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次の治療は、OKGセンターか、OJRセンターで受けることにほぼ決定だが、抗がん剤治療後の回復状況は、引き続きK病院腫瘍内科で診てもらっている。今日は、K病院で採血・採尿をし、腫瘍内科のY先生の診察を受けた。前回の診察は、7月2日だったので、まず、その後のOKGセンター、OJRセンターでの経緯を報告した。OKGセンターで摘出手術を受けられる可能性があること、それがダメならOJRセンターで重粒子線治療を受けることになるであろうことを伝えた。採血の方は、白血球、血小板は正常範囲に復帰したが、赤血球関係が回復傾向ではあるが、なかなか元に戻らない。もう抗がん剤治療はないので、これから徐々に復活して元のレベルに戻るでしょうとのY先生のお話しだった。クレアチンにが、まだ悪化傾向にあるのが気がかりである。次回、約2週間後の8月6日に泌尿器の診察があるので、そのときに次の血液検査、尿検査をしていただくことになった。そのときまでには、OKGセンターやOJRセンターでの次の治療の方針が決まっているなずなので、お伝えすることなるであろう。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/07/21
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伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その3 ワルディー・ヨーリョ7.現地踏査 各「お滝」の歴史は、文献には掲載されておらず、現地踏査が大きな情報源となった。滝建立記念石碑(図1)、石の鳥居や「お塚」(図2)などに彫られた年代を調査したり、教祖様や管理者(「滝茶屋」と呼ばれる(図3))の方への取材を行ったり、都合13日間にわたって現地踏査を行った。五社滝、荒木滝、ねざめ滝、権太夫滝、間力滝、白滝、薬力滝、不動滝、末広滝、白菊滝、七面滝、鳴滝、青木滝、弘法滝、命婦滝、八島滝、清メ滝の管理者や教祖様にお話を伺うことができた。 この研究を始めるきっかけとなった権太夫滝では、教祖様に作法を教えていただきながら、初めて滝行体験をさせていただいた(図4)。4月中旬のまだ寒い日であり、体が凍え、短時間で終わらざるを得なかったが、清廉な気持ちになり、身体の内から力が湧いてくるのを感じることができた。教祖様が「命の危険を伴うので、物見遊山の方はお断りし、初心者の方には必ず付き添います。」とおっしゃっていたのも理解できた。 七面滝、鳴滝では、かつての管理者は住んでおられず、彫工の大岩広生氏が家屋をアトリエとして活用しながら管理しておられる。七面滝は近くの日蓮宗宝塔寺の境外飛地であり、日蓮宗門徒の滝行場となっている。月に一度、大阪府柏原市欣心寺のご住職と信者連が滝行に来られるというので見学させていただき、お話をお伺いすることができた(図5)。ご住職曰く、「昔、滝行をする人が多かっのは、流行のようなところもあった。今は本当に信心深い人の滝行のみが残った。」 第6章に大正時代から昭和初期にかけて「お滝」を網羅した地図が多く発行されたことを示したが、これは当時は「お滝」が修行の側面以外に、観光の側面を持ち合わせていたからではないだろうか。8.鉄道網の発達(少し横道にそれます) 「お塚」や「お滝」が、明治時代後半から昭和初期にかけて急増したのは、鉄道網の発達で参拝者が急激に増加したことが一つの要因だと述べた。この研究の過程で、京都駅より南側の鉄道網の変遷には面白い歴史があることが分かった。既知のことで、ご存じの方も多いと思うが紹介しておく。図6を見ながら読んでいただくと分かりやすいと思う。・1879年(明治14) 官営鉄道 京都~稲荷~大谷 開設(翌年には大津延伸) 京都~稲荷駅南:現JR奈良線 稲荷駅南~太谷:ほぼ現名神高速道路・1895年(明治28)京都電気鉄道 七条停車場~下油掛間 開通・同年~1896年 奈良鉄道 京都~伏見~宇治~奈良 開通 京都~伏見駅南:現近鉄京都線 伏見駅南~奈良:現JR奈良線・1904年(明治37) 京都電気鉄道、勧進橋~稲荷間 開通・1907年(明治40) 奈良鉄道国有化・1910年(明治43) 京阪電気鉄道 五条~天満橋 中書島~宇治 開通 (京電稲荷線と平面交差)(図7)・1918年(大正7) 京都市が京都電気鉄道を買収。路線は京都市電に。・1921年(大正10) 官営鉄道 東山トンネル開通で、東海道線は東山トンネル経由大津 これに合わせ、官営鉄道(旧奈良鉄道):京都~伏見は廃止、稲荷~桃山に新線敷設 ⇒官営鉄道奈良線 京都~稲荷~桃山~宇治~奈良・1928年(昭和3) 奈良電気鉄道 京都~西大寺 開通 京都~丹波橋:官営鉄道(旧奈良鉄道)の旧線・旧線跡 丹波橋~西大寺:新設・1963年(昭和38) 近鉄が奈良電気鉄道を合併⇒京都~西大寺は近鉄京都線に・1970年(昭和45) 京都市電伏見線、稲荷線 廃止図6 「その4」に続くよろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京カレッジ『お滝の研究』」 次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/07/26
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アメリカでのゴルフについての一番の失敗談で、一番後味の悪い失敗談です。 以前、アメリカのゴルフコースでは一般道に沿っているコースがあって、道路の間にはネットなどがないので、OBをすると車に当たったりする可能性がある。そういった場所では、車が来ていないことを確認してからティーショットをしなければならないということを書きました。 以前、そのようなコースの例を写真でアップしましたが、その「Timberview(ティンバービュー)」というゴルフ場で一人で回っていたときの出来事です。1番ホールのティーグラウンドは黄色のマークのところ。青のマークがグリーンで、右側に一般道が走っています。 ティーショットを左に打てば道路方向に飛んでいきます。しかし、道路とコースの間には写真のように、ネットも何もないですから、容易にボールが飛び出し、車が走っていれば当たってしまいます。(写真の赤丸で囲んだのがティーグラウンドです。) 私は当時スライスで右方向にOBすることはありましたが、左方向には滅多にOBすることはなかったのだと思います。車が走ってくるかどうか確かめずに打球してしまいました。こういうときって、打ってはいけない方向に飛ぶんですよね。道路にまっしぐら。道路で大きくワンバウンド。そこに車が走ってきました。よく見えませんでしたが、ちょうど1バウンドしたボールが当たったかもしれません。やっちゃたーと思いましたが、当たったかどうかも分からず、当たっても被害がない場合もあるだろうし、そのままプレーを続けていました。 このホールで第2打を打とうとしたとき、後ろのほうから誰かきます。「あんたの打ったボール、俺の車に当たらなかったか?凹んでしまった。高い車だったんだぞ。」「確かにOBはしたけど、車には当たったかどうかは分からない。」押し問答になるかもしれないと思いましたが、「Son of a bicth!!!」(畜生)とか何とか言って、文句を言いながら帰っていきました。18ホール回ってクラブハウスの戻るとき、被害を受けた彼が待ち伏せしているのではないかと思い、ドキドキしましたが、大丈夫でした。嘘をついたわけではありませんが、私のボールが当たった可能性は大で、後味の悪い失敗談になってしまいました。____________________________________「ゴルフ他@米国」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=3「アメリカ出張」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=9「ワルディ流日米国情比較」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=21よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/07
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【2021年7月27日(火)】 体調は完全に快復したようです。昨日は月イチの事務所の集まりでした。 月間サイクルで今一番忙しい時期。今日はやはり月イチの集まりが京都市内であり予定でしたが、キャンセルになり助かりました。この頃歩いてないので、ご近所ウォーキングをしましたが、それ以外は、日ながパソコンに向かっていました。体が快復したので、エアコン無しでもいけましたが、無理してはいけないと思い、暑さのピーク時にはONしました。 「若冲と応挙」の続きです。円満院時代のお話がまだ続きます。応挙の代名詞でもある「写生」の技術がこの時代に極められていったので、応挙を語ろうとすると、どうしても円満院時代部分のボリュームが大きくなってしまいます。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代(続き) 写生のお話しの続きから入ります。 図1 「写生雑録帖 野駒・黄鶲・尉鶲図」 個人蔵 赤の四角は筆者付加。右は部分拡大 図1に「写生雑録帖 野駒・黄鶲・尉鶲図」(のごま・きびたき・じょうびたきず)を示します。「此図肩高也」と肩の高さの訂正が必要であることなどが記されています。 図2は「写生雑録帖 虎杖・蕨図」(いたどりわらびず)ですが、それとよく似た図3「写生図巻 虎杖・蕨図」が存在します。「写生雑録帖」は墨のみで速写された一次写生図で、絵の対象が重なりあったりして未整理の状態です。応挙が持ち歩いて、写生をしたものでしょう。それに対して「写生図巻」は、対象はほぼ同じながら、整然と配置され、着色で浄書された二次写生図です。この「写生図巻」には「曽祖父応挙真蹟円山応立識蔵」「明治壬申三月」の墨書があり、円山派4代目の円山応立が明治時代に所持していたことが分かります。このように、応挙の写生は応挙本人の絵画制作に活用されただけではなく、応挙一門に引き継がれ、彼らの絵画制作の糧とされました。図2「写生雑録帖 虎杖・蕨図」個人蔵 図3「写生図巻甲巻 虎杖・蕨図」千總蔵 以前の回で応挙のことを記述した資料として奥文鳴の「仙斎円山先生伝」と、岡村鳳水の「円山応挙伝」をあげましたが、もう一つ有力な資料があります。円満院祐常は記録魔であり、応挙と知り合う前の宝暦11年(1761)から亡くなる安永2年(1773)まで、「萬誌(ばんし)」という日記のような書物を残しました。その中の「秘聞録」には、食料、医療、園芸など多岐にわたる聞き書きが記されると同時に、応挙から絵の指導を受けた際に、応挙から聞き取った画材の知識や絵画技法、絵画制作上の理念が記されています。図4に「萬誌」「秘聞録」(部分)を示します。図4 円満院祐常「萬誌 秘聞録」 そこには応挙の言葉として、「画学物ニ目ヲ付ル意ナクハ不レ成レ画・・・真ヲトクト覚ヘ人物鳥獣其真ヲ写、気ヲ写ス第一ト(シ),其上理ヲ学て可レ付レ意云々」と書かれています。対象を注意深く観察して写生し、生き生きとした生命感を写すことを第一義としたうえで、理(対象の構造や構成の原理)を学び、意(画家の制作意図)を加えることが大切だと説いています。正確に写すのが第一義ではなく、生命感を写し、対象の原理を学び、作者の意図を加えることが大切だというのです。写生に関してのシステマティックな絵画理論といえるでしょう。 また「図出来ルホドナラハ生物ニテ可二写学一、依レ之予亦日記ノ小冊ヲ以日々図二得之一、山川草木禽獣虫魚人物、何二てモ見レ生可二図写置一・・・」とも書かれています。「絵を描かけるならば、まず生物を写生することを学んで、その後、日記のような小冊子を得て、景色や動植物・人物何であっても実物を見てを写生を残しなさい。」というような意味が書かれているのでしょう。それを実践したのが、さきほどの「写生雑録帖」なのです。 より具体的な写生の理論として次のような言葉もあります。「人物ヲ画ニ先骨法(人体の骨組)ヲ定、次ニ衣装ヲ付ヘシ・・・初心ニハ先裸躰ニ老幼男女画レ之、是ニ衣装ヲ付ヘシ、図出来ハ如レ此スレハ如何様ニモ図出来る云々」。人物を描くにときは、まず人体を描き、その上から着衣を重ねる「裸形着衣法」と呼ばれる技法が良いと説いています。それを実践したのが、図5の「琵琶湖宇治川写生図巻」です。人物の着衣に透けて裸形が見えており、着衣は赤色で描かれていることが分かります。図5 「琵琶湖宇治写生図巻」一巻の内 京都国立博物館蔵 赤の四角は筆者付加。 右の絵は赤の四角の拡大図 しかし人物の裸形は頻繁に写生できるものではありません。そこで応挙は人物の裸体画手本図を制作しています。図6に「人物正写惣本」を示します。第一・二巻には色んな年代の男女のほぼ等身大の全身裸像が描かれています。その余白には貴賤・男女・年代によって異なる肌や毛の色を描き分けるように細かな彩色の指示が書かれています。第三巻に は身体の部分図が写されています。「秘聞録」には、「・・・人物手足鏡ニウツシ、我手足ヲモ可レ写レ以レ鏡、写以ニ遠眼鏡一可レ写レ之云々」とあり、鏡に自分の手足を写して写生したり、遠眼鏡で身体の部分を見て写生したりすることを説いています。図6はその実践といえるでしょう。図6の大きな方の円の中の手足は、ひょっとすると応挙自身のものかもしれません。図6 「人物正写本」の内 天理大学付属天理図書館 上:第一巻、第ニ巻(文字は筆者付加) 下:第三巻補図(手、足、口) さらに「秘聞録」には次のような意も書かれています。「・・・動物難レ写人物鳥獣等、宜細工之人形等画本ニ用ユヘシ・・・」。「動物は写すの難しいので、人物鳥獣等はよくできた細工の人形を画本に用いるとよい。」という意味です。尾張屋に奉公し、身の回りに人形がたくさんあった応挙だからこその理論かも知れません。図7の「人物描写図法」は応挙原図に基づく版本で、裸体に着衣を重ねた人物図や相書(人物画)から抜書きした顔や手足の部分図が描かれています。その中の「眉目図」は人物の写生だけでなく、人形や絵図など人工的なものからの写生も有効であることを示した一例です。図7「人物描写図法」の内 京都国立博物館 左:眉目図、中:貴女二十余図(貴人二十代女性 右:貴徧中年図(貴人中年男性)(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/27
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御朱印 第二冊 2013(平成25)/1/27~2013/3/3 その5#25 大聖寺 2013(平成25)/3/2(家内同伴)京都府京都市上京区烏丸今出川上ル御所八幡町109山号:岳松山 宗派:臨済宗系単立 本尊:釈迦如来創建年:永徳2年(1382年) 開山:無相定円尼 開基:足利義満正式名:大聖寺門跡 別称:御寺御所札所等:神仏霊場巡拝の道第98番(京都第18番)#26 白峯神宮 2013(平成25)/3/3京都府京都市上京区今出川通堀川東飛鳥井町261主祭神:崇徳天皇 淳仁天皇 社格等:旧官幣大社 別表神社創建:慶応4年(1868年)札所等:京洛八社集印めぐり 例祭:4月14日(淳仁天皇祭) 9月21日(崇徳天皇祭)#27 妙顕寺 2013(平成25)/3/3京都府京都市上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町514山号:具足山 院号:龍華院 宗派:日蓮宗 寺格:大本山 本尊:三宝尊創建年:元亨元年(1321年) 開山:日像 開基:後醍醐天皇正式名:具足山龍華院妙顕寺 別称:四海唱導、四条門流札所等:洛中法華21ヶ寺#28 本法寺 2013(平成25)/3/3京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町617山号:叡昌山 宗派:日蓮宗 寺格:本山(由緒寺院) 本尊:三宝尊創建年:永享8年(1436年) 開山:日親 開基:本阿弥本光(清信)正式名:叡昌山本法寺 札所等:洛中法華21ヶ寺#29 妙覺寺 2013(平成25)/3/3京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135山号:具足山 宗派:日蓮宗 寺格:由緒寺院(本山) 本尊:十界曼荼羅創建年:永和4年(1378年) 開山:日実、ただし寺では日像とする 開基:小野妙覚正式名:具足山妙覚寺 別称:北龍華(北竜華、きたりゅうげ)札所等:洛中法華21ヶ寺#30 妙蓮寺 2013(平成25)/3/3京都府京都市上京区寺之内通大宮東入る妙蓮寺前町875山号:卯木山 宗旨:法華宗 宗派:本門法華宗 寺格:大本山 本尊:十界曼荼羅創建年:永仁2年(1294年) 開山:日像 開基:柳屋仲興札所等:洛中法華21ヶ寺よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「御朱印」 次回「御朱印」→
2026/07/19
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東海道歩きの4日目です。今日も二人旅。感謝。石部~水口 10:40~16:20(5時間半)13.6km 28,600歩ルート概略 石部から水口まで、ほぼ東北東に直進です。JR石部駅 いざ出発 今日も二人旅です。感謝。石部駅前東海道五十三次 石部宿 安藤広重石部は「京立ち石部泊まり」といわれ、京を立った旅人の一泊目でした。幕末の最盛期には、商家216軒、旅籠62軒と栄えました。「石部金吉」という言葉jは宿外れの金山から起こったもの。遊女を置かない宿場を揶揄した意味がこめられているといわれています。石部一里塚跡の説明板 日本橋より116里 東海道が整備されたのは慶長9年(1604)石部宿 鉤の手道 確かに2カ所、90度に曲がるところがあります。石部宿 小島本陣跡 慶安3年1650)建設。明治天皇も宿泊しました。小島本陣の説明板石部宿 問屋場跡石部宿 三大寺本陣跡石部宿 安民米倉庫石部宿 お半長右衛門石部宿 高札場跡石部宿 石部城跡石部宿の町並み吉姫神社 この神社は女神社で石部宿西の男神社である吉御子神社と対の関係にあります。吉姫神社 本殿吉姫神社 万病に効能あらたかといわれる湧き水吉姫神社 南北朝時代の狛犬 道標 詳細不明です。八嶋寺への道標か?高木陣屋跡家棟川隧道(やのむねがわずいどう)扁額近くに扁額があったようですが、気付かず写真に収められませんでした。家棟川の橋の袂の常夜燈「奉両宮常夜燈」と刻まれている。伊勢神宮の両宮を指している。國指定天然記念物「うつくしまつ」ちょっと奥まったところにあり、見に行くのをあきらめたので、松の写真はありません。北島酒造 湖南の名酒造です。由良谷川隧道 明治19年(1868)築造 天井川の下に造られたトンネルです。「新田道」道標夏見の一里塚跡 日本橋より115理目夏見の里 藤棚大沙川隧道天井川の下に、明治17年(1884)築造三雲城跡と八丈岩室町後期、三雲典膳が築城。戦国期に落城し。廃城となりました。大沙川隧道 大沙川隧道 説明板弘法杉弘法杉 案内版道標 雲照妙感寺従是十四丁、立志神社、田川葡萄道三雲駅から東に歩き、横田橋で野洲川北岸に渡るのが本来のルートであるが、水量の多いときは舟の渡しが使われました。現在は、その場所には橋がないので、西方の現横田橋で野洲川を北岸に渡ります。国道1号線を少し歩き、県道533号線を行くと、横田の渡しの船着き場跡があって、立派な常夜燈があります。横田渡跡常燈 常は土橋、水嵩増せば舟渡しであった、「横田の渡し」は「東海道十三渡し」の一つでした。常夜燈は万人講のもので、文政5年(1822)の建立。横田橋の歴史ここから野洲川と離れ、東に向かいます。泉の一里塚跡 日本橋より114里目。復元されたもです。泉の一里塚 説明板10年ほど前に買った旧東海道歩き地図では、上記の一里塚付近から「松並木」となっていましたが、全くといっていいほいど松がありませんでした。切り倒してしまったのでしょうか。どんどん東に向かいます。柏木コミュニティーセンターでトイレをお借りして小休憩。そこに鐘楼のモニュメントがありました。柏木コミュニティーセンター 鐘楼のモニュメント水口宿に入っていきます。柏木神社建久年間(1190~1199)源義朝が上洛の際、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧合祀し、以後若宮八幡宮と称され水口城主の祈願所となった。美福酒造山廃仕込みの銘酒「蔵の音」は、水口曳山祭のお囃子や太鼓を聞かせて仕込んだもの。水口一里塚跡 日本橋より113里目百聞長屋跡 下級武士建の棟割長屋があり防御を担いました。水口石 力石とも呼ばれています。浮世絵師国芳が浮世絵の題材にしています。滋賀県発祥といわれるのいわゆる「飛び出し坊や」の女忍者版がそばに立っています。 近江鉄道石橋駅から2駅乗って、貴生川駅で、JR駅で乗り換え、京都方面に帰りました。快い疲れでした。←前回「旧東海道」 次回「旧東海道」→
