****************
第2会議室でこれまでの状況を聞いた源内は混乱し、ハルは何事か考え込んでいる様子だった。もう少し疑問を確認し、話を詰めていかなくてはならないだろう、それほど時間が残されていないから、今日が最後の機会になるかもしれない。
仕切り直そうと、美並は給湯室でコーヒーを淹れ直し、ハルには望まれたお茶を淹れる。
ハルが美並を遠ざけたのは気づいていた。ハルと源内の2人相手では真崎1人では分が悪すぎる、そう案じたのも確かだったが、ハルが意味もなく時間を作るはずもなく、その意味を考えているうちに、頭の中に構図が一つ浮かび上がった。
腐った血の色のタイル。
初めは、あれで『指紋』を取るつもりだったのかと思っていたが、ハルはそれを赤来に与えてしまった。
『そのタイルは差し上げます。お持ち下さい、あなたのものだ』
去り際の穏やかな口調に何かが引っかかる。
赤来課長は目を見開いて、ハルとタイルを眺めていた。
空は赤い。
なぜか幼いハルのことばが蘇る。
今のハルからあの時のハルは思い出せないに違いない、気配もキャラクターも違い過ぎる。
けれどもし、何かのキー・ワードが与えられたならば、容易に思い出すことができるかも知れない、あの時のハルを。
「…っ」
お茶の香りが広がった瞬間、美並の頭の中に、草いきれと絵を破られていたハルの姿がタイルに重なる。
同じ色。
変わらぬ、同じ、腐った血の色。
体が強張った。
気づかないだろうか、特殊な感覚でなければ、お前の色はこれだと示されてもぴんと来ないものだろうか。
なぜ絵は破かれたのだろう。
きっと、それが真実を知らせていたからだ。見たくない、知りたくない、己に不利なものの存在を、人は壊し消したがる。
赤来は忘れきっているだろうか、平穏な暮らしの中で、自分の闇の部分は完全に封じ込めてしまっているだろうか。
「……違う…」
忘れてなどいない、だからハルは美並の中から赤来の色を読み取った。自分がかつて遭遇した、命を磨り潰す『支配』の色を見分けた。それをハルはあのタイルに表現した、これはお前の色だろう、これを自分は見たことがある、この色を持つお前を知っている、と。
「…ハルくん……」
思わず流しに手を突く。
赤来を見分けるためだけではない、ハルは自分が知っていると赤来に突きつけに来たのだ。どれほど時間が経ち、どれほど人の間に紛れようとも、自分は無数の色の中から確実に『羽鳥』を見分けられる、と。
だからこそ、こっそり来てはならなかった。報道陣を連れ、全ての武器を携えて、赤来に会わなくてはならなかった。
もう逃げることはできない、と宣戦布告するために。
ハルの存在を『羽鳥』に知らしめるために。
「っっ」
ぞわりと身体中の毛穴が開く。
ハルが悩んでいたのは、『ニット・キャンパス』への参加だけではない、赤来を追い詰める鉄槌を自分が振るうかどうかを悩んでいたのだ。
それは同時に自分も、そして関係者も危険に晒すから。
「ハルくん…」
なんという犠牲を払うつもりなのか。
美並は滲んだ涙を堪え、急いでコーヒーとお茶を揃えて第2会議室に戻る。
「…お待たせしました」
声を掛けて入り、部屋の凍りついた空気に気づく。
源内がぐったりと俯いて座り、ハルはいつも通り、真崎はむしろ困った顔になっている。
「課長?」
「…ごめん。僕にも何が起こってるのか、よくわからない」
真崎は苦笑いした。
「ただ、彼は昔『羽鳥』に会っていることで、赤来課長に何か仕掛けたらしいよ」
やっぱり。
「ハルくん」
「源内」
美並の声を無視してハルが声を掛ける。真崎を見遣ると、少し首を振り、自分の手近の椅子を示した。今はどうやら、源内とハルの間に何か起こっているらしい。頷いて、そっと腰を下ろす。
「源内」
「……」
はあ、と溜め息が応じ、俯いたままの顔から呻くような声が続いた。
「……囮、だよな?」
「ごめん」
「お前は赤来って奴の標的を自分に向けたんだ」
「違う」
「違わない」
「違う」
「……もうことば遊びはいい」
「違うよ、源内。俺はあいつを許す気はないんだ、俺の絵を破ったから」
優しい柔らかな声が応えて、源内ががばりと顔を上げる。
「嘘だ」
「お前が評価した俺を侮辱したんだぞ放っておくのか」
「……嘘くせえ」
棒読み的な返答に源内が顔を引きつらせる。
「お前が他の人間の評価を気にするような奴なら、俺はもっと楽だったんだ」
「頼む」
「え?」
「この先も」
「……え…?」
ハルは微笑む。
「イタリア」
「…」
「フランス」
「…」
「世界あまねくに」
「………」
「忙しい」
「…………ハル」
「いつか消える」
源内の呆然とした表情に笑いかける。
「その時まで」
闘わせてくれ。
「…ハル…っ」
ぶわっと源内の両眼から大量の涙が溢れ出て、美並も真崎もぎょっとした。驚かなかったのはハルだけで、むしろ眉を寄せ、
「気持ち悪い」
容赦なく切り捨てた。
****************
今までの話は こちら