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2016.6.20伊那市有線放送農協・放送電動車椅子ぶらり通信 百九十九話 ドン・キホーテの後ろ影 この「電動車椅子ぶらり通信」という番組を始めさせて戴くに当り、第一回目の放送で、ぼくの電動車椅子は「ロシナンテ号」という名前です、と自己紹介させていただきました。その折にも申した通り、ロシナンテとは驢馬(ろば)の名前で、主人はドン・キホーテです。言うまでもなく物語上の人物で、生みの親はミゲル・デ・セルバンテスというスペインの作家でした。 今年は、セルバンテス没後四百年にあたります。これを機に、ドン・キホーテと僕との付き合いについて、振り返りたいと存じます。相変わらず右へうろうろ、はたまた左へ寄り道の脈絡なきお話になります故、どうか暫くご辛抱下さい。 さて、今回はまず、昭和の浪曲界では名実ともに大看板(おおかんばん)だった二代目、廣澤(ひろさわ)虎造(とらぞう)の名調子からお聴き戴きます。 いかがでしょう? 十分に熟(こな)れてじんわりした虎造独特のダミ声が、たまりませんな。僕の高校時代は歌謡曲の全盛期で、そこに又、新しいスタイルのフォークも一度にワッと、生まれて参りました。加えて洋楽のジャズ、ロック、更にはカントリー・ウエスタンにもそれぞれ独自の拘(こだわ)りをもって聴く、という人もいる、そんな時代でしたね。学校から寮の部屋へ戻れば、高橋真梨子とトム・ジョーンズがてんでに大音量で唄っている。そういう状態が普通で、部屋の同居人同士、他の音を騒音とも思わず自分の好む音だけに没入していたのですから、何とも、はや、妙でした。 その上、まだ不思議な事がある。落語とか浪曲などを聴く段になると、なぜか皆、気が揃うのです。夜の九時が自習時間の休憩で、誰かが必ず、ラジオのスイッチを点けました。すると、NHK第一から水曜日には落語、木曜日には浪曲が聞こえてきたものです。皆、焙じ茶をすすりながら、黙って聴いていましたね。 僕が風邪で寝込んだ時などは、同じ部屋の上級生がこれでも聴いてろや、といってかけてくれたのが、そういう番組の録音です。今し方お聴き戴いたのも、高校時代にくりかえし聴いた中のひとつですね。只今お聴き戴いたのは、「石松(いしまつ)三十石(さんじっこく)船(ぶね)道中(どうちゅう)」という演目の口上部分です。それが耳につき、 ・旅ゆけば、駿河の道に茶の香り、流れ も清き大田川、若鮎おどる頃となる松 の緑の色も冴え・・・ なんて、いつしか諳(そらん)じられるようになりました。ともあれ、他の演目も含めて、浪曲で語られる石松像は全体に、一貫しております。即ち、気は優しくて力持ち、喧嘩っぱやいが人情には厚く、一途(いちず)で不器用な生き方しかできない、という性格です。 さて、話を今回のテーマである「ドン・キホーテ」に戻すと、ぼくがこの小説を最初に読んだのは、諏訪養護学校高等部を卒業して家に帰った直後の事でした。読むさなかでは、物語の主人公に、石松の顔が重なり合っていたものです。 その事は暫く措きましょう。ここで本題の小説「ドン・キホーテ」の正式名を忠実に訳すと、「ラ・マンチャの騎士キホーテ卿」となるのだそうですね。どうも長ったらしくて覚えづらい上に、物語の組み立てが呆れ返るほど複雑に、込み入っている。というのも、架空の歴史家であるベネンヘーリがアラビア語で書き記し、それをセルバンテスが訳述したもの、と誰ぞから聞いた筆者が覚書として書き残した。とまあ、ずいぶん手の込んだ設定です。要するに、二重三重の書き換えに伝えられたお話、というのが筋立てなんですね。 では、どうして、これほどややこしい設定を組んだのかといえば、多分、セルバンテスは、創作の中で人間の批評もやりたかったからだ、と思います。そもそも、批評とは、物事の善し悪しや自分の好き嫌いを感情に流されず、論理立てて解りやすく述べる、という事です。だから、自分の考えを主張する事とはちょっと違う。 そうですね・・・ 何と申しましょうか・・・ 例えば鏡を見る時、そこにパッと現われるのは自分の顔だという事は、直感的に判る。しかし、その自分と覚(おぼ)しき顔をなおも覗き込む事によって、自分の人相に潜んでいる普遍的な人間像を見抜く。これは至難の業であり、結果のでない努力なのですが、立派な文学者である作家、評論家と言われた人々はみな、この手の骨折り損をやりました。 よって、次のように言うこともできます。すぐれた文学作品ほど完成品とは言い難く、あくまで、その努力過程を記録したまま未完に終わってしまっている、と。こういう逆説について、僕に最初の直感を与えてくれたのが、「ドン・キホーテ」でありました。 それにしても、頗る手の凝った話の筋立てを飲み込むのに、僕は最初の内、随分難儀をしたものです。何遍読んでもよく判らなくて、面倒でした。その中で一つ、悟った事があります。読書なんてものは、気晴らしにしようとするから詰まらなくなる。ひとつの勉強、又ひとつの仕事と思ってすれば我慢に耐えられるはずだ、と。以来、この方針を換えた事はありません。 さて、物語の主人公であるキホーテは、本名をアロンソ・キハーノといいました。ラ・マンチャ村の下級貴族ということですから、日本でいえば室町時代の地頭(じとう)、地(じ)侍(ざむらい)、また江戸時代の名主という地位に当るのでしょうね。そんな中で、キハーノは、来る日も来る日も騎士道小説ばかり読み耽けっていました。 そうした読書にのめり込むあまり、彼は、ついに、自分が勇ましく、立派な騎士であるかのような幻想に取り憑(つ)かれます。そして、サンチョ・パンサという貧しい農夫を家来に、騎士道の正義を体現する為の旅へ出るのです。 しかし、キホーテ本人が騎士道に適う勇敢な挑戦、と思い込んで突き進む行動はすべて、世間の常識から全く受け容れられない馬鹿げた行いばかり。風車を、正しきものに仇(あだ)なす巨人と思い込んで挑み掛かり、結局は弾き飛ばされてしまう、という有名な場面は、その代表例でしょうね。 それゆえ、この小説は読み進むにつれて、読者の胸には何とも言えぬ苦みが募る訳ですが、同時に、その苦みの後から、不思議な爽快感がそこはかとなく拡がってくる。 これは恐らく、物語の主人公が常に、自分の信ずるものを信じ切って行動しているためだと思われます。つまり、完全に純粋なわが信念だけを貫く事は、誰の心にも潜む根本的な憧れなのですが、実際にその通り行動すれば必ず、周囲の人々との間にもめごとやいざこざが起きて深く、傷つきます。キホーテは、それについて全く、意に介さない。 この点で、さきほどお話しした森の石松と一脈通ずるものを感ずるのです。 石松は、腕っぷしの強い快男児だが、東海道一の馬鹿、というのが浪曲の決まり文句でして、不正には向こう見ずの無鉄砲に立ち向かいます。そのために、最期は、非業の死を遂げる。この事が、彼に、小柄ながらも勇ましい英雄としてのオーラをもたらす訳ですね。 じつにさまざまな関わりに生かされるこの世の中、自分の信じた事を何の迷いもなく、その通り実行しようとすると、次の瞬間、風車に弾き飛ばされたキホーテよろしく、生活を支える極めて重要なネットワークの圏外へ追放されます。それを警戒して誰もが今一歩のところで思い留まり、会議では本音を言わずにグッと、押し黙るのです。その事自体は全く正しい生き方であり、そうさせた常識は非常に貴い、と僕は固く信じております。 しかし、そこでは必ず何等かのわだかまりが残って、心の隅をちくりちくり突き刺すんですね。この不快感の穏便な解消策は、おそらく、次の三つしかありますまい。 即ち、 一、自分自身を欺(あざむ)いてなかった事にする。 二、誰か優れた作家の手になる物語の力を 借りて、心を洗い浄めようと努める。 そして三は、ドン・キホーテとは正反対の生き方をする、という事。つまり、その時その時をおもしろおかしく過ごす事しか考えないようにする、という事であります。具体的には、セルバンテスと同年代の劇作家シェイクスピアが書いた「ヘンリー四世」と、「ウインザーの陽気な女房たち」という二つの戯曲に登場するフォールスタッフ。このフォールスタッフという無責任男が、おもしろおかしく立ち回る人間の典型でしょうね。この男については、いずれ詳しくお話しする事があるかも知れません。 ともあれ、人間は誰しも完全な善人ではないし、また究極の悪人でもない。となると、今し方述べた三つの解決策に、ドン・キホーテと向き合う時のうしろめたさを解消する事は、無理みたいですね。「キホーテさん。どうか私の代りに、純真な心意気を貫き、失敗の人生を美しく生きてね」と頼むしかなさそうです。 僕は、電動車椅子で外を歩く度、道の遥か彼方に、馬上のナイトらしき影を見るのです。そして、その影に眼を凝らせば、「俺のように生きる気はないか?」 という問い掛けが聞こえてくるのです。
2016.07.01
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2016.04.18伊那市有線放送農協・放送電動車椅子ぶらり通信 百九十八話 諏訪の御柱祭 平成二十八丙(ひのえ)申(さる)の歳(とし)諏訪大社総本社式年造営御柱(みはしら)大祭(たいさい)。……すなわち、今年は、「御柱(おんばしら)」が営まれる年周りで、実際に今、諏訪一円はその活気にはち切れんばかりです。わが伊那市は諏訪市、茅野市、および富士見町と境を接している事もあって、その熱気が風に乗り伝わってくるようですね。今回は、諏訪の御柱祭りにつき、取り留めもなくお話しさせて下さい。 それにつけて、話ののっけから私事に触れるのは甚だ恐れ多い事なのですが、まずは僕個人と諏訪の土地とのご縁から、ふりかえりたいと思います。 僕の曾祖父である文吉の兄、富蔵(とみぞう)は若い頃、諏訪で仕事をしていたのだとか。諏訪の御柱祭りでは里(さと)曳(び)きの際、長持がかつがれます。この長持の所作と、長持唄をつぶさに習って覚えた富蔵は大正時代、西箕輪の大萱へ伝えたそうです。以来、大萱地区では熊野神社の例大祭で長持が担がれるようになったという事ですし、この長持はまた伊那町の坂下地区へも伝播(でんぱ)した、ということも聞きました。 こういう話はしばしば、親戚のあつまりで耳にしましたが、正直、僕は半信半疑でした。しかし、先年、刊行された「西箕輪誌」という本には、屋号「山王」の唐澤富蔵が諏訪から大萱へ長持を伝えた、という事がちゃんと書かれてある。これには大変、びっくりしました。富蔵には子供がなかったものですから、弟の文吉が山王の家を受け継いだわけです。 さて、次は、その「山王」をめぐる我田引水のお話。 御柱に木遣りは欠かせません。この木遣りには、各地区ごとに微妙な特徴があります。なかでも、下諏訪全地区に岡谷の長地地区を加えた地域の木遣りは、一風、変っています。というのも、木遣りが唄われて一呼吸おいた後、なんとも不思議な相の手が挙がる。どんな相の手か、まずは下諏訪町木遣保存会の木遣りをお聞き下さい。 木遣りが「おねがいだ」と唄い終えた後に挙がる相(あい)の手は、「これは山王へ」と言っているのだそうです。現在、下社の秋宮が鎮座している土地は字名が「山王台」といって、わが信州では奈良時代以前から一、二を争う有力な豪族だった金(かな)刺(さし)氏、及び、その子孫である手塚氏の館があった場所でした。 となると、「これは山王へ」という相の手は、金刺様のご威光を戴いて、御柱をお社まで曳きつけよう、という意味にも受け取られます。拡大解釈が過ぎるかも知れません。 でも金刺氏は古代、われらが伊那郡(いなごおり)と、深い関わりがありました。恐らく、領民思いの善い政治をした名残が、「これは山王へ」という相の手として生きているのではないか…… そんな虫のいい空想を膨らませつつ、下諏訪地区の木遣りはいつもうっとり、聞き入るのです。 ともあれ上社、下社、合わせて四社に各々、四本ずつの御柱が建てられますので、御柱の合計は十六本。しかも、一本の御柱は大概、二地区の氏子衆が受け持ちます。そうなると、木遣り唄の節回しや相の手の間合いも微妙に違って、御柱の総本数以上に、幾通りもの唄い方が生まれる訳ですね。 なお、ついでながら、木遣りの場合、唄うとは言わず、「鳴く」と言います。 そればかりではありません。 そもそも御柱への向き合い方から、各地区ごとにずいぶん違います。同じ樅(もみ)の木を扱いながら、ある地区ではその木の皮を剥ぐ。別の地区では決して剥がない。 また御柱を曳く元綱も稲わらで綯う(なう)地区。藤(ふじ)蔓(づる)を縒り合わせて(よりあわせて)拵(こしら)える地区などなど、じつにさまざまです。 しかし、それでいて、御柱の山出しから里曳き、建て御柱に至る御柱祭り全体の流れは順序よく、滞りなく、整然と進められる。このように、諏訪の御柱祭りを、ざっと大掴み(おおづかみ)で捉えてみると、やっぱり、諏訪は一つだな、という事をしみじみ感じますね。 ところで、御柱の行程はご神木の伐り出しから始まって、大変な危険が続く。山路の曳き出し、大曲り、木落とし、川越し、お社への石段のぼり、そして最後の建御柱と難所ばかりです。まさに山あり、谷ありのくねくねした道筋を氏子さんたちは御柱に付き従って歩む訳で、あたかも、自分の成長過程ででくわす壁や、つまずきを乗り越え、切り抜ける場合さながらであります。これぞ、神様と人間との道行きでありましょう。 おもえば御練り、行列、走り込みなどなど、六十余州津々浦々で催されてきた日本のお祭りは、その殆どに、神様と人間との道行きという性格が認められますね。病院などでの治療とか、療法などを指す言葉「セラピー」は、もともとギリシア語で「セラポン」といい、《共に歩む》ということを意味していたようですね。これを日本の祭りに当てはめて考えるなら、祭りの意義について、次のように、捉えられるかも知れません。 神様に付き添って頂きながら道をあるく。その事で、煩雑な日常に疲れ衰え掛けた中から、人間本来の瑞々(みずみず)しい生気を新たに回復させる。そして、来(こ)し方をしみじみと振り返り、行く末をはっきり見定める。その上で、氏子同士が相携えて村や町を盛り立てて行く、という事を誓い合う。その大切な契機が日本の祭りだったのではないか、と。 これを受けて、別の見方をすれば、お祭りの隠れた主人公は「人が歩く道」、と捉える事も出来そうですね。過去現在に亘るさまざまな人々が歩いて通った《道》には、数限りない足跡という形で、ことばにはなり得ない悲喜(ひき)交々(こもごも)の情念が、幾重にも、踏み固められている。その《道》を踏み締めて歩く事により、人は、《道》が、じつは非常に神聖な舞台である事を実感し、人として生きる覚悟をしかと抱くのでしょう。お祭りは道の尊さを確かめる切っ掛けではないか、と僕は思うのです。 そういえば、「かんながらのみち」という言葉がありました。この「かんながらのみち」とは、具体的な言葉や形に示される事のない神道の心、または清く、正しい生き方という意味です。しかし、うんとざっくり割り切って、神様がお造りになった古(いにしえ)のままの道、としても間違いではありますまい。 御柱の出発点である綱置場から、それぞれのお社へと至る「御柱街道」は、昔ながらに幅が狭く、曲がりくねっているのです。まさしく、「かんながらのみち」で、御柱曳(えい)行(こう)のようすをただテレビ中継で見るだけでもよし、あるいは後々、「御柱街道」をちょっと歩いてみるだけでも、懐かしい旅情に触れられる事、間違いなしですね。 ところで、僕は、何年か前、ふいに思い立って独り電動車椅子ごと電車に乗り込み、下諏訪町へ旅した事があります。その時、秋宮の周辺を宛てもなくぶらぶら歩いて、そこここに見事な石垣がある事にびっくりしました。 僕が障碍の治療と教育を受けるために、過ごした信濃整肢療護園、および県立諏訪養護学校。この両施設が建っていた下諏訪町の高木という地区は、丘陵の急傾斜地に築かれた村です。 にも拘らず、縄紋時代以来、甚大な山崩れにも襲われる事が無かったのは多分、地盤が固かった事と、土留めの技術に長けた伝統が息づいていた為かもしれません。実際、この高木地区にも随分立派な石垣がありました。 テレビ中継で、御柱を動かす際の鮮やかな綱さばき、てこさばきに眼を凝らしていると、どんなに重たいものでも自在に動かす事のできる知恵と腕、また結束力が諏訪の民衆には昔から備わっていたのではないか、と想像されて参ります。また、建(たて)御柱の際に行われる冠(かんむり)落としの斧(よき)さばきも、非常に見事です。言い換えると山仕事、畑仕事、また家を建てる際の地固めや、大工仕事など、村、町の基盤整備には、諏訪の人々自身も気づいていない優れた技術が、遠い太古から受け継がれているのかもしれません。 とすれば、御柱祭りは、諏訪の人々が独自に洗練し、受け継いで来た山仕事、畑仕事の集大成、と見る事もできる。つまり、御柱祭は特別の祭礼であると同時に、日常生活の延長線上で行われ続けてきた或る種の技術研修だったのではないか、という事です。その証拠には、腹掛けに地下足袋、そして鉢巻きという氏子の出で立ちはまさしく、山仕事、畑仕事の姿そのもの。開墾、農耕、山人足、川人足等の仕事を本格的に行う身支度で、見るからに力強く感じられます。 見方を換えると、御柱祭りは、諏訪の人々全員が関わる壮大なまちづくりなのかも知れませんね。事実、御柱祭がもよおされる度に、さまざまなインフラ整備が進められてまいりました。お社の参道や、御柱祭山出しを見物するための歩道が歩きやすく整えられたり、町並みがお化粧直しされたり、とそこここが美しく見違えるほどです。 併せて、まちづくりには、人と人との結びつきを強める事も欠かせません。近年の諏訪御柱祭は、老若男女それぞれが重要な役目をにない、打ち揃って楽しむ和やかさが色濃く感じられます。御柱祭りはたしかに、人間の絆を堅くする大切なチャンスとなっているのでしょうね。 御柱祭の楽しみ方は、人さまざま。ぼくの拙いお話が僅かでも、御柱祭りを楽しむ切っ掛けとなれば幸いです。
2016.04.19
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2015.12.21伊那市有線放送農協・放送電動車椅子ぶらり通信 百九十七話 障碍と私 十二月は「忠臣蔵」の季節です。この「忠臣蔵」とは今更申すまでもなく、江戸時代に起きた元禄赤穂事件を題材とする芸能作品群の総称ですね。浄瑠璃、文楽、歌舞伎、講談、浪曲、落語、端唄小唄などの古典歌謡、現代演劇、小説、映画、漫画、はてはバレエ等に至るまで、驚くほど幅広いジャンルの題材に繰り返し、取り上げられて参りました。 これは唯ならぬ事態です。きっと元禄赤穂事件そのものに、人の情感と霊感とを激しく波立たせるマグマみたいな何かが沸々と滾(たぎ)っているのでしょうね。これについてはいずれ、機会を改め、掘り下げてみたいと思います。 さて、「忠臣蔵」を扱った芸能の内、最も華やかなジャンルはやっぱり、歌舞伎ではないでしょうか。 その場合、パッと思い浮かぶのは「假名手本忠臣蔵」ですね。でも、この大作に負けず劣らず見どころ満載で味わい深いお芝居は、まだ他にある。その一つが、「松浦の太鼓」という作品です。 「松浦の太鼓」の松浦とは本来、「まつら」と言いました。すなわち、肥前平戸藩を治める松浦(まつら)侯の事で、もうすこし余談を続けると、「松浦の太鼓」に登場する松浦(まつら)鎮(しげ)信(のぶ)は、平戸藩第四代目の殿様です。時代が下って第九代目藩主松浦清(きよし)の時、われらが高遠藩士の砲術家である阪本天山は、平戸藩から招かれました。そこで教えた天山流砲術や、国の周辺の海を守る軍事学が西国の雄藩にひろがり、やがて巻き起こる尊皇攘夷の機運に火を点けたようです。実際、平戸藩を訪れた若き日の吉田松蔭は、高遠藩士の豊島権(とよしまごん)平(ぺい)から天山の学問を学んでいる。 さて、お芝居の話題に戻りましょう。 まずは連歌を一首、ご紹介します。 年の瀬や水の流れと人の身は 明日待たるるその宝船 このうち上十七の発句(ほっく)は、芭蕉門下の俳人でその後、徘諧の宗匠格に出世した、宝井(たからい)其(き)角(かく)の作。そして下十四の付句(つけく)は、赤穂浪士で、青竹売りに身をやつしている大高源吾が詠みました。字面を追う限り、まあ、凡作にしか見えません。しかし、これが、今宵決行する吉良邸討ち入りの暗示であったという事を、其角は夜咄(よばなし)に招かれた松浦侯の江戸屋敷で知り、赤穂(あこう)贔屓(びいき)の殿様と、喜び合う。それきりの単純な物語なのですが、お芝居としてみると、なかなかに味わい深いのです。 ところで、僕がこのお芝居に得も言われぬ魅力を感ずるのは、始まりの場面であります。場所は、雪が降る底冷えの両国橋。そこへ、如何にも寒そうに、とぼとぼと、宝井其角が登場する。そして、傘の内側から傘に積った雪を見上げながら、自作の俳句を呟くのです。 我が物と思へば軽し傘の雪 これについては、わざわざ解釈を施す必要もありますまい。やや踏み込んで申し添えれば、傘の柄に伝わる雪の重たさも、じつは、掛け替えのない私自身の一部だ、と言っている訳です。例によって前口上が随分長くなってしまいましたけれども、我が物と思へば軽し傘の雪という俳句の心こそ、今回のお話の主題なのです。 今までにも度々お話しして参りましたように、僕は脳性麻痺という障碍によって、箸を手に持ってご飯を食べる事も、足で立って歩く事も、また初対面の人にスッと解るよう、声を出してお話しする事もきわめて難しい。あるいは全く出来ません。この為、今まではどれほど悔しく、忌ま忌ましい思いに幾度、地団太(じだんだ)を踏んだ事か。 しかし、今、ふと、気づくのです。つまり、自分の障碍と何十年も付き合い続けてきた僕は、どうやら、障碍そのものにうまく手引きされ、現実と咬(か)み合う形で生かされている。近頃、この事実がうすうす体感できるようになった、という事です。障碍も自分の物という感覚があって、それは確かに、「傘の雪」の俳句とよく似ている。でも、今の僕は、自分の障碍というものに、寧ろ貪欲な執着すら感じているようです。だって、仮に、いま、誰かから、君の言い値でその障碍をゆずっておくれといわれても、おいそれと応ずる事はいやですもの。 この時季には毎年、「バリアリポート」、もしくは、「バリアフリーリポート」というテーマの下、自分の外側にある色々な障壁につき、お話しして参りました。今回は、随分長い付き合いとなった僕の障碍について、自分自身の見方、感じ方を中間報告風にお喋りしたい、と思います。 ところで今、巷では、「リトルプリンス・星の王子さまと私」という映画が評判ですね。 これはアニメーション作品で、フランス空軍のパイロットにして作家でもあったサン・テグジュペリの童話、「星の王子さま」が原作です。日本では名だたるフランス文学者が競って翻訳しました。その数たるや、五十点近くにのぼる、といわれております。 何故、「星の王子さま」が、これほど沢山翻訳されているのかといえば、一つに、そのたぐい稀な発想力溢れる詩情のためですね。 しかし、じつは、もう一つ、重大な理由がある。それは、この作品の中に、日本語への翻訳がきわめて難しいフランス語があって、いくとおりもの解釈表現が成り立つからだ、といわれます。 で、そのいわばキーワードとなるフランス語とは、「アプリボワゼ」という単語。直訳すると「飼い慣らす」という意味らしいのですが、前後の表現にはどうも、しっくりはまらないようなのです。というのも、地上に降りた星の王子さまが狐とバラに出会った時、それぞれに向かって、「ねえ、アプリボワゼしておくれよ」 と頼む場面がある。要するに、これは、この僕と、親友同士の間柄になって欲しいな、という呼び掛けですから、「飼い慣らす」という直訳では何かしら、落ち着きませんね。実際、幾つかの日本語訳を読み較べてみると、この「アプリボワゼ」に当る箇所には様々な言い回しが、用いられております。 「馴染みになる」「手なずける」「仲良しになる」「なつく」「馴れ親しむ」などなど。 さあ、ここで再び、僕と障碍との関係について、話を戻しましょう。来(こ)し方をふりかえると、どうも、僕は、障碍によって少しずつ「アプリボワゼ」されてきたような気がするのです。但し、この場合、身体の障碍が僕を障碍自体に馴染むよう仕向けてきたのとは、ちょっと違う。そうでね・・・何と言ったらいいのでしょう・・・ そう。つまり、それは、こういう事です。 身体機能の不自由と、それに伴う社会生活上のさまざまな不如意や、不利益に苦しみ、受け入れるその体験を通して、障碍が僕に、人間、および人間の現実を知るお手伝いをしてくれた。そんな気がします。 小学校へ入学する時点で、自分では身の周りのことが何も出来ないほど障碍が重い、という事を理由に、就学猶予という制度が適用されました。一年あとにようやく、県立諏訪養護学校への入学がかなえられた訳です。とはいうものの、運動会の徒競走に例えれば、同年の子供達よりも一周遅れのスタートです。しかも、その後は身体の障碍の治療と並行しての勉強ですから、学習内容はどんどん遅れて行く。十重二十重(とえはたえ)のハンディですから、大学進学など以ての外。況して就職に至っては、夢のまた夢。 こんな状況を目の当りにした高等部三年の時の僕はかなり、グレてクサり、やけのやんぱちになっていましたね。 その頃、歩行器で歩いていた僕は、ある日、職員室からガメてきた福だるまを歩行器の小物入れにしのばせ、近くにある鎮守様の境内でその福だるまを蹴り回し、憂さを晴しては独り、悦に入っていたものです。 そんな僕が、「割を食ってるのは何も俺だけぢゃあなさそうだな。惨めったらしく物を考えるのは金輪際(こんりんざい)、やめる」そう思ったのは、家に帰ってからの事でした。僕のちちははの許にはいろいろな人々がそれぞれ、ズシンと重い悩みを抱え、相談に来たものです。そのうち、ごく親しい間柄の人の時には、父から、「お前も一緒に聞いてやりなさい。聞くだけでいいから、まあ、私の横に座れ」と促されました。そうしているうち、自分の力では、ビクとも動かない壁にぶつかって途方に暮れる人々が世間の至るところにいる、という事を知り、人の悩みを僕自身の障碍に置き換えて捉える。そんな習性が身につくようになったらしいのです。 いわば、少なくとも、僕の場合、僕自身の障碍は、人間の在り方をよく見詰めるための拡大鏡であり、その在り方を考えるうえでの参考モデルなのかも知れません。あるいは、世間の道をとぼとぼと行く一本の杖、それが、僕にとっての障碍だ、とも言えそうです。 しかし、心身のどこかに何等かのかたちで抱え込んだ障碍が余りに重いため、たとえば口に入れたものを飲み込む事、また呼吸する事など、一瞬一瞬を生きることで精一杯、という人々も決して少なくはありません。そういう人々や、また彼らのご家族にとって、身近な方々の見守りや語らいが、どれほど、心強い支えになりますことか。 番組をお聞きの皆様方には、この事をお心の隅に置いて戴きますようお願い致しまして、今回のお話を終えたいと存じます。
2016.01.29
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2015.6.15伊那市有線放送農協・放送電動車椅子ぶらり通信 百九十四話 一射絶命 雨がしとしとと降り頻る季節となりました。 この「しとしと」という擬声語はそれだけで、雲が厚くたれこめた中、一滴一滴の雨粒が鉛さながらの重たさをもって、止めどなく降り続く、という陰鬱な有り様を、如実に、しかも趣深く、物語るかのようですね。 事ほど左様に、擬声語(ぎせいご)、あるいは擬態語(ぎたいご)の豊かな言語、それが日本語であります。その擬声語、擬態語の中には、今や使われる事のない忘れられかけた言葉も沢山ある。 「ヒョウど」「ヒイフッと」、又は「ヒョウフッと」という表現がその一例でしょう。これは、矢が弓から放たれて宙を飛び、的に突き刺さるまでの音を言い表した言葉らしい。これらが今回のお話では一つのキーワードとなるという事を、予め、申し添えます。 ところで、旧長谷村は入野谷の黒河内地区に八百年間、栄えた家がありました。その名も黒河内家。いわゆる豪族の家柄で、非常に膨大な古文書類が、所蔵されていたのです。それらは全て上伊那教育会に寄贈されました。 言い伝えによると、この黒河内家初代当主は、伊奈(いな)太郎(たろう)為宗(ためむね)という人だそうです。この為宗の父は平安末期、弓の名手として聞こえ高かった源(みなもとの)鎮西(ちんぜい)八郎(はちろう)為朝(ためとも)。 彼、為朝は剛(ごう)弓(きゅう)といって五人掛り、いや、時に十人掛りでなければ引けないような大きくて、弦(つる)の張りが異常に強力な弓を、平気で引いたようですよ。実際、保元(ほうげん)の乱で彼は、平清盛の郎党二人を一本の矢で射抜いた、という事であります。 とにもかくにも為朝は、虚々実々の伝説に彩られた人物でした。それ故、後に曲亭馬琴が「椿説(ちんせつ)弓張月(ゆみはりづき)」という本にまとめたのです。これを小学校高学年向けに書き改めた本が、学校の図書室にあって、ぼくは、子供の頃、夢中で読みましたっけ。これは「八犬伝」、「忠臣蔵」、「鉢の木」などというシリーズ本の中の一冊で、僕にとっては小説に魅惑されるきっかけとなりました。 話を戻すと、同じく平安末期の時代に一躍、輝いた弓の使い手がもう一人、おります。それは、言わずと知れた那須与一(なすのよいち)。じつに眩く感動的な那須与一の登場場面を、「平家物語」の原文から読み取ってみたい、と思います。きょうは、僕の意訳でお聴き下さい。 折りしも二月十八日の夕刻である為に、 磯打つ波は高く、扇を掲げた平家の舟は ゆらゆらと揺れ動いて的が定まらない。 与一は目を閉じて、「南無八幡大菩薩、 並びに、我が郷里の神に在(ま)します日光の 権現様、那須の湯(ゆ)泉(ぜん)大明神! 願わくは あの扇の的を射させ給え! もし射損ず るなら、某(それがし)はこの場で直ちに弓を折り、 自害せねばなりませぬ。某めをふたたび ふるさとへ帰す、と思し召しになるのな ら、これから射る矢をどうか、はずさせ たもうな!」と心の内で祈った。そして、 目を見開けば、「さあ、扇を射てみなさ い」とでも言うが如く、風は弱まり、波 は凪いで(ないで)いる。そこで、与一は、鏑(かぶら)矢(や)を 弓に番え(つがえ)、きりきりに引き絞ってヒョウ と放てば誤たず、扇の要木を見事に射切 った。次の瞬間、扇はひらりと空へ舞い 上がり、一揉み二揉み翻って、夕日に金 色のさざ波を立てる海に散って行った。 これほど視覚的にインパクトの強烈な情景描写は他に例をみない、と僕は思うのですが、如何でしょうか。鏑矢に射られて宙に翻った後、茜の夕波に没して行った扇。その扇は又、一瞬、物語の表舞台に立ち現われて、すぐに姿を掻き消す那須与一自身でもある。僕には、そんな風に感じられてなりません。更に言えば、那須与一という存在そのものが、日本の歴史全体に花を添え、そこはかとない香りを燻(くゆ)らせている、といっても差し支えありますまい。 以上、那須与一が登場する「屋島の戦い」と、その後で起きた「壇ノ浦の戦い」とではまるで、趣が異なる。と申しますのも、屋島の戦いまでは、弓矢の戦でした。この弓矢の戦では、命を遣り取りする中にも、何か知らの華やぎがある祭礼的な要素を含んでおりました。今し方お話しした「扇の的」は、戦にさえ風雅を楽しむ事ができたその一例です。 ところが、壇ノ浦の戦いでは様相がガラリと変わって、一遍に血腥(ちなまぐさ)くなる。というのも、壇ノ浦の戦いでは、弓矢の戦から槍、刀で、お互い激しく斬り結ぶ白兵戦へと、戦術が一変してしまったからです。 この元凶は義経の戦争観、ひいては人間観にあるのでしょうね。つまり、彼は、歴史的な諸々のいきさつや、節度を一切無視して、とにかく勝ち急いだ。義経に対する兄頼朝の猛烈な怒りは、多分、根本に、義経の残忍な性格を見抜いたすえの憤り(いきどおり)があったためではないか、と僕は考えています。 ここで少し、脇道に逸れましょう。戦前の小説家に、中島敦(あつし)という人がいました。彼は、古い漢文学から着想を得た短編を多く書いたのです。 その中の一編に、「名人傳」という作品があります。凡そ、次のような内容でした。 その昔、趙(ちょう)という国の首都であった邯鄲(かんたん)に紀(き)昌(しょう)という男がいた。紀昌は、ズブの素人ながら弓の名人になりたいと思って、その道のお師匠に弟子入りする。瞬きをしない訓練、蚤(のみ)虱(しらみ)という小さな虫を、馬ほどに大きく見定める訓練を五年間続けさせた後、お師匠は、百歩離れた場所から一枚の柳(やなぎ)葉(ば)を、弓で射させてみた。すると、紀昌の弓矢は百発百中し、これなら非の打ちどころなし、という事で、お師匠は自分が極めた技の極意を全て、この弟子に授ける。そんな時、紀昌は、自分が天下随一の名人になろう、その為にはお師匠を亡き者にしよう、という邪(よこしま)な心を芽生えさせた。その事を察知したお師匠は、紀昌を自分から遠ざける為、別の師匠の下で更なる修行に励みなさい、と奨める。 そこで紹介されたのは、霍山(かくざん)という山の奥に住む弓の名人で、名前を甘蠅(かんよう)といった。まさしく仙人を思わせるような白髪の老人で、姿は優しく、穏やかである。春風(しゅんぷう)駘蕩(たいとう)の風貌とは、この老人の表情をいうのだろう。 しかし、この老人は、「無(む)射(しゃ)の射(しゃ)」といって、天空高く輪を描くトンビを、弓矢なしに射落とす事ができた。紀昌はこの老人の下で九年間、修行したのである。そこで弓矢の道を究め、「無射の射」の極意を体得した。そして、この時、紀昌の心身には、弓矢の精霊が棲み(すみ)つき、紀昌をあらゆる危険から守った。 ざっと、そんな内容ですが、じつはこの小説の結末で、意外な逸話が語られております。 ペーソスと、人間味あふれるその逸話については、お聴きの皆様方にも読んで戴きたいので、ここでは触れずにおきましょう。なお、この「名人傳」は来る七月、松本市で狂言師、野村萬斎によって上演されるそうです。 ところで、今し方触れた「名人傳」に「無射の射」という言葉が出て参りました。これは、「射る事なく射る」と書きます。これと非常によく似た言葉で、「不射之(ふしゃの)射」という格言がある。即ち、「射らずに射る」という事でした。この境地を極めようとしたのが、日本近代の弓道家、阿波(あわ)研造(けんぞう)でした。 阿波研造が、自分の弓道を「不射の射」というのは、矢をつがえ、弓を引き絞る構えの姿勢と、呼吸が整っていればそれで十分。あとは矢が自然に放れて行くのを待てばいい。というものだったからです。それについて、世界に広く知らしめたのが、ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルでした。ヘリゲルは昭和初年、東北帝大(今の東北大)から招かれて来日します。この在任中、彼は、阿波研造に即(つ)いて、弓を習いました。この時の体験を回想して綴られたエッセイが「弓と禅」という本で、幽玄なる武術といえる弓道の魅力に、世界の目を集めた訳です。 それによると、入門した頃のヘリゲルは、そこでずいぶん困惑したらしい。それというのも、お師匠の阿波は、ヘリゲルに対してただ、的は狙うものではない、矢は放つものではない、などと通常の感覚では理解しかねる事をいうだけであったからだそうです。そんな異国の入門者を阿波は或る夜、道場へ招いた。蚊取り線香がポツンと点(とも)るのみの真っ暗な道場で、阿波自身の《射》を実演して見せたのです。この時、ヘリゲルの度肝を抜く事がおきました。 ひょうふっとばかり阿波の弓から放れた矢は過たず、暗黒の闇を貫いて的を射た。驚くべき事に、甲(は)矢(や)と呼ばれる一番矢は的の図星の中心点に刺さり、乙矢(おとや)とよばれる二番矢は甲矢の矢筈に突き刺さりました。つまり、甲矢と乙矢が一本の竿状(さおじょう)につながって射られるという奇跡的な事態を、ヘリゲルは見た訳です。しかし、この結果自体はどうでもよい、問題は道場への入りから出に至る動きの流れ全体が自然に整っているかどうかだ、と阿波は言ったそうですね。 一切の思惑や計らいを去った無私の心身で《射》に臨む、という事であって、この境地を彼は「一射絶命」と言いました。思えば、弓道の場合、稽古も試合も、同じ所作の反復ですね。この反復がひとつの鏡となって、弓引く人に心身の好不調、若さから老いへの変化、また、自分と周囲との移り変わりといったものを確認させるのかも知れません。 阿波研造は若き日、日置流(へきりゅう)雪荷派の弓を修行して、免許皆伝されました。駒ヶ根市東伊那の高鳥谷神社では、この流派の所作に則った「矢納め神事」が現在も、執り行われております。
2015.06.18
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4月20日・伊那市有線放送農協の朗読原稿電動車椅子ぶらり通信 百九十三話 サクラコマ 四月も半ば。春たけなわとなりました。 この「たけなわ」という言葉には、二通りの漢字表記があるようですよ。まず、一つ目は、「さけへん」に、「あまい」と書く酣(たけなわ)。こちらは、その文字が表す様子そのままに、甘くて美味しい酒を酌み交わし、満座がいよいよ楽しく盛り上がる事だそうです。 さて、二つ目の「たけなわ」という漢字は、「もんがまえ」に「柬(かん)」と書きます。早い話が橋の欄干(らんかん)という場合の「欄」は、「きへん」に「闌(たけなわ)」と書く訳で、この「きへん」と「もんがまえ」を外し、「ごんべん」をつければ「諌める(いさめる)」となる。実際、「もんがまえ」の「闌」には、「しきる」とか、「遮る(さえぎる)」「防ぐ」などという意味も含まれております。 楽しさ、美しさのクライマックスがたけなわなのに、引き締める意味の漢字が用いられるのは、何やらチグハグな話ですね。 しかし、僕は、こう考えました。 楽しさや美しさは一定の節度を越える時、秩序の乱れや組織の腐敗をきたしかねません。恐らく、歯止めを意味する「闌(らん)」。この「闌」という漢字が「たけなわ」の言葉に当てられたのは、まさしく、物事の本領は腐る寸前に現れる。そういう事を示そうとしたためではないか、と僕には思われます。 なるほど、たしかに、天地万物すべてが、エネルギーを一斉に噴出させる季節の春は、生命力のアンバランスを招きかねない。ある意味でハラハラさせられる時期であります。 このように春という季節のきわどさ、危うさ、また儚さ(はかなさ)を抱え込んだ上で尚、清らかな色香を放つ花がある。それが桜です。 桜の花は、憂いを裡(うち)に深く秘めて咲く故に、万感の感情移入を誘うのでしょう。われわれ日本人には古来、この桜の花を措(お)いて他に、春たけなわの妖精を見出す事はついぞ、できませんでした。 ここに、さても、不可思議な事があります。 それというのも、この桜の花は実際、土に根を張って茂った木に咲く生の花と併せて、工芸品や和食の料理、また絵画などで巧みに象られた(かたどられた)桜にも、香りとか温もり、そよ風といった瑞々しい気配を感ずる事が出来る。桜には、このような神秘が息づいているのです。 今回のお話で話題にしたいと考えている、「サクラコマ」も、まことに微妙な桜の命を現代の郷土玩具として甦らせた逸品、といえるでしょう。「サクラコマ」とは、手捻りで回す小さな独楽で、回転するとその遠心力により桜の花びらがパァッと開くのです。この花開く時間は十秒前後で、文字どおり瞬間の麗しさ(うるわしさ)をいっぱいに放つ。まさしく、あっという間の華やぎなのですが、得も言われぬまばゆさをもって強烈な印象を残す訳ですね。 製造業ご当地お土産「サクラコマ」。これから、この「サクラコマ」に秘められている美しい物語を繙いて(ひもといて)みましょう。 「三方(さんぽう)よし」という言葉があります。 この「三方よし」とは、その昔の近江商人が商いの心得として代々伝えてきた経営哲学を、滋賀大学教授の小倉栄一郎さんが簡潔に言い表した言葉でした。 すなわち、商売するに当っては、「買い手よし。売り手よし。世間よし」という円満な利益の分配とその循環をめざした、いかにも日本人らしい心得です。買って嬉しく、売って利潤を上げ、その売り買いが公共の福祉に寄与する、という幸福の経営学ですね。自由主義経済学の旗頭(はたがしら)みたいに見做されていたドイツ出身の経済学者、フリードリッヒ・ハイエックは、著作の中で「社会のハーモニー」という言葉を使い、「三方よし」と極めて似通った事を述べているらしい。しかし、「三方よし」の理念そのものをまとまった理論として提唱した学者は一人もいませんし、実践された例は、江戸時代から昭和も戦前頃までの日本だけみたいですよ。 具体的にお話ししましょう。 近江商人の商いは、「のこぎり商法」と呼ばれました。近江上布という麻(あさ)織物(おりもの)を日本の津々浦々に売り歩き、その商売のさきざきで仕入れた各地の産物を京、大坂で、売り捌く(うりさばく)、という遣り方です。この「のこぎり商法」のおかげで日本各地に名産品の生産技術が発達し、各地方が独自色の濃い繁栄を遂げたのでした。 その中で、この「のこぎり商法」を見習い、わがものとしたのが山形は最上地方の紅花(べにばな)商人です。彼らは、紅花を加工した紅(べに)餅(もち)、つまり、染色やお化粧に用いる紅の原料を京、大坂で売り歩き、その商いで得た儲けで上方の豪華で優雅な文物を、山形に持ち帰ったのでした。こうした経済の豊かさが、米沢藩では凶作の飢饉から人々を救ったようですね。「三方よし」の商いが、めぐりめぐって、どれほど多くの人々に恩恵をもたらしたことか、計り知れません。 さて、今回、話題にしている「サクラコマ」には、時代とか地域などの隔たりを伏流(ふくりゅう)して伊那に湧き出た「三方よし」という知恵の泉を見ることができます。その知恵の泉から湧き出る夢のめぐみを素手で掬(く)み上げ、様々な恩恵の真水として地域社会にあまねく注いだ方は、製品設計会社スワニーの社長、橋爪良博さんでした。では、「三方よし」の知恵と、「サクラコマ」とがどのように結びつくのか、僕の考えをこれからお話ししましょう。 まず「三方よし」うちの「売り手よし」。この徳目では、スワニーを中心に伊那市内の身近な異業種間連携が、うまく成立した事。つまり、「サクラコマ」は、伊那市内で、経営する中小の製造業七社に、伊那市社会福祉協議会の障害者就労センターも参加する、という協力体制の下、生産されている訳であります。経済活動も、国境を越えてグローバル化の波が押し寄せる中、これは強靭なスクラムとなるのではないでしょうか。 次の「世間よし」は、その連携に障害者就労施設も組み入れられたことですね。近年、営利事業に福祉活動を合体させたソーシャルビジネスというものが提唱されて来ましたが、そのモデルはなかなか現れない。その点でも、「サクラコマ」は、画期的な先駆例となる筈です。 加えてもう一つ、特筆すべき事があるんですよ。それは、「サクラコマ」の売り上げの一部が、高遠城址公園に年(とし)古(ふ)りて茂るタカトオコヒガンザクラの保護のために寄附される、という事であります。要するに、この場合の製品開発には、はじめから、目的の一つとして社会貢献という事も含まれている。これも、「サクラコマ」が秘めている玄妙な美しさではないでしょうか。 さて、三番目の「買い手よし」。これは、「サクラコマ」をお土産にもとめるお客さんが、以上述べた諸々のいきさつ。つまり、このコマが産まれるまでの人間味豊かな物語にも触れられる、ということではないかと僕は思うのです。 全く前例のない発想、企画、そして、高い志が、まことに愛らしい姿となって現われた「サクラコマ」。そこに僕は、スワニー社長橋爪良博さんの秀でた総合経営力とともに、連携した各企業の社長さん達の熱い郷土愛をみる思いが致します。 それはそれとして、わが信州上伊那地方を見た時、これまでは取り立てて注目すべき特産品がないように思われました。いささか寂しく感じていたところ、そうした悲観的固定観念をくつがえす驚きのデータが上伊那地方事務所から発表されたのです。タイトルもずばり、「平成二十二年工業統計調査」という資料であります。 それによると、上伊那地域全体の製造品出荷額は長野県内で松本圏域、長野圏域に次ぐ堂々の第三位。事業所数および従業人数は、長野県全体の一割強に上るようですね。これは、なかなかの底力で、びっくりしました。 そこで、僕は、その底力の一端に触れてみたい、と考えた。幸いにも、そのチャンスに恵まれたのです。というのも、去る三月五日、六日の二日間にわたり、伊那勤労者福祉センターで、「中央アルプスビジネスフェア二〇一五」という催しが開催されました。僕は、このビジネスフェアを見学する事が出来た訳です。 聞きしに勝る賑わいでした。数えて百二十九にものぼる企業、団体が体育館いっぱいにブースを連ねた光景をみた時には、上伊那の産業界全体の縮図をみる思いがしたものです。 産業はごく大雑把に分けて素材開発、加工、組み立て、そしてサービスと四種類あるものですが、わが上伊那地域には、この四種類が豊富に混在している。しかも、それぞれの取り組みは皆、非常に先駆的です。数々の最新技術と、沸き滾る(わきたぎる)ような情熱とがギュッと凝縮して、掌に載る小さな「サクラコマ」が生まれた背景のすごみを感じましたね。 この会場でスワニーの社長、橋爪さんに、初めてお会いしたのです。鋭いなにかを内に深く秘めて、温かく、優しい穏やかなその風貌に僕は、文学的な詩人の素質を見て取った。そもそも、こまは、ゲームで楽しむ競技用のおもちゃなのです。それを、回転する姿を見て愛でる(めでる)玩具として開発する。これは、感受性が研ぎ澄まされて澄み切った詩人の発想なくして、まったく出来ない事であります。
2015.04.21