2026/02/01
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。2016年11月2日からのお笑いコンビはんにゃ川島章良さん(取材当時34歳)の記事です。[お笑いコンビはんにゃ 川島章良さん]腎臓がん(4)告白して気分すっきり 今春のテレビ番組で、腎臓がんの手術を昨年初めに受けたことを告白した。 実は当初、相方・ 金田哲かなださとし さんとマネジャーにしか打ち明けず、公表するつもりはなかった。「病気のことを話したら、笑ってもらえなくなるんじゃないか」と心配したからだ。 しかし、今は「打ち明けて楽になりました」。 内緒にしている間はつらかった。例えば、手術後のお笑いライブ。突然シャツを脱いだ筋肉自慢の先輩芸人との絡みで「お前も脱げ」と振られ、うろたえた。 ポッコリおなかもネタの一つだったので、筋肉との対比は「おいしい場面」のはず。しかし、手術の痕を見せられず、中途半端な受け答えになってしまった。 後で共演者に事情を説明した。初めて「そういうことは言った方がええで」とアドバイスされた。公表すると「勇気づけられた」など好意的な反響が多かった。 コンビ結成10年目のがん発見。コンビ仲が冷えつつあった時期だが、「もうコントできないかも……」という危機感が、お互いの大切さを再認識させてくれた。大会に出たい。ネタ番組に呼ばれたい。相方と、再び言いたいことを率直に語り合うようになった。 初心に帰った。元々はコント師。来春、久々に単独ライブを開くつもりだ。>公表すると「勇気づけられた」など好意的な反響が多かった。 私が粒子線治療を選択し、治療に入ろうというとき、偶然なかにし礼氏の粒子線治療の経験談講演の映像資料に出会いました。 芸能人の方々の闘病からの復帰は、一般の患者に勇気を与えてくれますし、場合によっては「そんな治療法もあるのだ。」という気付きを与えてくれます。 そのときの私の投稿は⇒こちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村読売新聞「一病息災」の記事リストは⇒こちら___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/12/15
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御朱印 第三冊 2013(平成25)/3/4~2013/4/11 その1#1 本隆寺 2013(平成25)/3/4京都府京都市上京区智恵光院五辻上ル紋屋町330山号:慧光山 宗派:法華宗真門流 寺格:総本山 本尊:三宝尊創建年:長享2年(1488年) 開山:日真正式名:慧光無量山本妙興隆寺 別称:焼けずの寺札所等:洛中法華21ヶ寺#2 引像寺(いんしょうじ)(千本閻魔堂) 2013(平成25)/3/6京都府京都市上京区千本通廬山寺上る閻魔前町34山号:光明山 院号:歓喜院 宗派:高野山真言宗 本尊:閻魔法王創建年:寛仁元年(1017年) 開基:定覚(小野篁とも)中興年:文永10年(1273年) 中興:明善正式名:光明山歓喜院引接寺 別称:千本ゑんま堂札所等:通称寺の会(千本ゑんま堂)#3 石像寺(しゃくぞうじ)(釘抜地蔵) 2013(平成25)/3/6京都府京都市上京区千本通上立売上ル花車町503山号:家隆山 院号:光明遍照院 宗派 :浄土宗 本尊:地蔵菩薩(釘抜地蔵)創建年:伝・弘仁10年(819年) 開山:伝・空海 中興:重源正式名:家隆山光明遍照院石像寺 別称:釘抜地蔵札所等:洛陽四十八願所地蔵第16番 通称寺の会(釘抜地蔵)#4 大報恩寺(千本釈迦堂) 2013(平成25)/3/6京都府京都市上京区七本松通今出川上ル溝前町[注釈 1]山号:瑞応山 宗派:真言宗智山派 本尊:釈迦如来(重要文化財)開基:伝・用明天皇(勅願) 別称:千本釈迦堂札所等:新西国三十三箇所第16番 京都十三仏霊場第8番 ぼけ封じ三十三観音第2番 ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第2番#5 北野天満宮 2013(平成25)/3/6京都府京都市上京区御前通今出川上る馬喰町主祭神:菅原道真公 社格等:二十二社(下八社) 旧官幣中社 別表神社創建:天暦元年(947年) 本殿の様式:八棟造別名:北野爾坐天満宮天神 天満大自在天神社 天満天神 北野天神 北野聖廟 北野社 北野神社札所等:菅公聖蹟二十五拝 洛陽天満宮二十五社順拝 神仏霊場巡拝の道第95番(京都第15番)例祭:8月4日#6 壬生寺 2013(平成25)/3/12京都府京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31宗派:律宗 寺格:大本山 本尊:地蔵菩薩(重要文化財)創建年:正暦2年(991年) 開山:快賢別称:地蔵院 宝幢三昧寺札所等:洛陽三十三所観音霊場第28番(中院) 京都十二薬師霊場第4番 洛陽天満宮二十五社順拝第4番(一夜天満宮)よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「御朱印」 次回「御朱印」→
2026/07/20
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【2020年12月13日(日)】 今年も残すところ2週間と少し、床屋に行ったり、お正月のお酒を買いに行ったりして、少し年末モードになってきました。長い間放ったらかしになっていた、大型ゴミの解体や庭の植えかえも、ここ一週間でようやく完了できたし、4ヵ月にわたったOB会への1週間に一度の寄稿も、この土曜日に終えることができました。これから本格的な年末モードに入っていけそうです。 「平安京講話」という小冊子を読みました。何年か前に平安京創生館(京都アスニー)で買ったのですが、本棚にしまったまなになっていました。それを引っ張りだしてきて読みました。「平安京講話」編集・発行 (財)京都市生涯教育学習振興財団2007年1月発行価格 477円+税A5版100ページ目次平安京創生館展示パネル解説・平安京について・平安京の復元・平安時代のくらし・平安時代の信仰・安宿造酒司について平安京講話・平安宿造酒司跡のこと 田辺昭三・造酒司 角田文衛・京都市の埋蔵文化財最前線 梶川敏夫・平安京史跡探訪1 神泉苑と市民 井上満郎・平安京史跡探訪2 東寺の繁栄と空海 井上満郎・甦る「延暦」の時代 林屋辰三郎・平安京史跡探訪3 一条戻り橋 井上満郎・平安京史跡探訪4 錦小路 井上満郎・平安京史跡探訪5 造り路の往来 井上満郎・和気氏と平安仏教 谷内乾岳・平安京史跡探訪6 鴨川の実像 井上満郎・平安京史跡探訪7 平安宿大極殿 井上満郎・平安京史跡探訪8 葛野川の人堰 井上満郎・平安京史跡探訪9 白河六勝寺の盛衰 井上満郎・平安京史跡探訪10 平安宮の内酒殿 井上満郎・平安京史跡探訪11 天神と菅原道真 井上満郎・平安京史跡探訪12 大原と建礼門院 井上満郎・平安京史跡探訪13 羅城門と平安京 井上満郎・よみがえる平安京-復元模型の風景ー 宇野日出生・平安京の須恵器 山田邦和・平安京と小京都ー「みやこづくり」と「まちづくり」ー高橋康夫「創造する市民」という文化誌に寄稿された平安京についての寄稿を集めた本のようで、各章が短くて読み切りになっていて、内容も難解でなく読みやすく、それでいて色々知らなかったことも多く、最初から最後まで興味をもって読むことができました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/12/13
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【2021年2月6日(土)】 昨日、今日、明日と3連続休みですが、奉仕作業が続きます。歯の痛みはだいぶ和らぎました。じっとしているときはほとんど痛みを感じなくなりました。柔らかいものなら噛んでも痛くありません。やはり、メンテのときばい菌が入って膿んだんでしょう。 在宅でしたが少しだけ外出。大徳寺の案内を3月にするので、図書館に大徳寺についての本を2冊予約してありました。貸し出し中だったわけではなく、私の最寄りの図書館になく、他の図書館から送ってもらったものです。天気が良く、暖かかったので、車を図書館から1キロほど離れた商店街の駐車場に停めて、歩いて往復しました。いつもの散歩は散歩で、慣れた景色を歩くので思索に耽ることができていいいのですが、知らないところを歩く新鮮さも楽しいものです。 NHK-BSから録画してあった映画「鉄道員(ぽっぽや)」を観ました。鉄道員(ぽっぽや)監督 降旗康男脚本 岩間芳樹 降旗康男原作 浅田次郎製作 「鉄道員」製作委員会出演者 高倉健 大竹しのぶ 広末涼子 吉岡秀隆 安藤政信 志村けん 奈良岡朋子 田中好子 小林稔侍音楽 国吉良一主題歌 坂本美雨『鉄道員』撮影 木村大作編集 西東清明製作会社 東映東京撮影所配給 東映公開 1999年6月5日上映時間 112分配給収入 20億5000万円 いい映画です。健さんがいい。大竹しのぶがいい。広末涼子もいい。小林稔侍もいい。お涙頂戴の映画なのですが、今の時間はほとんど経過させず、回想シーンを上手く入れて、飽きさせない。亡くなった娘が、3回にわたって成長して登場。最後は17才。それを見た健さんが列車到着を待つ雪の駅で亡くなる。泣かせます。 原作は浅田次郎。『小説すばる』平成7年(1995年)11月号に掲載され、後に同名の短編集にまとめられ、1997年4月に集英社から刊行されました。短編集は第117回直木賞受賞作で、140万部を売り上げるベストセラーとなりました。 映画の中の思い出のシーンは、白黒なのですが、赤だけを強調するという手法を使っていて印象的です。それで広末涼子が着たベストが、母(大竹しのぶ)が生前着ていたものだとハッと気が付くわけです。この赤だけ強調するシーンは、スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」でも見ました。 「幌舞」という駅長一人駅が舞台。「幌舞」という語感からは、北海道に実存する地名のようにも聞こえますが、実在はせずロケは根室本線の「幾寅」という駅で行われました。昔の田舎駅らしさを強調するため改装されました。映画では幌舞線の終着駅という設定ですが、実際には途中駅であるため、模擬の腕木式信号機や車止めを設置するなど、いくらかの細工が施されたらしいです。セットとして建てられた「だるま食堂」は今も保存されています。 新型コロナで亡くなった志村けんも出演しています。志村けんさんは、2020年12月公開予定の映画『キネマの神様』に主演予定だったのですが、クランクインを待たずに急逝したため、この作品が生涯唯一の映画出演作となりました。ご冥福をお祈りします。 坂東英二がちょい役で出ています。にわかに信じ難いのですが、板東英二さんによると、元々の主演は坂東さんだったらしいです。健さんからスケジュールをあけておくように言われていましたが、板東さんが聞き逃しスケジュールをあけておらず、健さんが主演をすることになったということ。ということは、健さんが小林稔侍がやっていた役をやることになっていたのでしょうか。それはそれで見てみたかったような気もします。2000年の日本アカデミー賞の各賞をほぼ総なめしています。最優秀作品賞最優秀監督賞 降旗康男最優秀脚本賞 岩間芳樹・降旗康男最優秀主演男優賞 高倉健 最優秀主演女優賞 大竹しのぶ最優秀助演男優賞 小林稔侍イタリア映画の「鉄道員」もよかったですが、こちらの「鉄道員」も秀作でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/02/06
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【2021年7月28日(水)】 オリンピックの熱戦が続きますが、暑い天気も続きます。そしてコロナ感染者数も、うなぎ上りで心配です。歩き不足になっているので、朝の涼しいうちに散歩しました。あとは、30日の会に向けて、一日PCに向かっていました。 「若冲と応挙」#26です。写生の技術を極めた円満院時代のお話が続きます。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代(続き) さらに「秘聞録」には次のような意も書かれています。「・・・動物難レ写人物鳥獣等、宜細工之人形等画本ニ用ユヘシ・・・」。「動物は写すの難しいので、人物鳥獣等はよくできた細工の人形を画本に用いるとよい。」という意味です。尾張屋に奉公し、身の回りに人形がたくさんあった応挙だからこその理論かも知れません。図1の「人物描写図法」は応挙原図に基づく版本で、裸体に着衣を重ねた人物図や相書(人物画)から抜書きした顔や手足の部分図が描かれています。その中の「眉目図」は人物の写生だけでなく、人形や絵図など人工的なものからの写生も有効であることを示した一例です。図1 「人物描写図法」の内 京都国立博物館 左:眉目図、中:貴女二十余図(貴人二十代女性 右:貴徧中年図(貴人中年男性) 図2の「大石良雄図」は、人形浄瑠璃や歌舞伎で人気を博した忠臣蔵物に取材したと思われる作品です。薄物の着物の下にはうっすらと身体の輪郭線が見え、実在の人間が感じられますが、女性の顔や手足はまるで人形のようです。応挙の人物画はに、このように本物の人間の現実感と作りものの人形の美をミックスしたようなものが多くあります。応挙がそのような人物画を目指したのかもしれませんが、「人形を手本に」という絵画理論の結果かもしれません。図2 「大石良雄図」 武井報效会百耕資料館 (右は部分拡大。足が透けて見える) 図3「遊虎図襖」重文 金刀比羅宮(表書院虎の間) 図3の「遊虎図襖」も、張子の虎をそのまま描いたように見えます。 そして「秘聞録」には「猿ハ多人ニテ書不レ宜、犬ニテ可レ書、左ナケレハ耳サカリ首近過云々」「鹿ハ馬ニテ画故不レ宜、羊ニテ可レ画云々」と記されています。「従来、猿の頭部は人に、鹿の体躯は馬に似せて描いていたが、それは間違いである。むしろ猿は犬、鹿は羊(ここでは山羊)を念頭に置いて描きなさい。」という意味です。応挙は、描こうとするものの表面的な類似や先入観に惑わされることなく、構造的に把握しなさいと説いているわけです。その現われが、 図4の「虎皮写生図」です。、実際に生きている状態を目にすることができない虎を、毛皮の状態で写生し、寸法まで測定し書き入れています。理論的な応挙の片鱗が表れています。さきほどの張子の虎とは、また違ったアプローチです。図4「虎皮写生図」本間美術館(右は部分拡大。寸法が書き入れられている。) 写生に真摯にかつ理論的に向き合ったことが結実した作品の一つが、図5の「牡丹孔雀図」です。装飾性と写実性とが見事に融合した、円満院時代を代表する傑作です。応挙の弟子の一人長沢蘆雪がほぼ同じ図様の孔雀を描くなど、円山派画家たちの手本となった作品でもあります。この作品は明和8年(1771)に描かれています。若冲の「動植綵絵」が相国寺の閣懴法に毎年掛かるようになって、衆人が目にするようになったのは、明和6年(1769)ですから、応挙もきっと目にしたでしょう。「細密さでは俺も負けないぞ」というライバル意識むき出しで応挙は描いたのではないかと筆者は勝手に想像しています。図5「牡丹孔雀図」重文・相国寺蔵(右は部分拡大) 番外.「皇室の名宝展」 ちょっとここで横道にそれます。2020年10月25日)に京都国立博物館「皇室の名宝」を観に行ってきました。東京の「宮内庁三の丸尚蔵館」所蔵のかつては皇室が所持していた名品を中心とした美術展です。「三の丸尚蔵館」といえば、すでにご紹介した伊藤若冲の「動植綵絵」を所蔵しているところです。今回の展示にも「動植綵絵」が下記8幅来ています。・前期(10/10~10/31):「雪中鴛鴦図」「群鶏図」「薔薇小禽図」「老松白鳳図」・後期(11/3~11/23):「大鶏雌雄図」「南天雄鶏図」「牡丹小禽図」「菊花流水図」後期には若冲の「旭日鳳凰図」も展示されます。本稿で現在とりあげている円山応挙については、次の作品が来ています。・前期:「牡丹孔雀図」「群獣図屏風」 (「牡丹孔雀図」は図11と同図様の作品ですが、少し後代の作品です。)・後期:「源氏四季図屏風」その他、近世の画家では下記作品が観覧できます。・前期・後期共通:岩佐又兵衛「小栗判官絵巻」、尾形光琳「西行物語絵巻」・前期:伝狩野永徳「四季草花図屏風」、海北友松「浜松図屏風」、狩野探幽「源氏物語図屏風」、狩野常信「糸桜図簾屏風」、渡辺始興「四季図屏風」・後期:伝狩野永徳「源氏物語図屏風」、海北友松「網干図屏風」、狩野探幽「井出玉川・大井川図屏風」、住吉廣行「四季絵屏風(俊成卿九十賀屏風)」 その他、中国画、巻物、書、掛軸など見応え満載です。 コロナ禍で予約制になっており、普通なら押し合い圧し合いでなといと観れない「動植綵絵」も、かぶりつきで、ゆっくりと観ることができました。 次回は、応挙の絵画理論を続けたうえで、三井家の庇護を受けた黄金期に入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/28
