戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年08月14日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
4日目<2011/8/23(火)雨ときどきくもり>


4日目の朝



あああ~、山口はああ~、
今日もお、あ~め~だあったああ~

ふう、連日の雨・雨・雨・・・
5日もいれば、そりゃ雨の日も何日かはあるでしょうけどさ、
こう毎日だとね・・・

しかも、昨日の今日でまた雨に濡れたくないし、
朝から雨ってだけで気が萎える

ホントだったら、今頃義隆の墓めがけてバスに揺られてたハズなんだけどな~。
あ~あ、私、大内の殿様方に嫌われてんのかな~。



回ろうと予定を組み直してた。
でも、それもダメだ・・・

とりあえずは、外せないあのスポットへ行こう。
後は、天候と体力と気分で考えよう・・・

て事で、バスを確認しに駅まで出てみたものの、
ちょうどいいのがなかったので、タクシーに乗りこんだ。

確か「興隆寺まで」って言ったと思うんだけど、
おじちゃんは最初わからないみたいだった。
地図を見せたら、「あ~、妙見さんね~」って言われたんだっけか・・・
ううっ、かつてはすごいお寺だったのに・・・


タクシーの車内では、震災の話題になった。

山口は地震がほとんどないんだそうな。

そういえば、以前富山から転勤してきた人なんかも、
微震があるたびにすごく恐がってたなあ。
地震に免疫がないと、ちょっとの揺れでも恐いみたいだね。
関東は地震が多いから、羨ましいのう・・・


「千葉じゃあ、相当揺れたでしょ~!
恐かったでしょ~!」


「そりゃもう、恐かったですう~!!
死ぬかと思いましたもん、マジで!」


「私なんか、慣れてないから恐くってダメだね~!」

「いや、あんなもの、もう2度と経験したくないですよ・・・!!」



うん、おじちゃんもいい人だった。
山口の人はホントに親切だ


そして着いたのが、氷上山興隆寺(場所は こちら )。

まずは解説板の説明から。
かなり長いですが、ここは大内氏にとって重要な場所なので、
全文掲載しますね。


 【氷上山興隆寺と北辰妙見社

  興隆寺は、推古天皇21年(613)、大内氏祖琳聖太子の建立と伝える名刹で
  大内氏の氏寺である。本尊は釈迦如来、脇士は普賢・文殊菩薩と四天王である。のちに
  比叡山延暦寺の直轄となり天台宗顕密兼学の道場として栄えた。

  天長4年(827)、11代大内茂村は 隆松妙見社を勧請して 、上・下宮を建立して
  大内氏の氏神として篤く崇敬した。妙見とは北辰、すなわち北極星を神とした
  中国の天帝思想に由来する外来神であって、密教と習合して天台宗では北辰妙見尊星王、
  真言宗では北辰妙見大菩薩と称する。 大内政弘は氷上の北辰妙見の使者
  「鼈亀(べっき)と蛇」を北辰玄武の象徴として、その殺生を禁じた。

  境内には、北の山腹に北辰妙見社上宮、その麓に下宮をはじめ、本堂、東西二塔、
  鐘楼、輪蔵、経庫、長日護摩堂、不断如法堂、八幡社、三十番神、山王七社、牛王所、
  仁王堂や法界門などがあって、 十町の参道両側には多数の僧坊が建っていた。

妙見の大祭である二月会は東大寺の修二会を擬した盛大なもので、童舞(わらわまい)や
  歩射(ぶしゃ)が行われた。この費用を支弁するために大頭役が定められ、更に脇頭、
  三役の両郡をあてた
が、大嘗会の悠紀・主紀(ゆき・すき)の国に擬したのであった。

  文中2年(1373) 明使趙秩(ちょうちつ)が24代大内弘世の招きで滞山して、
  山口十境の詩のうち「氷上滌暑(ひかみにしょをさく)」を当地で詠んでいる。
  26代盛見は応永16年(1409)朝鮮から唐本「一切経」を求め輪蔵に納め、
  28代教弘は宝徳元年(1449)「大蔵経」を寄進した。

  文明18年(1486)29代政弘の時、興隆寺は後土御門天皇の勅願寺となり
  「氷上山」の勅願と宣旨を賜った。また政弘は延徳2年(1490)、法華経28巻の
  版木を完成させるなどの文化事業が盛んに行われた。 天文元年(1532)31代義隆は
  梵鐘を鋳造し施入した。この間、火災や転載で失われた塔頭(たっちゅう)は、
  歴代当主によりその都度、再建修復された。

  大内氏滅亡後も毛利氏も又、興隆寺、北辰妙見社を厚く尊崇して、大内氏同様、伽藍の  
  再建修復を行った。二月会には能を奉納するなど聖域の維持に努めた。
  中興上人といわれる行海和尚は江戸期に衰微した、寺運を復興して再び興隆をもたらした。

  しかし、明治2年の神仏分離令、廃仏毀釈運動によって漸次衰微して、
本堂は大殿龍福寺へ、東照宮は八坂神社境内の築山神社として、また、護摩堂は、
  神福寺十一面観音堂へと移築
されて昔日の面影はなくなった。

  現在は大内義隆寄進の梵鐘と毛利氏再建の北辰妙見社、中興堂に安置されている
  釈迦三尊像に往時の繁栄を偲ぶのみであるが、北辰北斗は宙天に変わりなく輝き
  静かに歴史の変遷を見つめている。】


いや~最後なんか、美文だねえ~。
興隆寺と大内氏の歴史を思うと、しみじみしちゃうよ、ホント・・・

しかし浸ってると記事が進まない(笑)。
上の解説には、興隆寺のエッセンスが凝縮されてるので、
多少順序は逆転するかもしれないけど、大体青字の部分に沿って
書いていこうかと思います。



タクシーを見送った後で周りを見渡してみると、道路をはさんで2つ建物がある。
地図を見ると、進行方向に向かって左側が興隆寺、右が妙見社とある。
興隆寺の方は田んぼの向こうにあってちょっと歩きそうなので、
先に妙見社に行ってみた。



山口・興隆寺


今は興隆寺と妙見社で分かれてるけど、もとはひとつの寺院だったので、
歴史の話をする時は両方を含めて「興隆寺」と表現しますので、ご了承ください。



「氷上山由来書」によると、山号の「氷上山」は、
山中に湧く霊水に北辰後輪の瑞光が映えて氷のように見えるところに由来し、
寺号の「興隆寺」は、仏教興隆の義にちなむとされている。

興隆寺の創建は、解説には百済の皇子・琳聖(りんしょう)太子の建立とされてるけど、
「山口編(7)」 で書いたように、大内氏が琳聖太子の後裔を称するのは
義弘の時代から。

ただし、文献などで琳聖太子の実在を確認することはできないし、
現在では大内氏の出自は在庁官人から発展したもの( 「山口編(6)」 を参照)と
されているので、興隆寺のはっきりした創建はわからないのかもしれない。

ただ、ここの地名は「大内御堀(おおうちみほり)」といって、
ひろよんが華麗なる転身を果たして現在の山口市中心部に引っ越すまでの
代々大内氏の居住地だったといわれている場所。

解説にも【天長4年(827)、11代大内茂村は隆松妙見社を勧請して、
上・下宮を建立して大内氏の氏神として篤く崇敬した】とあることから、
少なくとも9世紀初めには大内氏はこの辺り一帯に勢力を張っていたものと思われる。


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最終更新日  2012年08月14日 20時59分59秒
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