柄の公家。 御子左家(二条家)の分家。 藤原為家(藤原定家の子)の子である冷泉為相(母は『十六夜日記』の著者である阿仏尼) から始まる。家名は平安京の冷泉小路に由来する。 藤原定家の子孫は、定家の孫の代で御子左家(二条家)から京極家・冷泉家が分かれ三家となっ たが、京極家は早くに断絶し、嫡流の二条家も室町時代に断絶した(歌道の家元としての二条派 は三条西家他が相続)。 室町時代中期には上冷泉家(かみれいぜいけ)と下冷泉家(しもれいぜいけ)に分かれた。 一般に冷泉家として知られるのは、江戸時代から屋敷が移転していない上冷泉家の方である。 現当主は冷泉為人(婿養子、妻は為任の娘の貴実子) 冷泉家時雨亭文庫が冷泉家(上冷泉家)に伝わる古写本、建築、年中行事などの文化遺産を保存 活用し、冷泉流歌道を継承することを目的として設立された。(24)6月のはじめ頃に平安神宮の境内で行われ、今年(平成24年)、63回目を迎えた能の会を 何というか。■薪能 【正解】京都薪能(25)千家の荼の湯の道具を代々にわたって制作する「千家十職」のうち、竹細工・柄杓師とし て知られるのは何家か。■佐野家 【正解】黒田正玄家◆千家十職・茶碗師 − 樂吉左衛門・釜師 − 大西清右衛門・塗師 − 中村宗哲・指物師 − 駒沢利斎・金物師 − 中川浄益・袋師 − 土田友湖・表具師 − 奥村吉兵衛・一閑張細工師 − 飛来一閑・竹細工・柄杓師 − 黒田正玄・土風炉・焼物師 − 西村(永樂)善五郎(26)花街において、芸舞妓を抱え、「お茶屋」などに送り出すところを何というか。■置き屋 ◎(置屋、屋形、子方屋)◆花街のしきたり・仕込み・店出し 店出しの前に「お座敷見習い」帯は「半だらり」、「半だら」 「さし紙」~「このたび舞妓となりました。」というお披露目の証。・襟替え 芸妓となること。赤襟→白襟 「一本になる」 旦那がついて「襟替え」するのを「水揚げ」という・髪型 割り(れ)しのぶ→おふく→奴島田(襟替え近く)→先笄(芸妓になる2週間前) →島田(芸妓・かつら)・男衆 桔梗屋、末広屋、村田屋などがあった。 瀬戸内寂聴の「祇園の男」に詳しい・太鼓持ち 幇間、牽頭 喜多川守貞「守貞漫稿」に記述・拳~ばら拳、つる拳、相場拳、虎拳 虎拳:浄瑠璃の国姓爺合戦にちなむ 和唐内、和唐内の老婆、虎・祇園小唄 作詞:長田幹彦 作曲:佐々紅華 歌:藤本二三吉 歌碑が円山公園に洋画家和田三造のデザインで(27)安珍・清姫の霊話で知られる紀州道成寺の鐘が伝わる岩倉の寺院はどこか。■妙満寺 ◎◆・妙満寺 洛中雪月花三名園 松永貞徳作庭 俳諧(俳句)の祖 清水寺成就院「月の庭」 妙満寺「雪の庭」 北野成就院(廃絶)「花の庭」 「雪の庭」 貞徳は寛永6年(1629)11月25日、妙満寺を会場に正式俳諧 興行として「雪の会」を催した。妙満寺は俳諧(俳句)の地といえる。 妙満寺の塔頭・成就院の時の住職日如上人は貞徳の門下であり、その 縁からこの「雪の庭」を造営した。清水寺本坊の「月の庭」、北野の 「花の庭」とともに、いずれも成就院にあったことから 成就院「雪・月・花の三名園」と並び称されていた。・洛中法華21ヶ寺 天文法華の乱以前に京都市内(当時は洛中)にあった法華宗系の21の本山。 全ての寺院が天文法華の乱(天文法難)によって焼かれた。 豊臣秀吉によって法華宗帰洛が許された。 本満寺・妙顕寺・頂妙寺・妙伝寺・立本寺 本圀寺 ・本法寺・妙覚寺・妙蓮寺・本隆寺 本禅寺・妙満寺・本能寺 ・大妙寺(妙顕寺塔頭から平成3年独立移転) - 西京区樫原秤谷町 ・弘経寺 - 堺移転後、明治28年(1895年)愛媛県へ移転。 ・宝国寺 - 本圀寺持殊院として、明治20年(1887年)まで存続、 その後、愛媛県へ移転。 ・本覚寺 - 文正元年(1466年)妙覚寺に編入されたという。 ・住本寺 - 上行院と合併し要法寺へ ・上行院 - 住本寺と合併し要法寺へ ・妙泉寺 - 寺格は寂光寺が継承 ・学養寺 - 寺格は勝光寺が継承・天文法華の乱 天文5年(1536)比叡山延暦寺の衆徒が宗教問答を契機に京都の法華一揆と対立し、 洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った事件。天文法乱。(28)室町時代初期、物まね主体の能を歌舞主体の幽玄能へと洗練させ、能楽の理論書『風姿花 伝』を著したのは雄か。■世阿弥 ◎◆主な阿弥観阿弥 – 田楽。観世流。世阿弥 – 田楽。観世流。音阿弥 – 田楽。観世流。観阿弥の孫で、世阿弥の甥。増阿弥 – 足利義持の後援を受けて活躍した田楽能の名手。能阿弥 - 東山御物を選定した、足利義政のおかかえ芸術家。座敷飾りを始めた。 水墨画阿弥派の開祖。茶道において書院飾りを完成。 村田珠光に東山流茶道を教えたという。連歌では「七賢の一人」にあげられる。 子の芸阿弥、孫の相阿弥とともに三阿弥という。芸阿弥 - 能阿弥の子。連歌に長じ、水墨画家としても有名。「君台観左右帳記」を編集。相阿弥 - 能阿弥の孫。「君台観左右帳記」を編集。 足利将軍家同朋衆。華道相阿弥流創始者。「東山文化」形成に重要な役割 庭園~慈照寺、聴松院(南禅寺塔頭)、龍源院(大徳寺塔頭)「龍吟庭」、成就院、 青蓮院「相阿弥の庭」善阿弥 - 「河原者」(被差別身分)出身ながら足利義政に仕えた作庭家。 東山殿庭園(江戸後期に知恩院の普請奉行を務めた宮城豊盛が改修)を造営とも立阿弥 – 立花。足利義教、義勝、義政の同朋衆。千阿弥 – 茶の湯。本阿弥光悦 - 「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家であり、 陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わった万能の芸術家として知られる。(29)京の師走の風物詩、南座の顔見世のまねき看飯には、出演者の名前が墨書されている。そ の書体は何か。■勘亭流 ◎◆・勘亭流~岡崎屋勘六が考案 ・顔見世~11月30日から12月26日まで 役者は旧暦11月から10月の1年契約 ・舞妓の花簪 月順に 松竹梅 梅 菜の花 桜 藤 柳 団扇 薄 桔梗 菊 紅葉 まねき 始業式 稲穂 祇園祭 梵天(ぼんてん)(髪型は勝山) (30)今年(平成24年)、「古典の日」が法制化されたが、そのきっかけとなった平成20年(2008) に実施された記念事業は何か。■源氏物語千年記念祭 【正解】源氏物語千年紀◆源氏物語 宇治十帖45 橋姫 はしひめ 46 椎本 しいがもと 47 総角 あげまき 48 早蕨 さわらび 49 宿木 やどりぎ 50 東屋 あずまや 51 浮舟 うきふね 52 蜻蛉 かげろう 53 手習 てならい 54 夢浮橋 ゆめのうきはし ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 14点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/10
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【京都検定】第9回 問題3 問題(1級過去問題レビュー)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題3】次の間いに答えなさい。 (2点×10問=20点)(21)父が人間国宝の片山幽雪、姉に京舞井上流家元五世井上八千代と、芸銅一筋の家に生まれ、 現在、京都観世会会長として能楽界の振興発展に努めている能楽師は誰か。(22)能装束をはじめ、南座など全国の大劇場の緞帳や横綱の化粧まわしにも使われている、経 済産業人臣指定の伝統的工芸品は何か。(23)歌道の冷泉家では、月次歌会など王朝以来の貴重な行事を今に伝えているが、その中で公 家の七夕行事は何か。(24)6月のはじめ頃に平安神宮の境内で行われ、今年(平成24年)、63回目を迎えた能の会を 何というか。(25)千家の荼の湯の道具を代々にわたって制作する「千家十職」のうち、竹細工・柄杓師とし て知られるのは何家か。(26)花街において、芸舞妓を抱え、「お茶屋」などに送り出すところを何というか。(27)安珍・清姫の霊話で知られる紀州道成寺の鐘が伝わる岩倉の寺院はどこか。(28)室町時代初期、物まね主体の能を歌舞主体の幽玄能へと洗練させ、能楽の理論書『風姿花 伝』を著したのは雄か。(29)京の師走の風物詩、南座の顔見世のまねき看飯には、出演者の名前が墨書されている。そ の書体は何か。(30)今年(平成24年)、「古典の日」が法制化されたが、そのきっかけとなった平成20年(2008) に実施された記念事業は何か。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/09
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■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題2】( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点)(11〉伏見稲荷大社の起源は、和銅4年(711)、秦伊呂具が稲荷山の( )に三柱の神を祀っ たことに始まる。■一の峯 【正解】三ヶ峰◆伏見稲荷大社 ・全国3万ある稲荷神社の総本宮 ・秦伊呂具が稲荷山の三ヶ峰に三柱を創始したという ・「山城国風土記」には、伊呂具が餅を的に矢を射たところ、その餅が白鳥になって山の峰に 飛んで、そこに稲が生えたので、イナリの社名になったと伝える ・空海が東寺の守護神として稲荷神を祀り、歴代天皇の行幸とともに民間にも広く信仰された。 ・五条以南が氏子圏。祇園社と京を二分。 ・本殿以外に御茶屋が重要文化財。後水尾院から拝領。 書院造から数寄屋造に移る遺構を残す。貴人好みの御茶屋の代表。 ・近くに荷田春満旧宅がある。 江戸中期の国学者。伏見稲荷神官。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学四大人の一人。 門下に賀茂真淵がいる。著書に『万葉集僻案抄』『春葉集』等。 東丸神社の祭神。(12)古くは、岡崎神社が東天王社と呼ばれていたのに対し、( )は西天王社と呼ばれて いた。■須賀神社 ◎◆須賀神社・美福門院創建の歓喜光院の鎮守として創祀。・交通神社を分祀・神幸祭は角豆(ささげ)祭の名で知られる。・美福門院 藤原得子(ふじわらのなりこ)は、鳥羽天皇の譲位後の寵妃。 皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産。 鳥羽上皇は体仁親王を崇徳天皇の皇太子とする。体仁親王の立太子とともに得子は女御と なり、正妃の璋子(待賢門院)を凌ぐ権勢を持つようになる。保延6年(1140年)には 崇徳帝の第一皇子・重仁親王を養子に迎えた。 永治元年(1141年)、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王を即位させた(近衛 天皇)。(13)豊臣秀吉か聚楽第内に創建した神社と伝わる( )は、聚楽第廃絶後に移建され、二 条城の西側にあったか、社殿の老朽化などに伴い、今年(平成24年)、大原に移された。■出世稲荷神社 ◎◆出世稲荷神社・末社の三石社は、三個の石を神体とし、勝負事の神として知られる。(14)豊臣秀占は織田信長の菩提を弔うため、大徳寺塔頭の( )を建立した。■総見院 ◎◆総見院・織田信長の大葬礼の喪主は信長の遺児で、秀吉養子の秀勝が務めた。・その後の織田信長の一周忌に間に合うように豊臣秀吉が総見院を建立した。・開祖は大徳寺117世の古渓宗陳。・1961年(昭和36年)に本山に安置されていた信長木像を再び迎え、380年忌を行った。・織田信長一族供養塔・茶室 - 「大徳寺大茶会」では総見院方丈で秀吉が茶を立てた、との記録が残る。 龐庵(ほうあん) - 表千家・而妙斉の筆による扁額がかかる。 寿安席(じゅあんせき) - 明治から昭和にかけて活躍した実業家・山口玄洞が寄進。 香雲軒(こううんけん) - 表千家の十三代・即中斎の好みの茶室。・掘り抜き井戸 - 加藤清正が朝鮮から持ち帰った石でつくったものという。・侘助椿 - 秀吉がこよなく愛したと伝わる。樹齢400年。 (市指定天然記念物) (15)東福寺の歩廊橋のなかでも、方丈と開山堂を結んでかかる( )の一帯は、京都を代 表する紅葉名所のひとつである。■通天橋 ◎◆東福寺 ・3つの橋~臥雲橋、通天橋、偃月橋 洗玉澗(三ノ橋川)にかかる ・門~北から月下門(亀山天皇御所の遺構)、日下門、六波羅門(六波羅探題の遺構)、 勅使門 ・池~思遠池 ・開山堂~別名「常楽庵」 ・その他の建物、建造物~東司(とうす)・愛染堂・十三石塔 ・九条道家が九条家の菩提寺として建立 ・円爾弁円(聖一国師)を開山 ・京都五山の第3位 ・三門は現存最古の三門で国宝 ・八窓の庭 ・重要文化財「五百羅漢図」明兆(兆殿司(でんす)) ・大涅槃図 (16)上京区にある宝鏡寺の境内には、京人形の振興や人形の供養を目的とした人形塚が立って いるが、その塚には御所人形像とともに作家( )の詠んだ歌が刻まれている。■武者小路実篤 ◎◆宝鏡寺 ・前身は景愛寺の子院であった福尼寺 ・景愛寺6世花林宮恵厳禅尼(かりんのみやえごんぜんに)(光厳天皇の皇女)が現在地に 移転、再興。 ・理晶尼王(りしょうにおう)(久厳禅尼、後水尾天皇の皇女)が入寺して以降、尼御所と なり百々御所と称した。 ・24代三麼地院宮(さんまじいん)が父光格天皇より賜った直衣雛をはじめ、皇女和宮の 遺愛の品などを所蔵する。 ・武者小路実篤歌碑 人形よ誰がつくりしか誰に愛されしか 知らねども愛された事実こそ 汝が成仏の誠なれ(17)通称・小町寺として知られる洛北の( )は、本堂に安置されている小野小町の老衰 像をはじめ、供養塔や盗見の井戸など、小町ゆかりのものか多く残る。■補陀洛寺 ◎◆その他小町ゆかりの地・隨心院~小町の邸宅跡・卒塔婆小町像・文塚・小町化粧の井戸・文張地蔵・はねず踊り・補陀洛寺~小野小町・深草少将供養塔・姿見の井戸・小町老衰像・退耕庵~小町玉章地蔵・小野小町百歳井戸・欣浄寺(ごんじょうじ)~深草少将邸宅跡・少将・小町供養塔・少将遺愛の井戸・小町姿見の池・菊野大明神~深草少将腰掛の石・下御霊神社~安部清行との逸話が伝わる(18)文徳天皇の后(染殿后)の懐妊、安産を願って創建された( )は、在原業平の閑居 跡とされ、「なりひら寺」とも呼ばれる。■十輪寺 ◎◆十輪寺・文徳天皇の后(染殿后)の懐妊、安産を願って創建された。 本尊は腹帯地蔵尊として信仰を集める。・在原業平の閑居跡とされ、「なりひら寺」とも呼ばれる。・業平の墓と伝える宝篋印塔・かつての恋人二条后(藤原高子)の大原野詣の際に塩を焼いてその思いを託した塩竃の跡・禅衣(おいずる)観音~花山法皇が西国三十三所観音霊場巡拝時背負っていた自作の観音(19)知恩院には、阿弥陀仏が臨柊の往生者のもとへ急ぎ下向してくる様子を描いた「阿弥陀二 十五菩薩来迎図」(国宝)があり、( )の通称で知られている。■早来迎 ◎◆鎌倉時代の絵画・似絵 神護寺「伝源頼朝像」「伝平重盛像」「伝藤原光能(みつよし)像」・栂尾高山寺 明恵上人像、鳥獣人物戯画・禅林寺 山越阿弥陀図・知恩院 阿弥陀二十五菩薩来迎図」(早来迎)・絵所預(Sどころあずかり)の土佐派の絵師や絵仏師などが誕生(20)八坂神社境内にある末社の( )は美徳成就を祈願する社で、肌の健康や美を保つご 利益がある「美容水」か湧き出ている。■御美社 【正解】美御前社◆八坂神社・摂社 疫神社 太田社 大国主社 常盤神社 蛭子社 大神宮社 悪王子社 美御前社 日吉社 刃物神社 祖霊社 厳島社◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/09
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【京都検定】第9回 問題2 問題(1級過去問題レビュー)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題2】( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点)(11〉伏見稲荷大社の起源は、和銅4年(711)、秦伊呂具が稲荷山の( )に三柱の神を祀っ たことに始まる。(12)古くは、岡崎神社が東天王社と呼ばれていたのに対し、( )は西天王社と呼ばれて いた。(13)豊臣秀吉か聚楽第内に創建した神社と伝わる( )は、聚楽第廃絶後に移建され、二 条城の西側にあったか、社殿の老朽化などに伴い、今年(平成24年)、大原に移された。(14)豊臣秀占は織田信長の菩提を弔うため、大徳寺塔頭の( )を建立した。(15)東福寺の歩廊橋のなかでも、方丈と開山堂を結んでかかる( )の一帯は、京都を代 表する紅葉名所のひとつである。(16)上京区にある宝鏡寺の境内には、京人形の振興や人形の供養を目的とした人形塚が立って いるが、その塚には御所人形像とともに作家( )の詠んだ歌が刻まれている。(17)通称・小町寺として知られる洛北の( )は、本堂に安置されている小野小町の老衰 像をはじめ、供養塔や盗見の井戸など、小町ゆかりのものか多く残る。(18)文徳天皇の后(染殿后)の懐妊、安産を願って創建された( )は、在原業平の閑居 跡とされ、「なりひら寺」とも呼ばれる。(19)知恩院には、阿弥陀仏が臨柊の往生者のもとへ急ぎ下向してくる様子を描いた「阿弥陀二 十五菩薩来迎図」(国宝)があり、( )の通称で知られている。(20)八坂神社境内にある末社の( )は美徳成就を祈願する社で、肌の健康や美を保つご 利益がある「美容水」か湧き出ている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/08