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【2021年10月25日(月)】 24日は日曜でしたが、終日事務所出頭。 今日は、終日、会の諸事を在宅でするなか、月イチの高血圧・高尿酸の診察で近所のO医院に行きました。血圧の測定結果をグラフにプロットして持っていくので、血圧を計ることもありません。尿酸値は、この前の健康診断結果が良好であり、痛風の発作が起こってないことを伝えました。いつものアムロジピンとフェブリクをもらいました。 「若冲と応挙」第55回。付録3 応挙年譜のその7(56歳から没)です。西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1789(寛政元)57歳 ◆3月8日、僧六如と伏見へ観梅に行く。「龍門鯉魚図」を描く。1790(寛政2)58歳 ◆禁裏造営に際し、一門を率いて障壁画の制作にあたる。1791(寛政3)59歳 ◆2月、東本願寺岐阜別院の障壁画「竹雀図」、「墨梅図」を描く(のちに本山に移され る)。1793(寛政5)61歳 ◆この頃から、老病を患い、眼病も悪化し、制作に支障をきたす。 10月、大乗寺に「竹図」を描く。1794(寛政6)62歳 ◆天明の大火の影響で中断していた金刀比羅宮表書院の障壁画を、 10月に再び制作し「瀑布・山水図」を描き、完成。「竹林七賢図」、「江口君図」を描く。 ☆江戸では東洲斎写楽が江戸三座興業の役者を描き、人気を得る。"1795(寛政7)63歳 ◆天明の大火の影響で中断していた大乗寺の障壁画を再び制作し、 4月に「松に孔雀図」を描き、孔雀の間を完成させる。 5月中旬から備前瑜迦山蓮台寺の「鶏・竹図」の制作を行い完成するが、 落款を入れられず、応挙の死後、子の応瑞が父応挙の印を捺す。 6月、「保津川図屏風」(株式会社千總)を描く。 7月17日、死去。四条大宮西入悟真寺(現在、太秦に移転)に葬られる。 法名は円誉無三一妙居士。墓碑は妙法院宮真仁法親王の筆になる。香住・大乗寺「松に屈若図」 出典: 樋口一貴著「もっと知りたい円山応挙」2013年 東京美術株式会社発行 別冊太陽「円山応挙」2013年 株式会社平凡社発行 山川武著「応挙・呉春・蘆雪」2010年 東京藝術大学出版会発行 これで応挙の年譜を終わります。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/10/25
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2016年10月6日 京都新聞ホームページから かつて「難病の神様」として多くの参拝者が訪れた京都市伏見区の大岩神社の参道再生に、地元住民が乗り出す。約2年前に管理者が不在となり、参道が倒木で荒れた状態になっているためで、日本画家の堂本印象がデザインした鳥居をアピールして、登山客を呼び込もうとしている。 大岩山山頂付近にある大岩神社には、男女2人の神がまつられ、互いの病気を献身的な看病で治癒した伝承がある。昔は結核患者や陸軍病院(現京都医療センター)の傷病兵が祈願に訪れていた、という。 しかし、2014年秋ごろから管理者がいなくなり、大岩街道から神社につながる参道は竹林や雑木林の倒木で荒廃。木が倒れ、壊れかけているほこらもある。 近年、参道を市がトレイルコースとしてPRを始め、最近では外国人も散策するようになった。そんな中、昨年発足した市民グループ「深草まるごとつながりネットワーク」が、参道の環境整備を模索。5月から清掃活動を行い、今後、倒木の撤去や広場への遊具設置、社務所をくつろぎスペースとして活用するなどの再生策を検討している。 また参道には1960年代に堂本印象が寄贈した二つの鳥居があり、グループは「新たな『印象』をつくろう!」をスローガンに、魅力を発信していく。 メンバーの杉田鈴子さん(68)=伏見区=は「神社周辺や参道を子どもから大人まで楽しめる環境にしたい」としている。同ネットは取り組みへの協力者を募っている。問い合わせは事務局の伏見区役所深草支所TEL075(642)3203。倒木で被害を受けた大岩神社のほこらの損傷状態を確認する市職員ら。市民団体が参道整備に乗り出すことになった(京都市伏見区)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/10/07
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年9月5日の記事≫ 精巣(睾丸〈こうがん〉)には、男性ホルモンを分泌する機能と、精子をつくる機能がある。 精巣がんにかかる割合は男性10万人あたり1人で、「希少がん」に該当する。主な症状は、片側の精巣が腫れたり、硬さが変化したりする。痛みを感じないことが多く、かなり進行してから気付くケースが少なくない。非常に進行が早く、転移しやすいとされる。 発症のピークは、20代後半から30代にかけて。連載で紹介した神奈川県に住む会社員の男性(37)は、働き盛りで、幼い子どもがいる中で治療を受けた。 治療は、がんが強く疑われる段階で、腫瘍(しゅよう)のある側の精巣を摘出する。取り出した組織を調べてがんかどうかを確定し、転移の有無や転移先の部位によって、その後の治療法が選択される。 神奈川県立がんセンター泌尿器科の岸田健部長(52)は「若い人に多い精巣がんの治療は、治癒をめざすだけでなく、将来の就職や結婚も視野に入れ、発病前と同じ生活に戻ってもらうことが大切」と指摘する。 精巣がんの多くは抗がん剤がよく効き、転移があっても治ることが期待できる。ただ、筑波大病院腎泌尿器科の河合弘二講師(55)は「非常によく効く理由は、まだわかっていない」と話す。解明できれば、ほかのがんにも応用できる可能性があり、精巣がんの研究は世界的にも注目を集めているという。 若い患者では、将来子どもを持つことを望んでいる場合が多い。抗がん剤治療を受けると無精子症になる恐れがあるため、希望者には事前に精子を採取し、必要になるときまで凍結保存する。 横浜市立大付属市民総合医療センターの湯村寧(やすし)・生殖医療センター泌尿器科部長(48)は「精子凍結をすることで、若い患者が将来を心配せず、心置きなく治療に専念してもらえる環境を整えることが重要だ」と語る。 精子凍結が検討される病気には、精巣がんのほかに、白血病や悪性リンパ腫などがある。国際泌尿器科学会によると、凍結後に融解した精子は、通常の精子と比べて、運動率が30~60%、受精率は70~75%程度に低下することが報告されている。精巣の位置/精巣がんの特徴>精巣がんにかかる割合は男性10万人あたり1人で、「希少がん」に該当する。 私が罹病した軟部肉腫は10万人あたり2人といわれ、やはり「希少がん」でした。できたのは腎臓の後ろ(後腹膜)。もう一方の腎臓は腎盂がんで摘出してしまっています。残った腎臓の後ろに軟部肉腫ができたというのは、ひょっとすると日本で初めての症例かもしれません。 抗がん剤治療の後、主治医からは腎臓ごとの摘出手術を勧められました。腎臓は2つあって、1つ取っても問題なく生活できるし、2つともとっても透析さえすればいいので、泌尿器科ではどうしても切除するという発想しかないようです。 私がセカンドオピニオンを聞きに行った大阪府立成人病センターでは、私のがん種が骨軟部肉腫であったため、セカンドオピニオンの窓口が整形外科でした。整形外科では手術ができない場合、粒子線治療を紹介することもあり、それであれば腎臓を温存できるとのこと。紹介してもらった兵庫県立粒子線医療センターで診てもらって、治療可能ということが分かり、粒子線治療を受けました。 今、透析もせず普通に健康に暮らせています。同じ大阪府立成人病センターでも、泌尿器科が窓口であったら、やはり「透析して、残った腎臓ごとの摘出しかないでしょう。」となっていたと思います。 一つの医療機関の知見には限界があります。だからセカンドオピニオンがあるわけですが、このようにセカンドオピニオンを聞きに行っても、どんなコメントをいただけるかは、どこの医療機関か、窓口の診療科が何か、さらに担当の先生が誰かということで大きく変わってきます。しかし、行かなければ何も情報は得られません。がんに限らず、セカンドオピニオン受診は患者にとって大切な行為だと思っています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村 ___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/01/18
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【2019年10月3日(木)】 昨今の新聞を賑わしている関西電力の醜聞ニュース。実は八木誠会長は私の大学時代の同じ研究室グループの先輩です。私がその研究室に配属になったのは、昭和51年(1976)かその前年です。ネット情報によると関電入社は1972年となっていますので、私とはダブってないことになりますが、私の担当の助手だった先生(後に教授)が「八木君は・・・」とよく話しておられ、やはり研究室グループ誇りの卒業生でした。OB会などでお会いしたことがあるのか、お顔に見覚えがあって、関電の社長に就任されたとき、「あっ、あの八木さんだ。」と思った記憶があります。研究一の出世頭で尊敬もしていましたので、東北大震災の影響で関電が苦境に立たされたとき、「えらいときに社長にならはったなぁ。気の毒だなぁ。頑張って欲しいなぁ。」と思っていました。 ところが今回の醜聞。額が半端じゃない。コンプライアンスに厳しく対応するようになった純粋の民間企業では、もはや起こり得ないお話しです。しかも退任をしない。ここは八木会長、潔く退任していただきたいという思いです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2019/10/03
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【2021年2月5日(金)】 昨日は、午後、会の関係で電話会議。その準備で午前中は費やしました。 午後会議が終わってから歯医者へ。1月21日の定期メンテで、左上親知らずにヒビが入っており、抜いたほうがいいということになり、今日の臨時通院となりました。ところが、昨日午前中から、右の奥歯(特に上の歯)がじっとしていても痛いくらいになり、ご飯も噛めない状況に。鎮痛剤を飲んで何とか痛みを散らしたうえで歯医者に行きました。先生に状況を説明したところ、「左の歯を抜くのは待って、まず右の歯を治しましょう。」となりました。右の歯を削って噛みあわせを軽くしてもらって、鎮痛剤を処方してもらって帰ってきました。 右の歯は急に痛くなったわけではなく、メンテの直後に痛み出したので、メンテの傷口から雑菌が入って化膿したのかもしれません。家内もそんな経験があると言っていました。メンテは必要だと思いますが、そういうデメリットもあるのかもしれません。 左で噛んでも、右の歯が噛みあうと痛いので、しばらく不自由な生活になりそうです。 録画してあった映画「狂った果実」を、細切れですが見ました。BS日テレが、開局20年特別企画で、石原裕次郎出演の映画5作を連𡑮放映したうちの一つです。 他の4作は「太陽の季節」、「嵐を呼ぶ男」、「銀座の恋の物語」、「夜霧よ今夜も有難う」。「太陽の季節」は先日投稿しました。狂った果実監督 中平康脚本 石原慎太郎原作 石原慎太郎出演者 石原裕次郎 北原三枝 津川雅彦音楽 佐藤勝 武満徹撮影 峰重義編集 辻井正則製作・配給 日活公開 1956年7月12日上映時間 87分言語 日本語「太陽の季節」の姉妹編で、同様に上流階級をの若者を描いた作品。これもモノクロ映画です。まだモノクロ映画が主流の時代でした。 原作者の石原慎太郎に日活から「映画化したい」という話があり、弟・裕次郎の主演を条件に承諾したとのこと。日活側は裕次郎を弟の春次役に起用し、兄の夏久には三國連太郎を起用しようとしたらしいですが、「役回りが年齢的に自分に合わない」という理由で三國が辞退したため、慎太郎が津川雅彦を抜擢し、裕次郎は夏久役に回ったというわけです。津川の芸名は、この作品に出演した時に慎太郎が自らの小説『太陽の季節』のメインキャラクター「津川竜哉」から命名したといわれています。 石原裕次郎は「太陽の季節」にも出演していますが、端役だったので、この映画が実質的なデビュー作品といえるでしょう。後に結婚に至る北原三枝(=石原まき子)との初共演作品でもあります。北原三枝は90歳超でご存命です。 現代音楽作曲家、武満徹が初めて映画音楽を担当した映画でもあります。 それにしても、この頃の若い役者さんは、台詞がたどたどしいですね。早口で聞き取りにくいし。映画全盛の時代で、カッコよかったら売れた。そんな古き良き時代ですね。そして遠回しな男と女の触れ合い表現が、却ってエロチックさを増強しているような気もします。ストーリーはスリリングで、カメラまわしも面白くて、飽きることはありませんでした。予告編よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/02/05
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【2021年12月21日(火)】 来年1月から北野天満宮の宝物殿での案内を担当します。今日の午前中、その事前打ち合わせがあり出席しました。ここの担当は初めてです。 北野天満宮では、1月1日~6月26日にかけて宝物殿で、北野天満宮梅苑「花の庭」再興記念「雪月花と宝刀の煌き」が、3期に分かれて開催されます。 第1期 1月1日~1月10日 第2期 1月28日~4月3日 第3期 4月9日~6月26日私はこのうちの第1期と第2期を担当します。監視、ご質問への対応、受付、授与品販売を担当します。 有名な「髭切」など多くの刀剣、豊臣秀頼奉納の絵馬、竹内栖鳳の「紅白梅図」などが展示されます。今日は学芸員さんから、色々お話を聞きくことができました。各展示のキャプションは、これから準備されるそうなので、詳しく頭に叩きこむのは、勤務が始まってからになりますが、それまでに、基本的なことは憶えなければなりません。初日が1月2日です。 終わってから、会の先輩のTさんが、北野天満宮のレアなスポットを北から南までぐるっと案内してくださいました。色々新しく知ることがあり、おもしろかったです。 年末年始のこと、お酒を買ったくらいで、あと何もできていません。今年も慌ただしい年末になりそうです。三輪純子画伯の寅の絵馬よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/12/21
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【2022年1月2日(日)】 北野天満宮宝物殿の担当初日でした。 余裕をもって朝家を出て、西大路丸太町から北野天満宮まで歩きました。今出川通まで出ると、8時前でしたが、初詣の車が駐車場に入るのに道路にあふれて列を作っていました。今年は、オミクロンが不気味とはいえ、人出は去年のお正月よりかなり多いようです。本殿でのお参りは、待たずにできましたが、授与所には長蛇の列ができていました。朝の本殿前花手水 宝物殿の今回の特別展は「梅苑『花の庭』再興記念 雪月花と宝刀の煌き」と題して、1月1日~6月26日まで行われ、私はそのうち1月1日~10日の第一期と、1月28日~4月3日の第二期を担当します。月5日くらいの担当のペースです。 初めての担当で、今日は、経験のある方とチームを組んでの担当でした。初詣の人出は多かったですが、宝物殿に入られる方はそう多くないので、慣れないなかでの作業でしたが、無事終えることができました。室内とはいえ、換気のために窓を開けていることもあって寒い環境下での勤めです。ヒーター付きのベストを着ていったのは正解でしたが、足が冷たかったです。やはり足にはカイロが必要なようです。本殿東側 正月三箇日は門前菓子の「長五郎餅」を境内の臨時販売所で売っているので、帰るに自宅土産として買い求めました。長五郎餅の臨時店舗帰りに本殿に寄ってみると、参拝のための長蛇の列ができていました。夕刻の本殿前には長蛇の列よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2022/01/02
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娘夫婦が我々2人を以前から、昨日、今日の予定で旅行に誘ってくれていました。その後、私に癌が見つかったのですが、幸い治療が始まる直前で、身体も元気なので、お言葉に甘えて連れていってもらうことにしました。娘夫婦と孫、我々2人の5人での旅行でした。車の運転は全部、娘の旦那がしてくれて、我々はシートに座っているだけで楽ちんの旅行でした。1日目の行き先は志摩スペイン村。スペイン村はこれで3回目かな。風が強い日で、最大の呼び物ピレネーなどが運休していたのは残念でした。ただ、ピレネーは65歳以上は、年齢制限でどうせ乗車できないので、我々2人には関係なかったけど。小さな子の年齢・身長制限は前からあったけど、高齢者の制限は前はなかったと思う。昔は若かったので、気が付かなかっただけかもしれないけど。でも、年齢制限のないアトラクションにいくつか乗って1日楽しみました。泊りは相差(おうさつ)という町。ホテルの名前は忘れました。お風呂に入って、海の幸をたっぷり楽しんで、お酒もいただいて、楽しいひとときでした。今日の朝ご飯も最高でした。朝ごはんの後、皆は近くの石神さん(神明神社)に行ったのですが、私はちょっと疲れもあって、入院も控えているのでホテルで休んでいました。相差は海女文化で有名なところで、石神さんは海女を守ってくださる神社だとのこと。妻が病気平癒のため、お守りを買ってきてくれました。ご朱印もいただいてきました。 宿を出て伊勢神宮の内宮にお参りし、「おかげ横丁」で食べ歩きして楽しみました。治療開始、入院前の楽しいひとときでした。ひょっとしたら、もうこういう機会は持てないかもしれません。娘夫妻、孫に、ただただ感謝です。
2026/01/12
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以前の記事にも書きましたが、首から下のシャワーは白内障手術翌日(4月3日)から可能、入浴(首から下)と上を向いての洗髪は、4月5日から可能洗面・下を向いての洗髪は、4月9日から可能との医者からの指導です。上を向いての洗髪はなかなか難しいし、どうせ抗がん剤治療の副作用で、頭髪がほんどないのでスルーしました。そして今日は4月11日、シャワーを浴びるときに、洗面・下を向いての洗髪をしました。ただ、手術をした左目の上瞼は、優しくさわるよう気をつけました。9日ぶりの洗髪・洗顔となりました。←前回「白内障手術」 次回「白内障手術」→
2026/04/11
