戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年10月15日
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カテゴリ: 旅日記(中国)
参道を通って、奥へ。


三原・善教寺4


本瓦葺の四脚門。
中から見るとこんな。


三原・善教寺16



門をくぐると、すぐ本堂。
こちらは江戸時代の再建とのこと。


三原・善教寺5



ちゃんとソテツもある。



三原・善教寺6


 【「備後古城記」(内海本)に天文23年(1554年)に沼田川河口の
  小島城で戦いがあって、城主摂津守祐直が小早川隆景のために落城したことが
  しるされている。

  この時、陶晴賢の方についていた祐直はついに戦死し、祐直の子息、若狭守は
  郎従に守られて小島城を逃れ、妻の縁者を頼って但馬国の大田垣家の元に
  むかいました。

  小島若狭守の三男行栄は、幼名を松千代といいました。父若狭守が大和国に
  在住のころ誕生し、父と共に柴田勝家にしたがって、兵馬倥惣のあいだを馳駈し、
  多くの武功をあげていましたが、有為転変の激しさに合い、人生のはかなさを
  見るにつけ、自ずから深く悟ることがあり、永禄の末に播州亀山におもむき


  行圓は衆生にまぎれて懐かしい三原に帰り、山中川畔の先祖の故地に草庵を
  営みました。

  そして築城のとき、埋め立てしたばかりのこの地へ移りました。
  当時、この浜之町では、善教寺が最初に建てられたといわれます。
  この寺には 親鸞上人御筆の経文や蓮如上人自画、准如上人の手紙など

  (三原観光協会「海・山・空 夢ひらくまち」より。誤字などは一部修正) 


柴田勝家の家臣に「小島若狭守」って名前は出てくるんだけどね。
家老だったとか、北庄城留守居役とか。
けど、行圓は永禄の末に出家か・・・

普通に調べて出てくる「小島若狭守」と行圓が親子なのかは
ちょっとわからないなあ・・・

が、生口島にある万徳寺の縁起では、

 【甲斐守行栄は播州亀山の本徳寺で得度し、行円と名乗り故郷でひそかに
  小島家の再興を計っておりました。
  時の本願寺・教如上人は、その志をのべる行栄の子らを時勢にあらぬ願望とさとされ、
  僧籍に入ることを許されました。】

と伝えられる。


浄楽寺 を開いた石川彦左衛門さんのように、
世の無常をはかなんで出家してしまう人あり、
あるいは行圓のように再興の夢破れる人あり・・・
人生いろいろだなあ。




本堂の向拝には、なかなか躍動感のある彫物が。
波、かな?


三原・善教寺8


手挟(たばさみ)も波っぽい。


三原・善教寺10-2



三原八幡宮 のところで、組物について簡単に説明しましたが、
手挟は斗栱(↓薄いグリーンの部分)と上の垂木の隙間を埋める
部材です。


三原・善教寺10-3

屋根が平ぺったければ、肘木などのちょっとした部材を乗せて
垂木と組み合わせればいいんでしょうけど、
この写真のように垂木が反ってると、ぽっかり空いちゃってヘンでしょ。

ということで、手挟は鎌倉以降、垂木の勾配の出現に伴って
現れたものであるらしい。

これも屋根を支える部材に見えなくもないけど、荷重を受けるというよりは、



的な要素が強いみたい。

彫刻を伴う他の部材と同様、ここも時代が下るにつれ、
より装飾性の強い、派手こいものになっていきます。



↓本堂に続く玄関と庫裏。


三原・善教寺13


三原・善教寺12


寺院建築なら、概要はあらかた解るようになってきたけど、
それがそのまま住宅建築にまで適用できるかというと、
これが案外難しい(笑)。

寺院建築ほどルールもきつくないし、
かなり自由奔放な造りなんだもん

ここの庫裏もなんか複雑だし、「なんでここはこうなってるんだ?」って
考えながら見ると、私程度の知識だと、まだまだ解析に時間がかかる。
まあこれは庫裏だから、一般の住宅建築とはまたちょっと違うけどね。

ただ、ぱっと見普通の地味な民家でも、案外伝統にのっとってる家って多いから、
例えば通勤とかの道でも普通の街中の家々を見ながら歩くのが楽しくなった。

ちょっと知ってるだけで色んな事が楽しめるようになるんだから、
勉強って大事・・・ 



して、境内にはこの方がおわす。


三原・善教寺14


また親鸞様です。
笠で顔が陰になっちゃってて、残念・・・


そうそう、お寺の解説に戻ると、こちらでは蓮如とか准如ゆかりの品が
あるんだってね。
ね、また准如が出てきたでしょお~。

そして、『築城のとき、埋め立てしたばかりのこの地へ移りました』とあるから、
やっぱりこの辺りも山際まで海がちゃぷちゃぷ迫ってたんだ(地図は こちら )。

極楽寺とか観音寺のあるのが、米田山。
その西に「桜山町」って書いてある山があって、これが桜山。

三原城の築城については、 法常寺 のところで簡単に書いたけど、
何しろ全容がほぼ整うまでのタームがえらい長いので、
どの段階で埋め立てたのかはちょっとわからない。

まあ、遅くとも天正10年~11年頃には東町の埋め立ては終わってたと思うけど。
そして桜山の南麓にあった道場を、ピカピカの埋め立て地へ移したのが
現在の善教寺という。


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最終更新日  2012年10月15日 21時26分06秒
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