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今の私は新たな就職先を求めて活動するとともに、春の暖かさを感じつつ今のこの時を感謝しています。今日は、母がお世話をさせて頂いている方、母、私の3人で昼食を共にしました。私は季節の釜飯ということで、鱒が入った炊き込みご飯を食べました。とても美味しかったです。その後も車で行動を共にしました。まず新しく開館した図書館を訪れて見学、そして近くにある喫茶室で「梅クリームソーダー」を飲みました。 昨日は教会で「母の日サンデー」を過ごしました。私は土曜日に祖父と満開になった桜を散策した帰りに、祖母、そして母にカーネーションを買い、帰宅後にプレゼントしました。もう10年前になりますが、東京で教会関係の集まりがあった際、母の日のためにカードを買ってプレゼントしたことがあります。今回のようにカーネーションで母の日を祝ったのは、今回が初めてです。最初にも触れましたが、祈りつつ就職活動をしている一方で、家族はもちろん、その日に出会う人達と触れ合う時間を大切にしています。1月に市内のプロテスタント教会で特別伝道礼拝が行われた際、神学者で、長年牧師をされた加藤常昭先生のメッセージで聞いた「一期一会」という言葉が頭の片隅にあるからです。今、この時に出会った人達と、再び同じ場所で同じ時間を過ごせるかどうかわからない。それだけに、これからも人との出会いをより大切にしていきたいです。「いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み ついに、シオンで神にまみえるでしょう。」(詩編84篇6~8節)
2006年05月15日
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今日は午前に二週間に一回、通院している心療内科で診察を受けました。そして昼寝を終えはて午後からは、ハローワークに行って雇用保険の手続きを済ませようと思いました。しかし、持参してきた書類以外にまた別の書類が必要になることがわかり、後日また訪れることになりました。そのために、ハローワークを通しての就職活動は一時中断することになりました。必要な書類が届くまでには時間がかかるようで、「焦らずに就職活動をしなさい」と言われたような気持ちになりました。「エルサレムの平和を求めよう。あなたを愛する人々に平安があるように」「わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。あなたのうちに平和があるように。」「わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。あなたに幸いがあるように。」(旧約聖書 詩編122篇6節以降を抜粋)
2006年05月11日
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今日は久し振りに「聖書の学びと祈り会」に出席してきました。なかなか旧約聖書を読む機会が少ないですが、私達出席者は出エジプト記にある幕屋建設のテキストを通して、神の言葉は混沌とした時代にこそ聞くべきこと。そして聖霊に従うことで一人一人が神の宮になることを学びました。今日は何となく倦怠感を覚える一日でしたが、週の半ばに主の御前に招かれて御言葉に聞くことができる歩みを感謝しています。今日は雨が降るあいにくの天気でしたが、祖父の車を借りて市内のキリスト教書店で買い物をしてきました。戸を開けてもスタッフの人達は「いらっしゃいませ!!」という一言がなく、本を買って帰る時も「ありがとうございました」という一言もありませんでした。こうした挨拶がないのが残念ですが、あまりそのことにはこだわらず、自分が読みたいと思う本を2冊買ってきました。一つは今年になって読み始めた小林和夫先生の説教集で今回は「エペソ人への手紙」(日本ホーリネス教団出版局)。そして、キリスト者なら聞いたことがある名前だと思いますが、「バックストン説教集 第2巻」(関西聖書神学校編(新生宣教団)を買い求めました。どのような本だったのか、紹介できればと思います。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。」(詩編100篇3節)
2006年05月10日
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北海道にも桜前線がようやく上陸しました。開花宣言が発表されたばかりなので、見頃を迎えるまでには4~5日間ぐらいかかるようですが、春の到来を実感しています。そうした中で今日はボランティアとして、青少年自立支援ホームの桜見物に参加しました。冷たい風が吹いて少し寒さを感じましたが、外の景色を楽しみながらジンギスカンをたくさん食べました。スタッフの方々と一緒に食べたジンギスカンはとても美味しくて、お腹いっぱいに食べました。私は祖父と近いうちに、二人で自転車に乗りながら満開になった桜を見に行こうと話しています。今日はデジタルカメラを持って出かけましたが、カメラを必要とすることはありませんでした。やはり満開になった桜をカメラで撮影したいからです。今日は楽しいひと時を過ごせて良かったです。なかなか会話を楽しみながら食事をするということが苦手ですが、一つ一つの出来事を思い出として心に残したいと思いました。「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて」(詩編92篇2~4節)
2006年05月09日
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私は最近「祈り」を学んでいます。個人の祈り、クリスチャン同士の祈り、とりなしの祈り、そして教会の祈り。昨夜、就職活動を再開するにあたって、久し振りに『荒野の泉』という書物を読みました。そこには次のような文章が書き綴られていました。「失望することは失敗することである。すなわち敗北は落胆を生み、また祈りの現実性に不信を来らせる。それはあらゆる成功に対して致命的なものである。だが、ある人は「どのくらい祈ったらよいか」ときく。わたしたちは、求めを止めるところにまで到達し、神のみ手にそのことを託して安んずべきではないか。これに対してはただ一つの答えしかない。あなたが祈っているものが事実与えられるか、または与えられるという確信を得るまで祈る、これである。わたしたちは敢然、この二つのうちの一つを得るまで祈りつづくべきである。なぜならば、祈りは神を呼びまつることであるばかりでなくサタンとの戦いである。」みなさんに就職活動のことを中心に祈りをして頂いていますが、まずは私自身が祈り続ける歩みをしていきます。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を語られています。祈りの戦いこそ信仰の戦いであり、サタンの誘惑に陥らないための最善の道です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケの信徒への手紙一 5章16、17節)
2006年05月08日
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「イエスの暖かな こころのなかに 今も満ちている 平和のおもい もとめる者には 手をさしのべて 人にへだてなく しめすそのわざ」「心をとざして あらそうひとに イェスは近づいて その戸をひらく 豊かなめぐみに つみゆるされて わたしの心に 満ちるよろこび」これは私が通っている教会の歌集に収められている曲の一つです。先週、教会関係の集会に出席した際に、共に開会集会で礼拝の時を過ごした保育士の方々が合唱し、それが今も余韻として残っています。今日の聖日礼拝では、連合集会を通して「わたしたちの交わりとは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」ということを実感し、「わたしたちの喜びが満ちあふれる」体験をしたことの証しをしました。大型連休も今日で終わり、明日からはいつも通りの生活が始まります。私は就職活動で悩んでいますが、失望せずに常に祈り、おくびょうの霊から解き放たれることも願いたいと思っています。「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」(旧約聖書 ヨエル書3章3節 新共同訳)
2006年05月07日