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私の手指の爪に写真のような横筋が入っている。右手も左手も、ほとんどの指の同じような場所に入っている。よく見ると、位置はもっと根元寄りだが、足の指にも入っている。手の指の方は根元から約5mmの位置である。恐らく抗がん剤治療の影響と思う。抗がん剤治療中は副作用で脱毛した。髭もほとんど生えなくなり、髭剃りの必要がなくなった。気がつきにくいが、手や足の爪の伸びるのも極端に遅くなる。爪切りの頻度が極端に下がった。爪は根元から伸びる。抗がん剤治療が終わって、再び爪が伸び出し、抗がん剤治療中の伸びが緩やかだったときの部分が筋となって押し上げられたのであろう。私の今回の抗がん剤治療で抗がん剤の点滴をしたのは次のようなスケジュールだ。第1クール 1月14日~1月18日第2クール 2月4日~2月8日第3クール 2月25日~3月1日第4クール 3月24日~3月28日第5クール 4月15日~4月19日第6クール 6月17日~6月21日3週間サイクルが基本だが、第4クールが4週間後になっているのは、インフルに罹って遅らせたため。第6クールが約2ヵ月のインターバルになっているのは、第5クールで白血球などが極端に減り、2週間ほどリカバリーのための入院をしたのと、他の病院を紹介してもらって診てもらった期間があったため。固まって行ったのは、第1クールから第5クールということになる。第5クールの抗がん剤が終わったのが4月19日だから、今日時点で3ヵ月だ。ネットで調べてみると、手の爪は、1日に約0.1mm伸びるそうである。計算上は約3mmということになるが、伸びるスピードは個人差もあるそうなので、根元から5mmは当たらずとも遠からず。やはり抗がん剤治療の痕跡といえよう。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/07/18
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【2020年11月1日(日)】 昨夕散歩のとき見た満月は天気もよくキレイでした。ブルームーンというそうでうすね。ブルームーンは天文用語ではなく、はっきりとした定義はなく、一般的には月に2度満月があったときの2度目をブルームーンと呼んでいるようです。 ブルームーンの由来は諸説あるようです。1946年にアメリカの天文雑誌「スカイ&テレスコープ」で「ひと月に満月が2度あった場合、2度目の満月はブルームーンと呼ばれる」と解説をしたことがきっかけだとされています。でも、もともとは、アメリカ・メイン州の農家年鑑に掲載されていた、満月の別の呼び方の一つだったとのこと。昨日の満月も特に青く見えたわけではありませんでした。 昨日の満月は2020年で最も地球から遠い満月だそうで、「マイクロムーン」とも呼ばれるそうです。2020年、地球に最も近い満月だった4月8日と比べると、直径は約14%小さく見え、明るさは約30%も暗いそうです。これは月が地球を回る軌道が楕円形をしているためですが、ここまで差があるとは知りませんでした。 さてロマンティックなお話のあとに、少々尾籠なお話しで恐縮です。以前、私の血圧と気温に相関関係が見られたことを投稿しました。⇒こちら もう一つ私が健康上の記録としてとっているもので、気温と関係がありそうなのが、「お通じ率」です。抗がん剤治療で入院したとき、便秘が激しく、便秘薬を処方してもらったりしたので、「お通じ」があったかどうか記録するようになり、それほど大変ではないので、今も記録を続けています。どうも冬場になると、「お通じ」が思わしくなくなることが多いような気がしたので、ネットで調べたみました。 やはり冬になると、便秘が増えるというのは、どのサイトも共通の認識でした。あるサイトは冬に便秘が増えることの原因として、次の3点をあげていました。・身体が冷える 寒くて身体が冷えたままだと血管が収縮してしまう。 血の巡りが悪くなることで、腸のぜん動運動も鈍くなり、便秘に陥りやすい。・水分が足りない 冬は汗をあまりかかないため、水分が失われる感覚は薄れ、水分補給が少なくなる。 加えて、寒さでトイレが近くなったり、空気が乾燥していて体内の水分が飛んでまう。 すると腸の水分も減ってしまい、便が固まってしまう。・腸が活動を始めてくれない 冬は寒くてなかなか布団から出られない。朝ごはんを食べる時間を削る人も多い。 眠っている間に休んでいた胃腸は、朝食を食べることで動き出す。 朝食を抜いてしまうと、腸が動かないまま時間が過ぎ、便意を感じにくくなる。 私の場合は、3番目はないですが、1番目と2番目はありかなという感じです。 果たしてどうでしょうか。月平均気温と月平均「お通じ」有り率の相関を調べてみました。 やはり相関はありそうです。夏場はお通じがない日が、月に1~2日しかないのに、冬場は4~5日に増えます。この差は大きいですよね。冬に身体をできるだけ暖かくすること、意識して水を多く飲むことを心掛けねばと思いますが、水を多く飲むのは、ただでさえトイレが近いので躊躇してしまいそうです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/11/01
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【2021年1月3日(日)】 だいぶ前ですが、去年11月11日の読売新聞の全面広告に、大阪重粒子センター(公益財団法人 大阪国際がん治療財団)の全面広告が掲載されていました。 私は片方の腎臓しかない状態で、残った腎臓の後ろに後腹膜悪性腫瘍を発病しました。半年の抗がん剤治療で、病巣は劇的に小さくなったものの完治には至らず、主治医からは透析ができるようにしたうえで、残った腎臓ごと切除することを勧められました。しかし、セカンドオピニオンで重粒子線治療を知り、この治療をすることで、残った腎臓を温存したまま、がんも完治といえる状態に導くことができました。 当時(2015年)は、関西で重粒子線治療ができるところは、兵庫県たつの市にある、兵庫県粒子線治療センターしかなく、そこに1ヵ月半ほど入院しての治療でした。その後、大阪にも重粒子線治療の施設ができたとの新聞記事が掲載されました。それがこの大阪重粒子線センターです。住所:大阪市中央区大手前3-1-10(最寄駅は地下鉄谷町線「谷町四丁目」)電話:06-6947-3210ホームページ:https://www.osaka-himak.or.jp/ 私が治療をした頃は、すべてのがん種が保険適用ではなく全額自己負担が必要でした。ただし、先進医療に指定されていて、民間医療保険の先進医療特約に入っていれば、保険金が出ました。幸い私の入っていた保険には先進医療がデフォルトで入っていたので、全額ではないですが、半額は保険金が出ました。全額負担なら約300万円負担でしたが、その約半額の負担で済みました。それでも高額でした(もちろん全額保険金が出る契約もあります)。 しかし、その後、治療の効果が認められたことで、保険適用になるがんが増え、現在では、前立腺がん、頭蓋底腫瘍、頭頸部がん、骨軟部腫瘍が保険適用になっています。私の罹った後腹膜悪性腫瘍は骨軟部腫瘍ですから、今なら保険適用になるはずです(ただし「切除非適応」の場合だけで、私の場合は腎臓が無くなって透析になるけれども切除ができないわけではなかったので、今でも保険適用になるかどうかは疑問です)。そして高額療養制度を使えば、10万円前後の自己負担で済むことになります。ここまで保険適用のがん種が増えたことは大きな進歩です。とはいうものの、まだ保険適用になっておらず「先進医療」の範疇のがん種も多いので、民間医療保険の「先進医療特約」は入っておくことがお勧めです。テレビでもよく宣伝していますが、保険料はそれほど高くなりません。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/01/03
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【2021年7月21日(水)】 一昨日19日は、午後少しだけ事務所に出頭。ここ1週間、37度以下ですが、微熱が続いているので、昨日20日は月イチの高血圧・高尿酸の薬をもらうついでに、掛かり付け医に相談。「症状からコロナではありません。37度の熱なんか微熱にも入らない。軽い熱中症では?」とのことでした。7年前のちょうど今頃、風邪の症状がなく、微熱が続いた(そのときは37.5度前後)ことがあり、結局「がん」による熱だったので、ちょっと心配です。もう少し様子をみます。大事をとって三味線レッスンも休みました。「若冲と応挙」の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-2 若年期の応挙 十代前半で京都に上ったた応挙ですが、明治期の日本画家久保田米僊(べいせん)によると、最初、四条新町の岩城という呉服店に奉公し、その後、四条富小路西入町の尾張屋勘兵衛という店に仕えます。この尾張屋は有名な店だったようで、延享2(1745)年刊行の京の案内書(今でいう観光ガイドブックのようなもの)「京羽二重大全(きょうはぶたえたいぜん)」に「びいどろ道具」の店として掲載されています。尾張屋は人形や玩具も扱っており、このことが応挙に色々な意味で大きな影響を与えることになります。尾張屋には30歳を過ぎる頃まで勤めたと考えられています。 応挙は尾張屋時代と呼ばれるこの時期に、石田幽汀(ゆうてい)という京の町絵師に絵を学んだといわれています。幽汀は狩野派の流れを汲む鶴沢派の画家です。応挙が本格的な絵を描き始めたのがいつかは明確ではありませんが、前述の資料には、応挙筆の「雪景山水図」があり、そこには寛延2(1749)年の年記があったこと書かれており、17歳の頃には本格的に絵を描くようになり、この頃、幽汀から絵を学んでいたと考えられています。ただ、画家になろうと思って幽汀に学んだとはいいきれないという見方もあります、玩具などを扱う尾張屋での仕事では、絵筆の使い方や絵の具や画材の知識が必要なので、必要に迫られて絵を学んだという見方です。 さきほど尾張屋で扱う商品が色々な意味で応挙に大きな影響を与えたと書きましたが、その1つが「眼鏡絵」です。尾張屋の看板商品である「びいどろ道具」の中に「のぞき眼鏡」がありました。これはヨーロッパ発祥の玩具で、レンズの付いた覗き穴を通して、箱の中に入った風景画を拡大して見るものです。風景に奥行きのある写真を片目だけで見つめていると、何となく立体感が出てきます。「のぞき眼鏡」では、視野全体にその風景が拡がることになり、さらに立体的に見えます。そして、あたかもその世界に入り込んだような感覚に陥ることになります。当時の日本の人々にとっては異次元の体験で、非常に人気が出たのもうなずけます。「のぞき眼鏡」の中に入れる絵を「眼鏡絵」と呼んでいました。 最初は舶来の外国の風景を描いた絵を見て楽しんでいましたが、当然の流れとして、日本の風景の絵が求められるようになります。舶来の絵には、遠近法が使われていました。今では当たり前の技法ですが、当時としてはほとんどの日本人が初めて目にする技法でした。日本の風景の「眼鏡絵」を描くためには、この遠近法をマスターしなければなりませんでした。それからレンズで拡大しても臨場感が損なわれないようにするため、写実的であること、細密であることが求められました。尾張屋はこの「のぞき眼鏡」と「眼鏡絵」を販売し、そこに勤めていた応挙は「眼鏡絵」を描くことになったわけです。この「眼鏡絵」制作に携わることで、応挙は合理的な遠近表現を獲得し、かつ臨場感を絵に持たせるすべを体得していったのではないかと考えられます。 図1に「のぞき眼鏡」と「眼鏡絵」を示します。図2に応挙筆と思われる(玩具の位置づけなので落款はない)「眼鏡絵」をいくつか示します。図3の従来の寺社の描き方と比べてみてください。いかに西洋の遠近法がそれまでの表現方法と比べて異次元のものであったかが分かります。図1 覗き眼鏡と眼鏡絵 図2 応挙筆 眼鏡絵 応挙筆「三十三間堂通し矢図」 上:賀茂競馬図 下:円山座敷 図3 「神社仏閣京都一覧」(『都名所手引案内』京都府立総合資料館蔵)(当時の普通の立体表現) 応挙が尾張屋時代に描いた絵をいくつか紹介します。応挙が「応挙」の雅号を名乗ったのは34歳以降で、それまでは別の雅号を使っていました。そして、この時代は水墨画作品が主になっています。図4に「魚籃(ぎょらん)観音図」を示します。現在、存在が知られている作品の中では20代前半と、最も早い時期に描かれた作品の1つです。魚籃観音は中世から水墨画に多く描かれてきた画題ですが、応挙のこの絵は、若年ながら根を詰めて描いたのでなく、さらりと描いたようにみえ、それがかえって応挙の天才ぶりを示しているようにも思います。ここには、「円一蕭(えんいっしょう)」という署名をしています。図4 「魚籃観音図」 京都国立博物館蔵 図5に同じく「円一蕭」の署名のあるやはり20代前半の作品「白鷹図」を示します。江戸時代の画家は中世の水墨画の流れを汲む狩野派の技術を学ぶことが多く、応挙も前述のように石田幽汀に学ぶなどしました。ただ、この絵では、鷹の画題は狩野派風ですが、中間調を加えて立体感を表わすなど狩野派にはない表現を試み、背後の空間を単なる余白にせずに滲ませて深みをつけるなど応挙独自のチャレンジ精神があふれています。図5 「白鷹図」京都・大雲院 図6に「円夏雲」の署名がある20代後半の作品「水草に鷺図」を示します。伝統的な狩野派の図様や水墨表現の持ち味を生かした作品ですが、筆づかいはとても自由で、遊び心もみてとれて、狩野派とは一味違った作品に仕上がっています。鷺の部分は、輪郭は書かず、周囲に薄い墨を塗る「外隈」(若冲の動植綵絵でも説明しました)の技法で白さを表現しています。賛は丹波国亀山家老 松平敏によります。応挙の出身の縁でしょうか。 図7にやはり「円夏雲」の署名のある20代後半の作品、「猛虎図」を示します。虎は応挙が後の時代にも好んで描いた画題の一つです。この虎は狩野派にもない非常な繊細さで描かれていますが、岩は逆に狩野派にもない大胆さで描かれています。図6 「水草に鷺図」 京都国立博物館蔵 図7 「猛虎図」個人蔵 この4作品を観るだけでも、応挙が若いときからいかに、画題、画風、画技が多才であったかが分かります。本稿に貼り付けた絵では分かりにくいと思いますので、美術書などでご覧ください。なお、応挙は若い時代「円一蕭」、「円夏雲」以外に、「円山主水(もんど)」という署名も用い、33歳の頃には「仙嶺(せんれい)」を短期間だけ用いました。 次回の円満院時代に続きます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/21
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東海道歩きの5日目です。今日も2人旅です。感謝。JR線草津線は、三雲から、旧東海道を離れ、南東の拓植(つげ)に向かいます。鉄道の乗り換えでは帰路が成り立たず、終着予定の土山からはバスで貴生川まで行き、そこでJRに乗り換える必要があります。バスの本数は多くないので、バスダイヤを調べたうえで出かけました。雨や雪は降らなかったけれど、風が強く、寒い天気でした。ルート概略 水口~土山 9:20~16:00(6時間40分)15km 26,700歩JR貴生川駅で近江鉄道に乗り換え、水口石橋駅へ近江鉄道内 内装貴生川から2駅で、水口石橋駅着 前回の帰り道はPITAPAが使えなかったのですが、使えるようになっていました・安藤広重 水口宿名物の干瓢を栽培してそれを干して食べられるように加工している様子が描きこまれています。近江鉄道駅の駅名の由来になった「石橋」石橋 駒札街道は三筋に分かれますが、真ん中の道を行きました。三筋に分かれた道は、先の方で合流します。水口の町並み曳山の模型問屋場跡水口の町並み高札場跡高札場跡 駒札旧水口宿脇本陣水口は今は甲賀市に属しますが、2004年10月1日に土山町、甲賀町、甲南町、信楽町との新設合併までは甲賀郡水口町でした。マンホールもその水口のときのデザインです。町の花「サツキ」と、水口曳山祭の「曳山の車輪」がデザインされています。水口宿 東見附(江戸)跡東見付跡冠門のモニュメントがある。天和2年(1682)、水口が水口藩の城下町になると枡形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれた。東海道の松並木かつては松並木があった。八幡神社 祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと) 本殿は一間社流造り。今郷の一里塚。日本橋より112里目。復元されたもの。一里塚説明板甲賀市土山に入ります、」山燈籠。東海道今宿碑石仏甲賀市土山町のマンホール旧甲賀郡土山町町時代のものです。町の木「スギ」と町の鳥「キジ」、町の花「茶」が描かれています。旅籠 東屋跡三好赤甫旧跡句碑「ほととぎす 早苗にかげを 残し行く」京に上り東福寺の虚白に俳諧を学び、幕末から明治にかけて活躍し、この地方の俳諧の基礎を築いた。旅籠 田畑屋跡明治天皇聖跡碑間の宿(あいのしゅく)大野防火水槽大野の旅籠跡など昼食は Hygee Cafe & Garden という街道沿いの小洒落たCafeでパスタをいただきました。花枝神社鳥居創祀は嘉祥3年(1699)、坂本日吉本社八王子社を分霊し、勧請したもの。東海道反畷碑従是淀領碑淀藩領界石。淀藩の飛び地があった。大野の旧東海道の松並木(一部しか残っていない)東海道反野畷碑大日川堀割跡大日川は野洲川の支流で、大雨が降ると氾濫し市場村や大野村は大きな被害を被った。そこで大野村は市場村との境に堤を築いたが、今度は市場村が被害を受けました。そこで元禄12年(1696)領主堀田筑前守に願い出て、総延長504間(約907m)掘割を築きました。市場の一里塚跡 日本橋より111里目諏訪神社天文11年(1542)甲賀三郎兼家が関東から故郷に帰る途次、信濃國諏訪大社より分霊したもの垂水頓宮御殿跡碑垂仁天皇の皇女倭姫命は天照大神の御神体を奉じて鎮座地を巡行し、その際、この地に御殿が造営された。地安禅寺 浄土宗 山門は鐘楼門。境内の御影堂には後水尾上皇の御位牌が安置されている。瀧樹(たぎ)神社 鳥居瀧樹神社由来土山は茶の産地街道沿いの家並大黒天が庇先に祀られている家が多い。京都なら鍾馗さん。本来の街道は、ここで左に折れ、北上し、松尾川の渡し(秋から冬は木橋か土橋。春から夏は徒歩か舟渡し)を渡るが、この松尾川(野洲川は当時は松尾川と称した)の渡しには、今は橋がかかっていないので、このまま真っすぐ進む。国史跡 垂水斎王頓宮跡天皇が即位すると名代として伊勢神宮に派遣される皇女を斎王といい、斎王が宿泊する仮の宮を頓宮といった。京から伊勢からまで、5迫6日の日程で、近江國では、勢多、甲賀、垂水、伊勢國では、鈴鹿、一志に宿泊した。実際の場所は、かなり北に行き、国道1号線を渡った先にある。歌声橋野洲川国道1号線に合流し、少し東に歩いたところから、土山宿に入っていく。万人常夜燈がある。土山宿の家並土山宿陣屋跡代官屋敷跡、寛政12年(1800)、土山宿の大火災で類焼し、以降、陣屋は信楽に移った。高札場跡大黒屋本陣跡土山宿の豪商、大黒屋立岡家が控本陣を務めた。明治天皇聖蹟高桑 闌更(たかくわ らんこう)歌碑前田製茶土山宿の家並土山宿絵地図土山宿本陣跡土山宿本陣は寛永11年(1634)、家光の上洛に際して建てられたもの。明治天皇はここで東行中17歳の誕生日を迎えた。住民には酒肴が振舞われた。問屋場跡、成道学校跡中町の問屋場堤家本陣跡平野屋跡森鴎外が白仙墓参の際に宿泊した旅籠井筒屋跡森鴎外の祖父、白仙は文久元年(1861)、参勤交代に随行し、ここで没した。土山宿 旅籠柏屋跡、旅籠 大工屋跡、旅籠 釣瓶屋跡白川神社本殿は文久3年(1863)の造営。本殿前には「願かけ神石」がある。この神石を撫でると、願い事が叶うと伝わっている。来見橋橋には「土山茶もみ唄」のパネルがはめ込まれている。土山宿の家並上島鬼貫(おにつら)歌碑「吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風」鬼貫は伊丹生まれの俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫ともいわれた。お六櫛お六櫛は土山の名産であった。中山道の奈良井宿を祖とし、薮原宿の名産となり、ここ土山宿にも伝わり、宿内には十数件の櫛屋があった。餅の駅「あいの土山」バスの時間まで、お土産を買おうと思ったが、残念なががら定休日であった。20分ほど待ってバスに乗って、JR貴生川駅へJR貴生川駅今日もよく歩きました。←前回「旧東海道」 次回「旧東海道」→
