戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年07月28日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
毛利氏ゆかりの神社を出て、東へ。
次は神福寺(場所は こちら )。


山口・神福寺8



山口・神福寺2


山口・神福寺4


 【重要文化財 木像十一面観音立像

  この像は、寺伝によれば大内氏の祖である琳聖太子が百済国から来朝したときに
  請来されたものと伝えられている。中国唐代の作と考えられる。一木造り、素地で、

  泊瀬観音堂の本尊になっていたが、堂の荒廃にともなって神福寺に移され祀られて
  いる。

  秘仏のためふだんは公開されていない。蓮華座の上に立つ高さ49.5cmの小像で
  あるが、製作年代が古いことと作りがすぐれていることにより、指定されている。
  十一面観音の特徴は、頭上に十一面の化仏を載せていることで、祈念すれば現世利益
  十種と来世の果報四種の功徳があるといわれている。

  本像は化仏の多くが脱落しており、五面しか残っていない。また、両手の指先、鼻頭や
  口唇に破損している所があるのは惜しいことである。】
  (現地解説板より)


という文化財を所持しているお寺ですが、残念ながら見られなかった。  
山口県内では最も製作年代が古いとされているものだそうです。

確かにお顔が・・・鼻が、ない・・・


さて、私がここに来たのは、見られない仏像のためではありませぬ。

「山口編(12)」 と (13) で、足利義尹の御成に対して
大内義興さんが中世最大級のもてなしをしたことを書きましたが、


もとは神宮寺といい、仁壁・祇園・今八幡の三社別当職を務め、
大内氏の尊崇が篤いお寺だった。



足利義尹は、最初は義材(よしき)といった。
足利義政・日野富子夫妻の擁立により室町10代将軍に就任するが、
後に富子や細川政元と対立し、ついには畠山討伐で京を留守にしている間に
クーデター(明応の政変)を起こされて将軍の地位を追われる。

義尹は石庭で有名な京・龍安寺に幽閉されたが、
この時毒を盛られたなんて話もある。

その後、京を脱出した義尹は、越中からスタートして放浪生活を送るが、
明応9年(1500)大内氏を頼って山口へとやって来た。


上のリンク先の地図を見てもらえばわかるけど、
神福寺と大殿御殿(大内氏館)とはそんなに離れてない。

義尹の山口滞在中の詳しいことはわかってないけど、
御成のもてなしぶりを見れば、義興さんは義尹を大切に扱ったであろうと推測される。

何せ、重要なカードだからね。
ただの義侠心や親切心で義興さんはずっと保護してた訳じゃない。
実際、明応9年3月5日の御成の後には

 【将軍内書を中西国九州の諸族に賜ふ。義興これに添書して将軍家に忠勤のことを申達す】
  (『大内氏實録』より)

と早速アッピールを始めてるし。



義尹の御滞在地については、前出の『大内氏實録』では、

 【当時は今八幡宮鎮座の亀山の右側の地に在りて、其後面の地宮野下村の内にかけて
  字を御屋敷と云ふ。義尹卿の館址なりと云ひ伝ふ。
  按るに当時神光寺大地なりといへども、将軍の居館には猶狭小なりしかば、
  地つゞきに建築しそへし故にこの名あるらん。】

と伝えている。

Mapfan の地図で見ても、もう現在では「御屋敷」という地名は表記されてないけど、
リンク先の中心部が神福寺、その上の山を回り込んだ北の方が「宮野下」だから、
はっきりとした場所はわかってないものの、大体現在の神福寺から宮野下にかけての
どこかに「元」将軍がおわしたんでしょう。



そうしてこの地で待つこと7年。
永正4年(1507)にいわゆる「永正の錯乱」で
細川政元が暗殺されて混乱が続いたのを見て

「チャ~ンス」

とばかりに同年11月25日、義尹を連れて・・・いえ、奉じて上洛の途につく。
その後の話については、来月にゆかりの地へ行くので、その時に簡単に書くかも。
ちなみに、京を目指して山口を出立したその年に、大内義隆が生まれている。


ということで、ここ神福寺は大内氏歴代が長い年月をかけて育ててきた大輪の花が、
次代の義隆にかけてまさにこれから完全に開ききるような、
絶頂を迎える時期へと突入していく、そのひとつのエポックとなる場所でありました。

7年待った義尹の思い、義興さんの活躍、そして
その後に続く大内氏の滅亡・・・
そんな感慨に身を浸しながらも、時間は気になる(笑)。



神福寺の境内には、十一面観音以外は特に寺の縁起とかの解説板はなかった・・・たぶん。
なので、鐘楼に鐘が掛かってない理由もわからない。


山口・神福寺3


たぶんここも先の戦争での供出だと思うけどね・・・
こちらの蛙股はこんなの。


山口・神福寺5


中から見た境内はこんな。


山口・神福寺6



写真の右側にあるのは、ソテツ・・・?
ソテツといえば、やっぱり義興さんを思い出すよな


長享2年(1488)、義興さんは時の将軍・足利義尚より「義興」の二字を与えられた。
同年、相国寺塔頭・鹿苑院蔭涼軒主の亀泉集証(きせんしゅうしょう)が
山口へとやって来た時のこと。

大内さんちの庭にあるソテツをあまりに物珍しげに見ているので、

「高麗から取り寄せたソテツって言うんですよお~。
公方様のお庭に植えるんなら、よかったら差し上げますけどお~」


って言ってあげたところ、

「ソ、ソテツくらい知っておる!
あ、あまりに立派なので見ていただけじゃ!!」

と献上を断った。

が、蔭涼軒主の公用日記である「蔭涼軒日録」(後半の記述を亀泉集証が担当)には、
くだくだとソテツに書いているので、実は相当気になってたらしい。
もしかしたら、亀泉集証はソテツをこの時初めて見たのかも・・・

ソテツ自体は日本(九州南部以南)にも自生してるので、
舶来の植物という訳ではないのだけど、
文献に見られるソテツでは「蔭涼軒日録」が最も古い記録かもしれないってことなので、
この当時は都では知られていなかったのかもしれない。

だとしたら、義興さんが都にソテツを紹介したって事にもなるよな。


なんでか知らないけど、ソテツって戦国武将に愛されたらしく、
信長様も家康もソテツにまつわる妙なエピソードを持っている。
秀吉は、加藤清正が朝鮮から持ち帰って献上されたソテツを広沢寺(唐津市)に
手植えしたという。
これら三英傑にゆかりのあるソテツは、みんな国の天然記念物になってます。

なんで、ソテツなんだろうね?(笑)

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最終更新日  2012年07月28日 19時04分30秒
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