唐澤浩全資料

唐澤浩全資料

2009.01.12
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電動車椅子ぶらり通信 百五十五話


   病を見つめる目

 僕が小学生の頃、大手出版社の学研とか、小学館などから、随分きれいな色刷の図鑑がたくさん、刊行され始めました。花とか蝶々などの美しい類はもちろんの事、魚、恐竜、宇宙の惑星など、幅広いジャンルに亘って、さまざまなシリーズが、出されたものです。
 学校の図書室にそのような図鑑がそろえられる度、僕は嬉しくてうれしくて余念なしに見入りました。図鑑に対する好奇心。こうした好奇心を大人になった今でも強く刺激してくれるメディアの一つ。それはインターネットのホームページですね。
 なかでも、楽しいのは、博物館、植物園や水族館、美術館などのホームページです。生中継の動く映像も組み込まれていたりして、実際にそこを訪ねているかのようなワクワク気分にもなる。興味は尽きません。
 ところで、腹の虫が治らないという場合の「腹の虫」。いま、放送をお聴きの皆様に、この腹の虫を実際、ご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。正直を申しますと、僕はついぞ最近まで、腹の虫なるものにちゃんとした姿があるという事など知りませんでした。
 と申しますのも、例の如く暇に飽かして、インターネットの博物館公式ページめぐりをしていた時の事です。あちらこちらに梯子の末、九州国立博物館のページに辿り着きました。そこで、なんとも奇怪千万な図鑑を発見。それは、縫い物につかう糸と針、という時の「針」。つぎは新聞の「聞」即ち、「聞く」という字。おしまいは書物の「書」。三つの文字を続けて音読みにすれば「針聞書」(しんもんしょ)となるのでしょう。しかし、正しくは訓読みで、「はりぎきがき」というのだそうです。この「針聞書」という図鑑に、「腹の虫」の正体が鮮やかな色彩で描かれてありました。
 「針聞書」は、戦国時代の京都で編集されたものです。漢方の医学書、と見ていいかも知れません。いわゆる五臓六腑のしくみや、鍼とお灸の治療法が説かれてある訳ですが、もうひとつ、非常に珍しい特徴があります。それは、身体のさまざまな臓器に棲みついて、あれやこれやの病気を惹き起こす<蟲>が、おそろしく具体的に描き込まれている事ですね。その数は何と! 六十三匹にのぼります。そこにはさきほど挙げた腹の虫を始め、肝臓にいる「肝虫」、肺に棲む「肺虫」、また、薬の薬効を妨げる「亀積」、胃の中でわるさをする「血積」など、まさしくウジャウジャ、という感じですね。

