戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年09月14日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
前回は写真満載で境内の様子をご紹介しましたが、
今回は法常寺の歴史について。

 【法常寺

  本尊 華厳釈迦如来(坐像)
  曹洞宗 永平寺派

  法常寺は、もと天台宗で東日山法輪常転禅寺といい、竹原市新庄木村城北にあった
  竹原小早川家の菩提寺で、天文8年(1539)小早川興景公が大休登懌和尚を請じて
  曹洞宗に改宗した。

  毛利元就公の三男で、初め竹原小早川家の養子となり、続いて沼田小早川家を継いだ

  新高山城に城を移し、その祈願所として本郷の船木に法常寺を移したと伝えられている。

  その後 三原城築城(1567)に伴って、西の出城を兼ねて現在地に移って来た ことが、
  「天正20年(1592)隆景公により再興さる」旨の棟板により窺うことができる。

  隆景公が慶長2年(1597)6月12日三原城で逝去の際には、 この寺で荼毘に付し
  盛大な葬儀が営まれ(戒名・・黄梅院殿三品泰雲紹閑大居士)、
遺骸は沼田小早川家の
  菩提所の米山寺に葬られた。

当寺では、隆景公とその養父にあたる興景公(戒名・・法常寺殿体岩全公大居士)の
  両人を開基として毎年7月お祭りを続けている。
  開山堂には、竹原小早川家の位牌の全部が祀ってある。


  ≪寺宝等≫

  華厳釈迦如来像  木造 定朝柞
鳳凰の彫物   (本堂 長押上)
  小早川隆景公坐像 木造(中納言正装 大小二体)
  大香箱(香合)  推黒鳳凰図(隆景公寄進)
  聖観音紫檀仏   唐物(隆景公寄進)

  ◎詳しくは庫裏でお尋ね下さい。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

ここにはいくつかポイントがあるので、
これから書くであろう話題については、青字にしてあります。



まず、御本尊の定朝(じょうちょう)って、どっかで聞いたことあるなあ・・・


過去の平等院の記事では、この定朝さんのことも書こうと思ってたけど、
長くなりそうで結局やめたんだ(笑)。

平安時代後期の仏師・定朝さんは、大規模な工房を主宰し、
かなり人気も高かった人らしい。

定朝さんの作は沢山あると伝えられているらしいが、
現在のところ、彼の真作とされているのは平等院の大仏様のみ。


だけど、法常寺の創建は正嘉2年(1258)と伝えられており、
かなり古いお寺だから、あながちない話ともいえないかもな・・・

あるいは、彼の流れを汲む仏師の作とか。


隆景ちゃんの木像があるのは知ってた。
これは竹原家の位牌とともに開山堂にあるって事だったから、
たぶん見られないだろうな・・・

まあ、外からその建物を見るだけでもいいや・・・


しかし、他にも隆景の寄進のモノがあるなんて知らなかったぞ。
親切にも、「詳しくは庫裏でお尋ね下さい」って書いてくれてるし、
お寺の縁起とかの資料があれば分けて欲しいから、
ちょっと聞いてみようかな~。


っと、その前に本堂にお参りとお賽銭・・・う、賽銭箱がない。

神社なら大抵、オープンなとこに賽銭箱があるけど、お寺さんはねえ・・・
外に出てるとこってあんまりないから、
私みたいに拝観料代わりのなにがしかを納めたい人間にとっては、
困るんだよねえ・・・

