戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年08月08日
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カテゴリ: 城(中国)
八坂神社の隣には、この碑がある。


山口・八坂神社14


碑の文字は、佐藤栄作さんによるものだそうな。
解説が長いので、一部省略のうえ(笑)。

 【(前略)天文年間(1522~54)のこと、山口の大内義隆卿は、
  京から迎えた北の方を慰めるために、しばしば都の公卿殿上人や楽人などを招いて
  詩歌管弦の遊びを催したが、ある時その席で七人の若い殿上人が一首ずつ歌を作り、
  つぎつぎに筝で弾き歌いすることが行われた。

  これが筝の組歌の起源であり、歌の組み合わせなので組歌と言う。これゆえ最初の

  以後の曲では六首になった。

  この話には疑点もあってすべてそのままには受け取れませんが、当時この地に花開いた
  大内文化を考えますと、むげに否定し去れない面もあり、興味深い所伝です。

  この「筝曲組歌発祥之地」の碑は、この所伝をよすがとして筝曲組歌の誕生期に
  思いを馳せ、あわせて往時の大内文化の繁栄を偲ばんとする各地各界の多数の人々の
  熱意と浄財によって、昭和40年11月、ここ大内氏ゆかりの地に建立された
  ものです。】
  (現地解説板より)


途中の「六首になった」ってところまでは、安永・天明の頃(1780年前後)の
筝曲組歌の譜本『筝曲大意抄』という中に伝えられている話だそうな。


義隆の正室は確かに京から公家の娘を迎えたけど、

結局2人の間に子はできないまま、京の実家へ戻っている。

なので、ひろよんが京から来た嫁さんのために大内人形を作ったという
ほのぼのしたエピソード( 「山口編(13)」 を見てね~)みたいのは、
ちょっと想像しにくいな・・・(笑)




「大内文化」という言葉。

「大内文化」ってつるんと言ってしまうと、感慨も何もないけど、
実はこれってすごい言葉だと思うのだ。

大内氏といえば、京都大好き、町造りも京を倣ったものといわれ、
京から公家やら僧やら文化人やらがやってきて京文化を持ち込み、
あくまで京の模倣だと言われたりもする。

けど実際は、化粧に例えるなら、大好きな京の文化をベースに、
交易によって流入してきた大陸文化で顔のパーツを造り上げ、
さらにイエズス会によるポイントメイクで美々しく仕上げるといったような、
実に国際色豊かなものだった。

「大内文化」という言葉には、「華やかな」とか「花開いた」って言葉が
実にぴったりくると思う。

そんな文化が、京から遠く離れた周防の地にあったんだからね~。
いや、離れていたからこそ、独自の文化をじっくりと
育てることが可能だったのかもしれないけど・・・



「大内文化」には、文芸面はもちろんのこと、出版事業なども含まれる。
一切経を輸入しては、あちこちに寄進したことは以前書いた通りだしね。

その他、貿易に力を注いでいた大内家らしく、
「1543ないか鉄砲戦」の種子島伝来よりも早い時期に、
明から火縄銃が伝来してたっていうんだからオドロキ

ただ、これは当時大内家の関心が貿易のための輸出品の増産に向いていたため、
まだこの段階では国内での量産につながらなかったという、
これまた大内氏らしいオチがついてくる(笑)。

あと、日本での最初のクリスマスは山口で祝われたっていうしね。
戦国のクリスマスといえば松永弾正の話が有名だけど、
それより14年も前にクリスマスパーティーが山口であったんだってさ~。
あ、いえ、当時はもちろん、本来の敬虔な集まりだったでしょうけど
なんたって、本場の宣教師が取り仕切るんだからね~。


そんな国際色豊かな大内文化だけど、
やっぱり京からのお客様の存在を抜きにしては語れない。

大内文化をリードした文化人たちには、実に著名な方が多い。
著名でない方々の他にも、いわゆる都落ちのような形で
山口へと移住してきた都人もいた。

有名・無名とりまぜて大内文化を形成したことは間違いないんだけど、
物事には何でも裏と表があって、都人の流入は文化面で盛り上がった反面、
古くからの大内家家臣との間に軋轢を生み、
後の大寧寺の変へとつながっていく・・・


