戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年01月15日
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カテゴリ: 城(中国)
大内政弘の子が義興さん。

義興さんが7~8年の長きにわたって山口で前将軍・足利義尹(よしただ)を保護し、
その後義尹を連れて・・・いえ、奉じて上洛戦を開始したことは
「山口編」を始めあちこちで書いてますが、これに勝利して将軍の後見となり、
以後7年間(上洛開始からは11年)京にあって幕政の中心となりました。

東西条はひろよん以降、長く所有してきたものの、
大内家歴代当主で初めて安芸守護を任じられたのは義興さんの時。

一説には船岡山の戦い(1511)に勝利した後、義興さんはすぐに
帰国しようとしたらしいけど、それは叶えられなかった。

義興さんの強大な軍事力に支えられたものだったからね。

しかし、世間では下剋上の風潮が激しくなってきた頃。

そもそも室町幕府ってのは、守護は京にあって将軍の側近く仕えるってのが
基本方針だったから、京での長い単身赴任で領国との縁が薄くなりがちな守護よりも、
任地で実際の経営にあたっていた守護代が在地の豪族と結びついて
勢力を伸ばすってのは当然の話で、してみれば戦国時代は室町幕府自らが
招いた必然的結果だといえる。


山口の菜香亭で買ったDVDの中で、花園大学の福島教授が

「大内氏は室町と共に現れ、室町と共に消えた」

と言っておられたけど、戦国の荒波を乗り越えた守護なんて
ごくわずかだし、これも歴史の必然・・・

義興さんが帰国を決意したのも、将軍・義稙や細川高国との不和もあったけど、





経久は、義興さんの上洛戦にも参加していたという。
はっきりした事はわかっていないものの、当時の尼子と大内では
歴然とした力の差があったので、恐らく参加しただろうってことらしい。

安芸の国人衆も多くが義興さんに従って上洛したんだけど、
実はその多くが途中で勝手に領地に戻っている。


そして永正9年(1512)、中国の侵略へと乗り出した。

時期などのはっきりした事はわからないが、鏡山城は一度、
経久に奪われたらしい。
その他、備後の国人などへも手を伸ばし、大内氏との衝突が次第に増えてくる。

これまで大内VS細川の最前線だった安芸東西条は、
大内VS尼子の最前線へと変貌を遂げ、一段と激しさを増していく。




そんな中、戦線離脱して勝手に領国に帰ってきた安芸国人領主たちは、
永正9年(1512)ふたたび一揆を締結した。

・・・これたぶん、「鏡山城(2)」に書いた応永の一揆以来だと
思うんだよね。
前回から100年以上経ってる。

大国に翻弄され続けてきた国人領主たちの自主防衛手段、一揆。
締結は実に108年ぶりというこのタイムラグからも、
一揆の背景にある緊迫感などが窺い知れるのではないでしょうか。

で、一揆の内容はといえば、

「将軍とか大名の偉い人から何か命令されても、
ボクたちは何でも話し合って皆で決めようね!」

「よそから家出した人間を雇うのはやめようね!」

「もし戦になったら、皆で協力しあおうね!」


となかなか勇ましく自主性を強調したものになっている。


が、一揆締結のひとつの要因が、京に同行させられて長く戦わされた
義興さんへの不満だったにも関わらず、
さすがに大内家からの離反までには踏みこんでいない(笑)。


「男ならすっぱり反逆せんかい!!」

ってツッコミ入れたくなるけど、そこは弱小領主たちの生きる知恵
逃げ道はちゃんと確保しておかねばならん。



逃げ道の他に、国人衆は保険もかけた。
それが、婚姻による同盟の強化。

この時の毛利家当主は、興元。
元就の同腹のお兄さんで、「興」の字は義興さんからの偏諱です。
で、この一連の結婚ラッシュの中で元就さんも後に奥さんを迎えることになります。

必要部分だけを図にすると、こんな感じ。


永正結婚ラッシュ-2


高橋さんちは相当知られてないと思うけど、
石見出羽(いずは)城主で、今回の一揆中最大の実力者。
当時、多治比猿掛城主で毛利家次男坊の元就さんの年収が約300貫だったのに対し、
高橋さんちは1万2000貫だというからすごいものです。




