綴

綴

2006年03月29日
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カテゴリ: side story [紅の雪]
 現時点では解決されない疑問に汪燕が内心首を捻っている最中、血生臭い幻惑から目が覚めた部下達に、狼暉は迅速かつ的確に指示を続ける。
「部隊編成はできたな?」
「はっ、命じられたように医療の心得のある者をまんべんなく配置しております」
「よし、人命救助を第一にしろ。救える者は、必ず救え。破落戸どもなんぞの相手は後でも充分できる。優先順位を間違えぬよう、しっかりと言い聞かせろ」
 部下達はやりきれなさを使命感に昇華できたのか、呆然としていた先ほどとは見違えるほど、羅家の兵士として相応しい行動だった。
 だが、汪燕はそんな姿を見て、少し顎を掴み、狼暉に命じられ今にも駆け出す部隊長達を呼び寄せた。疑問符を顔に浮かべているのも気にせず、端的に汪燕は静かに命じた。
「破落戸どもを発見しても、痛めつけようが、苦しませようが好きなようにしていい。だが、決して殺すな」
 疑問符が一気に消え、その下の表情に何とも言えない色が滲んだ。それは不可解な命令への憤怒ではなく、義憤から生まれた汪燕に対しての抗議したい、と言う気持ちだった。不可解な命を何故出すのかが分からなく、反発したい心と上司へ忠義心が交互に浮かんでは消えていた。
 狼暉は理由を言わずとも理解したようで、助けを求めるように仰ぎ見ていた部下達に首肯することで汪燕の意見に賛同の意を伝える。

 そして何より、破落戸どもは絶好の取引の餌になる。
 憎むべき敵を引き渡すのと、引き渡さないのでは大きな違いとなる。憎しみの矛先は当然そちらに向くので交渉を進めやすくなり、丸め込みやすくもなる。あなた達の憎い者達は全て倒した、もう安全だ、では、生存者はいません、ではすまされない。
 が、表立っての理由であった。
 胡主がそんなことで丸め込まれる御仁ではないことは、汪燕はよく知っている。破落戸どもの使い道は他にもあるのだ。
 今にも反論を騒ぎ立てそうな部下達に、汪燕は説明するのが時間の無駄だろうに、と思うので一瞬で片を付けることに決めた。
「殺すなど、そんな楽、許さん」
 酷薄な微笑を付属させた、冷めたいが裏に一抹の愉快さを滲ませた声は、雨の滴の冷たさよりも鋭く部下達に突き刺さり、凍り付かせた。
 少しは鑑賞しがいのある愉快な表情ではあるが、物足りない。先ほどの狼暉の顔と比べたら幾分劣るな、と奇妙な悦楽に、瞳の奥底に楽しげな光を一瞬だけ汪燕は灯した。
 次期羅主が胡家に向かったと言う情報を得たときの狼暉の表情は、それはそれは見物だった。
 くすんだ黒い髪から流れ伝う雨に眉を寄せていた表情とはかけ離れた、無防備なところをざっくりと傷つけられた顔は鑑賞に値するものだったが、特に目を引いたのは瞳だった。近くで見れば鳶色に見える瞳の奥には、純粋な怒りだけではなく、苛立ちや憤りで濁らせていた。複雑な感情が浮き沈みし、複雑な模様を醸し出す瞳は、それはもう、美しかった。もうすぐ三十路になると言うのにまだどこか若々しく、汪燕にはとうてい及ばないが比較的整った顔から、いつもは有り余っている余裕がなくなり、その空いた隙間に次期羅主への嫌悪感が支配していた。
 滅多に見ることができない表情に、充実感と満足感をはっきりと感じたのだった。あの表情は思い出すだけでも、しばらく悦楽に浸れるほどだ。

 人間は、いくらでも己を偽ることが可能な生き物だ。それは高度な知能が可能にするのだ、と何処かの名ばかりは高名な学者が言っているようだが、汪燕にしてみれば人間が無意識に見下している動物より臆病な生き物にすぎないのではないか、と思う。
 だからか、汪燕は信じられない。他人の表情や言葉や態度がそのまま本心であるなどとは。塗り固められた虚像にしか感じられない。
 特に笑顔などと言った喜の感情は負の感情より偽り易く、仮面にしか見えない。汪燕自身も、よく笑うことがある。だが心から楽しくて笑ったことなど両手で足りるだろう。頻繁に浮かべるのは、場に合わせた笑顔、拒絶の笑顔、部下など下の者を安堵させるために楽しくもないのに無理矢理浮かべた笑顔だった。
 だが、唯一信じられる表情があった。負の感情の極致である絶望に直面した悲壮な顔や呆然とした顔などだ。
 心底傷つけられたり、恐怖を味わうと人間は偽る余裕がなくなる。仮面をつけ忘れ、素の表情となる。その瞬間は、汪燕にとって素直に他人の感情を信じられ、表情に魅せられる。まるであの歪んだ表情が心の純粋な一欠片のように錯覚しそうになるほどだ。

