戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年04月26日
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カテゴリ: 城(中国)
「戦国大名」の定義は確定してないみたいだけど、


私は、戦国大名とは見ないかな・・・
もちろん、庄氏も上野氏も。

そうすると、ついに備中から地元産の戦国大名は立たなかったことになる。

大国の狭間で幾多の戦いを繰り広げながら、
戦国大名を出せなかった備中の歴史・・・

備中兵乱までは、毛利氏は備中に対して間接支配の形を取ってきたけど、
三村氏滅亡後は諸城に元清(穂田氏の養子となった)はじめ、配下を入れたので



隆景ちゃんのとこに家出した、三村元親の叔父・三村親成は

「元親を押さえられんかったなぁ、われの責任だー」

と言われ、減封。
かつての所領の半分以下になったともいわれている。
ただし、成羽城は安堵された。

この親成さんは、毛利家から三村家あてに書状を出す際には、
当主である家親だけでなく親成にも見せるように元就が言ったという話が残っている。
かなり、信頼されてたみたいだね。

こんな毛利と三村の仲の良さを引き裂いたのが、宇喜多直家。

三村氏の不幸は、なんといってもタチの悪い隣人がすぐそばにいたことに尽きるよな

「あいつ、嫌じゃから引っ越そう」

って訳にいかないもんね~。


備中兵乱の直接の引き金となった(と思われる)当の宇喜多さんは、

毛利と同盟国だしね。

けど、そんなに大規模な出兵もしていなかったらしく、
具体的にどこでどーゆー働きをしたのかはよくわからない。

ただ、乱の終息後は備中の南の一部が宇喜多氏に与えられたという。


しかしそのわずか4年後、宇喜多直家は毛利氏との同盟を破棄して


こんなことは同盟を結ぶ以前から充分に想定できたので、

「それみんさいやー」
※それみなさい、の意

と元春ちゃんが鼻を鳴らしながら言ったであろうことは
想像に難くない。



さて、備中兵乱後、三村親成さんは成羽城に元親の妹などを引き取って、
面倒を見ていた。
その頃転がり込んできたのが、水野勝成。

この人も面白い人で、徳川家康のいとこにあたるそうだが、
ちょっと自由な人だったので家を出て諸国を放浪。
実父から奉公構をされていたため、あちこちを転々とするが、
親成さんはこの居候を丁寧に扱い、元親の姉妹であり自分の姪である娘を養女にして、
この自由人に嫁にやった。

自由な人ゆえに、この居候期間に侍女との間に子まで作っちゃったらしい。

結局、親成さんのところも飛び出しちゃうのだが、
後に父親と和解して家督を継いだ自由人は、関ヶ原・大坂の陣で大活躍して
福山城を建て、備後福山藩の初代藩主となる。


一方の親成さんの関ヶ原での具体的な動向はわからないが、
毛利家の減封に伴い、成羽城を出るハメになった。

備前児島で細々と暮らしていた親成さんを家老として迎えたのが、
先程の自由人・水野勝成。
人生って、わからないもんだね(笑)。

居候の嫁に出された三村家親の娘・於柵はいちおう正室の扱いになってはいるが、
水野家に家親の血を残したのかどうかはちょっとわからない。

ちなみに、侍女に産ませちゃった子は、後に福山藩二代藩主となる。


備中兵乱で三村の直系は絶えたけど、上田氏に養子にいった実親の血は残ったらしい。
(実親は、「備中松山城(5)」の系図をご覧ください)
その子孫の中から、二松学舎の創設者・三島中洲が出た。

親成さんの方の家系は3代後までは水野家の家老職を継いでいたが、
水野家改易に伴い福山に土着した。

現在でも、福山を中心に親成系三村氏の子孫は多く残っているという。



備中兵乱後、毛利氏は松山城に城番を置き、主郭をそれまでの大松山から
小松山へと移した。

関ヶ原後は幕府の直轄領となり、小堀正次が代官として松山城に入った。
正次さんは備中松山藩初代藩主となるのですが、この人も2度還俗したりしてて、
みんな面白すぎる~

正次さんは松山城に入って4年後に亡くなるんだけど、
この人と磯野員昌の娘との間にできた子が後を継いだ。
それが小堀政一。
一般的に「小堀遠州」の名で有名な方です。

築城家としても名高い政一さんは、臥牛山の麓にあった三村氏の居館跡に
陣屋を築き、下屋敷である御根(おね)小屋を作った。

慶長11年(1606)頃から山上の城の改修を始めたが、
途中で転勤になっちゃったので、改修は小松山まででストップ。

池田氏の後は水野勝成の預かりとなって城番を置いたみたいだけど、
この時は三村親成が入った訳じゃないみたいだね。

その後に入った水谷(みずのや)氏、この2代目が大規模な改修を行って
現在の姿に整えられたという。



現在「備中松山城」と呼ばれる近世城郭部分はこんな感じであったらしい。
(図は二の丸にある看板の復古図です)

備中松山城・解説3(拡大)2


大手の手前には、かつて犬走りがあった。

 【犬走り口

  犬走りは表門を迂回して裏門へ至る横道であり、犬走り口はその虎口(出入口)に
  当たる。備中松山城の場合、土塀の痕跡がとぎれる大手門下の現在地にあたり、
  ここから天守裏の搦手門に通じる犬走りが続いている。】
  (現地解説板より)

そして、大手の解説。

 【大手門跡

  備中松山城は、自然の地形を巧みに利用して築かれているが、なかでも大手門はその
  典型。山麓から続く登城道に対し、大手門が東を向いて構えているので、進入が
  矩(かね)折りとなり、内部は踏面(ふみづら)の長い石段と高い石垣でまわりが
  囲まれ、半ば枡形構造(門の内側もしくは外側に、敵の直進を防ぐことを目的に
  設けた四角形の空間)となっている。

  城内へ押し寄せる軍勢等の勢力をそぐためにとられた工夫で、備中松山城の大手門は
  実戦向きに築かれている。

  攻撃あるいは防禦にあたっての重要な軍事施設であると同時に、大手門は城下に威を
  奮う統治上の象徴的施設でもある。そのため城内に6つある門のうち、最も複雑な
  進入形態をとるとともに、最大の規模を有している。】
  (現地解説板より)


大手の向かって右側、崩落の危険のある岩盤の手前は上がれるようになっている。

備中松山城・大手6

上がるとこれ。

備中松山城・大手7


おお、櫓門か~。
わかりやすい


進行方向は、左側・・・
いっきなり銃眼から狙われてるカンジ

備中松山城・大手8

土塀の左側が、二の平櫓跡。
かつては大きな大手櫓門のすぐ隣に、この櫓が建っていた。 

備中松山城・二の平櫓跡

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最終更新日  2012年04月26日 22時23分03秒


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