戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年05月27日
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カテゴリ: 江戸めぐり
延命地蔵尊から地蔵通りへ戻って、さらに北東へ。
こちら )。
千川上水は、江戸六上水のひとつ。


 【千川上水調節池跡

  千川上水は、元禄9年(1696)、小石川白山御殿・湯島聖堂・上野寛永寺・
  浅草寺御殿と、下谷・浅草方面の江戸市民の飲料水を確保するために、
  玉川上水を分水した上水です。その後、近隣農村の農業用水としても利用されました。

  明治期以降は、紡績・製紙・製粉・伸銅工場などの産業用水として利用され、流域の


  上水は、ここにつくられた溜池(沈殿池)で、砂やごみなどを沈殿させた後、木樋
  (もくひ)や竹樋(たけひ)の暗渠となって江戸市中へ給水されました。なお、この
  付近を「掘割」と呼んでいますが、これは、慶応元年(1865)に、
  幕府が滝野川村に建設した反射炉の水車利用のため、王子方面への分水(玉川分水)
  を開削する際に堀をつくったことに由来しています。

  明治13年(1880)、岩崎弥太郎らが設立した千川水道株式会社によって、
  本郷・小石川・下谷・神田方面への給水が再開されると、王子分水との分配堰が
  設けられました。明治通りの向かい側(北区滝野川6-9)には、水利関係が刻まれた
  「千川上水分配堰」の碑(明治15年建立)が残されています。

  一方、公園側には分配堰の落とし口があり、沈殿槽からの水量調節を行っていました。
  公園内には、駒込六義園方面への送水に使用していたバルブ(巻揚器)が現在も



元禄9年は、徳川綱吉の治世。
そもそも上の解説にある4御殿ってのは、

 ・小石川白山御殿・・・綱吉の別荘
 ・湯島聖堂・・・幕府の学問所

 ・浅草寺・・・幕府の祈願所

でこれらの給水が主な目的とのプレスリリースだったが、
実際には六義園へも大量に送水されたというから、綱吉らしくて笑える。

六義園はご存知の方も多いと思うけど、綱吉の寵臣・柳沢吉保の下屋敷だからね。


この日記の2行目のリンクを見てもらえばわかるように、
千川上水公園のすぐ近くにある明治通りの交差点名は、まさしく「掘割」。


お江戸の町と上水や関連の史跡をまとめた図が看板に載ってた。


巣鴨・千川上水絵図2


青いラインで示した部分が、千川上水。
ここ千川上水公園が、上水の終点だった。


練馬区のホームページには、こんな事が書いてある。

 【千川上水は元禄9年(1696年)、玉川上水を現在の西東京、武蔵野両市境で
  分水したものです。北の石神井川と南の妙正寺川の分水界上をぬって
  練馬から板橋を抜け、巣鴨までを開渠(素掘り)とし、それから先を木樋(木管=
  土中埋設)で江戸までつないでいます。

  設計は水利の第一人者河村瑞賢が行い、施行請負一般に多磨郡仙川村(現調布市
  仙川町)出身といわれる徳兵衛(一説に常陸の住人とも)、太兵衛の両名で、
  道奉行伊勢平八郎の監督の下に工事に当たりました。このとき、当初予定されていた
  幕府費用だけでは間に合わず、480両余を自前で出資したと伝えられています。

  こうした功により、のちに両名には千川の姓が与えられ、名字帯刀が許されることと
  なり、また併せて千川水路取締役を拝命して、上水の管理を任され、水使用料徴収の
  権利を得ました。】


仮にも公共の工事に、業者がポケットマネーを出すなんて・・・(笑)。
幕府がケチったのか?
それとも、匠のこだわりで贅沢なものを作っちゃったのか?