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平成27年2月16日伊那市有線放送農協・放送電動車椅子ぶらり通信 百九十二話 そのきさらぎのもちづきのころ きのうは二月十五日。この二月十五日は、「涅槃寂靜(ねはんじゃくじょう)」といって、佛教を興した(おこした)大本の祖師である釈迦が亡くなった日、とされています。故に、この日には、お釈迦さんの菩提を偲ぶ法要の「涅槃會(ねはんえ)」が、各寺々で静かに、営まれる訳ですね。 特に、佛教を深く信ずる人びとは、釈迦が亡くなったとは考えない。飽くまでも、普通の人間には絶対に到達できないほど深い境地の暝想に入ったのであって、永遠に、現世の有り様を見守っている、というのです。それを表す言葉が、「涅槃寂靜」なのだとか。 しかし、それはそれとして、僕は、生身の人間釈迦。つまり、肉体に普通の限界を持ち、苛烈な現実と死物狂いで闘(たたか)った釈迦の生き方を、敬愛する者であります。 実際に、傷ついた裸足の血で衣の裾が赤く汚れても、彼は、煩悩から人々を救うための旅を続けた。そして、最期はお腹をくだし、汚物まみれで道端にたおれ、死んだ、という事が、古いお経には書かれてあります。そういう無力を曝け出した(さらけだした)死に様に、僕は、釈迦という人間の必死な生き様を見出して憧れるのです。 恐らく、次の和歌を詠んだ人も、お釈迦さんの生き様、死に様に惚れ込んでいたのではないでしょうか。 ねがはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの もちづきのころ 作者は、言わずと知れた西行法師です。 もし願いが叶えられるなら、桜の花の下で死にたいなぁ。沙羅(さら)双樹(そうじゅ)の花に囲まれて息を引き取ったお釈迦さんの命日である二月十五日に。という意味です。 果して、西行は、この願いに極めて近い日に亡くなりました。文治六年、西暦一一九〇年の二月十六日であります。尤も、この日は新暦の三月三十一日ですから、桜は咲いていたかも知れませんね。 こんな訳で、昨日は釈迦の涅槃會でしたし、今日は西行の命日です。これを機に今回は、人の死に関わる精神文化を見つめ、そこから人生の不可思議を透かし見たいと存じます。 ところで、西洋のキリスト教文化圏では、各人が、「バースデイブック」という手帳を一冊もつ、という風習があります。いつ、誰から、どのようなタイミングで贈られるものなのか、僕にはよく判りません。ともかく、この「バースデイブック」には家族や、親しい友達の誕生日を書き込んで、お祝に備える、という習わしみたいですよ。 一方、わが国日本には、「過去帳」とか、「点(てん)鬼簿(きぼ)」などと呼ばれる帳面に、亡き人の名前と命日を記し(しるし)、在りし日の面影と、遺徳を偲ぶ、という伝統がありました。この場合、通常は、その家のご先祖様方を、月日ごとに記名するものです。 しかし、家の過去帳とは別に、親しくお付き合いした人々の過去帳をつくる方もいる。僕が知る中で特に印象的な例は、昭和の名人という誉れ高い噺家(はなしか)の六代目三遊亭圓生(えんしょう)です。圓生さんは神経質というか、潔癖性というか、人付き合いの好き嫌いが激しかったようですね。でも、亡くなった人々には敬意を払った。同じ噺家の仲間が亡くなると、たとえ反目し合った人でも過去帳に記名して、祥月命日には自分の部屋の佛壇に長時間、手を合せたのだそうですね。 これに関連して僕は、母方の祖父をめぐる話を思い出します。祖父は、浄土真宗の門徒でした。ご存知のように、浄土真宗を興した宗祖の親鸞は、肉食妻帯(にくじきさいたい)を積極的に肯定した人です。にも拘らず、祖父は、血縁の命日には決して、魚肉の類いを口にしなかったとか。母や祖母から伝え聞いたところによると、先祖親戚、誰かの命日には、その日の朝ご飯に啜(すす)る味噌汁に、煮干しや削り節などでだしを効かす事すら、固く戒めていたのだそうです。 このように、亡くなった親しき人の命日を慎み深く過ごす、という習わしは一体、如何なる心から生まれ、受け継がれてきたのでしょうか。この問題を考える中でふと思い浮かぶのは、おかめさんの伝説です。 ふくよかで、愛らしいお顔のおかめさん。このおかめさんの夫は、長井(ながい)飛騨(ひだの)守(かみ)高次(たかつぐ)という大工の棟梁でした。高次は、 京都の大報恩寺(だいほうおんじ)、別名「千本釈迦堂」というお寺から、本堂の建立を委ねられます。その際、高次は、壇家さんから寄進された折角の柱をうっかり、勘違いした寸法で短く、切ってしまった。その時、困り果ててすっかり意気消沈する夫の高次に、妻のおかめは、こんな提案をしました。「天井と柱との間に、桝組(ますぐみ)を咬(か)ませてはいかがでしょうか」 と。ちなみに、桝組とは、丈の短い角材を組み合わせる一種の細工ですな。斯くして、桝組を施すという工夫により、お堂の立派な骨組が出来上がった。さて、明日はいよいよ、晴れて「千年よ! 万年よ!」の棟上げ式、というその時、おかめは突然、自らの命を、絶ってしまいます。その訳は凡そこうでした。「もし、私の助言で桝組の工夫がお堂の骨組を完成させた、という事が世間に知られれば、高次様は面目を失ってしまう事でありましょう。これは高次様が、恥に汚れたままで生き続ける事で、死ぬよりもお辛い筈。斯くなる上は、高次様の名誉を守る為、私が自ら命を絶つ以外にないのです」 これは、現在の感覚からするとまず、解りづらい思い、と言わねばなりますまい。何故なら、まずは命が大切、という価値観が行動凡ての前提となっている今のわれわれ日本人には寧ろ、受け入れられない心情、とさえ、いえるからですね。そこを敢えて踏み込み、空想を働かせれば、僕にはこんなふうに感じられるのです。 おかめさんは、志として、夫である高次の名誉を守る行動に、《死》を選んだ。つまり、志を成し遂げる行為行動の手段として、自らの命を捧げようという信念が、日本人の感受性に生き続けている。その事に思いを託して、おかめさんは自害したのではないか、という事です。 さあ、ここで、もう一つの例を上げれば、その秋(とき)に臨んで自ら抛(なげう)つ我が身の《死》を、生きるための行動の一つ、と思い定めていた日本人独特の死生観が、より明確に浮かび上がるかも知れません。で、その例とは、わが郷土伊那の英雄、御子柴(みこしば)艶(つや)三郎(さぶろう)です。 今更いうまでもなく、艶三郎は明治初期、現在の荒井地区、西町地区の潅漑(かんがい)用水を確保する為、現在の伊那中学校から西へしばらく歩いた辺りに、井戸を掘りました。「横井清水」と呼ばれるこの井戸を掘るまでには凡そ、二十年余りの歳月と、私財、借財合わせて、大変な額のお金が費やされたのだそうです。 その上で、艶三郎は、水神様に誓願(せいがん)を立てました。即ち、もしも豊かな水脈が掘り当てられた暁には、水神様に、私めの命を犠(いけにえ)として進ぜます、と。 果して、掘り進んだ井戸から滾々(こんこん)と水が湧き出た時、艶三郎は、水神様への誓願どおり、自らの命を絶ったのであります。 痛ましき事、と言わねばなりません。しかし、さきのおかめさんも、また、この艶三郎もそれぞれ、自分の亡き後、死に託した志は必ず、世間の人々が丸ごと受け止めてくれる、ということをすっかり信じていた。つまり、生と死を別け隔てなく捉え、尚も死を賭けて、人間らしく生きようと試みてきた。それが、日本人の歴史だったのではないでしょうか。 思えば、近世以降でも安政の大獄、明治維新、戊辰・西南戦役、日清・日露戦争、そして先の大戦、とそれぞれ時代を画する大事件では、有能で英邁(えいまい)な若いエリート達が夥しく、死んで行きました。将来が期待される若者達の命を無数に呑み込んで、時代が刻まれる、という点に、日本の歴史の惨(むご)たらしさがあるのは、事実です。 しかし、多くの逸材が失われた事を代償とするかのように、日本は、国として、現在もなお存続し、立派に繁栄を遂げております。これは、恐らく、無意識の裡(うち)にも死者の無念を我が志として受け継ぐ感性が、日本人の血の流れに生きているからではないか、と僕は思うのですが、皆様方は、どうお考えになるでしょうか。 ところで、我が国には、「形見分け」という風習が古くから伝わって参りました。 この形見分けの「形見」とは元々、亡き人が生前に着ていた着物の事だったようです。その亡き人の着物を遺族や親しくお付き合いしていた人々が身に纏い、亡き人に成り代って、生きている間には果せなかった志を果すべく世のため、人のためにご奉行する。形見分けされた人々には、そういう重大な義務と責任が託されている筈でした。 僕も、亡き父に成り代って、道半ばの善き行いを為さねばなりません。小学校の教師だった父は背広や、ネクタイなど幾着も遺しましたので、僕は講演等に招かれた時、それらを着たいのです。でも、短足胴長の僕にはてんで、寸法が合いません。そんな僕に、母は、父が着古したワイシャツをリフォームして、食事用のエプロンを作ってくれました。着衣を汚さないよう、食事では毎回、このエプロンを掛けるのです。その度に僕は、「父さん、善い文章が書けるよう、僕も頑張るからね」と、心で呟いております。 生きる事と、死ぬ事とを、一続きのものと大切に考えてきた日本の精神文化。この精神文化の深さを思いつつ、最後に艶三郎の辞世を諳(そらんじ)てみたいと存じます。 海に出るはじめは穴の春の水
2015.02.17
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平成26年12月15日・伊那市有線放送農協電動車椅子ぶらり通信 百九十一話 バリアフリーリポート二〇一四 僕が学んだ県立諏訪養護学校では、在校していたその当時、学芸会にも高等部の生徒が参加して、一つのお芝居を披露していました。これは、高等部開設以来、ひとつの伝統みたいなものになっていましたね。というのも、高等部の演(だ)し物は一年生から、三年生までの全員で一演目の演劇を演じ切る。先生方は、一切ノータッチ。この原則の下、毎年お芝居が演じられていたからです。 つまり、舞台のキャストは言うまでもなく、大道具、小道具、音響、照明、衣装、メイク、果ては演出に至るまで、身体に障害を抱えた生徒たちが全部、整えるわけですね。大体十一月下旬に計画されていた学芸会での発表に向けて、夏休み明けから即、準備に取り掛かりました。皆ノリノリで取り組んだものです。 その中で、いつも僕に割り当てられた仕事が、台本の元となる戯曲の再脚色と、ナレーションの執筆です。これには、手足が不自由でなんにもできない唐澤浩だけれど、あいつにさせれば多分、間違いのないものが書けるだろう。そんな先入観をもたれても仕方ない訳があったからでした。 その一つ目は小学部、中学部の頃から本当にたまたま、いくつかの作文コンクールに入選していた事。二つ目は進学した高等部で、他の生徒に較べると手足の障碍が重い僕には、特別の時間割で国語や英文などのテキストを読み、それをレポートにまとめる。という授業が割り当てられていた事。こうした事から、唐澤浩は筆が立つ、というイメージばかりが過剰にふくらんでしまったのでしょうね。 これはまずい、と思った時はもう、すでに遅かった。高等部一年生の時に突然、脚色の役割が押しつけられた時には、余りのプレッシャーに耐えられず、一瞬、本気で退学を考えたほどです。高等部で歴代演じられてきたお芝居は、菊池寛(かん)の「父帰る」とか、山本茂美の「あゝ野麦峠」、木下順二の「夕鶴」などといった名作ばかりで、実際の舞台もみな、かなり迫力がありました。それらに劣らない台本として、元の戯曲を脚色しなければ八つ裂きの刑に遭う。そんな強迫観念に駆られながら三日三晩、ほとんど徹夜で書き上げた事は忘れられるものではありません。 演出だった先輩に恐る恐るそれを見せて、「よぉし。上々の出来だぞ。これで行く。もし、何かいう奴がいたら俺が黙らせるから、安心してな」 といってもらえた時のホッとした気持ちは、何とも言われないものでしたね。その後、疲れがどっと出て、一週間、寝込みました。 思えば、これが、僕の場合、本気で文章を書く道に踏み出す第一歩だったと言えます。これ以降、僕に対する先生方の文章教育は、益々、本格的なものとなりました。それが、結果のひとつとして、卒業直後から二十年間つづけた放送局の番組モニターの仕事へとつながりましたし、同時に、今こうして続けさせて戴いている「いなあいネット」の「電動車椅子ぶらり通信」に原稿を寄せる、ということにも結びついている訳です。 ところで、高等部にいた時、文書の作成や授業のノートは、電動タイプライターを使い、やっていました。もちろん、学芸会のお芝居の台本脚色にも、電動タイプライターを使用した訳です。ふりかえれば、僕の場合、この電動タイプライターが、文書作成能力を触発してくれた事は、確かだと思います。 そこで、今回は、僕がどのような文章表現機器と出会い、人間性というものについて、言葉そのものから僕自身、どう導かれてきたのか、ざっと、辿らせて戴きたいと存じます。 さて、今、お話ししている電動タイプライターに僕が初めて触れたのは、小学部五年生の時でした。そのころ入院していた肢体不自由児専門の療育施設、信濃整肢療護園に或る時、デモ用の電動タイプライターが持ち込まれたのです。その時、試しに使わせてみようと呼び出されたのが、僕でした。 ここで、なにゆえに、電動タイプライターというものが開発されたのか、経緯をお話し致しましょう。普通のタイプライターも物を書くには便利なのですが、ひとつだけ難点があった。それは、指に強い力を込めてキーを叩かないと、紙には、印字されないのです。それが証拠には、「タイプライターを打つ」あるいは、「タイプライターを叩く」とは言っても、「タイプライターのキーを押す」とは言いません。実際、僕も棒を咥えて試した事がありますが、てんで無理でした。 その点、電動タイプライターはモーターの力で印字する、という仕組みの機械ですから、キーにはただ触れるだけでいいのです。口に棒を咥えて試しに、「か・ら・さ・わ・ひ・ろ・し」と自分の名前を打った時の感動は、やっぱり、今でも忘れられませんね。なお、口に棒を咥えてキーを打つ、という遣り方は歯を傷めるし、唾液が出て衛生にも良くありません。そこで、のちのち進学した県立諏訪養護学校高等部の先生が、歩行訓練で頭の保護に用いていたヘルメットに棒を取り付けて打つ、という方法を考案して下さいました。 さて、話を戻しましょう。 この電動タイプライターをつかう以前は、学校の勉強や作文、日記など、両親をはじめとする身の周りの大人たちに、口述筆記してもらっていました。その場合、大抵は目上の立場から未熟な子供の言う事を聞き書きする訳ですから、途中で「それは違うでしょ?」とか、「どうして、そんな事を書くの?」と問題にされる事もしばしばでしたっけ。 つまり、介助のため僕の言葉を言う通りに記述する、という本筋から大きく脱線する、というケースも間々あった。書いている最中にペンを止め、僕の思い違いや考え方の甘さを質(ただ)し、こんこんとお説教する保母さんや、看護婦さんもいたのです。「別に悪い事をした訳じゃあねえのによぉ、なんで俺は、こぉんなに叱られなきゃいけねえの? ッたく!」 そんな具合に気が滅入った事もありました。文章を書く事、更には物事を考えるという事の厳しさをよくよく知った、ということでは貴重な体験だったかも知れません。けれども、他人に口述筆記を頼んで文章を書く事は憂鬱で、仕方なかった。 だから、考えた事が思い通り、自由に書き表せられる、電動タイプライターと出会った時には、或る種の解放感を味わいましたね。ちちははは、僕が諏訪養護学校の高等部へ進学するとほぼ同時に、電動タイプライターを買ってくれました。これを約二十年間、使う事になります。 ただ、この電動タイプライターにも一つ、困った事がありました。それは、電動タイプライターが仮名文字オンリーだった、という事です。漢字もなければ、アルファベットもありません。そのため、特にこまったのは、英語と数学、理科の勉強でした。英単語のスペルや、数学の文字式などをしるす場合は、仕方ないのでアルファベットの発音そのままに、仮名で「エー」とか「ビー」などと書いたものです。僕のノートや答案をチェックする先生方は定めし、読み取りづらく苦労された事でしょうね。 そして更に閉口した事があります。それは、初めて手紙を送る相手の方に、僕が仮名文字しか読み書きできない、と思われてしまった事。びっしり、平仮名ばかりの文面で返事がきた時には心底、頭を抱え込みました。確かに電動の和文タイプライターもありましたが、手の自由が利かない僕には使えません。 さぁて・・・どうしたものかなぁ? などと思いあぐんでいる時に登場したのが、ワードプロセッサ、略してワープロです。といっても、市販されている機種はほぼ全部、僕には使えませんでしたね。何故なら、一般に売られ始めたものの殆どは、ダブルキーといって、シフトキーなどを押しながら使わないと表れない文字があったからです。 探しに探してようやく見つけたのが、一台の自動車が買えるほどの高価な代物。清水の舞台から飛び降りた気でこれを購入し、幾人かの知人に手紙を書いたところ、「やっぱり唐澤君は名分家だったんだ」と大変びっくりされたり、感激されたりしました。 そういう反応に促されて、電動タイプライターによる仮名文字だけの文面と、ワープロによる漢字混じりの文面とを読み較べてみると、確かに視覚から入り込んでくる立体感とか、重厚さなどといったものは完全に異次元のものであります。この時の驚きから僕は、次のように直感しました。 ――おれは身体の障碍のため、経験や知識に乏しい。でも、物事をよく見つめて考えを深める努力なら十分可能だ。幸い、漢字混じりの文章が書けるワープロが、入手できた。このワープロで書いた自分の文章が鏡となって、俺自身が関わる現実そのものがより立体的に、より重厚感をもって映し出してくれる筈だ。それを更にデッサンする。よし、この遣り方で行こう――と。 さて、新しい話題に移ります。じつを申しますと、僕は今、瞳で画面を見つめるだけで操作できるパソコンを使い、物を書いております。これは、「アイ・トラッカー・システム」といって、赤外線カメラが捉えた眼球の動きをパソコン操作に結びつける、という仕組なのです。目玉だけで文章が書ける訳ですから、身体は一向疲れません。まさか僕自身、生きているうちにこれほど凄い機械と出合おうとは、夢にも思いませんでした。 技術にさきを越されぬよう、僕自身、更に人間観を鍛練しなければなりますまい。
2014.12.16
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平成26年8月18日・伊那市有線放送農協朗読原稿電動車椅子ぶらり通信 百八十九話 手紙をしたためる心 昭和三十年代も後半になると、各家庭に、カメラが普及して参りました。多くの場合、それで、親御さん達が子供の成長記録を映像に残すようになります。僕の親も、生後間なくから沢山の写真を残してくれていたため、障碍を抱えた身の発達具合や、その時々に起きた出来事と自分自身との関係など、まざまざと辿ることが出来る訳です。 加えて、僕にはもう一つ、思い出のよすががある。それは、両親が、僕に送ってくれたたくさんの手紙なのです。僕は六歳から足掛け十三年間、障碍の治療と義務教育をうけるため、親許から離れ、下諏訪町にある信濃整肢療護園および、県立諏訪養護学校で過ごしました。その間に父母がそれぞれ、僕にたくさんの手紙を送ってくれたからです。 家の折節(おりふし)や家族、親戚の消息。旅先からの絵葉書など、小学部卒業までにもらったものだけでも、五十通以上。それ以降のものも加えると恐らく、二百通はあるでしょう。 ここで、次に紹介するのは、小学部二年生だった時の僕に、母が送ってくれたはがきの一通です。 浩。きっと元気でお勉強や機能回復訓練 を頑張っている事と思います。 さて、今度の日曜日は、学校の参観日で すね。ところが、残念な事にお父さんも、 お母さんもその日、用事があって行かれ ません。折角の事なのに、ごめんね。お 利口さんの浩だから、きっと解ってくれ ると思います。どうか、風邪を引かない よう、気をつけていてね。お母さんより 幼年期から育ち行くさなかの僕にくれた手紙ゆえ、各年齢ごとに仮名、漢字の文字使いや語彙(ごい)の数が変わって行くのが面白いし、その時々で僕自身、何を課題に生きていたのか、喜怒哀楽の移り変わりを思い起こす事が出来ます。父母がくれた沢山の手紙は、まさしく、身体に障碍を抱えたために、順調な生い立ちが経験できなかった故の恵み、といえるかもしれません。 八世紀の大陸国家、唐の宮廷詩人、杜(と)甫(ほ)の代表作は「春(しゅん)望(ぼう)」という五言(ごごん)律詩(りっし)ですね。つまり「国破れて山河在り。城春にして草木深し」という対句の出だしが余りにも有名な作品です。漢詩という文学ジャンルのトレードマークみたいな作品、といえるでしょう。 この「春望」という漢詩の第六連目には、 「家書(かしょ)、万金(ばんきん)に抵(あた)る」 と詠まれております。「家」に「書物」の「書」と書いて「家書」。この「家書」とは、家族からの手紙の事だそうです。意味は改めて訳すまでもなく、家族から届いた手紙は、如何なるものにも替え難いほど尊いし、愛しくて堪らない、という率直な心情の吐露以外の何物でもありません。僕は、この「春望」という杜甫の漢詩を、中学部二年生の時の国語で初めて習いました。そしてすぐに諳(そらん)ずる事ができた。静かにくちずさむうち、例の 「家書、万金に抵る」 という件(くだり)に辿り着くと、僕自身が父母から手紙が届いて封を開けた瞬間が甦り、万感、胸に迫るのを禁じ得ませんでした。 ところで、この手紙については、明治以前の庶民教育で読み方、綴り方の手習い本に、用いられました。これは、「往来物(おうらいもの)」という手紙の文例集、もしくは書簡形式を藉(か)りて編まれた教科書でした。それらをいく種類も読んで書き写し、一般教養を幅ひろく身につけた訳です。 仮名、漢字、ことわざ、熟語、苗字、地名、こよみ、法律、和歌などなど、様々な基本的知識を覚えるために作られた教科書が、「往来物」でした。士農工商、それぞれの身分の違いに応じて、また、いろいろな職業ごとに数々の「往来物」が編まれたようですよ。 ちなみに、わが家にも、「往来物」が一冊あります。それは、「女(じょ)教(きょう)小倉(おぐら)色紙(しきし)」という女子向けに書かれた百人一首の教科書で、浄瑠璃の床本(ゆかほん)さながら分厚い装丁なのです。つまり、厚みのある丈夫な和紙で、しっかりと和綴じの作りに仕上げられている。これだけをみても、日本では、子供の文字教育について、如何に力が注がれていた事か、よく解ります。 「往来物」そのものは、すでに平安末期から作られていました。しかし、盛んに出版されるようになるのは、近世以降のことであります。実際、江戸初期から明治初年にかけて発刊されたこの「往来物」は優に、七千種類を超える。これだけを以てしても、わが国が近代以前から世界で有数の出版大国であり、教育立国であったという事が明言できる、と思います。 これは意外に知られていない事なのですが、わが伊那市は古文書類、古典籍類、近代公文書類の宝庫なのです。伊那市創造館、伊那市立図書館、伊那市立高遠町図書館、また高遠町歴史博物館それぞれに所蔵されている文書史料を併せると恐らく、質的には、県立歴史館のそれには決して、引けを取りますまい。このうち高遠町図書館には、れいの「往来物」も保管されているので、ご覧いただければ、と存じます。 かくて、身分の別なく多くの児童が学問に打ち込んだ江戸時代の識字教育、もしくは、文章の読解、表現教育が明治維新以後に流入する西洋近代文明の受け容れに、分厚い基盤となった事は確かでしょう。しかし、それは、ごく割り切っていうと、部分的な一つの結果ではないか、と僕は考えています。その大本(おおもと)には、言葉や文章に対する日本人独特の畏敬、あるいは切々たる熱意ともいうべきものが、昔から脈々と生きていたように僕には感じられてなりません。 僕がそう思う根拠の一つは、江戸時代の中ごろに出された「葉隠(はがくれ)」という本の中の一節にあります。この「葉隠(はがくれ)」は、肥前(ひぜん)鍋島藩(なべしまはん)の藩士、山本常(つね)朝(とも)がお城務めを退いた後に語った言葉を、後輩の田代陣基(たしろつらもと)が書き記した聞き書き集で、全十一巻に及びます。「徒然草」みたいに短い文章が書き連ねてある内容ですから、候文の文体ながら割合、読みやすいのが特長でしょう。 この「葉隠」については、「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」という一句が切り取られ、戦後のいわゆる進歩派知識人たちから、「人命軽視の思想だ」と槍玉に挙げられました。しかし、ごく大雑把にいうと、常朝は、ここで、「人命至上主義に縛られていると結局、自らの命そのものを、生きいきと楽しく使い切ることはできないよ」と、言っているだけです。まあ、唯物論が幅を利かせている戦後の日本では、ここで述べられている絶妙な逆説はまず、理解されないでしょうね。 さて、手紙の事に話を戻しましょう。「葉隠」第一巻八十九章で常朝は、つぎのように言います。 風体(ふうてい)の修行は不断、鏡を見て直したるが よし。これは秘蔵の事なり。諸人(しょにん)、鏡を よく見ぬ故、風体わろし。口上(こうじょう)の稽古は、 宿元にての物言いにて直す事なり。文段 の修行は、一行の手紙も案文するまで也。 右、いずれも静かに、強みあるがよき也。 また手紙は、向様にて掛物(かけもの)になると思へ と、梁山(りょうざん)、上方(かみがた)にて承り候由。 これを僕なりに、次のごとく訳してみました。 顔つきや風采は絶えず、鏡を見て整える もの。これは非常に重要な事だ。大抵の 者は鏡を見ないので、ロクな恰好はして おらん。プレゼンの練習は、家での話し 方に気をつけ、しくじりはきちんと直す 事だ。文章の上達を望むなら、たとえ、 一行の手紙もとことん、推敲する事。今 述べた修練はどれも、内面が強靱である よう心掛けるべきだろう。この中で特に 手紙は、送った相手の方が、それを表装 して掛軸にするかも知れないと思え、と 梁山和尚が京都でどなたからお聞きなさ れたそうな。 手紙を掛軸にして珍重する――これは茶道の茶掛けに見られる風習で、歴史上の偉人が書いた書状が尊(たっと)ばれる、そんな風に思われがちです。しかし、茶の世界における茶掛けの手紙は、書画骨董における市場価値とは殆ど無関係で、それを認(したた)めた人の生きる誠実さ、手紙に込めたよくよくの思い、また、その人と茶会を催した亭主とのご縁を偲んで、ぬくもりのお相伴(おしょうばん)に与(あずか)らせて戴く。そのためのものなのです。 言葉は決して、自分が考えた事がその通り、相手に伝わるものではありません。だから、特に手紙の場合は、言葉遣いや表現の仕方に誰もが苦しむのです。挙げ句が、推敲のため、時間を浪費してしまう。その気重さや憶劫を、日本人は昔からよく知っていた。だから、手紙は大切にされてきたのでしょうね。 さて、きょう八月十八日は、旧暦の七月二十三日。この七月は、昔の呼び方で「文月(ふづき)」といいました。すなわち「文章」の「文」に「月」と書きます。これは、お習字の上達を願うお祭り、七夕にちなむとか。僕も、いっそう良い文章が書けるよう、ますますの精進を重ねたいと思います。
2014.12.15
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平成26年6月16日伊那市有線放送農協の朗読原稿電動車椅子ぶらり通信 百八十八話 一服のお茶から 只今お聞き戴いているのは京都の祇園で舞われる地(じ)唄(うた)舞(まい)、その地唄舞における大切な演目の一つ、「宇治茶」という地唄です。 歌詞は別に取り立てて訳すほどもない内容で、お茶という言葉と、色恋の情景とを掛け合わせた一種の言葉遊びですね。だから、まあ、気軽にその繊細(せんさい)な節をそっと、楽しめばいいのだと思います。幸いにも、僕は、この「宇治茶」という地唄舞を間近で鑑賞する事が出来ました。 五月十七日、信州高遠美術館で京都の櫻(さくら)守(もり)、佐野(さの)藤(とう)右衛門(えもん) さんのトークイベントが行われ、その際のレセプション的なお楽しみに、京都祇園の芸子さん、舞妓さんによる舞が披露された訳であります。僕は間近で見られたものですから、何やら、茶屋の座敷で錦(にしき)張りの豪華な肘掛(ひじかけ)、すなわち脇息(きょうそく)にもたれ、盃(さかずき)を傾けるお大尽(おだいじん)になったような気分で、芸子さんらの舞を愛でる事が出来ました。 話を戻すと、この地唄で唄われている宇治茶は、日本のお茶全体の原種です。 このお茶という爽やかな飲料は、鎌倉時代に栄西(ようさい)というお坊さんが、当時の大陸国家である宋(そう)に渡って、移入したものであります。鎌倉時代初期、仏教における天台宗の教義と、禅宗の理念を学ぶために宋へ渡った栄西は、滋養と精神安定などに優れた効能を持つ薬剤として、お茶の実を持ち帰った。当時の将軍、源実朝(みなもとのさねとも)は病弱だったようで、栄西は鎌倉へ下向する度、実朝の許を訪ねては茶の服用を奨めていたそうですね。そして、彼が臨済宗の修行拠点として京都に建仁寺を創建した頃には、この寺の近辺でも、お茶が栽培されていた節がある。 この建(けん)仁寺(にんじ)に栄西を訪ねて禅を学ぶ、一人のお坊さんがいました。京都、栂(とが)ノ尾(お)に高山寺(こうざんじ)を開いた明恵(みょうえ)上人(しょうにん)です。そこで、栄西も明恵も、互いに仏教者として、また人間として気高い人格を認め合いました。その現われの一つとして、栄西がお茶の種を譲った、という逸話であります。 明恵は、栄西から譲られたお茶の種を高山寺の近辺に播いたところ、栂ノ尾の土目によく馴染み、順調に生育したようですね。いわば、栂ノ尾が、日本茶の歴史的な苗床(なえどこ)になった訳であります。うまく育ったそのお茶の苗が徐々に宇治へ移植されて、かの地が銘茶の立派な産地に発展しました。つまり約四百年の年月をかけて、宇治に育ったお茶は、「宇治茶」というブランド名のもと見事に熟成したのであります。そして後年、「茶道」という総合芸術が成立しました。尤も、これには以前、この番組でお話しした叡(えい)尊(そん)という奈良西大寺のお坊さんが深く関わっている。でも、ここでは、明恵上人にスポットを当てて、このまま、話を続けたいと思います。 昔読んだ白洲(しらす)正子(まさこ)のエッセー、「明恵上人」という本に、宇治茶の栽培、製茶、および販売を生業にする人々は、明恵を日本のお茶の神様として、お祀りしているという事が書かれてありました。確認のため、京都府茶協同組合が作成した、「宇治茶大好き」という子供向けの小冊子をみると、たしかに「宇治茶のはじまりは鎌倉時代です。栂尾にある高山寺の明恵上人のすすめで始まりました。」とはっきり、書かれてある。お茶を最初に日本へ移入したのは栄西だし、宇治茶の本格的なブランド化に尽力したのは叡尊であった事から考えてみると、少し不思議な気がします。 そこで、僕の手許にある彼の著作集を繙いて(ひもといて)みました。これは昭和五十六年、岩波文庫に収められた「明恵上人集」という本の初版本です。 すると、その当時、ただの興味本位から買い求めて、字面を追っていたに過ぎなかったこの本をしみじみ読み返してみるに、誰でも出会った瞬間に身も心もすっぽり抱擁する、そんな明恵上人の温かい人間味が、浮かび上がって参りました。 その事が最も端的に感じられたのは、「栂(とがの)尾(お)明恵(みょうえ)上人(しょうにん)遺訓(いくん)」という文章です。これは、明恵が亡くなったのち、彼のお弟子たちが生前の明恵が語った教えを思い起こして、一巻の書物にまとめたものであります。 さて、この場合、文章全体に述べられている明恵の教えの重要な眼目は、冒頭部分に凝縮(ぎょうしゅく)されて簡潔に表現されている。僕にはそう感じられるのです。ついては、これから、その冒頭部分を読んでみたいと思いますので、暫し(しばし)お聞き下さい。人は、「あるべきようは」の七文字を保つべきなり。僧は僧のあるべき様(よう)、俗には俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此(こ)のあるべき様に背く(そむく)故に、一切悪しき(あしき)なり。 これを、僕なりにやや噛み砕いて、現代の言葉に置き換えて訳せば、凡そ、次のように述べられると思います。 人間なら誰でも、「あ・る・べ・き・よ・う・は」という仮名七文字の言葉を常に、意識すべきである。 つまり、自分の境遇や役目を自らよく弁えた(わきまえた)上で、自分本来の生き方を自ら探り、全力で生き抜く、という事だ。僧侶は僧侶として、庶民は庶民として、一国を治める元首は元首として、その配下の者は配下として、自分の立場を自覚し、自分の為すべき事を自発的に行うべきである。 すべての過りや混乱は、この「あるべきようは」という言葉を忘れ、自分の役目を疎かにしたり、能力を超えた無茶に挑んだりするから起きるのだ。 明恵上人は、ここで、人の境遇はすべて必然的であり、掛け替えのないもの故、まずは自分そのものを全面的に肯定する。その上で、各自、自分で信じた生き方を精一杯生きるがよい。と、暗に激励している訳ですね。有体(ありてい)に言えば、自分が直面する状況を何事も前向きに捉え、時々刻々、明るい心で生きなさい、といっているのです。 このように、どんな人にも確たる人格と、使命とがある、という事を説いて聞かせた事が伺える明恵上人の遺訓を、しみじみ読んでみると、宇治茶の生産や販売に携わる人々が、何(なに)故(ゆえ)に明恵を宇治茶の祖として深く崇敬(すうけい)してきたのか、大切な理由がそこはかとなく見えてまいりました。 そこで、この「あるべきようは」という明恵の遺訓を、それなら唐澤浩はどうあるべきか?という問い掛けに置き換えて、自分自身に振り向けてみると、些か(いささか)忸怩(じくじ)たる思いに項垂れて(うなだれて)しまいます。生まれて五十有余年、身体に抱え込んだ障碍については、まあどうにか、それを我がものと受け容れて上手に付き合う心構えは自分なりに育むことは出来たものの、ややもすれば、障碍を克服しようとする努力その事だけで、自己満足してしまうことがある。これは、わが身を甘やかす危険な傾向で、僕の場合の「あるべきようは」という境地からは、程遠いものであります。僕に残された能力は、物事をよく見聞きした上で、出来る限り深く考える事。そして、それを文章に書き記す(かきしるす)事です。この役目をきちんと果たす上では、やっぱり自己満足や、その逆の自己卑下に傾くことが最も厄介な妨げになる訳で、絶えず警戒しなければなりません。この注意を怠らない事。これが、僕の場合の「あるべきよう」という事と、思い定めたいものです。 ところで、今から百三十年前の明治十七年、キリスト教伝道師として知られる内村鑑三は、神学と教育学を学ぶため、アメリカに渡ります。その四年間の生活で内村は、功利主義と人種差別、相互不信などによって完全に毒されたアメリカ、及びアメリカ人に心底、ウンザリしたようですね。その結果として、彼は日本のお侍(おさむらい)がもっていた世界史上極めて稀なる《美徳》に、思い至るのです。つまり、武士道の気高い人間らしさ、というものですね。この日本の武士道なるものが如何に人道的か、具体的に述べている言葉が彼の著作にありますので、その部分を読んでみたいと思います。 正直なる事。高潔なる事。寛大なる事。約束を守る事。借金せざる事。逃げる敵を追わざる事。人の窮地に陥(おちい)るを見て喜ばざる事。 以上は、お侍だけでなく、農民、職人、商人など身分の差を越えて、日本人の多くが心得ていた「人の道」というものでありました。それを総称して、内村は「武士道」と呼んだのでしょう。 さて、この「武士道」、あるいは武士道的気質は恐らく、遥か「古事記」に物語られる昔からゆっくり養われてきたものに違いありません。しかし、「武士道」という倫理観がかたちとして整う切っ掛けを作ったのは、鎌 倉幕府の第三代執権、北条(ほうじょう)泰(やす)時(とき)だと思います。 幕府と朝廷との間で起きた「承久(じょうきゅう)の乱」の後、明恵は、戦に倒れた朝廷側の将兵の未亡人たちを、高山寺にかくまいます。それを咎める(とがめる)ため、泰時は、明恵を六波羅探題(ろくはらたんだい)へ召し出しました。 ところが、泰時は、出会った瞬間、明恵の人格に圧倒されてしまった。つまり、自らの死を覚悟で、ただ力なき者を守ろうとしている明恵の曇りなき道義心に、打たれた訳です。以後、泰時は、明恵を心の師と仰ぎ、しばしば高山寺を訪ねました。その中で明恵から受けた影響を反映したのが、「御成敗(ごせいばい)式目(しきもく)」という御家人のための法律で、幕末の大政奉還に至る七百年間余り、適用されました。 明恵はその都度、泰時を一服のお茶でもてなした事でしょう。泰時はそれを、私心(わたくしごころ)を洗い流す薬剤として飲み干した事と思います。
2014.06.17
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平成26年4月21日・伊那市有線放送農協放送電動車椅子ぶらり通信 百八十七話 奈良の佛たち ちょうど今頃は、それぞれの中学校で修学旅行がおこなわれる時期ですね。今の中学三年生たちは、どこへ旅するのかな。ともかく、学校生活の中で一番胸がワクワクする行事ですし、なおかつ、生徒一人ひとりが中学課程で積み上げてきた学習の集大成でもあります。やや、大袈裟にいうと、自分が人間としてどのように生きて行くか、道を見定める旅、といえるかも知れません。 実際、僕自身の体験をふりかえると、中学の修学旅行が、深い感動というかたちで、生きる上での道しるべを暗示してくれたような気がします。というのも、僕が中学の修学旅行で訪れたのは京都、奈良でした。そのなかでも、奈良の寺々で出会った幾体かの仏像たちから受けた印象は非常に強烈だった。この時の感動が、それ以降の長い年月を経るなかで徐々に熟成し、僕自身、それと気づかぬうちに人生観、あるいは人間観といえる何かを育んでくれたからです。 今回は、その時の感動を思い起こし、凡そ四十年ぶりの修学旅行土産話で、皆様方のお耳を拝借したい、と存じます。 「むかし」という言葉を用いても決して不自然ではない程、ずいぶん過去に遡(さかのぼ)った事ながら、その時、巡り歩いたコースは今でもはっきり覚えている。まずは、大雑把ながら、旅の順路から振り返ってみましょう。 旅したのは、九月も下旬の事でした。近鉄の大和(やまと)八木駅(やぎえき)に降り立つと、木犀(もくせい)の匂いがほのかに漂ってきたものです。そこから貸し切りバスで斑鳩の法隆寺、そして奈良市内の興福寺を訪ねました。旅の第一日目は、これで終了です。 翌日は薬師寺、東大寺とめぐり、京都へ移動して、宇治の平等院、東山の銀閣寺を訪ねました。新京極のアーケード街でおみやげを買い求めた後、宿へ辿り着いて二日目の旅は終了。 さて最終日は、嵐山の天龍寺、京都市街地の二条城を訪ねました。これで一応、僕が中学三年生の時に巡り歩いた修学旅行のコースは全てです。 今述べたコースについてはお気づきかも知れませんが、一般の中学三年生が体験するそれに比べると、訪ね歩く目的地の数が少ない。この訳は、旅の一行がその当時の肢体不自由児専門教育機関だった諏訪養護学校の生徒たちで、どうしても速やかに行動できない、というハンディを抱えていた為に、引率の先生方が、ここだけは是非生徒たちに見学させたい、と行き先を厳選して計画された道のりだったからでした。 おかげで、見学地それぞれの床しさにしみじみ、浸ることが出来ました。お寺や神社などに関わる流行りの言葉に「パワースポット」というカタカナ語がありますけれども、これを国語本来の言い方に改めれば、「霊気」とか「霊験(れいげん)」、あるいは「澄み渡った静けさ」となるのでしょう。それぞれのお寺にゆっくり留まり、時間をかけてそれぞれの仏像としみじみ対話できたために、僕は恐らく、この時初めて「霊験」というべきもので心身清めることが出来た。そんな気がします。 ではこれから、その時の修学旅行で出会った仏像たちに、どんな事を暗示的に物語られたのか、取り分け印象深かった仏たちに絞って振り返ってみたい、と思います。 まずは、その第一番目。それは、法隆寺五重塔の最下層北面に安置された「涅槃像土(ねはんぞうど)」という群像彫刻です。文字通り、お釈迦さんの臨終場面を表現した立体図像ですが、涅槃図としては、これほど痛ましく表現されたものに出会ったことがありません。息を引き取る前のお釈迦さんは、お弟子たちに向かって、「私が死んでも嘆き悲しむな」と、優しく語り掛けるように諭します。お弟子たちの多くは、その言葉をよくよく理解し、肝に銘じているのですが、それでも余りの悲しみですっかり、感情が理性を圧倒してしまって、涙が滂沱(ぼうだ)と零れ出てしまう。同時に、大きな泣き声も抑え切れなくなって喉の奥深くから、湧き上がってきてしまいます。お弟子の中には自分の胸を拳で激しく打ちながら、大泣きする人の姿も見られる。 要するに、ここで泣き呻いて(なきうめいて)悲しむ人達はまず、お師匠様の釈迦と別れなければならない運命に嘆き悲しみ、その悲しみの感情が自分ではどうにもコントロールできない、という自分の不甲斐なさに嘆き悲しみ、更には、胸の底から突き上げるそのような感情の爆発的うねりについて、お手上げ状態に陥るしかない人間の本質的な弱さをほとほと思い知った悲しみに、打ちひしがれている訳です。これは心の自然現象で、本来、自分の意思ではどうする事も出来ません。 しかし、だからといって、そういう感情のうねりにすっかり流されていい、というものではありません。やはり、どこかできちんと自分で自分をセーブし、足を踏ん張るよう努力する。これは、まことに殆ど絶望的な人間の義務だな、という事をその時つくづく感じたものです。崇高なる雰囲気の宗教遺産を、暗澹たる思いに耽りながら見入った、というこの時の体験はただ、ただ衝撃的でしたね。 さて、次は、興福寺の国宝館に安置された「阿修羅像」です。三面六臂(さんめんろっぴ)、つまり三つの顔に、六本の腕をもつ、という異形(いぎょう)の姿の仏様です。 この仏像で、僕が最も印象的だったのは、正面を向き、自分とほぼ同じ背丈の何者かにじっと眼を凝らす、という顔立ちです。別けても、幾分、顰めがち(ひそめがち)な眉に、特徴がある。 これをパッと見た瞬間、「あっ、この阿修羅は何かに行き詰まっている!」と、僕は思いました。行き詰まっている・・・うーん、そこで、まだ若干十五歳だった唐澤浩が抱いた直感を、一体どう言えばいいのかなぁ? とにかく、自分の感想や考え方を練り上げるのにも、まだ論理性や表現力ががてんで未熟な小僧っ子でしたから、「この阿修羅は、何かに行き詰まっている!」という感想しか、浮かんで来なかった訳です。でも、なにかしら、ただならぬ状況で雁字搦め(がんじがらめ)にされ、どうにも身動きが取れない問題に心は必死で、もがいている。そういう身悶えのようなものが、切実に感じられました。この時の印象をのちのち反芻(はんすう)するに、眉をひそめるあの阿修羅の顔は恐らく、相(あい)反(はん)する事情の狭間(はざま)でどちらの問題に取り組むべきか、板挟みに苦悩する、そんな人間の運命を一つの姿として表現しているのかな、と感じられたものです。 その訳については、僕自身の体験をお話すべきでしょうね。あれは、僕が初めて電動車椅子を入手した頃の事でした。その電動車椅子がかなり自由に操られるようになった僕に対して、父は、お前は一人で街を出歩いてはいけない、というのです。道路は危険がいっぱいだし、道路を走る自動車にも迷惑が及ぶ、というのです。 父のいう事は至極尤もで、十分理解できる。しかし、外に向かって自分自身単独で関係を求めない限り、解らない事が山ほどあるような気がする。況してや、物を書くという事を生活の中心にしている以上、自分の眼と耳であれこれの物事をはっきり、確かめる必要がある、と僕は考えていました。だから、僕は自分独りで外を歩きたい。そうはいっても、父のいう事は確かな道理です。さて、どうしよう?と考え込む歳月が暫く続きましたね。将に(まさに)その頃、ふと阿修羅の顔を思い浮かべた訳です。こういう板挟みに我慢することこそ生きる事なんだ、と阿修羅の顔を思い浮かべつつ、妙に納得しましたね。 ところで同じ国宝館には、二体一対の金剛力士像も安置されております。これを見た時、一秒後には二体の金剛力士そろってバッタリ倒れ、すぐに事切れるな、と直感しました。それほどに、この二人の身体つきは全身、筋肉も血管もきつく張り詰め、ギュッと捩(ね)じれ変形していたからです。誰かを叱るという事、あるいは理不尽な何かに憤る(いきどおる)には結局、自分の命そのものをぶつけなければならず、そうやすやすと出来ることではない。だけれども、いつか必ず、これらの金剛力士像さながら全身を痙攣(けいれん)に近い状態へと追い込む程に、怒らなければならない時が来るんだろうな、と思いました。 こうして、奈良の仏たちを巡る修学旅行は、僕にとって少しく、憂いを伴った旅となりました。しかし、このような僕の心を朗らか(ほがらか)に、明るく解き放ってくれる仏様にも二体、出会ったのです。 このうちの一体目は、興福寺国宝館の佛頭。そして二体目は、薬師寺金堂の薬師如来です。どちらの仏様も、底知れぬ深い温もりをゆったりと湛えて(たたえて)おられた。このぬくもりは恐らく、いずれも、微笑むともなく微笑む、というまことに微妙なお顔立ちから、湧き上がるものなのでしょうね。もはや、模倣できる、出来ないの次元を超えた境地で、ただ無心にその温もりを思う存分浴びれば、それでいいのだろう、と思います。 言い換えれば、何かこう、宇宙の果てまでも静かに、ゆっくり拡散して行くような温厚なる微笑み。こんな微笑みを見せてくれる人に出会えたなら、それでもう、人生は完全に、しっかり完成する筈です。 以上、遥か昔に体験した中学の修学旅行を、胸に焼き付いている印象のままに辿って参りました。その時の感動を思い出すにつけ、若い人々には、せめて一度でも奈良を旅してもらいたい、と思うのであります。