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■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題1】( )こ入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点)(1)左京区高野の神社( )の裏山から、小野妹子の子である小野毛人の経歴を記した 墓誌が発見され、現企、国宝に指定されている。■崇道神社 ◎◆崇道神社祭神は早良親王(崇道天皇)長岡京造宮使であった藤原種継が暗殺された事件に連座したとされる早良親王(崇道天皇)の霊を慰めるため貞観年間(859年~877年)に創建されたという。1915年(大正4年)に近隣にあった式内社とされる出雲高野神社・伊多太神社・小野神社の3社が合祀された。境内社の小野神社(祭神:小野妹子・小野毛人)小野一族を祀る。境内の山中に祭神である小野毛人の墓がある。(2)神護寺には、空海が唐から請来したものを手本に書写したという、日本現存最古の両界曼 荼羅図である( )が伝えられており、国宝に指定されている。■高雄曼荼羅 ◎◆密教美術・空海が盛唐の画家季真(りしん)に真言宗の始祖を描かせた「真言五祖図」を持ち帰り、東寺に 残した。後に二祖が加えられ、「真言七祖像」として国宝に指定された。・両界曼荼羅図の中では「高雄曼荼羅」が現存最古で神護寺にある。 空海が請来した手本をもとに赤紫の綾に金銀泥で描き出されている。・正月の行事として国家の安寧を祈願する「御七日御修法」に用いられたという「伝真言院曼荼羅」 が東寺に、またこの行事の本尊である五大尊像(不動、降三世、軍荼利、大威徳明王、金剛夜叉) が東寺や醍醐寺にある。・醍醐寺の五重塔には彩色壁画が残されており、そこには両界曼荼羅の諸尊や真言八祖像が描きださ れている。・青蓮院には「青不動」として知られる不動明王坐像を描いた「不動明王二童子」の姿が残された。 (3)平安京の内裏は、安貞元年(1227)の焼失以来再建されず、その跡地は荒廃して( ) と呼ばれるようになった。その地が再び脚光を浴びるのは天正15年(I587)の豊臣秀吉の聚 楽第の造営である。■内野 ◎◆聚楽第関白になった豊臣秀吉の政庁兼邸宅として建てたもの。九州征伐を終えた秀吉が大坂より移り、ここで政務をみた。後陽成天皇の行幸を迎えてこれを饗応している。また天正少年使節や徳川家康の謁見もここで行われた。1591年(天正19年)12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと聚楽第は秀次の邸宅となった。しかし、秀吉は1595年(文禄4年)7月に秀次を高野山に追放して切腹させ、秀次の邸宅となっていた聚楽第を徹底的に破却した。なお、後に御所に参内するための利便上、新たに豊臣家の京屋敷を建設する必要に迫られ、現在の仙洞御所の地に「京都新城(後に北政所が居住)」が設けられた。(4)銀閣寺東求堂(国宝)内にある四畳半の室の( )は、付書院や違い棚をもつ書院造 の古い例として知られる。■同仁斎 ◎◆銀閣寺・足利義政が浄土寺跡に建てた東山山荘に始まる。・義政没後、夢窓疎石を勧請開山として相国寺宝処周財が入寺して禅寺に。・銀閣は観音殿。下層心空殿は和様住宅、上層潮音閣は禅宗様仏堂。・東求堂は持仏堂。・池は鏡容池・銀閣寺垣は建仁寺垣の変形・銀閣寺型手水鉢は袈裟型手水鉢と呼ばれる・本堂に与謝蕪村、池大雅共作による襖絵・奥田元宗画伯の絵(5)嵯峨・大覚寺の宸殿は、東福門院(徳川和子)の入内当初の御殿を下賜されたもので、そ の宸殿の襖絵の「吐丹図」と「紅自梅図」(共に重文)を描いた絵師は、( )で、彼の 金碧障壁画の代表作とされている。■狩野山楽 ◎◆狩野山楽・浅井長政の家臣・木村長光の子。・狩野永徳の弟子・京狩野 山雪へと続く・龍虎図、虎溪三笑図(以上妙心寺)、紅白梅図、牡丹図、松鷹図(以上大覚寺)・豊臣家の御用絵師になり「大坂冬の陣」後、松花堂昭乗のもとに身を隠す・その他、天球院(妙心寺塔頭)、正伝寺、妙顕寺、養源院などに作品(6)後水尾天良、八条宮智忠観王らと親交かあり、随筆「にぎはひ草」を著した江戸前期の京 都の豪商・文人は、( )である。■灰屋紹益 ◎◆灰屋紹益・角倉家、茶屋家、後藤家と並ぶ上層町衆であった佐野家(本阿弥光悦の縁故)の養子。・随筆「にぎはひ草」を残す。 八条宮智忠親王による桂離宮造営のようすも書かれている。・六条三筋町(後の島原)の名妓・二代目吉野太夫を、公卿・近衛信尋(のぶひろ)と競って 身請けし、妻とした。・常照寺に太夫と紹益の二人の名を刻んだ「比翼塚」と歌碑。・墓は「立本寺(北野の鬼子母神)」(7)大将軍八神社は、小脱「天地明察」の主人公である( )の直筆の暦や天球儀など古 天文暦資料を春と秋に特別公開する。■安倍晴明 【正解】渋川春海(安井算哲)◆渋川春海(安井算哲)江戸時代の暦学者。幕府の棋所に出仕し,父の名を取って初めは安井算哲 (さんてつ) といった。宣明暦 (せんみょうれき) の誤差を指摘して,貞享暦 (じょうきょうれき) をつくり,幕府の天文方となる。(8)修学院から音羽川沿いに比叡山に登る山道は、平安時代から勅使も用いた京都から延暦寺 への主要参道であり、江戸時代の「山州名跡志Jでは、夕霧が覆い、都から見ると雲が生ず るようなので、( )という通称で呼ばれている。■雲母坂 ◎◆・山州名跡志~白慧 撰 ・雲母坂 延暦寺の千日回峰行が行われる行者道でもある。同じく行者道の一部であった一乗寺の 曼殊院道、あるいは曼殊院参道が「雲母坂」であるとする説もある。 浄土真宗の宗祖とされる親鸞が、9歳(治承5年〈1181年〉)の時に青蓮院で出家し、叡山 (比叡山延暦寺)へ修学のために登り、29歳(建仁元年〈1201年〉)の春頃に叡山と決別 し、六角堂へ百日参籠を行うために下山した道とされる。1336年の延元の乱で、比叡山に 篭った後醍醐天皇方の千種忠顕率いる軍が細川氏を先陣とする足利直義の軍と対陣し、 西坂本合戦で忠顕が討ち死にした地でもある。(9)元治元年(1864)、長州軍と御所を守る薩摩・会津などの幕府軍との戦いは、激戦地となっ た京都御苑西側の門の名をとって( )とも呼ばれる。■蛤御門の変 ◎◆・京都御苑の門 北から時計回りに、朔平門、(猿ヶ辻)、建春門、(穴門)、建礼門、宜秋門、清所門、 皇后門 ・京都御所の門 東:日華門、西:月華門、南:承明門 (10)京都竃気鉄道は、明治26年(1895)に、東洞院塩小路~( )の約7.6kmにわが国最 初の路面電車を開業した。■伏見油掛町 【正解】伏見下油掛町◆京都電気鉄道・琵琶湖疏水の工期途中、疏水工事主任技師の田辺朔郎と上下京連合区会(後の京都市会)議員 の高木文平は、疏水の水力利用についての視察のためアメリカへ赴いた。 帰国後2人は水力利用は発電を主とするのがよいとの報告を行い、それに基づき蹴上発電所の 設置など疏水工事の計画修正がなされた。渡米時に2人は、電気鉄道も見ている。 蹴上発電所の運転が始まると、高木文平らは、1892年(明治25年)電気鉄道の敷設を府知事に 出願し、京都府会市部会は市内における敷設を可とする答申を出した。 京都電気鉄道が設立され(社長には高木文平が選出)、路線の建設が開始された。 1895年(明治28年)、初の路線として東洞院塩小路下ル(京都駅近く)-伏見下油掛(京橋) 間を開業させた。4月1日には七条から岡崎の博覧会場にいたる路線も開業させ、その後も順次 路線を延ばしていった。(博覧会:第4回内国勧業博覧会) 2代目市長であった西郷菊次郎の主張で、市営の電気鉄道を建設する事となった。 市営化後、京都電気鉄道が保有していた車両は「狭軌用」であるからnarrow(ナロー)の頭 文字をとって「N電」と呼ばれるようになった。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 16点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/08
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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題1】( )こ入れる最も適当な語句を書きなさい。 (2点×10問=20点)(1)左京区高野の神社( )の裏山から、小野妹子の手である小野毛人の経歴を記した 墓誌が発見され、現企、国宝に指定されている。〈2〉神護寺には、空海が唐から請来したものを手本に書写したという、日本現存最古の両界曼 荼羅図である( )が伝えられており、国宝に指定されている。(3)平安京の内裏は、安貞元年(1227)の焼失以来再建されず、その跡地は荒廃して( ) と呼ばれるようになった。その地が再び脚光を浴びるのは天正15年(I587)の豊臣秀吉の聚 楽第の造営である。(4)銀閣寺東求堂(国宝)内にある四畳半の室の( )は、付書院や違い棚をもつ書院造 の古い例として知られる。(5)嵯峨・大覚寺の宸殿は、東福門院(徳川和子)の入内当初の御殿を下賜されたもので、そ の宸殿の襖絵の「吐丹図」と「紅自梅図」(共に重文)を描いた絵師は、( )で、彼の 金碧障壁画の代表作とされている。(6)後水尾天良、八条宮智忠観王らと親交かあり、随筆「にぎはひ草」を著した江戸前期の京 都の豪商・文人は、( )である。(7)大将軍八神社は、小脱「天地明察」の主人公である( )の直筆の暦や天球儀など古 天文暦資料を春と秋に特別公開する。(8)修学院から音羽川沿いに比叡山に登る山道は、平安時代から勅使も用いた京都から延暦寺 への主要参道であり、江戸時代の「山州名跡志Jでは、夕霧が覆い、都から見ると雲が生ず るようなので、( )という通称で呼ばれている。(9)元治元年(1864)、長州軍と御所を守る薩摩・会津などの幕府軍との戦いは、激戦地となっ た京都御苑西側の門の名をとって( )とも呼ばれる。(10)京都竃気鉄道は、明治26年(1895)に、東洞院塩小路~( )の約7.6kmにわが国最 初の路面電車を開業した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/07
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■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載(文章で答える問題だが、ここではキーワードのみ解答した。)◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題10】時代祭について、150字以上200字以内の文章で番きなさい。 (10点) (始まるきっかけとなった行事の名称、執行団体の市民組織の名称、祭り(時代行列)が行 われる月日、出発場所・到着場所、平成19年から行列に加わった時代列は必ず含むこと)■・始まるきっかけとなった行事の名称:平安奠都千百年祭 【正解】平安奠都千百年記念祭 ・執行団体の市民組織の名称:平安講 【正解】平安講社 ・祭り(時代行列)が行われる月日:10月22日 ◎ ・出発場所・到着場所:御所(京都御所)、平安神宮 ◎ ・平成19年から行列に加わった時代列:室町時代列 ◎〔解答例〕平安奠都千百年紀念祭の奉祝行事として始まった時代祭は、桓武天皇が平安京に奠都した日にあたる。10月22日に行われる。平安神宮の創建時、同神宮の維持保存のため、全市からなる市民組織の平安講社が整えられ、現在も祭りの執行母体となっている。時代行列は正午に京都御所の建礼門前を出発、京都御苑の堺町御門をでて、鳥丸通、御池通、三条通などを経由して、平安神宮へと向かう。平成19年から室町時代列が新たに加わった。(200字)◆時代祭・10月22日は桓武天皇が平安奠都した日・明治28年の第4回内国勧業博覧会の祈念殿として模造朝堂院が建てられ、平安神宮となった。 官幣大社にもなった。・平安奠都千百年記念祭が行われた・昭和15年には京都で最後の天皇孝明天皇も合祀された。・時代祭は、神幸祭、行在所祭、還幸祭が中心・1回目の取調委員は金子錦二・久保田米僊ら・昭和25年に復活し、女人列が加わった。・昭和28年には紫式部、清少納言、出雲の阿国といった各時代の有名夫人列に整備・昭和41年孝明天皇百年祭 坂本龍馬・高杉晋作などの維新志士列が加わる・平安神宮維持保存のため平安講社という市民組織が整えられ、今も祭の執行母体 市内の旧学区単位ごとの「組」を単位に構成・山国隊はかつて京北町からの奉仕。大正10年から朱雀学区・市役所からの出発は御所からに変更。堺町御門、丸太町通、烏丸通、御池通(昔は四条通)、 河原町通、三条通、神宮道・20列、2000名、牛馬70頭、総延長2キロ・現在の隊列維新勤皇隊列、維新志士列、徳川城使上洛列、江戸時代婦人列、豊公参朝列、織田公上洛列室町幕府執政列、室町洛中風俗列、楠公上洛列、中世婦人列、城南流鏑馬列、藤原公卿参朝列平安時代婦人列、延暦武官行進列、延暦文官参朝列、神饌講社列、前列、神幸列、白川女献花列弓箭組2007年より桓武天皇1200年記念大祭を機に室町時代列が新たに行列に加わった。・維新志士列 桂小五郎(木戸孝允)・西郷吉之助(西郷隆盛)・坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作七卿落 真木和泉・久坂玄瑞 三條実美・三條西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆詞・錦小路頼徳・澤宣嘉 吉村寅太郎・頼三樹三郎・梅田雲浜・橋本左内・吉田松陰 近衛忠熈・姉小路公知・三條実萬・中山忠能・平野国臣吉村寅太郎:土佐藩士、京都に出て国事に奔走する。平野國臣らと共に盛んに尊皇攘夷を唱え、四方の志士を鼓舞した。同士と共に大和に挙兵し、その先鋒となったが遂に志を達せず自刃した。頼三樹三郎:京都の人、山陽の第三子で憂国の志深く、同士と交わって盛んに幕政の非を叫んだため、安政5年遂に捕らえられ、翌年江戸で処刑された。梅田雲浜:小浜藩士、和漢の学に通じ、子弟の薫育にも当たった。夙に攘夷を唱え、安政5年水戸藩に対する密勅降下に尽力したが、幕府に捕らえられ、翌年獄中で病歿する。橋本左内:福井藩士、蘭学医学を修め、洋学にも通じて時勢に明らかであったため、偉才を認められて藩政に尽力した。のち一橋慶喜を将軍に立てようとして奔走した。安政5年捕らえられて獄に下り斬刑に処せられた。近衛忠熈(ただひろ):孝明天皇の皇太子時代の東宮傅、即位されて右大臣、次いで左大臣に昇る。事変で辞官落飾。文久に還俗して関白となる。勤王派。姉小路公知(きんとも):三条実美と共に勤王派として奔走、文久3年御所東北の猿が淵で暗殺された。三条実萬(三条さねつむ) 文政7年権大納言、安政4年に内大臣。勤王派で、実美の父。武芸伝奏として公武協和に勉めたが、安政5年辞官落飾し、翌年薨去。孝明天皇の思し召しもあり、のちに梨木神社の祭神として祀られた。中山忠能(なかやま ただやす) 明治天皇御実母の父君。大納言であったが文久3年辞官。勤王派。和宮の宮家別当。のち輔弼の大任につき、従一位に叙せられた。平野國臣(ひらの くみおみ) 福岡藩士、和歌、雅楽、漢書、書画、武芸に長じ、早くから勤王の志を抱き、国事に奔走した。文久3年同士に呼応して生野に挙兵したが敗れ、捕らえられて処刑された。・江戸時代婦人列和宮・太田垣蓮月・玉瀾・中村内蔵助の妻・梶・吉野太夫・出雲阿国 お梶:女流歌人で、元禄、宝永の頃に祇園に茶店を営んでいた。歌集に「梶の葉」がある。中村内蔵助の妻:享保の頃(吉宗の時代)、京都銀座巨万の冨を築いた内蔵助の妻で、当時妻女の衣装比べの会で抜群の誉れを得たという。「翁草」の記事により考証されたものである。お梶の孫に当たる。玉瀾:池大雅(いけのたいが)の妻で、閨秀画家として夫と共に南画をよくし、和歌にも秀でた女性である。・織田公上洛列立入宗継:正親町天皇の勅を受けて織田信長の上洛を促し、1568(永禄11)年の信長の上洛以降は朝廷と信長の間を周旋した。羽柴秀吉丹羽長秀織田信長滝川一益柴田勝家・中世婦人列(鎌倉 ・室町時代) 花街輪番奉仕大原女 … 大原農協婦人会有志奉仕桂女 … 桂 ・桂東婦人会輪番奉仕淀君(浅井長政娘 茶々) 豊太閤の側室で浅井長政の娘。豊公の寵愛をあつめ、秀頼公の生母である。藤原為家の室 藤原為家の室(阿仏尼)は有名な『十六夜日記』の著者。静御前(源義経の側室) 源義経の愛妾で白拍子であった。のち義経が叛人として頼朝に追われ奥州に落ちた後、捕らえられ鎌倉に送られた。この時鶴岡八幡宮社前で頼朝の意を気にせず、義経を恋慕う歌舞を行ったことはあまりにも有名である。・平安時代婦人列花街輪番奉仕・京都地域女性連合会奉仕巴御前 木曾義仲の寵愛をうけ、義仲没後尼となる。横笛 建礼門院の雑司で、滝口時頼と恋に落ち、時頼出家後、嵯峨に彼を尋ねた。紀貫之の女 紀内侍 貫之は延喜の名歌人。村上天皇の時代。常磐御前 源頼朝の夫人で、頼朝亡き後、3児(牛若・乙若・今若)をもつ。清少納言紫式部小野小町和気広虫 和気清磨呂公の姉で法均尼と云い、慈悲心深く多くの孤児を養育し、これが孤児院の起源となったと云われている。百済王明信 従三位(女官では最高位)。百済王敬福(きょうふく)の孫。理白(りはく)の子。右大臣藤原継縄(つぐただ)の妻。桓武朝廷の内侍所(ないしどころ)の尚侍(しょうし)(女官長)。桓武天皇の信頼厚く、延暦9年の詔でも『百済王らは朕の外戚なり』と宣べられている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 問題8 10点中 10点 問題9 10点中 5点 問題10 10点中 8点第8回全得点 150点中 105点合格ラインは120点なので不合格よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/07
