戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2012年08月01日
XML
カテゴリ: 城(中国)
式次第通りに終わった後、みんなで池泉庭園の方へ移動して式典の締めくくり。
境内を横切った時には一般の人が数人見てたけど、

「午後から開放しますので、一般の方はそれまでお待ちください」

って言われてた。
ホントは私も、先に見られる立場じゃないんだけどな~
ってちょっと申し訳ない気もしたけど、厳重に入場を
管理してるって訳でもなかったしな(←堂々としてれば、絶対部外者だとバレない)。

ま、これも縁ですし、引き続きありがたく参加させていただいて・・・


池泉庭園、開園~!2


ちゃんと司会者もいるし、規模は大きくないけど、



テープカットの後で、本格的な流水が始まる。
それが落ち着いたところで、教育委員会の担当者様による池泉庭園についての
解説が始まった。
ま、現地説明会みたいなカンジ。

ところが、説明が始まってすぐに大粒の雨が降り出して、
ものすごい大雨へと変わった。

傘をさして担当者様も頑張って説明したけど、この大雨はどうにもならず、
大きく割愛して簡潔に説明が続けられた。
あまりの雨にギャラリーもだいぶ減ったけど、せっかくだから私も頑張って
説明を聞いてたら、A様が後ろから声を掛けてきた。

なにかと思って振り返ったら、美人のお姉ちゃんとTVカメラがいた。

「せっかくだから、ちょっと取材を・・・」



「ええええ~!
い、いや勘弁してくださいよ~!!」


って抵抗してみたけど、無駄だった。


今まで出先でこんな風にTVのインタビューを受けたことが何回かあるんだけど、
こーゆー時って、

「取材?いいですよ」

ってOKしてからじゃなく、取材交渉する前からカメラを回してるから、
結局諦めて応じざるを得ないんだよね~。


何を答えたのか覚えてない。
だって、大内氏のことに浸ってる時だったし~・・・



カメラから解放された時には、もう池泉庭園についての説明は終わってた
しかしそこはさすがA様、仕事柄顔も広く、説明してたお兄さんに紹介してくれた。
そういえば、式典の始まる前にも、大内文化に詳しいB様というお兄さんを
紹介してくれたんだった。

雨はますます勢いを増し、A様と2人で本堂の方へ逃げ帰ってきたけど、
A様はまだ取材があるからとここで一旦別れることになった。
この時は鐘楼で雨宿りしながらちょっとだけ話したんだけど、
お互いの声もろくに聞きとれないくらい、雨足が強かった。

A様を見送ってから、私は雨宿りがてら、資料館へ。


資料館を紹介する前に、ちょっとここの史跡について書きましょうかな。


 【史跡(大内氏遺跡附凌雲寺跡) 大内館跡

  ここは、大内氏24代弘世が正平15年(1360)頃、それまでに館があった
  大内御堀から山口に移り、館を定めたところです。

  大内氏は弘世以後歴代がここで政務をとり、その領国は、中国・九州地方まで
  およんだため、山口は西日本の政治経済の中心地となりました。また、大内氏は
  海外との交易によって富の蓄積と異国文化の移入、京の戦乱を避けて
  公卿・僧侶などの文化人が、この館を訪れたことによって、当時の山口は
  京都をしのぐほどの富と文化を誇ったといわれています。

  天文20年(1551)大内氏31代義隆は重臣陶晴賢の叛乱により滅亡しました。
  その後、陶氏を滅ぼした毛利氏は、弘治3年(1557)大内義隆の菩提を弔うため、
  この館跡に龍福寺を建立しました。

  館は、百間四方の堀と土塁に囲まれた中に造られていたと言われています。
  現在はほとんどその面影を見ることは出来ませんが、山門の東側竹藪の中に
  土塁の一部を見ることができます。】
  (現地解説板より)


これは大内氏館跡・・・現在の龍福寺にある解説。
池泉庭園開園式でもらった資料には、大内氏館についてこう書いてある。

 【(前略)大内氏が大殿大路に館を構えた時期は、江戸時代に描かれたとされる
  『山口古図』によると延文5年(1360)とされていますが、同時代
  (室町時代)の記録には館の設置年代を示すものはありません。

  一方、館が廃絶した時期は、大内氏が滅亡する弘治3年(1557)と考えられます。
  同年、館の跡地には毛利隆元により龍福寺が建立され、その後は基本的な部分は
  龍福寺境内地として今日に至っています。(中略)

  山口市教育委員会では、昭和53年から館跡の発掘調査を実施しています。これまでの
  発掘調査で次のようなことがわかりました。

  (1)館の遺構はさかのぼっても1300年代末~1400年代初頭であること
  (2)館が置かれた約150年のうちに少なくとも5度の改修がなされ、
     館の屋敷地の広さも変化していること
  (3)館の機能している時期に、少なくとも3つの庭園がつくられたこと】
  (資料『史跡大内氏館跡池泉庭園』より)


う~ん、なるほど・・・
これが最新の調査結果ってことだな。
以前よりは館の建設推定時期がさかのぼったみたい。

同資料による大内氏館の範囲はこんな感じ。


大内氏館跡全景

時代によって敷地にも若干の相違があるけど、青系の四角の範囲が後期のもの。       
ちょっとずつ拡げていったみたい。

平成2年度の発掘調査では、館の規模が判明した。
それによると、東西160m、南北170m以上の大規模なもの。
当時の守護大名の館の平均的な規模は1町(109m)四方だったというから、
大内氏館は全国でも最大級の規模といわれる。

この館はその名の通り、当主の居館だったが、北面に通路を挟んで別邸を構えており、
2区画にまたがるのは室町将軍の花の御所(東西1町、南北2町)と同じ構成なんだと。
ここからも、大内氏の経済力と勢力の強さが窺えるというもの。


さて、上の写真で青丸で囲った部分が庭園跡。
今回復元された池泉庭園は、右下の2号庭園にあたる。

2号庭園の作庭は15世紀末から16世紀初頭。
16世紀中ごろまで使われたというから、大内氏館と同時期に使われなくなったって
感じかな。

作庭の時期は、足利義尹の山口滞在時期とこれまたクロスする。
ので、義尹のために造られたのかもしれない。

池はひょうたん形で、南北約40m、東西約20m。もはや

「ウチの庭に池造っちゃいました~」

って規模じゃないよな


にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012年08月01日 21時17分15秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: