戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月24日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
さて、明応9年3月5日の足利義尹への饗応は・・・

まず、太刀・馬・鎧・弓などの豪華グッズの献上から始まる。
ちょっと細かく覚えてないけど、確か食事の合間合間にも
豪華なお品の献上式が続いたんじゃなかったかな。

で、お食事。
前回書いた「式三献」からスタートして、全部で二五献。
途中に「供御(くご)」と「御台(おんだい)」という膳が付いて、
あ~んどスイーツ。

てな訳で、膳は全部で33。


ただし、いくつか重複してる品もあるし、
「御湯」(白湯)なんて料理か?みたいなものもあるんだけど、
そういったものを除いても100種類近くはある。


食材は、魚介系が圧倒的に多い。
肉がいくつかあって、野菜類はもっと少ない。

変わりダネとしては、イルカ・コウノトリ・エイ・鶴・雁なんて
食材もある。


この時代は、結構いろんなものを食べてるんだよね。
義興さんの子・義隆は、かわうそを食べたらしいし。

記録に残る中世一般の動物系食材では、兎・鹿・狸・むじな・かもしか・猪・熊などが
食べられていた。そのうち、最も多いのは狸で、売買もされてたみたい。

ちょっと意外~

おっと、話がそれちゃったな。

この時代、宴会で使われた「かわらけ」は使い捨てが基本で、
大内氏館やその周辺の遺跡から見つかったかわらけにこびりついた
食材の分析や、発掘された生ゴミを調査した結果では、


それも、頭から尾にかけての骨が見つかっていることから、
どうも尾頭付(おかしらつき)で出されていた様子。

足利義尹への饗応でもタイのお頭付の焼き物が一品あるし、
刺身ではタイ・ぶり・こち(ってなんだ?)・はまち、
あとイクラなんかもある。

 【椹野川(ふしのがわ)の河口から10km以上も内陸に位置する大内氏館一帯において、
  海産の魚介類が多く出土することを意外に思われるかもしれません。しかし、
  魚介類を刺身として食べていることからも、内陸部への輸送手段が整備されていた
  ことが窺えます。

  また、『四条流包丁書』などの料理秘伝書によると、当時、食材には格付けがあり、
  海のものが上、川のものが中、山のものが下とされていました。大内氏館で出土する
  食材の構成も、こうした格付けに沿ったものといえるかもしれません。】
  (「明応九年三月五日将軍御成献立」パンフレットより)


料理から見る歴史ってのも、こうしてみるとホント面白いよね~。

あ、余談になりますが、食材のランク付けで「海のものが上」とあって
基本ルールは確かにそうなんだけど、すべての魚の中で最高位とされたのは、
コイなんだって。
タイよりコイのが上。

これは、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたけど、
コイだけが登り切って竜になることができたという中国の故事にちなんで
コイが祝魚とされたんだと。

「登竜門」という言葉や、「こいのぼり」もこの故事から来ている。



御成ってのはその性格上、京で行われるものがほとんどだけど、
義興さん主催の明応9年の御成は山口で行われてるから、これも異色。
いや、ホントは山口でのは御成とは言わないものなんだけどさ・・・

そして、御成の献立の詳細が記録されているものの中では、
この明応9年のが最も豪華なんだと。

献立数だけで言っても、足利義稙が畠山邸に行った時が20献、
足利義輝が三好邸に行った時が17献、足利義昭が朝倉邸に行った時が同じく17献、
でやっぱり義興さんの25献が群を抜いている。

もらったパンフレット、「明応九年三月五日将軍御成献立」の
山口市教育委員様による解説のページでは、

 【五百十年前の戦国時代、
  中世最大級の宴会が山口で行われた!】


って書き出しになってるけど、まさに、まさにィィィ~ってカンジ。

もちろんこれは、貿易で得た巨大な財力を背景にしたもので
饗応にも相当の金をかけただろうけど、つぎ込んだだけの価値はあった。
さっすが義興さん

「流れ公方」なんて呼ばれて、(いちおう)室町幕府の最高権力者の位置から一転、
各地で亡命生活を送ってきた末に本州の西の果て、山口へと辿り着いた
足利義尹は、このもてなしにさぞ感激したことだろう。



さて、御饗応についてはこれ位にして、今回の企画展のメインである
大内塗について。

 【大内塗がいつ頃から作られていたかはわかりませんが、室町時代、山口での
  料金の基準などを決めている、大内氏の掟書(文明17年、1485年)の中に、
  刀の柄(つか;握るところ)、鞘(さや)を塗る代金の記録があります。

  そして朝鮮で李朝の続いた1393年から1863年までの間の出来事を記した
  「李朝実録」には、室町時代における大内氏との交易の様子が書かれており、
  大内氏が、漆製品を重要な輸出品の一つとしていたとあります。これらの資料により、
  少なくとも15世紀には山口において漆工芸が盛んに行われていたことがわかります。】
  (企画展資料『伝統工芸「大内漆」』より)


大内盛見が応永14年(1408)に一切経を求める際に
朝鮮に献上した品を 「大津編(17)」 に書いたけど、
このうち硯には、蒔絵の箱もセットで付いていたという。

それから、解説にある「大内氏の掟書」(大内壁書)については、

 【刀の柄・鞘の塗り物代が定められ、職人は受け取る代金に相応して
  厳重に努力するよう厳命される。】

と展示されてた年表に書いてある。
まあ、当然っちゃ当然のことだけど、厳重に努力って・・・
キビシイのお(笑)。



大内塗にも椀とか盆とか菓子鉢とか色々種類があるけど、一番有名なのは
やっぱり大内人形じゃないかな。
大内人形は、 「赤間ヶ関編(41)」 に写真を載せてます。
まあ、この写真のはボーリングの玉だけどね(笑)。

上記資料『伝統工芸「大内漆」』には、大内人形について
こんなメルヘンな話を載せている。

 【山口の地に居を構えた24代大内弘世は、都(京都)から多くの人を山口に招き、
  都と同じような街づくりを行い、やがて都から美しい花嫁を迎えました。しかし、
  花嫁は遠く華やかな都を恋しがり、毎日さびしがっておりました。

  心の優しい弘世は、かわいそうに思い、都からたくさんの人形職人を呼び寄せ、
  人形で屋敷じゅうを飾りました。花嫁はたいそう喜び、それからは幸せに
  暮らしました。

  街の人々はそんな弘世の家を「人形御殿」と呼ぶようになり、うわさは遠く
  都まで届きました。長い戦乱にあきあきしていた都の貴族、文化人、芸術家、
  僧侶たちが次々に山口に移り住み、華やかな大内文化が生まれることになり、
  山口は「西の京」と呼ばれるようになりました。】


う~ん、火のないところに煙は立たないっていうし、
なんにしても、ひろよんは嫁さんを大切にしたんだろうな

「赤間ヶ関編(41)」の写真の通り、大内人形は男女ペアの人形で、
ひろよんのエピソードもあってか、夫婦円満の守護神とされているそうな。


大内時代に造られたと推定されている大内塗で現在残っているのは、
毛利博物館所蔵のと個人蔵の2つのみ。

江戸時代にはかなりの数が作られたみたいだけど、一旦は衰退した。
それを復興させたのが、雪舟の雲谷庵を復元した郷土史家の近藤清石。
努力が実って、平成元年には国の伝統工芸品の指定を受けている。


企画展では漆塗りの製作工程を段階的に展示しながら
色々説明が書いてあった。

その中で面白いと思ったのが漆塗りに使う刷毛の解説で、

【毛は若い海女さんで一度もパーマをかけた事のない人の
  髪の毛が最高級品とされ、現在では非常に入手難と
  なっております】

だって。
そもそも海女さんて現在では少ないだろうし、
「若い」って期限付きだからね~。
そりゃ、入手も難しいかもね~

・・・いやいや、笑っちゃいかん。
伝統を守るってのは、大変なことなのだ。

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最終更新日  2013年03月17日 12時25分38秒
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