戦国ジジイ・りりのブログ

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2013年03月08日
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カテゴリ: 城(中国)
うおお~、教真寺のことに1話使っちゃったから、
ダンジョンがひとつ増えちった
ここの話題は、繁平の項目に含めようと思ってたんだけど。

まあ、いいや。
3人目は小早川繁平の妹様です。
ここはダンジョンというほどの内容でもないので、気楽にお読みください。

こーゆー時くらいしか、この方の事は書けないと思うので・・・
とは言っても、たぶん、ほとんどが私の妄想の話になります(笑)。



繁平の妹は、生年・実名ともに不祥。

父・正平が亡くなったので、沼田(ぬた)の姫の生年はほぼ特定できる。

天文11年(1542)1月19日に大内本軍が厳島神社に戦勝祈願をした後、
出雲に向かっているので、正平がお家を出たのは年末年始頃かな~。
(正平の最後の出陣については こちら )。


繁平は、天文11年生まれとされる。
計算上、同腹だと相当キビシイけど、まあ正平が合流したのは
1月よりもうちょっと後だったかもしれないし、
ギリ繁平の出生直後に作った子だったとして、沼田の姫は天文11年の終わり、
もしくは天文12年の初め頃の生まれと推定される。

仮に別腹だったとしても、繁平が長子である以上、


ただし、系図に繁平の生年が書いてある訳じゃないので、
もしかしたらもう1年くらい早い生まれかもしれない。

あるいはもっと早い生まれだったとしても、正平の没年から計算すると、
繁平と沼田の姫の年齢差は最大で5歳くらいだろう。



さて、 「新高山城(2)」
この姫は竹原小早川当主・隆景とカップリングされて沼田小早川家を継いだ。

繁平と1歳違いだったとして、花嫁はこの時7歳。
一方のマスオさん・・・いえ、隆景ちゃんは17歳。
う~ん、高校生と小学生の組み合わせ・・・
ゲホンゲホン

繁平のダンジョンで、当時の男子の平均的な元服の時期は15歳頃と
何度も書いたけど、対する女子の裳着(もぎ)、あるいはそれに準ずる
成人式の年齢は、12~13歳。

これはもちろん、初潮を迎える時期にあたるところから来ている。
実際、「今昔物語」でも

「13歳になる娘に男ができたので、
愛染明王様のお札をくだされ」


なんて娘の母親が言ってるシーンがあるくらいなので、
当時は今よりも性成熟期を迎えるのも、また世間にそれが認められるのも早かった。

が、隆景の本家相続時には沼田の姫はまだ7歳なので、
この時点では婚約だったかもしれない。
実際の夫婦になるのは、もうちょっと先の事だったと思われる。


さっきからエグイ話ばっかり・・・
いい加減にしろよ、 エロオヤジ !!


って批判も聞こえてきそうだけど、至って真面目な妄想ですよ。
ま、ちょっとヤキモチも入ってるかもしれないけど



え~、個人的なジェラシーはともかく(笑)、
私がこの姫に対して思うのは、夫と兄の関係についてどう思っていたのかな~
って点なのだ。

最初の頃は、まだ子供だったから何もわからなかったかもしれない。
でも、大人になるにつれ、自分の周りの境遇についても理解するだろう。

兄を隠居させて当主の座についたよそ者・・・
そんな夫を憎んだことはなかったんだろうか。


あの時代に、惣領家の姫として生まれついたんだから、
そんな感傷はなかったんじゃないの?


・・・確かに、そうかもしれない。
でも、偉い人のお家に生まれたからって、皆が皆そう簡単に割り切れた訳じゃない。

それを説明するのに、いい例がある。
って言うと、また不謹慎の文字が頭をかすめるけど



東西条バトル編を始めてから、大内義興さんがばんばん登場してきて、
私が義興さんを好きなものだからそれに感化されて、

義興さん、かっこいい

って思ってくれてる人もいるかもしれないけど、
義興さんにだって失敗はあった。

当時の失敗は、偉い人であればあるほど、
ささいなことが人の生死につながりかねない。


義興さんのパパ・政弘は、歴代大内家当主の中では数少ない
自分ちのタタミの上で亡くなった人で、病気のために生前に家督を譲った。

その翌年、政弘が死去。
まだ若かった義興さんは、同年、家臣の讒言に乗せられて
長門守護代とその子を誅殺してしまう。

後で冤罪だったことを知った義興さんは激しく後悔したが、覆水盆に返らず。
結局、長門守護代の娘を正室に迎えてその実家を再興させた。

正室となった娘は、義興さんとの間に嫡男・義隆を儲けたが、
陶隆房のクーデターの際のエピソードなどを見るに、
気性の優しい女性らしい人であったらしく、
父の仇を夫に持ったことで苦悩したともいわれる・・・