巣鴨から先は、中山道の下を通る木樋で通され、
上にある4御殿(と六義園)の他にも、大名家へも給水されたという。


練馬区のホームページでは、次のように締めくくられている。

 【その後、千川上水の水は大蔵省や都水道局、あるいは六義園の池水などとして
  利用されていましたが、昭和43年(1968年)の都営地下鉄工事で
  六義園への水路が中断され、45年には都水道局が取水を中止、さらに46年には
  大蔵省が工業用水道に切り替えたため、事実上、千川上水の水利用の歴史に
  終止符が打たれました。】


綱吉の命で作られたものが、昭和46年まで使われてたんだよ!?
ちょっとどころじゃない位、びっくりなんだけど~。

日本人の物持ちの良さもさる事ながら、
それだけの使用に耐えるものを元禄の時代に作る技術・・・
さすが、ポケットマネーをつぎ込んだだけのことはある


まあ、長い歴史の中には、色々あったみたいだけどね。
一時は、儒学者・室鳩巣が

「江戸に火事が多いのは、上水が地脈を分断したせいだ~」

なんて言い出したりして、吉宗の時代に市内への給水が止められたなんて事も
あったらしい。


上水の役目は、昭和46年をもって終わったけれど、
千川上水公園の地下には、六義園への貯水槽が現在でも残っているという。

最近では、開渠区間においては清流復活事業による流水がなされており、
暗渠部分のある豊島区や練馬区では千川上水の復活を求める声が上がっているそうだが、
いずれの区でも実現は困難との回答らしい。

復活できればそれに越したことはないけどね、
都内の現状を見ると、まあ難しいだろうな~って感じはするよね。


で、公園内に残っているバルブがこちら。

巣鴨・千川上水のバルブ


2つあった。
なんか、カッコいいよね。


さて、明治通りまで来たのは、千川上水公園も目的のひとつだけど、
もっと大きなお目当てがあったからなのだ。

それをゲットするには、ひたすら下を見て歩くしかないので、
公園を出て明治通りを池袋方面へ・・・

日頃から私のブログを読んで下さっている方なら、
もう何を探してるかおわかりでしょう。
そう、アレですよ、アレ


昨日は雨風ともに強くて、今日も少し雨が残るという予報だったので、
日傘はやめて、長い雨傘を持ってきてた。

お墓参りしてた頃は少し雨もパラついたけど、
お昼頃からはすっかり晴れ上がって、暑い。

暑い中をずっと歩いてきたので、もう疲れた・・・
けど、せっかくここまで来たので、頑張って歩く。
どこにあるかわからないのが、精神的にキツいところだよな~。


しかし、ある程度歩くのは致し方ないと覚悟していたものの、
真夏の真昼間の炎天下を日傘なしで歩くのはやっぱりこたえる。
傘はあれども、雨傘だし。

後から考えたら、



とか思われたところで、どうせ知らない人ばっかりなんだから、
見栄張ってないで雨傘差しておけば良かったんだよね~。

で、暑いのを我慢して歩くけど、なかなかお目当ては見つからず。
また戻って歩かなきゃならないので、もうほどほどのところで
引き返すことにした。

仕方ないよな・・・
でも、もしかして道の反対側にあるかもしれないから、
帰りは道路を渡って帰ろう。

ってんで、とぼとぼ下を見ながら来た時と反対側の歩道を歩いてたら、
やっと見つけた!!

千川上水のふた


はい、ふたで~す。
真ん中の紋章は、千川上水のマークだそうです。
まにあの間では割と有名らしいが、数はそう多くないみたい。

延命地蔵尊からわざわざここまで足を延ばしてこれを見に来たなんて、
なんか私までまにあ~になったみたいでイヤだな・・・
とか思いつつ、サカサカと撮影。

思いっきり私の影が入っちゃってるけどね
だって、まだこの頃は羞恥心がいくらか残ってたので、
都内の車通りの激しいところでふたの写真を1人で撮るなんて、
もう恥ずかしくって・・・

おまけに、暑くてフラフラだったし。


で、明治通りでの目的を果たしたので満足して地蔵通りへ戻る。
とにかく安堵感でいっぱいだったので、「掘割」の交差点の近くにある
千川上水分配の碑を見てくのを忘れた。

さらに、後で資料を読み返してたら、この分配碑のすぐそばに
千川上水マークのふたもあったらしい。

ああ、失敗しちゃったな~。
準備が浅いと、こうなるという良い例
(実際は、何度も同じようなことを繰り返してるけど)

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最終更新日  2014年01月04日 21時14分21秒


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