戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年01月14日
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カテゴリ: 城(中国)
安芸の歴史は複雑です。

様々な有力国人に大国や幕府の思惑などが複雑に絡み合い、
ひとつの出来事を書くにもその背景が複雑すぎて、
一体どこから話を始めたらよいものやら・・・

まあ、安芸国人衆についてはおいおい書いていくと思いますので、
ひとまずここでは東西条と鏡山城に関連することだけを
(たぶん)ごく簡単にご紹介しようと思います。

大内氏が安芸に進出して、盛見が死ぬところまでは
鏡山城シリーズの最初の方で書きましたが、ここからはその後の話です。





(系図は 「山口編(4)」 をご参照ください)

この人は跡目争いを制して当主となったのに、
足利義教が赤松満祐に弑逆された「嘉吉の乱」に持世も同席してたがために
巻き添え食って、それがもとで後日死亡。

当主としての在任期間が短かったため、大内家の歴史を紹介するにあたっては
どうしても飛ばされてしまいがちな、実に不運な方。
んで、ここでも飛ばします(笑)。
が、持世の代には東西条は幕府から安堵されてました。



持世の後が教弘。

長禄元年(1457)、安芸西部で武田氏と厳島神主家のゴタゴタが起こった際には

所領の一部を占領した。

この少し前、永享11年(1439)6月に幕府が勝手に
東西条の一部を削って沼田小早川氏に与えたなんて出来事があったので、
意趣返し?(笑)



寛正2年(1461)、またもや幕府の横槍が入る。

言ってきた。

使者に立ったのが、沼田小早川煕平(ひろひら)と宮中務丞・・・
これは、備後国人の宮氏かな?
宮氏は備後でかなり力を持った家柄だったから、充分ありえるな。

教弘は渋ったものの、煕平が山口まで押しかけて粘ったので
結局従うことになったという。
鏡山城には、武田氏の代官が入った。

が、すでに60年以上も東西条を領有してきた大内方では、
こんな横暴に泣き寝入りなんかしない。

で、大内方の西条衆、野間・阿曽沼・平賀・竹原小早川などの国人衆が
東西条奪還のために鏡山城を攻撃した。
もちろん、教弘の思惑が絡んでのことでしょう。

これに対し、武田氏と同じ細川方に属する沼田小早川家は、
武田氏の救援のために、主力軍が不在となった竹原小早川家の木村城へ攻め込んだ。




沢山の庶家を有する小早川氏の中でも、特に独立心の強い竹原家は、
沼田の総領家といくつもの確執を抱えてたことや、
時期によっては沼田家による庶家のコントロールがきかなくなっていた事については
「三原編」( 15 とか)のあちこちで書いたけど、
この時も同族で干戈を交えた訳です。

そもそもこの頃は、それぞれのバックが違っていた。

沼田家は細川方。
沼田家と幕府の近しい関係は、大内義興さんの上洛戦あたりまで続く。
沼田家が三原の領有権を与えられたのも、細川政元によるものだし。
「三原編(26)」 もご参照ください)

幕府内で細川氏と対立していたのが、山名氏。
その山名氏と姻戚関係などを持ち、かつ対外貿易で細川氏と対立していたのが、
大内氏。
その大内氏と長らく親しい関係にあったのが、海へ進出していた竹原家。

今に残る竹原家の書状には、

「ウチの外交の基本は大内氏をバックにするものだからね。
沼田本家は、同族とは言っても油断ならない相手だから
そこんとこ間違わないよーに」


とまで惣領家への警戒感をあらわにしたものがある。

しかし、反発しつつも2度もの沼田家の危機に際しては
竹原家は救いの手を差しのべてるんだから、小早川の歴史も一筋縄ではいかない
「三原編(35)」 あたりもご参照ください)


この頃の関係を大ざっぱに図にすると、こんな感じになるのかなあ・・・


安芸相関図-1

途中、陣替えなどもあるので、大体こんなとこ~って程度に
見てください。


東西条明け渡しの使者に立った沼田小早川家の煕平が惣領家を相続する時も、
上の図の背景が絡んでひとモメあった。

煕平の父は、佛通寺の整備に力を入れた小早川則平。
「三原編(56)」 あたりもよかったらご覧ください)

則平には7人の男子がおり、長男は持平、次男が煕平。
一旦は長男・持平に家督を譲ったものの、何を思ったか則平は
後になってそれを取り消して次男の煕平に相続させ直した。

何でそんな事になったのかはわからないけど、

「おいおい・・・
オヤジ、マジかよ~!!」

って持平が不満たらたらだったのは言うまでもない。

トラブルの種を播いた張本人・則平も後々に不安を抱いていたらしく、
自分の弟に相続関係書類を預けるなど後事を託して
大内盛見の跡を継いだ大内持世の九州出陣に参戦したが、陣中で死去。

則平の予想はぴたりと当たり、持平と煕平の兄弟間で跡目争いが起こった。


まずは持平・煕平ともに自分の正当性を幕府に訴え出た。
これに対し、時の将軍・足利義教は煕平の相続を認める。

が・・・変わり者で有名な義教のこと、
翌年には臆面なくその裁可を取り消し、なんと竹原家の盛景に与えると通告してきた。

小早川氏の分裂を狙ったものだとの見方もあるが、
当の義教は嘉吉の乱でまもなく討たれてしまう。
なんのことはない、トラブルがさらに増えただけだった。

義教の死後、幕府はあらためて煕平の相続を認めたものの、
持平はそれでは収まらない。
持平一派は要害に立て籠り、京にいた煕平は使者を出して兄の説得を試みるが、
心配した幕府が周辺国人に対し煕平への加勢を要請するなど
もうすったもんだ

さらには、義教からいきなり本家の相続権を与えられた竹原家の盛景も、
自分の正当性を主張してきた。
このウラには、大内氏の思惑がある。


唐突に小早川家の話になって相当脱線した感がありますが、
小早川家についてはまだまだこの先も出てくる予定だし、
複雑な安芸の情勢の一例として書いておきたかった訳です。

で話を元に戻しますと、西条衆はめでたく鏡山城の奪取に成功して
ふたたび大内氏が返り咲いた。




その後は文明7年(1475)。
まだ応仁の乱は終わってない。

細川氏と敵対する伊予の河野通春を支援するために伊予に渡海して
陣中で病没した大内教弘の跡を継いだ政弘は、応仁の乱で西軍の重鎮として
京で転戦していた。

この文明7年は加賀で一向一揆が起こった年でもあったが、
安芸では10月に徳政一揆が起こった。
徳政一揆はまぎれもなくデモ系の一揆ね。

一揆の背後には、あるいは細川方の意図が絡んでいたかもしれない。
というのも、これと時期を同じくして細川方の武田・沼田小早川が再び
鏡山城を攻撃してきたから。

ここでは細川方から大内方に陣替えをした毛利豊元(元就のジイちゃん)が
頑張って、鏡山城を包囲していた武田・沼田小早川を追っ払い、
さらに徳政一揆の鎮圧に貢献した。
この働きにより、政弘から東西条の一部を所領として与えられたという。

前回の記事で書いた「安芸国西条鏡城法式条々」はこの後に制定されたもの。
そして応仁の乱後には、政弘に東西条の領有が安堵された。



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最終更新日  2013年05月18日 16時55分40秒


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