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このゴールデンウィーク、私は地元から離れて久し振りに教会関係の連合集会に出かけてきました。期間中は快晴の青空が広がり、恵みの時を過ごしました。とは言いつつなかなか他の青年達と一緒に遊び、一緒に賛美する雰囲気に慣れず、薬を飲んでもなかなか頭痛が治りませんでした。どこかで無理をしていたのだと思います。今回は会場に泊まらず、事前に予約をしていたホテルに宿泊しました。部屋に着いた時には解放され、その夜はぐっすりと寝ました。集会後、私は以前から機会があればと思っていたアルコール依存症、薬物依存症の人達の福祉施設を訪ねました。就職活動の一環として訪ねましたが、施設長は若い私に驚いた様子でした。そしてスタッフは十分足りているという話でした。どうしても経験者や有資格者が求められる時代だということを、あらためて知らされました。連休中にも関わらず、施設長は貴重な時間をとってくださり、まだ昼食を済ませていなかった私にご夫人はスパゲティーを用意してくれました。また、私が属しているキリスト教団体の働きに好意的で、山室軍平の著書もよく読んだという話を聞きました。その後、作業所を実際に案内され、試行錯誤しながら作られたプログラムに沿って、依存症の人達が作業をされている話も聞きました。この見学で思い出に残ったのは、この時期しか飲むことができない白樺の水を飲んだことです。少し甘みがあって飲みやすい水で、この水で甘い味噌汁も作るということでした。ゴールデンウィークを終えて、私は再び就職活動を始めます。このことを覚えてもらえれば嬉しいです。私の存在そのものが神の栄光を表わすものとなりますように。「わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように。あなたの慈しみとまことによって。」「わたしたちの神は天にいまし 御旨のままにすべてを行われる」(詩編115篇)
2006年05月06日
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このところ憂鬱な気分が続き、なかなか日記を更新できずにいます。これからも変則的だとは思いますが、お許しください。私は明日から教会関係の集まりがあるため、1泊2日で札幌に行ってきます。最終日に祈祷の役割が与えられています。この集まりのメインは若い青年達です。どうかそれぞれに役割を無事に果たし、共に主にある交わりの時、また御名を崇めて賛美する時となりますように覚えてお祈り頂ければ嬉しいです。「聖なるものの集いにおいて あなたは恐れられる神。御もとにあるものすべてに超えて 大いに畏れ敬われる方です。」(詩編89篇8節)
2006年05月02日
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明日から5月になりますが、この一ヶ月間を振り返ると例年になく寒かったです。それでも厳しい冬の寒さに耐えた動植物が活動を開始し、我が家の裏庭にあるチューリップもつぼみを出していました。今日、青森の弘前で桜が開花したニュースを聞きました。桜前線はまもなく津軽海峡を越えて、北の大地である北海道に上陸します。私は就寝前に「祈り」(加藤常昭著/日本キリスト教団出版局)を読んでます。その中で、一昨日の祈りが目に留まりました。「私は、今どこにいたるのか。どこにいたらよいのか。どこへ行ったらよいのか。すぐにわからなくなります。途方に暮れます。動揺します。」意欲も気力も高まり、転職して他の職種で働いてみようと思い、就職活動をしています。しかし、書類選考の時点で不採用となり、いつになったら仕事先が与えられるのだろうか。自分を責めることはしていませんが、気が遠くなります。そうした中で与えられた御言葉は、「イエスは言われた。わたしは道であり、真理であり、命である。」 ヨハネによる福音書14章6節です。14章の最初には「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」という御言葉もあります。信仰生活を送るなかで、祈りを通して主に立ち返り、御言葉に励まされつつ歩みを進めていきたいです。
2006年04月30日
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今日は二週間に一回のペースで通っている内科で診察を受けてきました。特に問題なく、主治医は病院に通い始めた頃に比べたらすっかり表情が良くなったと話しました。そこで私が、いくつか就職面接を受けましたが、不採用に終わってしまって、と言いました。そうしたら主治医は、「景気が良くなれば働き場所が見つかるよ」と、楽観的な判断をしました。昨日はハローワークに行きましたが、社会経験を積んでいる人達の話を聞くと、自分に落ち度があって不採用になったわけではない。自分を責める必要はないんだよ、ということなのでしょう。就職活動はゴールデンウィーク後に再開します。今夜、教会の先生から電話があり、ご夫婦で出席されている教会員のご主人が脳梗塞で緊急入院されたことを聞きました。それに伴い、ご夫人が明後日の聖日礼拝の司会をすることになっていましたが、ご主人に付き添うことになったため、私となりました。教会の聖日礼拝に出席している人達は、年齢を重ねるごとに足腰が弱り、体のどこかに病気を患っています。そうしたなかでも信仰生活を送っています。どうかこのために覚えてお祈りくだされば嬉しいです。「あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは 主よ、あなただけなのです」(詩編86篇4節)
2006年04月28日
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今回の航空会社の結果を受けて、午前は何故仕事に対する意欲がある者に仕事の機会を与えてくれないのか、と思いました。とにかく腹が立ち、怒りをどこにぶつけて良いのかわかりませんでした。しかし午後は逆に体全体に倦怠感と脱力感を覚え、何もしたくない気持ちになりました。書類選考の段階で不採用になり、ショックを受けた事実は隠せません。そうした中で今日も静かな夜を迎えました。ネット上の仲間に励まされつつ、旧約聖書にある箴言を読みました。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」(第3章5、6節)「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」(第16章9節)こうした御言葉を読むと、騒いでいた心が静まります。私はとにかく神様の導きを祈り求めつつ、開かれた道を歩んでいきます。就職活動に苦労していますが、こうした体験も貴重な財産になるものと信じます。
2006年04月26日
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久しぶりに日記に出来事を綴りますが、今は腹立たしい思いでいっぱい。どこに怒りをぶつけたらいいかわかりません。ボランティア活動を通して体を慣らし、思い切って福祉以外の違う職種に就こうと思ってチャレンジしています。しかし、今回応募した某航空会社は理由にならない理由で、私を書類選考の時点で不採用にしました。それも採用されることを願いつつ、時間をかけて書き上げた履歴書も返却してもらえません。会社側で処分されます。これから先、どうしたらいいのかわかりません。若年層を雇う会社がない限り、いくら仕事に対する意欲や関心があっても仕事先は与えられません。それも過去の職歴を見て判断されるのなら、何も言えません。今は悔しいし腹立たしいし、事が思うように進まない現実をあらためて知らされました。
2006年04月26日
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何かと忙しかった一週間も土曜日の夜を迎え、気持ちは明日の聖日礼拝に出席できる喜びに満ち溢れています。キリスト者として日常生活を送る中で、礼拝から礼拝へと歩みが導かれていることを感じます。今日も私の運転で祖母を病院まで車に乗せて送迎しました。その後は、八百屋、生協の買い物に付き添いました。そうしているうちに午前はあっという間に時間が過ぎました。昼食を簡単に済ませてしばらく横になり、午後は東京で仕事をしている弟を迎えに駅に行きました。列車が到着するまでの間、駅構内にある書店で関心を惹きそうな本を探しましたが見つからず、少し我慢してお金をなるべく使わないようにすることを考えました。その後は、同じ駅構内にある喫茶店でコーヒーを飲んでリラックスし、到着時間を確認して改札口付近で弟を待ちました。しかし、次々と到着した列車から人が次々と改札口を通っていくなかで、その時の私は友人からのメールに気がとられていました。しばらくしてから弟からの電話があり、「今、どこにいるの?」と言われて、「改札口付近にいる」と返事をしていた方向に本人がいました。兄として何とも恥ずかしい話です。明日の聖日礼拝は、弟も出席します。教会員の皆さんはこの日が来るのを楽しみにしています。礼拝の自由証言(あかし)でどんな話をするのか楽しみです。「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ 楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。」(詩編95篇1~3節)
2006年04月22日
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昨日はホームページの更新を休ませてもらいました。今日も特別日記に書き記すことはありませんが、青少年の自立支援ホームでボランティア活動をさせて頂きました。今、思い切って転職することを自身で決めて再就職活動をしています。自立支援ホームに入所しているある青年が、短時間でも勤め先が決まったことを聞いて刺激を受けました。私はマイペースで、必ず自分を必要としている会社があることを信じつつ、前向きな姿勢で就職活動に励んでいます。「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望む人はすべて。」(詩編31篇24,25節)
2006年04月21日
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今日は朝から車を運転しながら外出していたため、体に疲れを覚えています。それでもこうして静かな夜を迎えるこができました。 「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。闘いを挑む多くの者のただ中から わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。」(詩編55篇17~19節)毎週水曜日に出席している祈り会を終えた直後に、ペラペラと聖書を開いて読んでいたら、この御言葉が目に留まりました。今週は明日誕生日を迎える祖父が仕事で不在のため、私の運転で祖母を病院まで送り、そのまま1時間少し待っています。普段とは何となく違う時間を過ごしているため、心身ともに疲れてもおかしくないでしょう。それでも、聖書を通して御言葉が与えられ、霊の糧となり、やがては肉の糧になります。まわりの方々の祈りに支えられていることも事実で、感謝に耐えません。
2006年04月19日
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なかなか事は思うように進まないことを今日あらためて感じました。先日、求人に応募したホテルから履歴書、職務経歴とともに残念ながら不採用になったという通知を受け取りました。面接で不採用になるならまだわかりますが、書類だけで仕事に意欲がある人間をどう判断できるのだろうか、と思いました。悔しい気持ちで胸がいっぱいになりましたが、ここで諦めてはならないと思い、インターネットで関心のある別の求人を見つけて連絡をしました。最近注目されている航空会社の求人です。神様はきっと私を必要としてくださる職場を、早かれ遅かれ与えてくださるものと信じます。どうかこのために覚えてお祈りして頂ければ幸いです。「いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進み、ついにシオンで神にまみえるでしょう。」(詩編84篇6~8節)
2006年04月18日
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今日の私が住んでいる所は、どんよりとした雲が広がって小雨が降るあいにくの天気でした。もう4月中旬だというのに寒い日が続き、春の訪れが遅れていることを毎日感じています。今日は朝から疲れました。祖父が仕事を頼まれたために、私の運転で祖母を市内にある整形外科まで送り迎えをしました。7時50分頃に家を出発し、診察を終える祖母を車の中で一時間待ちました。その間、キリスト教放送局FEBCでもおなじみの小林和夫先生(日本ホーリネス教団東京聖書学院教会牧師)の説教集を読んで待ちましたが、今週の木曜日に81歳の誕生日を迎える祖父のことを思い、よく狭い車内の中で祖母のために待っているなぁと思いました。何かと祖母に対して気配りしている祖父に対して、頭が下がります。昨日はイースター礼拝の司会をしました。月に一度は礼拝の司会をしていますが、イースターという特別な時にこうした役割が与えられて感謝でした。昨夜から「無事に役割を果たされて良かったですね」というメッセージを受け取りました。みなさんの祈りに心から感謝いたします。「見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。我らの魂を死から救い 飢えから救い、命を得させてくださる。」(詩編33篇18~19節)
2006年04月17日
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イースターおめでとうございます。キリスト者は週ごとの聖日礼拝を通して、復活の主イエス・キリストを覚えて礼拝に出席します。しかし、キリスト教の暦で最も大切なイースターを今年も迎えることができて感謝しています。私が住んでいる北海道は、春の訪れとともにイースターを迎えます。しかし、今日は8時過ぎに降り続いていた雨が雪に変わり、寒い一日でした。残念ながら墓前礼拝は延期となりましたが、聖日礼拝では十字架につけられたイエス・キリストが、最後の敵である死を滅ぼし、私達に永遠の命を与えてくださった恵みを心から喜び祝い、感謝する時となりました。皆さんの祈りに支えられ、礼拝の司会も無事に役割を果たしました。直前までイースター礼拝の祈りをすることができるだろうかと思い、聖霊の助けと導きを祈り求めました。この今朝も祈祷集を読みながら言葉を探しましたが、自分の言葉で思うことをありのまま祈ることにしました。今日は年齢の若い私が司会ということで、教会の先生はヨハネによる福音書20章1~18節と、長い聖書箇所を朗読しました。口の中が乾燥していたために朗読に少なからず影響がありました。朗読する中でどこで息継ぎをすればいいのかわからず、とにかく朗読を終えた時はホッとしました。キリスト教放送FEBCでメイン・パーソナリティーをされている吉崎恵子さん。毎日の放送で「こんばんは、いかがお過ごしでしょうか。今日もお会いできてとても嬉しいです」と言い、月曜日の放送では「今週もご一緒に歩ませてください」と付け加えて言います。私もこのホームページを訪問された方に思いを伝えます。「今週もあなたとご一緒に歩ませてください」「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてをくださった。人はこぞって主を仰ぎ見 主を畏れ敬い、主に依り頼む。いかに幸いなことか、主に信頼をおく人」(詩編40篇2~5節)
2006年04月16日
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4月第3週も神様の祝福と守りの内に終えようとしています。家族は最近の私の行動を見て、「集中力に欠けてしまっているんじゃない。あんたは本当に大丈夫かい?」と言われ、気持ちが落ち込んでいます。それでも明日はキリスト者にとってクリスマス以上に大切なイースターを迎えます。熱帯植物園でのボランティア。昨日は腰痛で休んだため、今日は何人かのボランティアから暖かい言葉をかけられました。とても嬉しかったです。花苗作りの作業を終えて、お茶とお菓子を味わいながら楽しいひととき時を過ごしました。今回、福祉とは全く関係のないボランティア活動をしましたが、実際に手で土に触りながら草花と触れ合う時間を持ちました。 就職活動を再開した私はホテルの予約事務員の求人に応募しました。仕事に関してもボランテうィアに関しても、福祉にこだわる必要は全くないと思ったからです。明日はイースター礼拝が行われますが、うちの教会では、私に礼拝の司会の役割が与えられています。ここ数年、召天者合同記念礼拝など、教会の大切な礼拝で司会の役割が与えられ、「自分に任されて本当にいいんだろうか…」と思うこともあります。どうかこのことのために覚えてお祈りして頂ければ嬉しいです。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。」「主よ、御言葉のとおり命を得させてください。わたしの口が進んでささげる祈りを 主よ、どうか受け入れ あなたの裁きを教えてください。」「あなたの掟を行うことに心を傾け わたしはとこしえに従って行きます。」詩編119篇105節以降の御言葉です。
2006年04月15日
