戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2012年06月08日
XML
カテゴリ: 城(近畿)
戸田一西さんの子の代からは、しばし藩主はめまぐるしく変わる。

 戸田氏鉄(一西の子。摂津国尼崎藩に転封)
 本多康俊(三河国西尾藩より入城)
 本多俊次(康俊の子。三河国西尾藩へ転封)

 菅沼定芳(伊勢国長島藩より入城。のち丹波国亀山藩に転封)
 石川忠総(大久保忠隣の次男。下総国佐倉藩より入城)
 石川憲之(忠総の子。伊勢国亀山藩に転封)

この後は本多俊次さんが返り咲いて、以後はずっと本多氏が藩主を務めた。

交通の要衝である瀬田の唐橋と、琵琶湖の湖上水運を押さえたこの城は、


最大の石高は7万石。
井伊家彦根藩・酒井家小浜藩に次ぐ畿内での譜代の大藩といわれる。


本多俊次の時代、寛文2年(1662)に
「近江・若狭地震(寛文近江地震)」が起こった。
この地震は、北近畿地方における史上最大級の地震だったそうで、
膳所城も建物が倒壊するなどの被害を受けた。

幕府に俊次さんが提出した『膳所城修復願ヶ所絵図 』の覚書を見ると、
字が読めなかったり欠けてたりして被害の全容はつかめないけど、
崩れただの傾いただのの言葉がいっぱい書き込んである。

それによると、天守は傾き、本丸と二の丸にある櫓のほとんどは倒壊して
琵琶湖の湖底へと消えていった。



で、この地震を機に城は大幅にリフォームされた。
したがって、幕府に提出された正保年間(1644-1668)の絵図と、
改築後のそれとでは、縄張りがだいぶ違っている。

高虎の初期のデザインは、陸地から東にまず二の丸、
さらにその東に本丸がそれぞれ独立した島としてあり、


が、改築後は本丸・出丸・二の丸を一緒にして本丸とし、
元の三の丸を二の丸に改めた。

膳所城に関するブログやホームページなどでは、
高虎の縄張りを紹介してるものの方が多いみたいだね。



日本三大湖城の一つに数えられ、さらに大津城・坂本城・瀬田城と並ぶ
「琵琶湖の浮城」の一つであったこの名城も、
廃城令により取り壊され、現在では埋め立てられて陸続きとなった本丸が
公園として存在するのみ・・・


大津・膳所城7


公園内はこんな風に石垣風な演出なんかもあるけど、
建築物の遺構は一切ない。


大津・膳所城8


湖岸にはわずかに石垣が残るが、なんかその辺の写真が全然ないわ
暑くてフラフラしてたせいもあるけど、
まだこの頃は旅日記の公開は具体的に考えてなかったからね。

いずれ、まとまったら・・・と思ってはいたけど、
まだまだ先の予定だったので、写真を資料として撮ってない。
ひたすら、興味のおもむくまま、体力と気分で漫然と写真を撮っていた。

ので、特にこの時の旅では大事な写真がずっぽり抜けてたりして、
自分でも結構びっくり(笑)。
かと思うと、こんな写真なんかあるし。


大津・膳所城9

・・・これ、公園内にあったゴミ箱のデザインなの(笑)。
なんてオシャレなゴミ箱なんだ~!と思って、
のろのろと写真を撮った覚えがある。
でも疲れてるから写真曲がってるし


石垣が琵琶湖の波に洗われるさまは実に美しかったようだけど、
現実はそう甘くない。
年を経るごとに波による浸食で石垣の崩落が相次ぎ、
藩の財政を圧迫したなんて話もある。



さて、幕末の膳所は、徳川14代将軍・家茂の暗殺を図ったとして
藩士11名が処刑されるなど、急進派に傾いていた。

そういった内部事情から、膳所藩は他藩に先がけて版籍奉還を願い出て、
廃城の太政官布告が出された翌日には、早くも天守以下の建物の
解体・移築が行われたという。

ただ、廃藩を急いだのは、前述の相次ぐ石垣の補修で財政がパンク寸前だったから
なんて噂もあるみたいだけど、どうなんでしょう。



膳所城跡公園を出て、再び南下。
つぎは篠津(しのづ)神社(場所は こちら )。

 【大津中庄鎮座 篠津神社

  当社は古くは午頭天王と称し、膳所中庄の土産神です。創建は詳でないが康正2年の
  棟札が現存している処から見ても、室町時代には己に鎮座になっていた。
  大津圓満院門跡常尊法親王や、覚淳親王、有栖川宮家の御尊崇高く鳥居や額等種々
  寄進されている。

  膳所城主戸田、菅沼、石川諸氏並びに本多家の崇敬長く続き社領22石の外、
  社殿の修復も本多家で時々行われた。現在重要文化財に指定されている表門は
  膳所城北大手門で、旧藩主の信仰をしのぶよすがとなっている。

  明治4年篠津神社と改称、旧社格は県社であった。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

で、これがその移築門。


大津・篠津神社7(膳所城北大手門)


大津・篠津神社4(膳所城北大手門)

 【重要文化財 建造物 篠津神社表門 一棟

  この表門は、旧膳所城の北大手門として建てられたもので、明治3年(1870)の
  膳所城取り壊しの際に篠津神社に移され、翌々年に建てなおされたものです。

  門は高麗門形式で屋根は本瓦葺となっており、旧膳所城主本多氏の立葵紋が
  みられます。扉は内開きで、竪格子、腰部横板張りとなっており、脇門を付けて
  います。

  この高麗門という形式は、背面に特色があって、正面の主体部から両方に袖のように
  直角に屋根が出ているものをいい、この形式は城門にも多く用いられています。
  この門も桃山時代の城門の一つで、大正13年4月に国の指定文化財になりました。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

この門は、解体修理の際に、貞享4年(1687)に再建された北大手門だと
判明した経緯がある。


拝殿も立派。
現在の社殿は本多俊次の時代、万治4年(1661)の造営とのこと。

大津・篠津神社


・・・が、参拝しようとして賽銭箱の紋に目がいった。

大津・篠津神社2

アレ、織田木瓜・・・?
蔵にも、同じ木瓜紋があった。

大津・篠津神社3

木瓜紋は多いけど、五瓜って・・・
帰って調べたら、八坂神社なんかも五瓜だっていうし、
ここの神紋ってことなのかな。

ここには、こんな貼り紙があった。

篠津神社からのお願い

アハハハ・・・
笑っちゃいけないけど、維持管理も大変だよな~。

ここは住宅地の中にあるから、
子供達が遊びに来るんでしょうね。


※「大津編(5)」へと続きます。

にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012年06月08日 16時55分55秒
[城(近畿)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: