セイラ の庭

セイラ の庭

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2020.10.02
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テーマ: 小説(1373)
カテゴリ: 文学

それが、やってみると難しい。一番のハードルは、描かれる人たちの気持ちだ。生きている人には了解をもらう術もあるかもしれないけれど、亡くなっている人にはどうすればいいのか? 聞きようがない。
そもそも、私が書くのは、私の側から見た人々の姿に過ぎず、当人にしてみれば抗議したくなることもあるだろうし、まったくその通りだったとしても、だからといって書いてほしくないこともあるだろう。
そう思って、書かれたくないだろうことを削っていくと、小説は生気を失って、書く意味のないものになってしまう。
「小説家は人でなし。すべての人と縁を切る覚悟がなければ、私小説なんて書けやしないよ。嫌だな、今さら言わせないでよ」と、大先輩の作家先生には檄を飛ばされたけれど、私には、やはり、ありのままを小説にするのは無理だ。

そこで、彼らに似た誰かの話に仕立てようと思った。設定をあちこち変えて、事実70%に作り話30%、そこに小説的演出を加える。
私小説だと思って読む人がいて、興味を持って調べたとすると、あれ? 違う。ということになり、どこが事実でどこが創作なのか分からないということになる。モデルになった人たちが読んでも、自分にそっくりな所が多いけれど、自分ではないと思える。それでも、表現したい人生の真実に変わりはないのだから、それでいい。小説とは、そういうものだ。そう思って書き始めた。現在、96枚まで来た。

ところが、書き進めてみると、そう簡単なことではなかった。事実を基調としたものは、事実から離れるほど、書くのが嫌になるのだ。
Aという人物のキャラをこう強調すると小説的には都合がいいと思っても、モデルとなっているAさんへの冒瀆に思えてくる。書いているうちに、筆はだんだん事実へと寄っていく。
自分の心が感応して、書きたいと思っていたのは、やはり、ありのままの人々の姿だったのだと気づく。
しかし、その、ありのままの姿を小説に書かれることを、彼らは喜ばないだろうと想像できる。
筆が止まる。
そして、私の初めての私小説的小説は、挫折した。
今までのように、作り話70%に30%の事実を混ぜて、それに100%のリアリティを持たせる努力をするほうが、どんなに楽だろうか。

けれど、商業出版するのでなければ、この筆はすらすら進む。これを書き上げてみたいという気持ちは強い。私小説的であるだけに、私自身の心のけじめにはなる。
ここで止めるか、書き上げて、緋野晴子の幻の一作として、自分の思いを残すために、登場人物たちだけに配ろうか、迷っている。





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Last updated  2020.10.02 22:15:03
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