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【京都検定】第8回 問題8、9、10 解答-1(1級過去問題レビュー)字数制限のため半分に分けます。 ■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載(文章で答える問題だが、ここではキーワードのみ解答した。)◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題8】二条城について、150字以上200字以内の文章で番きなさい。 (10点) (造宮した人物と当初の造営目的、後水尾天皇に嫁した人物、江戸幕府の終焉を迎えた歴史 的出来事、国宝の建モ、障壁画・襖絵の流派は必ず含むこと)■・造宮した人物と当初の造営目的:徳川家康 将軍家の京都での居所 ◎ ・後水尾天皇に嫁した人物:徳川和子 ◎ ・江戸幕府の終焉を迎えた歴史的出来事:大政奉還 ◎ ・国宝の建物:二の丸御殿 ◎ ・障壁画・襖絵の流派;狩野派 ◎〔解答例〕二条城は、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けるに際し、上洛時の宿所と京都の警衛のために造営した。以降、江戸幕府の儀典の場として利用された。徳川秀忠の娘和子(東福門院)が後水尾天皇の女御として入内する儀典や、大政奉還の舞台としても知られている。城内の代表的な建物の一つである二の丸御殿(国宝)_には、狩野派の絵師が描いた豪華絢爛な障壁画や襖絵などがある。現在、京都観光のペスト10に入る人気スポットである。(200字)◆二条城・総奉行:京都所司代板倉勝重 大工頭:中井正清 縄張り:藤堂高虎・建設の様子が書かれた書物:義演准后日記・入場した将軍:徳川家康、家光、家茂、慶喜・家康の征夷大将軍に任ぜられ、拝賀の礼 大坂冬の陣、夏の陣の軍議の舞台 徳川秀忠の娘和子(東福門院)が後水尾天皇の女御として入内する際に、ここから儀典 後水尾天皇が二条城へ行幸 公武合体の象徴 徳川慶喜の将軍宣下 大政奉還・二条行幸に際して、城域が西に拡大、最初の天守閣は淀城へ 現本丸の西南部に天守閣・徳川秀忠の本丸御殿 徳川家光の二の丸御殿大改造・拡張工事には尾張徳川家(義直)をはじめ、親藩・譜代の大名19家が動員された。 小堀政一(遠州)が作事奉行。・二の丸御殿 南から唐門、車寄、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院 遠侍~来客の控え室 式台~大名が老中職と挨拶を交わす応接間 大広間~一の間・二の間が将軍と諸大名との対面を行う応接間、三の間が大名の控え室、 四の間が将軍が上洛した際の武器庫代わりに使われた。 (一の間で大政奉還) 黒書院~少人数用の応接間 白書院~将軍の居間・寝室 蘇鉄の間~式台と黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物・障壁画~狩野探幽・尚信・興以・現在の本丸御殿は桂宮本邸から移築・警護として二条城代が置かれたが廃止され、二条在番が受け持った。・二の丸庭園は築山林泉式・新政府接収→京都府庁→宮内省二条離宮→京都市・北の庭園は清流園 茶室光雲亭、和楽庵 【問題9】法然上人について、150宇以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点) (教義、宗派、後鳥羽上皇の怒りをかった法難の名、法然を開山として知恩院を整えた弟子 の名、今年は法然上人の何年の遠忌にあたるかは必ず合むこと)■・教義:念仏を唱えれれば極楽浄土に行ける。 ◎ ・宗派:浄土宗 ◎ ・後鳥羽上皇の怒りをかった法難の名:鈴虫・松虫事件 【正解】建永の法難 ・法然を開山として知恩院を整えた弟子の名:??? 【正解】源智上人 ・今年は法然上人の何年の遠忌にあたるか:800年 ◎〔解答例〕法然上人は、専修念仏の道に進み、「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽浄土にいけるという浄土宗を開いた。弟子によって後鳥羽上皇の女官が許しを得ず出家したため、上皇の怒りをかい、法然上人は讃岐に流された。これを建永の法難という。法然上人死後、弟子の源智上人が仏殿、御影堂、総門を建て、法然上人を開山として知恩院を興した。今年は没後800年大遠忌にあたり、本山をはじめ浄土宗の各寺院では大遠忌法要が行われている。 (200字)◆浄土宗と法然・法然房源空・法然の没後源智が知恩院の基礎を築いた。・江戸時代に徳川氏の外護のもと知恩院を総本山とし、増上寺を総録所(宗務行政官庁)として 教団体制が確立された。・七大本山のうち京都にあるもの~金戒光明寺、(百萬遍)知恩寺、清浄華院(京都市上京区)・浄土宗捨世派 本山一心院(京都市東山区) 浄土宗西山深草派 総本山誓願寺(京都市中京区) 浄土宗西山禅林寺派 総本山禅林寺(京都市左京区) 西山浄土宗 総本山光明寺(京都府長岡京市)・2014年 親鸞聖人750回御遠忌・建永の法難(承元の法難):法然ひきいる吉水教団が既存仏教教団より弾圧され、後鳥羽上皇に よって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人 が流罪に処された事件。 後鳥羽上皇が熊野神社参詣の留守中に、上皇が寵愛する「松虫」(松虫姫)と「鈴虫」(鈴虫姫) という側近の女性が、御所から抜け出して「鹿ケ谷草庵」にて行われていた念仏法会に参加する。 安楽房遵西と住蓮房の『六時礼讃』の美声が、松虫と鈴虫を魅了し出家を懇願し、剃髪を行う。 『愚管抄』によれば、更に彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを上皇不在の御所に招き入れ、 夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたとされている。 後鳥羽上皇は住蓮房・安楽房を死罪に、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。 法然は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)へ配流される。 法然は円証(九条兼実)の庇護により、讃岐国(現、香川県)に配流地が変更された。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/07
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第8回1級 問題8、9、10の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題8】二条城について、150字以上200字以内の文章で番きなさい。 (10点) (造宮した人物と当初の造営目的、後水尾天皇に嫁した人物、江戸幕府の終焉を迎えた歴史 的出来事、国宝の建物、障壁画・襖絵の流派は必ず含むこと)【問題9】法然上人について、150宇以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点) (教義、宗派、後鳥羽上皇の怒りをかった法難の名、法然を開山として知恩院を整えた弟子 の名、今年は法然上人の何年の遠忌にあたるかは必ず合むこと)【問題10】時代祭について、150字以上200字以内の文章で番きなさい。 (10点) (始まるきっかけとなった行事の名称、執行団体の市民組織の名称、祭り(時代行列)が行 われる月日、出発場所・到着場所、平成19年から行列に加わった時代列は必ず含むこと)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/06
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第8回1級 問題6、7の解答です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題6】8月22日・23日、旧街道沿いにある地蔵を巡拝する「京の六地蔵めぐり」のなかから、5 つの地蔵名とそれに対応する寺院名を記入しなさい。 (5問×2点=10点)■・桂地蔵 ◎ 地蔵院 【正解】地蔵院 ・六地蔵 【正解】伏見六地蔵 大善寺 ◎ ・深泥池地蔵 【正解】鞍馬口地蔵 上善寺 ◎ ・山科地蔵 ◎ 徳林院 ◎ ・常盤地蔵 ◎ ??? 【正解】源光寺 その他 ・鳥羽地蔵 浄禅寺 ◆・六地蔵は小野篁が彫ったといわれる。 平清盛が西光法師に命じ、主要街道の入り口に地蔵堂を建て祀った。 ・大善寺 慶雲2年(705)藤原鎌足の子、定慧によって創建されたと伝えられている。 当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていため「六地蔵」の名がついた。 ・浄禅寺 寿永元年(1182)文覚上人の開基と伝え、境内に、袈裟御前(けさごぜん)の 首塚(恋塚)といわれる五輪石塔があることから恋塚浄禅寺の名で知られている。 六地蔵巡りには鉦講が行われる。 ・地蔵寺~六地蔵めぐりには桂六斎念仏を行う 地蔵菩薩は姉井菩薩とも呼ばれている。 昔、このあたりは、桂の渡しに近く、桂大納言源経信や、伊勢女(いせじょ)等の歌人 の住居があったといわれている。 光厳天皇の勅許のより虎関師錬が南禅寺開山無関普門(大明国師)の塔所として建立。 慶長7年(1602)細川幽斎が再興した。方丈の襖絵は長谷川等伯の筆で重文。 六地蔵巡りには桂六斎念仏が行われる。 ・源光寺 上善寺の姉子地蔵に対して乙子(おとご)地蔵と呼ばれる。 昔、このあたりは鳥羽天皇皇女の八條女院の山荘常盤殿があったといい、後深草天皇も一時、 この地に隠棲されたという。また、歌人藤原為業が出家して寂念と称して閑居したところと 伝えられており、寺の東には常盤御前の墓といわれるものもある ・上善寺 貞観5年(863)に、僧円仁により、天台密教の道場として、千本今出川に創建されたと 伝えられている。その後、文明年間(1469~87)に、春谷盛信(しゅんこくせいしん) によって再興され、後柏原天皇の勅願寺として栄え、文禄3年(1594)、現在の地に移 された。 地蔵像は「深泥池地蔵」、又は、「鞍馬口地蔵」とも呼ばれている。 保元年間(1156~59)に、洛北の御菩薩池(深泥池)の畔に祀られ、さらに当寺に移 されたものといわれている。六地蔵巡りには六斎念仏が行われる。 ・徳林庵 山科地蔵は東海道の守護佛となった。 徳林庵は、仁明天皇第四之宮人康(しのみやさねやす)親王の末葉、南禅寺第260世雲英正怡 (うんえいしょうい)禅師が1550年に開創した。 境内には、人康親王、蝉丸供養等(室町時代)、茶所の4体石仏(鎌倉時代)、荷馬の井戸、 飛脚の釜がある。 【問題7】江戸時代、京都において観世流の素謡の師範を務めた「京観世五軒家」と称した五家を記 入しなさい。 (5問×2点=10点)■井上◎ 林◎ 薗◎ ??? ??? 【正解】岩井 浅野◆能・奈良時代唐から散楽・平安時代散楽から発達して猿楽 当社は社寺の法会の儀式・鎌倉時代、神事猿楽が演劇的要素を組み入れて猿楽能・南北朝時代 大和猿楽四座 結崎座が京都に進出・世阿弥は猿楽能に田楽能の歌舞や、曲舞のリズムを取り入れ。 夢幻能の様式。歌舞を主体にした幽玄(優美)な能を完成。・武家社会で猿楽能が定着。観世座を中心にした大和猿楽四座が活躍・江戸時代、大和猿楽四座は江戸幕府の直接支配下。 式楽(儀典の能)をつとめることが任務。 家元は江戸に在住。 京都観世五軒家などの弟子が町人社会に素謡を広めた。・京都観世五軒家 当初は観世流脇方の福王流家元の服部宗巴、後に子息の宗碩が、観世京屋敷の管理と観世流の諸用 向きを取り仕切った。服部家門弟の五家を京観世五軒家と称した。 宗碩没後は、服部家に代わって、片山九郎右衛門家が京都の観世流を取り仕切る。・金剛家 幕末に公認。 もと野村姓。阿波藩に仕え、京都に住んで禁裏御能をつとめていた。 文久2年(1862)金剛姓を許され、分家に準ずる家柄。 金剛家に後嗣がなくなって断絶したとき、他の四流家元の推挙により、京都金剛家の初世金剛巌が 家元を相続。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 第6問 10点中 6点 第7問 10点中 6点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/06
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第8回1級 問題6、7の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題6】8月22日・23日、旧街道沿いにある地蔵を巡拝する「京の六地蔵めぐり」のなかから、5 つの地蔵名とそれに対応する寺院名を記入しなさい。 (5問×2点=10点)【問題7】江戸時代、京都において観世流の素謡の師範を務めた「京観世五軒家」と称した五家を記 入しなさい。 (5問×2点=10点)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/05
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第8回1級 問題5の解答です。■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題5】次の文章を読んで、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10間×2点=20点) 京都の花街は、長い歴史の中で京文化の一翼を担い、その伝統伎芸を今日にまで伝えてきた。16世紀後半、わが国で最初の官許の花街となった島原には、揚屋建築の( 41 )、置屋の( 42 )が残り、大門と柳の木が往時の姿を今に伝える。■(42)角屋 ◎ (43)輪違屋 ◎◆島原花街・はじめ二条柳町、のち六条三筋町・二代目吉野太夫(本名:松田徳子)は江戸時代初期の、六条三筋町(後に島原に移転)の太夫。 初代吉野太夫は安土桃山時代の人物で、本阿弥光悦と交流があったといわれる。 遠くは明国にまで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえていると言わしめるほど。 馴染み客に灰屋紹益がいた。寛永8年(1631年)、退廓・紹益と結婚。時に26歳。 日乾上人に帰依しており、鷹峯(京都市北区)にある常照寺に「吉野の赤門」を寄進した。 太夫自身の墓もここにある。彼女をしのんで毎年4月第3日曜日に花供養が行われ、島原から太夫 が参拝し訪問客に花を添えている。 常照寺には吉野窓(茶室の円窓)、吉野桜、帯塚、佐野紹益(灰屋紹益)との比翼塚もある。 現在、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東の五つの花街を総称して「京都五花街」という。伝統としきたりを重んじる花街には固有のさまざまな年中行事があるが、その中でも春と秋、定期的に開かれる舞踊の会が有名である。祇園甲部の京舞井上流をはじめ、宮川町の(43)流、先斗町の( 44 )流、上七軒の花柳流、祇園東の藤間流と、それぞれに邦舞各流の師匠がついて、春秋の舞踊会の振付も担当する。■(43)若柳流 ◎ (44)尾上流 ◎ 舞踊会の名称は祇園甲部が春に「都をどり」と秋に「(45)」、宮川町は「(46)」と「みずゑ会」、先斗町は「鴨川をどり」と「(47)」、上七軒は「北野をどり」と「(48)」で、祇園東は春はなく秋に「祇園をどり」を催している。各花街の芸舞妓たちが腕を磨いた伎芸を披露する華やかな舞台は、観光客にもたいそう人気がある。■(45)温州会 ◎ (46)京おどり ◎ (47)みずゑ会 【正解】水明会 (48)みずゑ会 【正解】寿会◆五花街踊りと流儀・祇園甲部 春:都をどり 秋:温州会 京舞井上流・宮川町 春:京おどり 秋:みずゑ会 若柳流・先斗町 春:鴨川をどり 秋:水明会 尾上流・祇園東 秋:祇園をどり 藤間流・上七軒 春:北野をどり 秋:寿会 花柳流・その他 祇園甲部 7月 みやび会 八坂神社に参詣 宮川町 7月 ゆかた会 浴衣姿で舞いや演奏を披露。若手中心。 花街の行事としては、新年を迎えて芸舞妓が一堂に会して精進を誓う( 49 )をはじめ、日ごろ世話になっている師匠やお茶屋、得意先などに挨拶回りをする8月1日の(50)、12月13日の「事始め」などが広く知られている。■(49)初寄 【正解】始業式 (50)八朔 ◎◆花街の行事・初寄:祇園甲部 1月13日 京舞の師匠である井上八千代邸に集まり、稽古始めの挨拶を行い、より一層の精進を誓う。 お雑煮を祝い、初舞いで新年を寿ぐ。・始業式 上七軒は1月9日 それ以外は1月7日 祇園甲部では歌舞練場に黒紋付に、稲穂の花簪を髪に挿した舞妓や芸妓が集まって、 新年の挨拶を交わしたあと「芸妓・舞妓の誓い」五ヶ条を唱和。 売花が多かった芸舞妓に売花奨励賞、お茶屋にも奨励賞が贈られる。 最後に井上流五世家元が「倭文」を舞う。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 14点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/05
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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題5】次の文章を読んで、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10間×2点=20点) 京都の花街は、長い歴史の中で京文化の一翼を担い、その伝統伎芸を今日にまで伝えてきた。16世紀後半、わが国で最初の官許の花街となった島原には、揚屋建築の( 41 )、置屋の( 42 )が残り、大門と柳の木が往時の姿を今に伝える。 現在、祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東の五つの花街を総称して「京都五花街」という。伝統としきたりを重んじる花街には固有のさまざまな年中行事があるが、その中でも春と秋、定期的に開かれる舞踊の会が有名である。祇園甲部の京舞井上流をはじめ、宮川町の(43)流、先斗町の( 44 )流、上七軒の花柳流、祇園東の藤間流と、それぞれに邦舞各流の師匠がついて、春秋の舞踊会の振付も担当する。 舞踊会の名称は祇園甲部が春に「都をどり」と秋に「(45)」、宮川町は「(46)」と「みずゑ会」、先斗町は「鴨川をどり」と「(47)」、上七軒は「北野をどり」と「(48)」で、祇園東は春はなく秋に「祇園をどり」を催している。各花街の芸舞妓たちが腕を磨いた伎芸を披露する華やかな舞台は、観光客にもたいそう人気がある。 花街の行事としては、新年を迎えて芸舞妓が一堂に会して精進を誓う( 49 )をはじめ、日ごろ世話になっている師匠やお茶屋、得意先などに挨拶回りをする8月1日の(50)、12月13日の「事始め」などが広く知られている。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/04
