戦国ジジイ・りりのブログ

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2012年10月29日
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カテゴリ: 城(中国)
三原城 広島県三原市館町1
(住所をクリックするとMapfanにリンクします)


私のブログでは、記事としては1つの旅の中でも便宜上、
旅日記と城の記事のカテゴリーを分けていますが、
通常は旅日記と時系列順に城の記事を交えてます。

が、今回は4日にわたってちょいちょいと城関連の場所を
訪れてますので、いつも通りの記述にするとどうにもまとまりがつかないため、
三原城については時間の流れを無視して書きますのでご了承ください。



旅日記を辛抱強く読んで下さっている方にはおわかりでしょうが、
旅日記の方でも結局は城下町を歩いてますので、ホントは両方読んでほしい。

現在残る城の遺構だけが「三原城」ではないということが、
わかって頂けるのではないかと思います。

まあ、ひとまずここでは城の遺構やそれに準ずるものを
旅日記の方から抜き出して書いてます。
それではまず、やっぱり天守台から始めましょうか。



三原城天守台は、日本で一番駅に近い。
だって、天守台の南側が三原駅と合体してるから。
なので、天守台に上がるには、三原駅の構内にあるこの扉を通ります。


三原・駅北口・天守台へのドア




天守台の光景が広がるんだけど、まずは右手に天守台より一段下がった
ところがあったので、そこへ寄ってみた。


三原・天守台石垣東側9



ここからは、天守石垣が間近に見える。
写真を撮るには柵がジャマだけど、これがないと



本丸近辺の現在の地図と、江戸期に書かれた備後國三原城繪圖
(オレンジの部分)を重ね合わせたものがこちら。


三原・駅構内・備後国三原城繪図(現代版)
     (駅の看板より)


「現在地」ってあるのが、天守台への入り口のドアだから、
今私がいるのが「現在地」よりもうちょっと右上の部分。
この場所を、天守台の方から見るとこうなる↓。


三原・天守台3から東側石垣



堀の対岸は、二の丸の石垣。
写真真ん中の堀のどんづまりの部分で本丸と二の丸がくっついて、
そのまま三原駅のずっと向こう側まで南東に延びていた。
城跡の上に線路がどーんと乗っかっているのが
よくわかるんじゃないかと思います。

ちなみに、この場所を堀のどんづまりの場所から見上げるとこうなる↓。


三原・天守台石垣東側


なかなかいいっしょ


上の本丸に戻りまして、天守台東側の水堀。


三原・天守台東側水堀



さて、天守台に上がります。


三原・天守台5



三原・天守台2


 【三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1567)
  沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正10年(1582)
  前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。

  城は、海に向って船入りを開き、城郭兼軍港としての機能をそなえた名城で、
  満潮時にはあたかも海に浮んだように見えるところから浮城とも呼ばれた。

  小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地と
  なったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に
  付された。その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)6月には、
  三原駅が開業した。

  今では、市街化がすすみ、天守台とそれをめぐる濠、船入跡、船入櫓跡及び
  本丸中門跡を残すのみである。】
  (現地解説板より)


施工主である隆景ちゃんは、この城を「みはらじょう」でなく
「みわらじょう」と呼んでいたであろうことは、 「三原編(6)」
書いた通りです。



さて・・・歴史重視派の私としては、三原城の概略について
ご紹介しておかないと話が進めにくいので、ここからちょっと歴史の話に入ります。
一部、法常寺での記事と重複しますが、ご了承ください。



三原城の築城は、一般的に上の解説の通り、永禄10年といわれている。
が、前段階として隆景が天文22年(1553)3月に、
「三原要害」の在番を八幡六郎右衛門に申しつけた記録がある。


この三原要害は、天守台の北側の桜山にあったといわれる。
桜山には、詳細は不明なるも文応年間から文永年間(1260年~1274年頃)、
山名氏によって築かれたとされる桜山城があったから、
この施設を砦として使っていたのかもしれないな。

当時は、桜山まで海が迫ってたからね。
あるいは、海上にある島に要害を置いたともいわれる。


ぶっちゃけ、大抵の人は三原城(三原要害含む)を単品でしか考えない。
普通の城だったら、まあそれでもいい。
だけど、吉川元春や小早川隆景に関しては、どうしても
毛利本家の動きを抜きにしては語れない。

キーマンである毛利元就の行動と連動して隆景の城を紹介している人は
ほとんどいないので、元就についてやっと少し勉強し始めたばかりの
私にとっては、実は非常に荷が重く、また頭の痛い話題なのだ

ま、とりあえず自分でわかる範囲でしか書けませんけどね、
当然至らないところだらけなので、機会があれば是非私に色々教えてください。


でっ、この天文22年はどんな年だったかというと、
当時もし新聞があったとしたら、絶対号外が出るだろうというような、
2つの戦国史上のビッグニュースの狭間の時期にあたる。


まずは天文22年からさかのぼること3年前の、天文19年(1550)。
この年は、隆景ちゃんのハッピーウェディング
・・・いえ、思いっきし政略結婚ですが。

竹原小早川家当主・隆景が、沼田(ぬた)小早川家のお姫様(問田の大方)と
結婚して、小早川本家を継いだ年です。

また、同じ年の2月には、吉川家の養子となった兄・元春が
吉川氏の本拠・日野山城に入城している。

隆景が竹原家に養子に入る際も、竹原家の申出から隆景の入城まで、
元就は3年かけてるんだけど、元春の養子縁組が成立してから
実際に入城するまでも3年。

この3年の間に、元就は念入りな下ごしらえを施し、
元春ちゃんのために万全の態勢を敷いてやっている。


元春の養子契約が正式に整ったのは3年前だけど、
交渉はその前年から始まっていた。

交渉が始まった天文15年(1546)、元就が大内義隆へ赦免を乞い
監督下に置いていた吉川家当主・興経(おきつね)が、
新たな本拠・日野山城を勝手に構築して元就をイラッとさせる。

吉川家から迎えた妻・妙玖が生きてた頃は、妻の実家に対し
好意的だった元就も、天文14年に妙玖が亡くなってからは態度を変えた。

そして吉川家乗っ取り作戦がスタートした天文15年はまた、
元就が50歳にして隠居して、24歳の嫡男・隆元に家督を譲った年でもあった。

何が言いたいかというと、毛利家は段階を踏んで色んな顔を持っているけど、
この天文15年から新たな段階へ踏みだした訳なんです。
「毛利元就成り上がり街道」の、半分よりちょっと手前の位置
くらいでしょうかねえ・・・


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最終更新日  2012年10月29日 20時36分24秒


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