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今日は主イエス・キリストが十字架につけられた受難日です。受難節を迎えた3月1日から今日に至るまで、週ごとの聖日礼拝を通して、また日々の祈りと黙想を通して、「さあ、立て。ここから出かけよう」と言われた主イエスの受難を偲んできました。私は決まった時間にある親しい姉妹と祈りの時を持っています。昨夜はヨハネによる福音書19章16節後半から22節を読みました。その中で心に留まる記事が二つあります。一つは「イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」(17節)という箇所です。そしてもう一つは、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。それは、「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた」(20節)という箇所です。特にこの20節の箇所を読む度に思い出すのは、救世軍の山室軍平の著書「私の青年時代」で、著者自らが別の聖書箇所を読んでキリストのことを「ユダヤ人の王」と書いてあるのを見て、そのわけを尋ね、「これは精神上の王者という意味である」と説き明かされのを聞いて、なるほど目に見える世界、この世につく生活以外に、精神上の世界というものがあるのだ、ということに心づいたという文章です。イエス・キリストの十字架の予告が書かれたイザヤ書53章2節には、次のような御言葉があります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの病を負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」とあります。この「わたしたち」という言葉は決して律法学者やパリサイ派の人達だけではなく、キリスト者である私も含まれていることを思います。受難日である今日、あらためて主に立ち返ると共に、暖かい眼差しで私を見守ってくださる父なる神様の招きに躊躇せず応答したいと思います。「主よ、あなたの道を示し 平らな道に導びいてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。・・・わたしは主を信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。主を待ち望め 雄々しくあれ 主を待ち望め」(詩編27篇11~14節)
2006年04月14日
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日中は曇り空、朝晩は雨が降る一日となりましたが、こうして我が家で静かな夜を迎えました。今日も一日の出来事を振り返りつつ日記に書き綴ることができて嬉しいです。今日は近くにある熱帯植物園でボランティアをしてきました。3日間の活動のうちの初日は、腐葉土作りをしました。作業は予想以上に厳しいものでした。介護の仕事で腰痛になった経験のある私にとっては、袋にたくさん入った落ち葉を持ち上げる際にどうしても中腰になってしまうことが多く、活動してまもなく、とにかくこのキツイ作業から解放されたいと思いました。ちなみに明日は花の種蒔き、挿し苗のボット上げといった作業が予定されています。今日のような肉体労働で腰痛になるような作業はないものと思います。我が家に帰ってきてからは、とにかく温泉に入って頭も体も洗いたいと思いました。帰宅後、簡単に昼食を済ませてから、祖父母と一緒に温泉に入ってきました。その後、再び我が家に戻ってからは、布団で2時間ぐっすり寝ました。福祉とは全く関係のないボランティア活動をしたのは、社会人になって初めてです。我が家で部屋に閉じこもって過ごすよりは、今日のように他の参加者と一緒にボランティア活動をするのも気持ちが良いものです。まだ腰痛で背中に温シップを貼っていますが、今日の作業を無事に終えて良かったなぁと思っています。「わたしは確かに知った 主は大いなる方 わたしたちの主は、どの神にまさって大いなる方。天において、地において 海とすべての深淵において 主は何事をも御旨のままに行われる。地の果てに雨雲を湧き上がらせ 稲妻を放って雨を降らせ 風を倉から送り出される。」(詩編135篇5~7節)
2006年04月13日
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今日の午前中は、毎週水曜日に行われている聖書の学びと祈祷会に出席するため、祖父に送り迎えをしてもらって教会に行きました(車の運転をしたのは私です)。今日の集会であらためて思ったことは、祈る課題が多いことです。自分自身のことはもちろんのこと、それぞれの事情で教会に来ることができない方に対する祈りが多くあります。自分自身のことで言えば、自分の気持ちとどう向き合えばよいのか悩んでいます。そして我が家のことで言えば、感情の起伏が顕著に見られるようになった祖母とどう向き合えば良いか・・・。80歳前後の高齢者の性格が良くなることを期待することはできません。ですから、自分で解決できない問題は、最善を成し遂げてくださる父なる神様にお任せしようと思っています。「神様、私にはどうすることもできません。もうお手上げ状態です」と素直な気持ちで祈ります。「神に向かってわたしは声をあげ 助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ 神はわたしに耳を傾けてくださいます。苦難の襲うとき、私は主を求めます。」(詩編77篇2~3節)「声をあげ、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。御前にわたしの悩みを注ぎ出し 御前に苦しみを訴えよう」(詩編142篇2~3節)
2006年04月12日
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今日も目が覚めた時からこの静かな夜を迎えるまで、神様に守られて無事に過ごすことができました。私は自分の計画を少し考え直し、ゴールデンウィーク前の今から就職活動を始めていくことにしました。早速、ハローワークでお世話になっている人に連絡し、これまで経験きた介護のような肉体労働ではなく、なるべく体の負担にならないような仕事先がないだろうかと相談しました。担当者の人は話を聴いた上で望んでいるような仕事先がないか、それとなく調べておくよ、と返事してくれました。同時に私自身もインターネットで調べ、我が家から歩いて通える距離にあるホテルの予約事務員の求人に応募することにしました。履歴書を書くのは大変な作業ですが、なんとか書類選考が通ることを願いつつ書きました。午後、ドライブを兼ねて市内に一ヶ所だけあるキリスト教書店に出かけました。たまに今日のような天気に恵まれた日に、こうして車でドライブするのも楽しいものだなぁと思いました。キリスト教書店では、昨年の「北海道ケズィック・コンベンション」で聖書講演をされ、個人的にお願いして祈りをしてくださった小林和夫先生(東京聖書学院教会牧師)の説教集2冊を買いました。神学者の加藤常昭先生、そして小林和夫先生もキリスト教放送局FEBCを通して名前を知り、お二人のわかりやすい話に励まされ慰められてきました。こうして説教集を通してキリストの福音の恵みに与れることを感謝しています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記8章3節)
2006年04月11日
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昨日は直前まで聴いていたキリスト教インターネット放送局FEBCの放送が突然聴けなくなりました。何度、再起動を繰り返しても放送が聴けず、私のパソコンの機能そのものに問題があるのではないかと思い、「時間がかかるけど仕方がない。再セットアップをするぞ!!」と思い、全てのデーターが消されて購入時の状態にしました。作業はなかなかスムーズに進まず、4時間かけてやっとパソコンを使える状態になりました。そして今朝、オペレターの指示を聞きながらインターネットが使える状態となりました。昨日はこうした問題で、ホームページの更新ができずに一日を終えました。その昨日は棕櫚の聖日でした。私が通っている教会は受難日集会が行われないので、礼拝の説教を通して主イエス・キリストの十字架を前にして、ローマ兵と女性達が対照的な行動をしていることを学びました。ローマ兵は主イエスの服を選び分けました。逆に女性達は主イエスの十字架を仰ぎ見ながら最後まで救いを信じ、最後まで従いました。これらは全て聖書の言葉が実現するためであり、「成し遂げられた」という主イエスの言葉は、神の救いがこれから始まる勝利宣言である。こうした話を聴きました。今週は受難週ですが、より祈りと黙想を深めたいと思いつつ、「黙想 十字架上の七つの言葉」(加藤常昭著/教文館)を少しずつ読んでいます。今日読んだページには次のような文章が綴られています。「まさに大祭司である神の子イエスが助けてくださっているからこそ、私たちは大胆に神の恵みの座に近づく祈りができるのである。」「しかも主イエスは、かつての大祭司がしたように雄牛の血を神の前に注いで、罪の赦しを願われたのではない。ご自分の血を注ぎながら、「父よ、彼らをお赦しください」と祈っていてくださる。」昨日の午後は来週の墓前礼拝に備えて、墓地周辺の清掃をしました。そこには躊躇している春の訪れを感じさせる水仙やふきのとうを見つけて心が和みました。来週はいよいよイースターを迎えます。キリスト者にとってはクリスマス以上に大切な祝いの時です。教会に行く人も行けない人も、復活の主イエス・キリストの御名を心から喜ぶことができますように!!
