2005年01月13日
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テーマ: 教育(121)
カテゴリ: 文学的なあれこれ
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 ヴォイス今年二月号の対談 「子供が育つ七つの習慣」(スティーヴン・R・コヴィー×和田秀樹)。
 精神科医評論家・和田秀樹氏と、「七つの習慣」の著者との教育対談。

要は、

・ 子供にはいろいろなことを教えた方が良い。人の知能・能力・素質は多面的だ。多面性が一つ一つの能力を伸ばす。 それらの中で、導き役が精神的な能力。
・ 子供は、いい結果をつくる創造力がある。それからすれば、後回しにしてもいいプロセスにこだわって、消化不良を恐れて時間をかけても、意味がない。結果重視でいくべきだ。
・ 能力以前に、習慣がある。天性→×習慣→+能力という順になる。


日本やアメリカへの批判として、

 教育がビジネスの後追いをしている。
 受験や研究などの競争においても、となりの者と協力しあう方が自分の役に立つということがわかる。始めから理念としてそういうことを教えられていた方がずっとよかったろう。アメリカでもそういうことがわかってきた。現在、アメリカの教育では精神的な部分を強調するようになっている。


 科学的という名の権威主義が実用的なやり方を閉ざしている。それは謙虚さがない、ということに言いかえられる。それは社会に実害が見える。


 なかなかごもっともだろうと思う。

 言い換えると

 中心は、精神的にも能力的にも健全に育てるには、成果に到達しようとさせること。水準を高くしろというわけでもないが、ただ低く設定すると子供の素質がくさる。国の教育としては、これが中心近くに来る。

 落ちこぼれ対策は、習慣がついていればつぶれない。今の授業に合わないが創造性のある子は、高いレベル設定に対してはかえって弱者にはならない。むしろ、高いレベル目標はいろんな子供同士が相手から学び合うことにつながるだろう。

 プロセスに大事なのは習慣であり、その日その日の授業についていくことではない (のだろう)。

 ――という理念なのだろう。
 (高校レベルと小学校低学年とは別だと思うが・・・・)

 さらに現状批判的に言い換えると、

 ちんたらやってることを、そうだと気づかせることなくすませようとしていくなら、意欲も人格の成長も未熟なままつぶされる子が増える。
 レベルを低めることと、落ちこぼれその他の学校の問題を解決することは、別のことだ。

 別のことなのに、それがいっしょになってしまっているのは、日本ではプロセスを「手本」にこだわっているからだ。手本の基準+ペースに合わせられるかどうかで振り分けられる結果になったり、手本そのものをレベルダウンしようとしたり。




 再まとめ

 現状に対して何をやれと言ってるのかといえば、学習レベルを下げるのでなく習慣力をつけさせろと。
 その上で、プロセスに自由を与えて、結果に取り組ませろと。
 すると、人格もついてくるし、いろんな相乗効果が生じると。


 別の要素

 小学校の始めからやる気がある子ばかりだとは、あてにできないのが義務教育の始まり方だ。

 対談者は、このときに、習慣の力をつけさせて行くことが必要だと言っている。

 だが、その力が元々弱いらしいからなあ・・・。

 NHKの深夜スペシャルで、鼓の家元の後継者の鍛えられ方を見た。
 親子が対面で、練習する。小学生の低学年のうちから。
 型練習でありながら、一瞬一瞬に気を抜かないのはまるで対面勝負だ。
 そうやって、一生これで食ってくんだと思って迷わなくなったのが、13のときだそうだ。

 それは息吹を伝えて行くようなやり方だ。その伝えるというのは、真似てコピーするというのではなく。
 はたから見れば、それを伝えると言い、息吹を吹き込むというだろう。

 それに相当するものは、授業か。
 別に熱血授業の必要はない。ただ、授業は世界を伝えることなんだから、そこにものを見ようとする生徒の感覚があるわけだし。

 僕の小学校時代、そこに好きな授業があったから勉強した・・わけではない。
 ただ、そこにみんなに知識を教えようとしている人が、毎日語りかけ、みんなが聞いている風景があった。
 そういうことが大事だという、社会の約束事があった。
 だから、必要に応えて勉強もした。 (あまり必要がなかったのでやらなかったのだけど)

 授業のわかりにくい子達に向かって先生が話している、それを見て、仕事の一例と、知識を伝える活動とを眺めていたのだ。それが小学校の先生から伝えられたものだといえるだろう。
 そういうことの内容として、授業の知識内容を受け取っていた。

 そういう経験に照らして、授業を息吹として伝えることは必要だ。ただ、さほど大したことはない。
 そうやって、知識内容の世界への道を開くものとして、授業がある。

 または生活の中で幅広い興味をもてる環境ならば、それでもいいだろう。興味によって知識や習熟のその先を想像できるかどうかが、受けた授業を自分の中に留めておこうとするかどうかの分かれ目。

 ただ、長い年月には脈がある。だから習慣の力が大きい。
 勤勉と言う習慣ではなく、途中で途絶えないという習慣。
 勉強の習慣でなく、学校に通っているという習慣だけでも、いざというとき一生懸命の支えになったりするもんだ。

 というわけで、まとめると、意欲形成のベースとして、 教師の授業の熱意が授業を受け止めるという形で伝わって、校外生活で物事への関心やリアリティがあって授業内容を受け止め、習慣が崩れないようについていること 。なんだよな。
 その上で、結果評価を適宜入れて行って、児童を打たれ強くすると。
 (対談者は、こういう体系は語っていない)