2026/03/10
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京都市の鉄道史~その12~11.ローカル私営鉄道1)京都電燈株式会社・・・京福電鉄と叡山電車の原点は電力会社 明治20年、京都電燈会社が設立され、明治26年に京都電燈株式会社(以下、京都電燈)に改称された。京都電燈は、関西から北陸をテリトリーとし、明治24年稼働の日本初の一般供給用水力発電所である蹴上発電所からの電力を背景として、電灯の本格普及、京都市の産業振興に大きく貢献し、日本初の事業用電車である京電を明治28年に走らせる原動力ともなった。その後、九頭竜川に水力発電所を作り、大正3年に越前線(新福井/大野口間)を開通させた(図1)。 当時は、夜間は照明用に需要があっても、昼間は需要が少なく、昼間の余剰電力活用のため、電力会社が鉄道経営をすることも珍しくなかった。 この動きと並行して、明治40年8月に神戸川崎財閥により、嵐山電車軌道が設立され、明治43年3月には、嵐山駅/京都駅(現・四条大宮駅)が開通した。これを大正7年4月に京都電燈が合弁し、嵐山電鉄部の下に置いた(図2)。 さらに京都電燈は大正14年9月に、叡山電気鉄道部平坦線(出町柳駅/八瀬駅間)(図3)、同年11月、嵐山電鉄部北野支線(北野駅/高雄口駅[現・宇多野駅])間)(図5)、同年12月に叡山電気鉄道部鋼索線(ケーブルカー)(西塔橋[現・ケーブル八瀬]/四明ヶ嶽[現・ケーブル比叡]間)の営業を開始した(図4)。大正15年3月には、北野支線高雄口駅/帷子ノ辻駅間が開通し、嵐山本線と結ばれた(図5)。 京都電燈は、昭和2年12月に京阪電気鉄道との合弁会社として鞍馬電気鉄道を設立し、昭和3年12月に山端駅 (現・宝ヶ池駅)/市原駅間を開業させ、昭和4年12月市原駅 /鞍馬間駅を開業し全通させた(現・叡山電鉄鞍馬線)(図6)。また、昭和3年10月に、比叡山に架空索道線「叡山空中ケーブル」(高祖谷[こうそだに])駅/延暦寺駅間)を開通させた(図7)。 福井では吉崎電気鉄道(大正12年設立)の経営に、大正14年頃から参加し、昭和2年に三国芦原電鉄に社名を改め、昭和3年12月に福井口駅 /芦原駅(現・あわら湯のまち駅)間を開業し、翌年1月、三国町駅(のちの電車三国駅、現・三国駅)まで延伸した(図8)。 時代が経過し、戦時の配電統制令により、昭和16年に、発送電部門と配電部門の譲渡命令が出された。鉄道事業などの陸上輸送部門は、昭和17年3月に設立された京福電気鉄道に譲渡、配電部門は関西配電(関西で電気供給事業を営む大阪市・神戸市・京都市の3市を含む合計14事業者が統合されてできた会社。関西電力の前身)と北陸配電(北陸電力の前身)に譲渡され、発送電部門は日本発送電(株)に譲渡された。京都電燈は清算に入り、昭和19年に清算が完了した。 JR京都駅前に関西電力京都支社の建物があるが(図9)、元は京都電燈の本社だった建物である。武田吾一が設計し、昭和12年に竣工した。戦後は米軍のEighth Army Recreation Center や貿易庁のホテルラクヨウ(朝鮮戦争の帰休兵専用のホテル)などとして使用された。 2)京福電気鉄道・・・「福」は福井の「福」だったのだが 京都電燈から鉄道事業を引き継いだ京福電気鉄道(以下、京福電鉄)に、昭和17年8月、京都では鞍馬電気鉄道、福井では三国芦原電鉄が合流し、それぞれ鞍馬線(図10)、三国芦原線となった(図11)。昭和19年1月には叡山空中ケーブルを廃止した。さらに福井では、昭和19年12月、永平寺鉄道(大正13年設立)(金津[かなづ])駅/永平寺駅間)、丸岡鉄道(大正2年設立)(本丸岡駅/長田町駅間)を合弁し、それぞれ永平寺線、丸岡線とした(図11)。昭和25年頃には京都と福井で合わせて120.9 kmもの路線網を擁することになった。 昭和31年7月には、架空軌道線を復活させ、「比叡山ロープウェイ」(ロープ比叡駅/比叡山山頂駅間)を開通させた。昭和34年4月に比叡山頂遊園、昭和39年10月、八瀬遊園(平成13年11月閉園)、昭和39年12月、比叡山人口スキー場(平成14年9月廃業)と集客のための施設を開業していった。 一方で、1960年代から1970年代にかけて、福井地域の不採算路線・区間の廃止が行われた(図12)。・昭和43年11月、丸岡線(本丸岡/西 長田間)廃止・昭和44年9月、永平寺線の一部(金 津/東古市[旧・永平寺口]間)廃止・昭和49年8月、越前本線の一部(勝山/ 京福京福大野[旧・大野三番]間)廃止 また、昭和35年頃、京阪電鉄は、近畿日本鉄道との間で奈良電気鉄道をめぐって株式の争奪戦となっていたが、京阪は自社の持つ奈良電気鉄道の株式を近畿日本鉄道に譲渡し、代わりに近畿日本鉄道は自社の持つ京福電鉄株を京阪に売却することになり、昭和37年7月、京福電鉄は京阪グループ入りした。令和7年3月31日時点で、京阪ホールディングスが43.17%の株式を保有する親会社となっている。 昭和60年7月、叡山本線・鞍馬線の経営状況悪化により、叡山電鉄を全額出資子会社として設立し、昭和61年4月、叡山本線・鞍馬線を叡山電鉄として分離した。分離独立で経営再建を図ったのである。 このような経営努力のなか、平成12年から平成13年にかけて、越前本線で半年の間に2件の列車衝突事故を起こしてしまう(死傷者計、55名)。国土交通省中部運輸局から福井地区各線の列車運行停止を命ぜられた。京福電鉄は事業継続が困難になったとして、永平寺線の残存区間(東古市[旧・永平寺口]/永平寺間)を平成14年10月に廃止後、平成15年2月に福井地区の鉄道事業(越前本線・三国芦原線)を廃止して撤退、えちぜん鉄道(第3セクター会社)へ事業譲渡した。 最盛期には120 kmを超えた営業路線は約13 kmとなった。以降、京福電気鉄道は、鉄道事業については、嵐電を中心とした事業に集中することになるが、平成20年1月の京都市営地下鉄の太秦天神川延伸開業により地下鉄と接続することにより旅客数が増え、さらに近年はインバウンド旅行客の増加もあり、堅実な経営がなされている。なお、叡山ケーブルの高低差561mはケーブルカーでは日本最大を誇る。 図13~図16に、現在の京福電鉄の路線、及び、かつては京福電鉄の路線だったが、現在は他社によって運行されている路線を現在の所有会社名とともに示す。 ここで、比叡山のロープウェイについて触れておこう。前述のように、京都電燈は昭和3年10月に、「叡山空中ケーブル」を開通させた。それを引き継いだ京福電鉄は、昭和19年1月に叡山空中ケーブルを一旦廃止した。しかし、戦後しばらくして、昭和31年7月に、架空軌道線を復活させ、「比叡山ロープウェイ」を開通させた。しかし、同じ場所に復活させた訳でなく、図17(次ページ)に示す昭和3年開通(初代)の「叡山空中ケーブル」は高祖谷(こうそだに)駅/延暦寺駅間、昭和31年開通(第二代)の「比叡山ロープウェイ」はロープ比叡駅/比叡山山頂駅間とルートが全く異なっていた。初代はその駅名が示すように、延暦寺参拝を主目的としたもので、高祖谷駅は、ケーブル駅から約500メートル離れており、しかも山道であり、図18に示すように、籠も利用された。 第二代は、ロープウェイ駅をケーブル駅の近くに造り、比叡山頂と結んだ。昭和34年に比叡山頂遊園を開園する予定があり、昭和33年には比叡山ドライブウェイが開通し、比叡山頂駅から延暦寺へのアクセスも可能になることを見込んでのルートにしたものと思われる。初代の高祖谷駅は、図19のように今も廃墟として残っている。3)叡山電鉄 前述した昭和60年7月の叡山電鉄の京福電鉄からの分離独立の理由は経営状況の悪化であるが、この経営状況の悪化は、昭和53年10月の京都市電の全廃がもたらしたといわれている。沿線から市中心部に直結する路線バスに客が流れ、叡山電鉄の利用客が一気に減少した。これを救ったのが、平成元年10月の京阪電車鴨東線(三条/出町柳間)の開業であった。出町柳での電車での連絡が可能となり旅客数が倍増した。しかし、累積損失の解消をするまでには至らず、京福電鉄傘下での再建は不可能と判断され、京阪からの特別融資を低利で受けることなどを目的に、平成3年10月に株式の60%を京阪に売却、その後、平成14年3月に京阪電車が残りの全株式を取得し、叡山電鉄は京阪の100%子会社になった。4)鞍馬寺鞍馬山鋼索軌道 鞍馬寺の参詣者の利便を図るために、宗教法人鞍馬寺が運行するケーブルカーである。山門駅/多宝塔駅を結ぶ。昭和32年1月開業。鉄道事業法による許可を受けた鉄道としては、唯一宗教法人が運営している鉄道である。また総延長は0.2kmで、鉄道事業法に基づく路線では、日本一短い路線である。車両は1台のみで、歴代「牛若號」を名乗る。現車両は4代目。 鉄道事業法による許可を受けた鉄道としては、現在唯一の運賃無料の鉄道といわれているが、実際には諸堂維持のための寄付金(200円)が必要である。乗車券は「寄進票」と呼んでいる。また、乗車することが宗教活動と見なされるため、「寄進票」は非課税扱いである。山門駅は「普明殿」という数あるお堂の一つで、内陣には「鞍馬山尊天」や、毘沙門天尊像が安置されており、信仰上も重要な場所となっている。 ところでケーブルカーは単線で、上方駅と下方駅の中間点だけ複線になっていて、そこで上に向かう列車と下に向かう列車が停止せずにすれ違う方式が多い(鞍馬山鋼索軌道は列車1台のみなので異なるが)。すれ違い時に、瞬時にポイント切替をしないといけないはずだが、どのようにやっているのであろうか。 通常の列車の左右両車輪には内側にフランジがついており、これでレールから脱線せずに運行することができる(図21)。しかし、このフランジがあるので、分岐では線路を動かして、進むべきレールに誘導する必要がある。例えば、図22で手前から来た列車を右側の線路に進ませたい場合は、写真のままのレールの状態でよいが、直進させたい場合は、矢印の方向にレールを動かす必要がある。これをポイント切替という。ケーブルカーはこのポイント切替が不要なのである。実は、ケーブルカーの車輪は図23のように、外側の車輪の両側にフランジがあり、内側の車輪にはフランジがないのである。すれ違い部の線路は図24のようになっている。2台の列車はすれ違うとき、それぞれ決まった側を走ることになる。このような理由からポイント切り替えが不要なのである。素人考えだが、スピードも普通の電車ほど速くないし、ケーブルで引っ張られているので、このような構造の車輪でも問題なく運行できるのであろう。5)愛宕山(あたごさん)鉄道 愛宕山鉄道は京都市電同様、過去に廃止されてしまった鉄道である。京阪電気鉄道と京都電燈の共同出資会社(昭和2年8月設立)による敷設で、愛宕山の愛宕神社に向かう参詣路線として建設され、昭和4年4月に平坦線(通常の鉄道)、同年7月に鋼索線(ケーブルカー)が順次開業された(図25)。 また同社の手により、昭和4年、山麓に清滝遊園地が開園、園内にはテニスコート、ローラースケート場もあった。また同年、愛宕山には愛宕山遊園地が開園、直営ホテル、飛行塔、スキー場、テント村もあり賑わった(図26)。 昭和初めの世界恐慌で業績が下降し、その後、戦時中の軍需物資不足に伴いレールを軍に供出したため、昭和19年2月に鋼索線が、同年12月に平坦線が廃線となり前述の観光施設も閉鎖された。戦後、当時の親会社であった京阪神急行電鉄や京福電気鉄道に再建や合弁を申し入れたが、両社とも自社の戦後復興に手一杯で支援はできなかった。このため再建を断念し、昭和34年10月に会社を解散した。 平坦線の嵐山駅は京都電燈(現・京福電鉄)の嵐山駅に併設され、図27のように2線を使っていた。現在は使われていない北側(建物のある側)にもプラットフォームの屋根があるのは、その名残であろう。 平坦線の清滝トンネルは戦時下、三菱重工業の分工場として、航空機の部品工場となった。 供出されたレールなどは武器弾薬になることなく野積みされたまま終戦を迎え、鋼索線の機材は、傘松ケーブル(天橋立鋼索軌道)の復活(昭和26年8月)などに転用され、平坦線のレールは京都市電梅津線(昭和20年新設)に払い下げられたと伝わる。 平坦線は現在道路として残るが、清滝トンネル部分は単線であったため、信号による片側通行となっている(図28)。近年では心霊スポットとしても知られている。 図29は運行当時の鋼索線の写真である。清滝に鋼索線清滝川駅の跡が残っおり、往時を偲ぶことができる(図30)。 ←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→0
2026/06/23
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昨日、今後の予定を次のように書いた。7月8日(水) K病院泌尿器科(腎臓の診察) 腫瘍内科(採血による抗がん剤治療からの回復確認。2次薬物治療開始の相談) 私としては、2次薬物治療の開始は、7月9日のOJRセンター、7月13日のOKGセンター 外科での診察の後でいいと思っている) 両科には、OKGセンターの診察の結果や今後の予定、OJRセンターの診察予定を伝える。7月9日(木)OJRセンター初診7月13日(月) OKGセンター外科での2回目診察。7月14日以降できるだけ早い時点で、K病院での2次薬物療法開始か否かを決定 (2次薬物療法単独か、重粒子線治療との併用か、粒子線治療だけかも含め)書いた後、OKGセンター成形外科の担当医から電話がかかってきた。「重粒子線治療のためにネスキープ(スペーサーのようなもの)を十二指腸と腫瘍の間に入れられるかどうかが分からない。胃内視鏡で浸潤の具合をみたい。そのために7月16日に来ていただけますか?」特に予定はないのでOKした。これで、次のような日程になる。①7月8日(水) K病院泌尿器科(腎臓の診察) 腫瘍内科(採血による抗がん剤治療からの回復確認。2次薬物治療開始の相談) 両科には、OKGセンターの診察の結果や今後の予定、OJRセンターの診察予定を伝える。②7月9日(木)OJRセンター初診 MRI撮影後、重粒子線治療の可能性診察。全然可能性がないなら③、④はなし。③7月13日(月) OKGセンター外科での2回目診察。 OKGセンター内で打合せしていただいた結果の告知になるか?④7月16日(木) OKGセンターで胃内視鏡で十二指腸浸潤状況確認以降の日程は未定。というわけで、今日は、K病院に出向き、採血・採尿をして、まず泌尿器科へ。OKGセンター泌尿器科の先生から預かった返信封筒を渡したうえ、経過を説明し、いつものようにエコーで腎臓の腫れ具合を診てもらった。特に異常なし。定期検査のため、来月に予約を入れた。次に腫瘍内科の診察。今回の経過は既に泌尿器科でのインプットで見ることができるようになっていたが、私かからも経緯を説明。血液検査の結果は、白血球はかなり回復したが、ヘモグロビンや血小板の回復がまだまだ。先生は「時間とともに回復しますよ」とのことだが、若干心配。疲れやすいのは、ヘモグロビンが減っているから。心拍数が高めなのもそのせいだろう。あとはクレアチニンが上昇傾向なのも心配。これも時とともに回復してくれたらいいが。2次薬物療法を重粒子線治療の話と併行に進めるかという点に関しては、重粒子線治療の話がはっきりしてから決めるのがいいのではとのこと。私もそう思う。スペーサーを入れるとなったら、手術が必要。そのとき白血球や血小板が2次抗がん剤の影響で少なくなっていては手術でのリスクが高まる。まずは重粒子線治療をどうするか決めるということにした。血液の回復を診てもらう必要もあるのと、その後のOJRセンターやOKGセンターでの話の説明のために約2週間後に予約を入れてもらった。抗がん剤治療6クールの体重増減をまとめてみた。第6クールは第4クールと、ほぼ同様で体重増加のピークは4kg程度であった。第1、第2クールは8kgも体重が増え、「むくみ」に苦しめられたが、その後は、初期からの利尿剤投与や医療用着圧ソックス着用で、「むくみ」に苦しめられることはなっかた。同じグラフに10年くらい前のM病院での体重増加を載せているが体重増加は2kg程度と少ない。理由は2つ考えらる。M病院での治療後、重粒子線治療で腎機能が悪化していて今回のほうが体重増加しやすいというのが1つの理由。もう1つは、M病院は抗がん剤や輸液の投与が昼夜続いてゆっくりだったのに対し、K病院は、限られた時間で同じような量を投与する方法だったことが理由として考えられる。でも素人なので、どちらがどれくらい効いているかは分からない。明日は、いよいよOJRセンターでの診察である。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→よろしかったらぽちっとお願いします。
2026/07/08
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御朱印 第三冊 2013(平成25)/3/4~2013/4/11 その2#1 壬生寺 歯薬師 2013(平成25)/3/12京都府京都市中京区坊城通仏光寺上ル壬生梛ノ宮町31(壬生寺境内)宗派:律宗#2 武信稲荷神社 2013(平成25)/3/12京都府京都市中京区三条通大宮西入る主祭神:宇迦之御魂大神 佐田彦大神 大宮能売大神 社格等:旧村社創建:859年(貞観元年) 例祭:5月第2日曜日#3 薬師院(来ぬか薬師) 2013(平成25)/3/14京都府京都市中京区釜座通二条上ル大黒町694山号: 医徳山 宗派:黄檗宗 本尊:薬師如来中興年:元禄元年(1688年) 中興:鉄面寂錬禅師別称:こぬか薬師札所等:京都十二薬師霊場第9番 通称寺の会(こぬか薬師)#4 永福寺(蛸薬師) 2013(平成25)/3/29京都府京都市中京区新京極蛸薬師東側町503山号:浄瑠璃山 院号:林秀院 宗派:浄土宗西山深草派 本尊:薬師如来(蛸薬師)創建年:養和元年(1181年) 開山:林秀正式名:浄瑠璃山 林秀院 永福寺 別称:蛸薬師堂、 蛸薬師札所等:京都十二薬師霊場第12番 通称寺の会(蛸薬師堂)#5 西光寺(さいこうじ)(寅薬師) 2013(平成25)/3/29京都府京都市中京区新京極通蛸薬師上ル中筋町495-1山号:北亀山 宗派:浄土宗西山深草派 本尊:阿弥陀如来創建年:弘安3年(1280年)頃 開山:傳慶別称 寅薬師札所等 京都十二薬師霊場第11番 通称寺の会(寅薬師)地図よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「御朱印」 次回「御朱印」→