本堂は閉まってたけど、ちょっと開けて覗いてみたら
すぐ先に箱があったので、一歩だけ失礼してちゃりん

お金を入れた時に中の様子も覗いてみたけど、
ちょっと変わった雰囲気ですごい立派。
で、顔を上げると長押(なげし)の上に・・・


三原・法常寺17


おおっ、これかあ~、鳳凰の彫物!!
解説にも寺宝として書いてあるけど、これは法常寺創建以来といわれている
欄間だそうな。

う~ん、立派・・・

本堂の内部は遠慮して撮らなかったけど、
これは撮らずにいられなかった。
いや、見事・・・

解説の始まりは、天文8年に小早川興景公が~、となってるけど、
それは曹洞宗に改宗した時の話で、寺の創建はもう少し古い時代と伝えられる。

「三原編(2)」 で竹原家の創設期のことをちょろっと書いたけど、
小早川宗家の茂平が新たに獲得した都宇・竹原両庄に封じたのは、四男・政景。

都宇竹原の地頭となった政景は、木村城を居城とし、
あわせて菩提所を法常寺の前身・法輪常転禅寺(天台宗)に定め、
竹原家歴代の墓を安置したとされる。

法常寺の歴代住職記によると、これが正嘉2年(1258)の事だから、
寺伝の通りであれば、相当古いよな。

保存状態が良かったのか、この欄間は綺麗だけどね。

きっと、隆景ちゃんもこれを目にしたのであろう・・・


本堂を出てすぐのところからは、こんな眺め。


三原・法常寺18



沼田川を挟んだ向こう側の山並みが見える。
誰も来ないし、静かな境内。

ここで、隆景の葬儀と火葬があったのかあ・・・


本堂の前にも、小早川紋。


三原・法常寺27


好きなデザインじゃなかったハズなのに、
歴史の重みと相まって、だんだんカッコよく見えてくるから不思議。
すでに洗脳されかかっとる・・・(笑)。

やっぱ米山寺も、小早川紋で統一してくれた方がよかったな~。



ところで、小早川紋は一般的に「左三つ巴」といわれる。
・・・が、家紋の本とかを見ると、時計回り(右回り)が右巴となっていて、
これに従うと小早川紋も「右三つ巴」となる。

けど、巴紋を使用している数多くの武家などでは必ずしも
回転方向と左右の名称が一致してなくて、ややこしい。

世間に巴紋が氾濫してる割には、巴の由来は確定しておらず、
雷(いなずま)説、雲説、流水説、蕨手説、陰陽説、勾玉説など沢山あるらしい。

神社でも巴を神紋としているところは多く、それらは勾玉からきており、
子孫繁栄を意味する胎児の姿をあらわしているという。

上記の説のうち、流水説は、渦巻きから流水へと変化したものであり、
水を表すところから防火のまじないとして用いられるようになったそうな。

現在、神社やお寺などでのスタンダードと言えるくらいに多く使われてる
巴の軒丸瓦は、ここから来ている。



もともとは懸魚(けぎょ)も防火のおまじないからスタートしてるけどね
(懸魚については、 「大津編(22)」 もあわせてご覧ください)、
やっぱ木造建築なら何より火事が恐いから、色々工夫をこらしてたんだね。

おまじないに工夫も何も・・・とか思うかもしれないけど、
それは現代の感覚であって、昔は呪術=科学だった。
それも、戦国時代頃まで。

「軍師」といえば、戦略を練ったり謀略を巡らすなどの参謀的なイメージがわくけど、
戦国時代中頃までは、軍師の主なおつとめは、加持・祈祷・占卜(せんぼく)など。
戦場では、天気予報士もしたし、出陣や首実検などの儀式の管理をするのが仕事だった。

験(げん)をかつぐのって、兵の士気にも関わるし、大事な事だったんだよ~。


ちなみに、高名な軍師を数多く輩出したことで知られるのが、
有名な足利学校ね。

基本的には禅僧のための学校だったけど、軍師の大役を果たすには、
幅広い知識が必要とされたみたいだからね。

まあ、戦国も後半になってくると、来たるべき天下統一へ向けて、
よりシビアでハードな時代へと入っていくから、そのあたりで
古い意味での「軍師」は姿を消していったらしいけど。


おっと、話がそれちゃったな。
それでは、庫裏へと向かいましょう。

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最終更新日  2012年09月14日 21時24分24秒
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