2014.04.22
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戰後の日本人は、ありのまゝの物事をありのまゝ見る、といふ事が出來なくなつてしまつた。これは、GHQが戰後の我國日本に敷いた言論彈壓と思想統制が苛烈を極め、根深い疵となつて、いまだに行動全般をきつく制限してゐる爲である。要するに、日本人は、あてがはれた見方、考へ方をそのまゝ自分の世界觀、人間觀と勘違ひさせられて、現實といふものに的外れで幼稚な對應しかできなくなつてしまつた、といふ事だ。觀念の獨立が果たされてゐないのである。 元凶の一つは、GHQが綿密に計畫した情報政策「WGIP」と、「プレスコード」にある。 「WGIP」と「プレスコード」の呼び名だけでも、覺得ておきたい。
2014.02.23
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2014.2.16伊那市有線放送農協放送電動車椅子ぶらり通信 百八十六話 ICF さて、きょうはまず、前回のおさらいから始めたいと思います。それは凡そ、こういう事でした。 日本語では「障害」とひとくくりにされる問題も、じつは、「IDH」という三段階のハードルとして区別される。これについて、ざっと、確認させて下さい。 まず、「IDH」の「I」。この「I」は、「インペアメント」の頭文字で、機能不全という意味です。これは、先天異常や病気の後遺症により、身体の機能が思い通りにならない、という事。すなわち、そもそも足で立つ事が出来ない。手で物が握れない。声を出して話す事が無理。視覚障害や聴覚障害などはもちろんの事、加えて、呼吸器系や循環器系などの内蔵障害。また覚えられない、解らない、感情の抑制が出来ない、などという認知や感受性に関わる障害も、「インペアメント」には含まれる訳ですね。 次に移って、IDHの「D」。この「D」は、「ディスアビリティー」の「D」であります。この「ディスアビリティー」は、「インペアメント」つまり、機能不全の結果としてもたらされる問題、といっていいでしょう。何等かのかたちで心身のどこかに抱え込んだ障害が原因で、生活上さまざまな不便を来す、という事。それが、「ディスアビリティー」です。 さて「IDH」の末尾にある「H」。この「H」は、「ハンディキャップ」であります。この場合のハンディキャップとは、対社会関係で、障碍を理由に、さまざまな可能性の道が断たれる事といわねばなりません。例えば、重度障碍のため、生活万般にわたって専門的な介助を要する、という事がネックとなって、学校への入学や、企業への就職などが拒否されたり、また社会生活上、何等かの壁にぶつかったりする、という事です。 たとえば、動物アレルギーに細心の注意を払うレストランに、盲導犬同伴の視覚障碍者が入ろうとした時、慇懃(いんぎん)丁重にも断られる事。つまり、それ相応の理由を以て視覚障碍者の入店を拒否するレストラン側についても、一概に無理解な仕打ちとして非難する事はできない訳ですね。このように、自分と他者とのあいだに横たわる切実な事情の落差も、またハンディキャップというのであります。 したがって、ハンディキャップとは、その障碍者本来の能力が正当に評価されない事。あるいは、障碍者が何等かの関わりを求めるあいてから、退(の)っ引きならぬ事情を理由に、要求が受け入れられないこと、と言えるかも知れません。 このように、日本語では「障害」とひとくくりにされる問題も、「IDH」すなわち、1「インペアメント」機能不全。2「ディスアビリティー」生活困難。3「ハンディキャップ」社会生活上の不利益、という三段階の障壁に区分けされる訳です。以前は、ここに「国際分類」という言葉を英語にした場合の頭文字、「IC」がついて「ICIDH」、即ち、「国際障害分類」という障碍者の障害程度検査基準がありました。これはその名の通り、障碍者の能力について、何が出来ないかということをチェックする、マイナス面の指標だったのです。 しかし、如何なる障碍者も、それぞれに、確かな人格と、その人にしか為し得ない使命とを天から与えられて生まれた一個の人間であることを忘れてはなりません。つまり、誰にでも必ず、なんらかの能力と、存在意義がある筈で、それを粘り強く何とか掘り起こす為の手がかりが、二〇〇一年にWHOで採択された「ICF」即ち、「国際生活機能分類」という能力評価基準であります。 それほど、大切な指標故に、「ICF」のテキスト全文は非常に分厚い内容で、それが作成された背景や目的、適用範囲などが書かれている「序論」を読んできちんと飲み込むだけでも、かなりの時間と労力を要します。加えて、対象者の能力を調べるチェック項目は、凡そ千五百にも及ぶ。いわば、すこぶる専門的な内容ですので、「ICF」の本文に沿った話は恐らく、まあ、退屈になるばかりでしょうな。 つきましては、いくつかのエピソードを折り込みつつ、唐澤浩なりに噛み砕いたICF、というものをお話しさせていただきたい、と思います。まずは、僕が信濃整肢療護園で、入園中に見聞きした一つの思い出から、振り返らせて下さい。 あれは、僕が、小学部四年生の時でした。そのころ、僕より三学年うえに、美代というお姉さんがいました。美代さんは、手足が、ある程度自由に動いて、身の周りの事は自分で出来る人だった、と思います。 しかし、美代さんには、知的障碍がありました。どうも、彼女は、自分の名前すら言えなかったんじゃないのかな。ともあれ、多分、平仮名の読み書きも、数の足し算、引き算も出来なかったと思います。 そんな美代さんにも、一つの特技がありました。これは、むしろ「人徳」とか、「優しさ」といった方がいいかも知れません。 というのも、その頃、信濃整肢療護園には、「コロ」という名前の柴犬が、ペットとして飼われていました。割と小柄な犬で、誰にも懐いていましたね。しかし、そのなかでも、美代さんには特別、親しんでいたようです。毎日、美代さんが餌遣りに行く。そして首や、背中の毛並みを撫でてやる。その様子は一見、他の人の場合と何の変わりもないように思われるのですが、「コロ」にしてみれば矢張り、自分に対する愛情の度合いがひときわ温かく、優しく感じられたのでしょうね。 さて、その「コロ」という犬も、ペットとして保健所に登録してある以上、狂犬病などの予防接種を受けねばなりません。しかし、「コロ」は注射が大嫌いで、その都度、ずいぶん大暴れしては職員の方々をてこずらせたようですよ。 そこで、或る年に予防接種が実施される時、学校の授業中にも拘らず、美代さんは療護園から呼ばれて、「コロ」の気持ちをなだめるのを手伝ってくれるように、頼まれたようです。すると、大変不思議にも、それまでは大暴れしていた「コロ」が、嘘のように大人しくなり、素直に注射を受けたのだそうです。 「ICF」の「F」は、「ファンクション」の頭文字で、機能とか、能力などを意味します。美代さんの場合だと、知的障碍のため、読み書き計算は出来なくても、ペットの犬を特別に懐かせて、予防接種を大人しく受けさせる、という立派な能力があった訳ですね。 問題は、こうした美代さんの役割を、周りがどう評価するか、ということであります。これに関連して、障碍者と周囲との関わりを少しでも有益なものにするにはどうすればいいか、という事を考えるのに、ちょっと意外なヒントを指し示してくれるような逸話があります。それを、ご紹介しましょう。 それは、十九世紀のフランス、パリにあったとされる商売、「十四番目屋」についてのお話です。 西欧では大体、キリスト教文化圏を中心に、〃十三〃という数を、非常に不吉だと、忌み嫌う風習が伝わってまいりました。今でも、例えば病院の病室や、ホテルの客室、また高層ビルのフロアナンバーなどでは、〃十三〃という番号が欠番となっている程《忌み数》としての観念が色濃く、定着しているようですね。 これについて、更に特徴的な風習は、人々が集まる会合とか、パーティーなどの場合にも反映されているのだとか。要するに、その時の集まった人数が、〃十三〃になることをひどく恐れるらしい。そこで、全員が十三人きっかりに揃うのを避ける為、無関係な見ず知らずの人でも無理矢理引っ張り込んで、何が何でも十四人に増やす。そんな慣わしがあるらしいですよ。 「十四番目屋」とは、まさしく十四人目の補欠になる、という事を商売にやる仕事だったみたいです。パーティーのご馳走を呼ばれた上に、それなりの報酬も頂戴できる、というのが生業(なりわい)として成立していた訳ですから、まあ、不思議ですわな。 これは、ドイツの哲学者ゲオルク・ジンメルのフランス紀行に書かれてあることなのだそうですが、現代の学者たちは概ね、訝しがる(いぶかしがる)向きが強い。つまり、「こいつは、どうも、ジンメルの創作じゃあねえの?」と疑う先生方が、殆どらしいのです。 僕も、本当の話だとは、どうしても信じられません。しかし、ジンメルがこの「十四番目屋」という商売のエピソードを、唯の戯れに捏(でつ)ち上げた、とも思われない。その微妙なポイントは一体どの辺にあるのか、はっきりとは特定できないのですが、何か知ら、切実なメッセージが託されている。そう感じられてなりません。 つまり、「ICF」の理念を尺度に考えた場合、〃その場に同席し、居合せる〃という事が人間の本質的な能力で、これが認められるかどうか、コミュニティーの豊かさが試される。ジンメルは、そういうことを暗示したかったのではないか、と僕は、取り留めもなく考えております。 以上、「ICF」につき障碍者と関連づけ、お話しして参りました。しかし、この「ICF」は本来、すべての人の能力に関わる指標です。一人の人間としてまだ秘められている資質とか、魅力をお互いに触発する為の対話が、今後ますます求められる事と思います。
2014.02.18
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じつをいうと今回は、他のテーマで書くつもりだった。ところが、筆を執ろうとした今日(二月五日)、インターネットで「毎日新聞」の朝刊をみて、その報道姿勢にふつふつと沸きたぎるような憤(いきどお)りを禁じ得ない。よって今日は、私が常日頃感じている日本のマスメディアのヒズミを、指摘したいと思う。 さて、「毎日新聞」における問題の記事は、安倍首相からNHK経営委員に任命された長谷川三千子氏の人格を貶(おとし)めようとするものであった。しかし、その記事をよくよくみると強引なこじつけであり、ばかばかしいほどおおげさな扱いである。ともあれ、その内容はおよそ、次の通り。 平成五年に朝日新聞社本社で割腹自殺した政治活動家、野村秋介氏の没後二十周年を記念して発刊した文集に、長谷川氏が、野村氏のテロ行為を礼賛すると受け取られる一文を寄せた。こういう長谷川氏には公平、公正を旨とするNHKの経営委員たる資質があるのか、と読者の反感を煽り立てようとする記事で、服部孝章氏や柳田邦男氏ら知識人の冷酷な批判を載せている。 野村氏は新右翼団体のリーダーだが、それにしてはびっくりするほど考え方が柔軟で、彼自身は天皇制信奉者であるにも拘らず、天皇制批判の自由も認められなければいけない、という事も主張していた。彼は恐らく、言論対暴力、ペン対剣で、言葉による攻撃や誘導なら何でも許されるとする一元論的なマスメディアのおごりに抗議するため、やむを得ず朝日新聞社に押し入り、自刃したのであろう。 長谷川氏は、野村氏を囲む内輪の会で、亡き人の遺志を忖度(そんたく)し、個人の立場から追悼の一文を草したに過ぎない。その細(ささ)やかな文集をどこかから無理矢理ひっぱりだしてきて、長谷川氏はとんでもない人間だと広く印象づけるため、不必要に大きく報じたのである。 かくて「毎日」が長谷川氏の面目を失わせようと躍起になるのは、彼女に、NHKの経営委員になってもらっては不都合だからだ。彼女は保守派の論客で、私は約三十年前からたびたびその時事評論を読んできた。彼女の主張を詮じつめると単純明快で、「われわれ日本人も各自、自分の目で状況を見極め、自分の頭で考えよう」という事に尽きる。 「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」とは「論語」の言葉で、しもじもの民草どもには為政者の命令以外、余計な情報は伝えるべきではない、という意味である。日本のマスメディアには戦前戦後一貫してこの《伝統》が脈々と息づいており、情報を取捨選択して世論をよき方向へ導く事が、彼らのモットーらしい。その結果、マスメディアのミスリードで国民全体が深刻な損害をこうむった例は、明治時代以来、数多(あまた)打ち続いている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれは、或るメディアに掲載を拒否された原稿である。
2014.02.10
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電動車椅子ぶらり通信 百八十五話 バリアリポート二〇一三 今年六月の事です。集中的なリハビリ治療を受ける為、下諏訪の信濃医療福祉センターに入院しました。この期間中、ピーター・ローゼンバウムという医学博士が、センターの視察も兼ねて、講演会に見えたのです。 ローゼンバウム博士は、カナダ、マクマスター大学の教授で、脳性麻痺を中心とする障碍児発達医学研究の国際的な第一人者です。つまり、その道のオーソリティーが、日本の地方にポツンと建つ小規模の障碍児施設を訪ねた訳で、傍目(はため)には異例な出来事と映るかも知れません。 しかし、これには、れっきとした訳がある。というのも、この信濃医療福祉センターで、所長の朝(あさ)貝(がい)芳美(よしみ)先生はじめ、医療スタッフが行っている障碍児への治療は、頗る(すこぶる)独創的、かつ先進的で、小児整形外科学会からは常に注目されております。手足を伸ばしたり、曲げたりする機能回復訓練に加えて、筋肉の緊張をやわらげる為のレーザー照射や、ボツリヌス菌接種など、科学的治療も積極的に推進されて来られました。その結果、症状に顕著な改善が認められる例が少なくなく、この分野ではいたって脚光を浴びている故に、ローゼンバウム博士は信濃医療福祉センターを訪れたのだ、と思われます。 さて、この日、センターで行われたローゼンバウム博士の講演は、職員向けのものでありました。そこを特別に聴講が許されて僕も拝聴できた、という事は幸せという他ありません。 講演は、「ICF」をテーマにしたお話でした。この「ICF」とは、日本語で「国際生活機能分類」といいます。これは、今から十二年前の二〇〇一年に、WHOで採択された障碍者の能力評価基準なのですが、一番、重要な眼目は、各国の政府および社会全体に、障碍者の更なる社会参加を促す。そのアピールでした。何故なら、この「ICF」は、障碍者が抱え込んだ障碍の種別や等級の違いを超えて、その人に何が出来るか、障碍者個人の可能性を追求するための指標だからです。 この「ICF」がWHOで採択された二〇〇一年当時、折りしも、バリアフリーとか、ユニヴァーサルデザイン、ノーマライゼーションなどという言葉が巷でも語られるようになってきました。それらについては、この番組でもお話しさせていただいた事があります。その際、関連の資料を調べる中で、「ICF」についても学ぶ事が出来ました。福祉関連の研修会などでも必ずといっていい程「ICF」という言葉がお目見えしていたので、正直、ローゼンバウム博士の講演では、「おいッ、またかよ?」なんて、思ってしまいましたね。 しかし、博士のお話を聴く中で、この「ICF」は、せめて、その理念だけでも一般の方々にご理解戴く必要がある。そう感じたものです。つきましては、今回、「ICF」に絡めて、そもそも障碍とは何か、お話しさせていただきたいと思います。 そこで、この問題を考えるのには、まず、「ICF」が採択される以前の指標であった「ICIDH」、すなわち「国際障害分類」というものが、良い参考となるでしょう。この「ICIDH」では、特に、「IDH」が重要です。 さて、この場合、IDHのうちの「I」は、「インペアメント」という英語の頭文字で、病気の後遺症により、身体の機能が思い通りにならない、という事。すなわち、そもそも足で立つ事が出来ない。手で物が握れない。声を出して話す事が無理。視覚障害や聴覚障害などはもちろんの事、加えて、呼吸器系や循環器系などの内蔵障害。また覚えられない、解らない、感情の抑制が出来ない、などという認知や感受性に関わる障害も、「インペアメント」には含まれる訳ですね。 次に移って、IDHの「D」。この「D」は、「ディスアビリティー」の「D」であります。この「ディスアビリティー」は、「インペアメント」つまり、機能不全の結果としてもたらされる問題、といっていいでしょう。何等かのかたちで心身のどこかに抱え込んだ障害が原因で、生活上さまざまな不便を来す、という事。それが、「ディスアビリティー」です。 具体的には、手が不自由ゆえ箸や茶碗が持てず、自分独りでは食事が出来ない。足が不自由なため、立って歩けず、行きたい所へは行けない。口の動きがままならないので発音が困難。そのため、相手に自分の意思が伝えられない。などといった不便です。 さて、IDHの末尾にある「H」は「ハンディキャップ」のことで、じつは、その前の「インペアメント」、および「ディスアビリティー」とはまるで意味合いが異なります。というのも、「ハンディキャップ」という時、日本語では《障碍》そのもののように語られておりますが、そもそもはその障碍者が直面する個別の場合次第で、それが「ハンディキャップ」かどうか、決まるものだからです。 障碍者が何等かの関わりを求めたの相手に、その障碍者を受け入れる心構えや体制が整っていない場合に生ずる壁。それが「ハンディキャップ」だ、といえるでしょう。これは、どうも、例え話が必要ですね。ついては、僕自身をモデルに仮のフィクションをお話しさせて下さい。 唐澤浩が学齢期に達して、来年の四月に入学する、とします。この時点で唐澤浩は、知能がまあまあ一般の子供並に発達していて、平仮名程度はひととおり読む事は出来るし、足し算、引き算くらいの単純な計算は可能。ところが、身体に重度の機能障害があって、立って歩く事は無理だし、手も不自由なため、食事、着替え、排泄、身辺の整理などには介助が必要な状態です。 加えて、唐澤浩の地元小学校は、校舎の中に沢山の段差があって、車椅子の移動は非常に困難。でも、両親は、本人の学習能力を伸ばす事、そして地元に同級生を中心にした人付き合いのネットワークが育まれる事などを願い、正規の義務教育課程を完全な形で受けさせるため、地元小学校への入学を強く要望しています。 問題は地元自治体における教育委員会と、学校の対応ですね。要望を受け入れて唐澤浩を入学させる、となればまず、小学校の校舎をバリアフリーに改修しなければならない。また加配といって、唐澤浩の学校生活をサポートする補助教員の採用も求められる。自治体してみれば、予算がかかる課題で、非常にむつかしい。 さあ、ここからがポイントなのです。というのも、この場合、もし、自治体当局が予算不足を理由に、地元小学校への入学について難色を示した、とします。そこで両親は考え抜いた末に、唐澤浩を、ふるさとからは遠く離れた特別支援学校へ入れる事にした。 この場合、特別支援学校への入学という形で義務教育の問題はクリア出来ても、地元小学校へ通う事で受けられたかも知れないさまざまな恩恵はほぼ、断ち切られてしまいます。つまり、地域の中で友達の絆を結ぶ事。そして地元の高校へ進学し、卒業後には地元企業と何等かの雇用契約を結ぶ事が出来たのではないかと思われる。そんな可能性です。 ハンディキャップとは、対社会関係で、障碍を理由に、さまざまな可能性の道が断たれる事をいうんですね。あるいは、本来の能力が正当に評価されない事、と言えるかも知れません。 以上、日本語では「障害」とひとくくりにされる問題の内訳としてのIDHについて、お話しして参りました。即ち、1「インペアメント」機能不全。2「ディスアビリティー」生活困難。3「ハンディキャップ」社会生活上の不利益という三つの要素です。つまり、障碍者が直面する現実の問題は、ごく大雑把に分けると、三段階のハードルとして区別される訳ですし、それらが重なり合って、たちはだかる壁に他なりません。 一見、専門的な分類のように思われるかも知れませんが、これは、大枠として、普段、障碍者と何等かの接触をもつ方々には是非、お心に置いて戴きたい目安なのです。その障碍者は、一体何をする場合、どのような不便や不都合に出遭うか、障碍の因果関係を日常生活に即して見分ける、という事はどなたにも出来る事だと思いますし、なおかつ、その中から、障碍者本人やその家族にも気づかなかった新たなる可能性が発見できるかも知れません。 しかし、今ここで話題にしている「ICIDH」は、あくまで、障碍の実体を見極める指標です。つまり、その障碍者には何が出来ないか、ということをシラミ潰しにチェックするマイナスの調査基準でした。その反省に基づいて、先に述べた新しい評価の手がかりである「ICF」が、WHOで採択された訳ですね。 次回の「電ぶら通信」では、この「ICF」に触れながら、障碍者の社会進出について、皆様方と共に考えたいと思います。伊那市有線放送農協の朗読原稿2013.12.16
2013.12.19
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平成25年10月21日放送電動車椅子ぶらり通信・百八十四話 クレッシェンド 僕は、諏訪養護学校高等部を卒業したその年から凡そ、二十数年間、NHKを中心に、いくつかの放送局のモニターをしていました。このモニターとは、ごく簡単にいうと、番組の批評をレポートに書いて放送局に郵送する、という仕事の事です。字幕の文字に誤字脱字はないかとか、カメラワークやライティングは適切だったかどうか、また番組で取り上げるテーマや出演者の人選に問題はなかったか、ということなどを逐一チェックして、文章にまとめるのです。 さて、或る時、放送局でモニターを扱っている担当の方から、次のような電話を頂きました。「フレッシュな感性と、優れた文章力がある唐澤さんの素質を見込んで、お願いしたい事があります。実は、他のモニターの方が自分には出来ないといって避けられる番組のモニターを、唐澤さんにお願いしようと考えているのですが、よろしいでしょうか」 よろしいも何も、僕は、どんな事であろうとまずは依頼されたことにしっかり取り組む事こそ仕事の基本、と捉えていたので、「はい、何でもさせて戴きます」と答えました。 しかし、それが如何に困難な事か、実際にモニターする番組の指定を受けてみて、ほとほと思い知らされましたね。というのも、それらは、競馬とかラグビーなどのスポーツ実況中継、政治経済の討論番組、市民大学講座と、一定の専門性や予備知識がなければ善し悪しも言えない番組についてのレポート依頼が殆どだったからです。 なかでも、頭を抱え込んだのは、クラッシック・バレエ関連の番組指定が集中的に多かった、という事でした。とくに、ローザンヌ国際バレエコンクールの模様が放映される時には、必ずと言っていい程モニターの依頼がきましたね。 そのうちジュニア部門フェーズ2といって、まだ若い十代のダンサー達が課題曲を代るがわる舞う、という規定選考の場面がある。それを主に見てレポートせよ、というのです。これは、どう見ても、バレエ教室を開いていらっしゃる先生方にしか批評できないと思われる内容なのですが、ちゃんと見て何か書け、というお達しです。心してガッと眼を見開き、その都度、苦し紛れにいろいろ書きました。 しかし、それが、自分にはどれほど有益な体験か、少しずつ納得するようになります。そのコンクールには、専門家による解説の音声も流されていました。それこそ歯に衣(きぬ)着せぬ批評で、どの踊り手のバレエもズケズケと斬って行く。第三者の耳にさえ、キンキンと突き刺さるようなその解説を聞きながら演技を見る、ということはつらいものでしたね。でもそれを何回か繰り返すうち、バレエとは何か、更には人間の身体表現とは何か、その魅力を見て取る事が出来るようになりました。むろん、その間に調べた西洋舞踊、西洋舞曲などに関わる資料のおかげもあります。 ともかく、何年か繰り返し続けたこういうバレエ関連番組のモニター体験が、僕にとっては審美眼の研鑽になった訳です。謂わば、僕自身でもそれと気づかぬうちに、手と足を動かす代りとして、目と耳で、バレエのレッスンを重ねていた、という事かも知れません。いや、僕自身、そう断言したい実感がある。というのも、これから述べる体験が、僕自身に、バレエを心底、楽しませてくれたからでした。 昭和五十八年十月の事です。例によって、バレエ公演の模様を中継録画した番組のモニター依頼がきました。演(だ)し物は、モーリス・ベジャールという振付師の作品集、といえる内容で、チャイコフスキー記念東京バレエ団と、フランスのソロ、バレエダンサー、パトリック・デュポンが演じていました。 ベジャールは、二十世紀屈指の舞踊家、といっていいと思います。バレエには、「バレエマイム」といって、身振り手振りでお話を交わす独特の表現方法があります。このバレエマイムという決まりに従って物語を組み立てて行くのが、バレエでした。皆様方もよくご存じの「白鳥の湖」や、「くるみ割り人形」などはバレエマイムの公式に則(のっと)って作られたバレエの古典です。ベジャールは、バレエマイムの枠組みをぎりぎり守りながら、新しい試みに挑んだのです。それは、手足を曲げたり伸ばしたりする単純な動きそのものの楽しさ、美しさ、心地よさを踊り手も、観客も渾然一体、ともに再確認しようとした。つまり、彼が振り付けしたバレエは、見ているだけで、自分の手足もスムーズに動いているような喜びを実感させるのです。 その典型は、いま、流れている曲のバレエ「ボレロ」ですね。もともとラヴェルがバレエ曲として作曲したこの音楽に、ベジャールが新しく振り付けした舞踊は全く斬新で、僕はモニターも忘れ、見入ってしまいました。 一拍の呼吸、一日の生活、一年間における出来事の変化、そして人の一生と、みな単位や次元は異なってもそれぞれには、非常に個性的なゆらぎやどこまで膨らむか判らないようなうねりとが、脈打っております。そのようなゆらぎやうねりが一つのクライマックスに向けて雪崩れ込んだり、大きく盛り上がったりする動きの事を、西洋音楽の記譜法、つまり譜面を書く場合の約束では「クレッシェンド」と呼びますが、ラヴェルの「ボレロ」は全編を通して丸ごと「クレッシェンド」そのものを表現した一曲です。従って、人間の時間、営み、情念、そして、人生のあらゆる起伏が、「ボレロ」には畳み込まれている。 鋭く研ぎ澄まされたベジャールのインスピレーションは、「ボレロ」のこうした真髄をガチッと捉え、力強く優美な振り付けを完成させたのでした。 実際のステージには、円形の真っ赤な舞台が置かれ、その上でパトリック・デュポンがソロのバレエを舞う。そして円形舞台の周りを、東京バレエ団の男性ダンサー達が群舞するのです。その迫力たるや、まことに圧巻でしたね。この時、僕は、心底、バレエそのものの魅力を完全に味わったように思います。 極めて幸運にも、この時の番組と全く同じプログラムのバレエが、伊那文化会館で見られました。平成二年の事です。但し、この時のソロ・ダンサーはデュポンではなく、ジョルジュ・ドンでした。ドンは、「愛と哀しみのボレロ」という映画に、ロシアのバレエダンサー役で出ています。彼こそ、「ボレロ」というバレエの魅力を世界中に伝えた舞踊家、と言っていいでしょうね。キビキビとキレがあるデュポンの舞い方とは一味違い、ドンのバレエはしなやかでしたよ。見事だったなぁ。残念ながら、ドンは、この二年後に亡くなってしまいました。 ここで思い出すのは、東京バレエ団公演の前年にやはり伊那へ来たマルセル・マルソーのパントマイムです。バレエとパントマイムは、ジャンルが違っても、じつは同じ身体表現です。マルソーの独創的な一挙手一投足を見ていると、ベジャールが振り付けしたバレエ同様、からだを動かすという事が如何に楽しいか、心が浮き浮きしてきますよ。 よちよち歩き始めた幼児が大抵、大人の仕草を真似て喜ぶように、マルソーのパントマイムにも、一緒に無言劇をやってみたくなるような衝動を掻き立てる力があった。つまり、どれほど時間が短いパントマイムにも、命の芽生えから、エネルギーの大爆発、そして、暗闇の安らかな眠り、という動きがうねりとして揺蕩(たゆた)い、力強くクレッシェンドして煌(きらめ)く。芸とは本来、こういうものかも知れませんね。 一方、わが国、日本に眼を移すと、舞踊の世界の豊かさには、これまた圧倒されます。皇居、神社仏閣等で舞われる舞楽。文字通り、田畑の実りを寿(ことほ)いだ田楽。能舞台で舞われる能楽。お座敷のわずか畳(たたみ)半畳のひろさで十分な地唄舞などなど、場所や状況の違いに応じて、じつにさまざまな舞が舞われてまいりました。 しかし、これらには、一つの共通テーマがある。それは、絶え間なくうつろう大自然をかがみに、生きて死んで再び甦る物語をどう演じて盛り上げるか、という事です。海山における春夏秋冬と、人の心の喜怒哀楽とを綯い合せた(ないあわせた)物語。それが、日本の舞踊のテーマです。その機微を表す言葉。つまり、西洋音楽の「クレッシェンド」に対応する日本芸能の到達点は、「序・破・急」なのだろうと、思います。これについては話が長くなるので、またの機会に致しましょう。 さて、これからお聴き戴く音楽は、オリエンタルダンスのお囃子です。このオリエンタルダンスはまた、ベリーダンスとも呼ばれ、いわゆるアラブ文化圏の国々では盛んに踊られております。起源はずいぶん昔で、イスラム教が勃興する以前から踊られていたようですよ。その賑わしさ、華やかさにせめて音楽から触れて戴きたく、音源を用意しました。暫し、お聴き下さい。 去る十月十五日、下諏訪町の秋宮において、このオリエンタルダンス奉納が行われる予定でした。僕も拝見したかったのですが、あいにくの雨で、断念しました。せめて音楽から、その賑わいを想像したいと思います。 夢と現実、からだと心、ながれとかたまり、聖なるものと俗なるもの、また自然と人間などといった相異なるものが、完全に溶け合う一瞬。それが舞踊なのでしょう。その微妙な一瞬を求めて、人間は、必死に、舞い踊るのです。
2013.10.21
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平成25年8月19日放送電動車椅子ぶらり通信・百八十三話 あの日から五十年 いなあいネットの放送で亡くなられた方のお知らせがある時、大抵はそのお家の屋号も紹介されますね。それを聞くと、亡くなった方が見ず知らずの人であっても、僕は、何か知ら、不思議な懐かしさをおぼえるのです。これはきっと、僕が生まれた頃から、親戚や近所同士、お互いを屋号で呼び合う環境に、なじんでいたからでしょう。 ちなみに、わが家の屋号は「山王(さんのう)」といいます。「山」に「王様」の「王」と書いて、山王。この山王とは現在、西箕輪大萱の信州伊那国際ゴルフクラブがある場所の小字名(こあざめい)で、昔は「山王新田」と呼ばれていました。江戸時代の延宝(えんぽう)二年、つまり、今から四百年近く前に行われた検地の記録には、山王新田の石高(こくだか)十四、戸数は一、とあって、この戸数一の家こそがわが家の先祖みたいです。 親戚から聞いた話や、関連の史料によると、木下陣屋の代官、加集(かしゅう)盛(もり)親(ちか)という殿様から開墾を奨励されて、わが家の先祖が山王地籍の山林を切り開いたものの、水に恵まれなかったため、稲作は無理だったということらしい。もっとも、佛壇の繰(くり)出(だし)位牌に納められている唐澤家初代の木(もく)牌(はい)の裏側には、「山王新田開拓の祖」と記(しる)されてあるだけで、その他には、何の書付も遺されてはおりません。一体いつ、親村(おやむら)である大萱に移住したのかも含めて、事の仔細は不明です。 ともあれ、誰からも山王、山王と呼ばれるのを聞き慣れて育った幼い頃の僕は、山王という屋号を、苗字のように思い込んでいましたね。母に負ぶわれて行った病院とか役所の窓口で、「唐澤さぁん、唐澤浩さん」 と呼ばれるのを聞いた時、「ああ、自分の事だな」とは意識していたものの、あまり、しっくりしませんでした。「唐澤浩」とは、何やら余所(よそ)行きの名前みたようで、幼い頃の僕にはどうも、ピンと来なかったんです。 しかし、本当は「唐澤浩」こそ唯一無二の実名である、という事をよくよく思い知らされる日が来た。それは、昭和三十八年八月十九日であります。 きょう平成二十五年八月十九日は、月曜日。そして、今から丁度五十年前の昭和三十八年八月十九日もやはり、月曜日でした。あの日は朝からよく晴れて、まことに暑い暑い一日だった事を、僕は今でもはっきり、おぼえております。 この日、つまり昭和三十八年八月十九日に、ぼくは、下諏訪町の信濃整肢療護園に入園しました。何せまだ、僅か六歳の時の事ですから、親許や故郷を離れて過ごす、という事の厳しさはてんで、解っていない。前の晩まではさながら、遠足にでも行くようなルンルン気分ですよ。 それが、伊那市西箕輪支所前の停留所からバスに乗って、伊那町へ下り、伊那市駅から電車に乗り込んで下諏訪へ向かうその道中、「これは、どうも、えらい事になりそうだぞ」という予感が兆してきた。いまの若者言葉でいえば、「これって、超激ヤバかもぉ!」そんな感じでしょうね。これについては、また、のちほどお話し致します。 ともかく、それ以後、療護園では当然のことながら、「唐澤くん」とか「唐澤浩くん」とは呼ばれても、「山王のひ・ろ・ちゃ」と声を掛けられた事は一度もない。何が寂しく辛かったか、といって、ちちははが身近にいないことと、「山王」という屋号が全く聞かれなくなった事ほど、心が痛い事はありませんでした。 ところで、ちちははが僕を信濃整肢療護園に入園させるよう希望したのには、ふたつの理由があるのです。その一つ目は、からだの障碍の治療を受けさせるという事でした。 僕の障碍は、「脳性麻痺の後遺症による体幹機能障碍」といって、例えば手で物を握る事や、足で立って歩く事、また誰が聞いても、それとはっきり聞き取る事ができるよう滑(なめ)らかな発音で話す、ことなどが極めて難しい。あるいは、出来ないという事なのです。 昭和三十年代当時、このような脳性麻痺の子供を治療する専門の医療機関は、長野県下に信濃整肢療護園しか、ありませんでした。ついでながら申し添えると、この療護園は、現在の信濃医療福祉センターの前身になります。 入園したころはまだ、脳性麻痺の医療的研究もようやく、緒に就いたばかりの時代で、社会全般の理解も殆ど、ゼロに等しい状態だったといえるでしょう。こんな訳で、信濃整肢療護園は僕にとり、頼みの綱だったのです。手足がいたって不自由な僕の身体の障碍が少しでも回復すれば、という願いで、ちちははは僕を単独、療護園に入園させたのでした。 さて、二つ目の理由は、ぼくの義務教育にかかわる問題があったからです。その当時、例えば聾学校、盲学校等々、各種特殊教育校が整えられている中で独り、肢体不自由児の教育だけが著しく立ち遅れておりまして、長野県下には一校も、手足に障碍をもつ子供のための専門教育機関がありませんでした。 この為、その当時の制度である「就学猶予」というものが適用されて、小中学校の教育課程そのものが学べない、という障碍児者が、県下に千七百名おりました。この問題を打開しようと、当時の肢体不自由児保護者会が、関係機関に対する働きかけを強力に展開した結果、昭和三十七年九月、晴れて、県立諏訪養護学校が開校した訳です。ちちははが僕を療護園に入園させたのは、この諏訪養護学校でどうしても、義務教育課程の学習を正規に修めさせたい、という願いもあったからなのです。謂わば、ちちははの悲願がみのった結果、僕は、信濃整肢療護園入園というかたちで、障碍克服の第一歩を踏み出すことができた。その日が、今から丁度、五十年前の昭和三十八年八月十九日で、僕にとっては第二の誕生日、といえるかも知れません。 それにしても、まるまる半世紀が経ったというのに、あの日の前後の事は割りとはっきり、憶えているから不思議だな。なにぶん、療護園より、入園の許可通知が届いたのが、二日前の八月十七日でしたから、ちちはははその準備に、それはもう、大わらわだったみたいですよ。 入園する日の前日、父母(ちちはは)は、街から買ってきた行李(こうり)に、墨で「からさわひろし」と書きました。この記名は、僕がまだ六歳だった故、平仮名書きです。その行李に、母が手縫いで名札をつけた衣類を詰め、大ぶりの布で覆い、下諏訪駅留のチッキで送りました。この行李を駅でタクシーのトランクに載せ、療護園に向かったんですね。療護園に着いて、当時の園長だった井上雅夫先生の診察や、保母さんによる面談が続きました。そうした一連の手続きが済んだのは、午後の四時半近くだった、と思います。その当時、療護園では夕食の時間で、僕が案内された病室のベッドに就くや否や、お膳が運ばれてきた。それを食べながら父(ちち)母(はは)を見送ったのです。涙と鼻水で惨憺(さんたん)たる食事となりました。めそめそする僕の食事介助に当られた看護婦さんも定めし、大変に困った事でしょうね。 つまりこの時になって、自分独りで暮らすという事の意味をよくよく思い知ったのです。僕はそれまで親から片時も離れて過ごす、という事がありませんでした。このため、どっちを向いても見ず知らずの人々ばかりである事に慌てふためき、もうすっかりパニックに陥った。腹の奥から込み上げてくる怯えと、切なさの感情が、余りにも強烈で、息苦しく、死ぬかと思った程です。自家中毒寸前でした。 そうした混乱状態がひとしきりして落ち着いた時、ふと窓に目をやると、もうとっぷり暮れて暗い諏訪湖が、とおくに見えました。そして、湖畔に沿う小道には、電柱の街灯がポツンと、点(とも)っています。 ふりかえれば、この時に見た電柱に点る小さな灯(あか)りこそ、僕にとっての根源的な原風景、といえるかも知れません。なぜなら、まだ、何も分別が着いていない頃の僕に、本当はこうなんだという人間の姿を、そののち徐々に知る上でのヒントを、霊感として投げかけたのが、頼りなげに、必死で、また温かく点るあの街灯だったからです。にっちもさっちも行かなくなって、つい、自分のすべてが駄目に思われてしまう瞬間、あの街灯が記憶の奥から、そこはかとなく、浮かんでくる。それはいつも、さながら、あらゆる弱点が剥き出し(むきだし)になっているのに、なおも踏ん張って佇(たたず)む、という事の気高さを暗示的に物語るのでした。 する事なす事どれも裏目に出て、げんなり項垂(うなだ)れてしまう時、ポツンと点るあの街灯が思い浮かぶ。そして、頼りなさと気高さとが表裏ぴったり貼り合わせになったその姿が、思い直して再度立ち向かう気概を、よびおこしてくれるのです。 とはいうものの、入園したその日の晩は、あの灯りの下をちちははが通って、遠い伊那へ帰ったか、と思うとまた、寂しさでたまらなくなってしまいました。でも、そこを敢えてグッと我慢。少しく気障(きざ)な言い方をお赦し戴ければ、要するに、これこそ、僕が初めて、受け容れられないものを受け容れた瞬間です。そこから、僕が、自分を、人間として遮二無二築き上げて行く時間が始まりました。 さて、流れている曲は、ドボルザークの交響曲第九番「新世界より」の第二楽章です。当時、西箕輪の家では、農協の有線放送から毎晩聞かれましたし、療護園でも夕食の時に流れていました。これを聞きながら、五十年前の八月十九日をもう一度、振り返ってみたいと思います。
2013.08.20
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電動車椅子ぶらり通信・百八十話 お金の話 ただいまお聴き戴いている曲は、ショパンが書いたノクターン第二十番嬰ハ短調です。折角ゆえ今日は、伊那市出身のピアニスト、平澤真希さんによる演奏のCDを選びました。平澤さんは、ポーランドのワルシャワを拠点に、国際的な演奏活動を展開しておられます。しばらくお聴き下さい。 この音楽が近頃、わりと親しまれるようになった訳は、ショパン作品の中でも一、二のランク付けに迷う程の名作である事に加えて、もう一つ理由があるからです。 二〇〇二年に公開された映画「戦場のピアニスト」で、この曲が非常に重要な役割をはたしている。思い切った言い方をすれば、人の姿をもたぬもう一人の主人公。それがこの音楽だ、と考えていいかも知れません。 それはそれとして、この「戦場のピアニスト」という映画は、第二次大戦下のポーランドが舞台です。ユダヤ系のピアニスト、シュピルマンがナチスの苛烈な迫害に耐えて生き抜く、という物語でした。あらすじとしては単純な内容なのですが、紆余曲折の描写は非常にきめ細かく、胸に迫るものがあります。 さて、ここから今回の本題に入りましょう。 テレビで保守派の論客西部邁(にしべすすむ)さんと、片やリベラル派の評論家佐高信(さだかまこと)さんという思想的には相異なる立場の二人が、お喋りを交わす。そんな番組がありました。この番組で或る日、ぼうっと二人の話を聞くともなく聞いていた時のことです。ふと、半分ウツラウツラしかけた僕の眠気をすっかり覚めさせる話題が、耳に入ってきました。 例の映画「戦場のピアニスト」について、話が作品の具体的な内容に及んだ時、こんな事が語られたのです。というのもこの映画には、主人公がとあるレストランで音楽を一曲弾き終わった時、客がチップにコインを床へ放り投げてよこすシーンがあります。これについて、予備知識のない人は多分、その客が横柄にもピアニストを見下してそうしたかのように思うかも知れないが、それは違う、というのです。その時代、コインの偽造が横行していたらしい。つまり、コインにおける本物と偽物の違いは、銭(ぜに)として鋳(い)込まれる際の金属成分や成分比率の差にある訳で、硬さや重さが異なります。チップのコインを床へ放り投げた客は、そのコインが本物である事を証明するために、床へ落とす音を聞かせた、というんですね。 第二次大戦下の時代は、どの国でもインフレーションが物すごい勢いで加速しました。つまり、お金の価値が地すべり式に目減りして行くので、贋金(にせがね)づくりが罷(まか)り通るのは、ある意味で当然かも知れません。したがって、見方を換えれば、お金で買う物の方に重い価値があった訳ですね。要するに食べ物、着物、日用品、その他家具調度品類等々、暮らしを支えるさまざまな《物》それ自体が、確かな値打ちを保有していた、という事でしょう。 「物を惜しむ心」あるいは、「物を活かす心掛け」とでも申しますか、どんな品物や、道具類も生き物さながら丁重に扱う価値観は、何も戦時中に限らず、平和な時代にも生きていました。但しこれも大体、四半世紀ぐらい前までの事です。具体的には質屋さんとか、古本屋さん、もっと古くは古着屋さんなどの商いが、街中(まちなか)で自然に営まれていた頃までは、総じて《物の価値》が《お金》よりもずっと、重かった訳ですね。 加えて、この場合の《物》には、それぞれの家や個人の歴史、および思い入れがふかく浸み込んでいます。ゆえに、物語とは、物と人との間の曰く言い難い関わりを形として確かめるために、生まれたのでしょう。 その辺の機微を端的に表現した持って来いの小説があります。アメリカの作家、オー・ヘンリーが書いた短編、「賢者の贈り物」という作品です。凡そ、次のような粗筋でした。 安アパートに住む若夫婦のうちの妻は、名前をデラといった。デラはこの日の買い物から戻り、粗末なソファーに突っ伏して泣いた。その訳は、今宵クリスマス・イヴだというのに、愛する夫ジムに贈るプレゼント。そのプレゼントを買うお金がなかったからである。 しかし、暫らくして泣くのを止めたデラは、手早に化粧を整えて、再び寒空の街へ出かけて行った。彼女が飛び込んだ先は「マダム・ソロフニー」という美容院。そして、デラはその店の女主人に、私の髪を買い取って下さい、と頼んだ。無愛想な女主人はその頼みに応じ、まるで滝のように漣(さざなみ)を打って長く、美しく伸びるブロンドの髪を、バッサリと、切ったのだった。 それと引き換えに受け取った二十ドルのお金を握りしめて、デラは貴金属店に向かった。その店で迷わず、プラチナ製の鎖を買い求めた。それはジムが常日頃愛用している懐中時計につけるための鎖である。ちなみに、その懐中時計は、祖父から父へ、父からジムへと代々譲り渡されてきた、思い出の品であった。 さて、夜の七時、愛する夫ジムが勤めから帰ってきた。そこで彼ら若夫婦は、切なくも透き通るように美しい《行き違い》を、体験することになる。ジムも愛する妻のデラに贈るクリスマスプレゼントを買ってきたのだが、それは、滝のように美しくデラの背中を流れていた筈のブロンドの髪。そのブロンドの髪に挿すべき、鼈甲(べっこう)の櫛(くし)であった。しかも、あろう事か、その櫛を買うために、ジムは父祖伝来の懐中時計を売ってしまったのである。デラが折角買ったプラチナの鎖を取り付ける筈の懐中時計を。 かくて、この若い二人は、お互いのプレゼントに伴う《行き違い》にひどく戸惑うのだが、しかし同時に二人は、愛し合う思いの確かさを改めて知った。 ざっとまあ、こんなお話です。僕がこの物語に感ずる凄みは、お金、物、そして人間の愛という三つの価値がそれぞれにしっかりと独立し、三つ巴の渦を大きく描いているという事。そして、その三つ巴の渦から人間の愛が決然と奮い立ち、確かな足取りで歩み出す点にあるのではないかと見ているのですが、いかがでしょうか。デラが語るつぎの言葉をお聞き戴きながら、皆様にもその辺りを鑑定して戴ければ幸いです。「わたしの髪の毛の一本一本まで神様には数えられているでしょうね。でも、わたしがあなたをどれだけ愛しているかは、誰にもはかることはできないわ」 ところで、ずいぶん汚らしい雑巾か何かの端を爪の先で抓(つま)み上げ、眉間じわを寄せながら、「こぉんなもの」というようなニュアンスで、お金の事をひどく蔑(さげす)む言葉がありました。それは「阿堵物(あとぶつ)」と言います。江戸時代にお侍さん達が「かね」とか「ぜに」などと、もろに口にするのを頗(すこぶ)る忌み嫌って、「これ」とか「それ」、「そいつ」などといった意味の阿堵物を、お金を指す言葉に用いたようですよ。 明治時代にできた東京帝国大学では、開学当初、学生たちが随分奇妙な二つのグループに分かれていた、と言われます。すなわち、そのうちの一派は紺色の足袋を履くなかまの「紺足袋党」。で、もう一派は白足袋を履く者の集まりである「白足袋党」でした。 このうち、後者の「白足袋党」は文学を愛好する連中で、「紺足袋党」から半ば軽蔑されていた節がある。男のくせに大衆娯楽の読み物や芝居なんぞに入れ込むとは何事か、という訳ですよ。これは、差し詰め、後世のたとえば湘南ボーイとか、クリスタル族などと呼ばれた若い人々に対する世間の眼、といったものに近いものがあったのかも知れません。 これに対して「紺足袋党」は質実剛健を宗とし、専ら政治論を語っていました。つまり、お侍さんの気風が色濃く反映されていたようですね。議論の場でも、お金の事を「阿堵物」といって小馬鹿にしていたらしい。要するに、お金にしか為し得ない重要な機能を、それと知った上でむしろ、卑しんでいた訳です。 というのも、お金は、豊かさの実りや恵みを生む一方で、いかに厄介な物でも立ち処に洗い流して綺麗さっぱり改まった状態へと戻す、物凄い浄化機能があります。そのぶん、具体的に語る場合、何かと問題や差し障りが起きかねませんので、今回はこれ以上触れません。しかし、それがそのままだと生活全体が滞って、どうにも身動きが取れなくなる事態に、人間なら大概、一生のうちで二度三度陥る事から免れられない。そこから救い出してくれるのが《お金》なのですが、武士道の気風はこれを意固地に無視し続けてきました。 ノーベル賞のなかで、経済学賞の分野にはまだ日本人の受賞者がいません。その訳は、恐らく、今し方お話ししたように、お金の機能をまともに見ようとしない日本人の歴史的な弱点の現れかもしれないな?と時々、考える事があります。 さて、お終いに、僕自身の事をお話ししましょう。養護学校の高等部を卒業するほんの二ヶ月前までは、僕は手足が不自由な自分がお金の収入に結び付く仕事ができるなんて、思ってもみませんでした。国語の教科担任だった先生が、テレビやラジオの番組の批評を書くモニターの仕事を紹介してくださったのです。初めての原稿を書き終えた時、クタクタにくたびれて、三日ほど寝込んだことは、忘れられません。一枚のお札にも、恐るべき重みがあって、死にもの狂いに力を振り絞らなければこちらへ引き寄せることが出来ない、という事をよくよく思い知った体験でした。