2026/07/22
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小生は2017年から、京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいており、「伏見稲荷大社の不思議研究」というテーマで研究を続けています。その活動のなかで同大学日本文化研究所から要請があり、京(みやこ)カレッジという1年に一度行われる講演会で「伏見稲荷大社とその周辺の『お滝』について」というテーマでの講演要請を受け、2021年11月に45分間の講演を行ったことがあります。その様子は、こちらに掲載しました。その文末に「いずれ講義の詳細内容を投稿したいと思います。」と書きながら、京都でのガイド活動やそのガイド会のお役目務めで忙しくなり、果たせないままでした。しかし、幸か不幸か、がんの長期治療で時間がとれるようになりました。この時間を利用して、少しずつ紹介していきたいと思います。本番ではレジュメを受講者の皆さんにお渡しし、パワーポイントを使って講義をしたのですが、今回の投稿では、レジュメそのままではなく、内容をより詳しくし、そこにパワポで使った写真などを配していきたいと思います。それでは第1回です。**************************************伏見稲荷大社とその周辺の「お滝」について その1 ワルディー・ヨーリョ1.はじめに 本レジュメはが論文調ではなく、ドキュメンタリー調であることをお許しいただきたい。研究としてまだまだ表面的であるということもあるが、本講座の「講義概要・到達目標」に、「『京都の歴史のなかの“新しい”時代・もの・出来事』に関するおもしろさ・京都研究の奥深さを感じていただき、さらに自ら調べるための視点・方法などを理解いただきたいと思います。」とあるので、アマチュア研究家の一人として、これにできるだけお応えしたいという思いから、あえてこういうスタイルをとらせていただいた。2.研究のきっかけ 受講者の多くの方々もそうだと推察するが、京都の神社仏閣を巡ることが筆者の趣味の一つである。本格的な「京都歩き」を15年ほど前から始め、京都を網羅的に回り切ったつもりであったが、それに飽き足らず、2013年1月、京都市内の神社仏閣を全て訪問するという無謀な目標を立てて再度歩き始めた。上京区から始め、中京区、下京区、南区と踏破し、伏見区へと入り、2014年1月に、伏見稲荷大社付近に至った。そのとき、地図に「荒木滝」、「権太夫滝」と書かれているのを見つけた(図1)。平地に近いこんなところに果たして滝があるのかと疑いながら訪れてみると、それらは今まで目にしたことのない光景を呈していた。それぞれ数十メートル四方程度の狭いエリアに、平たい石を載せた塚や鳥居がジャングルのように林立する一種異様な空間であった(図2)。そして音を立てて、人工の滝が流れ落ちていた(図3)。修行あるいは潔斎のための滝のようである。京都に長く住み、かつそこそこマニアックな「京都歩き」を、すでに数年経験していたにもかかわらず、こういう場所の存在を全く知らなかった。「こんなところが京都にあったのか」という驚きであった。という驚きであった。 「権太夫滝」で、そこの教祖様が、偶然屋外に出てこられてお話しを聞くことができた。伏見稲荷大社の境内とその周りには、このような滝行ができる「お滝」が20箇所以上存在しており、「お滝」の多くは、「お山巡り」参道沿いの神蹟と所縁があるとのことであった。興味をかきたてられ、その後、苦労して場所を捜し出しながら(図4、図5に示す案内看板などをたよりに)、何日かにわたって多くの「お滝」を巡った。 秘境のようなところにある「お滝」、静謐感あふれると整備された「お滝」(図6)、廃墟のようになったところにある「お滝」や水流のない「お滝」(図7、図8)などさまざまで、印象深い旅になった。 2017年7月、京都産業大学日本文化研究所特別客員研究員として研究を開始するに当たり、この「お滝」について調べてみたいと思い、研究テーマとして選択し、約1年間にわたって研究した。あのとき「権太夫滝」の教祖様にお会いできなかったら、この研究もなかったであろう。教祖様はこの研究のまさに恩人といえる。3.研究の目標 次のように研究の目標を設定した。・すべての「お滝」の所在を明らかにする。・それぞれの「お滝」の建設年代を明らかにする。廃滝になったものはその時期を明らかにする。・何故このような多くの「お滝」が存在するようになったかを考察する。・「お滝」の維持・管理の状況を知り、将来への伝承を考察する。4.研究の方法・文献を調査、閲読する。・「お滝」の記載された古地図および現代地図を見い出し、探査や分析に利用する。・現地踏査を行い、「お滝」管理者への取材を行う。・研究対象をより深く知るために、滝行体験をする。 「その2」に続くよろしかったらぽちっとお願いします。次回「京カレッジ『お滝の研究』」→
2026/07/24
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今日は、OKGセンターの大腸外科H先生の診察でした。今日も家内が往復運転してくれました。いつものように感謝。今日は、この前撮った胃カメラによる十二指腸内部の様子も含めて、他科の先生も加えての検討による次の治療方針案についての報告を受けることになっていました。前回のH先生のお話しでは、脂肪肉腫の手術摘出ができる可能性もあるとのことで、少し期待はしていました。しかし結果は、やはり手術摘出は無理とのこと。十ニ指腸などの臓器に密着していて、それを手術で取り去るのは無理とのこと。ちなみに胃カメラによる十二指腸の検体の分析結果は、悪性腫瘍は発見されなかったとのこと。ここはホッとしたところです。しかし、明らかに外から強く押されており途中まで浸潤している可能性はあるとのこと。手術摘出が無理なので、やはり、重粒子線治療を受けることになります。ただし、手術での摘出が無理ということは、臓器との間にスペーサーを入れることが難しいということになります。ですから、スペーサーを入れる手術なしでの重粒子線治療とせざるを得ないとのこと。ということは、臓器近くは避けての重粒子線の照射となるため、中途半端な治療になり、根治ができなかったり、再発のリスクが大きくなったりします。また、元々片腎で、前の粒子線治療で腎機能が低下しており、さらに腎機能が低下し、透析に至るリスクもあります。止むを得ません。癌が消化器に接しているため、重粒子線治療は無理と思っていたので、重粒子線治療ができるだけでも幸いと思わねばなりません。OKGセンターの成形外科から、OJRセンターに繋いでもらって、OJRセンターから私に今週中に、今後の重粒子線治療について連絡があるとのこと。これで、抗がん剤治療の次の方針が決定しました。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/07/27
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今年(2016年)の私の主な出来事を振り返っています。 2回目の「がん」の治療と経過観察のため、京都市内全寺社巡りを中断していましたが、経過観察結果が良好で健康に生活できているため、今年3月に再開しました。●京都市内全寺社巡り再開 「京都市内全寺社巡り」は、M社をリストラで早期退職し、「サンデー毎日」とんなった2013年1月に始めました。 以降次のように京都市内の全寺社、石碑を巡り歩きました。 ・2013年 上京区16日間、中京区8日間、下京区11日間、南区5日間、 伏見区3日間=合計43日間 ・2014年 伏見区17日間 2014年6月8日の伏見区20日目(小栗栖)を終えた後、「がん」の発病が分かり、以降治療のため中断していました。 正直、死も覚悟しましたし、主治医から透析をしての残った腎臓ごとの摘出を提案されたときは、もう京都の町を歩きまわることはできないと思いました。しかし粒子線治療のおかげで腎臓を温存しなかがら腫瘍も小さくでき、再び京都の町を歩き回れる状態になりました。 今年の2月3日に伏見区第21日目から再開しました。⇒こちら再開の日に訪れた法界寺 伏見区は2月29日(累計第24日目、今年は4日間)で歩き終え、以降、山科区に入り13日間で歩き終えました。 8月から東山区に入り、3日間歩きましたが、9月10日を最後に中断の状態になっています。8月に観光ガイド会に正式入会し、9月から修学旅行の下見や研修で忙しくなったことが要因です。今年は都合20日間しか歩けませんでした。 来年は、以前のようなペースでは回れないと思いますが、観光ガイドの仕事の合間を縫って続けたいと思います。年間20日間くらいは歩ければと思います。 東山区、左京区、北区、右京区、西京区と残っていますが、右京区、左京区の面積が非常に広いことを考えると、全部歩き終えるのにあと4年はかかるかなと思います。 (続きます)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________私の十大ニュースカテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=12
2016/12/23
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年12月25日の記事≫ シャ乱Q結成25周年ライブで歌うつんく♂さん。このライブがシャ乱Qで歌う最後になった=2013年 米国滞在中に、再び喉頭(こうとう)がんが見つかった音楽プロデューサーのつんく♂さん(47)は2014年10月、家族と急ぎ帰国した。 腫瘍(しゅよう)のはれが大きくなり、呼吸するのも苦しい。飛行機の機内ではほとんど眠れず、一人で今後のことを考えた。「腫瘍がある左の声帯だけでも手術したら、もう、歌えないだろうな」 成田空港から、東京都内の病院へ直行した。 「腫瘍が大きくなり、左の声帯が動かなくなって、呼吸不全を起こしています」。医師にそう説明された。 いったん自宅に戻ったが、翌朝、呼吸がさらに苦しくなり、肩で息をするようになった。再び病院に行くと、入院することに。検査を受ける時も、息苦しくて仰向けになれないほどだった。 診察した医師(64)から告げられた。 「声帯の温存は、困難です」 呼吸をしやすくするために、すぐに気管を切開すると、説明を受けた。切開すると話すことができなくなる。声を発することができないまま、声帯摘出の手術を迎える可能性があった。 「気管を切開する前に、子どもたちとしゃべりたいです」 双子の長男(7)と長女(7)、次女(4)を病室へ呼んで、声をかけた。 「お母さんのこと、助けてね」 「歌の練習をもっとしようね」 「大好きだよ」 二度と会えなくなるような気持ちで、覚悟の言葉を残した。 最後に、病室で加奈子さん(35)と二人だけになった。絞り出すようなかすかな声で、加奈子さんの名前を何度も呼んだ。 加奈子さんは涙を流しながら、その声を心に刻んだ。 「声を聞くのはこれが、最後なんだな……」。加奈子さんは、悲しみに包まれつつも、自分の名前を繰り返し呼んでもらって幸せだった。 「頑張ってくる」。つんく♂さんはそう言い残し、手術室へ向かった。 息苦しさは限界に近づいていた。声を失うことをためらう余裕は、もうなかった。 「助けてください。どうか、生きさせてください」 自分自身もし声を失ったらと思うと、とても耐えられません。つんく♂さんのように声を商売道具にしていなくても、自分の思いを伝える重要な手段がなくなるわけですから。 でも、筆談がある、メールがある、目の動きや触れ合うことでも伝えらることもできる。声帯を使わない発声方法も訓練でできるようになるかもしれない。 私も同じようになれば、声帯切除を選択することになるでしょう。何よりもまず生きたいと思う。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆抗がん剤治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆抗がん剤治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11◆粒子線治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=1◆粒子線治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=23◆粒子線治療後経過観察http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=24
2016/01/02
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【2016年2月2日(火)】 朝、次女を送っていったとき外気は1度だったか2度だったか。また寒くなりました。それでも午後から太陽が顔を出して良い天気になりました。 今日は実家近くで土地を貸している中古車屋さんから電話がある日。前から、土地を売却してくれないかという話があり、ちょうど賃貸契約更新時期なので、相談したいとのことだと思います。賃貸がずっと続けられればそのほうが身入りがいいわけですが、その中古車屋さんがいつまでも商売続けられる保証もなく、こけた時にすぐに次の借り手が見つかるかどうかも分かりません。その頃、私がどういう健康状態になっているかも分かりません。それならいっそのこと元気なうちに売却してしまうのも手かなと思います。 電話があり、やはりできたら土地を売却してくれないかとの話でした。先方は、取引銀行経由で不動産屋に頼んんで相場を調べてもらって、およその値段を提示してこられました。その金額は15年間分くらいの賃料になります。悪くない話だなとは思います。「前向きに検討します。一度私のほうも、相場の値段を鑑定してもらおうと思います。」と返事しました。あと合意したのは、・売買するなら、お互いよく知った仲なので、不動産屋を入れずに 余計な経費をかけずに直接やりましょう。・賃貸契約が来月末で切れるので、とりあえず契約更新しましょう。 売買が成立したときは賃貸契約が解除されることを書いた契約書にしましょう。 文面は私が考えて、契約更新時期までに送ります。 当面の契約更新、売却価格の査定、土地登記の確認、売却の税金はどうなるのかなどなど、色々忙しくなりそうです。 夕刻、家内のクリニック通院に同伴。体調はよくなってきたので、だんだん薬は減らしてきたのですが、ここしばらく調子がよくありませんでした。先生は、とりあえず薬そのままで、もう少し様子を見ましょうかとのことでしたが、私が「やはり薬を減らしたので、調子がよくないのではないでしょうか。」って聞いたら、「それなら元に戻しましょう。」ということになりました。内心、「波があると思うので、様子をみたほうがいいと思いすよ。」と言ってくれるのを期待したのですが。また薬が増えてしまったのは、少し残念です。でも、それで家内の体調がよくなるのであれば、それに越したことはありません。 ちょっと前の話ばかりですが、 1月30日、サッカー男子U-23 五輪アジア予選決勝 韓国に前半0-1、後半0-2から最後3-2で逆転勝利。すごい。強い。 1月31日、スキージャンプ女子高梨 ワールドカップ 今季8勝目。9戦中8戦優勝。あと1回は2位。これもすごいとかいいようがない。 同じく1月31日 スキージャンプ男子葛西 ワールドカップで3位。43歳7ヵ月のワールドカップ表彰台最年長記録更新。これもすごいとしかいいようがない。 スキー複合、渡部暁斗選手。ワールドカップ3選連続2位。優勝は逃したが、安定している。ガンバレ。 スポーツ日本人大活躍のここ2、3日でした。*********************************************フェルメールとレンブラント展 #13昨年の12月19日に家内と京都市美術館に観にいった「フェルメールとレンブラント展」の作品を、ネットの情報を使って紹介しています。【3】レンブラントとレンブラント派オランダ黄金時代の巨匠のひとり、レンブラント・ファン・レインは数々の名作を生み出し、彼の作品は現在でも多くの人々に感銘を与えています。光と影を描く独特な技法、ドラマチックな構図や描写。レンブラントは工房を持ち、そこからは弟子たちが巣立っていきました。師匠に引けを取らない見事な作品を残し、名声を得た弟子もいます。レンブラントと弟子たちの素晴らしい技法と描写が紹介されています。●作品50 レンブラント・ファン・レイン《ベローナ》 1633年 メトロポリタン美術館、ニューヨーク フェルメールの《水差しを持つ女》とともに、今回の展覧会の目玉の一つ。《水差しを持つ女》同様、日本初公開。 《ベローナ》は、肖像画、歴史画を得意とするレンブラント・ファン・レインの傑作。ダイナミックな技法で描かれた、戦争の女神ベローナの肖像画に施された表現力は彼ならでは。<別の解説>本作には、ローマ神話に登場する戦いの女神べローナが描かれています。彼女は雄々しい鎧と、メドゥーサの首が装飾された盾を持っていますが、その表情は装いとは対照的な温和な雰囲気に満ち溢れています。レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)1606年にライデンで生まれました。1631年頃にアムステルダムに拠点を移し、肖像画、歴史画で高い評判を得、経済的な成功をおさめます。この頃から美術品や骨董品などの蒐集をはじめ、1639年には市内に豪邸を購入しました。しかし1641年に妻が亡くなり、1640年代後半から経済的に困窮すると、1656年に破産、邸宅と蒐集品を失いました。このような苦しい状況であっても画家としての制作は衰えず、数々の傑作を生みだしました。80点以上の自画像を含む印象的な肖像画、ダイナミックな歴史画によって同時代の人々を驚嘆させました。また、多くの弟子を育てたことでも知られています。<別の解説>《ベローナ》を描いたレンブラント・ファン・レインの画業の晩年は、惨めな貧困と画家としての名声の喪失という悲劇にみまわれた、と考えられています。しかしその時期も、アムステルダム市庁舎の巨大な絵画(《クラウディウス・キヴィウス》1661 年、ストックホルム国立美術館)やアムステルダム市の最も重要な職業組合の集団肖像画(《アムステルダムの布地ギルドの見本監察官たち》1662 年、アムステルダム国立美術館)が1662 年、アムステルダム国立美術館)といった素晴らしい注文を完成させていました。●作品51 レンブラントに帰属《マルハレータ・デ・ヘールの肖像》 1661年 ロンドン・ナショナルギャラリー本作は裕福な武器製造業者の妻で78歳の肖像画です。彼女が身につけている幅広の挽臼襞(ひきうすひだ)と袖なしの毛裏コートは1620年代から30年代の流行を反映しており、彼女の前頭部に垂れ下がる黒い帽子は、この絵が描かれる半世紀も前にフランスで流行していたスタイルです。