ひーちゃんのゼミナール 名古屋産業大学(現代ビジネス学科)・大学院環境マネジメント研究科)現代の社会・経済・環境・芸能・スポーツ・宇宙

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2018.12.10
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カテゴリ: 社会時評
ポツダム宣言受諾直前
比島にて散華した日本兵の物語

はじめに

昭和二〇(一九四五)年、二月二八日、フィリピン・プンカンの激戦で、瀬川一成死亡とされる。瀬川一成は私の叔父で、岡山県津山市に生まれ、東京商科(現一橋)大学を卒業後、大牟田に本社のある三井財閥の三井三池炭鉱へ入社、満州を転戦しフィリピンのプンカンの激戦を戦い戦死した。
 七月二六日のポツダム宣言受諾に先立つ、七月二二日に日本に戻った一成の部下二人は、後に、厚生省で瀬川上官の娘・正子の倉敷市の居所を確かめ、正子のところへやってきて言うには、七月二十二日まで、一成は生きており、一成は部下二人に山を降りることを命じ、自ら自害したとされる。山を降りた部下は、ふと山を見上げると、先ほどまでいた山の洞窟のあたりから煙が昇っているのが見えたと言う。手榴弾がさく裂した煙だったに違いないと、元戦友は語ったという。フィリピンでの出来事は、帰国以来長らく口外無用とされてきたが、年を重ねて意を決して会いに来たと言って、遺品を手渡したという。
正子は、訪ねてきた部下二人のことをあまりよく覚えていないと言う。子どもがまだ小さいころに訪ねてきたのだが、なんでも岡山市の池田動物公園の近くに住んでいると言った記憶がある。
正子は、私より四つ年上の従姉弟ということになる。戦死した一成の妻・恒子は、一成の死亡によって寡婦となり、いろいろと考えた末、正子を一成の実家の妙勝寺へ預け、離婚手続きをとった。一成の弟の一行が満州から引き揚げてきた年の翌年、昭和二二年のことであった。正子は数えで三歳になっていた。私の母の江見冨美子は、学進が住職を務める妙勝寺の檀家の娘で、親の勧めで戦地から復員した一行と一九歳で見合い結婚した。
「私を一行さんと早う結婚させたのは、母親に見捨てられた正子を私に懐かせるためじゃったと思う。一成さんが死んだと分かったら、手のひらを反すように正子を置いて出て行った恒子さんを、学進は許せなかったんじゃろう。わたしゃ百姓の家へ嫁ぐのが希望じゃったが、泣く泣くお寺へ嫁に来た。でも、これでよかったんじゃと思う」

 延子と正子を連れて、一成が戦死したフィリピン・ルソン島のプンカンを訪ねたのが、東日本大震災の被害の記憶がいまだ消えやらぬ、二〇一三年の夏のことだった。一成が所属していたと思われる、歩兵第十連隊内藤大隊がほぼ全滅したプンカンにある記念碑に、花を手向け供養してきた。北のバレテ峠でも、日米比の戦士たちに手を合わせてきた。戦後を引き継いだ我々の世代にできることはこれくらいなことしかない。しかし、なぜか腑に落ちないことがあった。
「一成は、なぜ部下を下山させ、一人山にこもり玉砕したのか」という疑問が、もし「一成さんが帰ってきていたら、私は寺へ嫁がなかった」という母の言葉と入り混じって、夜ごと夜ごと私の脳裏をかすめて消えることはなかった。ルソン島を訪問する前年に、私は前立腺癌の摘出手術を受け、再発の恐怖感に苛まれる日々を送っていたが、幸い再発もなく二〇一九年春、二四年間務めた大学を定年退職することになり、筆を執る時間的・精神的余裕ができたことから、表題の文書を後世へ残す決心をした次第だ。まずは、ブログに草稿として筆を走らせ、夏の終戦記念日に間に合うように出版を計画してみた。計画倒れになるかもしれないが、母が生きているうちに書き終えることが、唯一の親孝行と信じて、書き進めていく次第だ。(二〇一八年一二月九日)





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最終更新日  2018.12.10 16:59:29


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