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【京都検定】第8回 問題4 解答(1級過去問題レビュー)■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題4】( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10問×2点=20点)(31)江戸後期の儒学者である( )は、京都の美しさを「山紫水明」と表現し、書斎の名 祢にも用いた。■羅山陽 ◎◆・書斎の名称「山紫水明処」 ・著書「日本外史」「日本政史」「山陽詩鈔」 「日本外史」は「王政復古」の精神を鼓舞。 ・陽明学者でもあり、大塩平八郎にも影響 ・安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は子。 ・梁川星厳(やながわせいがん)とともに19世紀初頭日本文学の二大巨星 ・墓は三樹三郎とともに長楽寺「尊攘苑」(32)文久3年(1863)、京都の辻が紹介された「京(花洛)羽津根」によれば、現在の東山 区宮川筋一丁目と二丁目の境を東西に通じる( )辻子は、寛文8年(1668)に開通し たとされる。■団栗 ◎◆辻子・辻子について書かれた本 京羽二重(水雲堂孤松子)、京(花洛)羽津根(換書堂主人)・主な辻子 ・了頓図子~桃山期の茶人広野了頓 ・革堂図子 ・だいうすの辻子~デウス?大休寺? ・膏薬図子~空也上人が悲運の武将平将門の霊を弔った。「空也供養の道場」 ・団栗辻子~団栗焼け 以上テキスト内、以下テキスト外 ・撞木辻子(しゅもくのずし)~通りの形がT地路。かねたたきのT字棒によく似ている ・紋屋図子~織物の図案である紋意匠図を作る職人が集まっていたため ・後藤辻子~足利義政家臣の装剣金工後藤勘兵衛祐乗(後藤四郎兵衛家の始祖)の住居があった (33)黄檗僧高遊外(売茶翁)は、京都で煎茶の普及に努め、享保19年(1734)、東山に茶亭 「( )」を設けた。■通仙亭 ◎◆煎茶道・開祖は、黄檗宗を開いた隠元隆き(「き」は王偏に埼の右側)・売茶翁は、江戸時代の黄檗宗の僧。煎茶の中興の祖。 本名は柴山元昭。法名は月海で、還俗後は高遊外(こうゆうがい)とも称した。 東山に通仙亭を開いた。・小川流は、江戸時代末期に、京都の小川可進(初代 小川後楽)(1786~1855)が開いた煎茶道の 流派。家元は代々、可進の号であった「後楽」を襲名する。 「茶には法あって式なし、式はその法中にあり」(『喫茶弁』)・永谷宗円は、山城国宇治田原郷湯屋谷村出身。「青製煎茶製法」を発明し、煎茶の普及に大き な功績を残したと伝承されている。 宇治田原町湯屋谷に「永谷宗円生家」がある。隣接する大神宮神社に宗円が「茶宗明神」とし て祀られている。(34)茶事における懐石料理の献立の構成は、( )を基本とする。■一汁三菜 ◎◆室町時代の京料理・小笠原・伊勢両家が特別の地位を占める・専門の包丁家 足利将軍家 大草公次 大草流 細川晴元 進士流(藤原山蔭を祖とする公家の四条流を伝える) 三河松平氏 園部流→武家の式正料理としての本膳料理成立 最も整った形が「七五三膳」 菜の数説と伊勢貞丈による膳の数説 伊勢貞丈:江戸時代中期の旗本(幕臣)・伊勢流有職故実研究家。 有職故実に関する著書を数多い。『貞丈雑記』『安斎随筆』『安斎雑考』など。・もう一つの流れは精進料理~魚鳥料理「ごんぎり」に対する蔬菜料理 禅宗寺院における斎食(さいじき)の作法の定着ととともに、草庵茶の懐石料理へと集約。 村田珠光による草庵茶は、茶の湯に質的変化をもたらすとともに、料理も大きく変貌。 武野紹鷗、千利休による禅との結びつきによって、精神性を重んじるわび茶が強調され、 いわゆる茶事における一汁三菜を基本とする懐石料理へと進んでいく。 (35)孝明天皇が御所炎上のときに避難先の聖護院で食したとされる( )は、厄除けの菓 子として知られ、節分の日に販売される。■法螺貝餅 ◎◆門前菓子など・松風~西本願寺 亀屋陸奥 顕如「わすれては波の音かとおもうなり枕に近き庭の松風」・行者餅~祇園祭役行者山 柏屋光貞主人が大峰山修行中に霊夢 7月16日 宵山時期のみ・ちご餅~祇園祭長刀鉾 「お位」もらいの式 二軒茶屋中村楼 7月13日~31日 祇園ちご餅~三條若狭屋・あぶり餅~今宮神社 やすらい祭 一和、かざりや・粟餅~北野天満宮 粟餅所澤屋 ・おせき餅~鳥羽街道 城南宮 おせき餅本舗・鎌餅~鞍馬口 大黒屋鎌餅本舗・唐板~上御霊神社 水田玉雲堂・幽霊子育飴~六道珍皇寺 みなとや幽霊子育飴本舗・長五郎餅~長五郎本舗 北野天満宮 北野大茶会で豊臣秀吉が賞賛 初代河内屋長五郎・どら焼き~東寺 笹屋伊織 20~22日のみ。・走井餅~石清水八幡宮 大津で創業 歌川広重の東海道五十三次にも茶店が登場・鳩餅~三宅八幡宮 三宅八幡茶屋 鳩が神の使い。 肉桂(にっき)と抹茶・法螺貝餅~聖護院門跡 柏屋光貞 白味噌と牛蒡・やきもち~上賀茂神社 神馬堂 葵餅(正式名) 葵家やきもち本舗 葵餅・双葉餅・みたらしだんご~下鴨神社 加茂みたらし茶屋 御手洗池の水の泡(36)経済産業大臣指定の伝統的工芸品の一つである( )は、上質な和紙や、裂地などを 使って掛岫、襖、屏風などの製品を作りあげる。■京表具 ◎◆・経済産業大臣指定の伝統的工芸品 京焼/清水焼 京漆器 京指物 京扇子 京うちわ 京人形 京表具 京仏壇と京仏具 京石工芸品 西陣織 京友禅 京小紋 京鹿の子絞 京繍 京黒紋付染 京くみひも ・その他の伝統工芸品 京竹工芸品 京象嵌 京刃物 京印章 神祇装束調度品 (37)蹴上浄水場の敷地内には、歌人の( )が「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見た まへ紫の水」と詠んだ碑が立っている。■与謝野晶子 ◎◆与謝野晶子(鉄幹)歌碑・鞍馬寺「遮那王がせくらべ石を山に見てわが心なほ明日を待つかな 寛」 「何となく君にまたるるここちしていでし花野の夕月夜かな 晶子」 (鞍馬寺には「冬柏亭」もある)・蹴上浄水場 「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」・八坂神社南門前 清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき・甲部歌舞練場前 年更けて歌舞練場のかがり火の雫おちんと眺めにぞ行く・四条通川端上ル 四條橋おしろい厚き舞姫の額さゝやかに打つ夕あられ・東大路通新門前東入 玉まろき桃の枝ふく春のかぜ海に入りては真珠うむべき・秋を三人椎の実なげし鯉やいづこ池の朝かぜ手とつめたき(永観堂)・夕ぐれを花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨の鐘(直指庵)・五月雨に築地くずれし鳥羽殿のいぬいの池におもだかさきぬ(城南宮)・皐月よし野山のわか葉光満ち末も終りもなき世の如し(落柿舎)・天地を間に置ける人と人頼みがたしと見ねば思はる(中立売通七本松下ル)・天橋立 小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波 寛 人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立 晶子(38)北山通に面し、京都府立植物園の東側に隣接する屋外美術館「京都府立陶板名画の庭」を 設計した人物は( )である。■安藤忠雄 ◎◆現代建築設計者・京都会館~前川國男。改修後はロームシアター京都。・京都市勧業館(みやこめっせ)~川崎清。平安遷都1200年記念事業の一つ。・平安神宮~伊東忠太他・京都市美術館~前田健二郎・京都国立近代美術館~槇文彦・京都府立図書館~武田五一・京都国立博物館 明治古都館(旧・本館)~片山東熊 平成知新館~谷口吉生・国立京都国際会館~大谷幸夫・京都コンサートホール~磯崎新・京都府立陶板名画の庭~安藤忠雄・京都市考古資料館(旧西陣織物館)~本野精吾・京都駅~原広司・京都タワー~山田守・棚橋諒(構造設計) モノコック構造 灯台をイメージ・国際日本文化研究センター~内井昭蔵(39)京都市は、昭和47年(1972)、町並み景観保全のための「特別保全修景地区制度」を設け、 ( )地区が最初の指定地区となった。■伏見南浜 【正解】産寧坂◆重要伝統的建造物群保存地区・上賀茂・産寧坂(最初の「特別保全修景地区」)・嵯峨鳥居本・祇園新橋・伊根浦・美山北町・加悦◆京都市界わい景観整備地区・上賀茂郷・上京北野・三条通・千両ヶ辻・西京堅原・伏見南浜・本願寺・東寺◆歴史的景観保全修景地区・祇園縄手・新門前・祇園町南・上京小川◆歴史的風土保存区域醍醐桃山東山山科上高野大原鞍馬岩倉上賀茂松ケ崎西賀茂御室・衣笠高雄・愛宕嵯峨嵐山桂(40)嵯峨野観光鉄道は、JR山陰本線の旧線の一部を観光路線として再利用して、嵯峨と ( )を結ぶトロッコ列車を運行し、今年、開業20周年を迎えた。■亀岡 ◎◆亀岡市の観光名所・亀岡三大観光~保津川下り・湯の花温泉・嵯峨野トロッコ列車 穴太寺 愛宕神社 出雲大神宮 谷性寺(こくしょうじ)(明智光秀公の首塚「桔梗寺」) 金剛寺(円山応挙ゆかりの寺) 神藏寺「佐伯薬師」 桜石 田中源太郎翁旧邸(楽々荘) 円山応挙生誕地 石田梅岩生誕地◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 18点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/04
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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題4】( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10問×2点=20点)(31)江戸後期の儒学者である( )は、京都の美しさを「山紫水明」と表現し、書斎の名 祢にも用いた。(32)文久3年(1863)、京都の辻が紹介された「京(花洛)羽津根」によれば、現在の東山 区宮川筋一丁目と二丁目の境を東西に通じる( )辻子は、寛文8年(1668)に開通し たとされる。(33)黄檗僧高遊外(売茶翁)は、京都で煎茶の普及に努め、享保19年(1734)、東山に茶亭 「( )」を設けた。(34)茶事における懐石料理の献立の構成は、( )を基本とする。(35)孝明天皇が御所炎上のときに避難先の聖護院で食したとされる( )は、厄除けの菓 子として知られ、節分の日に販売される。(36)経済産業大臣指定の伝統的工芸品の一つである( )は、上質な和紙や、裂地などを 使って掛岫、襖、屏風などの製品を作りあげる。(37)蹴上浄水場の敷地内には、歌人の( )が「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見た まへ紫の水」と詠んだ碑が立っている。(38)北山通に面し、京都府立植物園の東側に隣接する屋外美術館「京都府立陶板名画の庭」を 設計した人物は( )である。(39)京都市は、昭和47年(1972)、町並み景観保全のための「特別保全修景地区制度」を設け、 ( )地区が最初の指定地区となった。(40)嵯峨野観光鉄道は、JR山陰本線の旧線の一部を観光路線として再利用して、嵯峨と ( )を結ぶトロッコ列車を運行し、今年、開業20周年を迎えた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/03
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■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題3】次の問いに答えなさい。 (10問×2点=20点)(21)能の演目「田村」の題材となった縁起をもつ寺院はどこか。■仁和寺 【正解】清水寺◆京都が舞台になっている能葵上(あおいのうえ) 左大臣邸 嵐山 嵐山生田 上賀茂神社(前半) 浮舟(うきふね) 浮舟之古蹟雲林院(うんりんいん) 雲林院 大江山 大江山 小塩(おしお) 小塩山 大原御幸 大原 女郎花(おみなめし) 男山 花月 清水寺 鉄輪(かなわ) 貴船神社・晴明宅 加茂 上賀茂神社 通小町(かよいこまち) 八瀬・市原野 清経(きよつね) 清経旧邸 金札(きんさつ) 伏見 鞍馬天狗(くらまてんぐ) 鞍馬山 車僧(くるまぞう) 嵯峨野・愛宕山 恋重荷(こいのおもに) 御所 小鍛冶 稲城の社・宗近の館 小督(こごう) 仲国の館・嵯峨野胡蝶 一条大宮 西行桜 西行庵 鷺 神泉苑 自然居士(じねんこじ) 雲居寺(前半)舎利 泉涌寺 正尊(しょうぞん) 義経の館 誓願寺 誓願寺 是界(ぜがい) 愛宕山・比叡山蝉丸 逢坂山 草紙洗小町 (そうしあらいこまち)内裏 大会(だいえ) 比叡山 谷行(たにこう) 松若宅(前半) 田村 清水寺 土蜘(つちぐも) 頼光の館(前半) 定家 千本の辺 東北(とうぼく) 東北院 融(とおる) 六条河原の院 野宮(ののみや) 嵯峨野 半蔀(はしとみ) 紫野 橋弁慶 弁慶の館・五条の橋 班女(はんじよ) 上賀茂神社(後半)氷室 氷室山 百万 嵯峨野 富士太鼓 宮中 放生川(ほうじょうがわ)男山三井寺 清水寺(前半) 盛久 清水寺弓八幡 男山 熊野(ゆや) 宗盛の館・清水寺頼政 平等院(22)顔見世のまねき看仮の書体「勘亭流」をあみ出した岡崎屋勘六は、江戸時代の公文書の書 体となった御家流を学んだという。その御家流の発祥の寺院はどこか。■青蓮院 ◎◆青蓮院・粟田御所ともいう・三千院、妙法院とともに天台宗三門跡の一つ 京都五ケ室門跡は、曼殊院門跡・毘沙門堂門跡が加わる。・平安初期の比叡山青蓮房が始まり・天養元年(1144)天台座主行玄が三条白川房で門跡寺院としての初代となり、鳥羽法皇の命により 青蓮院となった。・豊臣秀吉・徳川家康が再興・龍心池を中心にした庭園。跨龍橋、洗心滝、秀吉寄進の一文字型手水鉢・小堀遠州作霧島の庭・茶室好文亭、神輿型燈籠、蓮華寺型燈籠・不動明王二童子画像(青不動)・書体御家流 当院門主の入道尊円親王を創始者(23)京の三閣の一つ、飛雲閣がある西本願寺の庭園を何というか。■滴水園 【正解】滴翠園◆滴翠園・飛雲閣は滄浪池(そうろうち)に臨む三層の楼閣・初層は招賢殿、八景之間、舟入之間・二層は歌仙之間・三層は摘星楼(24)毎年秋に市民大茶会か開かれ、香雲亭や和楽庵などがある二条城内の庭園を何というか。■有清園 【正解】清流園◆二条城 ・二の丸御殿の建物 南から 唐門、車寄、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院 ・本丸御殿は徳川秀忠用 現在のは桂宮本邸から移築 二の丸御殿は徳川家光用に大改造 尾張徳川家(義直)ら親藩、譜代大名19名が動員された。 作事奉行は小堀政一(遠州) 秀忠の娘和子(東福門院)が後水尾天皇の入内する際、ここから儀典 先の天守閣は淀城に移された ・障壁画は狩野探幽、尚信、興以 ・二の丸庭園は築山林泉式 ・二条城代→二条在番(25)祗園祭山鉾の原型とされる剣鉾を持ち歩行する妙技で知られ、10月に旧東海道の京の出入 り口にある神社で行われる、千年の歴史がある祭りは何か。■粟田祭 ◎◆粟田神社・貞観8年(876)出羽守藤原興世の奏上により清和天皇が牛頭天皇を祀ったのが始めとも、 この地を治めていた粟田氏が氏神として創建したとも伝える。・感神院新宮、粟田天皇宮とも称された。・石段下は旧東海道、東山道~旅立ち守護・粟田祭~出御祭(おいでまつり)、夜渡り神事、神幸祭、還幸祭、例大祭・室町時代祇園祭が斎行できないとき、この祭をもって祇園御霊会の代わりとした。(26)中国の説謡『二十四孝』から題材を取り、別名「筍山」ともいわれる祗園祭の山鉾は何か。■猛宗山 【正解】孟宗山◆祇園祭 山の云われ(先祭)・芦刈山 謡曲「芦刈」難波の里で芦刈をする老翁の人形・油天神山 同町の祀る天神を勧請・霰天神山 霰と天神が降ってきて鎮火。火除天神山とも。・占出山 神宮皇后が備前国松浦川で鮎を釣り、戦勝を占ったという説話。鮎釣山とも。・郭巨山 貧窮で母と子を養えない郭巨が、子供を埋めようとしたら黄金の斧を掘り当てた。・太子山 四天王寺建立の折、聖徳太子自ら山に入り良材を求めた。杉の神木、少年聖徳太子像。・蟷螂山 「蟷螂の斧を以て降車のわだちをふせがんと欲す」という中国の詩文にちなんだもの。 自分の力をわきまえずに大敵に立ち向かうことで勇敢さを賞した中国の君子の故事に 由来する。 足利義詮軍と戦い戦死した当町の四条隆資(たかすけ)卿の武勇ぶりを蟷螂に見立て た。・木賊山 謡曲「木賊」に取材。わが子をさらわれ、一人木賊を刈る翁の姿を表す人形。・伯牙山 琴の名人・伯牙が友人の死を悲しみ斧で琴の絃を断ったという故事による。 琴破山とも。・白楽天山 唐の詩人・白楽天が道林禅師に仏法の大意を問う場面を表す。・保昌山 丹後守藤原(平井)保昌と和泉式部の恋物語に取材。縁結びのお守りを授与。・孟宗山 病身の母のために雪の中から筍を掘り当てた孝行息子の孟宗の姿を表す。 中国の史話「二十四孝」に取材。筍山とも。・山伏山 山伏姿のご神体。聖護院の山伏が巡拝。八坂神社による清祓と、六角堂による祈祷も。 神仏分離前の姿。(27)徳川家康の元側近で自らの隠居所として、寛永18年(1641)に草庵(のちの詩仙堂)を建 てた人物は誰か。■石川丈山 ◎◆・詩仙堂の36人の画像は狩野探幽作。36歌仙選定は林羅山と協議。 ・儒学を藤原惺窩(せいか)に師事 ・煎茶の祖 ・蓮華寺の庭園は丈山作とも、小堀遠州作とも。狩野探幽も協力。 ・枳殻邸(渉成園)は徳川家光寄進の地を丈山が作庭 ・酬恩庵(一休寺)の方丈庭園は丈山、松花堂昭乗、佐川田喜六の合作 ・八大神社に丈山筆の「社頭横額」(28)国の重要文化財に指定された京町家住宅で知られる杉本家が、江戸時代に呉服商を営む際 に用いた屋号は何か。■奈良屋 ◎◆京町家・川井家住宅~京都市中に残る最古の町家・堀井家住宅~創業が元禄年間という料理屋「大市」・滝澤家住宅~鞍馬寺の門前町・小川家住宅~二條陣屋・長江家住宅・仲家住宅~大塀(おおべい)造り・杉本家住宅~奈良屋・田中屋(屋号・冨田屋)~千両ヶ辻・表屋造り・秦家住宅~表屋造り・太子山町・川崎家住宅~紫織庵(29)安永9年(1780)、京都とその周辺の名所・史跡を図説した「都名所図会」を著した京都 の著述家は准か。■秋島籬島 【正解】秋里籬島◆昔の京都案内・黒川道祐~雍州府志・日次紀事・中川喜雲~京童・京童跡追・浅井了以~京雀・水雲堂孤松子~京羽二重・滝沢馬琴~羇旅漫録・二鐘亭半山~見た京物語・喜田川守貞~守貞漫稿・秋島籬島~都名所図会、都林泉名勝図会・山本泰順~洛陽名所集・林吉永~京大絵図・換書堂主人~京(花洛)羽津根(30)『源氏物謡』宇治十帖ゆかりの地が近辺にあり、宇治川左岸(西側)に沿って、平等院前 から府道大津南郷宇治線の合流地点まで続く小道を何というか。■あじろぎの道 ◎◆京都の散歩道・半木(なからぎ)の道 北山通~北大路通 ・きぬかけの道 金閣寺・衣笠山・龍安寺・仁和寺・周山街道合流点・せせらぎの道 青木木米旧宅から三条通、川端通、縄手通の間・哲学の道 若王子橋から銀閣寺道 西田幾多郎、河上肇、田辺元 関雪桜(橋本関雪・米子)・ねねの道 高台寺から円山公園・維新の道 霊山歴史館 正法寺・千代の古道 京福北野線鳴滝駅から音戸山西側、広沢池・鳥と遊ぶ道 桂坂野鳥公園・あじろぎの道 平等院前から府道大津南郷宇治線の合流地点 網代木~網代漁の杭・さわらびの道 宇治橋、朝霧通、朝霧橋、宇治神社、「早蕨」の史跡、源氏物語ミュージアム◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 12点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/03