オランダの老婦人が─たとえ富裕層であっても─時代遅れになった、自分の若い頃の服を着続けるのは珍しいことではありませんでした。【ロンドン・ナショナル・ギャラリー】《マルハレータ・デ・ヘールの肖像》を所蔵している、ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、1824年にロイズ保険組合の発展に寄与した銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインのコレクション38点をもとに設立されました。現在のコレクションは2300点を超え、13世紀から19世紀までのヨーロッパ美術が中心となっています。レオナルド《岩窟の聖母》やレンブラント《水浴する女》、セザンヌ《水浴図》などの美術史上の代表的作品を系統的に収集していることが特徴です。●作品52 ヤン・リーフェンス《読書する老女》 1626-33年頃 アムステルダム国立美術館画面左上から差し込んだ光が老女の肩に降り注ぎ、彼女が読んでいる左側のページを明るく照らしています。絵具の厚塗りによってモティーフの質感をさまざまに描き分けるという、リーフェンスとレンブラントが1620年代にともに発展させた技法は、この老女の皺の描写に見事に用いられています。【ヤン・リーフェンス】《読書する老女》を描いたリーフェンスは一時期、同郷のレンブラントと工房を共有するなど密接な関係をもって働いていました。リーフェンスに何点か発注したハーグの総督の秘書コンスタンティン・ハイヘンスは、当時の日記のなかで「その驚くべき創意と大胆な主題と構図によって、リーフェンスはレンブラントより優れており、一方でレンブラントは、感情表現の正確さと生命感においてはリーフェンスを超える」と評しています。●作品53 ヘラルト・ダウ《窓際でランプを持つ少女(好奇心の寓意》 1660年頃 アムステルダム国立美術館少女は窓枠を右手でつかみながら、外に身を乗り出して左のほうに目をやっています。彼女は、背後にかすかに見える蠟燭の光のもとで行われているパーティーへやってくる客を待っているのでしょうか。あるいは彼女自身の求愛者を待っているのでしょうか。【ヘラルト・ダウ】ダウは、非常に若い頃に画業を開始しており、レンブラントの最初の弟子であったといわれています。ダウは生涯を通じて、おおむね小さなサイズの板に絵を描きました。●作品54 カレル・ファブリティウス《アブラハム・デ・ボッテルの肖像》 1649年 アムステルダム国立美術館カレル・ファブリティウス(1622-1654)1635年頃にレンブラントの工房に入ったと考えられていますが、やがてデルフトに拠点を移しました。しかし、1654年10月12日、デルフトで起きた火薬庫爆発により32歳の若さで悲劇的な死を迎えています。彼の作品はわずかしか現存しませんが、いずれもこの画家の驚嘆すべき技量が示されています。また、ファブリティウスは、レンブラントとフェルメールというオランダ黄金時代の二人の巨匠を繋ぐ存在と見なされることもあります。レンブラントから、成熟していくにつれてより滑らかで優雅になっていく多様で豊かな筆致を、フェルメールから、不要な叙述や逸話的な細部を排除することで構図を単純化していく傾向を身につけました。(続きます)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/02/02
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【2017年10月28日(土)】 ハウスメーカーによる我が家の無償点検が雨で延期になり、午前中は床屋へ行きました。午後は招待券のあるサッカーJ2の京都サンガの試合を西京極競技場に行く予定でしたが、雨の中の観戦を避け、代わりに今日気付いた国際日本文化研究センター(日文研)の一般公開に行きました。→こちら) そして夕刻から、やはり招待券のあるバスケットBJリーグの京都ハンナリーズの試合を西京極体育館に観戦ぬい行きました。こちらは雨天でも大丈夫です。バスケットボールの本格的な試合観戦は、私は米在住中のNBAの試合以来です。家内は初めてです。 事前にネットで調べたら、他で買った飲食物の持ち込みは禁止とのこと。ですので、J2や女子プロ野球観戦のときのように、コンビニで缶ビールを買って、入口で紙コップに入れ替えてというのはダメなようです。でも色々情報を見ると、手荷物検査はあるものの飲食物がダメと言われることは少ないようで、お菓子は少し持っていきました。その通り荷物検査で特にお咎めはなかったし、試合を見ながらボリボリやってても注意はありませんでした。プログラムから ハンナリーズメンバー BJリーグのことはほとんど知りませんでした。B1リーグは全部で18チームあり、東、中、西地区に分かれています。ただし、試合は地区別ではなく、全チームが当たります。地区は順位を決めるための区分です。京都は現在西地区の2位。 観戦チケット 2階自由席 買ったら2000円です。 選手の練習が終わりいよいよ試合開始。これからの写真、ピンボケですいません。 真っ暗になり、観客が持つライトがきれい。 チアガールも盛り上げます。 試合開始。相手は島根スサノオマジック。1クオーター10分の4クオーター。 試合の様子 ほとんどが京都ファンですが、向こう側の席の左の方に島根ファンが陣取って一生懸命応援していました。 ハーフタイムショー。マスコットキャラは「はんニャリン」 途中でチアガールは衣装替え。タイムアウトのときも観客を飽きさせることがありません。 試合はシーソーゲームで面白い展開。最後はハンナリーズが突き放して勝利。地元が勝つと盛りあがります。 なかなか面白かったです。サッカーと違い、点がたくさん入りますが、野球と違って一発逆転はない。今日のようにジリジリとした攻防戦になると面白いです。 試合時間は10分X4ですが、ハーフタイムやタイムアウトがあり、そしてボールが外に出てる間は時間カウントされませんにで、通しでは2時間強の観戦時間でした。 コインパークに戻りましたが、駐車料金にびっくり1100円。土日はイベントが多いためか、一日最大料金がなくて時間計算になっていました。ちょっとこれだけは後味が悪かったですが、1ヵ月ぶりに家内と外出でき、結構楽しめたのでよかったです。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/10/28
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【2020年8月19日(火)】 錦市場は、修学旅行ガイドでよく訪れるところです。しかし、今年は修学旅行ガイドが、今のところゼロ件で、錦市場を訪れることは皆無に近いです。 たまたま四条通を烏丸通から河原町通まで歩く機会があり、日陰を求めて錦市場を西端から東端まで歩きました。 ガラガラでした。10年前の錦市場に戻った感じ。シャッターを閉めたお店も多く、シャッターに描かれた若冲の絵を楽しめます。普通なら早朝か夜にしか見れないものです。何かやるせない気持ちです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/08/19
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【2020年10月25日(日)】 天気もよいので、Go to eat のポイントのもらえる店で食事でもしょうかということになり、せっかくなので、その前に京都国立博物館「皇室の名宝展」を観にいこうということになりました。ネットで調べると、コロナ禍でやはり事前予約制になっていましたが、空きは十分にあり、一人1,800円のチケットを2枚ゲット。バスで行って、烏丸七条から国立博物館の往復を歩いたので、ちょっとした散歩にもなりました。 予約でいっぱいになっていないので、予約なしでも入れたようです。家内は京都国立博物館の平成知新館に入るのは初めてのようでした。「宮内庁三の丸尚蔵館」所蔵の、もともと皇室が所有していた作品群が中心です。目玉の1つは伊藤若冲の「動植綵絵」が展示入れ替えも含めて、8作品観られることです。今日は前期で、「雪中鴛鴦図」「群鶏図」「薔薇小禽図」「老松白鳳図」を観覧できました。円山応挙の「牡丹孔雀図」「群獣図屏風」、岩佐又兵衛「小栗判官絵巻」、渡辺始興「四季図屏風」、狩野探幽「源氏物語図屏風」などの作品も観覧できました。 見応えのある展覧会でした。普通なら若冲の「動植綵絵」の前などは人だかりになるのでしょうが、予約制で混んでないので、かぶりつきでゆっくり観ることができたのがよかったです。 京都駅近くの「ワイン蔵しおり」というイタリアンのお店で夕食でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/10/25
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【2020年12月6日(日)】 夕刻二人で京都タワーを訪れ、その後、伊勢丹に入っている「こけっこっこ」というお店で夕食でした。 なぜ京都タワーかというと招待券が2枚あったからです。このご時勢ですから、空いているかと思いきやさにあらず。展望台に昇るエレベーターは10分待ち、帰りも10分待ちでした。密にならないよう人数制限しているからですが、それでも展望台は結構混んでました。Go To Travelの地方共通クーポンが使えることもあるのでしょうね。私は京都タワーの夜景は初めてだと思いますが、京都には高いビルがないので、夜景は冴えないですね。やはり、「あれが清水さん、これが東本願寺。あそこが御所」とか、名所を探せる昼間がいいですね。京都タワー展望台から京都駅ビルを望む 京都タワーのあとは、京都駅ビルの伊勢丹に入っている焼き鳥屋さん「こけこっこ」へ。伊勢丹に入っていますが、コスパのよいお店で、焼き鳥のお味は絶妙でした。ここもほぼ席が満席でした。もうGo To Eat のポイントは付きませんが、持っていたポイントは消費できました。「ぐるなび」から 忙しい毎日ですが、昼間は庭の手入れをしたり、ほっこりとした一日でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/12/06
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【2020年5月12日(火)】 事務所の予定でしたが、コロナの影響で在宅です。 一昨日の読売朝刊から。たまにはコロナ禍と全く関係のない記事もいいのではないかと思い、取り上げました。 気象予報士、松元梓さんのコラム記事を抜粋、編集しました。 雪が解けて現われる山肌や、残雪が作る模様から人間や動物などの形をイメージして名前をつけたものを「雪形」という。昔、まだ天気予報というものがなかったとき、雪形で田植えや種まきの時期を知った。そんな雪形は全国に約300あり、やはり農業に関係したものが多い。例えば農作業をする人の姿や、馬や牛といいった家畜、鍬や鎌の農耕具などがある。有名なのが、北アルプスの「代(しろ)かき馬」。「代かき」とは、田植えの前に田に水を入れて、土をかき混ぜて平にする作業。5月の大型連休のときに行うが、ちょうどその頃に、山に馬の姿が現れるのでこの名前がついた。昔、地図を作る際に、「代かき馬が現われる山」ということで、「代馬岳」と記するところを誤って「白馬岳」としてしまい、それが「ハクバ」と読まれ「白馬(はくば)村」となった。その他、飯縄山の「種まき爺さん」、白馬五竜岳の「武田菱」などがある。代かき馬武田菱種まき爺さんよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/05/12
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【2021年5月16日(日)】 コロナ緊急事態宣言下で色んな外出がなくなり、短時間の外出を除き、5月1日から16日連続の在宅です。今日がその最終日です。在宅といっても、会の雑事があってのんびりはできないのですが、それでも少しプライベートの時間がとれるようになりました。今年は早くも西の方が梅雨入りだそうです。京都も今、雨が降っており、すぐに梅雨入りでしょう。梅雨が明けた頃には、コロナ禍も明けていて欲しいものです。「奇想の画家 若冲と応挙」の#5です。◆第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-4 江戸時代中期 江戸中期は、江戸初期に力をつけてきた町人層がさらに発展した時期です。学問・文化・芸術が一握りの特権階級だけのものではなくなり隆盛を極めました。#2で示した年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分を拡大して示します。年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分拡大 江戸時代は鎖国の時代ですが、中国とオランダは長崎での貿易が許されていました。中国からは、画家も招聘されました。沈南蘋(しんなんぴん)が清から招かれ3年間滞在しました。沈南蘋の写実的な絵は江戸、大坂、京都、三都の画家に大きな衝撃と影響を与えました。上方では円山応挙、与謝蕪村、伊藤若冲らが、その影響を受けましたが、刺激されながらも、それぞれが独自の画風を築きました。左:沈南蘋「枇杷寿帯」1750年 三井記念美術館右:沈南蘋「「老圃秋容図」1731年 静嘉堂文庫美術館 また、文化的なバックボーンがなくてもわかる、理解しやすい絵、訴求力のある絵が求められ、上方では多くの個性的な画家輩出しました。若冲もその一人ですが、辻惟雄氏の「奇想の画家」の一人曾我蕭白もこの時代の画家です。 曾我蕭白「雪山童子図」継松寺 曾我蕭白「美人図」奈良県立博物館 8代将軍吉宗は洋書を解禁しました。オランダから銅版画、油彩画が流入し、遠近法、陰影法など新しい写実技法がもたらされました。そして応挙のような新しい写生画を開拓しつつあった画家のみならず、文人画の池大雅にまで影響を与えました。 南蘋の絵は江戸ではそのまま受け入れられ、宋紫石のような南蘋派画家が育ち、西洋の銅版画などに刺激され、秋田蘭画と呼ばれる洋風画が生まれ、そして浮世絵師が浮絵を描くなど、江戸に本格的な民間画壇が成立しました。 下に勝川春章(かつかわしゅんしょう)の浮世絵「美人観賞図」を示します。ぎこちないですが、透視図法が使われています。#4で紹介した菱川師宣の立体表現とは大きく違います。このように西洋の写実技法は浮世絵にも影響を与えました。勝川春章「美人観賞図」1789~92年 出光美術館●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/16
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【2021年10月3日(日)】 昨日はフリー日。会の諸事で一日明け暮れましたが、あれこれあって、どうしても昨日に仕上げないといけないことを仕上げられずに、今日に持ち越し。 今日は修学旅行ガイドの予定でしたが、必要ガイド人数が減ったので、外してもらっていました。正解でした。何とか今日の午前中には、それを仕上げることができて、ギリギリセーフでした。 良いお天気の一日でした。 先日、9月7日に受けた健康診断の結果が郵送されてきました。2015年に後腹膜悪性腫瘍の粒子線治療を終え、N社を退職し、M社OBの健康保険に入りました。以降、2016年からは、その健康保険の近所への出張検診で毎年健康診断を受けています。 今年でこの出張健康診断を受けるのは6回目。3年前にPASが高いと言われて、診察を受けましたが、再検査でのPSAは低く異常なし。以降も問題ありません。1年前に便潜血が陽性になって、検査してもらったところ、大腸に2センチ程度のポリープがあり、入院して切除しました。悪性に近い良性でした。よくぞ便潜血で陽性反応が出てくれたものだと思いました。ラッキーでした。 さて今年はどうか。幸い何か特別に引っ掛かったところはありませんでした。1個しかない腎臓が粒子線治療でダメージを受け、腎機能が低下してクレアチニンが高いですが、今回も高止まりのままでした。 高尿酸はフェブリクの投薬を受けてから、上限値以下をキープしています。ただここ2年は、上限ギリギリが続いています。 あれこれ、悪いところはありますが、身体を酷使しているにしては良好な結果で、ほっと一息というところです。クレアチニン、尿素窒素、尿酸値よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/10/03
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【2021年10月29日(金)】 27日は、午前中、臨時で事務所出頭し、午後は、月イチの最も大切な集まりでした。残念ながら、事務所に戻る必要があったので、会後の一献はお断りせざるを得ませんでした。そして、28日と今日は、在宅で27日の集まりの後日諸事でした。 「若冲と応挙」第56回。付録4 若冲と同時代の文化人たち その1です。伊藤若冲と同時代の文化人たち●影響を受けた画家大岡春卜(おおおか しゅんぼく)1680~1763 大坂の町狩野の絵師。絵手本を多く出版。大岡春朴の書物から着想を得たと思われる絵が 散見される。「増補近世逸人画史」が「扶桑名画伝」の「若冲」の項を引いて、 「(若冲の)初めの名は春教」しており、「春教」は「春朴」由来とする説がある。 また、天保3年(1832)刊の「続諸家人物誌」の「若冲」の項に、「初名春教、幼ヨリ画ヲ好 ミ、大岡春牧ニ学ブ。」とある。鶴亭(かくてい)1722~85 長崎の黄槃宗の画僧。海眼浄光。沈南蘋の画風を学んで花鳥画などを描き、南蘋風を畿内に 伝えた。●同時代の京都で活躍した画家与謝蕪村(よさ ぶそん)1716~83 池大雅とともに南画を大成した。俳句と絵を組み合わせた俳画も確立。若冲、大典らとと もに、京都郊外へ観梅に出かけたことがある。池大雅(いけの たいが)1723~76 中国南宗画などを学んで独自の南画を展開。若冲、大典と交流があった。曾我蕭白(そが しょうはく)1730~81 奇矯な行動と奔放な道釈画で知られる。伊勢地方を遊歴。「奇想の画家」の一人。円山応挙(まるやま おうきょ)1733~85 わかりやすい題材と写生を重視した画風で、当代の人気絵師となる。弟子らと石峰寺を訪問 したことがある。しかし、そのとき若冲は不在だったようである。皆川淇園(みながわ きえん)1734~1807 儒学者で書画も能くした。画家との交流が広く、絵画に関する詩文が多い。若冲画に詩文や 賛を記している。●交流のあった文人平賀蕉斎(ひらが しょうさい)1745~1805 広島の浅野家の陪臣。号は白山。著書『蕉斎筆記』に若冲の逸話を記した。石峰寺に晩年の 若冲を訪ねている。木村蒹葭堂(きむら けんかどう)1736~1802 大坂の酒造業者。文人・好事家として文化人と広く交流。大岡春卜、池大雅らに絵を学 んだ。大典と親交深く、若冲とも交流。若冲もその住まいを訪問している。 (天明8:1788年、10月21日・29日来訪 蒹葭堂日記より)松本奉時(まつもと ほうじ)?~? 大坂の表具師兼蛙愛好家。若冲と交流していた。与謝蕪村(よさ-ぶそん)の画風をまなび, 蝦蟇(がま)をこのんでかいた。奉時は若冲の象図を写すなど、単に面識があっただけでは なく、画風の上でも影響関係があった。皆川淇園 木村蒹葭堂 ●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/10/29
