十九 芸能プロダクションの倒産
夏警部は、膠着状態に入った「横浜港殺人事件」を、今なお執拗に追いかけていたが、それは気持ちの焦りばかりで、犯人のプロファイルすら描けていない状況に長期戦を覚悟していた。 2019 年の夏に起きた事件が、すでに 2 年近くが経過し、殺害された澤田謙一がマネジャーをしていた芸能プロダクションの経営が、コロナ不況の影響で行き詰まり、会社は解散してしまった。捜査はますます困難になっていた。
一方、鳥取県の白兎海岸で、死体で波打ち際の岩に打ち上げられた、大坂の芸能プロダクション兼コンサルタント会社の社長殺人事件の捜査も、進展がなかった。確かに、この二つの事件は、芸能プロダクションという点で共通性はあった。もしも、この二つの事件に、何らかの関連があるならば、それは芸能界に関連した何かということになる。
しかし、この「何か」がわからない。そして、手がかりらしき事件が、コロナ感染が起きる前の、2019年の暮れに、東京の世田谷で起きた。交通事故のひき逃げ事件で被害者となった光岡瑠偉が、澤田謙一のプロダクションに所属していることだ。事故後の光岡瑠偉への聞き取りでは、澤田謙一が殺害されたことに関しては、何も心当たりはないということだった。光岡瑠偉の口からは、模範的マネジャーとしての澤田の人物像しか浮かんでこなかった。
澤田の残された妻からも、手掛かりになることは何も出てこなかった。もしも、横浜港殺人事件と白兎海岸殺人事件の間に関連があるとすれば、それは芸能界特有の関係であるだろう。夏光一郎は、何度もその命題から推理を巡らせてみた。そして、殺害されたマネジャーの澤田謙一が可愛がっていた歌手の光岡瑠偉が、夜遅く甲州街道を渡ろうとして、黒っぽいセダンによってひき逃げされた。
では、なぜ光岡瑠偉は狙われたのだろうか。しかし、その前に、光岡は狙われたのだろうか。このひき逃げ事件の捜査も進展していなかった。横浜港殺人事件が起き、そしてその後を追うように白兎海岸殺人事件が起き、ひき逃げ事件が起きてから二年が経過していた。
部下の蜜柑とも、次第に事件に関して捜査方針が出ないまま、別の事件に駆り出されることが多くなり、先行き迷宮入りかと懸念される雰囲気が漂っていた。
神奈川県警とは目と鼻の距離にあるマンションの自宅に戻りテレビを見ていると、 蜜柑がエコバッグを抱えて玄関のドアを開けた。今日の夕食はテイクアウトにしようと相談していた。
五階にある夏のマンションの部屋からは、横浜港がよく見渡せる。つい最近、観光用のロープウエーができ、まだ営業をやっとぃるようで、タワーの明かりが宵闇の向こうにかすんで見える。
「パパ、おなかすいたでしょう。遅くなってごめんね。買ってきたわよ」
自宅に戻ると、蜜柑は警部、ではなく「パパ」と呼んだ。
「例の件どうだった?」
夏は恐る恐る聞いた。
「私は対象から外れたわ」
まもなく始まる東京オリンピックの警護に当たる人選の件だった。おおむね決まってはいたが、神奈川県警から出す人員の最終選考結果が発表されることになっていた。殺人事件が未解決であることにかんがみて、刑事課長からは蜜柑を外すよう調整してもらっていたが、案の定、すんなりと外された。
オリンピック開催に関しては、反対を唱える集団の中で不穏な動きもあり、危機管理を強化する方向で対策班が組織されてきた。膠着した事件解明に何も妙案もなく、オリンピックと新型コロナワクチン接種の強引な進行の狭間で、横浜港殺人事件と白兎海岸殺人事件は、もうすでに記憶もほとんど風化しようとしていた。
夏警部にとっては、過去の事件で何かと世話になり、犯人逮捕の現場にまで来てもらったことのある仲村教授の顔が眼前に浮かんだ。蜜柑も同じことを考えていたらしく、
「仲村先生はどうしていらっしゃるかしら? 真佐子のおばさまも」
「僕も同じことを考えていたところだ。東京の大学へ移ったことは挨拶状が来たけど、とにかくコロナで会うこともままならず」
「そうね、私も、おばさまのことが気になって、一度山口県のほうへ電話をかけてみたけど、収まったら会いましょうね、ということで、もう二年もたったわ。この前の事件からもう三年もお会いしてないわね」
蜜柑は茶箪笥にキープしてあるワインをグラスに注ぎ、テイクアウトしてきた中華料理をつつきながら、懐かしんだ。夏はビールをやっている。
「電話をかけてみようか?」
と言って、夏はスマホに指をかけた。
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