 ゆとり教育では、「わからせながらゆっくりやる気を形成して、できないときには、授業内容を減らし卒業までのレベルは下げて、勉強以外の生きる力の授業科目というものを工夫する。」 と。


 どこで立場が分かれるのかと想像すると、・・現場の相互信頼とか、あらゆる面での時代の変化と展望があるんだろうが・・どうも、“ろくに語り合えない教育界”という気がする。・・

 一つの始まりを想像するけど、歴史教育で外国の干渉とそれにのる教師がいたせいで、教師は余計なことを教えてはいけないてことが言われたはずだ。そのせいもあるんじゃないか。



(蛇足-再詳細)


“教師の熱意”
 おもしろい授業というのは、もちろんその内容自体のおもしろさが伝わるということだけど、その時々のひとつひとつだけじゃないだろう。

 教えられる何かをみんなと共有するために学校があるので、たまたま教える能率の都合で、生徒を箱の中に集めているのとはちがうということ。
 そういうふうに伝えるのが、教師の熱意を吹き込むということだと。 

 で、この何かの共有空間、てなんなんでしょ。
 学校群制度で、公立から校風を奪ったせいで、学校のレベルが低下したという話がある。
 (・・校風ってなんだろう。)

“習慣”
 続ける習慣の上に、習慣を作って守る習慣。

 今は自由で多様だから・・・・コンビニはあるし、何かのサイクルを守るという体の感覚が少ない子も出る。そういうのは昔は、大学に行って一人暮しを始めた頃によくあることだったわけだが、今は子供に通用するだろう。

 身体が習慣を離れると時制がなくなる。未来を今日のうちに理解して感じ取りたくなる。ものを思い、迷い始めてストレスになる。
 ここで家庭とのあつれきが生じると、まともな習慣が拘束のような気になって、回復が難しい。

 この辺はやっぱり蛇足か



自分なら―脳にとってわかるとは・・物語か

 たとえば高速学習の訓練(暗唱、瞬間映像記憶など)をさせた小さい子に、二桁九九を四倍速で聞かせるとすぐに慣れて遅いと言う、と。八倍速でもすぐ慣れる。そして頭に答えがすっと浮かぶと。

 確かに、わかるときにはカンでわかるとはいえる。
 どんなにわかったはずのようでも、いざわかったという気持ちになることとは別だということがある。大人の技術屋でもこの気持ちになるかどうかで、結果的に痴呆か愚鈍並のことがある。
 わかるとは、ある位置に到達したと認めたら、その位置からの視点に全体を切り換えるということなのだろう。
 完全な理解は、慣れてから習熟すればいい。

 ゆっくり考えると迷う。迷っている間に、自分の考えていること自体の全体を憶えていられなくなる。
 ワーキングメモリー(一時記憶)の統制限界を超える。
 さっさと考え終えて、別の面から見なおした方がいい。



 単純な百ます計算が頭にいいという。やってみたけど、あれってミスをしない耐久訓練みたいなもんだ。わかっていることも微妙に違って時間制限が入るとミスの元。微妙に違うミスをしないというのはなんかの工夫感覚に似ている。しかし、せっかく計算した数字の上桁を捨てながら続けるのは、腹が立つ。頭が狭くなった気がする。

 済んだら、血管が緩んで血流が増えるだろうな。と思ったが脳の測定結果によれば、計算中に血流を多く使ってるはずだな。つまり、頭が狭くなった気がするのは、それだけ広い部分で血流を使いたがったのに足りなかった、脳に催促されて、じっさいは血流は普段以上に流れていた、ということだろう。
 一生懸命走ると血流は盛んに細胞に酸素を運ぶけど、自分では苦しいようなものか。

 たとえば何かをわかろうとするとき、自分は苦しいバカになった気がしてても、違うかもしれないと。
 すっきりわかったというのは、ある種の場合。
 わかったはずなのに慣れなくて、時には苦しくて、それをごまかすと不信感になりそうなことがあるかもしれない。

 そんな不納得な不適応な気持ちを黙って呑み込んで、よしわかったと自分に言うことが、心のどこかで起きているのかもしれない。
 とにかく、ここに至ったのだから、わかったとして、あとは過去の感覚に拘らずに適応してみるのみ と。

 それが正しかったかどうかはその瞬間は保証はない。保証に拘っていられない。

 そんなふうに、わかっていくというのは物語かもしれない。架空経験に適応すること。
 最後は気持ち≒アナログ脳。
 だから、それはアナログの慣れに大きく依存しているかも。

 アナログの能力は、正確な基本型と大量をこなすこととで伸びるらしいから、ある程度の量に慣れてからわかるようになる、ということもあるかも。

 量をこなして、勉強という物語をほぼ終えた上でわかるようになるものだ、というのはあるかもしれない。

 大人は、そういう物語を経験済みなので、なっとくできるように考えたら納得できると思うだろうが、子供は知恵熱というような、「回路をつくっていく苦労」があるわけだ。それは気持ちを必要とする物語に似ているかもしれない。

 つまり、よくわかるということの他に、そういう物語としてのわかり方があると。
( その中間的には、慣れること。それに大きいのが、手を動かして試すこと。それは頭の中で手を動かすように理解することに通じる。手を動かす量は、筋肉の慣れに比例しやすい、つまりこれも一種の習慣だったりする。)

 どれにせよ、わかるとは、「すでにわかっていることに正しく合わせた判断」ではなくて、「適応力」なことがある。
 じつは、知能とは適応力だと定義する説もある。20才以上からそれを実感している。

 ・・・以上。 もう児童じゃないので、 いまさらわからないが。







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最終更新日  2005年01月13日 23時58分34秒 コメント(6) | コメントを書く
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