戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年06月09日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
さて・・・

時間的にもキビシイ。
ので、篠津神社の近くの中ノ庄駅から京阪電鉄に乗って
唐橋前駅まで。

もう今井兼平の墓は諦めた

私にはこれが京阪デビューとなる。

京阪でびゅ~

唐橋前駅から東に少し歩くと、「唐橋西詰」の交差点があり、


大津・唐橋西詰


大津・瀬田の唐橋

対岸の川岸には、こんな絵が・・・


大津・瀬田の唐橋から

ちょっと薄くて、わかりづらいかな?
大鎧に烏帽子をかぶった武者が、弓を持って川向こうを見てる。

ここは数々の戦いの舞台でもあるんだけど、
装束からいって木曽殿の寿永の乱あたりをモチーフにしたものかな。


最初にこの橋が架けられた年代は定かではないが、
かなり古い歴史を持つ。


瀬田川にかかる橋なので、古くは瀬田橋、勢多橋、瀬田の長橋といい、
今よりはもう少し下流にあったという。


昭和63年の発掘調査では、現在の唐橋より80mほど下流の川床から
7世紀後半のものとされる橋脚の遺構が見つかった。
その結果から、当時季節によって起こった大きな水位の変化にも


この時の発掘では土器や陶磁器など幅広い年代にわたる遺物も
発見されたが、その中には大量の古銭も含まれており、
橋を作る際の祭祀で用いられたものではないかと考えられているそうな。

さらに、その場所から東西に延びる古道があった可能性が指摘され、
その道は古代の官道である東山道かもしれないんだって。



で、唐橋を現在の位置に移したのが、信長様。
天正3年(1575)、諸国の道路修理を命じ関税を免除するかたわら、
瀬田城主・山岡景隆と木村次郎左ヱ右衛門を橋の構築の奉行に任命。

琵琶湖西岸の朽木などから木材を調達し、長さ180間(約350m)、
幅4間(約7m)の一本橋をわずか3ヶ月という突貫工事で
架け替えさせたといわれてる・・・

アハハ、せっかちな信長様らしいエピソードじゃ!
木村次郎左ヱ右衛門さんは、安土城の普請奉行も務めたお方じゃな。


信長様が変えたのは、橋の位置だけじゃない。
中洲の中ノ島を挟んで、大小2つの橋のスタイルにしたのもこの時。

秀吉が天下人となってからも橋の改修が行われた。
ただし、当時は木造の橋だったため、約20年ごとに架け替えられたという。
アハハ、式年遷宮だ。

現在は鉄筋コンクリート製だが、緩やかな反りだとか擬宝珠などに
往時の姿をとどめているという。

ここまでは、橋の歴史。
ここからは、人の歴史。



唐橋のかかる瀬田川は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。
東から来て京へ入るには、瀬田川を渡るか、
琵琶湖を渡るしかなかった。

「木之本~高島~坂本ってたどって、時計と反対回りに琵琶湖沿いに行けばいいじゃん」
なんてヘソ曲がりさんはいないと思うけど、そういった場所柄、

 唐橋を制するものは天下を制す

とまで言われるほどの、交通の要衝だった。

大事な場所は、時として当然争奪の的にもなり、
悲しい伝説も残す。


まずは4世紀、神話の時代。
応神天皇の異母兄・忍熊王(おしくまおう)による謀反が起こる。

「赤間ヶ関編(31)」 で神功皇后にちょっと出演頂きましたが、
三韓征伐から帰って筑紫で応神天皇を出産したばかりの皇后を、
皇位継承を巡って忍熊王たちが迎え討とうとした。

が、武内宿禰(たけうちのすくね)に逢坂で敗れる。
この時、王と宿禰がばったり逢ったことから「逢坂」の地名が生まれたとか、
冗談みたいな話も残ってるけど・・・

で、忍熊王は瀬田川に投身。
遺体は数日後に菟道(うじ)河から発見されたという。



今度は壬申の乱(672年)。
大津宮にいた大友皇子を、関ヶ原近くの不破関にいた大海人皇子が攻めた。

この時、大友皇子は瀬田橋の西に陣を置き、
橋の踏み板を外して、渡ろうとする敵があればその板を引いて
敵を瀬田川に落としたという。



その後は藤原仲麻呂の乱(764年)。
藤原仲麻呂(恵美押勝)VS.孝謙天皇・弓削道鏡のバトルでも、
唐橋が登場する。

仲麻呂が奈良街道から近江に入り、唐橋を渡って東国へ
落ち延びようとしたところ、先読みした吉備真備が橋を焼いてしまった。
予定が狂った仲麻呂は、その後もしばらく頑張るが、
結局近江高島で敗死する。



平安時代に入って落ち着いたかといえばその反対で、
相変わらずしょっちゅう戦火にかかっては、朝廷から毎年のように
修理業者が遣わされたそうな。

そしてその平安のラストは、木曽殿の寿永の乱(1183年)。

木曽殿と今井兼平の最期は 「大津編(3)」 に書きましたが、
この時は兼平が橋の西に陣取って、唐橋を破壊して
範頼・義経兄弟の進軍を阻んだ。

これにより、範頼は下流から渡ることを余議なくされる。



戦いの歴史はまだある。
今度は1221年、承久の乱。

後鳥羽上皇VS.鎌倉幕府のこの戦いでは、京方の山田重忠が
唐橋の橋板を外して、宇治と瀬田でラストバトルが繰り広げられた。



その次は、1336年、建武の戦い。
東から攻め寄せる足利尊氏に対し、名和長年ら3,000の兵が
瀬田川の西に陣取り、また橋板を外した。


・・・とまあ、戦国時代以前で主だったものだけでもこれだけある。

古代には今より下流にあったけど、
中世の頃には、今より少し上流にあったみたい。

その頃は藤ヅルで絡めていたので、「搦橋(からみばし)」とも、
あるいは柳のように流麗なフォルムから「青柳橋」とも
呼ばれていたそうな。


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最終更新日  2012年06月10日 10時47分06秒


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