2013.02.19
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電動車椅子ぶらり通信・百七十九話2012年12月放送 バリアリポート・2012 この《いなあいネット》で、僕のエッセイ「電動車椅子ぶらり通信」をお聞き戴くようになったのは、平成九年の事でした。あれからもう、十五年が経ちます。或る経済学者によると、人生というものは大体十五年周期でワンフレーズの段落を着けるものだそうです。そこで、という訳ではないのですが、とりあえずこれをひとつの潮と捉えてみましょう。そして、障碍とは何か、世の中のさまざまなバリアとどう付き合えばいいのか、この十五年間に考えてきた事を、今回は、ひとまず、中間決算としてまとめたいと思います。 さあ、そこで、まずは取っ掛かりに、今年体験した心ときめく旅の思い出から、お話しさせて下さい。 六月二十日のことでした。この時、僕は、全身の関節や筋肉の痛みの治療を受けるため、下諏訪町にある信濃医療福祉センターに入院していたのです。そこで、リハビリを担当して下さっていた理学療法士Mさんと雑談を交わすうち、ふとしたことから、当センターの前身である信濃整肢療護園の跡地へ行ってみよう、という事で話がまとまりました。 センターから、昔の療護園跡地までは大体、車で二十分の距離です。この二十分は、凡そ四十年前の過去へさかのぼるタイムトリップの道のりだったと言えるでしょう。六歳から十五歳までの九年間に及ぶ成長期を過ごした、心のふるさとへの旅路でしたね。 この時の少しく物憂い郷愁と、一方で何かしら浮き立つような気分とが綯(な)い交ぜになった微妙なる思いを、巧みに唄ったブルースがあります。それは、デビューしたての若きドリス・デイが大ヒットさせた歌「センチメンタル・ジャーニー」。今ながれている彼女の唄をBGMにして暫し、その時の思い出話をお聞き下さい。 旅の目的地である昔の療護園跡に到着してまず抱いた印象は、僕がここで暮らしていた時とちっとも変わっちゃいないなぁ、という事でした。なるほど、以前にはなかった高木温泉の配湯設備を覆う建屋とか、幾棟(いくむね)かのアパートなどが並んではいたものの、かつて、ここに建っていた信濃整肢療護園の敷地全体の枠組みは、当時のままであります。 また、病棟の場所はそのままの広い空き地になっていました。寄宿していた建物は残っていないながらも、往時の臭(にお)いや音が、胸の奥底から甦るようでしたね。 ここで、信濃整肢療護園が建っていた場所のロケーションにつき、ご説明しましょう。以前の放送でもお話ししたように、療護園は下諏訪町の高木地区にありました。 建物の裏山は競り上がる具合に、こんもり隆起しています。しかも、落葉樹の雑木類がたくさん生い茂っている事もあって、夏には黒々と葉っぱが重なり合っていた。だから、里山でありながら、見た目には随分深くて、高い山のように感じられたものです。 そこでそのままふりかえれば、眼の前に、諏訪湖がひろがっていました。療護園の高台から望むその諏訪湖までの距離が、じつに、絶妙なのです。遠く見霽(みはるか)すでもなく、すぐ眼下に見下ろすのでもない適度な位置に、湖が鎮まり返っている。心を整えるために、もう一つの鏡として見つめられる場所に諏訪湖があった。そういえるかも知れません。 このような高木地区の地形を大雑把にまとめると、土地全体が諏訪湖に向かって滑り込むような急傾斜地にひらけた村です。これは、取りも直さず、各家々や田畑一枚、一枚をそれぞれ、しっかりと土留めする石垣がそこかしこにあって、それらが村全域を支えている。つまり、遙か遠い古代から、村人たちに営々とした努力で築かれた、という事がそこはかとなく読み取られる風景なのです。 手足や、言語の発音機能などに、重度の障碍を有する僕にとっては、確かに、療護園でのさまざまな治療や、県立諏訪養護学校での教育が、成長を大きく促したことはまちがいありません。 でもそれらに加えてもう一つ、僕を一人の人間としてちゃんと育ててくれる力があった。それは、療護園を取り囲んでいた高木地区の風景に他ならない。という事に、その時の旅ではっきりと気づいたのでした。土と石が積み上げられ、しっかりと踏み固められ、築き上げられた営みが感じられる村全体の眺め。その眺めによって、僕自身ほとんど意識しないままに、人格形成が触発されていたという事でしょう。 以上は、改めていうまでもなく、あくまでぼくと、下諏訪町高木地区の風景との関係に生まれた個人の歴史です。でも、一歩引いてやや視野を拡げれば、そこに何かしらの普遍性が感じられるのです。つまり、人間なら誰の場合でも、どのような土地、風景と出会い、何をどう感じたのか。その関わり方が、生き方の根本を決める。今年六月の旅を振り返る時、そんな事が思われるのです。 かくてその療護園こそ僕自身、自分の障碍をはっきりと自覚し、世の中のさまざまなバリアをよくよく認識した原点に他なりません。 さて、ここからが、いよいよ本題です。 訪ねた時には、雑草のヒメジョオンが丈高く伸び、辺り一面に蔓延(はびこ)っていた信濃整肢療護園の病棟跡。そこを車椅子でめぐっている時、ふと口を吐(つ)いて出た言葉がありました。それは、つぎの漢字、五文字です。 すなわち「案」「因」「運」「縁」「恩」の五つですね。まずは順を追って五文字それぞれを、ご説明しましょう。案、因、運、縁、恩と語呂合わせめいて些か気が引けますけれども、これは、僕自身、ふかく得心した感懐なのです。 まあ、お聞き下さい。 まず最初の「案」は、「案ずる」とか「予算案」という場合の「案」で、あれやこれや思い巡らすということですね。物事の意味と本質を訪ね、自ら考える事だ、と思います。療育を受けるために、親許を離れて過ごした九年間は物凄く侘しかった半面で、じつにさまざまな出会いを重ねる年月でした。 療護園には長野県下各地から、手足にいろいろな障碍を抱えた子供たちが集まって来ていました。当然、子供たちの個性も百人百様です。お互い接する中では、それぞれの人間性も含めて不思議な事ばかり。加えて、その不思議に、今度は僕自身の謎も照らし出されたりする。僕の考える癖はどうやら、知らぬ者同士がお互いに、相手の気持ちをわが身に引き当てて気遣わざるを得ない。そんな状況に置かれたため、知らず識らず身についたもの、と思われます。 さて、「案」に続く言葉の「因」という文字は、「原因」とか、「因縁」という場合の「因」です。身体の障碍の治療を毎日うける。また、自分で出来ない事は、他人(ひと)様に頼む。九年間続いた療育生活の中でこういうことを繰り返していると、身体の障碍について否応なく、意識させられるようになりました。 そのうち、思春期らしき年齢を迎えると、「何故おれは、障碍を背負い(しょい)込んだのか」と、疑問をもつようになる。しかし、いくら考えたところで判る、といった筋合いの問題ではありません。それを無理矢理考えようとすると、成り行きとして必ず、ありもしない原因をでっち上げるようになるだろう。これは、自分ばかりではなく、周りの人々まで貧しく、息苦しくしてしまう筈だ。療護園を退園する頃の少年唐澤浩は、そう感じました。そして、こう考える事にしたのです。物事の因果関係は、自分自身の努力や責任に関わる事以外、なるべく追究しない事。要するに、現実は自分自身が引き金となり、また原因となって展開するよう、積極的に行動すべく心掛ける、ということです。そう考えた途端、心持ちは俄(にわ)かに軽くなりましたね。 次の言葉は、「運」という文字です。運転とか、耕運機、運搬などという場合の「運」ですね。早い話「運命」の「運」なのですが、世にも不思議な事に、子供のころから、僕の身体の障碍は、この僕に向かってその「運命」という言葉をあんまり濫用(らんよう)してくれるな、と訴え続けているのです。その訳はお題目よろしく、何遍も運命、運命と繰り返し言うと、僕自身が障碍の事を過剰に意識して、いつしか障碍そのものを崇め奉る(あがめたてまつる)ようになる。それは、お前が、お前の障碍である俺にすっかり寄り掛かかる事でしかない訳で、お前の人生は先細る一方だよ。だから、よく新聞の隅に書いてある今日の金運とか、仕事運、恋愛運などといった偶々(たまたま)の何気ない運勢で、おれとばったり出会っちゃった、というふうに考えてくれよ。そんな事を僕の身体の障碍は僕に言うんですね。言われてみれば成程、その通り。僕は自分の障碍の言い分に同意しました。 さて、最後は、「縁」と「恩」です。このうち「縁」はえにしの縁。また「恩」は恩返しの恩です。障碍を抱えたが故にめぐまれた思いがけないご縁の数々。そのご縁の数々が僕の視野を拡げ、感受性を育んでくれた事は間違いありません。極端な話、車椅子では登れなかった一段の段差も貴重なヒントを示してくれたものです。そういうご縁に恩、即ち、感謝の心が湧く。 こうして百七十九回を数える「電ぶら通信」の原稿はみな、自分の価値観をおさらいし、時として不本意な状況でも前向きに受け入れられる粘り強さを養う。そして、伊那の街に暮らす一員として、より生き生きとした「街づくり」のあり方を探る。そのために書いて参りました。何程のお役に立てるものやら、心許ない限りですが、これからもがんばってまいりたいと存じます。
2012.12.18
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電動車椅子ぶらり通信 百七十四話2012年2月・放送 魂に火を点ける! 今回のサブタイトルに掲げた言葉「魂に火を点ける」とは、古代ギリシアの哲学者であるプラトンが、教育とは何かというお弟子の質問を受けて、叫ぶように答えたものです。--「魂に火を点ける」。心持ちのうえではさながら掴み掛かるように、食い下がるように、攀じ登るように、あらん限りの力を振り絞って現実と関わるような主体的人間性を触発する事がもともとの教育、という事を考えると、プラトンが言い放った「魂に火を点ける」という言葉はまさしく、名言の中の名言、というしかありません。 読み書きを覚える。計算の仕方を会得する。また、より多くの知識を身につける。これらが主体的人間性を触発する事に結びつかない教育は、教育でない、とプラトンは暗示している訳で、彼の目標設定は非常に厳格だ、といえるでしょう。してみると教師、指導者、お師匠さんなどと人びとから仰がれる方々の責任は極めて重大な事がよく解る。それ相応に熟達した教育技術と、生徒一人ひとりの個性を圧倒する重厚な威厳、また温かな人間味。これらを兼ね具えた方にしてようやく、為し得るのが教育、といえるのかも知れません。だとするなら、本当に優れた先生と巡り合った場合、その生徒の人生は半ば、完成したも同然といえるように思います。 ところで、二月も半ばを過ぎたこの時期、大学などへの進学や高校の後期選抜入学試験に備えた勉強に、また就職の準備などのため、卒業間近の中学生、高校生の皆さんは非常に慌ただしい日々を送っておられる事でしょう。やや、大袈裟にいえば、人生最初の十字路に差し掛かる時期で、誰もが、多かれ少なかれ、進路選択の問題に悩む筈です。 それに較べて、これから小学校に入る就学期の子供や、その親御さん達には何の迷いもない。むしろ、さまざまな夢や期待などで、胸が熱く膨らむ幸せいっぱいの季節、といえるでしょうね。これは当たり前過ぎるほど当たり前の事で、小学校入学に親子ともども、全く純粋な喜びを感ずる、というのはこの上もなく自然な事柄です。 ところが、同じく就学期を迎えた子供でも、その入学の問題で非常に思い悩むお母さん、お父さん達がいる。それは、心身に何等かの重い障碍を抱えた障碍児のご家族です。今回は、この問題をいとぐちに、学校へ行って学ぶとは一体どういう事か、掘り下げてみたいと思います。 昭和五十四年より施行された、「養護学校完全義務化」に伴って、長野県下でも各地に順次、養護学校が開校されてまいりました。その数は、現時点で合計、二十一校にになります。これは、県内の重立った市や郡に最低一校の養護学校が配置されている事を示しています。 また、平成十九年四月からは、それまでの「特殊教育」が「特別支援教育」と、改まりました。これは、それまでの「特殊教育」が心身に何等かの障碍を有する子供への教育であったのに対して、新たに定められた「特別支援教育」は、「特別な教育的ニーズがもとめられる子供への教育」と、障碍児教育における理念そのものがガラリと転換された事を意味します。具体的には視覚障碍児に対する盲教育、聴覚障碍児等に対する聾教育、また肢体不自由児教育、知的障碍児教育、病弱児教育、学習障碍児教育など、各部門ごとの専門性を活かしつつも、それぞれの部門区分を超えて、その子供のハンディ克服に最適な教育を実践する、というものであります。 このように、「養護学校完全義務化」や、「特別支援教育」などの動きを見る限りでは、障碍児をめぐる教育環境が年々、ずいぶん、改善してきているように思われるかも知れません。ところが、実際は「さにあらず!」で、非常に厳しいものがある。つまり、その障碍児の親御さんが、「特別な教育的ニーズがもとめられる」わが子の発達や可能性をグンと惹き出してくれるような教育をのぞんでも、いくつかの条件がそれぞれ咬み合わない為に、結果として、「特別な教育的ニーズがもとめられない」場合がしばしばあるからです。 これについては、例え話でお聞き下さい。ですから、ここでは、主人公を仮の名前として、「森ノ木茂彦」君と呼びましょう。 さて、森ノ木茂彦君は今年の一月、六歳になりました。四月にはいよいよ、一年生です。でも茂彦君は障碍のため、手足が不自由です。日常の衣食住は殆ど、ご家族が面倒をみて上げなければなりません。また、車椅子も自分では動かす事が無理ですし、言語障害のため、自分の意思を人に伝える事は非常に困難なのです。その中で、一つの救いは、茂彦君に、或る可能性が残されているという事。それは、物事を正確に理解する能力が、一般の健常児と変わりない事です。有り体にいえば、茂彦君のIQは、規定水準の百をみたしている、という事ですね。 ゆえに、茂彦君のお父さん、お母さんは、残された可能性である知的能力を出来る限り伸ばす為、茂彦君に十分な教育を受けさせてやりたい、という願いが非常に切実なのです。 しかし、そこで、大きな問題がたちはだかりました。それというのも、茂彦君が住む家はいわゆる山間地に建っていて、その地域の養護学校へ行くには自動車で片道、五十分はかかります。スクールバスも、茂彦君の家からはずいぶん、遠いコースをまわっている。加えて、お母さんは茂彦君のまだ幼い妹の面倒もみて上げなくてはならない為、茂彦君を毎日車で送り迎えする事はどうも、無理です。 ご両親としては、地元の小学校へ通わせて上げたいのですが、それには加配といって、茂彦君の学校生活を専門にサポートする教員を、その自治体が確保して雇用しなければなりません。しかし、茂彦君が住んでいる町は財政難のため、対応は難しいとの事。 結局のところ、迷い悩んだ末にお父さん、お母さんが下した結論は、茂彦君を肢体不自由児施設に入所させ、その施設に隣接の養護学校へ入学させる、というものでした。この場合、一番のネックは、茂彦君を独り親元から離れさせる、という事です。そうなると、親子の接触が減って、家庭教育がおろそかになりかねません。茂彦君親子にとっては実に悩ましいところです。 以上はあくまでも例え話なので、基本的にはフィクションである事を念の為、申し添えねばなりますまい。とはいっても、今し方の話は実例の切り貼りで、架空の虚構は主人公の名前、森ノ木茂彦だけですね。要するに、実際の話、障碍児の親御さんは、ほぼ全員と言っていい程、その子の入学の問題で思い煩う訳です。なぜなら、教育の仕方如何により、障碍児の発達や可能性の拡がりに、格差が生まれ、人生の在り方そのものを大きく左右しかねないからであります。 この辺で僕の話をしましょう。 あれは、僕が、中学生の頃でした。或る時、ふと、すこぶる単純な疑問に囚われたのです。それというのも、なぜ、おれは、学校へ通う必要があるんだろう? ということで、このクエスチョンは大きく頭の中を占めました。この手の稚拙な疑問を持つに至ったのは、その頃の学校に対する忿懣が、爆発寸前までに鬱積していた事もあるのです。 じつを申しますと、中学の時、僕は手足の障碍が重いため、教科書を自分で開いたり、ノートに記録したりする事が出来ない事を理由に、特殊学級に編入され、一般の教科書に沿った授業は余り、受けさせてはもらえませんでした。何をしていたかと言えば、一週間に八時間、職能といって、作業訓練的な授業を受けていたのです。つまり、同学年で他のクラスの生徒がミッチリ英語や、数学を勉強している間、僕は畑に出て野菜を栽培したり、被服科の教室で割烹着を縫ったり、ブリキで塵とりを作ったり、という手作業の授業を受けていたんですね。といっても、僕は手が使えませんから、教科担任の先生が作業するようすを傍らで見ていただけです。そして、「おれは職人になれる見込みもないのに、こんな授業で時間を過ごすのは唯の暇潰しだぜ。いっそ、退学して家に帰り、独学で勉強した方がいいんじゃねえのかな?」 そんな事を考えたりしました。また、こういう不満を或る時、寄宿舎の保母さんに打ち明けた事があります。すると、その保母さんは僕の話をじっと聞いた後で、諭すように、こう答えました。 「浩君の考えは一応、筋道がとおっていて正しいと思うわ。でもね、少なくとも義務教育の学校を途中でやめると、大人になった時、見える筈のものが見えなくなるわよ。何故って学校は、学びたくない事を学ぶところなの。それで、知識の好き嫌いをなくし、知るべき事をちゃんと知る訓練をするのよ」 この時の僕は、その保母さんのいうことがすっかり理解できた訳ではありません。でも、何かしら心の奥が熱くなってきた。要するに、僕自身には合わないと思っていた学校の授業も、気持ちを切り換える事で身につく何かが見出せるかもしれない、と思えるようになったのです。学校への疑問や不満は消えませんでしたが、何はともあれ、学校へ通う毎日の日課を忠実に続ける事自体、とても厳粛な事のように感じられてまいりました。 そして、少しずつ、人間にとってはなにを学ぶか、という事よりも、眼の前の物事をどのように受け止め、認識するかという事の方が大切であるように思われてきた。この気づきがなかったら、文章を書く仕事は出来なかったでしょう。思えば、あの保母さんも、僕の魂に火を点けた一人です。
2012.12.10
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電動車椅子ぶらり通信 百七十二話2011年10月・放送 非常時に備えて 今年の九月三日、四日に予定されていた伊那市の防災避難訓練は、台風襲来による暴風雨被害を警戒して、実施計画の一部が中止となりました。中止となったその主なものは、大地震とその後の混乱を想定した一泊の避難生活訓練です。これは、参加者と、伊那市の計画実施関係職員らが避難訓練会場の伊那市立春富中学校体育館で一晩を過ごし、突然の避難生活では何が必要か、その検証も目的の一つだったのです。 特に、今回は、障碍者も参加して、いわゆる災害弱者の避難生活ではどんな物や、対応が求められるかを確かめる、という試験的な性格も濃かった訳ですね。僕も一員のバリアフリーまちづくりグループ<サークルひまわりのたね>からも、障碍者として参加を予定していた仲間が幾人かいて、彼らの感想をあとで聞くのを期待していただけに、一泊の避難生活訓練が中止となった事は残念、というしかありません。 しかし、僕は、図らずもほぼそれに見合う体験にめぐまれました。というのも、伊那市で防災避難訓練が行われていた時、ぼくは、身体の障碍の治療を受けるため、下諏訪町にある信濃医療福祉センターに入院していて、当センターの避難訓練に参加できたからです。 以前にもお話ししたかと思いますが、この信濃医療福祉センターは肢体不自由児施設、および重症心身障害児施設です。入所児童の障碍は重く、全体の九割方は車椅子使用で、移動には殆どの場合、介助を必要とするわけですね。避難訓練が行われたのは九月一日の昼前だったので、移動介助には日勤職員の人数がほぼ足りました。だから、一応、所期の計画は円滑に実施されたといえるのですが、その分、職員の勤務人員が手薄な夜間とか、休日に事が起きた場合の対応に、懸念が残るのも事実です。 さて、この時の訓練ではもう一つ、無視できない課題が浮かび上がりました。それは、極度に高まった緊張が空気として押し寄せる時、幼い子供ほど堪え切れずに泣き出す、という事です。今回は、三月十一日に起きた東日本大震災の影響を心理的にも受けての事なのでしょう。訓練全体が、非常に張り詰めた空気の中で行われました。つまり、参加者たちの多くが訓練に対して真剣に臨む余り、ある種の殺気立った雰囲気がみなぎって、それが幼い子供たちには過敏な神経に突き刺さる、そんなふうに感じられたのかもしれません。 これは、幼児が抱える決定的な弱さがむきだしになる、という事の現れで、彼らの命を救ったとしてもそれだけでは不十分だ、という事を指し示しています。つまり、極端な話、幼児を危機から救うためには、避難行動のさなか同時に安心感を与える、という一種の離れ業が大人たちに求められるのでしょうね。 それはそうと、東日本大震災が起きたのは、ご存知のとおり今年の三月十一日。そして、今から十年前の二〇〇一年九月十一日には、アメリカで、同時多発テロが発生しました。これも度々お話ししてまいりましたが、同時多発テロが起きたその時、僕は、当のアメリカにいたのです。その頃、長野県が実施する海外派遣事業のひとつに、身障者を対象とした「ふれあいの旅」という企画がありました。これは海外の福祉環境を障害者自らが視察して、それぞれの地域の街づくりにその見聞を役立てる、という目的の研修旅行です。サンフランシスコ、およびロスアンゼルスの福祉関係施設数ケ所を見学してめぐりました。 そのなかで、僕には、非常に印象ぶかく、眼に焼きついた言葉があります。その言葉とは、「エマージェンシー」という単語でした。ホテルやレストラン、駅や市庁舎などの公共的建物、バスや電車などなど、このエマージェンシーという文字はよく見掛けたものです。 かかるエマージェンシーとは一般に、日本語で「非常事態」と訳されていて、街かどに表示される場合は、早い話が避難路とか、非常口の事。とはいっても、日本語の「非常口」と、英語の「エマージェンシー」とでは何かしら、ニュアンスがずいぶん違って感じられました。「非常口」と「エマージェンシー」。この二つをくらべると、言葉としてのインパクトは、「エマージェンシー」という英語の方が強く、本当に恐ろしいものの迫り来るイメージを刺激するんですね。 これは、おそらく、アメリカが軍事大国としての権益を守り続けるしかない宿命に立たされた唯ならぬ緊張感を、国民の多くが共有している。そのことの現れだろうか、と考えてもみました。けれども、これは、あくまで僕が漠然といだく主観に過ぎません。 ところで、今話題にしている英語の「エマージェンシー」とはもともと、泥とか、水の底に潜んでいたものが、浮かび上がってきて正体を現す、という意味なんだそうですね。つまり、どう見ても見誤りようのない現実が本当の姿を露にする、という事らしいですよ。事件、事故など、不意を突いて起こる出来事がきっかけで、人間が真正面から取り組まねばならない課題や、到達すべき目標がはっきり起ち現れる、ということなのでしょうか。ともかく、心をすっかり目覚めた状態にして、ちゃんと見据えるべきものである事は、間違いなさそうです。とすれば、いざ「エマージェンシー」とされる事態が起きた時、その場所から逃げたりするだけではなくて、現れ出た何物かの実態をよく見つめる、という事も求められるはずです。 ここで、僕個人の話をするのはどうか、という気もしますが、今までの事をふりかえるうち、ふと腑に落ちる事がありました。暫し、お付き合い下さい。 今までにも繰り返し、お話ししてまいったように、僕は障碍のため手がつかえません。パソコンで文章を書くのにも、指でキーボードを打ったり、手にマウスをにぎって画面をクリックする、という事ができないのです。そこで、ヘルメットに棒のついたものを頭にかむり、首を動かしてキーボードや、タッチパネルの画面を操作します。 この工夫を考案してくださったのが、諏訪養護学校の高等部でお世話になった、木下という先生でした。その頃は、棒を直接口に咥えてタイプライターのキーを打っていましたね。しかし、そういうやり方だと、長い時間、固い棒を咥え続けている訳だから、あごは疲れて痛くなるばかりか、前歯は傷んで欠けるし、棒は唾液で汚くなってしまいます。 それだけに、実際、ヘルメットをかむってタイプを打つ、という工夫が形になった時、それまでの負担が一遍に軽くなって、僕は本当にびっくりしました。これは、木下先生が、僕の身体の動きをよく見て、手足は不自由だけど首ならよく動かせる事、頭にかむるヘルメットなら、らくに着け外しが出来て、使いやすくなる、という事を探り当てて下さったからです。 やや大袈裟に聞こえるかも知れませんが、この場合、身体機能が社会生活を営む水準に至っていない点で、僕の障碍は僕自身にとって一つの非常事態、即ち「エマージェンシー」と言えるように思います。そこで、木下先生は、僕の障碍の状態をよく観察し、僕に無理な事と、無理なようでいて実はちゃんと出来そうな事とを見極めて下さった。その上で、ヘルメットの工夫を考えて下さった訳ですね。 おかげで、僕は、パソコンを操って文章を書く、という能力を獲得しました。思えば、この可能性がきりひらかれたことで僕自身、からだに障碍を負っているという現実が一層、はっきり見えてきた気がします。努力する方向性が確認できるようになった、といえるかも知れません。自分のハンディと向き合って、それと闘うすべが得られたこの生き甲斐を確かめる時、身体の機能障碍というピンチから、僕自身気づかなかった可能性を引き出して下さった木下先生に対するご恩を、改めて感ずるのです。 この辺で、もう一度、おさな子の泣く姿に眼を向けてみましょう。身体の障碍の治療を受けるため僕が時々入院する信濃医療福祉センターの病室は、「母子棟」にあるんですよ。この母子棟は障碍児がお母さん、お父さん等の家族と一緒に入院し、障碍の治療と生活訓練を受ける療育の拠点なのです。 さて、母子棟に入院する子供には、就学前の乳幼児が多いのが特徴、といえるでしょう。だものですから、この病棟にはしばしば、子供の泣き声が聞かれるのです。 その中で、心底かわいそうだなと思うのは、突如、火が点いたように泣き出して、長時間ずっと泣き続けている子供、そしてその子を宥めるお母さんです。つまり、泣く子供本人はもとより、その子供につきあうお母さんにとってもこれは、一種の嵐、といえるのではないでしょうか。こうなるともう、時の過ぎ行くのを待つしかありません。 ところで、「待つ」とはもともと、「祈る」という言葉と同義語でした。「待つ」に助動詞の「る」が着いて「まつる」となり、神や天のはからいを「祈る」意味を含むようになったようです。つまりお日様やお月様、風、雨がもたらしてくれる恵み、そして安らぎを「待つ」事が祈りであり、おまつりだったわけですね。 泣きやまぬ子を抱っこして、優しく揺すりながら静かになるのをひたすら待つお母さんは、とてもつらそうです。でも、僕はそこに厳粛な何かを感ずる。その子のためにいつまでも待ち、祈って上げられるのは、その子のお母さん、お父さんしかいないのでしょう。
2012.08.17
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電動車椅子ぶらり通信 百七十一話2011年8月・放送 地獄の話 あれは平成元年の秋でした。福島県にいる親戚の婚礼への出席を好い機会に、ちちははと三人で東北を旅したのです。その際の第一印象は、非常に鮮烈でした。それを、一言で表すと、「豊かさ」であります。 中でも、仙台平野に拡がる水田の美しさは、圧倒的でした。訪れたのが十月半ばでしたから、殆どの田んぼでは稲刈りが済んでいましたね。稲が刈り穫られたその跡もまだ新しい眺めは、まるで、平泉中尊寺の金色堂が放つ眩い光明に、照されているかのようでした。 それが、この度の東日本大震災における大津波に、呑み込まれてしまった訳です。この時のもようを、三月十一日その日の生中継で見た際に感じたショックは、この先いつまでも忘れられない事と思います。 「神も佛もあるものか」とは、残酷な目に遭った時、絶望の極みから発する嘆きの言葉として、ずいぶん昔から語られてきた一つの慣用句です。音声や字面で聞いたり、読んだりしているだけのうちは、この言葉の重みがいまひとつ、胸に響かなかった。それが、大地震と大津波に荒された東北地方の風景や、沢山の技術者が昼夜兼行、文字通り命懸けで故障した機械類の修復に当っている福島第一原発の模様を新聞やテレビニュースで見聞きするにつけ、「神も佛もあるものか」という嘆きを叫ばずにはいられない感情が熱い塊りとなって胸の底から突き上げるのを、確かに感ずるのです。 もし、地底深くに「地獄」と呼ばれる恐ろしい世界があるなら、恐らくこのような光景が拡がっているに違いありません。おりから今日は、日本の歴史が始まって以来、最も、つらく苦しい先の大戦が終結した日であり、なおかつ祖先の苦難を偲ぶお盆の十五日であります。つきましては、凄じく惨たらしい状況にもめげず、こんにちの豊かさに結びつく生活の基礎を築いた祖先の悪戦苦闘を偲びながら、地獄について、僕が感ずるあれこれをお話しさせて戴きたいと思います。 僕が「地獄」を知識のうえで最初に知ったのは、小学四年生の時でしたね。そのころ、毎月とってもらっていた「小学4年生」という雑誌の七月号だった、と思います。付録に「地獄の世界」という別冊がついていました。何年か経って、もう要らねえなと焚き捨てた事が些か悔まれるほど、充実した内容だった事は、今でも覚えています。 野辺の送りの葬列から始まって、脱衣の婆が待つ三途の川、閻魔大王様のお裁き、賽の河原、針の山などなど、地獄の全体像が事細かに絵解きされていましたっけ。おそらく、これは、平安時代の坊さんである源信が書いた「往生要集」という本を元に、民間伝承の地獄話でとくに怖そうな要素も付け加えて、十歳前後の子供なら心底、震え戦くぐあいにまとめられたもの、と思われます。 たしかに、僕も、それを読んだ瞬間は怖い!と思ったものです。嘘をついた者は火で炙って熱い鋏で舌が抜かれる。盗みをはたらいた者は、重たい石を背負わされ、火がボウボウ燃え盛る上に渡された綱を綱渡りさせられる。また、無暗に虫や魚を殺したものは、全身が鉄棒で串刺しにされ、ジリジリと火で焼かれる。こんな地獄の刑罰が色つきの絵で描かれるのを見ると、ギクリとさせられました。 でも次の瞬間、待てよ、と思ったものです。こんな苦しみもずっと続けば絶対、神経が馴れて苦しくなくなるはずだよ。地獄には時間の変化がないんだから、火に焼かれて熱いと感ずる神経も新陳代謝する訳がない。となると、「あっちっち」とビックリした瞬間に、なんにも感じなくなっちゃう筈。別に、ビクビクする事なんかねぇなぁ。こんなふうに思いました。 しかし、かくもヒネた考え方で高を括っていたちょうど同じ頃、その地獄の問題で一遍に、ステーンと足元をすくわれる体験をしました。空想だけで安心しているその時の僕に、この生意気小僧め! とばかり拳骨を喰らわしたのは、芥川龍之介だったのです。 その頃、学校には「ラジオ図書館」という録音テープの全集がありました。これは、童話の名作をラジオドラマ風に編集したシリーズで、読書の授業では時間の一部を割いて、「ラジオ図書館」の作品を一編ずつ、聞かせて下さったのです。その中に、芥川の「杜子春」があった。 この「杜子春」を聞いた後、余りのショックで暫く、全身の震えが治りませんでした。それはどういう事か、まずは、物語の粗筋をざっと辿ってみましょう。 中国は唐の時代の事。洛陽という都の西はずれに、杜子春という男がぼんやり佇んでいた。或る夕暮れの事、彼の許へ一人の老人が近づいてきて、今、お前の影帽子が差している地面を掘ってご覧、という。その通り掘ってみれば、何とまあ、黄金が沢山出てきた。たちまち、杜子春は大金持ちになったが、四六時中遊び暮らしていたので、またまた文無しの貧乏になった。すると、例の老人が再び現れ、また黄金のありかを教えてくれるが、無駄遣いの激しい杜子春の事。結果はまえと同じで貧乏男に戻る。 同じ事がもう一度続くと、杜子春も贅沢暮らしに空しさを感じ、いっそ仙人になりたいから貴方の弟子にして下さい、と老人に頼む。それならばという事で老人は、峨眉山という険しい岩山へ、杜子春をつれて行く。そこで、杜子春は老人から或る厳しい戒めが、言い渡される。というのも、俺はこれから西王母という神様のように尊い方のご機嫌を伺うため出掛けてくる。その間に、どんな事があっても絶対に声を出してはならない、という厳しい言い付けであった。果たせるかな、老人がいなくなるとすぐ、虎や蛇、また、鎧を身にまとって武器を手にした大男の仙人が現れ、杜子春に襲い掛かる。頑として何も答えない杜子春は、ついに命を奪われ、地獄に落とされる。 地獄の裁きでも、全く口を割らない杜子春に、業を煮やした閻魔大王は、杜子春のちちははを裁きの場に引き立てて来る。ちちははは、痩せこけた馬に生れ変っていて、閻魔に命ぜられた鬼どもは、鞭でこの二頭の馬を、打ちのめす。その度に馬の革や肉は砕け落ち、目からは血の涙が流れ出す。だが、苦しみに喘ぎ、息が絶えだえになっても、二頭の馬は優しい眼で、杜子春を見つめる。 それを見た杜子春は絶え切れなくなって、倒れた馬の首に抱きついて、はらはらと涙を落としながら、「お母さん」 叫ぶ。その瞬間、杜子春は、老人にかけられた夢から醒めて、まともに働いて暮らす事を老人に誓う。 以上大体こんなストーリーですが、物語の中で一つ、どうにも解せない箇所が胸に残りました。これは解決の緒すら見えない問題で、この先ずっと僕を悩ませ続けます。というのも、杜子春の優しいお父さん、お母さんはなぜ、死んでから地獄に落ち、痩せた馬に生れ変ったのか、という事でした。これについて、物語のどこにもその訳が書かれてはいないし、おそらく、誰に聞いてもきちんと答えてくれる人はいないだろう、と思ったものです。 ちなみに、このお盆に唱える盂蘭盆経には、こんな事が説かれています。 お釈迦さんに仕える十大弟子の一人、目連は、ある時、自らの神通力で自分の母親が、餓鬼道という地獄に落ちている事を知りました。この餓鬼道では食べるものが凡て、燃え盛る炭に変わり、喉を通らないのです。これを嘆き悲しんだ目連は、母を救って助けるにはどうしたらよいのでしょう、と必死でお釈迦さんに尋ねるのです。それについてお釈迦さんは、大勢のお坊さんたちに協力を仰いで法要していただく事、また沢山の食べ物を、お供えに進ぜる事など、教えを授けます。 ともかく、この盂蘭盆経にも、母親は地獄に落ちていると書かれていて、一体、何故だという疑問は深まるばかりでした。そんな中で、ふと考えるヒントを与えてくれたのが、「父母恩重経」というお経です。 これは、「父母」の「恩」は「重い」「経」と書くとおり、子供がその両親から受ける恩の重さを説いた経典で、内容は非常に具体的であります。その父母の恩というものにつき、このお経では数えて十の要点が挙げられていて、第八番目には「為造悪業の恩」とある。文字で書けば「為に造る悪い業の恩」と表し、わが子のためにはどんな罪も犯す、という意味のようですね。 これについて、大凡そのところをまとめると、次のようになるでしょう。子育てに夢中の親は、まさに子育てその事のために、やむなく何等かの罪を働き、ひどく傷ついたり、汚れたりした末に、地獄に落ちてしまう、という事であります。 祖先崇拝は日本文化の特徴、とよく言われますけれども、問題はどうやら非常に切実で、懺悔と感謝の気持ちに衝き動かされた結果、どうしても代々の御先祖様をお祀りせずにはいられなくなった、というのが実情ではないでしょうか。つまり、お盆は、今のじぶんが父母につながる先祖代々の命のバトンで生まれた事。そして、その一人ひとりの知られざる悪業を糧に、今の生き甲斐を勝ち得た事。その事にひたすら感謝するお祭りではないか、という事です。御先祖の皆様よ、わたくしのためによくぞ、地獄に落ちて下さいました。わたくしも誰かの幸せのため、地獄へ落ちる覚悟で生きて行きます。 僕はこの感謝と誓いを、今日八月十五日の祈りとしたいものであります。
2012.08.15
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電動車椅子ぶらり通信 百七十話2011年6月・放送 地面を踏みしめて 近頃、開業される町なかのクリニックには、その幾軒かで、珍しいガラスケースが玄関の上がり端に備え付けられてあります。なかを覗き込めば、お揃いのスリッパが、行儀よく並んでいる。そして、それらのスリッパには、青くて透明な光があてられています。 この光は紫外線ライトが放つ光線で、クリニックの上履きに使われたスリッパの殺菌、つまり衛生管理に利用されている訳ですね。世界広しといえども、この手の設備が重宝されているのは、まず日本だけでしょう。何故なら、玄関で靴を脱ぎ、基本的には素足で家の床に上がる、という生活習慣は、日本文化の本質だからです。 玄関で靴を脱ぎ、足袋や靴下を履いていても心持ちの上では素足同然で、床に上がる。この慣わしが明らかに示している事は、履き物に付着した外の泥や塵を家の中へは進入させずに、床の上は出来る限り清潔な状態を保たねばならない、という綺麗好きの感覚です。いや、更に踏み込んで、建物の内側を神聖な場所と見做す日本人独特の心、としてもよさそうですね。 これはどうやら、単に、生活の行動様式という事だけでお終いの話ではないようですよ。大地震や竜巻、津波などの風水害が起きた時、外国では非常に高い確率で例えばコレラ、赤痢などの疫病が発生し、蔓延します。ところが、日本ではそういう事が殆ど起こりません。この訳は、いうまでもなく、多くの場合において避難先の施設ですら、<靴を脱いで上がる>事が当たり前の習慣として日本人の身に染みついている事により、それぞれの衛生が質の高い状態で保たれるからだそうです。 事ほど左様に、床の上を聖域と捉える日本人独特の感受性は、じつに豊かな芸能や娯楽を生み、さまざまな総合芸術を花開かせました。お能、茶の湯、浄瑠璃、講釈にはじまる寄席の話芸、更には相撲などなど、これらはすべて床そのものを、穢すべからざる舞台へと高めた文化です。 この精神が今もなお脈々と受け継がれ、実際に生きている、という事をつい最近、僕は改めて知りました。それは、伊那市民会館が閉館するのを記念して、ケーブルテレビのICT1チャンネルが制作したリポート番組の中の一シーンです。市民会館を訪ねた俳優の羽場裕一さんは、高校の演劇部で活動していた頃のことや、劇団「四季」によるシェイクスピアの「ヴェニスの商人」を見た思い出を語りながら舞台へ近づいた時、やおら、靴を脱ぎました。「われわれ舞台人は皆、こうするんですよ」といって舞台の板をそっと撫でながら、ステージに素足で上がるその仕草は如何にも恭しく、美しいものでした。 余談ながら、この「ヴェニスの商人」が伊那市民会館で上演された時、なぜかぼくは、リハーサルから見せて戴いています。やぁ、とっても面白かった。これについて、機会あらばまた、お話ししましょう。 さて、さまざまな舞台に象徴化されるほど大切にされた建物の床。言い換えれば、文字通り、日本人の人間性を足下から支えてきた床というものは、どのような現実を背景に作られ、発展してきたのか。僕には今ひとつ、ピンと来なかった。それが、この度の東日本大震災における惨状が日々、報道されるのを見聞きするにつけ、深く頷かされるものを感じたものです。 それについての考えを述べるのに先立って、ほんの少し、回り道させて下さい。 中学二年の時でした。社会科で歴史を学ぶ授業でのことです。その日はどういう訳か、教科担任の先生がお休みでした。補充で見えたのが、奥原という新任の先生です。さて、授業が始まった時、奥原先生は教科書を閉じるように指示されました。そして、「今日はまず、教科書の表紙に載せられている絵を、見つめてみましょう」 と言われた。普段は、さほど気にも留めなかったその絵に、よくよく眼を凝らせば、大勢の人たちが笠をかむり、身を屈め、揃って何かをしている。そして、画面の右上には、烏帽子をかむって扇や太鼓をもち、飛び跳ねる男たちが描かれています。 さて、この絵につき、奥原先生は、こんなお話をして下さいました。これは室町時代に描かれた「月次風俗図屏風」の中の一枚で、「田植田楽図」という作品である事。つまり、画面の中で身を屈めている大勢の人々は早乙女と呼ばれる娘さんたちで、初夏ののどかな日に田植をしているのだそうです。又、扇や太鼓をもち、飛び跳ねる男たちは、田楽を奏でて舞い踊る一座で、米作りの始まりを喜び、秋の実りを祈りながら、田植仕事が捗るお囃しをしている、ということでした。そして、この絵がなぜ教科書の表紙に掲載されているのか、その訳を次のようにお話しして下さったのです。「日本は、米作りをとおして、国を築き上げてきました。田んぼを拓く開墾技術、そして時の政権による農地政策の遷り変わり。これが、日本の歴史の柱と言っていいでしょう。私が調べた限り、皆さんが使っている歴史教科書の中の三割強は、米作りと農地政策に関わる記述です。誰がいつ天下を取ったか、という話に較べると、米作りや税の取り立てをめぐる勉強は地味で退屈かもしれない。でも、どうか、強い関心をもって勉強して下さい」 奥原先生が語ったこの言葉は、忘れられませんでした。学校を卒業してからも折に触れて「日本歴史」関連の本をあれこれ繙くと、奥原先生がおっしゃった通り、奈良時代から昭和三十年代後半まで、米作りのすさまじい格闘が絶え間なく続いていた、ということがよく判ります。原生林の開墾と沼地の干拓、また河川の治水工事など、日本人は二千有余年、これらの仕事に明け暮れていた訳ですね。古来、日本人の多くは農民でしたから、日本列島に生まれ育った祖先たちの殆どは、土まみれ、泥まみれの日々を延々と続けてきた、と見てよさそうです。 つまり、お百姓さんは田畑の野良仕事に加えて山仕事、川仕事、道普請、また今でいう基盤整備の仕事もつねに迫られていました。となると、まずは大地に踏ん張って立つ足そのものが、肝心かなめの支えです。日本の家に清潔な床があるのは、仕事で疲れた足の体力的な回復と併せて、恐らく、何かしら霊的な力の甦り、という事も願っての事ではないか。僕はそのように感じているのです。 僕がそう感ずるヒントは、「踏む」という言葉の意味ですね。ペダルを踏む、舞台を踏む、また、お相撲さんが四股を踏む、という時の「踏む」。この「踏む」という言葉には、田畑を鋤で起こすとか、苗代を作る、玄米を精米する、などといった意味も含まれているようですよ。お米作りでは大切な工程を「踏む」という訳で、もともとは厳かな行為だった事が判ります。 ちなみに、能やお神楽では、最初の演目に必ず、式三番叟が舞われます。但し、正式には、式三番叟を踏むと申しまして、これには悪霊鎮めと、地固めの祈りが込められているのだそうです。もう一つ付け加えると、この式三番叟に登場する三番叟は、農民の魂を姿に顕した精霊で、日本の芸能ではいてもらわないと困る大スターだ、といえるでしょう。 さて、三番叟が踏むのは勿論、田んぼを象徴化した舞台なのですが、同時にそれは宅地であり、川とか堤などの土手であり、道であり、日本の国土そのものでもあります。この度の東日本大震災における惨状がどうも他人事には思えず、心にヒリヒリした痛みを感ずるのは、胸の奥底に潜んでいるデリケートな何かが刺激されるからなのでしょう。五百年、千年と長い歳月をかけて、日本人が踏み興し、踏み固めた日本の国土の少なからざる面積を、あっという間に傷めつけ、今も尚さまざまな立場、仕事を通じて国土を耕している日本人の命を多くうばった東日本大震災。思えば、日本の歴史に培われた心の中枢神経に鋭く、突き刺さる出来事だった、といえるのかも知れません。 ところで、今年四月の事です。前から一度是非、見物したいと思っていたお祭りを拝見する事が出来ました。そのお祭りとは、伊那市山寺の八幡社、白山社合殿に毎年奉納される「やきもち踊り」であります。朝から穏やかなお天気を天の恵みと捉え、意を決して、出掛けたのでした。お宮の傍まで参りますと、ロシナンテに乗った僕を、お祭りの役員と思われる方が、どうぞ、こちらへお出でなさい、といって境内が広々と見渡せる席へご案内下さいました。おかげで、お祭りの次第をとくと拝見する事が出来た訳です。大変ありがたいことでした。 そこで僕が拝見したお祭りの圧巻は、何といっても、舞い手達が独特の華麗な舞いを舞う輪踊りです。白足袋の足が宙にひらりと舞い上がって、また緋毛氈の上にぴたりと舞い降りる。その足の動きには、軽やかさと切れがあって、優雅としかいいようがありません。とりわけ、地面に足のうらが吸いつく具合に着地する際の踏ん張りは、見るも鮮やかで、頼もしい。恐らくは、この動きにも、地固めの心が秘められているのではないか。僕には、そんなふうに思われました。 足が不自由な僕も、心持ちの上では、なるたけ高く跳躍できるよう、夢と志は常に高く掲げねばならない。そして、たとえ挫折しても、ぐっと地面を踏み締めて立ち、持ち堪える事の出来る足腰と、心とを鍛えなくてはならない。そんな事を強く感じたものです。
