戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年04月05日
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カテゴリ: 城(中国)
前頁の最後の絵図には、解説もついてる。

 【法万寺川(農業用水路)

  この水路は法万寺川といい、この水は総社市にある高梁川合同堰から取水された
  農業用水が、足守川を経由し流れてきています。江戸時代、法万寺川は庭瀬城の外濠
  としての役割を持っていました。
  また、この地区は、水路を水運として利用し、備中南部の舟物資集散地の要所として
  栄えていました。

  水路には雁木(舟着場)がもうけられ、荷物の積み替え等も行われていました。
  現在でも水路は農業用水の配水のみではなく、洪水や生活雑排水の処理、水辺生物の

  (現地解説板より)

その堀がこれ。

岡山・庭瀬港跡2

この奥に常夜灯があると地図に書いてあるので、歩きだしたら道標があった。

岡山・庭瀬の道標

「左 吉備津」「右 こんぴら」?
どこのこんぴらさんだろ・・・

こんなのもあった。

岡山・庭瀬の道標2

字も読めないし、土地勘がないのでさっぱりわかりましぇん・・
でも、上にある手の彫り物は何か現代風(笑)。


けど、寛文年間の絵図を見ると、ぐるりと侍屋敷や本丸を取り囲むように
なってたみたい。

で、これがその常夜灯。

岡山・庭瀬・常夜灯2

うむ、見るからに新しいが・・・



  庭瀬は、近世まで足守川とその支流を利用した船運が盛んに行われており、地区内に
  張り巡らされた堀・水路を水運等に利用し、水郷のまちとして発展してきた歴史を
  有しています。さらに陣屋町を東西に貫く庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも
  呼ばれていることから、陸路と水路の交わる交通の要地であったといえます。

  1600年代中頃の寛文年間の左の絵図によれば、絵図の下方に描かれている足守川の
  河岸には、瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩の年貢米の積出港としても
  重要な機能を有していました。この河岸で積荷を海船から小船に積替えて旧庭瀬港
  (内港)に入ります。

  そこには、港町が形成され、庭瀬藩の商業・交通の中心地として栄えました。
  水路に面しては雁木(階段状の船着き場)が設けられ、入港する船のため
  木造で大型の常夜灯が1700年代に建てられていました。

  明治24年に山陽鉄道(現在JRの山陽本線)が開通して以降は、船の往来も減少し、
  昭和30年代には水路も半分ほどの幅までに埋め立てられ、また常夜灯も昭和29年の
  暴風により被害をこうむり、すべて取り壊されましたが、その基礎(地伏石)は
  原位置で保存されていました。

  庭瀬・撫川地区の堀や水路による町割り、城跡や家屋の町並の景観保全を目指す
  住民運動は、これまで活発に行われており、その盛り上りを受けて、当時の古写真や
  地元の方々の記憶をもとに、埋め立てられていた旧庭瀬港(内港)を部分的に
  再現しました。

  また当時の常夜灯の石積護岸の一部と約3メートル四方の基礎(地伏石)を使用して
  常夜灯を再建し、当時の旧庭瀬港(内港)の景観を平成19年度に復元しました。】
  (現地解説板より)

ほっほ~う・・・
足守は、庭瀬よりもっと北にあるところ。
備中の奥地へは、ここを経由して行ったのか。

ほんの何十年か前に壊されて埋め立てられたものを、
つい最近になって復元したってことね。
すごい熱意だ・・・

道標もあるし、近世山陽道って何じゃい・・・と思って、
帰ってから少し調べてみた。


岡山城のところで出てきた池田光政の二男・政言が、光政の隠居の際、
新田開発の地となった浅口郡に2万5千石を分封されて、支藩となる
岡山新田(しんでん)藩を立藩。

江戸時代には分家を造る際、元々の領地ではなく新たに開発した領地(=新田)を
分与する「新田分知(しんでんぶんち)」という方法があったそうな。
新たに開拓するんだから、本家の石高は減らないって寸法でね。

大名家の場合、分家が1万石以上の石高がある場合には
分家を「ナントカ新田藩」と呼ぶこともあったそうで、
ここでは岡山藩から分かれたから岡山新田藩。
明治元年に鴨方藩と改称。

で、鴨方に陣屋が置かれたが、本藩との行き来のために街道が整備された。
これが鴨方往来。
ま、陣屋はあっても、藩主は岡山城に住んでたみたいなんだけど。

他に、「 庭瀬城(2)  」で少し当時の地形について書いたように、
街道沿いが海岸線だったことから「備中浜街道」、
上方に続く道として「上方道」、あるいは「鴨方往還」という別名も持つ。

岡山藩では、岡山城を中心に放射状に延びる岡山藩六官道という街道網を
整備しており、鴨方往来もその一つ。

岡山城下の古地図を見ると、「庭瀬口門」って書いてあるところがあるから、
その辺りから街道が延びてたのかもしれないな。
そこまで詳しく調べてはいないけど

※岡山城城郭図は こちら
(The Lit City Museum/岡山市デジタルミュージアム様のサイトへリンクします)


鴨方往来はここよりも内陸にある山陽道と並行しており、山陽道の代替路としても
機能していたという。
庭瀬までは「庭瀬往来」ともいい、また途中までは六官道のひとつ、
「金毘羅往来」と重複していたと。

ほうほう、じゃあ、さっきの道標が鴨方往来と金毘羅往来が重複してたって事を
示してる訳なのかな?

この金毘羅往来は、倉敷の下津井湊へ続き、その名の通り
金毘羅参りの道なんだと~。

今は静かな住宅地の中にあるけど、昔は色んな人が行き来した場所だったんだ・・・

※「撫川城(1)」へと続きます。

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最終更新日  2012年04月05日 21時33分55秒


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