大内氏滅亡の話はさておき、その大内文化のメインの舞台となったのが、築山館。



築山館を築いたといわれる教弘(1420-1465)は、大内家第28代当主。
異説はあるものの、盛見の子といわれる。
(系図は 「山口編(4)」 に載せてあります。)

この教弘の時代に、大内氏の対朝鮮貿易は全盛期を迎える。

対朝鮮貿易も明と同じく、通信符による勘合貿易であり、
対馬の宗氏を仲介として行われてきたのが、
享徳2年(1453)には朝鮮から通信符の印を贈られて、
めでたく朝鮮と直接貿易できる特権をゲットした。

朝鮮貿易だけじゃなく、大内氏が遣明船の派遣に初めて成功(1453年)したのも
教弘の時代の出来事。

対外貿易による経済的発展を背景にして、築山館は造られた。

ひろよんが周防守護からスタートして、様々なトラブルや抗争はあったものの、
総じて順調に勢力を拡大してきた大内氏にとって、
当初の館だけではもはや手狭になってきたという事情もあったのかもしれないという。

だって、「大内氏館」とはいっても、個人のおうちと違うんだからね。
何か国をも従える守護大名の居館であり、守護所だから。
ちなみに教弘の時点では、周防・長門・筑前・豊前・肥前の5ヵ国の守護だった。


じゃ~、教弘はどんな別邸を造ったのか?

敷地面積は方八十間。
え~と、坪数にして約6,398坪、
東京ドームの半分よりちょっと小さい位の面積、って計算で合ってるかな
周囲には幅三間(5mちょい)の堀を石垣で巡らせていたと。

この石垣は、毛利敬親が山口に移ってきた時に
藩庁に転用したという。
また、
 【西側の竪小路に面した部分には高い石垣があったのを、
  香山通育児園の石垣に転用し】
たと『防長古城趾の研究』(御薗生翁甫著)は伝える。


館の周囲には築地がめぐらされ、昭和60年に一部が調査された際に
築地の規模が判明した。
それによると、底辺24m、上辺7m、高さ約6mの不等脚台形だという・・・
これ、全国でも最大級の規模の土塁だっていうんだから、
大内氏は何でもスケールがデカい。

デカい築地の中はといいますと、広い敷地に広大な池を掘って、
池を掘った土で築山を築いたので築山館といわれたらしい。
んで、施工主兼オーナーの教弘は「築山殿」と呼ばれた。
あるいは、教弘が築山殿と呼ばれていたことから、
教弘の時代に建てられたと考えられてるともいう。


前回の記事の解説に、宗祇の句「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」が
書いてあったけど、この句は

 【西国にくたりしとき 大内京兆つき山にて一座興行の時
  此処のさまをつかうまつるべきよし所望侍しに】(老葉集)

の後に続くので、




とか思っちゃうんだけど(笑)、別の連歌会では

   若竹のをひのぼる末や千世の秋(宗祇)
   秋にもこゆるなつ草の露(政弘)
   夕風のすゞしき庭に月晴れて(宗祇の弟子・宗作)

なんて歌も詠まれているので、お世辞だけじゃなく
西国の大都市のど真ん中に雄大な自然をたたえた豪華な庭園があったであろう
ありし日の様子が窺える。

だって、この庭には「瀑泉」もあったっていうんだから
その瀑泉の右にあった亭には、かつて盛見が京の屋敷内の「飛泉亭」に掲げていた
足利4代将軍・義持自筆の扁額「飛泉」が飾られていたという。

庭には石畳が敷かれ、広い池と深山を思わせるような築山と花園。
築山館を訪れた歌人たちは、その豪華な館を讃えつつ、
あわせて大内氏の栄華を寿がずにはいられなかったのだろう・・・

ロマンだなあ


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最終更新日  2012年08月08日 21時08分22秒


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