戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年04月18日
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カテゴリ: 城(中国)
南の方の入り口から出て、道路を渡るとその辺りが三の丸。
この一角には寺社がいくつかある。

道を入って左手には妙見大菩薩。
妙見様については、前月の山口で親切な住職様に色々教えてもらったからな~。
それ以来、ちょっと親近感がある。


備中高松城・妙見大菩薩3


ぱっと見て、なんか変わった社殿だな~と思って近寄ってみたら、
ここの瓦!
軒丸瓦も、鬼瓦・・・っていうのかな、この場合も?


備中高松城・妙見大菩薩3(拡大)


十字じゃん!ナニコレ!!

妙見様って北極星・北斗七星のことだから、神紋なら星とかじゃないの?
家紋用語でいうなら、これは「切り竹矢筈十字」ってのにあたるかと思うんだけど、
これを使ってるのは能勢氏だとか、高松にあんまりゆかりのなさそうなおうちだし・・・

世の中には、わからない事が多すぎる


妙見様の隣には、星友寺。
後に花房氏が高松城主になった事は書いたけど、
宇喜多直家の法名をとり建てたお寺なんだと。

て事は、宇喜多騒動で花房君が宇喜多家を去る前の建立ってことかな?
って思ったら、

 【もとは平山村にあったが、寛永年間(1624~44)花房氏が現在地に移し、
  旧主君宇喜多直家の供養のため建立した。山号・寺号ともに直家の法号

  (岡山市ホームページより)

なんだって。

直家の法名は「涼雲星友」って言ってるところもあるんだけど?
位牌もそうなってるし・・・
よくわからん。



その奥にあるのが、妙玄寺。
ここは花房氏の菩提寺。
で、花房助兵衛君の墓がある・・・って事は後で知ったので、
すけべえ・・・いえ、職秀君の墓参りはできなかった。ちっ

さて、妙玄寺の一角にはこれがある。


備中高松城・宗治自刃の地


清水宗治自刃の地に建つ供養塔です。

6月4日、宗治は

 月清入道・・・清水宗知、宗治の兄
 難波宗忠・・・宗治の弟
 末近左衛門・・・清水宗治七将のひとり

とともに小舟でここへ漕ぎ出し、

川船をとめて逢瀬の波枕、
        浮世の夢を見習わしの、驚かぬ見ぞはかなき

と歌い、辞世を詠んで切腹したという。


宗治の切腹については、ウィキペディアには次のように書かれている。

 【切腹の作法が変化する転機となったのは、この清水宗治の切腹からであった。

  水上に舟を漕ぎ出し、そして切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り、
  介錯人に首を刎ねられた清水宗治の作法は見事であるとして、
  それを実際に見た武士達の賞賛を受けた。

  秀吉は信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところであったが、
  「名将・清水宗治の最期を見届けるまでは」と陣から一歩も動かなかったと
  いわれている。また、後に小早川隆景に会った秀吉は「宗治は武士の鑑であった」と
  絶賛したという。】

切腹に限らず、生活全般において戦国時代に流儀や作法が整えられた事は
沢山ある。

宗治の場合は、実数はどれ位かわからないけどギャラリーが相当数いたからね。
大軍に挟まれた中で潔く果てた姿は、見つめる武将達の目に鮮烈に映っただろうし、
あながち俗説でもないかもしれないな。


さらに宗治の名を押し上げたのが、上にあるような殿下の評。

潔い最期から武士の鑑と褒めるのはいいとして、
「名将」とはこの時点で言わなかったと思うんだけどな・・・

だって、独立してから小早川隆景に従ってあちこち転戦はしてるものの、
名将と言われるほどの華々しい実績ないし(すいません)。

一旦高松城を攻めたもののすぐには落とせず、水攻めに移行した訳だけど、
それだってものすごい策略とかで羽柴軍を撃退したんじゃなく、
高松城の立地条件に負うところが大きいんだし・・・(ごめんなさい)

まあ、どんなに堅固な城だって凡将じゃもたなかっただろうけど。

あと、備中攻めの前に信長様が宗治をヘッドハンティングしようとしたらしいんだけど、
宗治個人を、というよりは国人衆の切り崩しにかかってたからだし
(ホントにすいません)。

アレだよ、後年の徳川家康のセリフ、
「ボクが天下を取れたのは、武田信玄と石田三成のおかげ
ってのと通じるところがあるんじゃないの?

宗治がさっさと切腹を承諾してくれたから、
秀吉は後継者レースに間に合った。

そういった総合的な宗治の貢献度を、後になって誇大に評価した
結果(謝る言葉もございません)、こーゆー逸話が生まれたんじゃないかと思うけどな。


だって、「城兵の命とひきかえに」なんてのは他にもあるし、
年代も近くて条件もほぼ同じなのに、吉川経家(鳥取城)と宗治じゃ、
ネームバリューに差がありすぎじゃん!!
世の中ってのは、実に不公平にできている




私の素朴な感想はどうであれ、確かに秀吉は宗治を高く評価していた。

宗治の子は隆景の元に人質として出されていたが、
高松城開城の際に毛利家からお暇を出され、高梁川の西の川辺という所を
あてがわれたので、清水家の家族や家臣達はここへ移住してきた。

この子は元服して、隆景と宗治から一字を取り景治と名乗った。
後に秀吉は景治を大名にしようともちかけたが、景治はそれを断り、
小早川家に就職したそうな。

その後は隆景の養子となった秀秋にしぶしぶ仕えることになったが、
いつの間にか秀秋の元を去り、毛利家に戻ったらしい。

ご存じの通り、関ヶ原後に毛利家は所領を大幅に削られたので、
家中ではリストラもあったそうだが、清水家は一門家老に次ぐ寄組士となり、
萩に屋敷を構え、現在の山口県光市に所領を与えられた。

宗治の首塚と胴塚は高松城にあるけど、墓は光市にあるのはこのため。

以後は景治の系統が家系を存続させ、明治には男爵に列せられた・・・と。



こんな風に、その後の清水家は秀吉からも毛利家からも厚遇された。
景治は二男で、長男は関ヶ原の前哨戦となる安濃津城の戦いで戦死したらしいけど。

そして、清水宗治の名は400年の時を経てなお、
辞世の通り高松の苔に鮮やかに残っている。

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最終更新日  2013年07月28日 15時21分04秒


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