さて、中国で尼子経久が暴れ出しても、義興さんはすぐに帰ることはできなかった。
そこでひとまず、もはや配下も同然の安芸分郡守護・武田元繁を
安芸に戻して鎮圧にあたらせようとした。

元繁を帰国させるにあたって、義興さんは公家のお姫様を自分の養女として
元繁に娶合わせて、予防線を張った上で

「義息よ、頼んだぞ!!」

と送り出した。


が・・・義興さんの悪い予感的中、腐っても安芸(分郡)守護の武田元繁は、
ここぞとばかりに大内領の切り取りを始めた。

まず奥さんを離別。
そして大内方で厳島神領衆の己斐(こい)氏が守る己斐城を包囲した。


「虎を野に放ってしまったああ・・・」

と義興さんは激しく後悔したが、落ち込んでばかりもいられない。
そして、毛利興元に己斐城救援の指令を出した。



「興元さあ~ん、ご指名でえ~す

の連絡を受けた興元は、一揆と主命の狭間に立って悩んだ。
しかし、ここで断ったら毛利家の末路は目に見えている。



実は、興元の父・弘元も同じ苦悩を味わっている。

弘元の場合は、義興さんの上洛戦に参加するか否か、の選択だった。
そして出した結論が、突然の隠居と8歳の興元への家督相続。

「ぜんっぜん結論になってないじゃん!!」

ってツッコミが当然入るので、結果、大内方へは名代を出陣させ、
幕府には大内氏追討の先鋒を務めるという約束をさせられるハメになった。

幸い、この時は幕府でうちわもめが起こったので
あまり深刻な状況にはならずに済んだらしいんだけど、
悩める弘元は酒浸りとなり、39歳の若さで突如亡くなった。


「三原編」を読んだ方は、「あれ、こんな話、どっかで聞いたような・・・」
て思い出しませんか?

沼田小早川家の扶平(すけひら)さん、あの方も義興さんの上洛戦で苦悩して
命を縮めた一人です(扶平さんについては こちら )。

義興さんたら、罪なお方・・・



で、興元はといえば、義興さんの指令を引き受けて
後方を攪乱するという戦術に出て、無事役目を果たした。
ついでにこの戦いを通して、吉川家との親密度を増すことに成功した。
↑すみません、ただでさえ長いので、はしょれるところは端折ります。

が・・・。

8歳で家督を継ぎ、15歳で上洛戦に参加し、
帰国してからもご近所さんとの小競り合いや大内家からの圧力・・・
戦いとストレスの連続だった興元も、父と同じく酒に走り、
この大役を果たした翌永正13年(1516)、24歳の若さで死亡。


あ~、どなた様もホントにお気の毒・・・
今回のサブタイトルは、「弱小国人哀話」に変えようか。

ま、弱小ったってあくまで比較の話で、結構みんな元気に
戦ったり裏切ったり仲良くしたり、安芸の勉強を始めたばかりの私にとっては

「ちょろちょろすんじゃねえ~!
ちったあ大人しくしとらんかい!!」


って言いたくなるくらい活発な動きがある訳ですが、
時にはこんな悲劇が生まれるような過酷な時代であることに変わりはないようです。


元就この時19歳。
兄を失った悲しみは相当のものだったようで、

「ワシャぁ、この世でひとりぼっちになってしもぉた・・・」

と後に振り返っている。
実際には腹違いの兄弟も甥っ子も姪っ子もいたのに、だよ?

元々オーバーな人のようではありますが、そこを差し引いたとしても、
意図的に天涯孤独を装ったというよりは、そのくらいの喪失感に
苛まれたということでしょう。

ただ、父と兄がそろって酒で若死にしたことで、
2人を反面教師とした元就さんは生涯酒を慎み、74歳まで長生きします。



毛利家の話をもうちょっと。

当主・興元を失った毛利家では、その遺児・幸松丸(こうまつまる)が
2歳で家督を継ぐことになった。

もちろん2歳では当主の責務は果たせないので、
父方・母方のそれぞれの親戚にあたる元就と高橋久光(上の図にある
高橋元光の父)の2人が後見となり、脇を譜代の重臣が固める形で新たにスタート。

武将としてはスロースターターの部類に入るであろう元就さんですが、
こうして一歩一歩歴史の前面へと歩き始めます。


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最終更新日  2013年01月15日 21時42分53秒


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