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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題3】次の問いに答えなさい。 (10問×2点=20点)(21)能の演□「田村」の題材となった縁起をもつ寺院はどこか。(22)顔見世のまねき看仮の書体「勘亭流」をあみ出した岡崎屋勘六は、江戸時代の公文書の書 体となった御家流を学んだという。その御家流の発祥の寺院はどこか。(23)京の三閣の一つ、飛雲閣がある西本願寺の庭園を何というか。(24)毎年秋に市民大茶会か開かれ、香雲亭や和楽庵などがある二条城内の庭園を何というか。(25)祗園祭山鉾の原型とされる剣鉾を持ち歩行する妙技で知られ、10月に旧東海道の京の出入 り口にある神社で行われる、千年の歴史がある祭りは何か。(26)中国の説謡『二十四孝』から題材を取り、別名「筍山」ともいわれる祗園祭の山鉾は何か。(27)徳川家康の元側近で自らの隠居所として、寛永18年(1641)に草庵(のちの詩仙堂)を建 てた人物は誰か。(28)国の重要文化財に指定された京町家住宅で知られる杉本家が、江戸時代に呉服商を営む際 に用いた屋号は何か。(29)安永9年(1780)、京都とその周辺の名所・史跡を図説した「都名所図会」を著した京都 の著述家は准か。(30)『源氏物謡』宇治十帖ゆかりの地が近辺にあり、宇治川左岸(西側)に沿って、平等院前 から府道大津南郷宇治線の合流地点まで続く小道を何というか。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/02
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■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題2】( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10問×2点=20点)(11)熊野神社は、弘仁2年(811)、修験道の始祖役行者の十世僧( )が紀州熊野大神を 当地に勧請したのが始まりといわれている。■??? 【正解】日圓◆熊野神社・弘仁2年(811)に修験道の始祖役行者の10世僧日圓が紀州熊野大神を勧請したのが始まり。・寛文6年(1666)に聖護院宮道寛法親王によって再興・本殿は下鴨神社旧本殿を移築。・聖護院の鎮守社。天台宗本山修験道の守護神として崇敬された。・永らく白川熊野社または熊野権現社といわれたが、神仏分離により熊野神社と改称(12)牛若丸(源義経)が奥州に出発する時に道中の安全を祈願したと伝わることから、 ( )は、旅行安全の信仰を集める。■首途八幡宮 ◎・内野八幡宮とも呼ばれた・金売吉次の屋敷があった場所で、その鎮守社と伝える。源義経・源義朝の9男。平治の乱で捕われたが、助命され。鞍馬寺に入る。 奥州に赴き、兄・頼朝の挙兵に馳せ参じ、木曽義仲、平氏を討つ。 頼朝と対立、追求を受け奥州衣川で敗死。・鞍馬山に「牛若丸背比べ石」「義経息次の水」などがある。・北区紫竹牛若町は父・義朝別業の地で母・常盤が住したところという。・神泉苑は義経と静御前が出会ったところともいわれる。・五條天神社(天使の宮)も、「義経記」では義経が弁慶と出会った場所という。 静御前を祀る「静神社」が京丹後市網野町にある。(13)松尾大杜の境外摂社の月読神杜には、安産石の名で知られる( )がある。■月読石 【正解】月延石◆月読神社・疱瘡の神ともされる。松尾大社・賀茂の厳神、松尾の猛霊といわれる。・一条天皇の行幸以来、たびたび歴代天皇の行幸があった。・秦忌寸都里(はたのいみきとり)が社殿を造営したという。(14)親鸞聖人の教えに対し、さまざまな異説が現れたことを嘆き、弟子の唯円が師から聞いた 教えを記したとされる書物は( )である。■教行信証 【正解】歎異抄◆親鸞・「報恩講」~親鸞を偲ぶ・法然の流罪(承元の法難)に連座、越後の流された。越後で恵心尼と結婚。・安楽寺~親鸞の笠と杖・岡崎別院~庵を結んだ。「鏡池」or「姿見の池」・本願寺北山別院~六角堂百日参籠のとき水で身を清めたという「御聖水」・月輪寺~時雨桜は親鸞が流罪になるとくき植えた・了徳寺~すすき塚・光圓寺~晩年を過ごした・興正寺~40歳の姿を刻した真影・西本願寺~紙本墨画親鸞聖人像(国宝)・青蓮院~17歳のときの「お得度の間」 楠は親鸞お手植え・東本願寺~絹本著色親鸞聖人像・常楽台~親鸞の遺骨を宝塔に納めたという江戸期の墨書が見つかる。・大谷本廟(西大谷)、大谷粗廟(東大谷)・日野誕生院~歌碑「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」 産湯の井戸、胞衣塚(15)室町幕町8代将軍の足利義政が造営した東山殿(後の銀閣寺)の建物や庭園は、夢窓疎石 が再興した臨済宗寺院の( )をモデルとしたものである。■西芳寺 ◎◆西芳寺・前身は西方寺。行基が聖武天皇の命で行基が建立した49院の一つ。・建武の兵乱で荒廃・藤原親秀(松尾大社宮司)が夢窓疎石を住持に迎えて再興。・茶室湘南亭。千利休息男の少庵が構えたもの。・庭園は向上関を境に洪隠山枯山水石垣を中心にした上段の庭園と、黄金池を中心にした下段の 庭園とに分かれる。(16)妙心寺塔頭の退蔵院が所蔵する「瓢鮎図」(国宝)は、わが国水墨画の創始者の一人であ る( )の代表作として知られている。■如拙 ◎◆退蔵院・波多野出雲守重道が千本松原に建立。 開山は無因宗因。・妙心寺の亀年禅愉が現在地に復興。・狩野元信作庭の「元信の庭」・中根金作作庭の池泉回遊式庭園「余香苑(よこうえん)」・陰陽の庭(17)「日野薬師・乳薬師」の通称で知られる( )は、本尊の薬師如来に安産、授乳のご 利益かあることから、古くから多くの女性の信仰を集めている。■法界寺 ◎◆法界寺・真言宗醍醐派・日野資業(すけなり)が日野家の山荘を寺に改めた。日野家の菩提寺。・親鸞は資業から4代目の日野有範を父、吉光女を母に当寺で誕生・創建時の本尊(薬師仏)は最澄作と伝える 藤原時代のさや仏の胎内に納められていた。・重要文化財の本堂は奈良県の伝燈寺本堂を明治期に移築。・阿弥陀堂は、阿弥陀如来坐像とともに国宝(18)嵯峨の本山寺院の( )は、元治元年(1864)の「蛤御門の変」の際、長州軍か本陣 として駐留したため、薩摩藩兵の攻撃で焼かれ、多くの堂舎を焼失する被害を受けた。■天龍寺 ◎◆・八月十八日の政変・七郷落ち→池田屋事件→禁門の変 ・禁門の変での長州藩布陣 ・益田親施、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山 ・国司親相、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺 ・福原元たけ(人偏に間)は伏見長州屋敷 ・石清水八幡宮で軍議(19)梨木神社には日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹のほか、「雨月物語」の著者 である( )の歌碑か立っている。■上田秋成 ◎◆上田秋成・60歳を過ぎて京都へ移住、知恩院門前袋町や、南禅寺山内の小庵(現在の旅館八千代)など に住む。・「雨月物語」「春雨物語」「胆大小心録」など。・岸派の画家岸駒(がんく)を「山師のような男だ」と評した。・梨木神社に「上田秋成翁終焉地」の石標。・上田秋成歌碑「ふみよめば絵を巻きみればかにかくに 昔の人のしのばるるかな」その他梨木神社・湯川秀樹歌碑「千年の昔の園もかくやありし木の下かげに乱れさく萩」・染井(20)大文字山を借景とした池泉回遊式庭園が広がる( )は、日本画家の橋本関雪が造営 したものであり、庭園や茶室、同画伯の作品などを公開している。■白沙村荘 ◎◆白沙村荘・存古楼(ぞんころう)~屏風の制作を行っていたと画室・茶室~憩寂庵(けいじゃくあん)、倚翠亭(いすいてい)、 如舫亭(にょほうてい)<誤って問魚亭(もんぎょてい)と呼称されている> 憩寂庵は高台寺圓徳院写しの茶室となって◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 14点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/02
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【京都検定】第8回 問題2 問題(1級過去問題レビュー)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題2】( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10問×2点=20点)(11)熊野神社は、弘仁2年(811)、修験道の始祖役行者の十世僧( )が紀州熊野大神を 当地に勧請したのが始まりといわれている。(12)牛若丸(源義経)が奥州に出発する時に道中の安全を祈願したと伝わることから、 ( )は、旅行安全の信仰を集める。(13)松尾大杜の境外摂社の月読神杜には、安産石の名で知られる( )がある。(14)親鸞聖人の教えに対し、さまざまな異説が現れたことを嘆き、弟子の唯円が師から聞いた 教えを記したとされる書物は( )である。(15)室町幕町8代将軍の足利義政が造営した東山殿(後の銀閣寺)の建物や庭園は、夢窓疎石 が再興した臨済宗寺院の( )をモデルとしたものである。(16)妙心寺塔頭の退蔵院が所蔵する「瓢鮎図」(国宝)は、わが国水墨画の創始者の一人であ る( )の代表作として知られている。(17)「日野薬師・乳薬師」の通称で知られる( )は、本尊の薬師如来に安産、授乳のご 利益かあることから、古くから多くの女性の信仰を集めている。(18)嵯峨の本山寺院の( )は、元治元年(1864)の「蛤御門の変」の際、長州軍か本陣 として駐留したため、薩摩藩兵の攻撃で焼かれ、多くの堂舎を焼失する被害を受けた。(19)梨木神社には日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹のほか、「雨月物語」の著者 である( )の歌碑か立っている。(20)大文字山を借景とした池泉回遊式庭園が広がる( )は、日本画家の橋本関雪が造営 したものであり、庭園や茶室、同画伯の作品などを公開している。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/01
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【京都検定】第8回 問題1 解答(1級過去問題レビュー)■私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題1】次の問いに答えなさい。 (10問×2点=20点)(1)長岡京から平安京への遷都事業において、初代造宮大夫となったのは誰か。■藤原小黒麻呂 ◎◆・山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設 ・東西4.5km、南北5.2km ・唐の都長安城を意識して造られた ・日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく・・・・」という桓武天皇の勅語が残っている。 ・日本後記に「此国山河襟帯・・・」とうい(2)平安時代に、織部司がおかれた地で織られ、現在の西陣織の基礎ともなった鎌倉時代から 室町時代にかけての先染めの絹織物といえば何か。■錦織 【正解】大宮絹◆平安初期の律令制のもとでは,大蔵省に属した織部司(おりべのつかさ)が最高級の織物を生産して いた。しかし,律令体制の崩壊にともなって,平安末期あたりから朝廷は工房を維持することが 難しくなってきた。そこで織工達は大舎人町に移り住み,宋の綾織技法を模倣した唐綾を,貴族の 装飾用に製作しました。これが,民業による製織のはじまり。南北朝期に成立した『庭訓往来』 (ていきんおうらい)からは,「大舎人綾」や「大宮絹」が京の名産として有名であったことが わかる。(3)「小倉百人一首」で有名な大納言藤原公任の「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流 れてなほ聞こえけれ」に詠まれた滝を何というか。■名古曽の滝(名古曽滝) ◎◆・平安時代初期の庭園 ・桓武天皇の神泉苑 ・嵯峨天皇の嵯峨院(現在の大覚寺)・朱雀院など天皇の離宮や御所 ・貴族の庭園では藤原冬嗣の閑院 ・これらは唐の禁苑がモデル ・大沢池は中国の洞庭湖をなぞらえた。 ・名古曽滝は後宇多上皇の御所造営に伴って改修された。 ・平安中期の庭園 ・藤原良房邸に始まり 摂関家が伝領した東三条殿 藤原基経が創建しのちに堀河天皇の里内裏にもなった堀河院 藤原頼通の高陽院 この時期の庭園は「寝殿造庭園」儀式空間であるとともに名所の風景を写しこんだもの 「源氏物語」などの文学や絵巻物にうかがうことができる。 ・藤原頼通の息子 橘俊綱が「作庭記」を編纂 (4)藤原信頼や源義朝らが、後白河上皇の三条殿を焼いたことから勃発したとされる、一連の 乱を何というか。■保元の乱 【正解】平治の乱◆保元の乱平安時代末期1156年,皇位をめぐる争いと藤原氏内部の勢力争いとがむすびついておきた戦乱。鳥羽法皇の死後,後白河天皇・藤原忠通の天皇方と,崇徳上皇・藤原頼長(忠通の弟)の上皇方との争いがおきたが,どちらも源氏・平氏の武士を集めて京都市内でたたかった。天皇方が夜襲によって勝利をおさめたが,この戦いで武士がその実力を示し,平清盛・源義朝らが中央政界に進出するきっかけとなった。◆平治の乱平安時代末期1159。保元の乱のあと,平清盛と源義朝みなもとのよしともの勢力争いに院の近臣らの争いがからんで戦乱となった。清盛が勝利をおさめ,義朝はころされ,その子頼朝は伊豆に流されて源氏は力をうしない,平氏が政治の実権をにぎった。平治の乱…源氏は平治で日々困苦(1159)(5)天正19年(1591)、豊臣秀吉が建段を始めた京都を囲むための御土居は当時、何と祢され ていたか。■京廻りの堤(京廻ノ堤) ◎◆京の七口御土居に出入口が7つであったともいわれるが、建造当時の出入口は『三藐院記』によると十口とあり、また、現在では京の七口として数えられていない部分にも出入口があった。「七」は数を示すのではなく、古代の日本の行政区画概念である「五畿七道」の中心にあり、その「七道」すなわち地方諸国へつながっていることを表すというのがルーツであるとする説が有力。畿内五国:山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国七道:東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道代表的な京の七口:鞍馬口、大原口、荒神口、三条口(粟田口)、五条口(伏見口) 竹田口、東寺口(鳥羽口)、丹波口、長坂口『三藐院記』~近衛信尹(のぶただ)の日記(6)徳川家康が豊臣家を滅ぼすために「大坂冬の陣」のロ火に利用したといわれる、方広寺の 梵鐘(重文)に刻まれている8文字の字句は何か。■豊国臣下 国家安康 【正解】君臣豊楽 国家安康◆方広寺・蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺の敷地に建てられた。 佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転。・秀吉は大規模工事に巧みであった高野山の木食応其を造営の任にあたらせた。 大仏殿は鴨川東岸地区を南北に貫く大和大路に西面して建てられ、また大和大路の西側には秀吉 の手により伏見街道も整備され、さらに秀吉は五條大橋を六条坊門に移し京外への出口とすると ともに大仏への参詣の便とした。・梵鐘の銘文は東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作・東寺の南大門(重文)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したもの。(7)大堰川や高瀬川の開削など、河川開発事業で京都の発展に大きく貢献し、嵐山の千光寺を 建立した江戸初期の豪商は誰か。■角倉了以 ◎◆角倉了以・安南国(ベトナム)との海外貿易で富を得る。・高瀬川は方広寺大仏殿再建のために開削・大悲閣(千光寺)は掘削作業の犠牲者を弔うために建てられた。自らも隠棲。 そこの木造等身坐像は素庵作という・常寂光寺の地は、了以らの寄進によるという。・二尊院の総門は、伏見城の薬医門を了以が移築したという。了以の墓は二尊院にある。・荒廃した豊臣秀次らの墓石を発掘し、堂宇を建立したのが瑞泉寺の始まりという・京の三長者(江戸時代)~茶屋四郎次郎、角倉了以、後藤庄三郎(8)岩倉具視や西郷隆盛などと共に王政復古のクーデターを断行した一人で、河原町御池の北 東に銅像が立つ人物は誰か。■桂小五郎(木戸孝允) ◎◆桂小五郎・明治維新三傑~大久保利通、西郷隆盛、桂小五郎・吉田松蔭門下。坂本龍馬の尽力で、西郷隆盛らと薩長連合の盟約に成功。・墓は松子とともに京都霊山護国神社。・大和屋旅館(旧吉田屋)に隠れ部屋、地下道があったという。 ここは立命館大学発祥の地でもある。(9)明治2年(1869)、現在の京都御苑内にあった私邸に私塾立命館を開設し、のちに内閣総 理大臣にもなった人物は誰か。■西園寺公望 ◎◆立命館大学、西園寺公望・西園寺公望が京都御所内の私邸に「私塾立命館」を創設。・それが閉鎖後、中川小十郎が京都法政学校を設立 、設立当時は満足な校地も学舎も用意する余裕はなく、上京区東三本木通にあった料亭 「清輝楼(旧・吉田屋)」の二階および三階部分を間借りして講義を行っていた。・「清風荘」は西園寺公望の別邸。現在は京都大学が所有。 小川治兵衛による日本庭園と「数寄屋造り」の主屋、茶室等の付属建物から成る。(10)蹴上インクラインの下に南禅寺の通じるレンガ造りのトンネルがあるが、強度を増すた めに、らせん状にレンガを積んでいる。このトンネルを通称何というか。■ねじりまんぼう(ねじりまんぼ)◎◆琵琶湖疏水と河田小龍・河田小龍は高知生まれの画家。 狩野永岳に師事。二条城の襖絵を修理したという。 北垣国道の招かれ、京都府事務取扱に就任、琵琶湖疏水工事進展の状況を詳細にスケッチ、 「琵琶湖疏水図誌」を残した。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 14点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/01