2006年04月10日
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今日は久しぶりに近くの書店に出かけてきました。どんな新しい本が出版されているか、フロアー内をあちこち見ながらおもう楽しみました。そして恋愛小説が多い中で「これを読もう!!」と思った本が「人は言葉に癒され、言葉に励まされる」(松永伍一著・PHP研究所)です。この本の「はじめに」の後に書かれている文章が、物事がうまくいかない時に「まずは深呼吸」です。その文章を紹介します。「朝起きて、澄んだ空を見上げると、反射的に深呼吸をしたくなります。鼻から小さな風がスーッと侵入して「気持ちがいいよ」というつぶやきを求めます。そのあと「ハッー」と吐き出す息で心が落ち着きますから、それを二回、三回繰り返すと「きょうも一日頑張れそうだ」という淡い決心が湧くのです。」私の枕元には買っただけで、まだ一ページも読んでいない本がたくさんあります。そのほとんどはキリスト教関係の本ですが、こうした宗教とは全く無縁の本を読む楽しさを最近になってようやく感じるようになりました。同時に本は勧められることもありますが、やはり自分で選んだ本を読んだ方が楽しいことも感じています。明日は棕櫚の聖日、そして受難日を迎え、再来週はキリスト者にとっては最も喜ばしいイースターを迎えます。明日の全国各地で持たれる聖日礼拝の上に、神様の祝福が豊かにあり、恵みを頂いて足取り軽く帰ることができますように。私が通っている教会では、午後からイースター当日の墓前礼拝に備えて、草刈りをします。「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。・・・あなたはわたしに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる」(詩編118篇より引用)
2006年04月08日
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今日は青少年の自立を援助する事務局で、ボランティア活動をしてきました。帰宅して体に疲れを覚えていますが、恵みのひとときを過ごしてきました。今朝は「み言葉の放つ光に生かされて 一日一章」(加藤常昭著 日本キリスト教団出版局)を読んで心に留まった文章があります。「祈るたびに自分の願い事を立て続けに述べ立てる言葉を捨てて、私たちも祈るべきではなかろうか。苦難のなかにあっても、悲しみのさなかにあっても、私の願うとおりではなく、あなたのみこころが、この私の歩みにおいても、行われますように。」主イエスの言葉に、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイによる福音書6章8節)にあります。私も自分の思いは思いとして抱きつつ、実生活の中で神の御心が行われることを祈り続けたいです。
2006年04月07日
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4月だというのに私の住んでいる所は、今朝雪が降りました。その後は青空が広がりましたが、寒い一日でした。ストーブは欠かせないし、最近は寝る前にふとん乾燥機を使っています。そうすると暖かいふわふわしたふとんで気持ちよく寝ることができます。今日も昨日に続いて体調不良で相変わらず脈拍が早く、ちょっと動いただけでも動悸や息切れを起こす苦しい一日でした。そうした時に自分の気持ちを理解してもらいたい仲間が欲しくなり、共に祈れればどんなに平安が与えられるだろうかと思っていました。しかし、これは自分勝手なことで、わがままとしか言いようがありません。本当に今は試練の時で、悩みが尽きません。自分の気持ちを素直に受け入れられない自分、家族関係のことで悩む自分、そして就職活動をいつから始め、どのような職種に就けば良いのか悩む自分・・・。そうした中で嬉しい出会いもありました。あくまでもネット上で知り合った人達ですが、共に主イエス・キリストの信仰に生きている仲間です。これらの人達との主にある交わりは大切にしていきたいと思います。「あなたたちは生まれた時から負われ 胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章3~4節)
2006年04月06日
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今日の私は調子が悪く、毎週水曜日の聖書の学び会と祈祷会、そして夜からのボランティア活動は休むことにしました。脈拍が早いために動悸や息切れが起こり、苦しいのです。時間の経過とともに落ち着きましたが、主治医曰く、年齢を重ねていくうちに気にしないで済むようになるのでしょう。今日が体調不良であることや、悩みが尽きないことを、毎週水曜日に出かけているプロテスタント教会の牧師に話をしました。そして最後にイザヤ書30章の15節を読んでくれました。「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神はこう言われる。静かにしていれば救われる。安らかに信頼していることにこそ力があると」神様によってはっきりとした道が示されている中で、今の自分は何をなすべきか。就職活動を始めていこうとするなかで、どのような職種に就きたいか迷いがあります。どうかこのために祈りに覚えてもらえれば嬉しいです。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない。」(詩編62篇6、7節)「わたしの救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し 御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」(8、9節)
2006年04月05日
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今日はメンタルクリニックで診察を受け、点滴も受けてきました。症状が重いからというのではなく、気休めになればという意味での点滴です。薬に変更はありませんでした。私は何も特別していないのに、長い時間我が家で時間を過ごしているためか、ため息ばかり出てきます。自分の進路のこと、我が家の問題のこと・・・。我が家にあっても言いたいことが言えない自分が苦しいです。どうしても自分の気持ちを抑え込んでしまうのです。実際に電話相談してもスッキリせず、今日は薬を飲んで2時間ふとんで寝ました。目を覚ましたら少し気持ちは楽になりました。「神に向かってわたしは声をあげ 助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ 神はわたしに耳を傾けてくださいます。苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。」(詩編77篇2~3a)
2006年04月04日
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今日は特別予定もなく、我が家で讃美歌を聴きながら過ごしました。私は昨日からの家族関係の問題で心が騒ぎ、安心して過ごせませんでした。そのため時々神様に祈り、特に聖書が約束してくださっている聖霊による平安を求めました。讃美歌は本当に何度も聴いても飽きません。歌詞も味わい深いものがあります。私の好きな讃美歌である「牧主わが主よ」を繰り返し聴きました。この曲の2節目は次のような歌詞があります。「良き友となりて 常にみちびき まよわば尋ねて ひき返りませ われらの祈りを 受け入れたまえ 我らは主のもの ただ主に頼る」今夜は詩編37篇の御言葉を書き綴ります。「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ」
2006年04月03日
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今日は特別予定もなく、我が家で讃美歌を聴きながら過ごしました。私は昨日からの家族関係の問題で心が騒ぎ、安心して過ごせませんでした。そのため時々神様に祈り、特に聖書が約束してくださっている聖霊による平安を求めました。讃美歌は本当に何度も聴いても飽きません。歌詞も味わい深いものがあります。私の好きな讃美歌である「牧主わが主よ」を繰り返し聴きました。この曲の2節目は次のような歌詞があります。「良き友となりて 常にみちびき まよわば尋ねて ひき返りませ われらの祈りを 受け入れたまえ 我らは主のもの ただ主に頼る」今夜は詩編37篇の御言葉を書き綴ります。「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ」
