戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年04月17日
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カテゴリ: 城(中国)
公園の北側の出口から出て、北西へ。
この辺はかつては家中屋敷のあった所で、現在では民家が建っている。

少し歩くと案内があり、小道を入っていくとこれがある。


備中高松城・宗治洞塚3


 【史蹟 胴塚の由来

  時に天正10年(1582)6月4日、自決した高松城主、清水長左エ門宗治公の
  首級なき胴体遺体は舟上のまゝ本丸に帰って来た。
  迎える家臣、身内の者共、押え切れぬ涙に感極まって、一同の嗚咽がおこった。

  やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。その墓穴に臨んだ

  亡き公の後を追った。

  この主にしてこの臣あり、主を思う眞情躍如たるものがある。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)


あ~~~~、切ない・・・
この介錯人君は、宗治の首を検視役の堀尾茂助(吉晴)に渡して
城に戻ってきたという。
ちなみに高松城の城兵は、3,000とも5,000ともいわれる。



城址公園には真ん中に長い沼が復元されており、
ここまでで沼の片側しか歩いてないから、再び公園に入って
沼の西側を歩いてみる。

本丸と二の丸を結ぶ橋のあたりは蓮池という地名が残っており、


なんでも沼の復元をした後に地下に眠っていた蓮が再び芽を出して
自然に生えてきたもので、これに宗治公の名を冠したんだとか。




備中高松ジョー


公園内は本丸と二の丸をつないだものにちょっと長さを足した程度の、
さほど広大とも言えない面積。


ジリジリ照りつける日差しの中で、ぽっかりと西に広がる田んぼや空き地の
空間を見つめながら、必然的に1582年に意識が飛んでいく・・・



これまでの境目ツアーで何度か布陣図を載せてきた、
吉備路観光ツアー実行委員会様発行のパンフレット
「高松城水攻め 驚天動地の秘策」は私が言うのも失礼だけど、かなり良い資料。
ここでもまた絵と写真と本文を引用させていただきます。

CIMG0083


 【従来の説では、『太閤記』『中国兵乱記』などの伝記に書かれている堤防の長さは
  蛙ヶ鼻から約2.7km、規模は高さが約7m、幅の底部が約24m、
  上部10m。
  工事期間は12日で、周辺の百姓にお金や米と引き換えに土を運ばせたと
  いうものであった。

  成功の要因は、自然の地形に恵まれていたここと雨期で大雨が降ったことが
  挙げられる。1985年6月の洪水のとき、左上写真のように高松城跡の周辺は
  水に浸かったことがある。このことからわかるように、この地域は大規模な
  築堤をしなくても、水が溜まる地形なのである。

  最近の説では、蛙ヶ鼻から備中高松駅付近までの約300m、高さ2mの堤防
  だったのではという説が有力である。この規模の堤防なら、引き連れてきた武士だけの
  動員で12日間程度の工期も現実味を帯びる。

  岡山市教育委員会による蛙ヶ鼻付近の発掘調査でも、幅24mにわたる築堤の規模で、
  杭の列や土俵積みの痕跡が確認されている。

  ※備中高松城の水攻めについては様々な説があり、不明な点もたくさんあります。】


解説にある、左上の写真てのはこれ。


CIMG0189


下が普段の城址で、上が洪水で水びたしになった時の写真。


現地ではパンフレットなどを集めはするものの、
正直言ってあまりその場では丁寧に読まない。
自分が用意した資料で、大体は用が足りるし。

で、この時もここの部分は読んでなかったんだけど、
帰ってからこれを読んだ時、「我が意を得たり!」と思ったね。

高松城の水攻めは、一般的に
「浅いすり鉢のような地形に目を付けた黒田官兵衛が水攻めを献策した」
って言われてて、現地に来るまでは「そうなんだ~」と思ってた。

ところが、現場に立ってみると
「か~んべ~、どこがすり鉢?」
って感じなんだもん。

400年経ってるから多少の地形の変化はあるでしょうし、
今は当然土壇なんかないからってのもあるかもしれないけど、
あまり低い土地って感じはしない。

まあ、縮尺が25,000分の1とかの詳細な地形図を見た訳でもないし、
高い所から見るのとはまた違うのかもしれないけど。



それで、毛利軍が足止めを食らうような足守川の氾濫があったとして、
下流でそれだけの水流があったんなら、上流でそんなもの引き入れたら
水攻めどころか即水没じゃないの?
って思ったんだよね~。

近年でも大雨で周辺が水びたしになったってのは知ってたし、
梅雨時なら、元々沼沢地なんだし雨の流出口さえふさげば
充分水は溜まるんじゃないのかな~ってのが素朴な感想。

ちょっと水攻めというにはジミーになっちゃうけどね(笑)。


それから、水攻めの献策をしたのは、かんべ~じゃなく
これまでに何度か登場した花房職秀君の一族の花房正成だという説もある。
正成君は高松城南面から鼓山のふもとを流れる板倉川を
せきとめることを考えたというのだ。

板倉川ってのははっきりわからないんだけど、高松城の南だし、
蛙ヶ鼻には間違いなく築堤の痕跡が残っていることから考えて、
現在の宮西川(地図は こちら )をせき止めたって感じかなあ~? 

ちなみに正成君は後に高松城主となり、その時代に城郭整備工事を行っていたことが
最近の発掘調査で判明したそうな。
基礎工事用の捨石(すていし)が発見され、その中には石仏や五輪塔などもあったと。

ただ、職秀君も関ヶ原で東軍として頑張って、
戦後高松に知行所を与えられたというし、正成君と職秀君のどちらかは
わからないけど、いずれにせよ花房氏をもって高松城は廃城となったらしい。



話を元に戻して、水攻めの真相はどうであれ、高松城は水の中に孤立した。
毛利の応援部隊を岩崎山に見ながら戦況が打開されないことに、
宗治も城兵も歯がゆい思いと落胆を覚えたことだろう。

それは恐らく、高松城をただ見つめるしかなかった両川も同じ。
でも結構、備中侵攻も後の方になってくると各所で元春と隆景の意見の対立も
あったみたいね。

この時の救援に関しては、そもそもの出陣からひともめあった。
隆景から元春への出陣要請に対し、元春側では

「いっつも元春殿にばっか危ない橋渡らせて~。
今度は隆景殿一人で行けばあ~?」

って意見もあったのを、

「隆景じゃあのサルには勝てん。ワシは一人でも行くぞ」

って周囲を説得して出たものの(元春ちゃんカッコいい)、
現地では作戦について意見が分かれ、

「兄ちゃんみたいに力攻めだけじゃ、サルには勝てないんだよ!
尼子とは違うんだよ!!」
「戦いをわかってないのは、オマエの方だろーが!」

なんてやり取りがあったとのエピソードもある。



この頃の毛利は精彩を欠いていたって言われるけど、
備中を奪われたらもう備後。
毛利の本拠はすぐ先で、それこそ堀を埋められた大坂城みたいになっちゃう

和議のタイミングを図りつつの出陣じゃなかったのかな~とも思うし、
迷いとか色々あったんじゃないのかね。
あと、毛利陣営に内通者がいるという噂が流れていたから
動けなかったともいうし。

ちょっとその辺は、本能寺の変との絡みもあるかもしれないから、
何とも言えないけど。

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最終更新日  2013年07月01日 23時22分20秒


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