2012.08.14
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電動車椅子ぶらり通信 百六十九話2011年4月・放送 祈りに立ち直る 生まれたばかりの新生児は、全身に血潮を滾らせて、力の限りに産声を挙げますね。時は今とばかり、つぼみを開かせるこの時季の花ばなを見ていると将しく、無我夢中で生命力を発散させながら、この世の仲間入りを全世界に訴える新生児の産声が、聞こえてくるかのようです。 これとよく似たエネルギーは、春の奈良にも満ち溢れております。それというのも東大寺、薬師寺、法隆寺などの寺々では「修二會」という供養が盛大に営まれるからです。新たな季節が巡ってきた春を境目として、世の中の秩序もいよいよ清く改まり、安らかに落ち着く事を冀う祈り。それが修二會、といえるでしょう。 この修二會で最も大切な行は「悔過行」と呼ばれるものであります。「過ち」を「悔いる」「行」と書いて、「悔過行」。文字通り、過去におかした罪をお堂のご本尊に告白し、悔い改めて心新たにやり直すことを誓う、という行なのですが、それは単に自分の前非を悔いる程度の簡単なものではないようですよ。有史以来、世の中で起きた悪事災難の責めは、直接間接の別を問わずすべて自分にあり、全身を地に投げ打って猛反省する。そういう意味合いも含んでいるのだそうです。 その際、東大寺なら二月堂のご本尊、十一面観世音菩薩。薬師寺なら薬師如来の名号を称えるのですが、この行に打ち込むお坊さん達の心持ちは必死ですから、とにもかくにも声の限りに叫ぶのです。命懸けで呼び掛ける。そんな感じですね。それこそ全身全霊で称える訳ですから、喘ぎあえぎ声を張り挙げるうち、ご本尊の名号をぜんぶ称える余裕がなくなって参ります。二月堂なら「南無観自在菩薩」と称えるところ、「ナムカーン!」 と。また薬師寺では「南無薬師佛」と称えるところ、「ナームヤーン!」 とフレーズが短くなって、声が大きくなり、空気全体がエキサイトする訳ですね。この熱い雰囲気を、皆様方にも触れて戴きたいと思います。薬師悔過行の一部を録音でお聞き下さい。 文芸評論家の亀井勝一郎は、「大和古寺風物誌」という随筆の中でこの薬師悔過行の声につき、「青春の絶叫である」と述べています。まさしく力漲って雄々しい声ですね。 それにつけても、有史以来、世の中で起きた悪事災難の責めは、直接間接の別を問わずすべて自分にあり、全身を地に投げ打って猛反省する。--このほど発生した東日本大震災の凄じい被害と、それにともなう福島第一原発の深刻な事故をニュースで追うにつけ、「悔過行」の厳しい心に触れる事が出来たような気がしました。同じ日本の国土にいながら、苛烈な現実と必死で闘う人々を尻目に、のほほんと日々過ごしている事の申し訳なさを痛感させられます。 加えて自衛隊、消防、警察や、自治体職員の方々など、被災現場で救助活動に当たっておられる皆さんの献身的な姿には、感動と共に、わが身の無力をつくづくと感じました。そのなかで、僕の胸には、一人の若い女性の名前が刻み込まれたものです。その名前は、遠藤未希さん。 大地震が起きた三月十一日、遠藤さんは、宮城県南三陸町の町危機管理課職員として、防災対策庁舎の三階放送室から、防災無線放送で町民に、「六メートル以上の津波があります。はやく逃げて下さい!」 といって繰り返し、くりかえし避難を訴えつづけていたのだとか。実際は十メートルを越す津波が押し寄せ、防災対策庁舎は鉄骨の骨組だけを残し、全部壊され、流されてしまい、遠藤さんは行方不明という事です。つまり、防災無線放送がプッツリ切れた瞬間こそ、津波が庁舎を襲った時で、彼女はわが身を省みず必死に避難を呼び掛けた訳ですね。唯ならぬその呼び掛けを聞いて、高台に逃げた人びとも少なくないようです。彼女は当時二十四歳で、結婚を間近に控えていたのだとか。その事も思い合わせると尚更、胸が痛みます。 「義務感」「使命感」「忠誠心」などなど、その立派な務めを果たした心の裏付けについては、こうしていくつかの言葉が思い浮かびますが、遠藤さんの行いはあまりに気高く、どれも、その言葉一つを以て言い尽くす事はできません。 ともかく、遠藤未希という名前は、尊敬の念新たにいつまでも、覚えていたいものです。 ところで、東日本大震災が発生したのは、平成二十三年三月十一日でした。ちょうど十年前の平成十三年九月十一日には、アメリカで同時多発テロが起き、これまた多くの人々が犠牲となった事は今なお、記憶に新しいところです。 この時、僕は、県が実施する身障者海外研修派遣事業の一員に加わり、サンフランシスコおよびロスアンゼルスを旅していました。そのさなか、危機に臨むアメリカの国情も、つぶさに見聞きできた訳です。 とりわけ印象的だったのは、同時多発テロの犠牲者を同胞として悼むアメリカ国民の祈りの深さでした。事件が起きたその翌日からしばらくの期間、半旗の下、決まった時間に黙祷を捧げていました。死者の無念をわが胸に刻み、危機からの立ち直りを誓う--涙で目を赤らめる人もいる彼らの祈りには、人間らしさの原型を見る思いがしたものです。 ことのついでに、その時学んだアメリカの寄附文化についても、少しお話ししましょう。 アメリカには三つの寄付がある、というんですね。即ち、一つ目はお金。資金提供です。僕達が訪ねたのは皆、民間の福祉施設ですが、驚いた事にそれぞれの運営は、企業および個人の寄付だけで賄われていました。福祉事業は全般にわたって行政が資金面の面倒をみる日本では、まず考えられない事であります。 二つ目の寄付は、血液、即ち献血だそうです。とくに戦争や災害が起きた時には、血液センターに献血者が訪ね、長蛇の列ができるのだそうです。ちなみに、同時多発テロが起きた一年後の九月十一日には、NHKの衛星第一で、この日のようすを記録したドキュメンタリーが、放送されました。 その中で印象的だったのは、ほこりまみれの牧師さんが戸惑いを隠せぬ表情で画面に現われ、こう呟いた事です。「私は今、献血してきたところだ。私に出来る事は今、他に何もない」 この言葉を聞いた時、何か事が起きた際には一先ず献血をする、というのは本当に、アメリカ人の習慣になっている、ということを改めて知りました。 さて、三つ目の寄附は、「時間の提供」という事でした。自分の余暇時間を社会の為に使う。つまり、ボランティア活動ですね。聞くところによると、教会のミサに赴き、その足で福祉施設や老人世帯、障害者の家々をボランティアで訪ねる、という事が、多くのアメリカ人にみられる休日の日課、となっているようですし、彼らは、また老後の生活においても、ボランティア活動をしっかり計画に組み込んでいるのだそうです。 といっても、日本とアメリカとでは租税体系も、地域社会の成り立ちも、裏付けとなる伝統文化が異なるので、一概に善し悪しで比べられる話ではありません。その点をお含み措き戴きたいと思います。 さて、話を祈りの事に戻しましょう。現在では、死者を悼む様式として定着した黙祷。この黙祷は、第一次大戦終結後の一周年に、イギリス国王ジョージ五世が戦没者慰霊のため、国民に呼びかけて行ったのが始まり、と聞きます。 二年後の大正十年、当時皇太子であらせられた昭和天皇はイギリス留学の折、英軍戦没者記念碑に献花され、深々と拝礼されました。そのお姿の美しさにイギリス国民はいたく、感動したという事です。 さて、関東大震災の一年後、東宮の裕仁親王、即ちのちの昭和天皇は、イギリスで覚えられた黙祷を犠牲者の慰霊に捧げられました。以後、黙祷は日本でも神社の祭礼儀式などに採り入れられ、慣習化して行ったようです。日本人が幾多の国難を乗り越えてきたうらには、死者を思い、心を胸の暗い底に沈ませる祈りの文化があったからではないでしょうか。死者の冥福を祈る事によって、自分の心を清め、再び立ち上がり死者の無念を果たす事を誓って、各自持ち場で精一杯励む。そういう事だと思います。 奈良の寺々で営まれる修二會では「大導師作法」といって、歴代天皇や八百万の神々と並び、内閣総理大臣以下、現職閣僚の名前も読み上げられて、国家安泰の祈りが奉ぜられるのだそうです。今は、国運を背負う人々の労苦を思いつつ、日本再興の祈りを僕も深めたいと思います。
2012.08.13
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電動車椅子ぶらり通信 百六十八話2011年2月・放送 ことばは母がつくる 今日から数えてちょうど一週間前の二月十四日は、作家山本周五郎の命日です。周五郎は、人間なら誰もが独りで抱きしめる悲しみ、というものをめぐって非常に鋭い洞察と、デッサン力とをもつ偉大な表現者でした。亡くなって五十年近く経つ今でもなお、ファンが多い所以でありましょう。 さて、今から十年前の平成十三年、周五郎原作の或る小説が映画になりました。題名は「かあちゃん」といいます。主演は岸恵子。メガフォンを執ったのは市川崑監督でした。粗筋は凡そ、次の通りです。 --江戸の貧乏長屋に、母おかつとその子供五人が暮らしていた。おかつが手内職で、ガッチリ小銭を貯め込んでいる、という事を小耳に挟んだ泥棒の勇吉は或る晩、おかつの家へ盗みに入る。ところが、おかつに見つかり、怯む事のない彼女からそれが何のためのお金か打ち明けられ、家族として一緒に暮らさないか、と勧められる。さらに、おかつの長男で大工の市太からは仕事が紹介されて、真面目に働き始める。そんな或る日のこと、貧しさのために、ほんの出来心からつい奉公先の帳場の小銭をくすね取った罪で牢に入れられていた源さんが、刑期を終えてもどってきた。おかつは、コツコツ貯めた大枚のお金をすべて源さんに贈り、新しい仕事の元手に使っておくれ、といって励ます-- 以上、ざっと、こんな感じですが、ぼくの胸にこの映画が刻み込まれた一つの理由は、次のシーンがじつに美しく、描かれていたためでした。 おかつの六人家族が晩ご飯を終え、後片付けを済ませた後の事です。おかつは、小さな灯りがぽつんと点る部屋に子供達を集めます。そして、彼女はその日に得た自分のお金、大工職人の市太が稼いだ賃金、また末っ子の七之助が鉄屑を拾い集めてもらったお金を全部、それぞれの金額ごと、家族に報告し、「今日もこんなに集まった。みんな、よく頑張ってくれたね。偉いよ、お前たちは。ありがとう」そういってお金の包みを押し頂き、箱にしまいます。 この時の小銭を扱う手つきのうやうやしさ、子供たち一人ひとりを見つめる瞳の優しさ、そして、静かな微笑みから湧き上がる表情の輝きに、おかつは、この映画のなかで最高に美しく照り映えていたのは忘れられません。 人助けを優先させて暮らす、という通常では考えられないこの物語の舞台設定に、微塵の嘘も、無理も感じられないのはきっと、おかつが自分の信念と覚悟が、その表情や行いに現われ、子供達を圧倒し、おかつの後に尾いて行かせた……そういう事をしかと窺わせる、人物描写のためでしょうね。ともかく、母親らしい母親像を見る思いが致しました。 ところで、僕が学んだ県立諏訪養護学校の初代校長は、瀧澤石先生でした。今回のお話のタイトルに掲げた熟語、「ことばは母がつくる」とは、瀧澤先生が色紙に書かれた言葉です。この色紙は、養護学校の言語訓練教室の壁に掛けられてありました。 「ことばは母がつくる」というこの言葉を最初に知った時、僕はそれを額面通りに受け取って、ごく単純に解釈していたものです。つまり、子供が生まれて最初に接するのは母親だから、子供は、母親から口写しで言葉を覚えて行くのだろうという意味。そのように思い込んでいたのでした。 しかし、人が言葉をつくる、という事はただ単語や語句を覚えたりする事だけの話ではなさそうです。 それは、自分で自分の価値観や理想を地道に探し求め、一定の長い時間と努力の果てに、思惑と現実とのズレを体験する。このとき、ふと、気落ちとか嘆き、戸惑いなどとともに「アー」とか「ウー」という溜め息の声を漏らす。言葉が生まれる大切な節目はまさしく、そこにあるのでしょう。つまり、思惑と現実とのズレを体験した時、その体験もまた或るチャンスだな、と前向きに受け止められる発想があるかないかで、「アー」という音声でしかない溜め息が、自分の言葉として芽生えて行くかどうかが決まるのではないか。僕には、そんなふうに感じられて参りました。 僕が思い当たるところで、この事を確信させてくれる人物は、二人いますね。 一人目は、三年前に九十三歳で亡くなったアメリカの絵本作家、ターシャ・テューダーです。好きなガーデニングに明け暮れた幸せおばあちゃん、というイメージが濃い人ですが、実は、大変な努力家だったみたいですね。 初めは、原稿をどの出版社に持ち込んでも、それを本にしてくれる会社はなかったそうです。それが一旦、或る出版社から絵本が出されると、瞬く間にベストセラーを記録した。秘訣はどうやら、ターシャのお母さんの彼女に対するよきアドバイスにあったようですよ。お母さんは肖像画家として知られた人らしく、お絵描きをはじめる幼い頃のターシャに、次の事を一つ、教えたのだそうです。 「写真を見て描いてはだめ。じぶんの眼を 鍛えるの」 おかげで、動きの早い子供の姿も描く事が出来た。しっかり見て瞼に焼きつける。この訓練が役に立ったわ。と、ターシャは回想しています。ターシャの絵本は恐らく、絵が大変生きいきしていたために、一般読者の心を強く捉えたのでしょう。 といっても、彼女はまず生計を立てる事を目的に、絵本を書いたのではありません。それよりも先に、自分の子供たちをわくわく喜ばせる工夫として、絵の技術を活用したのでした。復活祭、感謝祭、クリスマス、また、それぞれの子供の誕生日には、自分で卵に絵つけしたり、古布を活かしてマリオネットを作って人形劇を演じたりして、子供達をその度にうんとワクワクさせたようですね。 「子供時代は、魔法の時間でした」とは、ターシャのお孫さんの言葉ですが、これはまさしく、ターシャがアイディアをフル回転させて、家族にどんな物事も前向きに受け止めるよう努力し続けた事。そのことを象徴的に物語っていると思います。 さて、あるがままの現実と積極的に向かい合い、普通なら困り果てて頭を抱え込む出来事にも喜びを見出して、自分の言葉をつむぎ出す。そんな素晴らしい人物の二人目として、僕が思い浮べるのは、幕末の京都で暮らしていた、尼さんの大田垣蓮月です。 蓮月についてはずっと以前、この放送でもお話しさせて戴きましたが、まずはもう一度、ここでおさらいさせて下さい。 もとは伊賀上野藩の城代家老、藤堂良聖の息女という恵まれた身の上でしたが、他家へ養女に出され、結婚後夫や子供に死なれて出家剃髪、という気の毒な境遇に陥ります。 ただ一つ幸いだった事は、和歌を詠む才能に優れていた事と、器を焼く技術、陶芸を覚えた事です。蓮月は自分で焼いた急須や茶碗に和歌を刻んだところ、これが評判を呼んで、茶人や、裕福な商人たちから高値で求められたようですね。蓮月は、そのお金で、鴨川に橋を架けたり、恵まれない人々のために、お粥の炊き出しなどをしました。 その蓮月が詠んだ次の和歌一首は、物事をすべて楽天的に捉える彼女の懐のふかさが、如実に顕れています。 宿かさぬ人のつらさを情けにて おぼろ月夜の花の下ぶし 桜の便りに誘われてついつい遠出しちゃったわ。けど宿屋さんはどのお店も、尼の私を◎見て貧乏と思い込み、泊めてくれやしない。でも、それがまたいいの。だって、朧月夜にうっとり映えるしとやかな花が、心行くまで眺められるんだもの。桜の木の根元で眠るなんて、とっても素敵ね。 ああ困ったなぁ、さて、どうしたものか… 僕自身、そんな状況に立ち至った時、蓮月が詠んだ今し方の歌を思い起こして、唐澤浩風の現代詩に読み換えて見ると、鬱々している目の前に、ふと一筋の光が射して来るのを感じます。 しかし、どんな物事であろうと、「それはそれで又いいな」と感じられる肯定的な気質は、やはり母が僕に育んでくれたものでした。 あれは僕が四、五歳の頃だったと思います。寒い冬の日でした。僕は、家のそばの牧草畑で雪遊びをしている近所の友達を、窓ガラス越しからぼんやり見ていたのでしょう。 その時、母から僕は「ちょっと、こっちへ来てご覧」と、声を掛けられました。見るとびっくり、夏場には蚊帳を吊る鴨居の鈎に、やっこ凧の糸が掛けられてある。そして、「さっ、この糸を引っ張ってご覧」 と、母に握らされた糸を引けば、凧が鴨居の上に揚がって行きました。また糸を緩めると、凧はちょっと下がり、引けば再び揚がる。こんな案配で、とても楽しくなったものです。「ほうら、こうするとおうちの中でも凧揚げが出来る。この工夫を考えた母さんは偉いでしょう? でも、お前だっていろいろと良い知恵が巡らせられる筈。友達と一緒に遊べない時だって大丈夫よ」 こんな事を母から言われたのは夢か、うつつか、はっきり思い出せません。でも、凧に施した母の工夫が、健常者に較べれば限られた条件の下、どんな時間も主体的に生きる意欲を引き出してくれたのは事実です。子供にとっては、母親の一挙手一投足がそれ自体、心に響く言葉なのかも知れません。
2012.08.11
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電動車椅子ぶらり通信 百六十六話2010年10月・放送 音で綴る思い出アルバム 山鳩の声聞く時は遠々し 父の御霊をありとし思はむ これは、現在の武蔵野美術大学の前身である帝国美術学校。この美術学校の創立と運営に深く関与した金原省吾の歌です。金原省吾は、東洋絵画の美学を研究した学者ですが、一方、歌人としても、島木赤彦門下で研鑚を積みました。省吾は、伊那にも所縁ある人物なので、またの機会に触れましょう。 ところで、奈良時代、東大寺の大佛造立の為、諸国行脚で民衆の協力を求めた坊さんに、行基という人がいます。この行基が詠んだ歌、とされるものに、こんな和歌があるんですよ。鎌倉時代に編まれた勅選集である「玉葉和歌集」にも収められているので、次の歌は割合知られていると思われます。 山鳩のほろほろと鳴く声聞けば 父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ ここに、さきほど紹介した金原省吾の歌を重ね合わせると、いわゆる<本歌取>の性格が見えて参ります。この<本歌取>とは過去に詠まれた和歌の或る名作から調べの一部を引用し、新たな語句を織り込んで、オリジナルな作品に整える、というものです。尤も、<本歌取>には非常に綿密で、厳格な決め事があるみたいですね。それ故、省吾が詠んだ歌を、行基が遺した和歌の本歌取とするのにはちょっと、無理があるかも知れません。 ま、それはそれとして、行基、省吾いずれの歌にも、親を慕う痛ましいまでの思いが、不意を突くように噴き出しております。この二つの歌を元歌に、今回は僕も<本歌取>をやってみましょう。但し、僕には和歌を物する才能が無いので、拙い文章にいろいろな音を織り込みつつ、試みてみたいと思います。なお、主題がかぶらないようにする、という事が<本歌取>における一番の鉄則なので、あれやこれや、取り留めもなく追想させて下さい。 では、始めます。 今、聞こえてきたのは、キジバトの声です。行基や省吾が歌に詠んだ「山鳩の声」とは、この声なのです。記憶の底を辿って行くと、生まれて最初に僕が耳にしたのは、ちちははの声と並んで、このキジバトの声だった。そんな気がするんですよ。障子がうっすらと青みを帯びる朝まだき、眠りから醒めつつある僕の耳には、音調が低くて優しいビブラートがかかるこの声が、聞こえてきたものです。 目や耳などの五感が目覚めたばかりの幼い頃はまだ、美しさだとか、ものの味わいなどと言ったものが解る筈はありません。でも、毎朝のように馴染んでいた声です。六歳で、親許をはなれ、下諏訪町の信濃整肢療護園に入った時には、キジバトがあたりの高い木でしきりと鳴き、いわゆる<里心>をしつこく刺激しました。ですから、キジバトは一面、僕をホームシックにかけた恨み深いカタキ、といえるかも知れません。 さて、次に聞こえてきたのは、僕にとってキジバトの声とならぶ懐かしい音なのです。西箕輪在住の方々なら、ほとんどの皆さんがご存知なのではないでしょうか。すなわち、伊那市西箕輪支所からお昼前に聞こえてくるサイレンの音です。その鳴る時刻が微妙で、正午ではなく午前十一時半。そこに、何ともいえぬ味わいや床しさを感ずるのは、僕だけかな? ともかく、このサイレンは、僕が物心着いた頃にはもう、毎日鳴っていましたね。僕の祖母は、僕が四歳の時に亡くなりましたが、僕はその祖母に、あのサイレンはどうやって鳴るの? といった意味の事を訊いた覚えがあります。今から二年ほど前、西箕輪の親戚を訪ねた際、あのサイレンが聞こえてきた時には、びっくりしました。五十年近く経った今でも尚、あの懐かしきサイレンは鳴らされている。僕は、まさに実感として、ふるさとそのものに触れた思いになりました。 そんな事もあって、あのサイレンは一体、いつから鳴らされていたものか、大変気になります。就いては・・・という事で、伊那市西箕輪支所にその辺の事をEメールで伺ってみたのです。すると、自分は、西箕輪支所に長く務めている、という方から非常にご丁寧な返信を頂きました。 それによりますと、その方は昔を知る幾人かの人々に、サイレンが鳴らされ始めた由来を、訊ねて下さったのだそうです。で、それに返された答えは、いずれも「はて、いつからづらぁ?」「おらぁ、どうも覚えていねぇなえ」などというものだったみたいですね。 斯くして、いつから鳴らされているか判らない、という謎を含み、なおかつ今もなお、鳴り続けている。こうなると、もう、そのサイレンの音は、西箕輪の空気そのものの元素になってしまっていて、その音を抜きに西箕輪の景観も成り立たないように思います。 そう。サイレンでもう一つ思い出しました。ひとしきり前、伊那の市中に流れるおひるの時報オルゴールが「おんたけやま」、即ち、「伊那節」のメロディーだった事がありますね。あれも味があり、なかなかいいものでした。じつは、今回の放送でそのオルゴールメロディーを使わせて戴きたい、と考えたのですが、生憎にも音量が小さく、聞こえづらいとの事です。その代りに、声のつややかさで聞こえ高い、わが郷土が誇る往年の名歌手、山口清勝の唄で、鑑賞してみましょう。ほんのさわりですが、暫しお聴き下さい。 この唄は、声に、えも言われぬ甘みと柔らかさがあり、色気というものを感じさせます。演歌や歌謡曲なども含めて、このように好い声を聴かせてくれる人のデビューを、僕は待ち望んでいるのです。 さて、お昼が済むと、小さな頃の僕は昼寝が日課でした。その頃、西箕輪の家はうらが竹薮になっていて、先程お聴き戴いたキジバトの声も、その竹薮から聞こえてきたものです。母に促されて横になった部屋には、その竹薮から葉擦れの音がこんなふうに聞こえて参りました。 中学へ上がり、国語の授業で初めて「萬葉集」の和歌に触れた時、真っ先に覚えたのは、大伴家持が詠んだ次の一首です。 わが宿のいささ群竹吹く風の 音のかそけきこの夕べかも 歌の二句目に詠み込まれている「いささ群竹」の「いささ」。また、四句目に置かれた「音のかそけき」の「かそけき」。つまり、「いささ」という時の「ササ」。また「かそけき」という時の「ソ」。ローマ字に置き換えれば<S>の「スーッ」という発音が、幼い頃に聴いた竹の葉擦れを鮮やかに思い起こさせてくれました。自分の身体の障碍にうっすら気づき始め、神経の奥になんとはなしの憂鬱を感じつつ、一人ぽつねんと葉擦れの音を聴いていた幼い頃の僕自身。そういう僕自身を懐かしむだけの余裕が生まれた事。その事を、家持の歌は気づかせてくれたのかも知れません。 さて、昼寝からすっかり覚める頃、夏の盛りには、竹薮からいろいろな虫の声が聞こえてきました。その中でひときわ大きく響くのは、クビキリギリスです。伊那では「ギス」と呼ばれていました。虫捕り網を持った子供たちには人気の的だった、という事を聞いた覚えがあります。さながら、鬱積した憤りを大宇宙の虚空に刻み込む、そんな声でした。 やがて、陽が西の山の端に落ちかかる頃、聞こえて来るのはヒグラシの声。ジリジリと真昼の暑さをいやがうえにも刺激するみたいな、今し方のギスの声を宥めるかのように、優しい声を響かせます。 ところで、奈良時代の昔、旅に出た旅人は道すがら、食べ物を椎の葉に盛って食べたとか。そういう情景を詠んだ歌が、古い和歌にあります。こうして思いつくまま、音にまつわる思い出を辿って参りますと、音や声は、あやふやな記憶を掬って載せる木の葉みたいなものかも知れないな、という気がするんですよ。それというのも、木の葉が枝から摘んでしまえば程なく萎れるように、音は鳴った瞬間、すぐ消え行くものです。音が生まれたその時、その刹那、それを耳にした自分も精一杯生きていなければ、思い出に残るはずがありません。嬉しい事、また逆の意に沿わぬ事、いずれにしても体験の一つひとつにガッチリ取り組み、あとあとも、その全てを肯定的に受け止める。これは非常にしんどい事なのですが、声や音によって思い出が甦り、その思い出が懐かしさへと成熟するには、結局、出くわす物事全部を前向きに受け止めるよう努力する。それ以外にないと僕は思うのです。 さて、今回の番組作りには、沢山の音集めに、いなあいネット樋代さんのお手を随分、煩わせてしまいました。改めてお礼申し上げます。 最後に、もう一つ、お聞き下さい。それは、各地区の消防団が、夜間警戒活動で消防車を巡回させるとき、鳴らして行く鐘の音です。その度に僕の母は「この鐘の音を私は、ほっとするよ。優しく、温かないい音。消防団は本当に尊いお仕事ね、ご苦労様」とつぶやき、胸に手を当てます。改めてこの鐘の音に耳を澄ましつつ、今日の番組を終えたいとおもいます。
2012.04.22
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田中聡前沖縄防衛局長の〈失言〉に端を發する國會の混亂はいちわう、防衛相の辭任を以て鳧がつきさうである。事の善し惡しは別として、この一件にはもう一つ、見過ごすべからざる重大な問題が絡んでゐる。それは發言の惡質性が強調される餘り、〈オフレコ〉の秘密および約束がいともたやすく蹴破られた暴戻について、たれ一人、異をとなへる者がゐない、といふ事だ。ひとりジャーナリズムの傍若無人を赦してゐると、社會はますます、あらぬ方角へ暴走して行く。
2011.12.14
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田中聡前沖縄防衛局長の〈失言〉に端を發する國會の混亂はいちわう、防衛相の辭任を以て鳧がつきさうである。事の善し惡しは別として、この一件にはもう一つ、見過ごすべからざる重大な問題が絡んでゐる。それは發言の惡質性が強調される餘り、〈オフレコ〉の秘密および約束がいともたやすく蹴破られた暴戻について、たれ一人、異をとなへる者がゐない、といふ事だ。ひとりジャーナリズムの傍若無人を赦してゐると、社會はますます、あらぬ方角へ暴走して行く。
2011.12.14
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浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、プロテスタント、カソリックの持ち回りで、そこに天台、真言、奈良仏教が顔を出す程度。どうも幅が狭い。神道、日蓮宗、その他近代の新興宗教はまったく現れてこない。不思議です。
2011.08.16
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電動車椅子ぶらり通信 百六十五話2010年8月・放送 もしやもしやの「桃太郎」 今日、八月十六日はお盆のお賽日。 このお賽日につき、僕は小さなころから、「おせえにち」という言葉で耳馴れて参りました。そしてこの日は、朝早くお墓にお送りしたご先祖様を偲んで家族とともにゆっくり過ごす。僕は、父母を通じてそのように馴染んできました。 また「薮入り」とも言って、そのむかしは大店の奉公人や、他家に嫁いだお嫁さんとかお婿さんが実家へ帰り、親元でのんびりと骨休めする事が、公に認められていたのです。俗に言えば、「地獄の釜の蓋も開く日」で、カレンダーには旗日の印がなくても、多くの日本人にとっては心の安息日だった訳ですね。南箕輪村田畑に伝わる「盆正月」は、その事をよく物語る風習だ、と思います。 そんな訳で、今回は、僕も肩の力を抜き、身も心もぐにゃぐにゃの戯け話に、皆様方のお耳を拝借したいと存じます。と申しましても医療、福祉、また教育をめぐる「まちづくり」のテーマから逸脱しない、という事が、この番組本来の鉄則でした。その枠内でどの程度、大真面目なたわごとがお話しできます事やら・・・まあ、暫し、お付き合い下さい。 昔の事です。西箕輪からバスで街にくだる嬉しさは、ちょうど今、電車や自動車で東京へ行くときの喜びに近いものがありました。別けても、現在では多摩川を渡ると、「ああ、いよいよ、華のお江戸だぞ」そんな風に思ってワクワクするが如く、バスが小沢川の室渡場橋を渡った刹那、「ワーイ! マチへ来たんだ!」なんて感激したもんですよ。 それにつけて、万葉集にこんな一首があったのを思い出します。 多摩川にさらす手作りさらさらに なにぞこの児のここだかなしき 「たまかわ」とは今、東京をながれている多摩川の事。「さらす手作りさらさらに」は、織り上げた麻布を漂白するため、水の流れに晒す、という事だそうですね。また、下句の「なにぞこの児のここだかなしき」とは、若い娘の手のなんと愛らしい事だろう、という程の意味です。歌としては特別なインパクトをもつ作品だ、とは思われませんが、まあ、それはそれとして、流れに漂白作業をする古代の娘さん達も、それを眺めている歌の作者も一つの風景に溶け込み、川そのものに清められている。そんな爽やかさがあります。 幼い頃のうろ覚えをたどると、僕の記憶の底にはどうも、今し方紹介した万葉集の歌の光景とうっすら重なり合う眺めが、のこっているんですね。つまり、母におんぶされてバスの窓から見た小沢川では、川の堤から水際まで降りて行って、何かを水の流れに濯いでいる。そんな風景です。何分、絵本で読み聞かされたお伽話の世界も、現実の生活もまだごちゃごちゃに考えている。そんな幼い時の事ですから、ひょっとすると、夢で見た景色を実際に見たものとして思い込んでいるだけかも知れません。しかし、もしそうだとしても、あの頃の川の水は、洗い物をしても差し支えない程にきれいだった。それは事実だと思います。 そこで、今回の本題に入りましょう。テーマは、日本一強い桃太郎をめぐるふかぁい、ミステリーです。この昔話は、それと並んで語られる金太郎、浦島太郎、一寸法師、舌切雀、こぶ取爺さん、花咲爺、かぐや姫などなどに較べると、じつに不可思議な物語ですね。というか、話全体をよくよく辿ってみると、起承転結とか、因果関係の脈絡がなにひとつ成立しておらず、物語の体をなしていません。川を桃が流れてきた。桃から男の子が生まれた。桃太郎は鬼ケ島へ鬼退治に行った。桃太郎は鬼退治に成功し、沢山の宝物を持ち帰った。そういう唐突の出来事が細切れに並んでいるだけで、粗筋はおそろしくシュールです。これほど、アッケラカンとして現実味に欠ける話も珍しいのではないでしょうか。 このように、「桃太郎」が、正義の若武者が極悪非道の闇を斬る、という要素を除くとなんにも残らない、無味乾燥な物語に終わっているのは、どうも、日本の古い歴史と共に何遍も読み換えられ、書き換えられてきたから、という事らしい。明治維新の後も、軍国主義、社会主義、儒教的な道徳思想、はては女性解放運動に至るまで、いろいろな分野の考え方に影響され続けたようです。その結果、さまざまな伏線が取り除かれ、味もそっけもないパサパサの粗筋だけが残った、という訳ですね。誰にも違和感がない分、後には何の印象も感じられなくなってしまった。そんな事情の物語みたいです。 尤も、それだからこそ水戸黄門、遠山の金さん、ウルトラマン、仮面ライダー、そして今、テレビや映画でごまんと放映されている刑事もののドラマなどは、陰に陽に「桃太郎」を一つの原本にしている節がある。だとすると、「桃太郎」さんはやっぱり偉大ですね。 さて、ここからは、そういう桃太郎に唐澤浩独自のメスで、斬り込みたいと思います。桃太郎さん。どうかご覚悟を! さあ、そこで思い浮かぶのが、幼少の砌、バスの窓から見たと覚しき小沢川風景です。 「むかしむかし、或る所におじいさんと おばあさんがおりました。おじいさんは、 山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に 行きました」 この場合、僕がはてな、と頭を抱え込むのは、お媼さんが洗濯に行った川の流れです。多分、老齢で足腰が弱っているであろう事も考慮すると、例えば、今の伊那市役所南側にひろがる「せせらぎ水路」程度の優しい流れを想定するのが、適切でしょうね。 しかし、ここで更に考えなければならないのは、<物の比重>という事です。人間の胎児を包み込んだ果実としての桃、というものを考えると、「せせらぎ水路」程度の優しい流れでは桃のお尻が川の底に沈んでしまう筈。それなら三峰川、小黒川はどうかと眼を転ずるに、これらはいずれも、石がゴロゴロしていますので、流れ来る桃は多分、お媼さんの手許へ辿り着くまでには石にぶつかり、ぶつかりしてすっかりグシャグシャに傷んでしまう事でしょう。 ならば、いっそ、天竜川はどうかという事になりますが、こちらは日本三大急流の一つです。「あっ、いいものめっけ!」と思った瞬間に、スウッと流れて行っちゃう。その際、へたに追い掛けようとすると、流れに足がすくわれ、あっぷあっぷ溺れてしまいますからね、お媼さんが大きな桃を拾う、という物語の筋立てを考えれば、非常に苛酷な環境だな?従って、かなり微妙な条件ながら、大きな桃が流れるにふさわしい川としては、やっぱり小沢川を想定する以外にないのです。 さて、次なる難題は、川をながれ来る桃の大きさですね。この場合もポイントは二つ、あるでしょう。一つ目は桃の中に胎児がいる、という事。二つ目はお媼さんが辛うじて拾う事の出来るぐらいの体積でなければならない、ということです。この問題はじつに難しい。それというのも、桃太郎はまさしく、超健康優良児ですから、出生児の体重は最低、三千グラムは欲しいものです。となると、桃は、例えば運動会の大玉送りで使う大玉程の大きさが必要でしょう。でも、歳老いた老婆に、そういうデッカイ桃が拾える訳がない。ま、精々サーカスの玉乗りに使うボールぐらいの大きさがやっと、ではないでしょうか。 さて、桃太郎が生まれる桃のおおきさが、玉乗りに使うボールぐらい、となりますと、出生時の体重は千グラムさえ充たすかどうか、非常に微妙だなぁ。そしてもし実際、千グラム以下なら、事態はすこぶる深刻です。なぜなら千グラム以下の子供は「超低出生体重児」といって、誕生直後からハイレベルの医療的処置が必要ですし、またその手当てが成功し、容体が安定しても、その後遺症で重い障碍を抱え込む危険性は高い確率で残りますね。 そこで考えられる最も重度な障碍の状態は、まず自力で呼吸する事がきわめて困難な事。その場合は気管切開して、人工呼吸機を着けなければなりません。そうなると食事をするのも難しいので、チューブを胃に通して流動食を送る経管栄養の必要も生まれるでしょう。そういう状態ではまた、痰が溜まりやすくなるので、こまめに吸引する事が求められますし、併せて痰を柔らかくするお薬の吸入も、欠かせなくなる。 障碍がそういう状態なら、身体をベッドから起こすこと自体が無理でしょう。よって、ストレッチャー式の車椅子が必要です。でも、寝た状態が長時間続くと、内蔵の働きが落ちて参りますから、一日に数回は抱き起こしてやらなければなりません。 人工呼吸機の管理、経管栄養の補給、痰の吸引などなど、これらの健康管理はすべて、鬼ケ島への遠征にお供するお猿さん、ワンちゃん、雉さんが障碍を抱えて生まれた桃太郎、ニックネーム桃君にやって上げなければなりません。そればかりか、そういう医療機器や薬品、流動食、酸素ボンベ、発電機などで、旅の荷物は大変なカサになるでしょう。民族の大移動、といった観を呈する筈です。 斯くして、そんな桃君一行に乗り込まれた鬼ケ島の鬼たちは、一にも二にも面食らうでしょうね。こうなるともう、刃向かう処の騒ぎではなくなっちゃう。君たちの志はよく解ったから、これを全部あげると言って宝物を宅配便で送ってくれる。 いや、他愛もない空想にうつつを抜かしました。何事も、キリが肝心。今日はこの辺で失礼致します。(伊那市有線放送農協にて朗読)
2011.04.04
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電動車椅子ぶらり通信 百六十四話2010年6月・放送 暗闇のなかから 今年は高遠藩の藩校「進徳館」が開かれて、ちょうど百五十周年にあたるんだそうですね。北は松代藩の「文武學校」と並び、いわゆる信州教育の基を築いた拠点として、ここ数年、とみに注目されてきた「進徳館」ですから、その歴史についてはご存知の方も少なからずいらっしゃる事と思います。それ故、今更僕がその興りをお話しするのもどうか・・・という気がしますが、今日のお喋りの発端です。まあ、お聞き下さい。 内藤家が高遠藩を治めるようになってから数えて七代目の殿様、頼寧公は、藩に本格的な学問の振興を図ろうと考えました。頼寧の後を継いだ内藤頼直も、教育施策の推進にはたいへん熱心で、藩校「進徳館」の開設を実現させます。そして、ご存知のとおり、この「進徳館」からは中村弥六、伊澤修二、多喜男兄弟ら、明治政府を中枢で担う偉人が多く輩出しました。 ところで「進徳館」が開校した当初、この藩校の師範、つまり、今で言えば教頭先生を仰せつかったのは中村元起という儒学者です。中村元起はもともと、代々学問をよくする家に生まれ育ち、読み書きはかなり早熟だったようですね。だものですから、早くからその才能が認められ、幕府が開いた昌平坂学問所というエリート校に留学する事ができました。尚、明治維新の後、元起は文部官僚の重鎮として活躍し、例えば松本の開智学校の設立にも、深く関与します。 ここで話を少しばかり、前に戻しましょう。中村元起が学ぶちょっと前の昌平坂学問所に、佐藤一斎という学者がいました。じつは、内藤頼寧が高遠藩学を興そうとした時、その頼寧公がアドバイザーと頼んだ人物です。佐藤一斎はそれに快く応じ、江戸からはるばる高遠まで訪ね、殿様の諮問に「学問所創置心得書」という一冊の本を書いて答えました。 さて、この佐藤一斎という学者はなかなか複雑な人物です。というのも、彼が塾長まで勤めていた昌平坂学問所は、徳川幕府が幕藩体制をちゃんと維持するお侍、そのお侍を育成するための教育機関でした。そこで教育する学問の基本は、封建制至上主義を説く朱子学と定められていた訳です。ところが、佐藤一斎は、その朱子学を修める一方で、おなじ儒学の一派である陽明学も学んでいました。 この陽明学は、ごく割り切っていうと、個人一人ひとりが自分で物を考え、自分で行動する大切さを訴えた思想です。つまり幕府の縦社会を根本から揺るがしかねない考え方で、体制側からすれば、危険思想以外の何物でもありません。実際、佐藤一斎のお弟子には、高野長英、渡辺華山、佐久間象山、横井小楠ら陽明学の影響を強く受けた人々が多くいて、幕末には、お侍の社会を突き崩すダイナマイトみたいな役割を果たしました。ちなみに、吉田松蔭、勝海舟、橋本左内、河井継之助、坂本龍馬はみな、佐久間象山の門下生です。してみると、明治維新の立て役者は殆どが、佐藤一斎の孫弟子、といえる訳で、影響力の大きさには驚くばかりですね。 もうひとつ付け加えると、武士の世をすっかり引っ繰り返した明治維新の中心的人物、西郷隆盛は、佐藤一斎が書き遺したエッセイの大ファンでした。彼は死ぬまでその本を持ち歩いたそうです。 それほどまでに西郷隆盛を強く魅了した、佐藤一斎のエッセイ--その題名を「言志四録」といいます。これは一斎が四十年余りに亘って書き綴った随想を、四部作の構成でまとめたものです。生きてきた中で実感した事どもを、短い言葉でつないだ体裁は、親しみやすく、何とも味わい深いものですね。 この「言志四録」から、今回は僕の心に残る一言を紹介させて下さい。そして、話の道筋を少しずつ、換えて行きたいと思います。 さて、僕の心に残る「言志四録」のなかの一言。それは、次の言葉であります。 一燈を提げて、暗夜を行く。暗夜を 憂ふること勿れ。ただ一燈を頼め。 今の言葉のうち、「一燈を提げて、暗夜を行く」とは、提灯のような手に持つ事のできる灯りでちゃんと前方を照らし、夜道を行く、という意味です。夜の闇を苦にするでない。灯りを一つ持てば大丈夫。といっている訳で、字面で見るかぎり話はすこぶる単純ですね。要するに、人生でどんな辛い目に遇おうとも、信念、および志があれば必ずや活路が開けるものだ、という教訓がそこに含まれている。このことは誰でも、すんなり読み取られると思います。もし、それきりの意味だとしたら、当たり前過ぎて全く月並みな言葉に終わってしまう事でしょう。 じつを申しますと僕も、この言葉を初めて読んだ時には、意味を額面通りに受け取って、「なぁんか、つまんねぇの・・・」そんな風に思ったものです。しかし、妙に印象的で、頭の端に残っていた。そして或る時、はたと思い当たりました。 ヒントは、ちょうど今の季節をあらわす、俳句の季語です。すなわち「五月闇」という言葉であります。草や木々がいよいよ鬱蒼と葉を茂らせる。また梅雨入りで空はどんよりと曇り、雨降りの日も多くなりがちですね。この「五月闇」とは、そういう気分、つまり何もかもが覆い被さってきそうな重苦しさを言い表したものです。 もう少し付け加えると、「五月闇」とは、日本人の中枢神経深くから響き出た観念の季語、といえるのではないでしょうか。というのも、この季節は一年で最も日が長い夏至も含んでいて、物理的には一番明るい時期です。にも拘らず、この季節の雰囲気を「五月闇」と名付け、「暗い」という感覚を日本人の多くが共有するようになったのは多分、野山に生命力が溢れ返る時期であればこそ、一面で大自然の不気味な奥深さが垣間見えてしまう。なおかつ、それを「闇」と見る心細さをはっきり実感してしまったためではないか、と思われます。ゆえに、正岡子規が遺した次の俳句は非常に、示唆的ですね。 覚束などこ迄往っても五月闇 だから、 一燈を提げて、暗夜を行く。 という場合の「暗夜」、つまり「暗い夜」も、見た目の闇夜であると同時に、夜の闇を恐ろしいと感じて本当にブルブル震え戦く、どうしようもない大きな不安感も指しているのでしょう。それはまた「心の囚われ」ともいえる。従って、この言葉の締め括りには、「ただ一燈を頼め」--前方の闇を照す灯りを頼りにしなさい、と書かざるを得なかった。僕にはそう思われます。 闇に対する恐れの感覚、ということでは、幼い子供ほど鋭いものがありますね。この番組でも度々お話ししているように、ぼくは、障碍に伴う全身の痛みの治療を受けるため、下諏訪町の信濃医療福祉センターに時々入院します。 その際、お世話になる病室は、「母子棟」にあるんですよ。この母子棟は障碍児がお母さん、お父さん等の家族と一緒に入院し、障碍の治療と生活訓練を受ける療育の拠点なのです。 さて、母子棟に入院する子供には、就学前の乳幼児が多いのが特徴、といえるでしょう。だものですから、この病棟にはしばしば、子供の泣き声が聞かれるのです。傍らにお母さんがいない事に伴う乳児特有の不安感から、また、障碍のため力が入らない足で敢えて立たせられる歩行訓練のつらさから、また「夜泣き」とか「蚶の虫」といわれるものまで、泣く理由はさまざまみたいですね。 その中で、心底かわいそうだなと思うのは、突如、火が点いたように泣き出して、長時間ずっと泣き続けている子供、そしてその子を宥めるお母さんです。こうなるともう、時の過ぎ行くのを待つしかありません。なぜなら、この時、その子供は自分の身体や心が、自分を取り巻く周りの現実とずれている。あるいはリズムが噛み合っていないことを違和感に覚え、関係性のいとぐちを探りあぐねて泣くらしい。そういうことを或る看護師さんから聞いた時、あの子たちも、やっぱり闇の中をさまよっているんだな、と思いました。 生活の局面で出くわすさまざまな躓きや、悩み、そして、それらが原因ではまり込む鬱状態--生きる中では、どうやら誰しも何等かの闇を潜らなければならないようです。尚かつ、厄介なことには、はまり込んだ闇から抜け出せない場合もある。そういう危険性に絶えず晒されている点において、人はみんな同じ、と言えるでしょう。 となると、逆に、こういう事も期待できる筈です。つまり、どんな暗い闇の迷路も自力で歩み切らねばならないにせよ、その暗闇からふっと優しい光が浮かび上がる事。その事を祈る心において、われわれはお互いに共感できる。立ち直る手立てが一向見当らず、困り果てて膝を抱え込む時、胸の奥底から自然に湧き上がる切ない祈り。その祈りに心から頷く共感です。その共感こそ、人と人との絆となり得るのではないか、という事ですね。これは、じつに微妙な可能性です。しかし、少なくとも、僕は、そう信じております。(伊那市有線放送農協にて朗読)