2006年04月03日
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4月最初の聖日、外は雨が降り続いていますが、我が家で静かな夜を迎えて感謝しています。今朝は我が家で心が騒ぐような出来事があったのですが、教会に入るとともに気持ちが落ち着き、新約聖書のヨハネによる福音書から主イエスの受難の出来事を学びました。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネによる福音書1章10、11節) 「言」という言葉を「イエス」に置き換えて読んで頂くとより意味がわかりやすくなります。教会から帰宅する途中、CDショップに立ち寄って「讃美歌名曲集」を買いました。「いつくしみふかき」「主よみもとにちかづかん」「牧主わが主よ」など、日本のキリスト者に親しまれてきた讃美歌が収録されています。さっそく我が家に戻ってから聴き、讃美歌は何度聴いてもいいなあと思いました。先ほども書きましたが、4月最初の聖日だというのに朝早くから心が騒ぐような出来事があり、教会に到着後、礼拝が始まる前の心備えとして詩編を読みました。そうしたら次の御言葉に目が留まりました。「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る」(詩編36篇8~10節)この主の約束を信じていこうと思いました。今日も健康が支えられて礼拝に出席することができて感謝です。
2006年04月02日
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皆さんいかがお過ごしですか。年度初めである4月1日が終えようとしていますね。今日の私は何となく寂しい気持ちになり、こうした気持ちとどう向き合ったら良いのだろうか。どこからか「甘ったれるな!!」と言われそうな気がしました。まもなく受難週を迎え、復活の主イエス・キリストの御名を喜び祝うイースターを迎えます。教会の月報では。4月16日のイースター礼拝の司会をすることになっています。どうぞこのためにお祈り頂ければ幸いです。「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる。闘いを挑む多くの者のただ中からわたしの魂を贖い出し、平和を守ってくださる。神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。神はいにしえからいまし 変わることはない」(詩編55篇17~20節)
2006年04月01日
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今日で3月が終わろうとしています。この一ヶ月間、皆さんはどのように過ごされましたか? 私は職場復帰を目指しつつボランティア活動を始めました。今日は引越しされる方の荷物を新しいお宅まで運ぶ作業をしてきました。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、掃除機・・・。久しぶりの力仕事で疲れはあったものの、無事にやり終えた満足感でいっぱいでした。明日から4月ですね。新年度を迎え、入学、入社式を迎えようとされている人達は、ワクワクドキドキされることと思います。どうかお一人おひとりの健康が支えられ、新生活を無事に始められることができますように。神様の祝福を心からお祈りいたします。私自身は焦らず、しばらくはボランティア活動を通して体を慣らし、就職に結びつくようになればと思っています。「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(申命記31章6節)
2006年03月31日
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今日でこのホームページが開設して1年が経ちました。訪問してくださる方々の励ましと祈りに支えられ、今はもう感謝と喜びでいっぱいです。本当にありがとうございます。 「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知る香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリスト・イエスによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から死に至らせる香りです」(コリントの信徒への2章14~16節)
2006年03月30日
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春の足音が聞こえてきたかと思ったら、今日は天気が一変して冬に逆戻り。雪が降り、冷たい風が強く吹いてとても寒い一日でした。津軽海峡もうねりをともなった高い波が、海岸の波消しブロックに打ち寄せていました。こうして天候が悪いと外出したくない気持ちになりますが、聖書を通して主の御心を尋ね求めたい気持ちもありました。午前はバスを乗り継ぎながら教会に行き、聖書の学びと祈祷会に出席してきました。キリストの招きに応えて出席した集会。旧約聖書の出エジプト記から神の臨在について学び、モーセが神とイスラエルの民の仲保者としてシナイ山を何度も登り降りしたことも学びました。その後、2つのグループに分かれ、今週の祈祷課題に沿って祈りをしました。「あなたの僕の魂に喜びをお与えください。わたしの魂が慕うのは 主よ、あなたなのです」(詩編86篇4節)
2006年03月29日
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昨夜は市内の芸術ホールで小学生が演じる特別公演「箱館戦記~新章~ 静かなる獅子」を観賞してきました。以前はこうした演劇やオペラ公演に関心がなく、鑑賞中も退屈だなあと思っていました。しかし、今は違います。昨日の公演は小学生が精一杯に演技し、箱館戦争で敵味方に関係なく傷病兵の手当てをした高松凌雲の精神に感動しました。涙が止まりませんでした。話は変わりますが、今キリスト教の暦では主の御受難と死を偲ぶ、レントの時期を過ごしています。人それぞれに救いの体験は違いますが、私がクリスチャンとして歩み始めた頃は、主イエス・キリストの十字架によって私達は父なる神様の方向に向かって歩んでいるんだと思っていました。最近は父なる神様の働きかけが、キリスト者である両親を通して、あるいは私自身に対してあったこと。そして罪人である自覚はありながらも、キリストの十字架を通して示された神の愛のただ中に生かされている恵みを感謝しています。私の通っている教会で用いている曲の一つに「イエスよ十字架の」があります。「イェスよ十字架の いさおにより われをつみより すくいたまえ」「イェスの十字架の かげにすめば 日ごとのめぐみ われにたれり」「イェスの十字架の もとにたちて さかえのくにを われはのぞまん」 (コーラス)「われのほこり 十字架にあり 世を去る日まで 十字架ほこらん」 レントを過ごしつつ、春の訪れとともにまもなくイースターを迎えます。「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(コリントの信徒への手紙一 3章23節)
2006年03月28日
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今朝は強い雨と強い風が吹く悪天候でしたが、午後になって青空が広がりました。今夜も神様の祝福と守りのうちに、静かな夜を迎えました。今日はなんとなく気が重く、足が教会に向かないような感じでした。しかし、時計を見ながら礼拝に出席するための準備を整えて教会に行きました。一週間の恵みを感謝しつつ、礼拝の頌栄、祝祷をもって新しい一週間を始めたい。それ以上に父なる神様を礼拝し、心からの賛美をしたいと思いました。今日の礼拝では「牧主わが主よ」「いつくしみふかき」などを賛美しました。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に贖われる羊の群れ。感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美を歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ」(詩編100篇1~5節)
2006年03月26日