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 第8回1級 問題1の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題1】次の問いに答えなさい。 (10問×2点=20点)(1)長岡京から平安京への遷都事業において、初代造宮大夫となったのは誰か。(2)平安時代に、織部司がおかれた地で織られ、現在の西陣織の基礎ともなった鎌倉時代から 室町時代にかけての先染めの絹織物といえば何か。(3)「小倉百人一首」で有名な大納言藤原公任の「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流 れてなほ聞こえけれ」に詠まれた滝を何というか。(4)藤原信頼や源義朝らが、後白河上皇の三条殿を焼いたことから勃発したとされる、一連の 乱を何というか。(5)天正19年(1591)、豊臣秀吉が建段を始めた京都を囲むための御土居は当時、何と祢され ていたか。(6)徳川家康が豊臣家を滅ぼすために「大坂冬の陣」のロ火に利用したといわれる、方広寺の 梵鐘(重文)に刻まれている8文字の字句は何か。(7)大堰川や高瀬川の開削など、河川開発事業で京都の発展に大きく貢献し、嵐山の千光寺を 建立した江戸初期の豪商は誰か。(8)岩倉具視や西郷隆盛などと共に王政復古のクーデターを断行した一人で、河原町御池の北 東こ銅像が立つ人物は誰か。(9)明治2年(1869)、現在の京都御苑内にあった私邸に私塾立命館を開設し、のちに内閣総 理大臣にもなった人物は誰か。(10)蹴上インクラインの下に南禅寺の通じるレンガ造りのトンネルがあるが、強度を増すた めに、らせん状にレンガを積んでいる。このトンネルを通称何というか。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/31
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 第7回1級 問題8、9、10の解答です。■がキーワードの私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を 【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題8】上賀茂神社について、150字以上200字以内の文章で書きなさい. (10点)(正式名、神紋、本殿・権殿の建築様式、小倉百人一首こ選ばれた「ならの小川」を詠んだ歌の作者、門前で売られている名物菓子は必ず含むこと)■・正式名:賀茂別雷神社 ・神紋:葵 【正解】双葉葵 ・本殿・権殿の建築様式:流造 ◎ ・小倉百人一首こ選ばれた「ならの小川」を詠んだ歌の作者:清少納言 【正解】藤原家隆 ・門前で売られている名物菓子:やき餅 【正解】やきもち[解答例] 上賀茂神社は正式名を賀茂別雷神社という.平安遷都以来、王城鎮護の神として皇室の厚い崇敬 をうけた。武家の信仰も篤く、なかでも徳川家康は家紋が神紋の双葉葵に由来するため信奉した。 本殿と権殿は、平安時代の神社様式を伝える流造で、国宝に指定されている.境内を流れる「な らの小川」では禊が行われ、その情景を詠んだ藤原家隆の歌は小倉百人一首に選ばれている。門 前では、神紋にちなんだ葵餅(やきもち)が売られている。 (200字)◆・上賀茂神社祭神:賀茂別雷大神 下鴨神社祭神:玉依媛命、賀茂建角身命 ・神紋 松尾大社~双葉葵 伏見稲荷~抱き稲 北野天満宮・長岡天満宮~梅鉢 八坂神社~「五瓜に唐花(ごかにからはな)」と「左三つ巴(ひだりみっつともえ)」 平安神宮~「左近の桜」と「右近の橘」 城南宮~「三光の紋」日・月・星 今宮神社~右三階松 平野神社~桜 晴明神社~晴明桔梗(五芒星) 貴船神社~左頭三つ巴(ひだりがしらみつどもえ) 愛宕神社~二圓内右廻り三つ巴 石清水八幡宮~流れ左三つ巴紋 藤森神社~上り藤に一文字 梅宮大社~橘 御香宮神社~橘 豊国神社~五七の桐 ・神社の建築様式 春日造~福王子神社、吉田神社 比翼春日造(平野造)~平野神社 流造~宇治上神社、上賀茂神社、下鴨神社 八幡造~宇佐八幡宮、石清水八幡宮 権現造(石の間造、八ツ棟造)~北野天満宮 祇園造~八坂神社 ・藤原家隆 『新古今和歌集』の撰者の一人 和歌を藤原俊成に学んだ。 同時代の藤原定家と並び称される歌人として、御子左家と双璧と評価されるに至った。 ・門前菓子(注意点) 鞍馬口~鎌餅 石清水八幡宮~走井餅 聖護院門跡~法螺貝餅【問題9】京都の顔見世について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点)(興業される伝統芸能、行われる時期と劇場名、正面に掲げられる役者名を書いた看板の呼び名、看板に書かれる書体の流儀、花街の芸舞妓がそろって鑑賞することの行事名は必ず含むこと)■・興業される伝統芸能:歌舞伎 ◎ ・行われる時期と:11月30日から 【正解】11月30日から12月26日まで 劇場名:南座 ◎ ・正面に掲げられる役者名を書いた看板の呼び名:まねき ◎ ・看板に書かれる書体の流儀:勘亭流 ◎ ・花街の芸舞妓がそろって鑑賞することの行事名:花街総見 ◎[解答例] 京都の師走の年中行事として、11月30日から12月26日まで行われる歌舞伎興行を 顔見世といい、東西の人気役者が一堂に顔をそろえる。正面には、役者名を書いたまねきと呼ぶ 看板が掲げられる。「すき間なく客が入るように」との願いを込め、太くて丸みを帯びた独特の 書体「勘亭流」で書かれる。五花街の芸舞妓が芸事の勉強のためにそろって顔見世を鑑賞する花 街。総見が行われると、劇場はいっそう華やいだ雰囲気になる. (200字)◆・歴史 ・出雲の阿国 春日若宮 ややこ踊り→京都 かぶき踊り ・遊女歌舞伎、若衆歌舞伎 ・野郎歌舞伎 ・元禄歌舞伎 江戸~市川団十郎 上方~坂田藤十郎 ・人形浄瑠璃の演目や音楽、長唄、常磐津、清元などの音楽、能の様式を取り入れ ・南座 元和年間(1615~24)に幕府から許可された四条河原の7か所の常設小屋の一つ ・テキストに出てくるもう一つの書体 御家流 江戸時代公文書書体 青蓮院門主の入道尊円親王を創始者とする ・五花街メインの踊りの会以外の会 祇園甲部~みやび会(7月)、温州会(10月) 宮川町~みずえ会(10月) 先斗町~水明会(10月) 祇園東~ゆかた会(7月) 上七軒~寿会(10月)【問題10】本阿弥光悦について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点)(近衛信尹・松花堂昭乗・光悦の3人の能書家の通称、始祖といわれる絵画の流派、角倉素庵と組んで刊行した本の総称、芸術村を建設した地域名、光悦作で国宝の硯箱の名称、光悦作と伝わる「三巴の庭」のある寺院名は必ず合むこと)■・近衛信尹・松花堂昭乗・光悦の3人の能書家の通称: 寛政の三筆 【正解】寛永の三筆 ・始祖といわれる絵画の流派:琳派 ◎ ・角倉素庵と組んで刊行した本の総称:嵯峨本 ◎ ・芸術村を建設した地域名:鷹峯 ◎ ・光悦作で国宝の硯箱の名称:??? 【正解】舟橋蒔絵硯箱 ・光悦作と伝わる「三巴の庭」のある寺院名:本法寺 ◎[解答例] 本阿弥光悦は、桃山から江戸初期の芸術家で、特に書では「寛永の三筆」と称される。俵屋宗達 とともに「琳派の祖」ともいわれる。光悦の書と宗達の下絵の美しい嵯峨本を角倉素庵と組んで 刊行した。晩年、徳川家康から゛与えられた鷹峯の土地に芸術村を開いた。蒔桧や陶芸にも優れた 作品を残し、代表作に「舟橋蒔桧硯箱」、白楽茶碗の「不二山」などがある。熱心な法華の信者 であり、本法寺の枯山水「三巴の庭」は光悦作と伝えられる。 (200宇)◆・三XXX ・三賢・三蹟(平安):小野道風、藤原佐理(すけまさ)、藤原行成 ・三筆(平安):嵯峨天皇、橘逸勢、空海 ・黄檗の三筆:隠元隆き(「き」は王偏に埼の右部分)、木庵性瑫、即非如一 ・寛永の三筆:近衛信尹、本阿弥光悦、松花堂昭乗 ・洛下の三筆:角倉素庵、本阿弥光悦、松花堂昭乗 ・寛政三奇人:高山彦九郎、林子平、蒲生君平 ・三才女:紀貴之女(紀内侍)、伊勢大輔(いせのたいふ)、小式部内侍 ・京の三長者:茶屋四郎次郎、角倉了以、後藤庄三郎 ・三阿弥:能阿弥、芸阿弥、相阿弥(室町時代の同朋衆) ・琳派 ・本阿弥光悦、俵屋宗達 ・尾形光琳・乾山兄弟、渡辺始興 ・酒井抱一・鈴木其一 ・神坂雪佳 ・嵯峨本 内容は古典文学が主で『伊勢物語』『徒然草』『方丈記』のほか、謡曲の本が残されている。 「源氏物語」は嵯峨本とするには疑問があるため「伝嵯峨本源氏物語」と呼ばれている。 ・鷹峯 京の七口の一つである長坂口から丹波国、若狭国へ続く、かつての鯖街道の入口にあたる。 光悦寺は日慈(本法寺12世)が寺に改めた。 本阿弥庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵など7つの茶室。光悦垣がある。 木像光悦坐像は高村光雲作。 ・平安時代の国宝蒔絵箱 宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱(ほうそうげかりょうびんがまきえさっしはこ) 弘法大師空海が、唐から持ち帰った『三十帖冊子』を納めるために製作された箱。 ・本法寺 日蓮宗洛中二十一ヵ本山の一つ。日親が四条高倉に創建。 日親は「立正治国論」を著し、足利義教の怒りにふれて投獄、「なべかむり日親」と称された。 投獄中に本阿弥清信と知り合い、当寺が本阿弥家の菩提寺となった。 墓地には本阿弥一族や長谷川等伯らの墓がある。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 第8問 10点中 5点 第9問 10点中 9点 第10問 10点中 6点第7回合計得点 150点中 111点 120点が合格ラインなので不合格よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/31
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 第7回1級 問題8・9・10の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題8】上賀茂神社について、150字以上200字以内の文章で書きなさい. (10点)(正式名、神紋、本殿・権殿の建築様式、小倉百人一首こ選ばれた「ならの小川」を詠んだ歌の作者、門前で売られている名物菓子は必ず含むこと)【問題9】京都の顔見世について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点)(興業される伝統芸能、行われる時期と劇場名、正面に掲げられる役者名を書いた看板の呼び名、看板に書かれる書体の流儀、花街の芸舞妓がそろって鑑賞することの行事名は必ず含むこと)【問題10】本阿弥光悦について、150字以上200字以内の文章で書きなさい。 (10点)(近衛信尹・松花堂昭乗・光悦の3人の能書家の通称、始祖といわれる絵画の流派、角倉素庵と組んで刊行した本の総称、芸術吋を建設した地域名、光悦作で国宝の硯箱の名称、光悦作と伝わる「三巴の庭」のある寺院名は必ず合むこと)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/30
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 第7回1級 問題6の解答です。■が私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題6】「都七福神まいり」の7寺社のなかから、5つの寺社名とそれに対応する七福神の名称を記入しなさい。 (5問×2点=10点)■六波羅蜜寺~弁財天◎ 革堂~寿老人◎ 萬福寺~布袋尊◎ 東寺~毘沙門天◎ 赤山禅院~福緑寿 【正解】福禄寿 その他 恵比須神社~ゑびす神 松ヶ崎大黒天~大黒天 ◆西国三十三観音霊場(京都府)10番 三室戸寺(宇治市) 本山修験宗11番 上醍醐寺 真言宗醍醐派番外 元慶寺 天台宗15番 今熊野観音寺 真言宗泉涌寺派16番 清水寺 北法相宗17番 六波羅蜜寺 真言宗智山派18番 頂法寺 天台系単立19番 行願寺 天台宗20番 善峯寺 天台系単立21番 穴太寺(亀岡市) 天台宗28番 成相寺(宮津市) 真言宗29番 松尾寺(舞鶴市) 真言宗醍醐派【問題7】浄瑠璃「堤川波鼓」に登場する京都の南北の通り名を東から順に書き記した。( )内にあてはまる通り名を記入しなさい。 (5問×2点=10点) 寺町通、( 1 )、麩屋町通、富小路通、( 2 )、堺町通、問之町通、東洞院通、車屋町通、烏丸通、両替町通、( 3 )、衣棚通、新町通、( 4 )、西洞院通、小川通、( 5 )、醒ヶ井通、堀川通。■御幸町◎ 柳馬場◎ 室町◎ 釜座◎ 油小路◎ ◆・上記は堺町通の次に高倉通が抜けている。・この続き(別の歌)よしやいのくろおおみやへ 葭屋町、猪熊、黒門、大宮まつひぐらしにちえこういん 松屋町、日暮、智恵光院じょうふくせんぼんはてはにしじん 浄福寺、千本、(西陣)黒門通:聚楽第の東門である「鉄(くろがね)門」の別名「黒門」に由来する。日暮通:聚楽第の正門である「日暮門」に由来する。 装飾があまりにも豪華絢爛であったことから、時を忘れて眺めてしまうために 「日暮門」と呼ばれていたという・東西の通りの歌(五条以南)雪駄ちゃらちゃら魚の棚六条三哲通りすぎ七条越えれば八九条十条東寺でとどめさす楊梅通(雪駄屋町)、鍵屋町、(銭屋町)、(魚棚)、六条、三哲(塩小路通)、七条、八条、九条、十条、東寺・東西の通りの別の歌ぼんさんあたまはまるたまちつるっとすべってたけやまちみずのながれはえびすがわにじょうでこうたきぐすりをただでやるのはおしこうじおいけでおうた(でおうた)あねさんにろくせんもろうてたここうてにしきでおとしてしかられてあやまったけどぶつぶつとたかがしれた(て・と)るまどしたろ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 第6問 10点中9点 第7問 10点中10点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/30
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第7回1級 問題6の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題6】「都七福神まいり」の7寺社のなかから、5つの寺社名とそれに対応する七福神の名称を記入しなさい。 (5問×2点=10点)【問題7】浄瑠璃「堤川波鼓」に登場する京都の南北の通り名を東から順に書き記した。( )内にあてはまる通り名を記入しなさい。 (5問×2点=10点) 寺町通、( 1 )、麩屋町通、富小路通、( 2 )、堺町通、問之町通、東洞院通、車屋町通、烏丸通、両替町通、( 3 )、衣棚通、新町通、( 4 )、西洞院通、小川通、( 5 )、醒ヶ井通、堀川通。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/29