沼田の姫の場合は、夫は兄の仇ではないけど、
円満な家督譲渡ではなかったと思うし、似たような境遇と言ってもいいだろう。

が、この姫がどう思っていたのかは伝わっていないが、
隆景は妻を大事にしたという。


妻に関する有名なエピソードで、

「隆景は妻に接する時は常に肩衣・袴を付け、
まるで客人に対するようであった」


というのがあるけど、ちょい、ソレ、大事にしすぎ・・・

「そんなんだから、子ができなかったんじゃないのか!?」

って私以上にエグいツッコミを入れる人間も、世間には多い。



ま、実情はどうであれ、2人の間に子はできなかった。
それでも、隆景は側室を置かなかった。


けど、男子の本能としてつまみ食いくらいないハズなかろ?
どっかに落としダネとかいないもんかな~

とか下賤な想像を正直拭い切れないものの(笑)、
「隆景の子」というのは伝わってはいない。



沼田の姫に子ができていれば、女系にはなるけど、
小早川の正統な血は残せた。

しかし、子宝には恵まれず、兄である繁平もシングルのまま僧籍に入り
若くして亡くなったことで、小早川氏の祖・土肥実平から数えて3代目の景平以降
連綿と続いてきた沼田小早川の血はここで絶えた。



華々しい活躍をした夫の陰にあって、沼田の姫に関する話は
あまり伝わってはいないが、戦だの毛利本家の政務だの豊臣家の五大老だの、
かなり留守が多かったはずの夫に代わってしっかり家中を取り仕切ったであろうことは
想像がつく。

それでなくても、よそから来た嫁さんじゃなく
惣領家の正統な血を受け継ぐ姫なんだから、
沼田の姫がよほどクセのある人間でない限り、家中のまとまりも良かったことだろう。

隆景もそんな妻に信頼を置いてたんじゃなかろうか。



隆景の死後、関ヶ原を経て毛利家が防長2国へ大減封となって以降は
沼田の姫は毛利家に従って周防・問田に移り住み、問田大方(といたのおおかた)と
呼ばれることになる。

隆景の本家相続によって小早川氏はその名を広く世間に知らしめることになるが、
隆景が豊臣家から養子に迎えた金吾(秀秋)は関ヶ原の2年後に
若くして亡くなり、小早川家は断絶した。

「三原城(8)」 で華々しく迎えた正室とは別の女性から
生まれた子がいたという説もあるが、幕府からは無嗣改易の処分を受けた。


問田大方は元和5年(1619)に亡くなったとされるが、
その頃にはもう豊臣家も小早川家もなく、
主家である毛利家は幕府に睨まれながら防長でちいちゃくなっている。

彼女は晩年、生まれ故郷から遠く離れた周防の地で
どんなことを思いながら過ごしたのだろう・・・

ああ、なんだか書いてる私までブルーになってきた(←妄想しすぎ)。



問田大方の墓は、山口にある。
私はまだ行ってないけど、元は大内教弘(政弘のパパ)の菩提寺だったものを、
隆景夫妻の菩提寺とし、隆景の法名(泰雲紹閑)から泰雲寺と商号変更した。

山口の大内氏ゆかりの寺が毛利家各者様の寺に改められたのは、
他にもいっぱいあるけどね。
だからこそ、前回えんえんと書いた教真寺が匡真寺になったという推測は、
別におかしくも不思議でもないことだと思ってる訳だけど。


泰雲寺には、隆景の供養塔もあるそうな(本墓は米山寺)。

隆景の死後も長く生きた彼女は、きっと夫の冥福を祈りながら
静かに暮らしたのだろう。
そうであったと思いたい。

金婚式を迎えるまでには残念ながら数年足りなかったけど、
でも今は、夫婦で同じ寺に仲良く祀られている。


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最終更新日  2013年03月08日 21時47分42秒


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