 だが、魅せられるのも、美しいと思うのも、偽られていない心に触れられたと思う、と言う感情が大前提にあるようで、どうやらどんな人間でも良いわけではないようだ。懐に入れてもいい、と思える人間にのみ歪んだ顔が見たい、と思うのはそうとう質が悪いのだろう。
 優秀で有能な部下達の先ほどの顔は、気が向き、時間があれば見てもいいかな、と思う。以前金品を奪い取ろうとした野盗などは、最悪だ。あの醜悪さは二度と見たいとも思わない。性別が女であり、顔も整い見れる相手ならまだ考慮の余地は多少あった。だが、似たり寄ったりの下品な顔の男で、少々『苛めた』だけで情けなく泣き懇願する姿は気色の悪い顔以上にひどく癇に障ったので、忘れたくても未だに覚えていた。
 汪燕は、自身が軽く『苛めた』つもりでも相手により深く致命傷を与えていることは自覚していた。そしてそれぐらいで傷つく者達を軟弱、と思い、切り捨てきた。大抵そう感じる輩は汪燕が相手を試した時に、一番虫唾が走る方法で反論してくる連中であった。
 相手を試すのは、簡単だった。相手の弱く脆いところを狙いを集中し、そこに反論のしようがない証拠や言葉を投げかけてやればよい。目を逸らしていた、もしくは気付いていなかった部分を無理矢理明るみに引っ張りだし、突きつける。そうすれば、その後の反応さえ観察すれば大抵その人間の真価を見極められた。
 己の言葉で意思と考えを表せ、逃げず、目を逸らさず、きちんと汪燕と向き合える者が最低限の合格の判定を押せる者なのだが、滅多にいない。砂粒の中から砂金を探すほうが、まだ楽だ。金山や宝山などではない鉱山で一人で岩を砕き、その中から希少で素晴らしい輝きを持った宝石の原石を見つけるよりは、ずっとましではないか。
 ため息を吐きたくなるほどの手間と苦労だけならば、汪燕は自身の楽しみと、発掘した時の喜びのために決して時間をおしまずにした。だが、それは過程の途中で余計な価値すらない異物が見つからない、と言う前提がついた。価値すらない、見出せない異物は、醜悪で、見るに耐えないばかりか余計な囀りにより汪燕に頭痛や吐き気を催した。
 泣きわめくだけならば、良い。視界にも聴覚にも存在を入れなければ良いからだ。逆上するのもしかりだ。あしらうことなど呼吸をするより楽にできる。だが己の言葉ではない言葉で、薄っぺらい正論などで汪燕を非難するのは頂けなかった。私は間違っていない、こんなことをする貴方が間違っている、と頭ごなしに否定し、哀れみ、見下す輩が必ずいた。己の絶対的な正しさを過信、いや盲信しているのか好き勝手に耳障りなことを、こちらの意見など一切聞かず糾弾し続けるのだ。そこに諭し、導いてやろう、と言う気持ちが見え隠れすれば嫌悪感で思考が埋め尽くされる。諭すことが、悪いのではない。だが、諭すと言うよりも己の正しさを自慢したいのでは、としか思えないそれは、偽善者と言うよりも、『正しい位置にいる自分』に自己陶酔している阿呆だ。理不尽な言葉でもただ怒り狂っている輩の方が何倍も可愛げのあると言うものだ。
 怒ったり、泣いたり、理不尽に傷つけた汪燕を侮蔑、非難されることは、汪燕自身承知していた。傷つけられ、壊れそうな自身を守ろうとすることを-それぐらいで壊れるのかという呆れや嘲りなどはあるが-否定はしない。我慢もできる。だが、そこに純粋な怒りや悲しみ以外の、例えば汪燕への哀れみや苛められた『可哀想な自分』への哀れみなどが混じるとどうしても我慢できないのは、あまりに理不尽すぎるだろうか。
「しかし、まぁ……当たりがでる確立がもっと高ければ苛立ちがあれほど募らないのだろうがな」
 思い返してみれば、一体己が求めている存在と言うのはどれほど稀有なのだろう、と汪燕は思う。数多の貴族を、人を魅了してきた宝石などより、比べものにならない輝きをもつ、貴重すぎる人ひとは、いくら汪燕が心の奥底の弱いところを傷つけられようと、揺さぶろうとも、その輝きは翳ることを知らない。むしろそれすらも輝く為の、より強くなる為への糧となってしまう。
「多少苛めたぐらいでは、壊れたりしない強さを秘めている人間だからこそ、惹かれるのかもしれないが…」
 ふと視線を動かせば、氷の彫像と化した部下を溶かし、現実に立ち返らせた狼暉が、細かく道筋などを指示している姿が見えた。
 明るく闊達とした、剛胆な頼りがいのある兄貴肌である狼暉のことを、あちらがどう思おうと汪燕は気に入っていた。数少ない、稀有な輝きを放つ人種だと思っている。
 目を背け、忘れてしまいたいであろう過去を武器に突っついてみれば、あっさりと「そうだ」と揺るぎない口調で認め、「最低だろう」と汪燕にすら感情の読めなかった表情で呟き、「だが、これでも使い道はあるのでな、こんな男でもな」と妙ににこやかに言うなと思った瞬間、「だからな、ばらそうとしてみろ?俺は一向に構わないが、それで迷惑のかかる人が……こんな男でも必要としている人がいるのでな。どんな手段を使ってでもその前にお前を潰してやる」と刀を突きつけ脅して来たことは、汪燕にとって衝撃で、とても愉快であったのを今でもはっきりと覚えている。
 狼暉に裏表があるのか、と一時期疑ったが、そうではなかった。ただ何よりも大切なものを心にすでに定め、優先順位があまりにもはっきりとしているだけだった。あまりにはっきりしていて清々しくさえ汪燕には思えた。





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最終更新日  2006年03月29日 23時45分20秒
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