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1泊2日で我が家の近くにあるホテルに宿泊し、今朝まで楽しいひと時を過ごしてきました。昨日は夕食後にカラオケで楽しみ、「青い山脈」「四季の歌」「高校三年生」を歌いました。どの曲もデイサービスセンターで仕事をしていた時に覚えた曲ばかりで、その当時のことをふと思い出しがら歌いました。人前で話したり、曲を歌ったり、なかなか勇気がいるものです。そうした中で私は教会での経験を通して、今は恥ずかしがることなく立つことができます。高校生の時から集会の司会をしたり、講壇に上がって聖書朗読したり、街中での路傍伝道でマイクを使って声を出したり・・・。そうした訓練を重ねて今の自分があります。明日は3月最後の聖日です。まだ自分自身は聖日を迎えるための準備ができていませんが、礼拝を通して神様から祝福と恵みを受け取って新しい1週間を始めていきたいです。「神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで すべてのものが神を畏れ敬いますように」(詩編67篇8節)
2006年03月25日
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今日は二週間に一度の心療内科の受診に行き、薬を処方してもらいました。精神安定剤の他に、以前飲んだことのある肩こりに効く薬と、頭痛に効く薬を追加してもらいました。私は緊張すると急に頭痛になったり、肩こりになったりします。ちなみに学生の頃は、悩み事があると胃痛でよく苦しみました。今日は「キリスト教メンタルケアセンター」の方からの返事を受け取りました。丁寧な手書きの手紙です。手紙には、「都会の喧騒と、コンクリートのつづく街並みは、大きな自然のふところに抱かれて育った方々にとってはただ冷たく、心まで押しつぶされそうになってしまうと感じられたことでしょう。心まで押しつぶされそうになってしまうと感じられたことでしょう」と、書いてありました。私自身はどんなことを書いたか忘れてしまいましたが、手紙を書いてくださった方が電話での私の話を通して、また手紙を通して、感じたことをありのまま書いてくださったものと思います。「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり わたしの魂の悩みを知ってくださいました。わたしを敵の手に渡すことなく わたしの足を広い所に立たせてくださいました」(詩編31篇8、9節)
2006年03月23日
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今夜は高齢者を対象にしたパソコン講座のボランティアをしてきました。とは言っても人に教える知識はまだまだで、テキストを見ながらエクセルの勉強をしてきました。帰宅して一日が終わろうとしているのだなぁとホッとしています。「今、わたしは知った。主は油そそがれた方に勝利を授け 聖なる天から彼に答えて 右の御手による救いの力を示されることを。 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 彼らは、彼らの神、主の御名を唱える。 彼らは力を失って倒れるが 彼らは力に満ちて立ち上がる」(詩編20篇7~9節)
2006年03月22日
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「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」(テサロニケの信徒への手紙一 2章11、12節)今日の春分の日、NPO法人が運営している熱帯植物園に出かけてきた。まず最初に窓口で自分の名前を伝え、「ボランティアで来たんですが・・・」と言いました。そうすると「何のボランティアですか?」と言われ、最初の段階で「何かこれは違うなぁ」と思いました。熱帯植物園に到着した頃には、もうすでに丸太にキノコの菌種を植え込む作業をしている人達がいました。さっそく担当者の人に名前を言うと、掲示板にある名前のリストに名前が書かれていない。「これはどうしたことか・・・」何度も名前を探したものの見つかりませんでした。「良かったらボランティアをしませんか?」という誘いを受けて出かけたにも関わらず、名前が書かれていない。私の聞き間違えか、担当者の聞き忘れか、どちらかでした。事前の電話連絡では、この行事の体験を参加するのに参加費がかかる話は全く聞きませんでした。そのため、「1000円頂きます」と言われた時は、内心「えっ!?、そんな話は全く聞いていないよ」と思いました。ともかく他の参加者に加わって、丸太に穴を開けて菌種を埋め込み、作業はたった1時間で終わって我が家に帰ってきました。いったい出かける直前のドキドキ感は何だったのでしょう(笑)明日はいつもの教会で聖書の学びと祈祷会があります。牧師から聖書の話を聴く時に思い出すのは、「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」というパウロの言葉です。今日は今日、明日は明日、備えられた恵みに与りたいです。今夜もこうして静かな夜を迎えられたことを感謝しつつ。
2006年03月21日
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「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と体とをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピの信徒への手紙4章4~7節)新しいことを始める時は、いつでも恐れと不安を抱き、思い煩ってしまいます。しかし、自分の心の内にある祈りと願いをささげることによって、時間の経過と共に平安が与えられる。このような経験を私はいつもしています。「思い煩うな」とは言っても思い煩ってしまう。本当に小さな者です。それでも復活の主イエス・キリストがいつも共にいてくださることが、私の原動力になります。明日はNPO法人が運営している熱帯植物園で、ボランティア活動をしてきます。福祉以外のボランティアに参加するのは始めてですが、今から楽しみにしています。家族には(特に母には)心配をかけますが、今しばらくはボランティア活動を通して、体を慣らし、その場の雰囲気にも慣れ、人脈を広げていきたいと思っています。どうぞこのために覚えてお祈りください。
2006年03月20日
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今夜から北日本は台風並みに発達する低気圧の影響で、暴風雪に見舞われるようです。明日の降水確率は午前も午後も50%。午後からボランティア活動先を訪問することになっているので、猛吹雪にならなければいいのだがと思っています。週の初めの日曜日、今日も健康が支えられて私自身は礼拝に出席することができました。しかし、教会員のなかには体調を崩されている方もおられ、この日を覚えつつも礼拝に出席できない方々もいます。今年のイースターは4月16日ですが、この日は教会に連なる全ての人達が主イエス・キリストが復活された喜びを共に感謝することができればと思っています。今は主の御受難と死を思うレントの時期。十字架の死に至るまで父なる神様に従順であられた主イエス・キリストの御跡を辿るときです。今朝は次の聖書の言葉を読みました。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった」(マルコによる福音書8章31、32節)特にこの箇所では、主ご自身が十字架による死と復活について、「そのことをはっきりとお話になった」という言葉に心が留まります。この後、主イエスをいさめ始めたペトロをお叱りになられましたが、神様のご計画は変わることなく、さまざまな人を通してなされていくことがわかります。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマの信徒への手紙5章8節)今週も神が共にいてくださることを信じつつ、この方の限りない愛に生かされて歩みたいです。
2006年03月19日