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【2021年11月20日(土)】 昨日は事務所に出頭し、夕刻から月イチの事務所の集まりでした。 今日は「秋の特別公開」金戒光明寺の3回目の担当で、御影堂・大方丈を担当させていただきました。飛び石連休の最初の土曜日ということもあり、多くのお客様でした。 紅葉がいよいよキレイです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/11/20
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【2021年12月10日(金)】 今、自宅で使っているPCは、古いVistaのノートPCとWinodws8のタブレット。これを繋いで使っています。 しかしVistaのほうはサポートが終わっています。また、アクセスできないURLがあったり、買い替えたプリンターへの印刷ができず、タブレットから別途印刷しなければならないなど不便極まりなくなってきました。また、今まで外付けカメラで何とかZoomができていたのが、何故かできなくなってしまいました。タブレットをメインにすればいいのですが、画面が小さく、使い勝手もよくありません。 そこでついに、新PCを購入することに。富士通の直販サイトで注文。Lifebook WT1/E3 にofficeを入れてもらって、145,382円で11月28日に発注。それが今日到着した次第です。 明日、Zoom飲み会があるので早速設定。メール設定、Zoom設定、プリンター設定、他の2台PCとのファイル共有など基本的な設定はできました。傍受したいメールアドレスがあり、そのアカウント設定ができませんでしたが、Webメールもあるので大丈夫です。いずれ時間がとれればサービスでサポートを受けて設定したいと思います。 本格的に新しいPCをメインPCにするのは、机の上のレイアウト変更などが必要なので、もう少し時間がとれるようになってからにしたいと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/12/10
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【2023年1月1日】あけましておめでとうございます。1年ぶりの投稿です。ギリギリ命を繋いでいました(笑)。
2023/01/01
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左目の白内障手術4月2日実施と決まりました。手術は日帰りで、家族の同伴は必要ないのですが、事前の説明には家族の同伴が必要とのことで、3月9日指定の日に、家内同でK病院眼科主治医K先生から説明を受けました。説明書の説明がありました。抜粋します。・目的:水晶体の濁り除去・方法: 濁った水晶体を水晶体の被膜だけ残して除去し、残した幕の中に人工眼内レンズを入れる。 手術は局所麻酔で行う。麻酔薬にアレルギーを示す人があり、重篤な合併症を起こすこ が ある。・効果: 視力改善が目標だが、他の部分、たとえば網膜や視神経などに病気がある場合は、視力が 出にくい場合がある。 人口レンズには調節力がないため、見るもの距離に応じて、メガネを使用する。 大まかにいうと ★裸眼で遠方を見えるようにする。通常は裸眼で過ごす。手元は老眼鏡をかける。 ★遠方はメガネをかける。手元はメガネを外して裸眼でみる。 ★保険外診療になるが、多焦点眼内レンもある。デメリットもあるが、選択は可能 私は、普段から近視で遠くを見るのにメガネをかけているので、一番上の方法を選択し、パソコンをよく使うので、40cmくらいの距離に合わせていただくようお願いしました。・副作用と合併症 稀に起こる、様々なリスク(再手術の必要になる場合があること。最悪1000例に1例の割合 で術後感染症が起こり失明に至る場合がある。1万例に1例、眼内大出血で失明。など) について説明がありました。 それらのリスクを承知のうえ、手術を受けることにしました。 手術前3日から点眼する薬を処方してもらいました。←前回「白内障手術」 次回「白内障手術」→
2026/03/09
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義母が天寿を全うし、昨年亡くなりました。新年の挨拶を欠礼させていただきました。
2026/01/08
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2017年度から、某大学で京都の歴史・文化についての、客員研究員を務めさせていただいています。報酬が出るわけでなく、趣味の一環でやっています。1年目は指導教授がつき、年度末に研究発表会があったのですが、2年目からは指導教授もつかず、一人で研究して、年度末に研究成果報告書を提出するというかたちです。最初決めたテーマは、ずっと変えることはできません。私のテーマは「伏見稲荷大社の不思議研究」です。過去、次のような小テーマを設定して研究して、毎年2ページほどの研究成果報告書を書いて、現在に至ります。◆平成29年度(2017年度) 『お滝』の成立過程と現状◆平成30年度(2018年度) 『お滝』の成立過程と現状 その2◆令和元年度(2019年度) 「あなたの知らない伏見稲荷大社」研究とフィールドワーク設計・実施◆令和2年度(2020年度) 『伊勢國一身田』の刻字のあるお塚◆令和3年度(2021年度) 「熊鷹社」の「お塚」研究◆令和4年度(2022年度) 「清めの滝」の「お塚」研究◆令和5年度(2023年度) 「権太夫の滝」の「お塚」研究◆令和6年度(2024年度) 「八嶋の滝」の「お塚」研究ここ4年は稲荷山の麓にある、「お塚」について、お塚の数、お塚に刻まれた神名、神名に使われている漢字などについて、現地調査で確認し、各「お塚」の特徴の究明、比較をしてきました。今年度は、ちょっと横道にそれて千本鳥居について、研究しました。私は伏見稲荷大社の講員になっており、今まで講員大祭に参加したことがなかったので、昨年10月12日に講員大祭への参加を兼ねて現地調査にいきました。千本鳥居には寄進者と建立年月が鳥居背面に刻んであります。これが研究対象の重要部分なのですが、筆記で書きうつすのは大変なので、スマホで適切な本数ごとに全部写真に収めました。しかし、その後忙しく、その写真を利用して集計を開始したのは、1ヵ月以上経った11月26日になってしまいました。11月21日の癌発覚で、入っているガイドの勤務を他の方に代わっていただいたので時間がとれるようになったという事情もあります。怪我の巧妙です。そして12月12日に写真を利用した集計は終わったのですが、写真で捉え切れてない部分が多くあったので、根拠データをできるだけ完璧にするため、12月14日と15日に、それぞれ2回目3回目の現地調査に行きました。1回目の現地調査で、不明な部分はごくわずかだったので、12月16日から集計作業を進め、翌日には集計を完了することができました。成果報告書作成にとりかかったのは、年が明けて、1月10日からになりました。いつ完成できたのか記録が見つからないので断定できないですが、いつもは2月上旬が締切りなので、1月下旬には完成していたと思います。今年は大学での手続きに時間がかかったようで、締切り日程の連絡がきたのは、2月16日になり(いつもより半月遅れ)、締め切りは3月6日となっていました。すでに成果報告書は完成していたので、連絡がきたその日、2月16日に成果報告書を提出しました。そして、今日、3月28日に成果報告書に基づき、来年度も客員研究員の資格を継続することが可である旨の連絡がありました。下記が成果報告書です。【研究テーマ】伏見稲荷大社とその周辺の不思議研究【研究報告】 小テーマ:「千本鳥居」の研究1.はじめに 私の体調面の問題もあり、「お塚」の継続研究に替え、平坦地で現地調査が取り組みやすい「千本鳥居」に小テーマを変更した。千本鳥居は伏見稲荷大社(以下、大社)で最もよく知られた景観である。それ以外に「お山巡り」の参道には、より大きな鳥居群もあるが、今回は「千本鳥居」に絞った。2.千本鳥居の歴史 大社の創建には諸説あるが、山城国風土記逸文の和銅4年(711年)の創建説がよく知られる。当然その頃から鳥居は存在したと思われるが、現在の千本鳥居のように夥しい数が連続して建つようになったのは比較的新しい。安土桃山時代の「伏見稲荷大社絵図」には表参道・裏参道に鳥居が各1基ずつしか描かれていない。一方、1780年(安永9年)の「都名所図会」、1864年(元治元年)の「花洛名勝図会」には連続する鳥居群が描かれており、江戸時代以降に鳥居の奉納が盛んになったと考えられる。大社はもともとは農耕の神であった。しかし、今や商売繁盛の神の方が一般大衆にはよく知られている。応仁の乱で社殿のほとんどが焼失し、本願所(後の愛染寺)が再建のための浄財を全国から集める一環として、稲荷社の勧請を全国に広める活動を積極的に行った。その一つが江戸の「三囲稲荷社」(みめぐりいなり)であった。江戸時代初期、名前の類似性もあり、呉服屋三井家が熱心に参拝し、その結果商売が大繁盛したことが全国に広まり、商人による大社への鳥居奉納が盛んになったという説が濃厚である。鳥居には奉納者名が字刻されるので、当時は、格好の宣伝方法という側面もあったかもしれない。3.千本鳥居のかたち 稲荷社の鳥居の形は島木と柱の接合部に「台輪」と呼ばれる輪が付いている「台輪鳥居」が特徴といわれるが、大社では、実際にはこの台輪鳥居は、ごく少数に過ぎず、千本鳥居も含め、台輪を省略した明神鳥居がほとんどを占める。また、一部石鳥居が残っているが、大部分が木製である。大社境内では、石の鳥居の建造は昭和20年以降禁止され、木製のみが認められている。理由はよく分からないが、石造は地震時に危険ということもあると思うし、石造は耐用年数が長く、耐用年数の短いものにして、より多くの人に建てていただくためということかも知れない。適切な表現ではないかも知れないが、大社側にとっては、回転が早くより多くの浄財を集めるためということがあるかも知れない。4.千本鳥居の大きさと初穂料 大社に奉納する鳥居の大きさは、柱の上端部直径を基準にして号数で表わされる。人が潜れる鳥居として最も小さいのが5号で直径は15cm。これが千本鳥居の大きさである。初穂料は大社ホームページでは、5号30万円、10号(直径30cm)189万円~となっている。2020年時点の初穂料は、5号175,000円、10号1,302,000円~だったので、それぞれ71%、45%の高騰である。世の中の物価上昇率より、大きな上昇と考えられる。特に千本鳥居の上昇率が高い。千本鳥居は立錐の余地がないほど建っており、かつ初穂料も非常に高額という訳ではないので人気が高く、建てるには長いときには、4~5年待ちともいわれるほどである。 建立申込みは、伏見稲荷大社や「お山巡り」神蹟の茶店でできる。「長谷川工務店」(ゼネコンの会社とは別)など鳥居製作会社に発注される。筆者の過去の調査では、5、6社が請け負う。鳥居に刻まれた、建立年の字形を見ると、明らかに自体や字間の異なるものがあり、複数の製作会社が製作していることを示している。5.千本鳥居の基数 千本鳥居の基数については、文献上及びネット上では色々な基数が登場する。2025年10月12日から12月14日かけて筆者が現地調査をした。結果は、南側392基、北側391基、合計783基であった。経年劣化による撤去を経て抜けている部分も含め新造が行える場所は、多く見積もっても15箇所程度であり、全部そこに建造したとしても800基には届かない。現状を普遍的に表現するとすると、「800基をやや下回る基数」という表現が妥当な線かと思われる。「千本」は単に多いことを表す数字であると示す文献ももあるが、「昭30年代には本当に千本と数本しか違わなかったらしいが、現在は太さが太くなった関係で800本程度になったようである。」とする情報もある。6.千本鳥居の耐用年数 千本鳥居は木製であり、耐用年数は4~5年とも言われる。実際にどうか調べた文献、ネット記事はみかけない。鳥居には、創建年月も字刻されており、これも調査可能である。何年に何基建てられたかまでは分からないので、断定できないが、2018年に大きな落ち込みがあるのと、2014年以前の基数が年を遡るとともに漸減しているところから見て、平均的な耐用年数は、7年~11年といえよう。因みに現存する一番古い建立年は、2005年で21年経過したものであった。7.千本鳥居の奉納者全国分布 千本鳥居に字刻されるている住所を都道府県別に集計した。第1位は東京都、大阪府同数で、それぞれ130基、3位は地元京都府の108基、以下4位兵庫県48基、5位愛知県47基、神奈川県40基と続く。産業が盛んな関東、関西、東海地方が上位を占める。全く奉納がなかったのが、宮城・鹿児島・沖縄の3県であった。いずれも遠方であることが大きな理由であろうが、都道府県別の全神社数の統計では、沖縄の神社数は他の都道府県に比べて極端に低く(他都道府県最低447社に対して沖縄県15社)、琉球王国と呼ばれていたように、古くは別国で宗教文化も違うということことも沖縄県の特殊事情としてあるであろう。それ以外の都道府県は、1基から20基の間に分散している。 都道府県別の人口100万人当たりの基数でみてみると、地元京都が42.9基と群を抜いて1位であり、2位は大阪府、和歌山県それぞれ14.8基、4位は12.6基の山梨県、5位は10.8基の福井県と続く。山梨県が遠隔地であるにも拘わらす4位に位置している。理由は今のところ不明である。8.千本鳥居の建立月 千本鳥居は建立日も鳥居裏面に字刻されている。1位は2月で12.5%、2位は5月の12.1%、3位は3月の9.6%、4位は1月の8.6%であった。2月に多いのは、初午大祭があるからであろう。2月分のうち「二月吉日」とせず「二月初午」としたものが29%にものぼった。一月に多いのは暦上の年初月であるからであろう。1月分のうち、67%の鳥居で字刻が「1月吉日」ではなく、「一月元旦」となっていた。3月に多いのは。会社の新決算期に向けた奉納、8月に多いのは夏休みであることが主な理由ではないだろうか。 近年外国人観光客が多く、ご朱印の授与を受ける外国人も多くなっているが、今回の調査では、千本鳥居の外国人奉納者は見つからなかった。支払いや修繕、取り壊しなど、将来のコミュニケーションが取りにくいため奉納を認めていないのかもしれない。そのハードルがなくなって、外国人が奉納を始めると、こういった季節性の特徴はなくなっていくのだろう。9.千本鳥居奉納者の職業 千本鳥居裏面左側には、奉納者の氏名、会社名などが字刻されている。それらから職業別の統計をとった。形態が分からない場合はネット検索し、有限会社、株式会社などの表記がない場合は、「個人事業者」とした。また「個人」としたものでも「個人事業者」の場合があるなど、必ずしも正確ではない部分があることはお断りしておきたい。不明2基を除き、「株式会社」347基、「個人」231基、「有限会社」96基、「その他法人・団体」33基、「個人事業者」59基、「信者団体」15基であった。何らかの形の事業者が全体の68.3%を占め、今や商売繁盛の神としての方が有名になった大社の面目躍如というところであろうか。千本鳥居前に続く、大きな鳥居群には、花王、電通などのよく知られた会社名も多いが、千本鳥居の企業・団体名には筆者の知ったものは、ほとんどなく、有限会社の比率も多いことから、非上場の中小企業がほとんどであろう。初穂料の面からも身の丈にあった奉納ということになろう。個人による奉納分が29.5%と多く個人崇拝も活発であることが分かる。また、稲荷講など信者団体の奉納も一部ある。また中には同じ奉納者が2基以上建立しているものも10事象近く見られ、最大では、東京都港区のあるご家族が11基も奉納されていた。10.最後に 千本鳥居について、その歴史、初穂料などを文献・ネット情報から整理し、現地調査で、基数、建立年読み取りによる耐用年数の推定や建立月の特徴、奉納者の生業などを、詳らかにすることができた。 以上成果報告書には掲載していないが、分析結果をグラフにしたものがあるので添付しておきます。
2026/03/28
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抗がん剤の第一クールを終わって2日目。むくみも消えて体力的にも元気だったので、2人で「京の冬の旅」華光寺・光清寺を訪れました。両方のお寺とも、京都全寺社巡りで境内は訪れたことはあるものの、お堂のなかまで入ったことがありませんでした。この2つのお寺は、千本出水を西に入ったところにある近接したお寺です。雪が急に降り出したり、利尿剤や便秘薬を飲んでいるので、急にトイレに行きたくなったり、ちょっと大変でしたが、何とか2つのお寺にお参りすることができました。両方のお寺とも私の仲間が案内をしているので、久しぶりに皆さんと談笑することもできました。皆さん「元気そうで安心しました。身体に気をつけて、またガイドに復帰してくださいね。」とおっしゃってくれました。ありがたいことです。脱毛の副作用が出る前にいったのも幸いしました。久しぶりに仲間とお話ができたかけがえのないひとときでした。
2026/01/25
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左目白内障手術後、3回目のA眼科診察でした。手術後の経過は特に問題なし。4月末に止める目薬と続ける目薬の指示がありました。左目術後の3種の目薬。1,2は4月末で終了、3のみ合計3ヵ月継続とのことで、3を2ケ処方してもらいました。右目は、緑内障対応ブリモ二ジン2回/日継続、エイベリスは中止継続です。次回診察は、6月4日の右目手術の後でOKとのこと←前回「白内障手術」 次回「白内障手術」→
2026/04/23
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抗がん剤治療の自宅療養期間を利用して、映画を観に行ってきました。自宅療養中の劇場での映画鑑賞は2回めです。1回目の「国宝」は、私一人での鑑賞でしたが、今回の「ソング・サング・ブルー」は2人での鑑賞でした。監督·脚本:クレイグ・ブリュワー主演:ヒュー・ジャックマン ケイト・ハドソンアメリカの国民的歌手ニール・ダイアモンドのトリビュートバンドとして活動し、互いを信じ続けたあるミュージシャン夫婦の愛と再生の実話を描いた音楽ドラマ。展開もテンポよく、随所に散りばめられたニール・ダイヤモンドの楽曲も楽しめて、私には花マルの映画でした。
2026/04/26
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