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第7回1級 問題5の解答です。■が私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題5】次の文章を読んで、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10問×2点=20点) 能は、奈良時代に中国から渡ってきた散楽を源流の一つとする。南北朗時代には、大和猿楽四座の中から(41)座の観阿弥・世阿弥親子が出現、物まね主体の猿楽能に(42)能の歌舞や曲舞のリズムを導人し、夢幻能の様式をつくりあげた。これには、京都の本座で活躍した一忠の影響が大きく、世阿弥は自ら著した能の理論書(43)で「この道の聖」と絶賛している。この親子が京都の新熊野神杜で公演し、それを観た室町幕府第3代将軍(44)が高く評価し、以後、京都の武家・公家の支援を受け発展していった。現在京都には(45)流の宗家が存在し、全国的に活躍している。■(41)結崎 ◎ (42)田楽 ◎ (43)風姿花伝 ◎ (44)足利義満 ◎ (45)大蔵 【正解】金剛◆・能は「散楽」から発展。猿楽へ。 ・近畿地方の神事猿楽が演劇的要素を取り入れ、猿楽能に発展。 ・興福寺に奉仕していた大和猿楽四座 円満井(金春)、結崎(観世)、外山(宝生)、坂戸(金剛) ・結崎座の観阿弥、世阿弥父子が出た。 ・世阿弥は猿楽能に田楽能の歌舞や曲舞のリズムを取り入れ、また夢幻能の様式をつくり、 歌舞を主体とした幽玄(優美)な能を完成させた。 フルネームは世阿弥元清。 足利義満の保護を受けたが、義政の代になると排斥され、後継問題で義教(よしのり)に抵抗、 佐渡に配流。一休宗純の尽力で帰洛。 著書に「風姿花伝」「花鏡」「至花道」 真珠庵の供養塔 ・一忠(いっちゅう)? - 文和3年(1354年) 南北朝時代に活躍した田楽法師。 別名を石松。当時を代表する田楽の名人であり、猿楽を大成した観阿弥・世阿弥父子に 大きな影響を与えた。鬼など各種の物真似芸に通じさらに舞歌幽玄の風を兼ね備えた名人 として、世阿弥が『風姿花伝』で「此道の聖」、『三道』で「三体相応の達人」と絶賛している。 ・金剛家 京都の金剛家はもと野村姓。阿波藩に仕える。禁裏御能をつとめる。 文久2年(1862)に金剛性を許され、分家に準ずる家柄に。 家元の坂戸金剛家に後嗣がなく、昭和12年京都金剛家の初世金剛巌が家元を相続。 狂言は、室町時代に成立した滑稽なセリフ劇。猿楽能の隆盛とともに、演能の合い間に演じる芸能として発達した。明治以降は、(46)流狂言の茂山千五郎家が京都を本拠地として、狂言の普及と人衆化に努めた。千五郎家では、観しみやすく庶民的な芸風を食べ物にたとえ、(47)狂言と表現している。■(46)和泉 【正解】大蔵 (47)おとうふ(お豆腐) ◎◆・江戸時代には大蔵・鷺・和泉の三流。京都では和泉流が活躍。 ・和泉流は京都の手猿楽(素人猿楽)の狂言とした活躍していた山脇和泉元宜が慶長19年(1614) に尾張徳川家に召し抱えられ、同じく手猿楽狂言の野村又三郎、三宅藤九郎らを傘下に加えて 流儀を確立したもの。 禁裏への参勤を主として京都で活動を続け、京流とも呼ばれた。 ・宗家の山脇和泉は後の代に名古屋に移住。野村、三宅両家は京都で活動を続ける。 明治維新後、宗家とともに東京に移った。 ・江戸後期の京都では、大蔵流の茂山家が台頭。 禁裏や社寺に参勤。 天保年間(1830-44)、9世正乕(佐々木忠三郎)が近江井伊家に召し抱えられ、茂山千五郎家 が確立。 弟弟子の小林卯之助も茂山忠三郎家を立てた。 また狂言には、民俗芸能として伝承されてきたものもある。念仏の布教のために催された壬生寺の「壬生大念仏狂言」、引接寺の「(48)大念仏狂言」、(49)の「嵯峨大念仏狂言」は京都の三大念仏狂言として知られている。■(48)ゑんま堂 ◎ (49)清涼寺 ◎◆・ゑんま堂のみが有言劇。 ・これら以外に神泉苑大念仏狂言 ・歴史:壬生~円覚上人 嵯峨~良忍上人 ゑんま堂~定覚上人 例年6月初め、京都在住の能楽師が集い、京都薪能が(50)の境内で行われ、篝火が焚かれるなか幽玄の世界が繰り広げられる。■(50)平安神宮 ◎◆平安神宮 行事・1月30日 孝明天皇祭 (ご命日)・4月1日~15日 観桜茶会 茶室 澄心亭(ちょうしんてい)・4月13日 桓武天皇祭(ご命日)・10月22日 時代祭◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 16点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/29
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第7回1級 問題5の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題5】次の文章を読んで、( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10問×2点=20点) 能は、奈良時代に中国から渡ってきた散楽を源流の一つとする。南北朗時代には、大和猿楽四座の中から(41)座の観阿弥・世阿弥親子が出現、物まね主体の猿楽能に(42)能の歌舞や曲舞のリズムを導人し、夢幻能の様式をつくりあげた。これには、京都の本座で活躍した一忠の影響が大きく、世阿弥は自ら著した能の理論書(43)で「この道の聖」と絶賛している。この親子が京都の新熊野神杜で公演し、それを観た室町幕府第3代将軍(44)が高く評価し、以後、京都の武家・公家の支援を受け発展していった。現在京都には(45)流の宗家が存在し、全国的に活躍している。 狂言は、室町時代に成立した滑稽なセリフ劇。猿楽能の隆盛とともに、演能の合い間に演じる芸能として発達した。明治以降は、(46)流狂言の茂山千五郎家が京都を本拠地として、狂言の普及と人衆化に努めた。千五郎家では、観しみやすく庶民的な芸風を食べ物にたとえ、(47)狂言と表現している。 また狂言には、民俗芸能として伝承されてきたものもある。念仏の布教のために催された壬生寺の「壬生大念仏狂言」、引接寺の「(48)大念仏狂言」、(49)の「嵯峨大念仏狂言」は京都の三大念仏狂言として知られている。 例年6月初め、京都在住の能楽師が集い、京都薪能が(50)の境内で行われ、篝火が焚かれるなか幽玄の世界が繰り広げられる。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/28
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第7回1級 問題4の解答2です。■が私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題4】次の問いに答えなさい。 (10問×2点=20点)(31)~(35)は一つ前の投稿を見てください。(36)鴨川の上流にあり「京の奥座敷」といわれ、夏の期間、名物の川床料理が楽しめるのはど こか。■貴船 ◎◆貴船神社・神武天皇の皇母が貴船に乗って貴船川をさかのぼり、祠を建てたことに始まるという。 また、樹木を育成する神である木生根(きぶね)(木生嶺)の神ともされ、平安遷都後に 賀茂川の水源にあたるために、水神として祀るようになったとも伝える。・明治までは上賀茂神社の摂社でもあった。・6月1日 貴船祭 4月と11月に行われていた貴船御更衣祭に起源する。 4月の祭は「いたどり祭」と呼ばれていた。 乙女舞、御神輿発輿祭、奥宮例祭、お千度詣、出雲神楽奉納がある。・7月7日 貴船水まつり 裏千家による献茶式や舞楽奉納、生間流の式包丁が披露される。(37)「東山三十六峰」のなかで、最も北に位置する山の名前は何か。■比叡山 ◎◆東山三十六峰・比叡山 ・御生山 ・赤山 ・修学院山 ・葉山・一乗寺山 ・茶山 ・瓜生山 ・北白川山 ・月待山・如意ヶ岳 ・吉田山 ・紫雲山・善気山 ・椿ヶ峰・若王子山 ・南禅寺山 ・大日山 ・神明山 ・粟田山・華頂山 ・円山 ・長楽寺山 ・双林寺山 ・東大谷山・高台寺山 ●霊鷲山 ●鳥辺山 ・清水山 ・清閑寺山・阿弥陀ヶ峰 ・今熊野山 ・恵日山 ・泉山 ・光明峰・稲荷山 (●は今回全部書き出してみて、不正解だったもの)(38)京都大学の教授を務め、日本人として初めてノーベル賞を受賞したのは誰か。■湯川秀樹 ◎◆京都大学出身ノーベル賞受賞者・1949 湯川秀樹 京都帝国大学理学部卒(中間子の存在の予想)・1965 朝永振一郎 京都帝国大学理学部卒(量子電気力学分野での基礎的研究)・1981 福井謙一 京都帝国大学工学部卒(化学反応過程の理論的研究)・1987 利根川進 京都大学理学部卒(多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明)・2001 野依良治 京都大学工学部卒(キラル触媒による不斉反応の研究)・2014 赤崎勇 京都大学理学部卒(青色発光ダイオード)・2002 田中耕一は東北大学工学部卒(生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発)・2012 山中伸弥は神戸大学医学部卒(様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製)(39)丹後を舞台にした安寿姫と厨子王の小説「山淑大夫」の作者は誰か。■芥川龍之介 【正解】森鷗外◆その他の丹後地方の伝説浦島太郎伝説 伊根町にある浦嶋神社には今も伝説の玉手箱が保存されている。鬼退治伝説 大江山は鬼の住処として知られる。酒呑童子の伝説をはじめ、麻呂子親王 (まろこのしんのう)の鬼退治伝説、日子坐王(ひこいますのきみ)鬼退治伝説と 3つの鬼伝説が伝えられている。妖怪伝説 岡山県の「田倉牛神社」「牛窓町」「天石門別神社」、兵庫県の「六甲山」、 久美浜町の「甲山」まで伝わる「クダン伝説」。海人伝説 丹後にはかつて、航海術に秀でた「海人族」と呼ばれる一族が住んでいたと 言われている。火の神、「天火明」を先祖神とするこの人びとを「海部(あまべ)」 と呼んだ。静御前伝説 網野町の出身と言われている。網野町の磯集落のはずれには、小さな神社が ひっそりと建つ。徐福伝説 徐福は、「始皇帝の求めている仙薬を求めてやってきたが、ここにある仙薬は、 少なく、このままでは、秦に帰れない」として、漂着した伊根町の新井崎に住み つくようになりました。徐福の求めた仙薬は、「九節しょうぶ」と 「黒茎のよもぎ」 であったといわれている。小野小町伝説 丹後の大宮町。深草の少将の猛烈なラブアタックに耐え兼ねて、都から姿を隠し、 小野一族の荘園であった五十河(いかが)の里に移り住んだとされている。和泉式部伝説 京都府の北部、丹波・丹後には、和泉式部が訪れたといわれる地が多く残る。 峰山町に伝わる和泉式部伝説は、保昌が丹後の守の任期を終えた後も丹後に残り 海山の眺望を生涯の思い出としてこの国に優れた歌を残すように言われ、 丹後の国にとどまったと言われる。間人皇后伝説 大和の国の政情が不安だった頃、聖徳太子の生母、間人皇后(はしうどこうごう) も、都の混乱を避けて、大浜の里(現丹後町間人)に隠棲されていた。 やがて皇后が大和の国へと還幸される際、里人たちの手厚いもてなしに報いようと、 この地に間人(はしうど)という名を与えたが、人々は、あまりにも畏れ多いと、 退座されたことにちなんで、間人(たいざ)という地名を残したとされる。羽衣伝説 日本最古の羽衣伝説と思われるものが、峰山町に残る羽衣伝説。 「丹後風土記」の逸文によると、磯砂(いさなご)山麓で、七人の天女たちが水浴 をしていたところ、そのうちの一人が土地の老夫婦に衣を隠され天に帰れなくなり、 仕方なく養女になったとされる。峰山町には、天女を祭る神事が受け継がれている。丹後元伊勢伝説 日本国中に疫病が大流行し、国民の半数が死亡するほどの猛威を振るった。 この国難を、宮中で祭祀している天照大神と倭大國魂神の不仲によるものと考えた 天皇は、天照大神を皇女豊鍬入姫命に託して祀らせ、倭大國魂神を市磯長尾市に託 して祀らせ、占いの結果祟りをなしている事が判明した大物主神を太田田根子に託 して祀らせたところ、ようやく疫病は収まった。天照大神が伊勢神宮の内宮に鎮座 する以前に立ち寄った先を、元伊勢と呼ぶ。丹後王国 大和朝廷以前、丹後には「大規模な王国」があったという説がある。 その象徴として、丹後半島の巨大古墳は、4世紀後半に造られたものが多い。 また、間人(たいざ)周辺には、日本海側では最大級の神明山古墳、形状から 「王者の棺」と呼ばれる長持形石棺が出土した産土山古墳、古事記や日本書紀に 記載のある「竹野媛」を祭った竹野神社など、歴史遺産が数多く残っている。 これらからも、丹後にはこの地域を支配した海の豪族の姿があったと想定される。(40)第1回大会が昭和61年に東京都で開催され、以後全国持ち回りで、平成23年には京都府で 開催される国内最大級の文化祭典は何か。■日展 【正解】国民文化祭◆琳派四百年記念祭(2015年)俵屋宗達の『風神雷神図』屏風。この宗達と一緒にいろいろな仕事、例えば『嵯峨本』と呼ばれる謡本を遺したのが本阿弥光悦。光悦は元和元年(1615)に徳川家康から鷹峯の地を拝領し、それから400年の歳月が流れた。「琳派」とは、宗達から100年ほど後に絵師となった尾形光琳(1658~1716)の「琳」をとって名付けられた名称。尾形家は俵屋宗達や本阿弥家と姻戚関係にあり、光琳は宗達の作品をんだ。『風神雷神図』屏風を手本に、光琳は同じ図柄の屏風絵を遺しており、「琳派」は、宗達や光悦から生まれたといってよい。本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し、尾形光琳・乾山兄弟によって発展、酒井抱一・鈴木其一が江戸に定着させた。その他、渡辺始興、神坂雪佳◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 16点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/28
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第7回1級 問題4の解答です。■が私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」サイズが大きくなったので、2つに分割します。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題4】次の問いに答えなさい。 (10問×2点=20点)(31)上賀茂神社の社家の出身で、書家であるとともに、東京に「星岡茶寮」を開き、陶芸家、 料理家としても知られたのは誰か。■北大路魯山人 ◎◆京都観光基本データ帖2 人物編 「明治・大正・昭和・平成時代」の中であまり 知らない人物・山口玄同~明治期の事業家。屈指の綿花商。財産を公共事業や社寺へのい寄進、医療・教育への 寄付という形で社会還元。 寄進によるもの:神護寺金堂・多宝塔、醍醐寺大伝法院、毘沙門堂門跡、延暦寺横川・西田天香 「一燈園生活」を創始・大谷瑞光 西本願寺第22代門主。「大谷探検隊」・新村出 言語学者。京都大学教授。 鴨川西畔にあった木戸孝允旧宅を移築して邸宅に。現在「重山文庫」 歌碑が上御霊神社に・モルガンお雪 祇園「加藤楼」の芸妓からアメリカ財閥ジョージ・モルガン夫人に。 教会堂建設に多額の寄付。 「折上稲荷神社」を信仰。墓は「同聚院」と「カトリック衣笠教会」に。・吉川観方(かんぽう) 日本画家。「島原太夫道中」を復興。葵祭、時代祭の考証。(32)正月の縁起物として、三が日は飾っておくだけで箸をつけないとされるものは何か。■にらみ鯛 ◎◆正月の料理・ごまめ、たたき牛蒡、数の子がお節料理の「三種」・元旦:白味噌雑煮(丸小餅、かしらいも、雑煮大根、小芋) 4日:鏡開きで水菜の雑煮 7日:七草粥(セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ) 10日:十日ゑびすには糸かけの鯛 15日:あずのおかいさん(小豆粥) 20日:骨正月 ぶりやさけのアラでおだい(大根)を食べる (33)江戸時代の「雍州府志」にも記載があり、「青と」「甘長」などと呼ばれ、煮物、焼物、天 ぷらなどに幅広く用いられている京の伝統野菜は何か。■伏見とうがらし ◎◆京の伝統野菜 もう一つのとうがらし・田中とうがらし 明治初年に左京区田中地区の農家が滋賀県から種子を持ち帰って栽培を始めたと伝えられている。田中地区の都市化に伴い,左京区一乗寺から山科区へと広まったと言われる。果は太くて短く,小型で,果の先端がつまって,ししの頭の形状になっているので「ししとうがらし」とも言われる。種が少なく,色は濃緑色で辛味はない。(「中獅子」ともいわれる)(34)茶の湯の菓子で、落雁・煎餅・有平糖など薄茶用の干菓子に対し、蒸・生菓子など濃茶用 を何というか。■主菓子 ◎◆茶の湯のお菓子・主菓子は饅頭や餅菓子、羊羹、金団、練切・干菓子は、落雁や有平糖、金平糖、煎餅など・主菓子用菓子器~菓子椀 縁高 銘々盆 食籠(じきろう) 菓子鉢・干菓子用菓子器~惣菓子器(そうかしき)ともいう。高坏(たかつき) 盆 振出(35)京町家の走り庭で、表と奥を区切る中間付近に置かれる板や衝立のことを何と呼ぶか。■嫁隠し(嫁かくし) ◎◆町家用語(あ、い)・あげまえ【揚げ前】 建物の不同沈下を直すために各所の柱を持ち上げること。・あしがため【足固め】 敷居の受け材。・いがみつき【イガミ突き】 建物の倒れを直す作業・いたず【板図】 大工棟梁が板に墨壺で描く設計図。・いちもんじがわらぶき【一文字瓦葺き】 軒先瓦のタレ(飾り板)の下端が一直線に揃う瓦を使った葺き方・いちれつさんしつがた【一列三室型】 京町家のもっとも多い間取。トオリニワ(ミセニワ+ハシリニワ)と平行に 3室(ミセ+ダイドコ+座敷)を並べる・いどびき【井戸引き】 井戸やハシリの裏の側壁に設けられた横架材。水廻りで傷んだ側柱の柱脚を取り替えやすい ように設けられた。・いぬやらい【犬矢来】 建物のオモテにある竹を曲げた覆い。(36)~(40)は「解答2」を見てください。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 16点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/28