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今日は土曜日ということで母も仕事が休み。午前中は久しぶりに三省堂書店に行き、カトリックの司祭をされている百瀬文晃先生著「キリストに出会う」(女子パウロ会)を買ってきました。実をいえば昨日ようやく見つけたキリスト教書店に行きたかったのですが、土日は休みのようです。留守番電話になっていました。午後に帰宅後、あまり使う機会があるかどうかわかりませんが、日本語ワードプロセッサー「一太郎2006」をインストールしました。「Word 2002」でさえ満足に使いこなしていない状況ですが、今週からボランティアで高齢者の方にパソコンの操作を教えることになったので、自身も実際に使いながらどんな機能があるのか覚えていきたいと思います。まだまだ桜の開花時期には早い北海道ですが、我が家の裏庭で小さな「春」を発見しました。福寿草、チューリップが小さな芽を出していたのです。この冬の厳しい寒さと大雪に見舞われながらも、ここ数日の暖かさで眠りから覚めたようです。この小さな「春」の発見で何となく嬉しい気持ちになりました。明日は3月第三週の聖日です。イースターまで一ヶ月を切り、キリストの十字架による血の購いによって罪が赦され、父なる神様と祈りを通して交わりが与えられている恵みを感謝しています。来週は何かと予定が入って忙しくなりますが、まずは礼拝から新しい一週間を始めていきたいです。「祈りを聞いてくださる神よ すべて肉なるものはあなたのもとに来ます。罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちを あなたは贖ってくださいます。いかに幸いなことでしょう あなたに選ばれ、近づけられ あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって わたしたちが満ち足りますように」(詩編65篇3~5節)
2006年03月18日
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今日は気温も上がって、春の暖かを感じる一日でした。みなさんが住んでいる所はいかがでしたか?さて、外出するには絶好の機会だった今日は、インターネットで検索してようやく見つけたキリスト教書店に行ってきました。道を覚えるために祖父も付き添ってくれました。さっそく訪れるとキリスト教関係のさまざまな本やグッズが置いてあり、読書好きの私はさっそく「信仰の源流を尋ねて」(小林和夫著/日本ホーリネス教団出版局)を買いました。これまで市内には書店があっても、キリスト教関係の書籍を専門に取り扱っている店がないと思い、インターネットショッピングを利用して購入するものの、時間がかかって不便だなあと思っていました。そうした中で、今回ふと思い出して場所を見つけ出しました。嬉しかったです。取り扱っている本は限られていますが、時間がある時にはこれからも店を訪ねてみたいと思っています。今はこうして読書をしたり、ボランティア活動に参加したりして時間を過ごしています。自分ができる範囲で活動できるボランティアには、たとえ福祉関係以外のことであっても積極的に参加していきたいし、とにかく開かれた道を歩んでいきたいと思っています。「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように 一筋の心をわたしにお与えください」(詩編86篇11節)
2006年03月17日
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今日は登録しているボランティア相談所から連絡があり、来月に我が家から遠くないところにある植物園のボランティアを募集しているのだが・・・という話があり、喜んで応募しました。そして直接植物園に電話したところ、来週の春分の日にまた別のボランティアがあるので、良かったら来てくださいとのことでした。そうして私の今後の予定が決まっていくうちに、ボランティアを通して何か福祉活動ができないだろうかと思い、市内で活動しているNPO法人に問い合わせました。実際に自分が望んでいるような手伝いをできるかどうかわかりませんが、無職である私にとってよい機会です。今一番したいことは聖書の学び。今朝、キリスト教放送局FEBCのホームページから、聖書通信講座「Tea Room」のマタイによる福音書の受講を申し込みました。実りある学びができるように覚えてお祈り頂ければ幸いです。今夜は詩編86篇にある御言葉を私の祈りとします。「主よ、憐れんでください 絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。あなたの僕の魂に喜びを与えてください。わたしの魂が慕うのは 主よ、あなたなのです」
2006年03月16日
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今日は充実した一日でした。午前は教会の聖書の学びと祈祷会に出席。他の教会員と共に旧約聖書の出エジプト記から、神とイスラエルの民の契約の締結について学び、新約の時代に生きている私達はこの受難節の時、キリストの十字架の血による贖いによって罪が許されていること。主に立ち返る悔い改めと祈りを続けていきましょうと牧師の話を聴きました。午後は、夜6時から行われている高齢者向けのパソコン教室のボランティアに行きました。責任者、担当者の方は二人とも暖かく私を迎えてくださり、レッスン中は私もあまり使うことのない表計算ソフト「エクセル」について学びました。途中、お茶の時間があり、何事も積極的に取り組んで、後悔しない人生を送ることがいいよね、という話をしていました。今日は充実した一日を過ごすことができました。「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。祭壇の角のところまで 祭りのいけにえを綱でひいて行け。あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。わたしの神よ、あなたをあがめる」(詩編118篇26~28節)
2006年03月15日
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今日は特別予定もなく、我が家でキリスト教放送局FEBCを聴いていました。その中で再放送している「福音を生きる -信仰生活への招き-」を通して、充実した信仰生活を送っていく上で、聖書を読むことは欠かせないということ。特に福音書を通して目には見えないが、いつも共にいてくださる復活の主イエス・キリストのご臨在を感じることが大切なんだと再認識させられました。私は14歳の2月に信仰告白をして、公にキリスト者として歩む生活が始まりました。しかし、実際に救いの確信が与えられたのは18歳の時で、それまでは日曜日以外に聖書を読むことも、一人で祈りをすることもありませんでした。今はいつでもどこでもキリスト者として生きています。復活の主イエス・キリストのいのちに生かされ、キリストの福音を通して示された神の愛の中に生かされていることを感謝しています。神様は私に対してどのようなご計画を持っておられるのかわかりませんし、今は主の御業のごく一部だけを見させて頂いています。信仰者の両親の家庭に育ち、少なからず両親の影響を受けてきた25年間です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネによる福音書15章16節)「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリントの信徒への手紙一 15章10節」
2006年03月14日
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いかに幸いなことでしょうあなたによって勇気を出し心に広い道を見ている人は嘆きの谷を過ぎるときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。彼らはいよいよ力を増して進みついに、シオンで神にまみえるでしょう。(旧約聖書 詩編84篇6~8節)私はこのホームページを通してキリストの福音の種蒔きを行い、一人でも多くの方が生ける神の言葉に共に耳を傾け、約束されている神様の祝福と恵みに与りたいと思っています。社会人になって初めてのボランティアをしました。2万部にも及ぶボランティア情報誌を黙々と折り続けました。この作業をしながら、「これが本当に自分がしたいボランティアなのだろうか・・・」「このボランティアを通して何か報われるのだろうか・・・」と思いました。ボランティアは2時間で終わらせてもらいました。今日は寒さと雪が降る中、祖父に送り迎えをしてもらいました。祖父は無償ボランティアに対する理解が薄く、ボランティアをするためにバスで乗り継いで往復1000円も出すのは大変だと言われました。無職で収入のない私自身もそう思いました。せめて交通費だけでも出してもらえれば嬉しいのですが・・・。「何か他にできるボランティアはないだろうか」 帰宅してから高齢者にパソコン操作を教えている教室のボランティア募集の記事に目が留まり、電話をしました。そうしたら人手不足だということ。明後日の夜、教室を訪ねて様子を見ることにしました。
2006年03月13日
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