戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年06月03日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
※「大津城」からの続きです。

びわこ♪


琵琶湖を眺めながら、お昼。
すんごい晴れてるでしょ~?
暑かったんだよ、マジで

でも、去年2010年の岐阜の猛暑の中を1日中歩き通した経験があったので、
まあ何とかなるだろうと思ってた。
登山をしてた頃、熱中症についても独学で勉強して、
それなりの知識はあったしね。




次のお目当てはこれ(場所は このへん )。

大津・明智左馬之助湖水渡りの碑2

・・・ちょっと、フェンスの位置とゆーか、
石碑の置く場所を考えて欲しかったよな。
フェンスがジャマで、写真が綺麗に撮れないんだけど

 【明智左馬之助 湖水渡りのところ

  天正10年(1582)6月2日、明智光秀は主君織田信長を本能寺に攻めて自害させ、
  天下を奪ったが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、その野望は消え失せた。

  光秀の弟左馬之助光春は、信長の居城安土城を攻めていたが、兄の死を聞いて急ぎ

  坂本に帰った。

  しかし時すでに遅く秀吉の軍勢に囲まれ、6月14日、光秀の妻女らとともに、城と
  命運をともにした。
  湖水渡りの勇姿は、今も講談などで語りつがれている。】
  (現地解説板より)


光秀の娘婿の明智秀満のことだと思うんだけどね。

本能寺の変が6月2日、秀吉と明智軍が戦った山崎の合戦が6月13日。
その深夜に光秀は京都山科の小栗栖で、あえない最期を遂げたとされている。

秀満が安土城を出立したのは、この訃報を受け取ったからとも
山崎の合戦の後詰としての出陣だったともいわれる。

いずれにせよ、秀満は安土から陸路で西へ向かい、
まず瀬田で山岡氏の妨害を受けたと思われる。

大津に入った秀満を待ち受けていたのが、堀秀政。
そしてここら一帯の打出浜が戦場となった。

激戦の末、多くの兵を失った秀満が、馬にまたがって琵琶湖に乗り入れたという
伝説があるのが、この場所。

それで、秀満を乗せた馬が頑張って泳いでった先が
唐崎の このへん (現在のびわ湖大津館あたり)だって言われてるんだけどね。

結構、遠いよ?
ええええ~っっ!!
って感じなんだけど

しかしこれが全くのフィクションだったとして、
なんでそんな話が生まれたものか・・・

で、なんとか逃げ切って坂本城まで辿り着いた秀満さんの
その後については、坂本城のところでいずれ書こうかな。


さて、この打出の浜は、実は他の歴史もあわせ持つんです。

旭将軍・木曽義仲が入京後に人望を失って滅ぼされたのは
多くの人が知っていると思いますが、その最期の地がこの辺りなんですな。

寿永3年(1184)1月19日、木曽殿の乳兄弟である今井兼平は
源範頼・義経らの進軍を阻むため、800ほどの兵を率いて瀬田へと出陣する。
翌日から合戦が始まるが、戦力の差は如何ともし難く、兼平軍は敗走する。

一方の木曽殿も各地での敗報を聞きつけて出陣。
義仲は兼平を、兼平は義仲を案じてそれぞれがお互いを探し求め、
ようやく再び巡り合えたのがここ打出浜といわれる。

木曽殿と兼平は、兄弟以上の乳兄弟なんていわれるくらい、
深い主従関係を築いていた。
この2人の最期は、美しい主従愛で彩られ、
それだけになお一層物悲しい・・・

この場面は涙が出ますよ、ホント


そんな数々の悲しい歴史を秘めた打出浜には、現在ではこんな現代城郭が建つ。

大津・琵琶湖文化館


滋賀県立琵琶湖文化館。
三層五階の構造で、天下を目指す武将達が活躍した近江の象徴として
デザインされたらしい。

ここはなかなかのお品を収蔵してるみたいなんだけど、
残念ながら現在は休館中(2011年7月現在)。
収蔵品たちは、今頃どうしているのだろうか・・・


ここからなぎさ通りを道なりに東南へ。
優秀な日傘を差してる上に、なるべく日陰を選んで歩くけど、
マジで暑い。

日傘もささずに帽子をかぶるだけの友達は、元気に日なたを歩いてるので、
日陰に呼び込みつつ、次のスポットへ。

暑さでヘロヘロになりながら着いたのは義仲寺(場所は こちら )。

 【義仲寺(ぎちゅうじ)境内

  義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきています。室町時代末に、
  佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
  門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔が立っています。

  「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。
  境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など
  多くの句碑があります。また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
  昭和42年11月に国指定の史跡となりました。】
  (現地解説板より)

打出の浜で兼平と喜びの再開を果たしたのもつかの間、
追討軍が迫ってきたのを見て兼平は、

「自分一人を千騎とも思って下され。しばしの時を稼ぎますので、
静かにご自害を・・・!」


と木曽殿に促す。

「お前に逢うためにここまで来たのだ。別々に死ぬより、一緒がいい・・・」

と駄々をこねる主君の馬に取りすがって、兼平は涙を流して自害を決断させる。
駆け去る木曽殿のために一人奮戦する兼平。

しかし、木曽殿の馬が深田にはまってしまい、
残した兼平の身を気遣って振り向いたところを矢が貫き、絶命。

「義仲、討死!!」の大音声を聞いた兼平は、

「これ見給へ、東国の殿ばら。日本一の剛の者の、自害する見本よ」

と言って太刀の先を口に含み、馬からさかさまに飛び降りて自害した。
その壮絶な死に様は、見ていた追討軍の度肝を抜いたという。


この2人の最期は、教育唱歌の「近江八景」にも歌われている。

粟津の松にこととえば 答えがおなる風の声 
         朝日将軍義仲の ほろびし深田は何かたぞ


    今もなお身にしむ 粟津野(あわづの)の秋風
         いずかたぞ 昔の 兼平の石碑(いしぶみ)




さて、まず入口の写真を撮ろうとしたら、修学旅行っぽい男の子逹が
わいわい楽しげに記念撮影をしていた。

「そんなに楽しい場所でもないんだけど、
ホントにわかってんのかな~、コイツら・・・」

とか思いながら撮影が終わるのを待つ。
小さな門前いっぱいに広がってるので、中にも入れないし

やっと終わったと思っても、しばらく門前にたむろしてたので、
仕方ないから後で写真を撮ろうと思ってて、そのまま忘れた(笑)。

最近とみに忘れっぽくなったので、そのせいもありますが、
他の事情もありましたんでね・・・

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最終更新日  2012年06月03日 21時49分07秒


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