 これらの蟲どもは、西洋医学の如何なる事典を繙いてみても、決して現われては参りません。それにしてはびっくりする程リアルで、じっくり閲覧していると、本当に気分が悪くなってくる。それゆえ、僕にはどうしても、酔狂や戯れ事で描いたもの、とは思えないのです。これを描いた人は、ちゃんと本当に、見たのでしょう。
 ともかく、事程左様に、病を蔓延させては人が苦しむのを見てニンマリする蟲達の数々。その蟲達の図鑑「針聞書」をみているうち、僕は改めて、病気とは何か、われわれ人間は病気とどう向き合えばいいのか、考え込んでしまいました。これを取っ掛かりに、今回は、病について僕が今までに感じてきた事を整理してみたい、と思います。
 もうだいぶまえのこと。あれは多分、僕から贈った結婚の祝いへの返礼なのでしょう。ご主人がプロテスタント系の出版社に勤めている友人から、旧約新約合本の聖書をもらいました。聖書は、ご存知の通り分厚い本ですし、内容も至るところ脈絡を欠いたりしているので、読むにはずいぶん骨でしたね。
 しかし、旧約聖書のなかの或る物語を読むに及んで、衝撃を受けました。その物語とは、「ヨブ記」であります。物語の内容は凡そ、次のようにまとめられるでしょう。
 ヨブという男は、神を熱烈に崇め、律法を堅く守って過ごしていた。神はその事を十分知った上で、なおヨブの信仰に洵があるかどうか試そうと、彼に重い病気の苦難を与えた。これは悪魔から神にもちかけられた賭け事のゲームだったのである。ヨブの信仰が本物ではないと踏んだ悪魔は賭けに自分が勝つものと思い込んで、病気の苦しみを重くして行く。しかし、ヨブは揺るぎない忍耐と信念で耐え抜き、ついには神の祝福を受け、夢のように幸せな暮らしを取り戻した。
 このように粗筋は、味も素っ気もないよくある御利益の説話です。
 しかし、仔細に読むと、「ヨブ記」の内容は、一風変わっている。寧ろ、宗教の教典に編まれる逸話としては、非常に際どい記録、といえるかも知れません。何故なら、ヨブは、謙虚さだとか、従順な心などという信仰の上の徳目はかなぐり捨てて、猛然と、神に食い下がる。神の教えを忠実に守り、律法の道を踏み外さないよう、自分自身を厳しく戒めているこの俺が、どのような罪と科で苦痛窮まりない病気に罹ったのか。神よ、はっきり、お示し願いたい。というのです。
 それに対して、神は何も答えません。病気は重くなるばかりか、財産も、家族も、失って行きます。
 そういうヨブを哀れに思った友達三人が、或る時、彼の許を見舞に訪ねました。初めのうち、彼らはヨブを慰めるのですが、ふと、友の一人が、ヨブに対して、譬え身に覚えがなくても犯した罪がある筈だから、悔い改めるよう進めます。ヨブは、いやだといって、断固拒否する。結末は、推して知るべしで、挙げ句が喧嘩別れ。身も蓋もありません。
 余談ながら、こういう事ッて、今の世の中でもよくある話ぢゃありませんか。つまり、関係のうえではお互い対等である筈なのに、経験のあるなしとか、持つ者と持たない者、また助ける人と助けられる人、というその場の違いで、どちらか優位に立つ側が、相手につい意見する。それが仮に道理ではあっても、時として言われた側はギリギリの現実認識に、何とか自力の失地回復を試みている場合は、「うるせぇやい。アンタは、何様のつもりで俺を教え諭そうとしてやがんでぇ!」
 なぁんて、反発を感じてしまいます。それでも最悪の事態に至るのを防ぐため、言われた側は、憤りの苦い唾をグッと呑み込み黙っていると、相手は笠に着て追い討ちをかける。言われた側はついに爆発して、関係は木端微塵にこわれちゃう。--ちょくちょくの事、とまでは言えませんが、ま、こうしたことは、健常者と障碍者の間でも起こりがちなもの。ヨブと友達の間に起きた関係の破綻は、或る面で、そういう避けるに避け難い危険性を暗示し、予言しているのかも知れません。

 ここで大切なのは、神からどんな返事が下ったか、という事ではありません。神から返事が返ってきた、という事自体、ヨブにとっての救いであり、ヨブがこの時まで根気強く病の原因である自分の罪について、真正面から問い続けた事です。
 ユダヤ教やキリスト教の信徒なら、当然、この物語に、信仰の心の強さという問題の手掛かりを探る事でしょう。異教徒である僕の眼にもそれは、頗る刺激的なテーマであります。しかし、それと同じくらいに、いや、それ以上に息を呑むほどの関心を覚えるのは、病気による痛さ、辛さ、苦しみから一歩も逃げようとしないヨブの強さなのです。
 病気による痛さ、辛さ、苦しみ--この場合の病気を「障碍」と置き換えれば、自分には納得のいかない不幸な巡り合わせとは絶対妥協せぬ勇敢さにおいて、ヨブと僕との間には目も眩むほど大きな開きがある、という事をよくよく意識するしかありません。僕が、障碍による苦痛がなるたけ和らぐよう、まあまあのところで手を打ち、苦痛とうまく付き合おうとしているのに対し、ヨブは徹底抗戦で、苦痛そのものとがっぷりよつに組む。その中で、苦痛を篤と味わい尽くすのです。
 さて、この場合、一体どちらが、自分自身に対して疚しさのない生き方なのだろうか?という問いを立てれば、瞬間にもう、答えが出てしまいましたね。つまり、病んでいるさなかのヨブは、外見上確かに病人なのですが、本質は全く健康な勇者なのだ、と僕はおもいます。
 この旧約聖書「ヨブ記」に出会うまでの僕は、病気や、他さまざまな社会生活上のハンディについて、慣れるべきもの、あるいは、折り合いを着けるべきものと、ぼんやり考えていました。つまり、境遇として受け入れ、諦めるという事です。しかし、実生活では、結果的に病気などを含む理不尽な巡り合せとうまく折り合うにしても、状況次第ではいつでも激突で闘える鉾は、心に研いでおきたいものです。






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Last updated  2009.01.12 10:19:29
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