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第7回1級 問題4の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題4】次の問いに答えなさい。 (10問×2点=20点)(31)上賀茂神社の社家の出身で、書家であるとともに、東京に「星岡茶寮」を開き、陶芸家、 料理家としても知られたのは誰か。(32)正月の縁起物として、三が日は飾っておくだけで箸をつけないとされるものは何か。(33)江戸時代の「雍州府志」にも記載があり、「青と」「甘長」などと呼ばれ、煮物、焼物、天 ぷらなどに幅広く用いられている京の伝統野菜は何か。(34)茶の湯の菓子で、落雁・煎餅・有平糖など薄茶用の干菓子に対し、蒸・生菓子など濃茶用 を何というか。(35)京町家の走り庭で、表と奥を区切る中間付近に置かれる板や衝立のことを何と呼ぶか。(36)鴨川の上流にあり「京の奥座敷」といわれ、夏の期間、名物の川床料理が楽しめるのはど こか。(37)「東山三十六峰」のなかで、最も北に位置する山の名前は何か。(38)京都大学の教授を務め、日本人として初めてノーベル賞を受賞したのは誰か。(39)丹後を舞台にした安寿姫と厨子王の小説「山淑大夫」の作者は誰か。(40)第1回大会が昭和61年に東京都で開催され、以後全国持ち回りで、平成23年には京都府で 開催される国内最大級の文化祭典は何か。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/27
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第7回1級 問題3の解答です。■が私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題3】( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10問×2点=20点)(21)経済産業大臣指定の伝統的工芸品である( )は、蒔絵や螺鈿で加飾が施され、現在 は茶道具の棗や腕、重箱など高級品が主流となっている。■京象嵌 【正解】京漆器◆経済産業大臣指定の伝統的工芸品・京焼・清水焼 ・京漆器 ・京指物 ・京扇子 ・京うちわ ・京人形 ・京表具 ・京仏壇と京仏具 ・京石工芸品・西陣織 ・京友禅 ・京小紋 ・京鹿の子絞 ・京繍・京黒紋付染 ・京くみひも その他の伝統工芸品・京竹工芸品 ・京象嵌 ・京刃物 ・京印章 ・神祇装束調度品 (22)泉涌寺には、( )が詠んだ「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆ るさじ」の歌碑が立っている。■清少納言 ◎◆紫式部歌碑上賀茂神社:ほとヽきす声まつほとは片岡の杜もりのしつくに立ちやぬれまし廬山寺:有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする 大弍三位 めぐりきて みしやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな 紫式部◆和泉式部歌碑誠心院 「霞たつ 春きにけりと この花を 見るにぞ鳥の 声も待たるる」貴船神社【和泉式部】 「ものおもへば沢の蛍もわが身より あくがれいづる 魂かとぞみる」 【返歌】 「おく山にたぎりて落つる滝つ瀬の 玉ちるばかり ものな思いそ」(23)千宗旦の二男( )は武者小路千家を興し、讃岐高松松平家に出仕して、茶道家元と しての基盤を固めた。■仙叟宗室 【正解】一翁宗守◆表千家 三男 江岑宗左 紀州徳川家 裏千家 四男 仙叟宗室 加賀前田家 武者小路千家 次男 一翁宗守 讃岐高松松平家(24)金戒光明寺の塔頭・西翁院の茶室( )は、淀、山崎方面を遠望できるところであっ たことから名付けられた。■淀見席 【正解】澱看席◆西翁院・澱看席は千宗旦四天王の一人藤村庸軒好み・「道安囲い」「宗貞囲い」と呼ばれる道具の運びに工夫を加えた茶室(25)歌舞伎の祖とされる( )はかぶき踊りで人気を集め、北野の杜や五条河原などで興 行した。■出雲の阿国 ◎◆出雲の阿国・奈良の春日若宮で「ややこ踊り」・かぶき者の茶屋通いを趣向とした「かぶき踊り」を始める。 これを模倣した遊女歌舞伎が流行。・南座西に「阿国歌舞伎発祥地」石碑・四条大橋東詰北側「出雲の阿国」の像・興業は北野の杜、五条河原 四条河原は後の遊女歌舞伎の興業地(26)京都五花街のーつ祗園甲部の始業式では、最後に井上流家元が地唄( )を舞い、めで たく納められる。■??? 【正解】倭文◆始業式・祇園甲部、祇園東、宮川町、先斗町 1月7日 上七軒 1月9日・祇園甲部では 歌舞練場では黒紋付に、稲穂のかんざし 「芸舞妓の誓い」五ヶ条唱和 芸舞妓に売花奨励賞 お茶屋に奨励賞 最後に井上流五世家元が「倭文」を舞う。(27)舞妓の髪には、毎月決まった花簪を挿すしきたりがあるが、10月には( )の花簪を挿 すことになっている。■菊 ◎◆花簪・松竹梅 梅 菜の花 桜 藤 柳 団扇 薄 桔梗 菊 紅葉 まねき 始業式:稲穂 祇園祭の時期:「梵天(ぼんてん)」 髪型は「勝山」(28)吉田兼好の随筆( )には、法師が木に登って賀茂の競馬を見物する情景が描かれて いる。■徒然草 ◎◆文学での葵祭・『源氏物語』の葵の上と六条御息所との車争い・『枕草子』『今昔物語』(29)かつて祇園祭の後祭の巡行で最後尾をつとめた( )は、蛤御門の変により焼失し現 在休み鉾となっているが、巡行復活に向けての機連が高まってきている。■大船鉾 ◎(2014年から復活)◆現在の休み山・鷹山 布袋山 鷹山がお囃子を開始。(30)大佛次郎の小説「帰郷」で、主人公の守屋恭吾と娘の伴子は( )の境内で約29年ぶ るに再会を果たした。■南禅寺 【正解】金閣寺◆文学作品と京都(「京都文学散歩」洛中から)・梶井基次郎 「檸檬」 八百卯 丸善・森鷗外 「高瀬舟」 喜助 羽田庄兵衛・織田作之助 「それでも私は行く」 「桔梗屋」梶鶴雄 先斗町 東華菜館 ・林芙美子 「放浪記」 新京極・宮尾登美子 「序の舞」 上村松園 (津也)・外村繁 「澪標(みおつくし)」三条大宮 神泉苑 二条城 二条駅・沢野久雄 「夜の河」 堀川 舟木紀和◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 10点よろしかったらぽちっとお願いします。
2015/07/27
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第7回1級 問題3の問題です。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題3】( )に入れる最も適当な語句を書きなさい。 (10問×2点=20点)(21)経済産業大臣指定の伝統的工芸品である( )は、蒔絵や螺鈿で加飾が施され、現在 は茶道具の棗や腕、重箱など高級品が主流となっている。(22)泉涌寺には、( )が詠んだ「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆ るさじ」の歌碑が立っている。(23)千宗旦の二男( )は武者小路千家を興し、讃岐高松松平家に出仕して、茶道家元と しての基盤を固めた。(24)金戒光明寺の塔頭・西翁院の茶室( )は、淀、山崎方面を遠望できるところであっ たことから名付けられた。(25)歌舞伎の祖とされる( )はかぶき踊りで人気を集め、北野の杜や五条河原などで興 行した。(26)京都五花街のーつ祗園甲部の始業式では、最後に井上流家元が地唄( )を舞い、めで たく納められる。(27)舞妓の髪には、毎月決まった花簪を挿すしきたりがあるが、10月には( )の花簪を挿 すことになっている。(28)吉田兼好の随筆( )には、法師が木に登って賀茂の競馬を見物する情景が描かれて いる。(29)かつて祇園祭の後祭の巡行で最後尾をつとめた( )は、蛤御門の変により焼失し現 在休み鉾となっているが、巡行復活に向けての機連が高まってきている。(30)大佛次郎の小説「帰郷」で、主人公の守屋恭吾と娘の伴子は( )の境内で約29年ぶ るに再会を果たした。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/07/26
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第7回1級 問題2の解答です。■が私の解答 正解の場合は◎、不正解または部分的に正解の場合は正解を【正解】に記載◆は関連する「お勉強」◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆【問題2】次の間いに答えなさい。 (10問×2点=20点)(11)船岡山の山上にあり、織田信長・信忠父子を祀る神社はどこか。■建勲神社 ◎◆建勲神社 ・豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を得て船岡山を織田信長の霊地と定めたことに始まる。・明治天皇により織田信長を祭神とした神社を創建し、建勲神社の神号を賜った。(12)平安遷都以降は賀茂社とともに王城鎮護の神として崇敬を集め、「酒の神」としても知ら れる神社はどこか。■松尾大社 ◎◆松尾大社・秦忌寸都里(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請して社殿を 造営したという。・「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称された。・一条天皇の行幸以来、たびたび歴代天皇の行幸があった。・境内の霊泉は「亀の井」。酒の醸造時に混ぜると酒が腐らないと伝える。・本殿は珍しい「両流造」・重文の男神・女神像がある・4月中酉の日に「松尾大社中酉祭」 醸造業者が参詣。・9月第一日曜に八朔祭 女神輿の船渡御、嵯峨六斎念仏踊などが奉納される(13)秋には紅葉の名所として知られる真如堂の正式な寺院名は何か。■真正極楽寺 ◎◆真如堂・円仁が唐から帰朝するときに、船上に現れた阿弥陀如来を彫刻して延暦寺の常行堂に祀り、 永観2年(984)に戒算がこの像を移したのに始まるという。・足利義政の寄進で現在地に再建。・本堂は京都市内の天台宗本堂として最大規模。・新長谷寺観音堂(新長谷寺)がある。・本尊阿弥陀如来は洛陽六阿弥陀巡りの一つ。 真如堂-永観堂-清水寺阿弥陀堂-安祥院-安養寺-誓願寺(14)大徳寺の開山となり、後に「大燈国師」の諡号を贈られた僧は誰か。■秀峰妙超 【正解】宗峰妙超◆臨済宗の主な国師千光国師 - 榮西明庵(1141- 1215)臨済宗開祖 東山建仁寺。聖一国師 - 円爾(弁円)(1202- 1280)東福寺開山。夢窓国師 - 夢窓疎石(1275- 1351)南禅寺住職。天龍寺開基。七朝帝師と呼ばれる。大燈国師 - 宗峰妙超(1282- 1337)大徳寺開山。大明国師 - 無関普門(1212- 1291)南禅寺開山。東福寺3世。ほ円爾弁円の弟子。円満常照国師 - 無学祖元(1225- 1286)北条時宗が蘭渓道隆の後任として宋から招いた。円通大應国師 - 南浦紹明(1235- 1308)宗峰妙超の師。建長寺で蘭渓道隆に師事。本有円成国師 - 関山慧玄(1277- 1360)妙心寺開山。無相大師。宗峰妙超に師事。本覚国師 - 虎関師錬(1278- 1346)一山一寧に学ぶ。仏教書『元亨釈書』を著した。知覚普明国師 - 春屋妙葩(1311- 1388)相国寺第2世で事実上の開山。夢窓疎石に師事。仏徳広通国師 -- 悟渓宗頓(1416- 1500) 大聖国師 - 古岳宗亘(1577- 1626)大徳寺大仙院開祖。円照本光国師 - 以心崇伝(1592- 1633)江戸初期に幕府に仕え黒衣の宰相と呼ばれる。普光國師 - 沢庵宗彭(1573- 1645)大徳寺住持。徳川家光の師。正宗国師 - 白隠慧鶴(1685- 1768)臨済宗中興の祖。和製公案を多数作成。妙心寺首座。(15)「モダニズム建築の旗手」として戦後日本の建築をリードし、今年開館50周年を迎えた 岡崎の京都会館を設計したのは誰か。■???? 【正解】前川國男◆岡崎の建築物設計者・京都会館~前川國男。改修後はロームシアター京都。・京都市勧業館(みやこめっせ)~川崎清。平安遷都1200年記念事業の一つ。・平安神宮~伊東忠太他・京都市美術館~前田健二郎・京都国立近代美術館~槇文彦・京都府立図書館~武田五一おまけ(岡崎以外)・京都国立博物館 明治古都館(旧・本館)~片山東熊 平成知新館~谷口吉生・国立京都国際会館~大谷幸夫・京都コンサートホール~磯崎新・京都府立陶板名画の庭~安藤忠雄・京都市考古資料館(旧西陣織物館)~本野精吾(16)銀閣寺の庭園にあり、内砂を盛り上げて円錐台形にしたものを何というか。■向月台 ◎◆銀閣寺・銀閣は「観音殿」 書院造住宅風初層「心空殿」 禅宗様式仏堂風上層「潮音閣」・足利義政の東山山荘に始まる。・夢窓疎石が勧請開山。相国寺の宝処周財が入山した禅寺に。・白砂を段形に盛り上げた銀沙灘(ぎんしゃだん) 鏡容池・銀閣寺型手水鉢は袈裟形手水鉢と呼ばれる(17)能登七尾の出身で、智債院に残る「楓図」(国宝)を描いたことで知られる絵師は誰か。■長谷川等伯 ◎◆長谷川等伯・「雪舟五代」を名乗る・墓は本法寺 長谷川等伯像もある・金地院 茶室八窓席に猿猴捉月図と老松・本法寺 京都三大涅槃図の一つ釈迦大涅槃図と佛涅槃図・京博 安土桃山期水墨画の代表作 松林図屏風(国宝)・龍泉院(妙心寺塔頭) 水墨枯木猿猴図(京博)(18)三十三間堂の「千手観音坐像」(国宝)の作者と伝わる仏師は誰か。■定朝 【正解】湛慶◆仏師・康尚 「仏師職の祖」同聚院 不動明王坐像・定朝 阿弥陀如来坐像(平等院)・長勢 三条仏所 十二神将立像(伝・広隆寺)・明円 円派 五大明王坐像(大覚寺)・覚助 七条仏所・院助 院派 七条大宮仏所・院覚 院派 阿弥陀如来坐像(法金剛院)・快慶 慶派 金剛薩埵坐像(隨心院) 不動明王坐像(醍醐寺) 弥勒菩薩坐像(醍醐寺三宝院) 十大弟子立像(大報恩寺)・湛慶 慶派 千手観音坐像(蓮華王院)・康勝 慶派 空也上人立像(六波羅蜜寺)・康円 慶派 愛染明王像(神護寺)(19)前田利家の夫人松子が創建し、「京の四閣」のーつとされる呑潮閣がある大徳寺の塔頭は どこか。■芳春院 ◎◆主な大徳寺塔頭・黄梅院 春林宗俶の庵室に始まる。小早川隆景を檀越に春林を開祖として黄梅院と改称 武野紹鷗好みの茶室昨夢軒。 竹林七賢図 雲谷派祖の雲谷等顔の代表作・高桐院 細川三斎が父の幽斎の菩提所として創建 開祖は幽斎の弟の玉甫紹そう(しょうそう)(「そう」は王+宗) 茶室松向軒は三斎好み 書院以北軒は利休邸からの移築と伝える 袈裟型手水鉢 興津屋五右衛門、出雲の阿国らの墓・孤峯庵 小堀遠州が龍光院内に建てた子院。 開祖江月宗玩(こうげつそうがん) 茶室忘筌席 露結の手水鉢 直入軒の庭を遠景 中敷居 吹き放し障子 茶室山雲床・聚光院 三好長慶(ながよし)の菩提を弔うため子の義継が創建 開祖は笑嶺宗訢(しょうれいそうきん) 茶道三千家の菩提寺 閑隠席、桝床席 琴棋書画図 狩野永徳 瀟湘八景図 永徳の父松栄・真珠庵 尾和宗臨が一休宗純の塔所として建立 書院 通僊院 茶室 庭玉軒 金森宗和好み 内坪 大燈国師墨蹟 一休宗純墨蹟 伝長谷川等伯筆 蜆子・猪頭図 墨溪(一休の弟子で周文に水墨画を習った) 達磨図・大仙院 近江六角氏出身の古嶽宗亘(こがくそうこう)が開創 大林宗套(だいりんそうとう)・笑嶺宗訢など名僧を輩出 狩野之信 四季耕作図 狩野元信 花鳥図 瀟湘八景図 庭園は相阿弥とも・芳春院 前田利家の夫人松子(芳春院)が創建 開祖 玉室宗珀(ぎょくしつそうはく) 呑湖閣 庭園は横井答怡・小堀遠州作・龍源院(りょうげんいん) 畠山義元・大友義長らが東溪宗牧(とうけいそうぼく)を開祖に創建 創建当初は霊山一枝軒 庭園 龍吟庭(りょうぎんてい) 28個の石 遙拝石と称される水分石 庭園 東滴壺(とうてきこ)・滹沱底(こだてい)・龍光院(りょうこういん) 黒田長政が父の孝高(よしたか)(如水)の菩提寺として創建 春屋宗園の隠居所 江月宗玩が入寺し、春屋を勧請開山に。 有栖川宮好仁親王が江月に帰依、有栖川家の菩提寺にもなった 国宝茶室密庵 小堀遠州作 密庵床 国宝耀変天目茶碗・密庵咸傑墨蹟・竺仙梵僊墨蹟 (20)安上桃山から江戸初期の京都の豪商で、藍染を創案するなど徳川幕府御用呉服商としても 活躍したのは何家か。■三井家 【正解】茶屋家◆百貨店・三越 「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」 <三井家> 伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源と いう。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)越後屋三井呉服店 (三越)を創業。京都の室町通蛸薬師に京呉服店(仕入れ部)を創業。その後京都や大阪 でも両替店を開業。・高島屋 1831年(天保2年)、京都で飯田新七が古着・木綿商を開き、義父の飯田儀兵衛の出身地 である滋賀県高島郡(現高島市)から高島屋と名付けた。・大丸 1717年(享保2年)下村彦右衛門正啓、京都伏見の生家に古着商「大文字屋」開業。 (大丸創業)・丸物 中林仁一郎(にいちろう)によってに創業された「中林呉服店」がルーツで、1920年に 京都駅前へ「京都物産館」として進出し、1926年(大正15年)の京都物産館新館完成と 共に百貨店形態の店舗を開設したのが始まりである。◆茶屋 四郎次郎 安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。 当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。 角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、 「京の三長者」と呼ばれた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆推定得点 20点中 13点よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
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