戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年09月16日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
さて、仏教のお寺では一般的に初代住職のことを「開山」というが、
在家のビッグなスポンサーのことは「開基」という。

小早川興景が曹洞宗に改めた理由はわからないけど、
宗派と寺名を変えて新しいスタートを切ったことから、
法常寺では興景を開基としている。

現在の法常寺は引き続き曹洞宗だから、
曹洞宗時代の、って意味なんでしょうね。


 【天文20年(1551)隆景公高山城入城、翌21年(1552)城を
  新高山城に移す。新高山城の祈願所として、法常寺を新庄より城の北側麓

  (現在、船木に残る法常寺跡の伝承は2ヶ所あり。また、新庄より三原に直接
  移転したという説もあり。)】
  (「東日山 法常寺誌」より)


隆景相続の経緯だとかその時期の諸々のことについては、
ゆかりの地へ行った時にあらためて書こうと思ってるので、
ここでは関連する事だけにとどめておこうと思います。

で、まず私が疑問に思うのは、新高山城は法常寺が元あった場所から
そんなに離れてるって訳でもないんだから、
わざわざ移転させることもなかったんじゃない?ってこと。



そもそも新高山城を築いた理由ってのがどうも私にはわからないんだけど、
それは後に回すとして、まあ私の頭で考えられるのは


数多くある小早川一族の中でも竹原家は本家に対する独立心が高く、
隆景の本家相続によって両家が再び一つになるまでの長い間には、
様々な確執もあった。

地理的な関係などで、強力な支配者を持たなかった安芸では、
個々の国人が時勢に応じて様々な強者と結んだ歴史があるけど、


皇位継承問題や寺社・武家への介入を積極的に行ったことで有名な
「くじ引き将軍」足利義教は、小早川家の相続についても口をはさみ、
沼田家と竹原家の内紛を助長している。

また、応仁の乱では沼田家は東軍に、竹原家は西軍につき、
竹原家の兵が3年にわたり沼田家の高山城を包囲したりもしている。

かと思うと、大内義興さんが「流れ公方」足利義尹を奉じて上洛した際には、
沼田家はリベンジ軍に参加せず、後に政治的に孤立。
論功行賞で沼田家の家督と所領が竹原家の弘平に与えられたのにも関わらず、
弘平は窮地に陥った沼田本家を助け、本家の存続を図る。

ちなみに、 「三原編(2)」 で
『沼田本家の通し字は「平」、竹原家は「景」です。
一部例外もあるけど、大概の人はこれで見分けがつきます。』
と書いたけど、「一部例外」はこの竹原家の弘平さんのことです。


そんな感じで300年過ごしてきた両家を統合した隆景には、
当然強力なリーダーシップが求められたし、
両家のバランスを取りながら統括していくことも重要課題だったのかな~
・・・みたいな。


まあ、隆景が高山城~新高山城~三原城へと移っていく過程においては、
だんだんと毛利家家臣が小早川家に入り込んで、
毛利家を支える強力なガーディアンへと大きく変貌を遂げていく訳だけど、
隆景の死後も葬儀と埋葬を法常寺と米山寺で分担してるあたり、
沼田衆と竹原衆の融和策は隆景の本家相続から死ぬまでず~っと
続けられていたのかな~・・・とも思った。

そして三原に法常寺が再び引っ越したことにより、
法常寺では隆景を再開基とし、開基の興景とあわせて現在も祀られている。



さて三原への移転ですが、これはもちろん三原城の城下整備に関連するもので、
まだ三原城の記事を書いてない都合上リンクを張る訳にもいかず、
ゆえに三原城の記事との重複もあるかと思いますが、
そこはご容赦くだされ。

初期の三原城の歴史を大ざっぱに書くと、こんな感じ。


 天文22年  八幡六郎右衛門が三原要害の在番を申しつけられる。
 永禄10年  三原城の整備が進められ、本丸・二の丸・三の丸・舟入りができる。
 天正3年   三原城の存在が文献で確認できる。
 天正11年  重臣3名に城下の整備状況を監督させるため、5日に1度の見回りを
          命じる。
 慶長元年   隆景の隠居に伴い、小早川氏による最後の構築が進められる。


一般的には、三原城の築城は永禄10年(1567)、
町の建設を含めた本格的な整備は、備中高松城の戦いから帰った後の天正10年(1582)
~天正11年(1583)と言われる。

これから巡る沢山の寺も、ほとんどが三原城築城に伴い移転してきたもので、
移転の時期がはっきりわからない寺もあるものの、わかっている所では
みんな天正年間(1573~1593)に三原へ移転をしている。

して、法常寺の移転については「東日山 法常寺誌」は次のように語る。


 【(前略)三原築城は、永禄10年(1567)より天正10年(1582)の
  間のようであるが、整備は隆景公の没年まで続いていた。<法常寺の>現在地は、
  三原城の西の乾の方角(西の要の位置)にあり、山門を入ってすぐに参道が
  曲げられている(搦め手)など、三原城の西の出城として建てられたようである。

  本郷村庄屋土生家(現在絶家)文書によれば、引っ越しは天正20年(1592)と
  記載されており、また、現在本堂入口上の壁に打付けられている文化4年(1807)の
  棟板に「天正二十年隆景公により再興さる」(大工棟梁、長澤、品川両氏の署名あり)
  とあるので天正20年に現在地に移転したものと思われる。

  法常寺の移転は、一部に元亀2年(1571)と言う説があるが、これは、三原志稿
  (文政2年、1819)に書かれている元亀2年7月3日の小早川氏の奉行、代官連書の
  本寺龍文寺宛の寺領報告で、三原へ引っ越しすればこれだけ支給するとの
  公の支給指示予定書のものと思われる。】
  (<>内は戦国ジジイが追加)


隆景が新高山城から三原城へ本拠を移した時期については、
わかっていない。

三原要害ができてからは、三原から作戦の指揮を取ることが
多くなったようだけど、永禄4年(1561)に毛利元就が
長男・隆元と毛利家譜代の重臣たちを引き連れて
隆景のところへ遠足に来た際には、新高山城で大事な御一行様を迎えているので、
この時には本城は新高山城だったことがわかる。

天正元年(1573)あたりになると、隆景は三原城に常駐して
次第に本城としての機能を持つようになり、天正10年(1582)~
天正11年(1583)の本格的な整備の際には、
新高山城から石垣やら建物やら色んなものを移してきたという。


けど「法常寺誌」の解説を見ると、元亀2年(1571)の段階で
すでに各地の寺を移転させるプランは出来上がってたみたいだね。

移転した年がわかっている寺社の中でも、早いものは天正3年(1575)
てのがあるし。

そうなると、思っていたよりも早い時期に
三原城を本城とする構想が隆景ちゃんの中にあったのかあ~
と大変興味深く「法常寺誌」を読ませていただきました。

ちなみに、元亀2年7月3日付の寺領報告には、
「三原の内法常寺分十三町半」と記載があるそうな。

一方的に


オラオラ~!!」

ってんじゃなくて、きちんとした都市計画に基づいて、
受け入れる側の体制も整ってたってことだよね。


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最終更新日  2015年04月10日 23時23分26秒
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