2011.03.29
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電動車椅子ぶらり通信 百六十三話2010年4月・放送 中学生との対話 幼い頃、僕はずいぶん不思議な体験をしました。それは、こんな思い出です。 床に寝かされて置かれた鏡。その鏡を覗き込めば当然、僕自身の顔がうつるのですが、この僕の背後には部屋の天井も大きく、ひろがっております。幼かった僕には、自分の顔のうしろに高い天井を映し出す鏡が、まるで、部屋の床の真ん中にぽっかりと穿いた深い穴に、感じられましたっけ。身体が吸い込まれ、落ちて行く。そんな気がしました。つまり、目では、一応、鏡に映った部屋の眺めと捉えているのに、感覚では、鏡の向こうに拡がる空間の大きさに驚きふためいているんですね。 でも、その時の事を更によくよくふりかえれば、何やら怖い一方で、とてもスリリングなものを感じ、ワクワクする興味も芽生えていました。或る種の痛快な冒険の体験、といえるかも知れません。 思えば、年齢の上で人生の折り返し地点を過ぎた今でも、これに似たドキドキ感を覚える事がしばしばです。それは主に、だれかと会話を交わしている時、ふと体験しますね。言葉の遣り取りを通して、自分自身が今立っている現実世界の広さだとか、奥行きに思い至らされる瞬間。そんな体験です。取り分け、心のアルバムにまだ多くの余白を残している子供達との対話では、鏡に向かう時さながら、僕のうしろに延びている道の長さや、その道を歩くのに関わって下さった人々の多さ、というものが、その都度はっきり見えてくるのです。 幸いにも、僕は、小中学校へ講演に招かれて、大勢の児童生徒の皆さんと対話する機会にめぐまれて参りました。今回は、昨年五月、駒ヶ根市立東中学校へ講演にまねかれた際に生徒さん達と交わした対話を、再現してみたいと思います。そして、そこからまたぼくが体験した、現実に対する再発見もお聞き取り戴ければ幸いです。それではお聞き下さい。〇仕事について問一・フリーライターの仕事をしていて嬉しかった事はどんな事ですか? 唐澤◇私の文章を有線放送で聞いたり、 新聞で読んだりした見知らぬ方々より、 「読みましたよ」といって声を掛けて 戴く事です。人間の言葉というものに は、生きる世界を拡める力があるんで すね。問二・一つの記事を書くのにどのくらい時間 がかかりますか? 唐澤◇書く記事のテーマによって違うの です。一日ですっと書き上げられる事 もあるし、主題によっては何年も調べ たり、考えたりしてようやく、書ける、 という事もあります。問三・講演は今までに何回位したのですか? 唐澤◇障碍児の障碍、病気を治療するお 医者様の学会や、理学療法士さんの学 校、社会福祉士さん達の集まり、ボラ ンティアの養成講座、学校の先生方や PTAの皆さん、それに小、中、高の 児童生徒の皆さん、といろいろなとこ ろでさまざまなお話しをしてまいりま した。合わせれば多分、四十回以上に なると思います。多くの方々との出会 いが体験できるので、幸せです。〇パソコンについて問四・パソコンは、頭にかぶったヘルメット の棒で操作するそうですが、それはどれ くらいの日数で、覚えましたか? 唐澤◇小学6年生の時、電動タイプライ ターに出会いました。これが、機械を 使い、自分で文章を書くようになった 始まりです。ヘルメットでキーボード を操作するようになったのは、高校生 の時からでした。操作を覚えるのに、 さほどの日数はかかりませんでしたね。問五・パソコンをヘルメットの棒で打つのは 難しくありませんか? 唐澤◇パソコンで仕事をする事自体、大 変でもないし、難しくもないんです。 ただ長時間打っていると、肩や背中 が痛くなってくる。これがすこし、 つらいなぁ。〇日常生活について問六・生活の中で、一人で出来ない事は何で すか? 唐澤◇先日の講演でもお話ししたように、 私の場合、日常生活は自力ではでき ないので、ひとさまにお手伝い戴く 事ばかりです。それだけに、お手伝 い下さる方々のご親切は、身に染み ますね。問七・あれがあればこういう事が出来るのに なぁ、と思う物は、何かありますか? 唐澤◇何でも欲しい物を出してくれる、 ドラエモンとお友達になる事かな? でも、これって所詮は妄想ですね。 人には誰にでも不便な事、不足して いる物が必ずある。その不便や不足 を工夫と努力で補うよう頑張る事。 これが人間の生活そのものではない でしょうか。〇電動車椅子について問八・いつから車椅子に乗るようになったの ですか? 唐澤◇諏訪養護学校高等部を卒業して、 家に帰ってからの事です。問九・電動車椅子でバスや電車に乗る時には どうするのですか? 唐澤◇持ち運ぶことのできるスロープが 駅や、バスには備えられていて、私 のような車椅子使用者が乗り降りす る時には、駅員さんやバスの運転士 さんがスロープを乗降口に差し掛け て下さるのです。とても助かります。〇その他問十・いろいろな知識はどのように取り入れ たのですか? 唐澤◇私自身は、多くのことを知るより も、一つのことを深く考える、とい う事の方に関心がありますし、その 事の方が大切ではないか、と考えて いるのです。自分に多くの知識があ るとは思っていませんが、そう見え るのは、少しばかりの本を読んでい るからでしょうね。問十一・一日で一番楽しく、嬉しい時はどん な時ですか? 唐澤◇仕事が一段落ついて、好きな音楽 を聴く時です。問十二・これからの目標は? 唐澤◇たとえ一人でも、読んだ人が元気 になる。そんな文章が書きたいな。 中学生と僕との対話は、以上です。なお、この対話の再現には、駒ヶ根市立東中学校の生徒さん達にご協力戴きました。生徒の皆さんには、深くお礼申し上げます。 ところで、東中学校におけるこの時の講演会の後、僕の許へ送って下さった生徒さん達の感想文に、こんな件りがありました。 「唐澤さんって、カッコいいなぁ!」 これを読んだ時、たいへんうれしかった。同時に、僕が伝えたいと思う事は充分、理解してもらえたな、という事を感じました。 というのも、僕が、小中学校から講演会の講師としてお招きを受けるのは、大抵の場合、人権教育に関わる行事の一環においてです。つまり、人間同士お互いの尊厳を認め合って、共に生きる心を養いましょう、という教えを普及する、その狙いに基づく講演依頼を頂く事が殆どで、僕も概ねそれに沿ったお話を、させて戴いております。ただ、その際、一つ心掛けている事があるのです。 それは、他人を大切に考えるのと同じように、自分自身を大事にする。この事も併せてはっきり伝える、という事であります。自分自身の望みや願いにじっくり耳を傾け、その実現に向けて一歩、一歩努力する向上心。あるいは自分の長所、短所を抱き合せで丸ごと愛しむ心。言い換えれば、プライドですね。このプライドが実感できなければ、他人の尊厳も認める事はできません。人生はウェイトリフティングで、自分の幸福は結局、自分自身築き上げるしかない、という事を子供さん達に気づいて貰えるよう、僕自身の道のりを語って参りました。 「唐澤さんって、カッコいいなぁ!」 という感想を寄せて下さった生徒さんはたまたま、その事に共感してくれたのでしょう。ともかく、子供たちとの対話を重ねる度に、相手の心に自分が映り、自分の心に相手が映る。この事を、しかと実感させられるのです。
2011.03.20
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漢字制限や表記法の無意味な規制の下、誰が表現の自由を謳歌してゐるといふのか。 現代日本人は、相も變らず、文化拘束に甘んじたまゝである。
2011.02.08
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核武装論は所詮、非武装平和論のうらがへしに過ぎぬ。双方、思考停止の安心立命に腰を下ろしたい。さういふ怠惰において何の變りもない。福田恆存先生がいはれた「人間不在」とは、この思考停止願望の事である。 巨艦主義は、思考停止願望から生れる。
2011.02.07
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今から二十二年前の事である。 福田恆存先生より年賀状を頂いた。しかも元旦に届き、心底驚いてしまつた。福田先生はその前年、黒田良夫先生の案内で、奥さんと二人、私を拙宅まで訪ねて下さつた。そのご縁をお心に懸け、一介の無名讀者に過ぎぬ私に賀状を下されたのだ。 晩年の福田先生は體調すぐれず、筆を執る事も大變だつた由。それを思ふと、胸が熱くなる。
2011.01.06
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電動車椅子ぶらり通信 百六十二話2009年12月・放送 交差点 毎年、この時期に放送される当番組では、その年どしに発見したバリア、またはバリアフリーというものをテーマに、お話しして参りました。このバリア、そしてバリアフリーをめぐる色々な問題や、思いがけない喜びに最も出合いやすい場所が、道路の交差点なのです。 まず、バリアの問題から申しますと、道路交通法に則って信号の点滅に従い、往き来するとはいっても、歩行者としての車椅子が車道を横断する以上、万が一の場合、赤信号を無視して止まらない自動車に出くわす、という場合もあり得る。つまり、車道を横断するには、それ相応の危険に晒される、という事です。また、車道を渡る前後の歩道も、問題となりますね。これは無事に車道を渡り切る事が出来たとしても、渡るあとさきの歩道における段差の有る無しだとか、その幅の広さ、といったものが往来安全の決め手となるからです。 従って、バリアフリーのポイントは、そのバリアの問題との兼ね合いから浮かび上がるものといえるでしょう。つまり、横断歩道がクッキリと、ドライバーにも見やすい表示で車道に設けられているか。また青信号の点る時間が横断歩道の長さに充分見合って、ゆっくり渡れるかどうか、という問題。そして、この問題を中心軸とする前後左右の歩道の安全策は万全か、という問題が、今し方お話ししたバリアとの対応で、うまく整備されている状態。これが、即ち、バリアフリーなのであります。加えて、譲り合いの心や、歩行者を優しく見守る気持ちが豊かなドライバーに巡り合った時、その日、街へ出掛けてきた事の幸せを感ずる事は、言うまでもありません。 と、まあ、一応説明させて戴いたものの、事はそれほど単純ではないのです。以上、述べた事は事実ですが、又そこには地形というか、土地柄というか、街の成り立ちというか、とにもかくにも言うに言われぬ微妙な条件がそれぞれの交差点には複雑に、反映して参ります。或る特定の基準をものさしに、交差点のバリアフリーを語る事は出来ません。どうやら、交差点の一つひとつには皆、それぞれに独特の個性があるのではないか。僕は近頃、そのように感じているのです。 ところで、この交差点については、四つ角、十字路、分岐点など、様々な呼び方があります。四つ角、十字路、分岐点などの言葉は、来し方行く末をだれもが物語る時、必ず現われますね。出合い頭にバッタリ、思いがけぬ巡り合いを体験して、それまでとはガラリと歩き方、生き方が変わる場所。あるいはそれまで長く慣れ親しんだ人や物事に別れを告げ、言いようのない寂しさと、これまた思ってもみなかったすがすがしい身軽さとを同時に実感させられる節目。それが交差点だからです。風水の占いでは、禍が忍び入る所を「鬼」の「門」と書いて「鬼門」と呼び、幸福が訪れる所を「生きる」「門」と書いて「生門」というようですね。そうすると、一見、なんの脈絡もないかのような人生に、悲喜交々の出会いを以て、句読点を打ってくれる交差点は、鬼門と生門とが合体して建つ所、と言えるのではないか。そんな気がするのです。 つきましては、交差点というものを話題にして、このごろ感じている事を取り留めなく、お話ししたいと思います。しばし、お付き合い下さい。 この秋の事です。料理研究家として知られる辰巳芳子さんのインタヴュー番組を、偶然にも二本、テレビで見ました。辰巳さんは、それぞれの番組で非常に興味深い事を語っておられました。 その中で、特に僕が印象的だったのは、次のお話しです。 「味覚に敏感、という事と、味が解る、と いう事とは違うのよ。大切なことは『味が 解って』からだも心も、本当においしいな、 って感ずる事なの」 それに続けて、辰巳さんは又、こんな事も語られました。 味が解るようにするには、家庭で、子供に、幼い頃からさまざまな食べ物を、できるだけ丁寧にお料理して食べさせる事がとても重要、というのです。人間に限っていうと、「食べる訓練」をしなければ、結局、自分が好きなものばかり口にして、味の音痴になる。すると、おいしい味が解らず、その味に秘められた大自然の命とのふれあいが出来なくなる、というんですね。 このお話しを聞いて、僕は、つくづく思いました。食べ物を巡る好き嫌いは人それぞれ、改められるものではないにせよ、どうしても好きになれないものを敢えて口にする勇気、そして、それを味わう堪え性こそ、人間が人間らしく成長する上での原動力、となるのではないか、という事です。生活を一歩ひいて眺めれば、殆どが自分の意に添わない出来事の連続ですが、それでも、辛抱して粘り強く現実に付き合っていると、そういう自分の柔軟性、あるいは逞しさに、「おや! おれも満更ぢゃあねえじゃん」なんて嬉しくなる瞬間があります。思えば、これも、はるか物心着く以前から、母が手間暇かけて作り、食べさせてくれた手料理を、無意識ながらうまい、と思って味わい続けてきた感覚。その感覚の重なりが、何かに耐え忍ぶその事のひそかな喜びを、実感させてくれるかも知れませんね。 農産物、水産物がそれぞれ海と山との香りを載せて、はるばると届く食卓。そして、それらの食べ物に、生まれつきの体質と育った環境との関わりから育まれた自分の味覚が、出会う食卓。この食卓こそ、命と命とが巡り合う一番身近な交差点。僕には、そんなふうに思われるのです。 さて、この食卓を取り囲むのは、一軒の家ですね。この家、というものも又、いろいろな意味で縦軸と横軸とが交わる、重要なポイントではないでしょうか。つまり、遠い祖先から連綿と続いている縦のつながりと、同じ時代、同じ地域に生きて支え合いの共同体を形づくる横のつながりとが交わる場所。それが家ではないか、と僕は考えます。あるいは、眼に見えるものと見えざるものとの接点、それが家だ、といえるかも知れない。 つね日頃、僕は、家こそ人間としての生き甲斐を見出すのに最適の場所、と感じているのですが、その訳は、以上述べたように自分の生まれ育った家は、縦横それぞれに果てしなく続くさまざまな絆が交わるそのうえに、建っているからです。 更に、視野を拡げれば、家を取り囲む地域もまた、いろいろな交わりに成り立っているんだな、という事に気づかされますね。特に、伊那は、そういう色合いが濃いのではないかしら。 それをまず感じたのは、自然についてです。その事を強く感ずるのは、伊那の空に浮かぶ雲の美しさですね。これは、天竜川が南北に流れている。そこへ東から三峰川が合流します。この二つの川の流れが反映して、合流地帯である伊那市の上空では、気流のぶつかり合いが生ずるようです。加えて、東西に聳えている二つのアルプスからは、「山岳波動」と言って、特殊な気流が押し寄せるようですね。のみならず、この辺りの磁場が他所よりもやや、低いとの事。 そうした諸々が作用して、伊那の空には、とても美しい雲が浮かぶらしいのです。取り分け、今の季節に浮かぶ雲の形は、「劇的」とさえ言えるでしょう。これは、気圧配置の早い動きによって、上空に吹き渡る風の方向が時々刻々、移り変わるからであります。 ともあれ、この伊那は、県内の中でとくに空が広うございますから、皆様もどうか一度、伊那の空に浮かぶ雲をご覧になってみて下さい。 いろいろな交わる十字路、という事では又、人の面でも言えるようですね。僕の友人には北海道、青森、福島、大坂、広島、大分と、他の道府県から移ってきて、伊那に住み着いた、という人々が幾人もいるのです。そういう人達によると、伊那市では地区の自治組織が活発に運営され、公民館活動などが盛んなのには驚かされた、ということです。そういう話を聞いて、僕は、地元にいては気づかない豊かさに、触れられたような気がしました。 加えて、歴史的に見てもこの伊那は、なかなか興味深いところですね。秋葉街道、三州街道、中仙道の三叉路でしたし、かつての高遠領と、幕府の直轄地である箕輪郷とを跨ぐ地域でもありました。その関係で又、漢学を中心とする高遠進徳館学と、或る面では尊王攘夷および明治維新の強力なバネともなった平田国学とが境を接する際どい場所でもあったのです。そんな事もあって、文化面でも、いろいろ不思議な住み分けや、接触が見られます。 以上のような伊那の特色を踏まえると、これからもさまざまな交流が期待できる。そんな気がするのです。 四つ角、十字路、分岐点、更には辻、そして交差点。こんな言葉を思い浮べるだけで、家や地域社会、また自分自身までが、異なる歴史を背景にもつ別々の流れの接点である事に、気づくのです。生活の豊かさとは、その接点に生きている事を意識して、異なる要素をそれぞれ、どう活かして行くか、思い巡らす事から生まれるのかも知れませんね。
2010.10.09
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電動車椅子ぶらり通信 百六十話2009年8月・放送 井上雅夫先生を偲んで 下諏訪町に建つ信濃医療福祉センター、およびその前身の信濃整肢療護園を創立された医学博士井上雅夫先生が、今年三月二十九日亡くなられました。わが長野県における肢体不自由児療育の開拓者である井上雅夫先生について、僕の知るところはごくわずかです。しかし、障碍児者の社会的生活基盤整備という事を語る場合、忘るべからざる方なので、今回は、僕の個人的な思い出もまじえつつ、在りし日の井上先生を偲びたい、と思います。 井上先生と初めてお会いしたのは、僕が、三歳の時でした。脳性小児麻痺という障碍について、一般のお医者様の間ですら理解が薄く、ましてや行政などによるバックアップは全くない時代の事です。一体、何をどうすればよいものやら、僕の父母は進むべき道の方向を探りあぐねていたようです。そんな折、いわゆる障碍児の疾病全般にご見識が深く、その都度、温かなご診療と、適切な療育のご指導を下さる井上先生にお会いしたわけで、まさしく幸せというしかありません。以来、凡そ五十年が経ちました。 もともと、障碍児の医療、教育等をめぐる技術研究は、欧米が先進的でした。しかし、関係する諸々の技術を組み合わせて総合的に体系化したのは日本人だったのです。そして、そのキーワードこそ、「療育」であります。 この言葉の生みの親は東大名誉教授だった高木賢次医学博士です。高木先生が、「療育」という言葉と考え方を世に発したのは、時局厳しい昭和十七年のことでした。高木先生は、整形外科医として肢体不自由児のための治療施設、東京整肢療護園を建て、また、障碍児者の社会参加を支援する日本肢体不自由児協会を創設して、療育を実践したのです。 さて、高木博士が提唱した「療育」とは一体、どんなものなのでしょう-- それを知る手がかりの一つは、高木博士が遺した「療育の理念」と題する文言です。折角なので、紹介させて下さい。 「療育の理念」 高木賢次 「たとえ肢体に不自由なところあるも、 次の社会を担って我邦の将来を決しなけ ればならない児童達に、くもりのない魂 と希望をもたせ、その天稟をのばさせな ければならない。それには児童を一人格 として尊重しながら、先ず不自由な個処 の克服につとめ、その個性と能力に応じ て育成し、以て彼等が将来自主的に社会 の一員としての責任を果たすことが出来 るように、吾人は全力を傾盡しなければ ならない」 ふつう、手足の麻痺した部分は諦めて、残された能力が活きるよう工夫する、というのが、障碍者の生き方をめぐる認識ではないでしょうか。その点、療育は、理念が積極的で一歩先を目指します。麻痺そのものを見捨てないで、そこに眠っている能力を目覚めさせるよう、心身両面に適切な刺激を与え続けるのです。つまり医療に、教育と、生活指導とを併せた三位一体の総合的な育成プログラムでした。 一言でいえば、障碍児を、自分の障碍に屈しない人間に育てる事だ、と僕は自分自身の療育体験から感じています。 高木先生の考えを受け継いで、信州に「療育」の灯を点したのが、井上雅夫先生でした。 ところで、昭和三十五年の事です、当時の長野県肢体不自由児保護者会連合会が行った調査によると、手足の障碍などで学校へ通うことも出来ない未就学児童は、全県下合わせて何と、一七〇〇名余りに上ります。これはポリオとか、脳性麻痺、リウマチ、筋ジストロフィーなど、それまでの医学では治療法が見出せていなかった重い障碍の子供達が、当時はまだ施行されていた「就学猶予」という法律によって、義務教育の網から漏れていたその数の多さを如実に物語ります。と同時に、僕には、そこからすぐ想像される事があるのです。 「就学猶予」のため、小中学校へすら通う事の出来なかった障碍児の多くは、恐らく、外へ出る事や、家族以外の人々と接触する事自体にも余り恵まれなかったのではないか。そして、発達期に適切な刺激があればきちんと育った筈の能力や、個性を花開かせる事なく過ごした人々も、少なくはないだろう。という事であります。 井上先生が取り別け、就学前の障碍児に対する療育を重んじられたのも、きっと、このような現状を深刻に見据えていらっしゃったからではないでしょうか。ともかく、信濃整肢療護園開設当初から、診療を兼ねた未就学児対象の集団療育の会が月に一度、開かれていました。この集いの事を名付けて「はぐくみ会」、といいましたっけ。 この「はぐくみ会」には井上先生はじめ、当時の看護婦さん、保母さん、訓練士さんなど、手弁当、つまりボランティアで臨まれた、と伺います。やがて、これは、県内巡回の療育相談へと発展し、それまで頼る宛てがなかった多くの障碍児たちを、希望の光のもとへ呼び寄せたのでした。 ところで、僕等の親たちの運動団体、長野県肢体不自由児者父母の会連合会は、活動の原形母体を昭和三十五年に発足させました。さきほど触れた長野県肢体不自由児保護者会連合会です。この会の運動の成果の一つが県立諏訪養護学校、および県立稲荷山養護学校という肢体不自由児専門の教育機関設立です。障碍児が社会的自立を遂げる上で、如何に強固な基盤となったことか、計り知れません。 これも、信濃整肢療護園という肢体不自由児療育の拠点を築き、井上先生が、その中心で強力にお導き下さったおかげです。 それだけでなく、この肢体不自由児専門の教育機関設立というものが一つの礎となって、われらが長野県における重度身体障碍者福祉全般の底上げも遂げられました。放送時間の制約上、この場では、その事についての詳しいお話は割愛せねばなりません。しかし、とにもかくにも、障碍者福祉の質は、各地方自治体の政策や裁量で決まるゆえに、当事者や関係者の働き掛けが頗る重要です。その場合、運動主体の当事者らがどれ程、情熱を燃やしても、運動に的確な方向性がなければ無駄骨に終わりかねません。優れた指導者、水先案内人、あるいはナビゲーターとよばれる人びとの存在が、極めて重要な所以であります。伊那市の場合に限っていうと、井上先生のご指導なかりせば多分、例えば就学前の障碍児が通う母子通園訓練施設「小鳩園」の設置も相当、遅れていた事でしょう。 さて、ここからは、井上雅夫先生をめぐる僕の個人的な思い出を、お話しさせて下さい。 さきほどもお話ししたように、僕は三歳の時から井上先生のお世話になりました。最初は月に一度、「はぐくみ会」に通っていたのですが、昭和三十八年、六歳の時、集中的な治療を受けるため、親許を離れ、信濃整肢療護園に入園したのでした。中学三年生、十五歳までの九年間を過ごします。 以前、この番組でもお話ししたように、僕は膝たち歩きでも外で遊ぶのが好きで、療護園でも日曜日などの休日には屋外用のズボンを履かせてもらい、外へ出掛けていましたね。 さて、そんな或る休日の事。一人でノコノコ外を膝歩きで歩いていると、手術室の裏手で、腕組みしながら何かを見下ろされている、井上先生をお見掛けしたのです。そこで先生が見下ろされていた先には、下水の側溝がありました。「おや? どうされたのかな?」と思う間もなく、先生は、やおらワイシャツの袖を捲り上げ、ネクタイの端をシャツの懐へ捩じ込みました。そして、近くにあった竹箒を手に執り、側溝の中のものを掻き出され始めたのです。 溝の中からは、どろどろした汚泥がみるみる掻き出され、外に山と積もって行きます。「こいつぁあ酷いなぁ。こんなにも溜まっていたのかい。いや、まいったなぁ」 などと含み笑いも混じえた独り言を呟かれながら、黙々と、その作業を続けられました。早い話、それはどぶ浚いで、辺りには次第に芬々たる悪臭がたちこめてまいります。それだけに、作業の辛さがまざまざと感じられ、じっと見つめている事自体、何だか申し訳なく思われてきました。さりとて、そこを通り過ぎて行く事もまた今度は、薄情かな? という気がしたりして、何とも言えない極りの悪さを覚えたものです。 今から振り返ると、僕は、あの時、子供心にも、本当にずっしりしたものを全身全霊でガッチリ抱え込んでいる方の辛さ、そして、気高さに触れたのかも知れません。 井上雅夫先生の功績は、信毎文化賞、全国社会福祉協議会会長表彰、厚生大臣表彰、藍綬褒章などなど、合せて十三にも上る受賞歴によって讃えられております。そこに、僕が見た普段の井上先生、つまり人目に着かないところでも、あれやこれや心を砕かれ、身を粉にして働かれていた姿を重ね合わせるにつけ、先生の半生は本当に凄絶なものであった事を、思わない訳には行きません。 か弱い重度の障碍児たちに、療育の光を当てる井上雅夫先生の温かさは今、信濃医療福祉センターで、朝貝芳美所長はじめ、職員の皆さん全てに受け継がれています。思えば、それがそのまま、井上雅夫先生の記念碑なのですね。
2010.10.05
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電動車椅子ぶらり通信 百五十九話2009年6月・放送 伊那公園の高台にて 僕は時折、ふと今更ながらびっくりする事があるのです。それは電動車椅子で独り外出する事によって、 「ああ、なるほどね!」とか、 「あれは、こういう事だったのか」などと納得したり、実感したりする体験が本当に、数え切れない程あった、という事なんですね。その一つが、伊那という土地の地形をめぐる意外性です。 伊那は平の里。そんなイメージを僕は子供のころからぼんやり、抱いていたものです。ところが、いざ、電動車椅子で僕独り外出し始めた時分、坂道が多い事には、ほんとうにびっくりさせられました。 そしてその数多い坂道も、僕が考えていた以上に勾配が急な箇所がそこかしこにあって、いやぁ、最初の頃は随分難儀をしましたよ。文字通り、川の流れによって形成された扇状地の険しい河岸段丘を歩いて知る、という事が、電動車椅子試運転の時期の体験だった、と言えるような気がします。 そのうちに、電動車椅子を買い換える度、モーターの力がぐんぐん上がって参りました。かつては、どうしても登り切れなくて引き返すしかなかった坂道も、登る事が出来るようになったのです。今日、これからお話しする発見も、電動車椅子で坂道を登り下りする事が妙に嬉しくて繰り返すうち、体験した事でした。 それは、或る日、古町の高遠線側から伊那公園に登った時の事です。この公園に独りで来られた事が嬉しくて、園内をあちらこちら歩き回っていると、非常に珍しい歌碑を一基見出しました。近づいてみると、そこには、こう書かれてあります。 いろは 唐木空蝉 春立ちて、豆、稲、植え、夏衣、干さす、 げにやよろしく、われら背負い、秋拝みむ と、こもりゐの冬ぞ経ぬ。 以上の言葉は全部、四十七文字の平仮名で書かれてあります。その為、音声そのままの朗読では何の事だか判らないのではないかと懸念されました。そこで、碑文にはない濁点を施し、適度に語句を切って、お聞き戴いたた訳です。 つまり、この歌は、「イロハニホヘト」のいろは歌とおなじく、四十七文字の仮名を、一文字ずつ全て並べ整えたものです。「イロハニホヘト」は、「色は匂えど」ととなえる具合に、この歌も、単語の意味が解るよう、僕の解釈で読み改めさせて戴きました。 作者の唐木空蝉さんは、こんな感じの「いろはうた」を生前、随分沢山詠まれたようですね。本も幾冊か出されていて、僕の手許にも、「まためがね」という歌集があります。長らく、上伊那郡内の高校で、英語の教鞭を執っておられた事、また、晩年は山羊に牽かせた車に乗って歩いていた、という伝説めいた逸話ぐらいしか、僕は知ってはおりませんでした。でも、時折、歌集を開く度に、繊細な言語感覚や美意識には心惹かれていましたね。伊那公園でこの歌碑を見つけた時には、親しい人に会ったような懐かしさを、覚えたものです。 さて、件の歌を再び読み返してみましょう。 春立ちて、豆、稲、植え、夏衣、干さす、 げにやよろしく、われら背負い、秋拝みむ と、こもりゐの冬ぞ経ぬ。 これは豆、稲、つまり穀物の作付から取り入れに至る営みの流れをまとめた、言葉による絵巻物なのだろう、と思われます。 若干の補足を加えれば、このうちの「なつえほさす」という時の「なつえ」とは多分、「夏の衣」と、書くのではないでしょうか。「夏の衣」「夏衣」は野良着、それも麻の野良着を意味します。仕事の汗で重い野良着を、ざんぶと水で濯ぎ、軒先に干したのでしょう。 ともかく五穀豊穣を神に向かって冀う時の只管な心、夢、それに働いて暮らす事の喜びを謳い上げた歌、といえるかも知れません。 ところで、このいろは歌に詠まれている、穀物は、古くからの日本語で「たなつも」と言いました。米、麦、粟、稗、大豆、小豆、黍、その他、諸々の雑穀を、あわせて「たなつも」と呼んでいたようです。庶民の食事は、神代の昔から、昭和の終戦後に至るまで概ね、これらのたなもつを合わせて炊いたものだった、とか。 してみると、本居宣長が詠んだ次の和歌二首は、非常に強い切実感を以て、迫ってまいります。 たなつもの百の木草も天照す 日の大神の恵み得てこそ 朝宵に物食ふごとに豊受の 神の恵みを思へ世の人 この二首は「玉鉾百首」という歌集に収められました。これは、日本古来の神々を拝む信仰、つまり神道の貴さを三十一文字の歌で讃えた歌集、という事もあって、神主さん達には今でも広く愛読されております。中でも、この二首が、神式の信仰生活を重んずる人々を中心に、よく知られるようになった訳は、神主さん達が二つの歌それぞれを食事の前と後に大きな声で唱えるよう、人々に勧めたからだ、と思われます。 つまり、一首目の「たなつもの」は、頂きます、を言う前に。そして二首目の「朝宵に」は、食事を済ませた後、御馳走様をいう前に唱えるのだそうです。 禅寺等では食前に、「五観文」というお経を朗々と唱えますね。「五観の偈」とも言われるこのお経は有名なので、例えば般若心経同様にそらんぜられる方も少なくない事と、思われます。即ち、 一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。 二つには己が徳行の全欠を忖って供に応ず。 云々 というものです。ここに謳われている事は要するに、眼前の食べ物に注がれたさまざまな働きを思って感謝する。自分はこの食べ物を頂くに値する者かどうか、徹底的に反省する。そして善い行いを為すからだ作りの良薬と思い定め、この食べ物をありがたく頂かせて戴く。という事でしょう。 宣長の和歌は、この「五観文」を和風に詠み換えたもの、とばかり僕は最初かんがえておりました。しかし、彼が生きた江戸時代後半は、天明大飢饉などの食糧危機が打ち続く厳しい社会情勢で、宣長はそういう歌を作らずにはいられない現実に直面していたのです。 実際、宣長は、農民の救済策を「玉くしげ」という本にまとめ、紀州藩主徳川治貞に上申しました。事態は切迫していた訳で、穀物を意味する「たなつも」という言葉に、宣長は痛々しいほどの重い響きを意識していたのではないか。僕にはそう思われます。 この辺で再び、話を唐木空蝉さんが詠んだいろは歌の事に戻しましょう。 伊那公園で、例の歌碑が建つ場所からは、南側に広々と伊那の平を見渡す事が出来ます。田畑と民家とが入り混じる風景はじつに閑かで、美しい。この歌碑をロシナンテで訪ねる度に、まめやいね、即ち穀物の実りを思うにはピッタリの場所である事をつくづく、感ずるのです。 それだけに、昨今の地域ニュースで伝えられる農業事情も思い起こされ、ふと胸が重くなります。というのも「グリーン経済」の名の下に企業などから農業への注目があつまる一方で、農業従事者の減少や、老齢化が年を追うごとに著しく、技術の途切れる事が憂慮される。そんなニュースがしばしば報ぜられるようになったからです。 思うに、農業は、作物の出来不出来とか、経済効果の上がり下がりだけで語り尽くせるものではないのかも知れませんね。つまり、農業を営むためには、農家が一定の数で集落を成すまとまりと、掟、また精神的な一体感、といったものが求められるのではないかと、思われるのです。更に言えば、農業に同業者の助け合いと支え合い、それにお互い同士育み合う精神性、などという要素が豊かに組み込まれている事は否定できない。だから農業それ自体が文明であり、文化である、とさえ言える。僕はそんな気がします。 となれば、農業を建て直す事はほんとうに、容易ならざることでしょう。こう考えると、いささか悲観的な気分になりますが、僕は、将来の人々の知恵や意欲に、一縷ののぞみを託したいとも思います。 それにしても、この「いろは」の歌碑が建つ場所から見はるかす伊那の風景は、じつに美しい。又、活力も熱く感じられます。僕も、この伊那の里に済む一人である事も思い併せると、言い知れぬ幸福感に包まれるのです。
2009.12.11
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電動車椅子ぶらり通信 百五十八話2009年4月・放送 ひたすら誠実に 鴨川につばめは多し巣を造る 古き軒端も残るにやあらむ 金原省吾 今の季節、陽気も穏やかな日にロシナンテで外を歩けば、ふと、この歌が口をついて出て参ります。伊那には鴨川こそ流れてはおりませんが、大小さまざまな河川、用水路が里も街も清く潤しております。別けても、室渡場橋より下流の小沢川風景に、京都鴨川の眺めさながらの風情を覚えるのは、僕だけかな?というのも、南北両岸には沢山の民家が軒を並べている。又、その辺りから、川に架かる橋が、数を増してくることもあって、歴史を重ねた人の暮らしが匂い立つように感じられるからです。常圓寺の杉木立を仰げば、丸山公園の桜も今は葉桜の装いが柔らかく、気分も又、閑かになりますね。 こんな訳で、室町から入舟にかけての小沢川界隈には、我等が伊那の郷土史においても、貴い価値をもつ建物が幾棟か残っております。そのひとつが、大正橋の北側たもとに建つモダンな近代建築、即ち、伊那デンタルクリニックであります。このクリニックがかつて、「橋場歯科医院」だった頃、今は亡き橋場先生に僕は度々、治療して頂きました。 先生は、僕の父と旧制伊那中学校、つまり現在の伊那北高校が同級だった誼から、僕に付添う父の勤めの都合に合わせてゆっくりと時間を割き、懇切丁寧に診て下さいました。障碍のため、全身にわたり不随意運動が強い僕を、よくも、常に優しく治療して下さったもの、と今更ながら橋場先生の温かいお心が身にしみます。 この橋場歯科医院の待合室には、診療室の入口に、小ぶりの扁額が掛けられてあったのを覚えています。毛筆による流麗な筆記体で、そこにはこう書かれてありました。 「歯科医療は、愛の仕事である。内村鑑三」 これについて後年、僕は次の事を知りました。明治の言論界に深く関わった反骨のキリスト者、内村鑑三は晩年、軽井沢の旅館「星野温泉」で過ごします。ある日、突然の歯痛を患って小諸の歯科医に診てもらったとか。それで、歯痛は立ち所に癒えたといいます。この時の感動を表したものが、件の金言なのだそうです。 さて、内村鑑三はこの星野温泉でもう一つ、重要な言葉を遺しました。それは星野温泉の若主人に請われて書いた、「成功の秘訣」という教訓です。折角ゆえ、十箇条に上るその全文をご紹介致しましょう。但し、原文では「一つ、何々」と書かれているのですが、聴覚だけに訴える有線放送の制約を考慮して、便宜上、ここでは各々の言葉に一、二、三と番号を割り振らせて戴きます。 では、お聴き下さい。 大正十五年七月二十六日 星野温泉若主人のために草す 成功の秘訣 六十六翁 内村鑑三一、自己に頼るべし、他人に頼るべからず。二、本を固うすべし、然らば事業自ずから発發 展すべし。三、急ぐべからず、自動車の如きも成るべく 徐行すべし。四、成功本位の米国主義に倣ふべからず、誠 実本位の日本主義に則るべし。五、乱費は罪悪なりと知るべし。六、能く天の命を聴いて行ふべし。自ら己が 運命を作らんと慾すべからず。七、雇人は兄弟と思ふべし、客人は家族とし て扱ふべし。八、誠実に由りて得たる信用は最大の財産な りと知るべし。九、清潔、整頓、堅実を主とすべし。十、人もし全世界を得るとも其霊魂を失はば 何の益あらんや。人生の目的は金銭を得 るにあらず。品性を完成するにあり。 文語体にしては平易で解りやすい文章ですが、それでもやはり、今では耳慣れない言葉もあるので、ひとつ補足を付け加えましょう。それは冒頭の署名についてです。 「六十六翁 内村鑑三」の「六十六翁」。この六十六翁の翁は「おきな」と書きます。翁とはおじいさんの事ですが、面白いことに二人称で他人から例えば内村翁、と呼ばれる時には尊敬語となるらしい。ところが、自分の事を指す時には謙遜語となるようなのです。つまり、この教訓の場合だと、「齡六十六の老いさらばえた男、内村鑑三がこれを認めます」 といった謙虚さがそこに折り畳まれている訳ですね。だものですから、一見した限りでは堅苦しく思われる本文全体に、柔らかさ、温かさが滲み出て、読者は肩から余分な力を抜き、静かな心で文章を読む事が出来るのです。じつに優しい気配りではありませんか。 それにしても、この教訓に謳われているのは凡て、尤も至極な事ばかりです。とくに四項目目の 成功本位の米國主義に倣ふべからず、誠 實本位の日本主義に則るべし。 は、たとい技術が至らず、よい結果が見込めない事でも心を込めて努力しなさい、という事を訴えている訳で、一応誰もが深く頷く徳目ですね。しかし、いわゆる金融経済が過熱するにつれ、「結果を残してこそ」という価値観が世に拡まりました。何事も目に見えるかたちで現われた成果がまず評価の対象になり、すべては貨幣価値に置き換えられる。そんな時代になったのです。こういう時代の風潮は、多くの人に、たまさかの好運を我が実力と勘違いさせてしまいました。「勝ち組」「負け組」といった言葉がその現われのひとつでしょう。 でも、よくよく考えてみれば、勝負の勝ち負けとか、金銭上の損得などということと、人間として豊かに生きる、という事の間にはどうも完全にイコールの方程式は成り立ちません。全く無関係、とまでは言い切れないにしても、うんと稼いで美味しいものを食べ、高級な服を着る。そんな贅沢をするという事と、人間としての豊かさを築き上げる、という事とは余り一致しないのです。でも、我々はつい、その辺を見誤ってしまいがちですね。このことをめぐる我々現代人の誤解を正してくれるのは、これから紹介する明治の人びとではないか。僕はそう考えています。 まず一人目は、わが郷土にも関わりの深い芸術家、中村不折です。ご存知のように不折は明治、大正、昭和を通じ、画壇の第一線で活躍した油絵の大御所的存在でした。当然、かなりの収入があった訳ですが、贅沢にはほとんど興味がなかったみたいです。酒たばこは一切やらず、ご馳走も食べなかった。絵を描いて稼いだお金は全部、当時は誰一人として見向きもしなかった、中国の書道関係資料の蒐集に使いました。その資料は、不折自身が建てた東京根岸の書道博物館に収蔵され、書の歴史研究には欠く事の出来ないもの、となっております。 さて、もう一人は、宮澤賢治です。賢治は今や、国民的文学者といった感じが濃厚ですが、もともとの本業は稲作のアドバイザーでした。但し、彼の場合、本業という言葉は、括弧で括らなくてはなりません。というのも、賢治はその稲作のアドバイスを全て無報酬、つまりボランティアでやったからです。彼が近在の農民に頼まれて書いた肥料設計書は、全部で凡そ、二千枚。彼が書き残した文学作品の原稿、つまり詩や童話の草稿が合わせて、約三千枚ですから、相当のエネルギーを費やして農業指導に当たった事が伺われますね。まあ、賢治さんはこういう無茶な事をしたために、三十七歳の若さで命を落としてしまった訳ですが、一生涯、農民のためにまごころを尽くす事で味わった充実感を思うと、僕は羨ましくなります。 中村不折と宮澤賢治。この二人が思いがけなく、一人の人物で接点をもっていた、という事を僕は最近知りました。それは、斎藤宗次郎、という無教会派のキリスト教信徒です。 岩手県の花巻に生まれ育ち、新聞販売業を細々と営んでいたようです。キリスト教徒である彼は、熱烈な法華経信者である宮澤賢治と何故か気が合い、親しくお付き合いしていたみたいですね。きっとお互い、各々の誠実さに共感し合ったのでしょう。 斎藤はまた、内村鑑三のお弟子でした。中村不折とは、内村もよく出入りしていた新宿中村屋の中村屋サロンで知り合ったもの、と思われます。 ところで、最晩年の内村鑑三は、弟子という弟子が皆、去って孤立無縁の境涯に立たされます。その内村の最期を看取ったのは、斎藤宗次郎でした。如何に慕わしいお師匠とはいっても、社会からすっかり突き放された人に寄り添うには、余程の尊敬心と、温かさが求められます。このことから、斎藤宗次郎につき、中村不折をして、「花巻のトルストイ」と言わしめた所以がよくわかります。 それはそれとして、誠実とはどういう事か。僕自身の日常を見つめると、しかと実感できます。僕の生活はホームヘルパーさんや移送支援に関わるNPOの方等、誠実を旨としなければ勤まらない職種の方々に支えられています。思えば、障碍の身に生まれたからこそ、さまざまな方々の誠実さに触れられるのです。そこから僕も、自分のまごころを練り上げて行きたいものです。
2009.11.25
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電動車椅子ぶらり通信 百五十七話2009年2月・放送 市街地循環バスの車窓から 市役所からロシナンテごと乗り込んだ市街地循環バスが日影の大型店前に留まった時、二人のご婦人が乗ってみえました。おつれか、と思ったお二人は初対面の方々らしいのです。それにしてはとても親しく語らっておられ、聞いている僕も楽しくなりました。 このうち、お一人は伊那市内の方で、御歳九十二。足取りも矍鑠としておられ、それ程のご高齢にはみえません。 もうお一人は、はるばる飯田市から電車で来た、という方でした。彼女が語る飯田地方の方言は、響きが柔らかく優しいもので、耳に残りました。同時に、三年前の秋、友人と連れ立って飯田へ旅したときの情景もふと、思い出されたものです。 今回は、そのお二人のご婦人の会話を聞いて感じた事に、飯田への旅の思い出を取り混ぜて、尚、市街地循環バスの窓から見つけたものも折り込みながら、あれやこれや取り留めもなくお話しさせて戴こうと思います。 まずは、飯田への旅の思い出から。 飯田市美術博物館は、JR飯田線飯田駅から徒歩でおよそ二十分のところにあります。平成十九年の秋、僕が、この博物館を友人と訪ねたのは、下伊那の山村に伝わる「霜月まつり」の特別展を見るためでした。その時の事は二年前の二月に放送されたこの番組で、「鬼と伊那谷」というタイトルの下、お話しさせて戴きましたっけ。 さて、旅したこの日、飯田駅から博物館までの道々、友人に車椅子を押して貰ったおかげで太宰春台の旧宅跡や、通りが碁盤の目に交差する昔ながらの市街地、和菓子の老舗など、間近に眺められました。そのため、ごく自然に、城下町飯田の床しさに触れられた訳です。 そこで道すがら、殊にわれわれの眼を惹いたものがあります。それは、飯田市立追手町小学校の校舎でした。ずっしりした中に、清らかな気品を感じさせる建物です。たいへん魅力的だったので、昼休みの頃合に立ち寄らせて戴きました。 伺えば昭和四年の竣工で、当時は最先端工法の鉄筋コンクリート造りだとか。その建物がこの年、即ち、平成十八年に国から登録有形文化財の指定を受けた、という事などこの時の僕はまだ知りませんでした。 さても、びっくりした事があります。じつは、わが伊那市にも飯田市立追手町小学校の校舎と同じく、昭和四年に完成した鉄筋コンクリート造りの建物があったんですね。その建物とは、伊那市立伊那小学校南校舎。昭和四十六年に刊行された「伊那小学校百年史」という本によると、その辺の経緯は凡そ次の通りです。 1児童の増加に伴って旧来の校舎が手狭と なった。そこで増築が検討されるに際し、 鉄筋コンクリートの施工が強く要望された。 2この要望を受けて当時の伊那町は約三万 円の予算を組むも、建設会社の見積額はそ の三倍の約九万円。 3これが政治問題化して議会は紛糾。町民 挙げての大議論が巻き起こり、当局糾弾の 演説会まで開催される。町長らは引責辞任 の止むなきに至り、ついには県から建設中 止命令が下る。 4事態収拾の為、町有力者による有志協議 会が結成され、再度建設継続が確認される。 5昭和四年七月三十日、晴れて落成式挙行。 このように見て参りますと、侃々諤々白熱した議論が髣髴としてきますし、当時、教育がじつは政治課題の第一義として尊重されていた、という事もよく解ります。 伊那市の近代建築という時、旧上伊那図書館が代表格であることは周知の事実ですね。しかし、この図書館が開かれた前年の昭和四年、同じ鉄筋コンクリート造りで築かれた建物があり、それが伊那小学校南校舎であったのです。実際、この校舎は一見平板で、さしたる工夫もないポストモダンの建物、と映りますが、よくよく眼を凝らせば窓枠など、じつに美しい。学舎の名を寸毫も疵つける事のない格調を、静かに湛えております。 近代建築の魅力、ということでもう一つ、お話しさせて下さい。別の日のことですが、これも市街地循環バスに乗った際のたいへん新鮮な発見でした。 それは商店街、なかんずく通り町に並んだ昔からの店舗が、ずいぶんお洒落なデザインに仕上げられている、という事です。コンクリート造りながら、御影石、トタン、モルタル等を素材に、こまやかな飾りや意匠が施されていて、美しい。つまり、一軒一軒のお店がそれぞれ際立った姿で、華やかに建ち並んでいるのです。そして、それが、如何にも目抜き通りらしい色とりどりのイメージを醸し出している。 通り町は、昭和二十四年の大火で、多くの建物が焼失したんだそうです。それで各々再建する際、以前の姿、つまり昭和初期のいわゆる「看板建築」を復元する、という方法を採ったようですね。 これも、歩道アーケードに遮られている上層階の家並が、車高の高いバスであればこそ発見できたのでしょう。この眺めも、伊那市の中では大切にしたい景観のひとつだ、という事をつくづく思いました。 さて、話を、最初の話題に戻しましょう。市街地循環バスに乗り合わせた、ご婦人二人の会話をめぐるお話です。 そこで、飯田から来た、というご婦人は、こんな事を語っておられました。「私は週に一度、伊那市まで買い物に来ますんの。だって伊那市には品数が多くてお安いお店が何軒もありますし、こうして巡り歩くに便利なバスもあって、楽しいですに。伊那市の皆さんは、賢くておありるからなん」 彼女のこの話をきいて、僕は今更ながら、伊那市における現在進行形のまちづくりが、まずはいい線で運んでいる、という事に気づき、つくづく感心したものです。市街地循環バス、それも、とくに所謂「イーナちゃんバス」のコースをしみじみ指でなぞれば、主要公共機関や大型店など、じつに絶妙なる一筆書きで結ばれているから舌を巻きますね。これを考えた人々は、ほんに「賢くておありる」と思いました。 しかし、市街地循環バスの年別利用者数は、どのコースも総じて下降線を辿っています。これに関連してバス利用をよびかけるPRを時折見聞きしますが、これはもはや、宣伝の工夫如何に留まる問題ではない。僕にはそう思えるのです。 というのも、さきほどのご婦人は二人とも高齢のためか、どちらも沢山の荷物をもって独り、乗り降りするのがとても大変そうに見えました。つまり、巡り歩くには便利なバスも、ある程度まとまった買い物に使うには苦労が伴う事も事実です。 そこで、僕はふと、思いつきました。 それは荷物の載せ下ろしに、またバスへの乗降そのものに何等かの手伝いをする工夫は考えられないものだろうか?という事です。例えば、バス停最寄りの公共機関や企業等のサービスとして、あるいは自主的な形態のボランティア活動として、そのやり方はいろいろあると思われます。 ともかく、どんな形でも、今一つの工夫を加味すれば、市街地循環バスに対する簡便なイメージや安心感が高まって、それなりに、利用者増加は期待出来るのではないでしょうか。もちろん、綿密なリサーチは必要かもしれません。それはそれとして、市街地循環バス存続の対応には、もうヒトヒネリのアイデアが求められる時機が来た事は確かです。 事のついでに、今し方の話の関連で、もう一つだけ、僕の極めて個人的な事情に基づく願望をお聞き戴けないでしょうか。 それというのも、まず結論からいえば、その市街地循環バスに、車掌さん、もしくは、車掌さんに近い役目が果たせる人。言ってみれば車内乗務員とも呼び得る人も乗車するよう、お考え頂きたい、という事であります。 僕の場合、バスに、電動車椅子ごと乗り降りするには、路面と乗降口との間に、スロープを差し渡して戴かなければなりません。又、料金の支払も、僕は手が不自由なために、他人様にお願いしなければならず、その方の手を煩わせてしまいます。今は、その都度、そういうお手伝いを運転士さんがやって下さるのですが、その分どうしても手間をかけてしまうので、申し訳のない気持ちになります。 そこで、先にもお話ししたように、例えば足腰が弱くてバスの乗り降りが苦労な方に、手を差し伸べて安全を守って上げるとか、僕のように車椅子ごと利用する者の補助、などといった仕事を専門に行う乗務員さんがいて下さればどんなに有難い事か、と思うのです。 なお、その延長で僕は又、こんな事も考えるんですよ。そのような仕事であれば、手足が利いて、或る程度理解力のある障碍者にもできるのではないかと。障害者自立支援法と関連法令の適用で、何とか実現しそうな気がします。ともかく、関係する方々に是非、ご検討をお願いしたいと思います。 市街地循環バスは、昔のお銭湯みたいに、巷のさまざまな情報が行き交う楽しい社交場ともなりましょう。より多くの方々に、市街地循環バスの利用をお奨めしたいものですね。
2009.10.29
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電動車椅子ぶらり通信 百五十六話2008年12月・放送 バリアリポート二〇〇八 ニューヨークのブロードウェイでロングランを記録しているミュージカルのひとつに、「オペラ座の怪人」があります。物語の舞台は言うまでもなく、フランスはパリ、そのパリ九区に建つオペラ座です。建物外側の壁や柱には、彫刻や装飾が夥しく施されているのでゴテゴテしたイメージは拭えません。正面から間近に仰げば、盛り込まれるものが過剰ともいえるそのデザインに僕は些か、辟易させられました。「オペラ座の怪人」も、眺めているだけで何かしら不気味な気分になる建物の印象に、作家のガストン・ルルーが触発されて生まれた物語なのでしょう。 それはさておき、このオペラ座に突き当たる道路を、オペラ・ガルニエ通りといいます。まことに幸運にも、僕は今からちょうど十年前の十二月、このパリへ旅するチャンスに恵まれました。旅の宿りは、このオペラ・ガルニエ通り沿いの古びたホテルで、オペラ座はわりと近くでしたね。 じつを申しますと、その頃は「電ぶら」を書き始めて二年目の時期だったのです。「電ぶら」のテーマは、バリアフリーの問題で、突き詰めればスロープとは何か、階段とは何か、という課題に集約できる筈、と僕は考えていました。この問題を見つめるのに、オペラ座は有益なヒントを与えてくれるのではないか。そういう期待を抱いていたのです。 その訳は、オペラ座には、美しさで有名な階段室があるからでした。この階段室を実際に自分の眼ではっきり見る。その事によって階段とは何かという問題を掘り下げる手がかりが得られるであろうし、またそこから、スロープの実体が見えてくるのではないか。そんな事を直感しました。 しかし、オペラ座の中はついぞ、見学出来ませんでしたね。確かに、オペラ座の前までは、母と散歩に出掛けたのですが、玄関には石段があったために、中へ入る事は諦めたのでした。その際、周りにいる人々に応援を請い、車椅子ごと僕を担い上げてもらう、という事もチラと考えたのですが、でも、そこまでして他人様の手を煩わせる程の事か? という逡巡に思い留った次第であります。 案の定、後々になって、「やっぱり、どんな手を使ってでもオペラ座のなかに入って、階段室だけは見ておくべきだったな」と、未練がましい思いが湧いてまいりました。けれども、もし、あの時、願望が叶えられて、階段室を見ていたら、それで満足してしまって、階段とは何か、スロープとは一体何だろう、という事につき、むしろ、余り考えなかったのではないかと思います。 ついては、今回、今まであれやこれや僕が思い巡りしてきた階段、およびスロープをめぐる問題について、皆様にお聞き頂きたいのです。そして、バリアフリーとはどういう事なのか、問題の本質について、少しでも具体的に迫りたいと存じます。これを以て今回は、「バリアリポート二〇〇八」とさせて下さい。 下伊那郡豊丘村の村役場村民センター。 このセンターには、巨大な円形スロープがあります。或る研修で訪ねた際、このスロープを利用してふと感ずる事がありました。 建築物に関わる法令では、公共施設等に設置されるスロープが車椅子等でも支障なく往き来できる程度に緩やかな勾配となるよう基準が定められています。そこで次の事につき、皆様の注意をたまわりたいのです。 それは、スロープの角度と、その距離との関係です。つまり距離が縮まれば角度が急になるし、距離を長くすれば、角度はなだらかなものとなる、という事。従って、より安全に登り降り可能な構造、という事であれば、角度がなだらかで距離の長い設計のスロープになる事はごくごく当然でしょう。 さあ、そこで、大変な問題となるのは、違うフロアへ移動するのに、スロープと階段とでは距離にしておよそ五倍、六倍の差がつくという事ですね。実際、次に挙げる伊那市内の建物にいらして、お試し戴ければ幸いです。 1社会保険事務局伊那事務所。 2ハローワーク伊那。 3伊那警察署等々。 いずれかの建物で、外から玄関に入ろうとする時、正面の階段を使えばせいぜい二、三段のぼれば到着する。ところが、スロープ伝いに行くと、歩数にして約十五から十八。この距離の差は圧倒的であります。 このようなスロープと階段とのギャップはそのまま、社会生活における障碍者と健常者との間にみられるステップアップの違いというものにも、置き換えられるでしょうね。 というのも、例えば、健常児なら小学校入学時から学習一筋に専念でき、階段を登る事さながら規則的に手堅く、成長課程を踏む事ができる。概ね、各学年相応の学力が身について高校、大学への進学がかない、やがては自分の希望や能力に合致した職に就ける、という訳です。 ところが、生まれつきの障碍を抱えている子供は、学校教育と並行して、障碍の治療や生活訓練を受けなければなりません。つまり、療育です。その場合、治療や訓練の為に学校の授業時間が割かれる、という事も十分あり得ますし、それで授業時間が減れば、勉強が遅れてしまうのですが、これは避けて通れないステップで、ある意味では社会へのスロープとも言えましょう。 僕自身、自分の来し方をふりかえるにつけ、ここまで登ってきたスロープの長さ、というものをつくづく感じます。障碍を抱えて手足に不自由を来したために、なにをするのにも他人様の手を煩わさなければねばならぬ、というスロープ。条件の不備や制度の上の壁で義務教育も普通学校へは通えなかったために、地元からは遠く離れた養護学校へ入学するしかなかったというスロープ。その事に伴う経歴上のさまざまな遅れによって、社会経済に関わるには行政の支援をひとつのスロープ、と頼まねばならない事。思えば、じつにさまざまなスロープを通るしかなかった事で、僕と健常者との間には目も暈む程の開きがある。その事には今更ながら唖然としてしまいます。 しかし、だからといって、この開きを埋めるための努力が免除される訳ではありません。弱音や愚痴をタラタラ零しながらも、前方へ遠く延びて行くスロープを一歩一歩ふみしめて、えっちらえっちら、登り行くしかないのです。 この辺で、そもそも階段とは何か、精神的な生活の視点から見つめてみたいと思います。 年に六回、取り組みが行われる大相撲。この大相撲は本来、スポーツではありません。神様に奉納される神事なのです。お相撲の行われる土俵はそのまま、相撲神といわれる次の神様三柱をお祠りする聖域でした。所謂、その相撲三神とは、次の神様方です。 戸隠大神。 鹿島大神。 野見宿禰尊。 このように、土俵が穢すべからざる場所、という事を示す設えの一つが、土俵の四方に設けられた三段の階です。つまり、土俵は、相撲の神様方が降臨する所である故に、元々は、力士、行司、呼出、そして検査役を含む相撲協会の役員等、相撲という神事に関わる男たちしか、階には、足がかけられない筈でした。 同様のものは能舞台にも見られます。舞台正面には、客席に向かって階が架けられておりますが、これは、決して実用の段梯子などではありません。能奉行といって、江戸時代に将軍家や大名に使えていた、能を管轄するお侍だけが、楽屋の能役者に上演を命ずる時にのみ、踏む事の出来る特別な設えだったのです。この階も、恐らくは神社に関わる古来のしきたりに習って、能舞台を神聖化するために編み出された工夫、つまり、切実な精神的デザインだったのではないか。僕は、そう考えています。 見方を換えると、階はステップというよりも、祭段に近いものだったのかも知れません。伝えられるところによると、出雲大社には、大昔、お社に、九十六段にも及ぶ高い階が、架けられていたのだそうですね。これは、とてもの事に、人がやすやすと昇り降りできる代物ではありません。遥かに拝む、と書いて遥拝といいますが、階は、高い所に在します神様に心を通わせる、遥拝のための祭段だったのかも知れませんね。 こう考えると、僕自身、僕の場合はこれでよかったんだと思う事があります。というのも、例えば高遠の鉾持神社や、西箕輪上戸の第六天などには、お社へ続く参道に随分長い階段が築かれております。余りの長さ、高さゆえ、僕の場合は、お願いして人手を頼んだとしても、それぞれの階段を登ることはまず無理で、お参りする事は出来ないものと残念に思っていました。しかし、いつとも知れぬ古い昔より、営々と築かれてきた階段の美しさを見つめる事。そして、その階段をお社へ続く祭段に、下から遥拝させて戴く事。これを僕の参拝としよう。そう思い直してみると、胸に、或る落ち着きを覚えるのです。 そうはいっても、車椅子使用者らは階段が使えない以上、実生活ではさまざまな面でスロープを通らねばなりません。スロープは、障碍者にとって可能性への架け橋なのですが、同時に、人によっては、如何に努力しても挽回できない遅れがある事を、まざまざと実感する坂道でもあります。
2009.10.28
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第2作目の本を出します。前著「車椅子のパンセ」のナゾリだなぁ「ロシナンテ飄々」長野日報社刊\2000よろしくお願い致します
2009.07.21
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電動車椅子ぶらり通信 百五十五話2008年10月・放送 病を見つめる目 僕が小学生の頃、大手出版社の学研とか、小学館などから、随分きれいな色刷の図鑑がたくさん、刊行され始めました。花とか蝶々などの美しい類はもちろんの事、魚、恐竜、宇宙の惑星など、幅広いジャンルに亘って、さまざまなシリーズが、出されたものです。 学校の図書室にそのような図鑑がそろえられる度、僕は嬉しくてうれしくて余念なしに見入りました。図鑑に対する好奇心。こうした好奇心を大人になった今でも強く刺激してくれるメディアの一つ。それはインターネットのホームページですね。 なかでも、楽しいのは、博物館、植物園や水族館、美術館などのホームページです。生中継の動く映像も組み込まれていたりして、実際にそこを訪ねているかのようなワクワク気分にもなる。興味は尽きません。 ところで、腹の虫が治らないという場合の「腹の虫」。いま、放送をお聴きの皆様に、この腹の虫を実際、ご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。正直を申しますと、僕はついぞ最近まで、腹の虫なるものにちゃんとした姿があるという事など知りませんでした。 と申しますのも、例の如く暇に飽かして、インターネットの博物館公式ページめぐりをしていた時の事です。あちらこちらに梯子の末、九州国立博物館のページに辿り着きました。そこで、なんとも奇怪千万な図鑑を発見。それは、縫い物につかう糸と針、という時の「針」。つぎは新聞の「聞」即ち、「聞く」という字。おしまいは書物の「書」。三つの文字を続けて音読みにすれば「針聞書」(しんもんしょ)となるのでしょう。しかし、正しくは訓読みで、「はりぎきがき」というのだそうです。この「針聞書」という図鑑に、「腹の虫」の正体が鮮やかな色彩で描かれてありました。 「針聞書」は、戦国時代の京都で編集されたものです。漢方の医学書、と見ていいかも知れません。いわゆる五臓六腑のしくみや、鍼とお灸の治療法が説かれてある訳ですが、もうひとつ、非常に珍しい特徴があります。それは、身体のさまざまな臓器に棲みついて、あれやこれやの病気を惹き起こす<蟲>が、おそろしく具体的に描き込まれている事ですね。その数は何と! 六十三匹にのぼります。そこにはさきほど挙げた腹の虫を始め、肝臓にいる「肝虫」、肺に棲む「肺虫」、また、薬の薬効を妨げる「亀積」、胃の中でわるさをする「血積」など、まさしくウジャウジャ、という感じですね。 なかには「蟯虫」なんてのもいるんですよ。但し、この場合の蟯虫は、その昔われわれもよく知っていた馴染み深いヤツとは可成り、違います。性格がとんでもなく陰湿で、どんなに些細な事でもそれが悪いことであれば、きっと地獄の閻魔大王に洗い浚い告げ口する、という実に有害な痴れ者です。 これらの蟲どもは、西洋医学の如何なる事典を繙いてみても、決して現われては参りません。それにしてはびっくりする程リアルで、じっくり閲覧していると、本当に気分が悪くなってくる。それゆえ、僕にはどうしても、酔狂や戯れ事で描いたもの、とは思えないのです。これを描いた人は、ちゃんと本当に、見たのでしょう。 ともかく、事程左様に、病を蔓延させては人が苦しむのを見てニンマリする蟲達の数々。その蟲達の図鑑「針聞書」をみているうち、僕は改めて、病気とは何か、われわれ人間は病気とどう向き合えばいいのか、考え込んでしまいました。これを取っ掛かりに、今回は、病について僕が今までに感じてきた事を整理してみたい、と思います。 もうだいぶまえのこと。あれは多分、僕から贈った結婚の祝いへの返礼なのでしょう。ご主人がプロテスタント系の出版社に勤めている友人から、旧約新約合本の聖書をもらいました。聖書は、ご存知の通り分厚い本ですし、内容も至るところ脈絡を欠いたりしているので、読むにはずいぶん骨でしたね。 しかし、旧約聖書のなかの或る物語を読むに及んで、衝撃を受けました。その物語とは、「ヨブ記」であります。物語の内容は凡そ、次のようにまとめられるでしょう。 ヨブという男は、神を熱烈に崇め、律法を堅く守って過ごしていた。神はその事を十分知った上で、なおヨブの信仰に洵があるかどうか試そうと、彼に重い病気の苦難を与えた。これは悪魔から神にもちかけられた賭け事のゲームだったのである。ヨブの信仰が本物ではないと踏んだ悪魔は賭けに自分が勝つものと思い込んで、病気の苦しみを重くして行く。しかし、ヨブは揺るぎない忍耐と信念で耐え抜き、ついには神の祝福を受け、夢のように幸せな暮らしを取り戻した。 このように粗筋は、味も素っ気もないよくある御利益の説話です。 しかし、仔細に読むと、「ヨブ記」の内容は、一風変わっている。寧ろ、宗教の教典に編まれる逸話としては、非常に際どい記録、といえるかも知れません。何故なら、ヨブは、謙虚さだとか、従順な心などという信仰の上の徳目はかなぐり捨てて、猛然と、神に食い下がる。神の教えを忠実に守り、律法の道を踏み外さないよう、自分自身を厳しく戒めているこの俺が、どのような罪と科で苦痛窮まりない病気に罹ったのか。神よ、はっきり、お示し願いたい。というのです。 それに対して、神は何も答えません。病気は重くなるばかりか、財産も、家族も、失って行きます。 そういうヨブを哀れに思った友達三人が、或る時、彼の許を見舞に訪ねました。初めのうち、彼らはヨブを慰めるのですが、ふと、友の一人が、ヨブに対して、譬え身に覚えがなくても犯した罪がある筈だから、悔い改めるよう進めます。ヨブは、いやだといって、断固拒否する。結末は、推して知るべしで、挙げ句が喧嘩別れ。身も蓋もありません。 余談ながら、こういう事ッて、今の世の中でもよくある話ぢゃありませんか。つまり、関係のうえではお互い対等である筈なのに、経験のあるなしとか、持つ者と持たない者、また助ける人と助けられる人、というその場の違いで、どちらか優位に立つ側が、相手につい意見する。それが仮に道理ではあっても、時として言われた側はギリギリの現実認識に、何とか自力の失地回復を試みている場合は、「うるせぇやい。アンタは、何様のつもりで俺を教え諭そうとしてやがんでぇ!」 なぁんて、反発を感じてしまいます。それでも最悪の事態に至るのを防ぐため、言われた側は、憤りの苦い唾をグッと呑み込み黙っていると、相手は笠に着て追い討ちをかける。言われた側はついに爆発して、関係は木端微塵にこわれちゃう。--ちょくちょくの事、とまでは言えませんが、ま、こうしたことは、健常者と障碍者の間でも起こりがちなもの。ヨブと友達の間に起きた関係の破綻は、或る面で、そういう避けるに避け難い危険性を暗示し、予言しているのかも知れません。 さて、病気が更に重くなって、息も絶えだえのヨブはなおも、神に自分の潔白を主張します。そして、病の訳を執拗に問い質しました。それに対して、怒りの言葉というかたちではあっても漸く、神からの返事がヨブに、雷の轟きで下るのです。 ここで大切なのは、神からどんな返事が下ったか、という事ではありません。神から返事が返ってきた、という事自体、ヨブにとっての救いであり、ヨブがこの時まで根気強く病の原因である自分の罪について、真正面から問い続けた事です。 ユダヤ教やキリスト教の信徒なら、当然、この物語に、信仰の心の強さという問題の手掛かりを探る事でしょう。異教徒である僕の眼にもそれは、頗る刺激的なテーマであります。しかし、それと同じくらいに、いや、それ以上に息を呑むほどの関心を覚えるのは、病気による痛さ、辛さ、苦しみから一歩も逃げようとしないヨブの強さなのです。 病気による痛さ、辛さ、苦しみ--この場合の病気を「障碍」と置き換えれば、自分には納得のいかない不幸な巡り合わせとは絶対妥協せぬ勇敢さにおいて、ヨブと僕との間には目も眩むほど大きな開きがある、という事をよくよく意識するしかありません。僕が、障碍による苦痛がなるたけ和らぐよう、まあまあのところで手を打ち、苦痛とうまく付き合おうとしているのに対し、ヨブは徹底抗戦で、苦痛そのものとがっぷりよつに組む。その中で、苦痛を篤と味わい尽くすのです。 さて、この場合、一体どちらが、自分自身に対して疚しさのない生き方なのだろうか?という問いを立てれば、瞬間にもう、答えが出てしまいましたね。つまり、病んでいるさなかのヨブは、外見上確かに病人なのですが、本質は全く健康な勇者なのだ、と僕はおもいます。 この旧約聖書「ヨブ記」に出会うまでの僕は、病気や、他さまざまな社会生活上のハンディについて、慣れるべきもの、あるいは、折り合いを着けるべきものと、ぼんやり考えていました。つまり、境遇として受け入れ、諦めるという事です。しかし、実生活では、結果的に病気などを含む理不尽な巡り合せとうまく折り合うにしても、状況次第ではいつでも激突で闘える鉾は、心に研いでおきたいものです。 かくて、もう一度、「針聞書」のいやみな病の蟲どもをホームページに覗き込めば、少しく可愛く見えるから不思議です。いつでも掛かってきな、という闘志も湧いて参ります。
2009.01.12
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電動車椅子ぶらり通信 百五十四話2008年8月・放送 本分を全うする 寿命を迎えた蛍光燈は、ペッカンペッカン頻繁に、しかも不規則に点滅しますね。これは「アノード・スポット」といって、蛍光燈の中の安定器という部分が故障した現象なのです。この「安定器」とは、蛍光燈ランプが点るのに必要な電圧を、スウィッチのオンからオフに至る間、微妙に調整し続ける装置で、蛍光燈の心臓部といえるかも知れません。 人間の運動神経にも、蛍光燈の場合の安定器とよく似通った働きが、脳と身体との間に組み込まれているんです。それは、運動機能を微妙に調整する機能で、「錐体外路系の運動神経指令伝達路」というのですが、まあ、込み入った話はこの辺に留めましょう。 僕の障碍は、脳性小児麻痺のアテトーゼタイプ、といいます。アテトーゼとは、自分の意思とは関係なく、手足などが動いてしまう症状、所謂、不随意運動の事です。原因は、脳の指令が、運動神経へスムーズに伝わらない事、つまり「錐体外路系」における一種の接触不良らしいのです。脳自体にも、身体そのものにも特別な問題がある訳ではなくて、その間の回路に、ほんの僅かなトラブルがあるためのもの、といわれますが、調べれば調べるほど、一体どうなっている事やら、僕自身、サッパリ解らないんですよ。 確認できる事は唯一つ、安定器が故障して、ランプが不規則に点滅する蛍光燈よろしく、顔面から足の先まで二六時中、筋肉が異常に緊張したり、くねくね、ぴくぴく動いちゃう事。呼吸の調節もままなりませんから、食事中も飲み込んだ食べ物が気管に入って、ゴホゴホ噎せる事しばしばですし、夜、床について眠るにしても、身体からはすっと力が抜けず、簡単には休めませんね。困ったものです。 とは言え、これも僕にとっては一つの出会いであり、役回りですから、アテトーゼとはこれからもなるたけ仲良くお付き合いさせて戴きましょう。 さて、今年のNHK大河ドラマ「篤姫」では、二枚目俳優堺雅人が、徳川家十三代将軍家定を見事に演じていましたね。本当は賢いのに、人前では愚かしく振る舞って見せる、というハムレットみたいなキャラクターを、巧みに表現していて僕は大変感心しました。 この徳川家定も、じつは軽いアテトーゼ型の脳性小児麻痺だったのではないか、と推量する資料を読んだ事があります。記録によると、家定は話をする際、声を出す度に首をうしろへ引く、という癖があったとか。これは、僕のアテトーゼ仲間にときおり見られる特徴なので、家定が脳性小児麻痺だった、とする説には少し、頷けますね。但し、あきらかな証拠がある訳ではありません。 それに較べて、お墓に眠る遺骨の状態から、この人は確かに、アテトーゼタイプの脳性小児麻痺だった、とほぼ定説化している人物がいるんですよ。 それは、徳川家九代将軍、家重です。 ところで、アテトーゼタイプのきわ立った特徴は、その一つに、言語の発音機能障害が挙げられます。この発音機能障害には障害の程度に幅があって、軽い人は初対面の人でも割にスッと話し言葉が聞き取られるのですが、障害が重度の人は声を出す事も困難なゆえ、お話しするという事も非常にむつかしい、というケースもあるのです。 僕の場合は、その中間くらいかな? それというのも、僕は一応お話し自体はふつうに出来るのですが、呼吸の調節がうまく行かない事と、唇やへらの動きがスムーズではないために、発音は明瞭ではありません。だから、身も蓋もない話になりますが、僕の言う事は判る人には解るけれど、解らない人には全然判らない。そんな感じですね。 家重の場合も、僕とよく似ていたらしいのです。家重が何か物を言っても、幕臣や大名達の殆どは、言葉がさっぱり聞き取れなかったとか。その中で唯ひとり、家重の肉声から正確に彼の意思を掬み取ったのは、側用人の大岡忠光だけだった、と伝えられています。尤も、幕府の行政改革に辣腕を揮い、老中にまで昇り詰めて位人臣をきわめた田沼意次も、家重によって側用人に取り立てられた人物でしたから、彼も家重の言葉をちゃんと理解していた、という事は想像に難くありません。 斯くて、幕府の中は、家重の言葉をめぐる<理解派>と、<無理解派>とに二分してしまう。謂わば徳川家重の人格に、征夷大将軍としての威厳や力量を認めるか、否かの対立が起きて、彼が将軍職に就こうとする時には、公然と反対運動が巻き起こるのです。しかし、彼の父にして八代将軍だった吉宗は、家重に後を嗣がせました。これについては、後世の歴史家達がいろいろな理由を論っておりますけれども、とどのつまり吉宗は、長男である家重に、武の束ねとして何ら遜色のない知性と、指導力とを認めたのではないか。僕は、そう考えております。 それにしても、言語障害の為、すは一大事の時、自らの号令で旗本八万騎に下知を発する事は難しい。また、幕府挙げて自分が完全に支持されている訳ではない。それをよくよく自覚した上で将軍に就いた家重は、非常に気が重かったのではないか、と思いますよ。しかし、史料を見る限り、家重の風格には、まことに、威風堂々たるものがあります。 家重のその精神力は一体、どのように育まれたものか。僕は気になって調べてみました。 家重の成長に関与した人物は、記録の上で少なくも二人確かめられます。一人は、養育掛りの土岐朝治という旗本です。このお武家については記録が少なく、余り判りません。もう一人は、室鳩巣という儒学者です。鳩巣は、御学問指南として家重に関わったのですが、彼の奉じた思想は窮屈な道徳規範である朱子学でしたから、家重に対して、さほどの感化を与えた、とは思われません。 この他に誰か、家重の精神的成長を促した人物はいなかったものか、しらべたところ、一人いたんですね。定月というお坊さんです。徳川家の菩提寺である増上寺の住職でした。家重と定月との間にどのような交流があったのか、僕は詳らかに知ってはおりません。しかし、次の事実から、二人はお互いに全幅の信頼をおき、深く尊敬し合っていた、という事が窺われるのです。 それは、定月が、徳川家重を開基として、妙定院というお寺を建てた事。また、定月は、家重遺愛の品を手許で大切にしていた、という事です。二人がお互い、肝胆相照す仲でなかったら、こんな事は考えられません。 ところで、定月が持っていた家重遺愛の品に、家重が自ら描いたといわれる墨絵があります。松島の景色を描いたもので、写真で見る限り、なかなか、いい絵だと思いました。それにしても、不随意運動の強い家重が一人で描いた、とは思えません。僕は、或る一人の坊さんが、家重に手を添えて上げて描いたのではないか。そんなふうに想像しているのです。今回は、残り時間があと僅かとなりましたが、本当は、その坊さんの話がしたかった。折角なので、まあお聞き下さい。 その坊さんとは、定月のお弟子で、月僊といいます。後に伊勢の国の寂照寺という寺の住職になりました。子供の頃から絵が好きで、一生涯描き続けます。ほぼ同じ時代の坊さんたち、例えば慈雲とか、白隠、仙涯、良寛などは、書画をよくかきしたね。でも、月僊は、そういう坊さん達以上に、描いて、描いて、描きまくった、という感じです。 そして、なお変わっている事には、描いた絵を全部、お金に換えている事でした。誰が頼んでも絵は描くが、その代わり必ず料金を取る。この事が世間から卑しまれて、乞食・月僊と呼ばれたりしました。そのように絵の描き賃として貯めたお金はざっと、二千両近くに上るもの、と見られます。現在の貨幣価値に換算すれば、概算で八千万円から二億五千万円までの間となる。いくらにしても凄い金額ですね。 しかし、月僊は、この莫大な金子を自分の飲み食いに散財した訳ではありません。一部を、寂照寺の修繕費に、また一千五百両を、「窮身永代救済」という名目で、伊勢の国を管轄する幕府の代官、山田奉行に上納しております。「窮身永代救済」とは早い話、困っている民草を救うお金のこと、といっていいでしょう。これは後々、「月僊金」という呼び名の基金となり、災害で苦しむ人々を支援する浄財として、明治維新まで活用され続けたそうです。 自分の絵を即、お金の引き換えにする事。考えれば芸術家として、宗教家として驕ったふてぶてしい態度であり、品性を欠きますね。しかし、たとえ傍目には慎みと節度を忘れた所業と映っても、月僊としては、そうせざるを得ない強烈な問題意識に、駆り立てられていたのです。つまり、出来る事であれば何でもやって手を尽くし、とにかく困っている人を助ける。これこそが僧侶の本分た。そう自覚したのではないでしょうか。 定月のもとで小僧をしていた増上寺時代、月僊は、ひょっとこ将軍だの、小便公方だのと、身体の障碍ゆえ巷でも罵られていた家重の噂を、聞いていたはずです。しかし、いざ対面した家重は、噂とは逆に、たくましさと、何者にも汚される事のない気品とを湛えていた。言い方を換えれば、将軍として足らざる所があってもなくても、自らの意志と努力で将軍の本分を全うしようとしている家重に、凄味を感じて、月僊は或る目覚めを体験した。 完全に開き直った月僊の生き様を追ってくると、そんな想像が湧くのです。まあ、今回は、家重に対して、些か肩入れのし過ぎかも知れません。ご容赦下さい。
2009.01.10
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電動車椅子ぶらり通信 百五十三話2008年6月・放送 クロウバーの小徑から 今、野原では赤詰草、白詰草、つまりクロウバーが、可憐な花を風に揺らしています。 このクロウバーは元々、ヨーロッパにおいて、傷みやすい物を梱包する際の緩衝材としても用いられていたんだそうですよ。江戸時代も終わり頃、オランダから医療機具を輸入した時、荷箱の中に詰め支われていたものが、クロウバーの干し草で、そこに付着していた種子が日本の土にも芽ぶき、ほぼ全国に亙って繁殖した、という訳です。「赤詰草」「白詰草」というクロウバーの和名はどうやら、荷物の詰め物に使われていた、その事に由来するようですね。 実際、僕は、このクロウバーがフワフワして柔らかい草である、という事を身体に触れる触感の記憶からよく知っております。なぜなら、クロウバーの叢の柔らかさが幼い頃の僕を外へ導き出し、不自由な身体の発達をそれなりに刺激してくれたからです。その思い出話を緒に、今回は僕が辿ってきた道の事や、歩き方の変化などについてふりかえりたいと思います。尚且つ、その中で、だれもが一生歩み続ける旅について、何程か掘り下げる事が密かな目論みなのです。あちらこちら枝葉を拡げるお喋りに収りが着くかどうか、今回も心配ですが、まあやってみましょう。 僕は四歳のころ、或る日突然、運動機能が改善して、膝立ち歩きが出来るようになりました。普通ではない歩き方とは言え、自分の思い通り、好きな場所へ行ける事がもう嬉しくて仕方ありません。そして、そうなると、家の中だけではなくて、外も歩きたくなった。 こういう僕の気持ちを解ってくれたのが、母です。母は厚手の布地に、雨合羽の防水素材やキルト地などを縫い合わせ、外出専用のズボンを作ってくれました。つまり、それは砂地や、泥地、砂利道など、どんな所を歩いても、膝歩きする僕の足が傷まないよう配慮してくれたズボンであります。それまでは、おんぶや乳母車で、父母に外へつれて行ってもらうのも楽しみだっていたのですが、独りの外歩きは又、嬉しかったですね。 僕の生まれは、西箕輪の大萱です。当時は家の周り一面、畑作地が拡がっていましたね。殊に、近くには牧草畑が広々とありました。そこに麦畑、家畜飼料のモロコシ畑、その他の野菜畑が隣り合っている。そのあいだに畔とも、里道ともつかぬ小徑が通っていて、クロウバーがビッシリ茂っていたものです。 母が作ってくれた外出専用のズボンを履き、このクロウバーの茂みを踏んで歩く心地好さは、ほんに例えようがありません。叢の柔らかさと、適度な弾力性に促され、僕はどこまでも膝立ちで歩いて行きました。今年のゴールデンウイークに西箕輪の親戚を訪ねた際、幼い頃に遊んだその徑がまだ残っている事にビィックリ。昔住んでいた我が家から、この親戚の家までの距離は片道、目算で、優に、ざっと、五百メートルはある。そこを、ほんの四、五歳だった僕はよくも、毎日のように行き来したなあ、と我ながら唖然とするばかりでした。思えば、あの時の膝立ち歩きが、僕にとっては最高の機能訓練だった訳ですね。 さて、六歳の時、僕は、療育を受けるため、下諏訪町の信濃整肢療護園に入りました。そこで、僕は、中学部に上がった時から、歩行器を使って歩くようになったのです。その時、僕は、二つの驚きを体験しました。どちらも、じつはそれまで膝立ち歩きだった為に気づかなかった発見でしたね。 一つ目の驚きは、歩く床の位置がひどく、遠退いて見えた事です。つまりこれは、或る種の一時的な高所恐怖症、とも言えるようなもので、立ち上がった為にグググッと視線が高くなったその事に最初は、眩暈と不安感を覚えましたね。 でも、この体験こそ、僕の物の見方、考え方を一変させました。それというのも、眼の位置が高くなった事で、物事の全体を俯瞰し、自分と周囲との結びつきにも思いが及ぶようになった。そんな気がするのです。 さて、二つ目の驚きは、窓の向こうに拡がる外の眺めの美しさです。これは療護園も、隣の諏訪養護学校も、廊下の窓が大体、床から一メートル位の高さにあって、膝立ち歩きしていた時には、空と雲しか見られませんでした。それが歩行器で歩き出した途端、花壇の花々や、芝生の緑、また丘の下遥かな諏訪湖のさざ波など、窓から僕の目に飛び込んできたのです。やっぱり外はいいなあ、外へ出たいなあ、という思いが強くなりました。 この感動が、高等部での新しい体験へと、つながるのです。 高等部では、学校の寮に入りました。寮生活では、単独の外出が自由で、休日には皆、映画やコンサート、買い物などに出掛けていましたね。そんな友達の事を見ていると一層、外の世界への憧れが刺激されて、一人部屋で勉強してばかりいられなくなる。でも、僕の場合、車椅子や歩行器では、外を一人で思い通りに歩く、という事は出来ません。 そこで考えたのが、小さかった頃そうしたように膝立ち歩きで街に行く、という事です。当時、僕が、こう考えたのには、これから先、自分が外界とのさまざまな結びつきをもつ上で、僕自身一人でも可能な方法はなにかないものか? と思い巡らした上での事でした。因みに、その頃はまだ、僕に操作できる電動車椅子はなかった時代です。 福祉とか、障碍者問題などというものについてはまだ、一般社会の関心がきわめて薄い時代でしたから、普通ではない歩き方の僕に対する往来の人の視線には、見られると辛くなるものがありましたね。しかし、それだからといって膝立ち歩きを諦める気にはなりませんでした。僕の場合、立って歩けない以上、そのようにして自分の道を切り拓いて行くしかないと思ったからです。実際高等部の三年間、上諏訪の街を、まあ、よく歩きましたよ。 けれども、そこで僕は、重大な問題にぶつかります。膝立ちで歩いた道が、幼い頃遊んだクロウバーの茂る柔らかい小徑とは違って、冷たく固いコンクリートの歩道ですから、膝を酷く傷めてしまいました。お医者さんからは、「こんな事を続けていると、膝から下を切らなければならなくなるかも知れないよ」とまで、言われてしまった次第です。 こんな訳で、学校を卒業してからも、僕は膝立ち歩きで行きたいところへ出掛けよう、と考えていた計画はすっかり、頓挫してしまいました。家に帰ってから電動車椅子を入手したものの、僕が独りで外出するのに、何か危険な事が起きた場合、手足が不自由で言語も他人様には聞き取りづらい僕では、適切な対応が出来ないのではないか、という心配が、僕を、引っ込み思案にしていた、という事は、以前、第百五十話の放送でも、お話しした通りです。 平成七年の七月にふっと、独りで外出したのを切っ掛けに、伊那市の街と僕個人との距離はぐぐっと縮まるのですが、それまでの時間、つまり、諏訪から伊那へ戻って、僕単独で外出するようになるまでの約二十年間は、専ら家の中で過ごしました。確かに、そとへ出掛ける事はありましたが、その際はいつもちちははに付添ってもらっていたのです。 では、その間、何をしていたかといえば、ラジオやテレビの番組の批評を書いて、放送局に送るモニターの仕事と、読書です。つまり、読むか、書くかの生活で、外界とは殆ど没交渉でした。自分では外に出られない、というそのような制約を逆手にとって、むしろ観念を磨く仕事をしよう、とさえ考えた事もあります。例えばマルセル・プルーストだとか、ジェームス・ジョイス、日本では泉鏡花、内田百 など、その種のいわゆる幻想文学で名を成した人々がいる、という事を本を読む中で知ったからです。けれども、あれやこれやの試みを重ねるほどに、それは水晶のように透明な感受性と、特殊な詩的才能を生まれながら授かった天才にして漸く可能、という事をつくづく思い知りました。僕はやっぱり、できるだけ多くの人々との対話を重ね、さまざまな物事を自分で直接見聞きしなければ、他人様に読んで頂けるものは書けない、という事が実感できただけでも、家の中でものを読んだり書いたりする体験は有意義で、或る意味では一つの旅だった、と考えています。この事はいずれ又、機会を改めてお話しさせて戴くるかも知れません。 こんなふうに僕自身の今までをふりかえると、案外いろいろな道をさまざまな歩き方で過ぎて来たんだな、なんて我ながらすこし、不思議な気がします。そして、やっぱり、僕の場合のそれも、誰の人生と同じく、長い旅である事が確かめられるんですね。 ところで、「旅」という言葉には、じつに、数おおくの意味や語彙が含まれております。散策、散歩、遊山、逍遥、周遊、行脚、巡礼、跋渉、遊行、放浪、漂泊などと、種々様々な形態の旅行が「旅」という言葉一言に畳み込まれている。つまり、「旅」という単語は、歩く事に関わる行動や体験すべてが旅であり、のみならず、その「旅」について思い巡らせる事もまた「旅」だ、という事も暗示しているのです。若しかすると、「旅」という言葉は、その一言のなかに、パノラマの拡がりをもつ物語を秘めている。そして、如何なる体験にも恐れずまずは第一歩を踏み出すよう、我々を強く急き立てる、そんなエネルギーを滾らせているのかも知れません。 これからも、予期していなかった体験を迫られて、怯みそうになった時、クロウバーの小徑をどこまでも突き進んだ幼い頃の元気を、思い起こしたいものです。
2009.01.08
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電動車椅子ぶらり通信 百五十二話2008年4月・放送 花をおもう 散る桜の花びらを身に浴びながら春日公園の坂を東へ下り、旧伊澤家住宅の前を過ぎて、更に右へ下ると一軒の料亭があります。その門先に、床しき和歌を刻む歌碑一基。これも、電動車椅子ロシナンテに乗った座席からの低い視線、そして、のろのろと行く歩み、それらに導かれた発見でした。 さて、この歌碑に詠まれた歌は、 ちらぬまにたちかへるべき道なれば みやこのつとに花もをらまし 作は宗良親王です。御父君は後醍醐天皇で、南北朝の動乱期、旅にいくさし、旅に和歌を詠ぜられた悲しい運めの皇子であらせられました。いわゆる雲の上の人なのですが、常に仇と斬り結ぶための太刀を佩き、戦の鎧を身に着けておられた点において、宗良親王は又、最前線の武人でもあられた、といえましょう。古来、例えば、万葉における大伴家持、源平合戦に散った平忠度、鎌倉幕府将軍の源實朝ら、武人にして美しい調べの和歌を生んだ歌人は、すこぶる類稀です。そういう人々の事を僕は、雅雄と呼びたい。そして、宗良親王は、この雅雄の系譜に連なる大切な方ではないか--僕は、そう考えております。伊那と所縁深き皇子、ということもありますが、ともかく、僕は、宗良親王の事が好きです。 さて、件の歌、 ちらぬまにたちかへるべき道なれば みやこのつとに花もをらまし を、いつものように唐澤浩風の詩として、次の如く読み換え、味わいたいと思います。 おお、喜びの春よ! 桜の蕾も瑞々しくふくらむ幸福の季節よ! 私の巡り合わせが若し平穏無事であった なら、今すぐ、懐かしい都へ戻りたい。 ああ、えもいわれずかぐわしき都の曙よ。 その都の曙に花開く桜花よ。 花の小枝の一枝を手折る嬉しさよ。 ところで、下の句の みやこのつとに花を折らまし とは、「ふつうなら、京の朝早く桜の枝を折るものを」という程の意味です。でも結句に置かれた「折らまし」という助動詞の響き。中でも終いの「まし」という発音には、恰も、「バシッ!」とか、「ギシギシギシッ!」などといった音を思わせるなにかがあります。そこに、静けさを劈く雷鳴のような鋭さと、凄味とを感ずるのは僕だけでしょうか。ともあれ、この歌には、慌ただしい戦のただ中で、のどかな京の桜を折る事のできない現実への恨みが隠されている事は間違いありますまい。 この辺で、少し、別のお話に逸れましょう。今、流れているのは、ドイツの作曲家グスタフ・ランゲが書いたピアノ曲「花の歌」です。これをBGMにして、僕がふと気づいた事をお喋りさせて下さい。 宗良親王とほぼ同時代の人に、夢窓疎石というお坊さんがいました。一説によると駒ヶ根光前寺、庫厘のお庭は、夢窓の作だという事ですが、定かではありません。 それはともかく、夢窓は、南北にわかれて相敵対する後醍醐天皇、足利尊氏双方から篤く信頼されていたようです。中でも、尊氏の弟、直義からは殊の外、慕われていたようですね。 この南北朝時代における社会的混乱。その原因の一つは、初期室町幕府の「二頭政治」と呼ばれる込み入った組織体制にあるのかも知れません。つまり、軍事は兄さんの尊氏が統率し、政務は弟の直義が受け持つ、という形です。丁度、現在の内閣に擬えれば、防衛大臣と内閣官房長官の二人がともに統率権を握り、総理大臣は不在、という状況をご想像戴ければいい、と思います。 これでは、お公家さん以下、武士、官僚の凡てに亘って、どちらかの勢力に取り込まれずにはいられなくなる。すると、もともとは優しくて仲良し兄弟の尊氏、直義も苛烈な現実に引きずられて、折り合う余地のない確執を激しうする事は当たり前です。 渦中の直義は、そういう現実に苦しみ悩んだようですね。心の先生と仰いだ夢窓を頼み、禅の道に打ち込みます。この直義に、夢窓は「夢中問答集」という本を書き与えました。 さて、その「夢中問答集」を読んで、じつを申しますと、僕は、随分長い間、胸に引っ掛かるものを感じていたのです。 それは内外の「内」に、魔物の「魔」と書いて「内魔」。この「内魔」という言葉の意味に、僕は頭を抱え込んできました。「内魔」は悟りを妨げる差し障りの事で、そこには、瞋りや貪りの心が含まれる、というのです。これについて当然至極で、頷けますね。 問題は、その続きでした。「内魔」には又、病気も含まれるのだそうです。どうしてかといえば、病気は、日々の修行を妨げるから、という事です。これを初めて読んだ時の僕は、それなら生まれつきの病や障碍で修行できない者は最初から、所謂、人格を完成させる道は閉ざされているのか、などと、じつに短絡的な疑問や反発を覚えたものです。 しかし、今もう一度読み返してみると、僕自身、まるっきり当たり前すぎる事を見落していた、という事に気づきました。それは、この本が、足利直義個人のために書いた夢窓疎石のプライベートメッセージである、という事です。つまり、夢窓が直義の性格を知り尽くし、直義なりの生き方を見出させるよう正しく導くため、書き送ったものであって、一般論ではない。それをよくよく酌んで読まなくては真意が見えなくなる。そういう事に思い至りました。 思えば、時代を問わず、誰にでもよくある自然な対話の体験ですね。お医者さんが患者を、先生が生徒を、また親が子供を諭したり、励ましたりする場合、他人が聞けば時に差別的な発言、と受け取られ兼ねない事を言って聞かせる。これは極めて微妙な問題で、慎重に考えねばなりません。しかし、その人個人の生きる力を呼び起こす局面において、どうしても、他人には聞かせられない事を言うしかない場合があるものです。何を読む場合でも、それは誰が誰に向かって何の為に書いたものなのか、十二分に考慮する事は、非常に大切なのでしょう。 事のついでにもう一つ、僕の空想をお聞き戴けませんか。 だいぶ以前、この番組で、癩病患者の救済に一生を尽くした鎌倉時代のお坊さん、忍性の事をお話ししました。その忍性が亡くなった後、後醍醐天皇は、彼に対して、「菩薩」という賜号、つまり、徳の高いお坊さんに、天皇が宣下する称号を贈ります。 忍性が恵まれない人々をあずかってお世話した「北山十八間戸」は、奈良坂の高台にあって、眼下に東大寺や興福寺などが見渡せる眺めの美しさが、売り物だったみたいですね。又、その時代、興福寺は、八重桜の名所だったそうです。春の眺めの価千金なる事、推して知るべし、というべきで、庭作りの名手でもあった夢窓がそこに立ち、花の風景から、忍性の徳に触れて感じ入ったことは、想像に難くありません。忍性に対する菩薩号の宣下も、恐らくは、夢窓の進言あっての事であったにせよ、不思議ではないと思います。 さて、再び宗良親王の和歌について、話題を戻しましょう。 件の歌に詠まれた下の句には、 みやこのつとに花を折らまし とあります。 花を折らまし--桜を折る--咲いた花の小枝を折る--なぜ枝を折りたいのか-- それは、手折った桜の小枝を髪や、烏帽子の挿頭しにするためでした。咲いた桜を頭に挿す事。これは、いつとも知れぬ遥か昔より、われわれ日本人の祖先にとっては無上の喜びであったらしいのです。 櫻に、児童生徒の「児」と書いて「櫻児」。この「櫻児」という名の美しい娘がいました。昔もむかし、そのまた昔のことであります。この櫻児に二人の青年が恋をします。二夫に嫁ぐ事はできないため、櫻児は深く悩み苦しんだ末に、死んでしまいます。 それを悲しんだ男の一人は次の歌を詠みました。 春さらば挿頭しにせむと我が思ひし 櫻の花は散りにけるかも ほんの枝先でよい、とにかく桜の花を頭に挿しさえすれば、もうそれで思いが遂げられて満足する。こういう純真な気持ちを素直に物語った歌であります。 桜の樹の保護の為、今では桜の枝を折る事などもってのほか、というモラルが行き渡りました。それはそれで非常に大切な事なのですが、一方で、そのモラルが桜と日本人との関わりを変質させてしまっている。ぼくには、そう感じられてなりません。 つまり、桜花は見るための園芸花木となり、日本人の魂を優しく蘇生させる春の精霊ではなくなってしまいました。枝を折る事は良くありませんが、この枝を折って挿頭しにする風習は、桜花と日本人とが春に交わす神聖な抱擁であった事を心に留めおきたいものです。
2009.01.06
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電動車椅子ぶらり通信 百五十一話2008年2月・放送 道化師 あと二日ほどで二月も下旬。弥生三月は、すぐそこまで来ております。とは申しましても、まだまだ防寒着は手放せません。 その場合、今の時代だと、取り敢えず肌着の上に着用するものとして、繊維が厚く編み込まれているセーターだとか、トレーナーなどが至極、重宝ですね。 そうした冬着のトレーナーやセーターを裏返し、手に取って篤とながめれば、柔らかな質感に、心持ちも何か知ら温かくなって参ります。それは所謂「裏起毛」の風合いですね。ぶつぶつして如何にも肉厚な繊維の折り目、又、綿毛がふんわりした様子など、見るからにホカホカしていますよ。 この「裏起毛」は、ベージュ色をした昔ながらの肌着、つまり、ラクダのシャツや股引にも見られますね。この「裏起毛」は一体、どのようにして作られるのでしょう? じつを申しますと、それについて僕はちゃんと知っているんです。折角なので今日は、全世界に張りめぐらした唐澤浩独自の情報網。その情報網を駆使して得た資料を素に、「裏起毛」というものが如何にして産み出されるか、伝統の製法に隠された秘密の技術の一端につき、放送をお聞きの皆さんにだけ、お話し致しましょう。さて、よろしいでしょうか、これは、兎にも角にも第一級の極秘事項なので、呉々も、どうか、くれぐれも、御内密に願います。 エッヘン!(大げさに咳ばらい) あの「裏起毛」てぇものは、夏場に作られるんですねぇ。材料は何か、と申しますに、これが、じつに驚くべき事ですが、なんと!三度のご飯に頂戴する事の多いおかずの一つ、即ち、お豆腐なんですッて。その豆腐を、真夏の蒸暑い時季、なるたけ湿度の高い場所に持って行って置いておく。するってぇと、いわゆる、醗酵現象が起きます。やがて、真っ白の滑らかな表面はやや褐色掛り、ボウッと細い毛がフワフワフワァッと生えてくる。その頃合を見計らって、程よく毛がはえ揃った部分を切り取り、シャツとかセーターの裏にペタペタ貼り付ければ、ハイ、裏起毛の出来上がりなんだそうですよ・・・・・ なぁんて、そんな事はある筈がありません。いや、冗談が過ぎました。全く以て相済みません。以上は、東京落語の演目にある「酢豆腐」という噺から引用して、僕が勝手に膨らませた捏ち上げです。話の本筋には然して関わりをもたない与太郎が、腐った豆腐の表面を見て、 「何だか、シャツの裏みてぇだね。あ、そ うかぁ! シャツの裏ってぇのは、こう いうふうにこせぇるのか!」 そう呟いて感心する、その一件りを藉りたほんの無駄話でありました。ついでながら、この「酢豆腐」は、今NHKで放映されている朝ドラの「ちりとてちん」。この「ちりとてちん」という上方落語の演目の元ネタに使われた随分古い江戸の噺なんだそうですよ。尚、噺にシャツが出てくるのは、明治以降、この噺が大坂から東京へ逆輸入され、再構成されたためだ、という事です。 ところで、この噺にチョイ役として登場する<与太郎>は、東京落語、もしくは、古い江戸落語にしばしば現われる重要人物です。といっても、お馴染みの八っつぁん、熊さんみたいな威勢のよさはありません。むしろ、始終ボウッとしていて、考えも、行動も全てが、世の中全体の歯車からは可成り遅れたスローテンポ。それ故、何かにつけて、トラブルを起こします。 しかし、長屋の仲間は、世話が焼ける<与太郎>を邪険にあしらうことはありません。反対に、温かく労って上げている。まあ、次の遣り取りをお聞き下さい。 「そんな訳でね、あたいは困るほど困って んだよ。後生だからさぁ、あたいを助ける と思ってあたいを助けておくれよ」 「なにょう? あたいを助けると思って、 あたいを助けろだと? 相変わらずろくに 口の利き方も知りゃあしねえ野郎だなぁ、 おめぇは。仕様がねぇなぁ、ったく。まあ いいよ、いいよ安心しな。俺がついて行っ て代りに話を着けてやるから」 「そうかい。こいつぁ助かる。やっぱり、 あたいは、おめぇさえ放っちゃ措けねぇ程 大した男ってことかぃ?」 「くだらねぇ事を言ってニタァッとするん じゃねえ。さっさと俺について来い!」 こんな案配で、もそもそ、あっけらかんと生きる<与太郎>は、周囲を騒動に巻き込むのですが、何をしでかしても、決して、仲間から疎まれる事のないその関係を、僕は大変尊く思っています。 戦前までの東京に、江戸気質として、社会のペースに乗り切れない人、また世間の常識を学ぼうにも、何等かのハンディで学べない人のしくじりを許す寛容な心があったのかどうか、戦後生まれの僕には全く、判りません。しかし、少なくも東京落語の世界では、世事万般に疎い<与太郎>を、長屋の住人の欠くべからざる一人として、語られているのです。仲間から温かく受け入れられている設定で物語られているために、彼がどんな道化を演じても、後味には惨めさが残らないのかも知れませんね。 さて、<与太郎>に代表される道化は、落語以外の芸能にも、さまざまな姿で登場します。例えば、歌舞伎だと「半道敵」といって、かなりオッチョコチョイの悪役に現われます。顔は全面白塗りで、垂れ目の隈取り。身成は安っぽい派手目の衣装、とパターンが決まっておりまして、見てすぐに、変な奴だと判る。力がない癖に、二枚目の前でチャカチャカ動き回り、相手が指で一突きもしないまえから頭を抱え込んで引っ込む、という役柄ですね。憎むに憎めません。 この「半道敵」は「仮名手本忠臣蔵」や、「義経千本桜」、又「菅原伝授手習鑑」などといった時代物の狂言には必ず、登場します。恐らく、これらのお芝居は通しで舞台にかけると大変長時間に及ぶ上、悲劇性も強い為に、物語の息継ぎとして、「半道敵」はどうしても必要だったのでしょう。そして、それが、寧ろ、物語にあらたな緊張感を呼び込む引き立て役、となっているようです。 現代の時代劇になると、この「半道敵」は、悪人から善人へ役柄を換えて、そっくり現われる。「水戸黄門」の<うっかり八兵衛>とか、「銭形平次」では<三の輪の万七親分>、また、吉川英治の原作を元に映画やテレビのドラマで放映されてきた「宮本武蔵」では、<又八>などが、歌舞伎から生まれ変わった「半道敵」ではないか、と僕は考えています。極めつけは、志村けんの<バカ殿>かも知れませんね。いずれも滑稽な上に、力が弱い、という点が特徴でしょう。 日本におけるこのような道化の歴史は、神話の時代にまで遡るようです。物事の秩序全体を混ぜっ返すトリックスターとしての性格も考えると、須佐之男命がフロンティアであるように思われます。以後、お神楽、田楽、猿楽、狂言などを通して、日本の道化は連綿と受け継がれ、生き続けて参りました。 さて、別のお話に移りましょう。今度は、西洋の道化をめぐるお話です。 西洋のゲームカードであるトランプに紛れ込んでいる不可思議な札のジョーカー。このジョーカーこそ、道化の正体といえるようですね。但し、サーカスなどに登場する愛嬌者のピエロとはちょっと違います。 ジョーカーはジェスターとも呼ばれ、ヨーロッパではかなり昔から、宮廷に抱え込まれていました。彼らの役目は、王様に仕える事ではありません。その逆で、王候貴族に面と向い遠慮会釈なくずけずけと、きつい冗談や罵詈雑言を浴びせ掛ける事だった。 その好い例を、シェイクスピアの「リア王」に見る事が出来ます。フール、即ち阿呆と呼ばれる道化は、リア王に向かって、「おっさん、あんたみたいに知恵のない人間は、年を取らない方がいいぜ」などといった毒舌を、次ぎつぎにぶつけるのです。それに対して、リア王は怒る事がない。これは、道化からきつく罵られるのを他人に見せる事によって、人から妬まれたり、恨まれたりするのを防ぐ。そうした風習がヨーロッパにあったためだといわれますが、その訳は今一つ判りません。 ともかく、家来から諌められるのを聞かない王様でも、ジョーカーの悪態には付き合わざるを得ず、否応なしに良識が磨かれて行ったようですね。 一説によると、そうしたジョーカーは小人症や巨人症、その他さまざまな障碍者から、選ばれたそうです。これを以て、或る学者は次のように言います。すなわち、もし、それが事実なら、これは明らかに、笑い物のターゲットとして障碍者は差別された訳で、よりよい社会構築のためにも、マイナスの教訓として活かされるべきだ、と。 確かにそれはそうなのだろうと、僕も思います。同時に、僕は又、こんな事も考えるのです。薄情な笑いが投げつけられても、彼らは逞しく人並に伍して来たのであって、そういう強さは障碍の有る無しに関わらず、誰もが養うべきものなのではないでしょうか。 もつれにもつれ、行き詰まった現実を打開する笑い。その笑いを創造するのは道化師なのですが、諸般世知辛くなった今ほど、道化師が生まれづらい世の中はない。そう感ずるのは、僕だけかな?
2008.12.31
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電動車椅子ぶらり通信 百五十話2007年12月・放送 道端でちょいと一休み この番組でもしばしばお話ししているように、僕は自分が知りたい事を直接見聞きするため、とあらば、電動車椅子ロシナンテでどこへでも出掛けます。伊那市内のいろいろな公共機関や民間施設などの建物は勿論の事、例えば井筋と呼ばれる昔からのせせらぎとか、今にも風で掻き消されるか、と思われるような古くて細い路地など、訪ねる先は四方八方。また時にはロシナンテごと電車に乗り込んで、他の街へも出向く、という事は以前この番組でも、お話ししましたっけ。 こんな僕を見て、或る友達曰く、「いやぁ、君はなんて元気なんだろう。思い立つと、どこへでもフイッと行っちまうんだから、まるで車椅子の寅さんだね。いったい、地球を何周分、歩くつもりかい?」 確かに、僕は、「歩くの大好き」人間ですから、この友達の言は当たらずとも遠からずでしょう。しかし、そうは言っても、こんな唐澤浩とて生身の人間ゆえ草臥れる事もあります。また我が愛車ロシナンテも、あんまり歩き続けていると、思いがけない所でバッテリー切れ、という事態へと陥り兼ねません。 ついては、この辺りで、ロシナンテをやや広めの路肩に停めて、一服することに致しましょう。そして、今来た道を振り返ってみたい、と思います。 一回に五つのお話をまとめてお聴き戴いた<週間シリーズ>から、隔月一度の放送へと切り換わったのが、六年前の平成十三年二月です。前年の十二月に第百話を終えて、第百一話から始まる、という丁度きりのよい時期でありました。 更に遡って、そもそも、この「電動車椅子ぶらり通信」という番組が始まったのは、今からキッカリ十年前の平成九年九月のこと。さまざまな方々のご協力を頂いたおかげ、とはいえ、これほどにまで長く続けさせて頂く番組になろうとは、少なくも僕に限っていうと全く、夢にさえ思いませんでしたね。 さて、今の地点からトボトボと歩んで来た道のりを省みると、ひとつ、極めて特徴的な事実に眼を瞠らされます。それは「電動車椅子ぶらり通信」を書き始めた辺りから、道にロシナンテの刻む轍が俄然、クッキリふかくなっている、という事であります。 この番組でも度々お話ししてきたように、僕は身体の障碍の治療を受けるため、また義務教育を受ける必要から、肢体不自由児療育の専門機関である下諏訪町の信濃整肢療護園に、六歳で入りました。県立諏訪養護学校高等部の三年間も加えると、足掛け十三年間、親許や生れ故郷の伊那を離れ、諏訪で過ごした事になります。しかも、それが丁度心身の発達期、成長期であったことを思うと尚更、この十三年間はずいぶん長く感じられますね。 実際、その時期お世話になった看護婦さんや保母さん、また学校の先生方は殆どが生粋の諏訪人でいらっしゃった。新聞などから伝えられる情報は専ら、諏訪地方の話題。加えて、朝な夕なにいつも飲む水は、霧ケ峰高原一帯から伏流して、下諏訪の里に湧き出る、つめたぁい諏訪のま清水です。 このような環境の下で、漸う物心着く時分から生活していると、気質もその風土に感化される、という事は自然の道理、というものなのでしょうか。学校を卒業して伊那の家に帰ってからは暫くの歳月、なにやら自分が遠来の異邦人みたいに感じられました。信濃整肢療護園に入るまでの幼い頃は、母が作ってくれた外出用のズボンを履き、膝立ち歩きで毎日のように外へ出掛け遊んでいたものです。そんなふうにして元々は伊那の空気に馴染んでいたのに、その頃の感覚がどうも諏訪における体験で大方、書き換えられてしまったのか、周りの環境とさまざまな関わりを結ぶ勘、というものが一向甦っては来ませんでしたね。 地元社会との関係におけるこうした或る種の空白状態が一変したのには、二つの切っ掛けがありました。 一つ目は、以前にもこの番組でもお話ししたように、まちづくりのボランティアグループである<サークル・ひまわりのたね>に参加させてもらった事。 二つ目は、伊那市社協報「ふくし伊那」、および、この有線放送<いなあいネット>で発表する「電動車椅子ぶらり通信」の原稿を書く、という仕事に巡り合った事です。 この二つを通じて僕は、より具体的に、又より親密に、身の周りの地域社会との絆を結ぶ事が出来るようになりました。つまり、伊那市という街の中に、話し言葉が聞き取りづらい僕とじかにお付き合い下さる方々が少しずつ増え、その絡みから気軽に立ち寄る事の出来る所がほうぼうに出来るようになった。加えて、街づくりをめぐるさまざまな事業や活動にも、関わらせて頂く機会も増えた、という事です。 そればかりではありません。例えば、空に浮かぶ雲の形の神秘的な魅力だとか、伊那の景観の明るさ、奥深さなど、ふるさとの風土の特長を再発見したのも、電ブラの原稿を書き始めた頃からでした。 これは、どういうことか、ふと考えるに、若いころ難渋しながら読んだ実存主義の哲学者、キルケゴールの本に書かれてある一節が思い浮かびます。 「私たちは誰でも、冒険しないと神の前で は決して、単独者たり得ない。」 要するに、自分が為すべき事は目的が何であれ、なんらかの危険が降り掛かる事を承知で試みなければ出来ないし、そこで立ち竦んだり、危険を避けたりすると、神様が認める人間には成れない、というのです。 さて、この場合の神様を、「ふるさと」という言葉に置き換えてみると、僕が伊那という土地に馴染んできた訳が少しずつはっきり見えてくる。そんなふうに思われるんですね。何故そう思うのか。又、それはどういう事か、いきさつと、僕が感じた事とを重ね合わせてお話しすれば、凡そ、こうです。 僕が独りで外出するのに、それまでは障碍というものについて理解のある方々は非常に少ないだろう、という懸念。また何か危険な事が起きた場合、手足が不自由で言語も他人様には聞き取りづらい僕では、いざという時に適切な対応が出来ないのではないか、という不安。そうした心配が、僕を引っ込み思案にしていたのです。家族も、僕と同じ気持ちでした。 それが、平成七年七月の事です。僕が何気なく、「祇園祭り、独りで見に行こうかな」 というと、母もごく自然に、「じゃあ行ってお出で。電動車椅子のタイヤが路肩から落ちないように気を付ければ大丈夫よね」 そう言って送り出してくれたのです。母にもちゃんと承知してもらって、門の外へ出たこの日の嬉しさは今でも忘れられません。 さて、この日、まざまざと実感した事があります。それは、外を歩く中で、常に必要な用心を守っていれば、電動車椅子で進むのに安全な道筋が見えてくる、という事でした。無暗に恐れず、しかし目や耳は常に働かせて危険に対する注意を怠らずに、適度な緊張感を保っていれば、電動車椅子で行くのに無理のない方向が自ずと見つけられるものだ、という事を、この日、はっきり知ったのです。謂わば、外を歩く時の目、というものが開かれた事を実感しました。 折から、伊那北高校ではペン祭が開かれていました。そこで、学校へ登る坂をその<外を歩く時の目>で見上げると、慎重に進めば必ず行ける、という事が見極められたのです。高校の学園祭というものを見たい気持ち。又その時にはもう亡くしていた父の母校を訪ねたい思いもあって、登ってみました。果たせる哉、僕の見込通り無事行く事が出来ましたね。 その登る道すがら、僕はこんな事を思ったものです。「暴走は、危険を考えず無闇矢鱈に突っ走る事。方や冒険は、危険を避ける努力を最大限尽くして、自分が成長するために未知の世界への旅をさせてもらう事。この冒険の心で歩かせてもらえば、伊那の街も、電動車椅子の僕と差しで、親しく付き合ってくれるかも知れないな」 あれから十年余りが経ちました。この間、出歩く度に、伊那の街は優しく、馴染み深く僕を受け入れてくれている、という事はこれまでにも、婁々お話しして来たとおりです。この幸せも、矢張り、自分が操る電動車椅子のタイヤで直接伊那の道を踏む、という事を通して恵まれた、伊那という土地の洗礼によるものなのかも知れません。 さて、先程もお話ししたように、この番組が斯くも長く続いているのは、様々な方々のご協力あってのことであります。別けても、この番組を企画された伊那市社協の方々によるバックアップ。又いなあいネットで番組の編集、制作を受け持ってきて下さった方々による繊細な演出。更に、更に番組の中核的な魅力として、声に青年の爽やかさと瑞々しさとを保ち続けておられる倉田義夫さんの溌剌とした朗読。これらのお力が大なる事はいうまでもありません。のみならず、並んで、聴取者の皆様からの温かなご声援には随分励まされ、力づけられております。茲に、改めてお礼申し上げます。 これからも、どうぞ宜しくお願い致します。
2008.12.30
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電動車椅子ぶらり通信 百四十九話2007年10月・放送 トイレの不思議ふしぎ はびろ農業公園「みはらしファーム」。この農業公園から、雄大な仙丈岳を堂々の主人公に、極めて豊かな拡がりを抱き込む伊那の平を眺めると、心持ちはいつも晴ればれします。この「みはらしファーム」、あるいは、「みはらしの湯」という時の「見晴らし」とは、さてもさても、仲々にぴったりの命名ではありますまいか。 この「見晴らし」、また「見晴らしの良さ」という点において、僕にはもう一つ忘れ難い風景が浮かんで参ります。それは奈良の大和郡山に建つ慈光院というお寺。この慈光院の書院から東側一帯を見はるかかした、奈良平野の明るい眺望であります。 近くには斑鳩の里、やや離れた辺りには、奈良の市街地、そして風景の果てには所謂、奈良連山がぼうっと霞んでいる。まずは一服という事でお寺の方から今し方点てて頂いたお薄のお茶の甘みが喉許にほんのり残るのを感じながら、その奈良平野を一望するときの閑かさは、何にも替え難いものです。 その風景の大らかさ、優しさはそのまま、この慈光院を建てた施主の人柄を偲ばせるもの、といっていいかも知れません。慈光院を建てた施主--それは、江戸の初期に斑鳩の里近辺を治めた大和小泉藩のお大名で、名前を片桐貞昌といいました。石州という雅号で歴史にその名を刻んだ茶人でもあります。 茶の湯について、僕は全くの門外漢です。正直なところ、茶の湯とは茶道として成り立つ程のものだろうか、という疑念すら抱いていましたね。ところが、片桐石州の生き方や、彼の遺した言葉を知るに及んで茶の湯とは、われわれ日本人が一人ひとり心得るべき大切な嗜み、という事に思い至りました。 茶の湯ではよく、「侘び」と「数寄」の心、と申します。「侘び」や「数寄」という時、われわれは兎角、欠けた茶碗とか、傾がって粗末な小屋、などといったものを思い浮べますが、元々はそういう田舎じみたみすぼらしさの事ではありませんでした。「足らざるも足らざるの念を起こさず、調わざるも調わざるの念を抱かぬを、侘びなりと心得るべき也」要するに、欲しいものは手に入らないし、境遇は意の侭に変える事もできない現実をまるごと受け入れ、その厳しい制約の中で楽しく生きる知恵を見出そうと、積極的に努める事。それが「侘びの心」だったのです。 これを、ごく割り切って言い換えれば凡そ、次のようになるか、と思われます。 例えば、どこにでもあるブリキの灰皿も、さながら、世に二つとない貴重な天目茶碗の如く、慈しみと敬いの心をもって労りぶかく扱う事。そして、その所作を少しでも美しく整えようと努める事。これが「侘び」の本意ではないか。「石州三百カ條」など、石州の書き遺した著作に触れて、僕はそんなふうに考えました。 斯くて、侘び茶の原点を求めようとした片桐石州の許には、我が郷土の誉れである保科正之をはじめ、黄門様でお馴染みの水戸光圀など、名君と讃えられる大大名らがお茶道の教えを請いに罷り越しました。 優しい趣で広く知られている枯山水の庭を見たい心も然る事ながら、そういう温厚篤実な片桐石州の人柄に触れたい、という思いもあって、慈光院を訪ねたのです。 さてさて、いやはや、どうも、取っ掛りのお喋りにしては、ついつい長くなってしまいましたね。これを潮に、本題へ移りましょう。 この慈光院を訪ねたのを折角の機会、と捉え、茶の湯の懐石を頂くことにしたのです。さて、準備を待つ間、トイレに入った時の事。トイレからの出しなに、出入口の上をふと見れば、小さな神棚がお祠りしてある。そして、開かれた中扉の奥に眼を凝らせば、 「烏蒭沙摩変成男子」 の文字。それを見て僕は、「ああ、これが烏蒭沙摩様か」 と合掌しました。 「烏蒭沙摩変成男子」。またの名を「烏蒭沙摩明王」といって、密教から生まれた佛樣の一人です。どんな穢れも立ち所に浄める神通力で、衆生を遍く救済する神といわれます。今の言葉でいえば、多くの人々がつい避けてしまう「3K」の仕事を率先して引き受ける気持ちの尊さを姿に表した神、となるかも知れません。 真言宗を宗旨とするお家では、御大師講で高野山に詣でた際、空海を敬って唱える時の呼び名である宗祖宝号、即ち「南無大師遍照金剛」と書かれたものと併せて、この「烏蒭沙摩明王」のお札を頂く事も、大変にたっとんでいる、という事を伺った事があります。そういうお家でも多分、烏蒭沙摩樣のお札をこうしてトイレに祠り、清潔を心掛けてトイレを大切にしているのでしょうね。 ちなみに、慈光院は、臨済宗の禅寺です。トイレ、つまり、お便所の衛生を心掛ける事は、宗旨の違いに関わりなく、どこのお寺でも細心の注意で行われている大切な習慣なのだな、と再発見した思いになりました。 ところで、件の烏蒭沙摩明王が渡来する前から、日本には、ずいぶん遥か昔より、お便所を守って下さる神様がお在しました。即ち、厠神です。実際、お年取りには歳神様、井戸の水神様、竃の荒神様、お蔵の大黒様と並んで、お便所の厠神様にもオヤスという注連飾りと、餅をお供えします。 この厠神の由来については、謎がいっぱいですね。竃の荒神様と兄弟、又は夫婦だと言われたり、いやいや、それは大江山の酒呑童子を成敗した剛の者の一人、渡邊綱だという話。やれ加牟波理入道だ、やれお不動さんだ、と諸説粉々でまったく、ミステリアスですよ。尤も、その中で一番古いのは、波迩夜須毘売といって、イザナギ・イザナミが産んだ神々の末娘です。このハニヤスヒメは、畑の土を肥す肥料の神様ですから、厠神としては性格の上でまずふさわしいのではないか、ぼくは考えたいですね。 ともあれ、こんな訳で日本のお便所は本来、非常にファンタジックで精神的な彩りに溢れる場所でした。それ故、当然、お便所が日本人の人生に節目をあたえる儀式の舞台、ともなっていたようです。 そのひとつが、関東地方の農家につたわる「雪隠参り」。この雪隠参りとは、生まれて三日目の赤子がお産婆さんに抱かれて便所に参り、厠神に一生まめであるようお祈りする行事だそうですよ。 我が上伊那地方にも、これとよく似た風習の行われている所があるみたいです。それは、「三つ目」と呼ばれ、生まれて三日目の児が矢張りお産婆さんに抱かれ、お便所で用を足す仕草をさせるのだそうです。おむつが早く取れますように、というお呪いみたいなものだそうですが、これも元は、「雪隠参り」の流れを掬む風習でしょうね。 このように、便所にも厠神という崇高な存在を信じて祠る。これは日常の衣食住全てが有形無形、じつにさまざまな力によって支えられている、という事を強く意識して、その恩恵に感謝する。そして、それを常に忘れないよう胆に銘ずる。そうした心掛けの現われだ、と思います。 それにつけて、最近、僕の関心を惹き寄せる嬉しい出来事は、伊那市の市庁舎改修工事に伴って、庁舎の西棟にトイレが新設された事ですね。そのトイレで特に注目したいのは、多目的トイレ、つまり、いわゆる身障者用トイレも男女別々に設けられた事。また、その多目的トイレにオストメイト、つまり人口排泄器や、人工膀胱等を使用している人のための洗浄設備も取り付けられた事です。 障害の多様性を念頭に置き、人間らしさや、生活の質というものを十二分に考慮して設計された事が窺える、その多目的トイレ内部の光景によくよく眼を凝らせば、文字通りさまざまな人々のいろいろな技術と、温かいお心とが結集して出来上がった、という事がヒシヒシと感じ取られます。つまり、状態が千差万別な障害者の事をいろいろと慮って、苦心惨憺、試行錯誤を重ねた、という事がはっきり見て取れますし、その事に感動するのです。「トイレは厳粛な場所」、という思いを新たにせずにはいられません。 僕の場合、障害のため、介助が必要なので、外出時にはトイレが非常に大きな難関となりました。あれやこれや考えましたが、決心して他人様にお願いする事にしたのです。お巡りさんだったり、駅員さんだったり、お役所の男性職員だったり、いろいろな方々にお願いして参りました。その度に随分勇気が要りましたが、どなたも、大変親切にお手伝い下さるので、有難い限りです。 そして、その都度、しみじみ、こう思うのです。 トイレの事を親切にお手伝い下さる方々に巡り合えたおかげで、そこからまた僕は新しい世界へと歩き出す事が出来る。ああ、街へ出掛けて来て良かったな、と。
2008.04.25
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電動車椅子ぶらり通信 百四十八話2007年8月・放送 瀬音を浴びて 伊那市街地には伊那市駅、伊那北駅それぞれの近くに、スクランブル交差点があります。このスクランブル交差点が設けられたことと合わせて、それぞれの周辺も随分歩きやすく、整備されましたね。 殊に、伊那北駅前は、交差点から伊那中央病院に向かって西へ伸びる道が、目覚ましく変わりました。幅員がググッと拡がり、歩道もなだらかにゆったり整えられて、一昔前の風景を思い浮べると、まるで夢のようです。 その歩道の美しさに惹かれて、ぶらりぶらり坂を登って行くと、左手に高尾神社の小高い丘と、右手に伊那北高校薫ヶ丘の高台とがそれぞれ急角度に競り上がっております。この二つの間を行く時に、電動車椅子の速度でゆっくり後ろへ流れて行く風景は、何か知ら不可思議な興奮を呼び起こしますね。あれやこれやの空想に耽けりながら、切通し状のこの坂道をゆっくり登るのはちょっとした峠を越え行く気分で、いいものです。 さて、その坂道をひとまず登り切った辺り、中央病院の方へ登り行く道とは別に、左へ折れる道と出会います。昔ながらの言葉を用いれば所謂、「わかされ道」。この岐路で歩む方向を左に選んで行けば、やがて木々の茂りが黒々と影を落とす細い坂道。陽照りの日には、その木陰のひんやりした空気が何とも、爽やかで、何にも換え難いものを感じますね。 この坂道を下り切ると、そこは「福澤」地籍。北側は高い段丘に風が遮られて街全体陽当りが好く、見るからに気候が温暖な地域です。繰り返しとおるなかで、僕が見出したこの場所の魅力のひとつ。それは、道とこの地籍を流れる鳥谷川とが、至るところで交差しながら、沿いつ離れつ並んでいる。その眺めの妙味であります。 ここで少し、余談をさしはさませて下さい。 西洋音楽では、作曲形式の一つに「ソナタ」というものがありますね。日本ではご婦人方の間で物スゴーイ人気を博した韓国ドラマ、「冬のソナタ」の「ソナタ」です。 この「ソナタ」という形式は、ごく大雑把にいうと、主旋律と副主旋律、つまりAのメロディーと、Aダッシュのメロディー、若しくは全く別なBのメロディーとが、たがいにお話をする案配で並んだり、追い越したり、掛け離れてはまた寄り添ったりして展開して行く、そんな流れの事でした。 福澤地籍の道を歩いていて、一つ面白いと思う事は、その道と鳥谷川との微妙な入り組みが、そういう人間同士の会話みたいなソナタ形式の成り立ちを、眼に見える形で連想させてくれるところにある。そう感じられるのです。 そんな道と鳥谷川との興味深い関わりは又、別の点からも感じ取られるんですね。それは、川の流れの響き。つまり、瀬音であります。道なりに従って瀬音は近づいたり、遠退いたり、あるいは川底の勾配も場所によって変化している、という事なのか、時にゴウッと激しく、時にさらさら軟らかに、大変ゆたかなヴァリエーションで聞えるんですね。 夏場には取り分け快く響いてくるこの瀬音に耳を澄ますと、僕の聴覚が感じ取る川の流れの速さ、その速さの変化に僕自身の歩調も切り換わって行く。といって、別に電動車椅子の速度そのものが変わる訳ではありません。飽くまでも、川に沿って行くぼくの心持ちが流れの動きを捉え、その響きに乗っかって、さざ波の音に弾む、という事なのでしょう。感覚的な作用の問題、といってしまえばそれまでなのですが、或る旅情が鮮烈に刺激されるのは事実で、ちょっとした舟下り気分です。 ここでふと、口をついて出る言葉の調べ。 行く川のながれは絶えずして、しかも 本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかた は、かつ消えかつ結びて久しくとゞまる 例しなし。世の中にある人とすみかと、 またかくの如し。 ご存知、これは「方丈記」の書き出し部分です。古典の中ではスタンダード中のスタンダード。何やら仰々しく、引用するには些か気恥かしさを覚えぬでもありません。しかし、 「サァーッ」 と微粒子状に木目細かい一定の音を、静かに鳴り響かせる流れはそのまま、「方丈記」の冒頭の一節を穏やかな声で朗唱しているように、聞えて参ります。いや、確かに、この「方丈記」を書き記した鴨長明は、瀬音の調べそのものを、筆に起こし、文章に綴ったのに違いありません。 鴨長明は平安末期から、鎌倉初期にかけて生きた人です。言うまでもなく、この時代は、幾多の合戦や政変、飢饉、火災、風水害などが打ち続き、国土も人心も共に著しく荒廃しました。「方丈記」は四百字詰め原稿用紙換算で約二十五枚程の短編ルポルタージュですが、そこにこの時代のさまざまな災いが凝縮されて、書き記されているのです。 そして、その災いに翻弄され、生活の枠組みを毀たれて行く世の中の切ない有様。この切ない有様の表象を、鴨長明は水に見ている。--と、ここまでは高等学校の古典の参考書にも書かれてあるような、ありきたりの解釈でしかありません。 それが、瀬音に呼び起こされるまま、冒頭部分の 行く川のながれは絶えずして、しかも 本の水にあらず。 という一件りをよくよくそらんずれば、なかなか、どうしてどうして、一筋縄では行かない極めて面倒なことを語っている。いや、そのように語らざるを得ない唯ならぬものを鴨長明は水の流れにはっきりと、見出しているという事に気づきます。即ち、この原文のなかに畳み込まれている作者の問題意識を現代の日常語に置き換え、意味を押し拡げれば、凡そ次のように訳せるのではなでしょうか。 「水の本質は、流れ去るという事である。 しかし、流れ去るものである以上、その 本質は、眼で見たり、手で触れたりする 事によって確かめるための手応え、とい うものを全く持たないのだ。これはすべ てに言える事だろう。そうと解れば物事 の本質に拘る必要はない。だけれども、 私たちは自分が思いを懸けた人や物には 変わらざる尊厳、価値がある。そう信じ 込まない事には、生きられないだろう。 私たちの現実と、私たちの心との間に横 たわるこの巨きなギャップ。このギャッ プを乗り越える事こそ、無常観を克服し、 悟りを開く、ということなのだけれども、 果して、私たちには、それができるのだ ろうか」 こう読み解いてまいりますと、私たちは人間同士としてお互いに何を語り掛け、どのように対話を積み重ねて行かねばならないのか、じつは非常に困難なコミュニケーションの基本を示してくれているように、感じられます。 それにしても鴨長明は流石、日本のジャーナリスト第一号と言われただけの事はある、偉大な文学者ですね。偉大な文学者である、という事はつまり、その文学者自身が時代の波に乗る力に劣っていて、人から蔑まれても仕方のない人間だ、との自覚を明確にいだきつづけている。それでいて、最低の人間、という位置付けに自分を甘やかすことはない。つまり、自分の弱さを他人や社会の責任には転化しないで、自力の限り抱え続けて行く。その境地で時代と人間とを見つめ、喜怒哀楽を自分の言葉できちんとデッサンする。そういう努力家を「偉大な文学者」というのではないか。僕はそう考えております。 ところで、大分以前に、「萬葉集」を漫然と読んでいた時の事です。はたと眼に留まる一首がありました。ひょっとすると、鴨長明は、この歌を念頭に「方丈記」を書いたのかも知れないな、と思われる次の作品です。 もののふの八十宇治川の網代木に いさよふ水の行方知らずも 柿本人磨呂 不思議なことに、この歌では、上句十七文字全体が、「いさよふ水の行方知らずも」という歌の枕詞、その枕詞に近い役割しか担ってはおりません。要するに、あくまでも意味の上では、「いさよふ水の行方知らずも」という下の句だけが、歌の心を包み込んでいる。かなり乱暴な物言いに聞えるかも知れませんが、「いさよふ水の行方知らずも」という調べを導き出す前段の舞台設定は、京都の宇治川以外、木曾川だろうが、天龍川だろうが、構わないのです。 さて、眼目の、 いさよふ水の行方知らずも という調べ。この調べには、穏やかなようでいて本当は強く波打つ疑問と嘆きとが秘められています。即ち、一体何故、水も人も、どこかへ流れ去らなければならないのか、という切ない溜め息であり、それは又、自然の摂理に対する万人共通のささやかな反抗心に他なりません。 やがて、鳥谷川も、それに沿う道も知らぬ間に尽きて、瀬音も聞えなくなると、そこはすでに街のざわめき。濁っている僕の物の見方、感じ方もほんのわずかばかり、今し方の瀬音に清められた事を実感します。
2008.04.23
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世界観 人間は誰しも、自分独りで己が道を探し出すものである--私は随分長い間そう考えていました。しかし、新約聖書のルカ福音書第十九章に記されてある次の物語を読んで、この考え方は些か微調整する必要があるのではないか、という事を感じております。取り敢えずはその物語をおさらいさせて下さい。 イエスが道を通る、という事を聞きつけた徴税人ザーカイは、一目イエスの姿を見ようと思った。けれどもザーカイは彼自身の姿を逆に見られたくはなかったので、高く伸びた無花果の樹の上に攀じ登り、ひっそりと見下ろしていたのである。そこへ通り掛かったイエスは、ザーカイの姿を見出し、降りてくるように促して、自分がその晩ザーカイの家に泊りたい旨告げた。 この物語は、何等かの負い目に自ら萎縮している不遇な人間が優れた指導者と巡り合った時、揺るぎない自助と自己解放とを遂げて行く、という一つの成長譚を暗示しております。或る<出会い>が自己解放の契機となり、出会ったその人から良い刺戟が得られれば、飛躍的な成長も可能となる。逆に、大方の人間は彼独りの力で自ら、道を拓く事は極めて困難である、という事をこの物語は示唆しているように思われます。 ザーカイはイエスから呼ばれた事によって、ザーカイ自身を自分で見出し、イエスから一泊の宿を請われた事によって、わが存在理由を知ったのでした。有体に言えば、イエスの半ば押しつけがましい指命が切っ掛けで、揺るぎない生き甲斐を掴んだのであります。 劣等感、罪の意識、悲観的な考え等に沈む人々の奮起はなるほど、一定の熟達した技術に基づくカウンセリングによって可能なのでしょう。けれども、これは<手間が掛かる>という難がありますね。殊に、もしかしたら将来大学進学、就職等を目標に励む事が迫られるかも知れない軽度の障害児にとって、それは話が悠長すぎる。療育を受けるわずかな時期の瞬間、瞬間に、自発的な生活の緒を逸早く見出さなくてはなりません。 その場合、私が注目するのは、セラピストの方々の存在なのです。クライアントに対して、どちらかというと医師は全身を俯瞰する具合に、一歩引いた場所から客観視します。一方看護師さんは患者とぎりぎり一体化するその直前に踏み留まりながらも、終始共感的な温りで、接してくれます。ごく大雑把にいうと、お医者さんはお父さんで、看護師さんはお母さんとなりましょうか。セラピストの方々は、そのどちらでもない。そこから近づくかと見えて近づかず、退くかと見えて退かない、微妙な距離を保っている不思議な関係の人々です。今お話ししているテーマに即して再度言い換えれば、医師はクライアントの障害の正面像を知る人。看護師は後ろ姿を見つめる人。そして、セラピストの皆さんは、その横顔を見分けられる方々。 こんなふうに色分けできる、と私が考えるのは、障害児者の全人像について皆さんが部分的にしか知るのみの立場にいらっしゃるからです。といえば、減点的な性質のみを殊更に論うかのように思われるかも知れません。しかし、私の論旨は逆であります。時間上も、また健康管理の上でも、一定の制限下で部分的にしか関わる事が出来ないからこそ、視線はその深部に入り込み、その障害の性質や人間像について、核心的なものを掴み取る事が出来るのだ、と思われます。横顔、つまり文字通りのプロフィールを把握する事が出来るのではないか、と考える所以です。 ザーカイが登場するあの逸話の場合、彼のコンプレックスを瞬時に見て取ったイエスは、必ずしもザーカイの生い立ちの日々を逐一、透視した訳ではない筈です。肝心なのはその時、その場における苦悩の実体であり、且つその処し方であって、来し方行く末の全行程を見渡す事ではありません。苦しみとは、現実と自分との間に何のとっかかりも見出せずにいる状態の事ですから、そのとっかかりを探し出す事が支援であり、救いなのだ、といえましょう。故に、これは、直感が勝負の鍵となる訳で、方法論云々の問題ではない。さりとて、知識や経験は全く宛にならないかと言えば、そうでもないのであって、ここがじつに微妙なところです。 要は、クライアントの内深く眠っている彼自身の夢とか、問題意識を奮い起こす事。その為には、しんの目覚めを促すべく魂を激震させる以外にありません。彼の胸に起爆剤を投げ込む事ですね。具体的にはセラピストの皆さんご自身の職業観、政治観、恋愛観、死生観一切をひっくるめた世界観を語る事でしょう。押しつけがましく。感化か、反発か、相手がどう思うか。生き甲斐が生まれる事においてそれは、どちらでもいい事です。
2008.04.20
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